- 拾章 -
畑の間に通る畦を歩く二人の内、一人の少女がふと空を見上げる。一つの影が頭上を過ぎ行く光景に、思わず疑問を口に出す。
「あれは、妖魔……?」
その言葉につられて少年もまた空を仰ぐ。
見上げた先の赤い騎獣を目にして、少年は目を見開いた。
「―――悧角、あの騎獣を追えるか」
《 御意に 》
影に潜む気配は急に遠のく。上空を高速で駆けていく虎の姿に、少年――六太は深く息を吐き出した。
―――――見つけた。
江寧が目的地の一つ前にあたる街で連れの噂を聞いたのは、墓所を訪ねた翌日……昼下がりになろうとしていた頃の事だった。
本来ならば昼前には着くはずが、偶然にも架戟を発見した
江寧は、ふらりとそちらへ立ち寄った。
矢と言っても、冬器製ならば信用に値する人物でなければ売らないという。供王より受け取った旌券を渡すと、その裏を目にした途端に数を聞いてきた。……勿論それは、矢の必要数なのだが。
「権力って絶大だ……」
すっかり補充された矢筒の中を覗き込み、
江寧はつくづくそう思う。
そうして赤虎を連れたまま噂を頼りに芳陵の街へ赴いた時には既に夕刻。陽が落ちる前に見つけなければと探し回る
江寧に、尋ねた十数人目でようやく居場所を突き止める事ができた。
しかし……まさか庠序へ向かうとは。
庠序への道程を教わり、
江寧は赤虎を連れて向かう。本来ならば突然訪ねる事は無礼であったが、落ち合う予定の者が居るのだから無礼を承知で行く外に無い。
門を叩き、一つ声を上げて誰かが出てくるのを待つ。
喉を鳴らす赤虎を暫く撫でていると、不意に扉が軋むような音を立てて開かれた。そこに現れたのは、穏やかな顔をした男性の姿。
「突然の事で申し訳ありません。ここに鼠の半獣と赤い髪をした女性が訪ねていらっしゃるとお聞きしたので」
「ええ、中に居りますが……あなたは?」
「
坂 江寧と申します。二人の連れです」
「そうですか……どうぞ、お入りなさい」
男性は扉を開ける。それに一礼して、
江寧は門を潜った。
「赤虎は庭で待たせてもらっても良いでしょうか」
「しかし……逃げるのでは?」
「大丈夫です、逃げません」
「―――分かりました」
男性の了承を得て、赤虎を庭で待つようにと指示を出す。
江寧の意を理解した赤虎は、その場に縫い留められたように動かなくなってしまった。男性は騎獣の様子に驚いていたが、
江寧はその場を苦笑のみで誤魔化す。
「行きましょう」
言葉で男性の背中を押して、彼女は二人が控えている建物へと向かった。
「陽子、楽俊」
その戸を開けた向こうには、勉強の為の卓が綺麗に並べられている。左の奥隅には周囲よりも僅かに檀のある質素な敷上に、
江寧が探していた二人はいた。
来訪者の姿を見るなり陽子は声を上げて、楽俊は途端何かを思い出したように慌てている。あまりにも違う双方の反応に一間呆然として、それから笑った。
「
江寧……」
「別に置いてったつもりは―――いや、すまねぇ……」
しょんぼりと項垂れる楽俊に、いいやと
江寧は首を振る。
「一つ前の街で陽子達の事を聞いた。こっちに来てから探したけど、見つかって良かったよ」
笑顔でそう応える少女の顔には、二日前の影はなくなっている。それを確認して、楽俊はようやく安堵した。
陽子も同じくほっと胸を撫で下ろして、途端戸を閉める音が響く。
「立ち話も難でしょう。座っては如何ですか?」
「御三方は話の途中のようですから、私は失礼ながら横で控えさせていただきます」
「……分かりました」
男性――― 壁 落人は、檀へ上がると二人と対面するように腰を下ろす。それはさながら倭国の和室を思い出させた。陽子と楽俊の正座姿が更にその想像を彷彿とさせ、
江寧は懐かしく思う。……だが、その後に交わされた話は何とも複雑なものだった。
