- 拾弐章 -
「……一年……いや、半年でも構いません。どうか猶予を下さい」
「
巴……」
「私があちらへ帰るという事は、居場所を一から探すという事なのです」
「そんな事はないだろう。自分の家が、」
「あの家に、私の居場所はもうない」
延麒の言葉を遮り話す
江寧。
はっきりと断言した言葉に、延麒は続けようとした言葉を飲み込んでしまった。
「ごめんな」
「ん?」
延と別れ、延麒直々に案内を受け辿り着いた清香殿の前で少年がぽつりと謝る。何を、と
江寧が告げるその前に振り仰いで、言葉を紡ぐ。
「事情も知らず勝手な願いで」
「台輔……」
「六太でいい」
数度首を振る六太に、
江寧は少しばかり戸惑う。ぎこちなく頭を縦に振って、清香殿の中へと足を踏み込んだ。
臥牀、榻、小卓、棚……どれも繊細な装飾を施され、部屋は綺麗に手入れをされている。高い天井を一瞥して、戻した
江寧の視線に玻璃の入った窓が見えた。それは僅かに開けられており、僅かな潮の香りが部屋を包む。気後れする
江寧に苦笑しながらも、六太は窓際の椅子へ座った。少年によって外側に開かれた窓からは微睡みのない月が浮かぶ。流れ込む風によって、金の髪は光り靡いていた。
「―――俺さ、
巴を探して、恭から雁に来るのをずっと待ってた」
うんと頷き臥牀へ腰掛ける
江寧に、六太は言葉を続ける。
「でもいざ会った時に虚しくなって」
「虚しい?」
「泰麒―――ちびを助けたい。その為だけに
巴を利用してるような気がしたから」
「そんなことは……」
「ちびを助けることは、荒みきった戴国を救うことにも繋がる。だけど……ようやく慣れた土地で新しく生きていこうとしてる
巴に、居場所のなくなった世界へ戻すのは身勝手な話だ。それでも―――」
―――泰麒を助けてやってくれないか。
言葉はなくとも、眼はそう訴えていた。
真摯に告げる少年はまっすぐに
江寧を見ている。逸らすことの出来ない視線に、瞬きをする事も忘れて六太と眼を合わせる。
「もちろん、
巴の言っていた猶予はやるつもりだ。だが、せめて半年……一年以上も待ったんだ、それ以上は延ばせない」
「……分かった」
ゆっくりと頷いた
江寧に、延麒はもう一度呟くように詫びの言葉を呟いていた。
延麒が清香殿を去ってから暫くの間、
江寧は開かれた窓に凭れて月を眺めていた。
雲の上なのだから、空に霞みはある筈もない。こうして夜空を見上げるのは烏号行きの船以来だと思う。
瞼をゆっくりと落とせば、打ち付け砕ける波の音だけが耳に届く。暫くその音に聞き入って、
江寧はひとつの足音を耳にした。
「誰……?」
「聞くよりは眼開けた方が早いぞ」
「その声は―――楽俊か」
ほたほたと、足音が
江寧の元へ次第に近付く。その音で眼を押し開けると、彼女の視界には灰茶の毛並みが映った。
「どうしたの?散歩?」
「ああ、どうも落ち着かなくてな」
窓の前で立ち止まった楽俊を見やって、腰を上げる。椅子を踏み台に使い窓から飛び降りた
江寧に一瞬楽俊はたじろぎ、それから声を掛ける。露台へ出る為の出入り口ならば近場にあっただろうにと―――その思いは、飲み込んで。
「……で、何かあったのかい?」
「!……な、なんで?」
「そりゃ、暗い顔してるからな」
江寧は並び立った楽俊の顔をまじまじと眺める。彼が他人の情に敏感なのだと思い出した時には、既に読まれていた。
再びどうしたと尋ね首を傾げる頭一つ分下の灰茶の鼠に、少女は深く息を吐く。―――少しばかり、話をしても良いだろうか。
「……もし、自分の命と引き換えに友が助かるとしたら、どうする?」
「どうするって……どっちも助かる方法を探すさ」
「なるほど……」
「―――
