- 拾壱章 -
彼女は言った。
自分はただ、自分自身でありたい、と。
周囲が玉座のせいで変わってしまうのなら、そんなものはいらない。隔たりなんてものは、人と人との間しかないのだと。
胸内から溢れ出す感情を言葉として表現する。
はっきりとした思いに、敬遠の念を抱いていた友はようやく顔を上げて。
「―――違う」
「違う?」
「おいらには、三歩だ」
その距離を言葉通りの三歩で詰めて、陽子の手を取った。
陽子らを探していた延は、偶然にも人通りの少ない大途に二人が言い争う様を見つけ、脇の小途で一切の口を出さないまま、事の顛末を見守っていた。彼に追いついた延麒と
江寧も、その場に佇み眺める。
「……良き王になりそうだな」
ぼそりと呟く延に、六太はひとつ頷く。
直後、大途にも関わらず楽俊へ勢い良く抱き付いた陽子の大胆さに驚きながらも延は豪快に笑い、延麒は複雑な顔をする。双方の反応に苦笑を洩らす
江寧は、そのまま平穏な風景を見守っていた。
目の前で酷く焦っている友人からようやく放れた陽子の視界の端に、その姿は映る。
小店の間に続く小途、建物の間でそれぞれの反応を見せる三者。その内延が何故笑っているのかは分からなかったが、兎も角立ち上がり彼らの元へ歩み寄る。
「終わったか?」
「はい」
人の眼が多いことに今更ながら気が付いた楽俊は、灰茶の尻尾をぴんと逆立てる。慎みを持った方が良いと言ったところで今の陽子には首を傾げるばかりで羞恥の心はない。更に公衆の面前での行動に参った楽俊は、髭を垂らして顔を俯かせた。
一方で準備が整った事を尚隆に告げた陽子は、その後方に佇む
江寧へ視線を移す。
「
江寧、我儘を聞いてもらってすまない」
「ううん、どうせ国府に用事もあったし」
「そうか―――ありがとう」
気にしないでと笑みを湛える
江寧を前に、自然と頭が下がった。
船上で出逢ったことから始まった縁が、いつの間にかこんなにも深くなっている。迷惑ではないかと思うたび首を横に振ってくれた少女に、感謝の意を述べた。
「そろそろ出発するぞ」
「あ、はい」
小途の影から出て来た延は、大途へと足を踏み出し歩き始める。そのすぐ後を延麒が追って、残された三者もまたそろそろと歩き出した。
街外れにまで辿り着くと、延は指笛を鳴らして騎獣を呼び寄せた。相当に馴れさせたものでなければ、その芸当は出来ない。ほうと息を洩らして、
江寧は地に降り立つ騎獣を眺める。
「騶虞だ」
陽によって銀に輝く毛並み。漆黒と白銀の長い尾は美しく、その体躯はしなやかだった。ゆっくりと降り立つ騶虞の手綱を延は掴み、自らの隣へと寄せた。その様子を呆然と眺めているのは陽子と楽俊。
騶虞と呼ばれた獣は、国一つを一日もせず駆けるほど駿足の騎獣である。黄海で捕らえるにはそれなりの器量が必要とされるが、捕らえ馴れさせる事は非常に難しい。故に騶虞を捕らえると、一生の稼ぎを得られるとまで言われている。
だが、それを延が呼んだのは二頭。やはり五百年もあれば騶虞の一頭は捕らえる事が出来るのだろうかと、
江寧は驚きながらも内心思う。
もう一頭を降ろし終えると、延は陽子に向かい騎乗経験を問う。賓満をつけていると返した陽子にひとつ頷き、持っていた手綱を反対側――陽子達の元へと投げ寄越す。乗れ、という事らしい。現に延と延麒は慣れた動作で容易く騶虞の背に乗り上げた。
彼らの真似をして乗り跨ると、陽子の手足にそろそろと這う感覚がある。既に慣れてしまった感触は気にせず、陽子の後ろでようやく跨り終えた楽俊が彼女の肩に手を置いた。
「しっかりと掴まらんと、落ちるぞ」
「―――はい」
「
江寧は大丈夫だな」
「ええ」
既に飛び立つ準備を終えた