「わたしは、言葉が分かるんです」
陽子の言葉から始まった話は、彼女自身の不安を掻き立てていく。この世界で使われる言語を理解し、それが最中まで日本語だと思っていた。話した日本語は相手へ勝手に翻訳され、相手が話した言語も日本語として訳される。そこから導き出された応え。それは――――中嶋陽子は、人ではないということ。
妖族か神仙か、はたまたそれに類する何かか……もしそうならば、帰る方法はある。何故ならば、それらは皆虚海を渡ることが出来るのだから―――。
そう告げた落人は、更に言葉を続けた。
延王にお目通り願いなさい、と。
だが、陽子が捉えたものは神仙ではない。己が妖魔だと思い込み、次々と経緯を話し始める。初めてその詳細を知る事になった
江寧も、次第に眉間へ皺を寄せていく。
「そんな、莫迦な」
妖魔に狙われる……そんな事は、あるはずが無い。あってはならないのだ。
特定の者を標的として狙い続けるなど耳を疑うような話であり、まして同族嫌悪などという事もない。それは、陽子が妖魔である可能性が皆無であるからだった。
「とにかく、延王にお目通り願いなさい。あなたはただの海客ではない。きっとお助けを―――」
「嫌です!私がわざわざ妖魔が狙うほど酷い妖なら、王様になんか会えません!会ったら殺されてしまう!!」
「陽子―――」
凄む陽子の姿に
江寧は目を見開いた。未だ己を妖魔と思い込む彼女に対し口を開きかけたが、それと重なり楽俊が叫ぶ。
「ケイキに会ったと言ったな」
その言葉に、落人も
江寧も反応する。
虚海を自由に渡る事ができ、タイホと呼ばれるケイキ―――それはこの世にたった一人だけの存在。孤高不恭、金の髪を持つ存在。
「慶国の麒麟だ」
はっきりとした楽俊の言葉に、陽子は不安ながらもキリン、と呟く。その存在を初めて知る陽子に、落人は一つ頷いた。不安で目が泳ぐ。ふらりと泳いだ先に佇む
江寧の姿を見て、彼女は口を開いた。
「
江寧、キリンって…」
「天意の器と称される、妖力甚大の神獣。基本的に牡は麒、牝は麟。国氏を頭につけて号を呼ぶから、慶の麒麟だったら景麒または景台輔ね」
「う、うん……」
江寧の説明にさえ戸惑う陽子に、楽俊と落人は檀を降りる。近場に掛けられた地図の前へ移動すると、陽子と
江寧もまたつられるように移動した。
慶国を指差しながら、楽俊は説明を始める。
雁と巧に挟まれた東の国―――正式名を、慶東国という。昨年に王は亡くなり、王が不在のまま慶は着々と荒廃が進んでいる。新王は未だ登極せず、難民となる者も少なくはなかった。―――その中で、景麒は王を探しに倭へと渡った。
胎果となった、王を探しに。
それまで静かに聞いていた陽子は、咄嗟に口を出す。だがそれを遮る楽俊の言葉は、部屋の中によく響いた気がした。
「陽子、景麒はお前に何か言わなかったか?」
……何か。
陽子は記憶を掘り起こして、考える。
酷く長い言葉を綴っていた。その全てを思い出す事は出来なかったが、行動だけは彼女の記憶によく残っている。
「私の前に膝を着いて、頭を下げたんだ」
「……陽子―――」
孤高不恭の存在が頭を垂れる―――それが何を意味するのかなど、分かっている。
落人も楽俊も、その場で膝を折る。突然の事に理解が追いつかない陽子に、
江寧もまた頭を下げた。
……新たな慶国の王に、敬意を以って。
◇ ◆ ◇
……翌日早朝。
陽の昇るその前に、陽子は目が覚めた。
昨晩の事を思い出しては目は冴え冴えとして、仕方なく身体を起こす。
外へ出たら気も落ち着くだろうかと庭へ赴き、肌を刺すような冷気を帯びる気を吸い込む。吐き出された息は短く、しかし臥牀で横になっているよりは気が楽になった。
「景王、か……」