江寧?」
覗き込む楽俊の顔は、どこか心配そうだった。同時に不安の色を浮かべる彼の表情を見やって、
江寧はうんとひとつ頷く。
「そうなったらきっと、私は私の命を引き換えるだろうね」
「そんなことは、」
「こっちでは自由に生きていい筈なのに、やっぱり小さな頃から染み付いているとなかなか抜けない……」
指を組む
江寧の手は力が強く篭められている。それが僅かに震えているように見えて、楽俊は言葉を途絶えさせた。
苦笑を零すばかりの彼女に、あるであろう筈の悲しみの色は見られない。昔のことを思い出すように遠景へ視線を向ける
江寧は、一間を置いてぽつりと話し始めた。
「小さな頃からね、親は私を死んでもいい子と言っていた。自分の為に生きる事すら拒絶されていた」
父親とは血縁がない。本当の父親は
巴が生まれてすぐに行方を暗ませてしまった。その際に置いていった離婚届に母親が判子を押捺して、母親は一人になった。
……二年後に母親は再婚。新たな父親は
巴を拒絶して、彼女もまたその子供を憎んだ―――
巴が十五を迎えても、感化された心が元に戻る事はないまま。
「それでもめげなかったのは、ある日人を助けて感謝されたから」
偽りの言葉でも良い。感謝の言葉を向けられて、
巴は泣くほど喜んだ。その言葉が彼女にとってどれだけ大切な言葉だったか―――その後の人生にどれだけ影響を及ぼしたか。
「それから思ったんだ。どうせいらない命なら、人の為に投げ出そうと。だから、これまでは人の為にと生きてきた」
その度に礼を言われ、生きていく糧にしてきた。今思えば、愛情の代わりにしていたのかもしれないと、
江寧は瞼を伏せた。それは哀しい事で、貧しいもの。思い込みで生きてきたようなものだ。
「……だけど、こっちに来てから、自分のために生きる事ができて。でもその時には、自分の為に生きる事がどんな事だか、分からなくなってた……」
分かってたつもりだった。誰もが自分の為に生きる事を当然のように知っていて、行動に移していたから。……だが、いざ蓋を開けてみれば理解していた筈の“常識”はいつのまにか消えていた。
……はて、一体どうすれば良いのか、と。
「言葉を勉強したのは自分の意志なんだろ?」
「それはこちらで生きていくための前提条件だからね」
楽俊の問いに、
江寧はそう答える。うん、と頷いた楽俊は更に言葉を続けた。
「自分のために生きることが分からないってなら、
江寧が今している事がそうじゃねぇのか?」
「今してる……こと?」
「ああ。
江寧は他国を見てみたいと望んだからここまで来た。それは自分の意志であって、誰に強要された訳でもないだろ?」
「うん―――」
「それが、ひいては自分のためにやってるって事だ。別にそこまで重く悩まなくたって、自分が思う通りにすりゃあいいさ」
「楽俊……」
江寧は暫く言葉が出なかった。
ここまで彼女の悩みに応えたのは、楽俊が始めてだった。当然の事が考えられないことは異常だと以前告げられた言葉を思い出して、それは違うのだと思った。
……他国を見たかったのは、誰の為でもない。自分の為だったと。ようやくそう感じる
江寧は、胸に爪を立てる。
―――なんだ、もう生きてた。
「……ありがとう、楽俊」
「礼を言わなきゃならないのはおいらの方だ。腕の傷は大丈夫だったか?」
思わず
江寧は短く声を出し、彼女の右腕を楽俊が指差す。昨日に切られた傷の事を言っているのだろうと、彼女は頭を縦に振る。頬は意外にも深く切れたために、ざっくりと残ってしまっているが。
指については皮膚が切れ血が滲み出ていた。それについては
江寧自ら処置を施し終えていた。
ほっと安堵の息を吐く楽俊の視界の端に、途端紅が映りこむ。