江寧は鐙に足を掛けていた。その様子を確認してから、延は手綱を手元に引き寄せる。
ゆっくりと空へ駆け上がった二頭の趨虞の後を追うように、赤虎は勢い良く飛翔を始めた。
◇ ◆ ◇
二時間と少々を空で過ごした一行は、やがて見えてきた関弓山を一杯に傾け仰ぎ見る。細い山が幾つも連なり合い、その山肌はさながら波のよう。それでも雲を貫き屹立する巨大な山の姿は、斜陽の今ではほぼ闇に覆われていた。
「関弓山―――」
元々凌雲山の麓街、連檣に住んでいた
江寧にとっては然程驚くことはない。呟いた言葉の中にはただ初見の漠然とした関心のみが含まれている。前を行く騶虞を眺めながら、陽子は呆けているだろうかと思う。……なにせ、こんなに高い山など蓬莱にはないのだから。
ふと背後を振り返る延麒へ視線を移して、少年の手が天へ向けて指を差す。上昇の合図と理解した
江寧は遠くからでも分かるよう大きく頷いた。
三頭は暫くの間山肌に沿い上昇を続ける。別段揺れもなく移動する騎獣に、陽子と楽俊は安心して空を振り仰ぐ事が出来た。
……そしてそれは唐突に終わりを告げる。
今まで眺めていた岩壁が急に途切れ、削られ磨かれた岩場が姿を現す。明らかに人の手で造られたらしき広い足場へ騶虞は降り立って、
江寧もまたそこへ赤虎を降ろした。
組み込まれた門の高さは人の数倍ほど。頑なに閉ざされている門の扉を見上げて、今度ばかりは
江寧でさえも思わず声を洩らした。
三人の横を通り過ぎて、延は門扉へ向かい歩き出す。騶虞の手綱も持たず先を行った男の後姿を困惑して眺めていた陽子は、そのすぐ後に理由を知る。
たった二人の門兵が扉を押し開け、騶虞の元へと駆けつける。陽子と楽俊が騎乗していた騶虞は連れて行かれ、更に
江寧の赤虎も預かってもらう事となった。
「―――どうした?こちらだ」
視線で着いてくるようにと促す延の姿を、三者は慌てて駆け着いていく。恐ろしく押し上げられた天井と幅の広い廊下を歩く気分はどこか不安を思い浮かばせる。一人で歩くことはある意味度胸試しになるかもしれないと、
江寧は片側の口角を攣らせたまま延と延麒の後を追う。陽子と楽俊もまた、戸惑いつつも歩みは止めずにいた。
廊下を抜けると、広間から上へ行くための白い階段が伸びている。段数は異様に多く―――しかし呪の施された階段に、再び驚愕した。驚くばかりの王宮内部に、
江寧らはふらりと眩暈を覚える。
「疲れる―――」
ぼそりと呟いた声は延に届いていない。代わりに延麒が聞き拾って、くるりと背後を向いた。
「慣れてなきゃそうだよなぁ」
からからと笑いながら、延麒は延から逸れて
江寧の隣へ並ぶ。少年を見下ろしつつ歩いたその先にある木製の扉を開けた。途端―――潮の香りが、鼻を衝く。
思わず露台へ駆け出した陽子の姿を
江寧は目で追って、手摺を引っ掴み下を覗き込むその様に首を捻った。一体何を見ているのだろう……そう思う矢先、陽子は声を上げる。
「海がある……!」
「あるさ、空の上だもん」
驚きの声を発する陽子に、当然の如く頷く楽俊。な?と同意を求めようと
江寧の顔を見上げた楽俊は、その言葉をはたと留めた。
「だから雲海なのか……」
「そういや
江寧も蓬莱生まれだったか。どうも馴染んでるんで、すっかり忘れちまった」
「楽俊……」
複雑そうな表情を浮かべる蓬莱生まれの少女に、楽俊は短く詫びを入れる。傍から眺めていた延はその光景に笑いを零していたが、告げられた本人は笑えそうにない。
延は視線を
江寧から外して、陽子を見やる。気に入ったのだろうと思い、露台のある部屋を用意させると告げるとこれまた陽子も複雑な色を顔に滲ませていた。どうやら、不慣れな呼称に戸惑っているらしかった。