口に出したところで、実感は湧かない。それよりも自分が王であると言われ、否定感は強い。
どうすれば良いかと滅入る陽子。その元に、一つの足音がやってきた。
「もう起きた?」
「あ―――
江寧」
はたと気が付けば、隣に
江寧がやってくる。その変わらない態度に、酷く安心感を覚えた。
昇陽の方角へ顔を向けながら、
江寧は陽子に話しかける。横顔から窺がえる表情は、僅かに弧を描く口角のみ。
「今日も晴れそうで良かった……雨の旅は赤虎じゃ大変だからね」
「う、うん」
朗らかに笑う
江寧。その何気ない会話で心が落ち着くのは何故だろうかと、陽子は内心首を傾げた。
景王と言われようとも、
江寧は変わらない。だが―――楽俊は。
友達だと思っていた。それなのに……。
「陽子、あまり落ち込まなくてもいい。こっちの人達はね、王様という者は雲の上に住む人だから、関わる事は畏れ多いと思ってるんだよ」
「ああ……」
「楽俊だって今はああだけど、多分友達でいたいんじゃないかな」
敬意と信頼が異なるように。
その言葉に、陽子がはたと動きを止める。
確かにそうだと思う。敬う事と、その中にある信じるものは違う。思わず瞬きを繰り返して
江寧を見る。彼女は何を言うわけでもなく、薄藍の空に目を据えていた。
陽子もまた空へと視線を向けて、暫しの間は沈黙がやってくる。
静寂と言えども、鳥の囀る声は時折響く。その声に瞼を伏せて、途端それは破られた。
「顔でも洗って、すっきりしようか」
「ああ、そうだな」
互いに頷き合って、江寧は庭を歩き出す。
その後姿を眺めながら、陽子は自然と礼を呟いていた。
出立の準備を終えると、楽俊は表にて落人と言葉を交わす。その様子を眺めながら、陽子は不安気に眉を顰めていた。
「実はもう、延台輔にはお手紙を差し上げているんです」
延台輔。
楽俊が告げた単語に、傍に居た
江寧は思わず反応する。
以前に青稟が問い合わせていた事もあった。だが、国府では対応をしてもらえなかった事を思い出す。
―――今度は会えるだろうか。
思いに耽る
江寧。その横で、未だ会話は続いていた。
「お返事があり、この芳陵にある桃林園でお待ちすると」
「延王にお目通り願えれば、全てが分かるでしょう」
落人の言葉に、楽俊は一つ頷く。
その時―――何気なく陽子が動き出した。それにはたと気が付いた楽俊が、慌てて後を追い掛ける。
「景王様!」
その号で呼ぶ度に、陽子は不安に駆られた。
江寧の言う通り、彼の胸内に未だ友達でいたいという気持ちはあるのだろうか、と……。
里祠の方角へ行ってしまった二人を、
江寧は赤虎に凭れつつ眺める。そしてふと視線を逸らすと、落人と視線が合った。
「そういえば、あなたとあのお二人とは何処で?」
「烏号の港です。私も胎果で」
微笑する
江寧に、落人は目を見開く。その事実を今更ながら告げられ、刹那疑問が湧き上がる。
胎果であったとしてもこちらの言葉を理解出来るはずがない。こちらの名を語り、更に赤虎と言う希少な騎獣を持つ。一介の海客がそこまで恵まれるとは到底思えなかった。
「流れ着いたのはどちらの国ですか?」
「恭です」
恭国―――雁国同様、海客を優遇している国の一つである。
漂着する海客の数は雁よりも少ないので、待遇は雁よりも良いのかもしれないとふと思う。だが―――その優遇の格はあまりにも過ぎている。
だが落人の考えている事を悟ったのか、
江寧はああいえ、と手をひらひらと振った。
「文化を伝える条件として一年間言葉を教えて頂きました。赤虎は一応自分で捕らえたものですよ」
「そう簡単に捕らえる事は出来ない筈だ」
「命をかけましたからね」
ね、と赤虎の額を撫でる手つきは柔らかい。穏やかな顔をした
江寧の姿に、落人は問おうとする言葉を飲み込んだ。
「