振り返ったその先に、露台へ出てくる陽子の姿を認めて。
「陽子も寝られないみたいだね」
「……あんな部屋で眠れるかい」
「いいや」
苦笑を洩らしながら、彼女の元へと歩き出した。
◇ ◆ ◇
明け方、
江寧は延麒との面会を取り次いでもらうと、女人に案内を受け向かうは殿堂へ。
どうぞ、と扉を開けられ部屋へと踏み込めば、そこに金の髪の少年が椅子に座り込み待っていた。
「六太」
「何かあったのか?」
江寧の姿を認めるなり駆け寄る六太に、彼女はうんと頭を縦に振る。
「下に行っても良いかな」
「下って……関弓の街か?」
「うん」
唐突な申し出に、六太は腕を組みながら呻る。下に行かせても良いのだが、問題は玄英宮へ戻って来る際のことだ。許可が無ければ入れない可能性がある。どうしようかと考えた末に、書簡を持たせる事にした。
「書簡?」
「ああ。書いて厩舎に持って行くから、先に用意して厩舎へ行っててくれ」
「分かった……ありがとう」
頭を下げ、殿堂を出て行く。……出て行こうとして、背後から六太に呼び止められくるりと身を翻して向き合う。何だろうかと思う
江寧に、六太は途端に思い出した事を告げる。
「そういや、」
「うん?」
「
江寧を知ってる海客が芳陵の庠序にいる。一度会いに行ったらどうだ?」
「―――分かった」
江寧は内心首を傾げる。芳陵の庠序と言えば、落人のいるあの庠序だろうと。自分を知る海客がはて、居ただろうか。六太への返事はするものの、心当たりは無かった。
「じゃあ、また後で」
「ああ」
今度こそ六太に一旦別れを告げ、殿堂を後にする。
だが―――用意を終えて厩舎へ辿り着いた
江寧には、やはり心当たりを思い出す事はできなかった。
書簡は無事に届けられ、受け取った
江寧は赤虎を引き連れて門を潜る。
そのまま平坦に削られた足場の上で赤虎の背に跨り、空からの風景を眺めた。……此処を降りるのかと思えば、少し怖い。
鐙を内側に踏み締め手綱を握る。行こうと声を掛けると、赤虎は足場を駆けて空に向かい大きく飛躍する。
飛躍したかと思えば、途端急降下をして上空を全力で疾走していく。慣れたはずだった感覚に顔を引き攣らせながら、
江寧は芳陵へと向かう為に手綱を引いた。
二時間と少々をかけて戻り着いた芳陵の街を上空から見下ろして、庠序の場所を確認する。それはすぐに眼へ留まり、門扉の前へゆるりと降り立つ。赤虎の騎乗にも随分と慣れたと感じつつ、背から降りたは戸を叩いた。
暫し経つ事も無く、その男性は開いた戸から顔を覗かせ、彼女を認めるなり目を見開く。
「あなたは……」
「壁先生、昨日ぶりです」
思えば落人と
江寧らが別れたのは昨日の事だった。様々な出来事があり、別れた事が三日ほど前の出来事のように思える。説明をする前に落人は
江寧と赤虎を迎え入れると、戸をゆっくりと閉めた。
「延台輔から、こちらに私を知る海客がいるとお聞きしまして」
「ああ、彼女の事ですか。つい先程出て行きましたよ。少しすれば戻ってくるかと」
「そうですか……待たせていただいても宜しいでしょうか」
「ええ」
赤虎を庭に待たせ、縁側に浅く腰掛ける。
少し間を空けて横に落人が座ると、あれから陽子がどうなったのか聞きたいのだろうと
江寧は思い、話し始める。やはり彼女は景王で、慶の偽王をどう引き摺り下ろすか話し合っているらしい―――と。
だが実際に、
江寧はその話には参加していない。陽子や楽俊から話が伝って来たのみで、別件があった彼女は別室で待たされたのだから。
話し終えると、静かに頷く落人を見やる。彼は、無事延王に目通りを願えた事に安堵していた。これで大丈夫だと思う落人に、はたと隣に座る少女へ視線を向ける。