それを半ば無理矢理納得させて、さらに目的の場所へと向かうために身を翻す。背後から聞こえる複数の足音に、振り返り見ずとも良いと石段へ足をかけた。
「こちらでお召し替えを」
とある一つの建物へ足を踏み入れた途端、女人の数人は突如そう言って迫り来る。
景女王はこちらへ、と案内の者に着いて行く事を促す一人の女人に苦笑して頷くと、陽子の姿はすぐに見えなくなった。続いて楽俊も別の女人に案内を受けて扉を潜っていく。
残された
江寧にもすぐに声が掛かり、案内の後を追った。
桶に張られた湯で身体を洗うと、用意された襦裙へと着替える。
一見すると質素だが、生地は肌心地が良い。こちらでは布は決して安くない事を青稟から教えてもらっていたが、こうも違うとなるとやはり戸惑う。服で貧富の差が出る事を
江寧はあまり良く思わなかった。
富む者と貧しい者の服の呼び名が異なる事も嫌だ。それは差別だ―――と。
「お召し替えはお済みでしょうか」
「……ええ、はい」
若い女人の声に、衝立の裏から返事をする。今まで着用していた襦裙を丁寧に畳み胸に抱えて出ると、
江寧の前で女人が深く頭を下げた。
「御二人方とは別のお部屋でお待ち下さいますようにと仰せつかっております。どうかご承知くださいませ」
「分かりました」
ひとつ頷いた
江寧に再度頭を垂れて、それから部屋への案内人として歩み始める。
その後を追いながら、不意に外された事への不安で胸に抱いた襦裙を強く握り締めていた。
◇ ◆ ◇
暫しを清香殿の房間で待たされ、ようやく動きがあったかと思えば、
江寧が連れて来られたのは先程通った露台だった。
何故と一瞬疑問が過ぎったが、そこに置かれた小卓と椅子を目にして思わず溜息を吐く。―――まさか、此処で話すとは。
「随分と待たせて悪かったな」
「いえ―――」
卓を囲んで三つの椅子が置かれている。その一つには延が腰掛け、もう一つには延麒が膝を掛けながらも座る。残るは手前にひとつ……そこが、
江寧のために用意された席だった。
座るよう促す延に頷きを見せ、恐る恐る腰を落ち着かせる。波が打ち寄せるたびに潮の香りが運ばれて、緊張は僅かに解れた。
「六太が
巴を探していた理由だが、知っているか?」
「いえ、存じ上げておりません」
「泰麒の居場所を知っているのだと、延麒からは聞いている」
「泰麒―――?」
思わず顔を顰めた。それは覚えがない。いや、そもそも―――泰麒は亡くなったと噂が立っていたが。
延麒は彼女の思考を読み取ったのか、首を振って説明を加える。
「行方不明なんだ。蓬莱にいるかと思って探してたところに、
巴と会った」
「私と―――」
「あの時
巴は、泰麒を……高里を知っていると言った」
その姓に、はたと思考を止める。高里 要―――まさか彼が、戴国の麒麟―――。
真剣な眼差しを受けて、
江寧は目を細める。延もまた同じく、それが本当なのだと知る。……ただ一つ、納得はいった。
周囲に起こっている事も、指令の起こしているものなのだとすれば。
「なんてこと……彼が」
「家は―――」
「知っています」
ああ、と思考は蒼白になる。蓬莱では良い子だった。嘘の吐かない、大人しい少年で。
二つ下だったが、
江寧――
巴は彼がすきだった。決して恋愛感情ではない、兄弟のような感覚で。
では、神隠しと呼ばれた一年少々の間は、戴国へと帰還していた……?
指令を持ち、王を選び。
それから一体、何があったのだろう。
ただ、今此処で何故と聞くことだけは、どうしてだか愚問のような気がした。
「それで、一つ頼みがある」
「何でしょう……」
双方真面目な表情の中で、
江寧もまた畏まる。もしやと不意に過ぎるその思考は―――
「倭国で泰麒の面倒を看てくれないか?」
……あたった。