――― 一介の民の名を、台輔は覚えているだろうか。
「
江寧さん、あなたは延台輔とお知り合いですか」
「え?ええ。ちょっとした縁で」
「―――そうですか」
あっさりと認めた少女に、半ば驚きながらも落人は視線を景色へと向ける。
そうして事情の説明を終えて。
「―――
江寧、さん?」
……彼女は、帰って来た。
烏号の船の中で最後に見た顔が彼女―――杉本優香だった。
当初は賓満によって顔を変えていたために少年として見ていたが、その後に陽子から本当は顔が違う事を聞き、怪我人を治療し船を下りる前に見た顔は、確かに異なるものだった。
黒目に黒髪……胎果ではなく、海客。優香は陽子と共に流されたと聞いている。そう考えていると、優香が小走りで駆け寄ってくる。
「なんで貴女がここに……」
「壁先生とは知り合いなんだよ」
「そう……でも、何をしに?」
「―――もし、日本へ帰る事が出来たら、杉本さんは帰る?」
ひくり。
短く声を発し、顔を半ば引き攣らせる優香を
江寧はただ見上げる。その言葉に落人もまた驚いたが、問いに真剣を帯びる声を聞き、すぐに確信を持った。
――この少女は、帰る方法を知っている。
「どうして?ここが私の世界なのに」
「違う」
否、とはっきり断言をした
江寧に、優香の顔は険しくなる。その様子に落人は立ち上がり、催促の言葉を掛けた。
「あなたは帰るべきだ」
「私は帰らない……!」
断固として譲ることのない、偶然にも流されてしまった海客。何故彼女がここを自分の世界と呼ぶのか、
江寧は知らない。だが、優香の言葉に
江寧が憤りを巡らせているのは確かだった。
「私をほっといて……!」
「そうね。私も胎果ではなく海客だったら良かったのに」
「―――え?」
唐突な言葉―――だが、そこに怒りが含まれている事を優香はようやく悟って、思わず声が掠れ出る。
何かを怒っている。自分の言葉で、彼女を怒らせた。恐る恐る名を呼ぼうとするが、最中落人が遮った。
「二人とも、落ち着きなさい」
二人を宥めて、はたと
江寧は我に返る。
短く謝り縁側に深く座り直した
江寧に、優香もまた同じように腰を落とす。双方を見やって、落人はじきに陽の傾く空を見上げた。何気なく名を呼べば、彼はゆっくりと振り返り返事をする。
「あの……」
「……どうせですから、身の上話でもしましょうか」
「え?ええ……」
落人の提案に、戸惑いながらも縁側に腰掛けていた二人は頷いた。
―――昭和四十四年、一月十八日。
当時二十二歳。
日本で革命を起こしたかったその青年は、東大の安田講堂の最中にあった。
「私はバリケードから出ようとして、机の下を潜ったらこちらにいました」
追い回され、逃げ込んだ先が物を積み上げたバリケードにあった僅かな空間だった。そこに青年はうまく逃げ込み、気が付けば―――慶の、とある閑地に佇んでいた。
そこから点々として巡り、隣国である雁へと渡って、六年前にようやくこの庠序に落ち着き処世を教えているという。
「……これは、神が与えたチャンスだと思いました―――あなたと同じです」
「同じじゃない!」
思わず剣を携え立ち上がった優香に、
江寧は眼を細める。押さえ宥めようかと思ったが、落人は首を振って彼女を制した。
「だが、ここは私達の世界じゃない。逃げてきた者には何も与えてはくれない」
彼の言葉は本当だった。
海客や胎果が初めに待ち受けるものは苦。
江寧のように言葉を教えてもらえるのならまだ良い方だった。雁ならば言葉を学ぶ事が出来るのだから、本当に十二国で生きたいのならば仮の旌券を使い三年の間に言葉を覚えて仕事を見つける。
だが―――言葉を覚える事までの時間のほとんどが苦になる。それならばまだ日本の方が良いと思えるだろう。
必死で足掻かなければ、この世界で得られるものはない。
「あなたは友達のようになりたかったのでしょう?でも―――」
「わ……私は私だ……!」
「杉本……!」
勢い良く抜刀し、落人に向けた刀身はカタカタと音を鳴らし震わせている。それを
江寧は間近に眺め、彼女は人に剣を向ける覚悟がないのだと悟った。
「あなたはまだ何もしていない筈だ。帰りなさい」
「嫌だ!!」
駄々を捏ねるように叫ぶ優香に、
江寧は半ば呆れる。本当に、理解出来る日はいつやってくるのだろう。
そう感じる刹那―――それはここへ来る事を予想などしていない、関弓にいた筈の声が門扉の向こうから聞こえてきた。
「壁先生、いらっしゃいますか?こちらに、私の―――」
「来るな!!」
「え?」
―――瞬間。
握り締めていた剣を逆手に握り直し、両手で振り下ろした優香の剣は―――落人の左脚へと。
◇ ◆ ◇
「壁先生!!」
居るはずのない声を内側から聞き、さらに焦燥交じりの叫びに陽子は驚く。一体何があったのかと扉を開きかけた直後、扉越しに人の気配を感じ慌てて下がる。外側へ勢い良く開かれたその向こう、水禺刀に映った友達が陽子の目前に姿を現した。
右手に―――刀を握り締めて。
「やっぱり……!あのね、私―――」
「嘘がばれるのが怖くて、私を殺しに来たのね……」
「違うの、わたし王様だって言われて」
「貴方が王であるものか―――!!」
両手で剣をがむしゃらに振り翳す優香から、陽子は軽々と避けつつ制止の声をかけ続ける。怒りに任せたように振り回す剣を避けて大きく跳躍した陽子は、屋根へ軽々と着地した。
……刹那、門の向こうに白藤を垣間見る。
生地に染みゆく紅に驚愕しながら、赤虎の鞍に繋いでいた布袋から風除けの布を取り出して一気に引き裂く。その音に落人は顔を上げると、傷口に布を添え当てられたものがある。
「暫く当てて下さい」
「二人を止めなければ……」
「―――ええ」
立ち上がり、
江寧は縁側に立て掛けられた弓を手に取る。何を、と問う落人を余所に、矢筒から数本取り出された矢を右手に携えたまま門へ向かい駆け出した。
「貴方は自分の事しか考えていない。人が見ている時は良い子振り、見えないところではどんな浅ましい事もやった……そんな貴方に、王になる資格があるというの!?」
陽子の王器を問う優香の声。それは陽子の傷心に刃を打ち込んだ。
水禺刀が見せる映像は、巧を彷徨っていた際の記憶ばかり。浅ましさが滲むばかりの姿に、行方不明になった友の姿。刀身の水面に映る過去に耐え切れなくなって、ついに陽子はその場から駆け出す。
「待て……!」
陽子の後を追おうと優香は一歩を踏み出しかけて、瞬間刀に強い衝撃が襲った。
指にまで走る痺れに、思わず得物を落とす。どこからと見回して、それが右から来たものだと知る。……何故ならば、
江寧が優香を狙い弓を引き絞っていたのだから。
「待つのは貴方だ」
江寧は冷たく言い放つ。矢の先が胸部に向けられている事に気が付いた優香は、何故と震える声で発すると一歩後退する。
彼女の右手が離れたら死ぬのだ……目前の死に怖くない筈がない。
「何故壁先生を刺した」
「それは―――」
「自分の事しか考えていない?それが人間でしょう。貴方だってそうじゃない」
「私は違う……!!」
「烏号行きの船で、妖魔が上空にいるにも関わらず陽子と戦う事を望んだ貴方が?」
弦と緊張は張り詰める。
江寧の言葉に切り出そうとした言葉が下ってゆく。彼女はあの時人を助ける為に矢を放っていた……陽子は仕掛けられ仕方なく応戦した。では―――あの時、自分の行いは?
「自分自身の行いを棚に上げて王を責めるのか」
「、―――――」
「やめろ……!」
その声に、思わず弓を下げて振り返る。そこには門扉に凭れながらも止めようとする落人の姿があった。
「やめなさい……!」
落人の足の流血は未だ止まっていない。慌てて駆け寄った
江寧の隙を見て、優香は落ちた剣を拾い駆け去ってしまった。それを追おうと思う反面、彼をこの場で見捨てては罪悪感が残るような気がする。そう思いながら、
江寧はその場に落人を座らせる。
「今医者を呼んできますから」
傷口を押さえながらひとつ頷く落人に背を向けて
江寧は駆け出す。陽子ならば大丈夫だろうと、内心の隅に置きながら大途を走っていった。
医者を呼びに行く際、突如赤虎が壁を越えて
江寧の目前に着地する。その姿に驚きながらも跨って、赤虎はそのまま駆け出す。
陽はとうに暮れて地上は薄暗い。その中を低空で滑り抜けた。
「治療が終わるまで待ってなさい」
医者が
江寧に向けて告げると、さっさと戸を閉め切ってしまった。
指示に従い庭で待つ赤虎の元に歩み、その背に凭れ座る。辺りに灯りはなく、視界は月の明かりだけが頼りとなっていた。
……生温い風に吹かれて、思いは巡る。
―― 先生の足は治るだろうか。
―― 陽子は大丈夫だろうか。
―― 彼女はいるべき世界に気が付くか。
―― 猶予は、半年。
―― 私は本当に、あの世界へ帰る気は。
ふと楽俊の言葉を思い出す。自分の意思……それを自分のやりたい事として行動に移せば良いだけのことだと。
「私の……意思……」
世話を焼いてくれた人達に礼を言いたい。
他国を巡り見聞を広めたい。
もっと勉強したい。
……でも、一度でいいから。
家に上がらせてもらえなくても良い。家族だった人達と会って、話がしたい。
「何だかんだ言っても、帰りたいのね」
例え親に見捨てられても、生涯産みの親の代わりなどないし、蔑みを吐きながらも育ててくれた事には変わりないのだから。
ここでやりたい事をすべてを終えたら。
この世界に、さよならを告げようと思う。
徽芒――延麒の指令――が主命を受けたのは、塙麟が亡くなり、全てを終えて玄英宮へ戻ろうとする頃の事だった。
「徽芒、この近くにある庠序に赤虎を連れた少女がいる筈だ。彼女に言伝を頼む」
《 御意 》
影に潜み、延麒の元から遠ざかれば主の気配も遠くなる。遁甲をすればすぐだと、気脈に乗り駆ける。主が告げた少女はしかし、姿にしっかりと見覚えがあった。
闇夜の最中でさえも目立つ、白藤の髪色。それは十二国へ来るとさらに顕在となる。
印象を覚えていた事もあってか、庠序を見つけ中に入ればすぐに見つかった。気脈より出る徽芒に呻りの声を上げる赤虎の横。
「
江寧様でいらっしゃいますか」
「え?」
徽芒が声を掛ければ、はたと
江寧は振り返る。鼬のような獣の姿に目を見張りながら、ひとつ頷く。
「台輔より言伝を預かって参りました」
「延台輔から?」
はい、と返答する徽芒の声は落ち着きを持つ。獣と会話をしている事に半ば違和感を覚えながらも、
江寧は言伝の内容を待った。……それから一間を置いて、徽芒はその言伝を口にする。
「至急玄英宮へ戻れ、との事です」
「なるべく急ぐ、と伝えてください」
「かしこまりまして」
す、と影に溶け消えゆく徽芒の姿に、
江寧は二年前の故郷で同じようなものを見た事を思い出す。向こうで見た影は全て指令だったのだと今更ながら実感をすると、すぐに立ち上がった。
至急に―――という事は、何か話があるに違いない。陽子の無事は気になるが、もしかすれば玄英宮へ戻っているのだろうと今は気に掛けることを止めた。
戻れば、きっと分かるのだから。