江寧、準備は出来たか?」
「ああ、うん」
戻ってきた楽俊と陽子に笑いかけ、そろそろ行くかと問う。
江寧の質問に頷いた楽俊は、落人に一晩の恩礼を告げて歩き出す。そのやや後ろを陽子が浮かない顔のまま追い、彼女の横に
江寧が添う。その見送りに、落人が着いていった。
門を出ると、落人に向かい一礼をして、三人は大途へ足を向ける。
赤虎の手綱を持つ手を緩めて楽俊に目的地を聞けば、桃林園という宿に延台輔の使者が待っているのだと言う。行きがけに見つけた大きな宿だろうかと記憶を掘り起こしながら、そのまま
江寧は視線を陽子へと映した。……彼女は相も変わらず、真面目な顔のまま。陽子と楽俊の間に交わされる言葉はない。
結局その沈黙は、目的地の前に留まるまで続いた。
「一緒に来てくれないか?こんな豪華なところ、一人では入れない」
いざ桃林園の前へ辿り着くと、陽子は楽俊に向かい不安気に告げた。
躊躇いもまた、陽子の胸内に巡り続けている。それを余所に迷う楽俊の表情は、
江寧が見る限りでは感情が揺らいでいるように見えた。
―――楽俊。
そう掛けようとした声が、届く事はなく。
突如大途に轟く獣の悲鳴によって掻き消され、それと同時に陽子は駆け出していった。
◇ ◆ ◇
大途に耳を裂くような悲鳴が複唱される。
その中に含まれた“妖魔”の言葉に、
江寧の身体は硬直していく。
人々が散り散りとなって逃げる中、進まねばならない彼女の足は縫い留められたように動かなかった。震えはきていない。……だが、船の一件があってからは妖魔に対する意識が変わっていた。
そうして散らばった群集の中を駆け抜けて、陽子は剣を抜刀する。
脇道や開かれた店の中へと逃げ込み、ついに道の中央に立つ者は居なくなった。
途端、目前に上がる砂煙。背筋に冷汗が流れて―――それでやっと、
江寧の足は硬直から解放された。
袈裟懸けしていた弓を左手に握り、矢筒の蓋を取り除く。その内三本程取り出した矢を口に咥え込み、更に取った二本を弓に携えた。
煙の中、轟々と獣の呻る声が地を這う。砂煙が徐々に晴れていく先に、浮き出す輪郭。
弦を取り、弓を引き絞る。
砂煙の向こう、見えた輪郭は四足の獣……体格は、人の倍ほど。
立ち止まった陽子の後方で
江寧は弓を構え、煙の輪郭のみで箇所の推測を始める―――その時間は、僅か三秒ほど。
不思議と獣に弓を向ける事に戸惑いは無く、狙いを定めた矢は弦を放した瞬間に砂煙の中へ消えた。
刹那、獣の悲鳴が耳を貫く。
大きく振り返る陽子は目を見開き、すぐに前方へ向き直る。今は集中を削がれている場合ではない。
すぐに煙が落ち着き、獣の姿が露となる。姿形は牛のようだが角は猛々しく、左目には先程放った矢が貫き流血していた。
その姿を現すと同時―――妖魔の下まで駆け抜ける紅は、剣を構える。
直後、右腕で横へ薙ぎ払うように振り翳した直線に妖魔の身体が切り裂かれる。それでも突撃の体制を崩す事の無い獣に、視界を遮断する為に右目も捉え、そして迷い無く放つ。
風の抵抗も無く僅かに弧を描きながら矢は飛躍し、捉えた目標の下へと辿り着く。青牛の両目は、完全に潰れていた。
悲鳴を上げ、周囲を暴れまわる妖魔。その頭部に剣を突き刺すように向けて、息の根を止める。
続けて突撃するもう一頭の青牛に、突き出した陽子の剣は角によって弾かれる。弾かれた反動を利用し身体を捻らせ妖魔の背後――――店上に張られた幕の上へと飛躍し着地した。
江寧は口へ咥えていた三本の内二本を取り、更に一本を弓へ固定して、暴走する青牛へと向ける。
……その時、脇へ避けていた民の中から、楽俊の叫ぶ声が聞こえて来た。
「欽原……!!」
構えていた
江寧と幕の上で様子を見ていた陽子が顔を上げ空を見たのは同時、陽子の背後に鳥型の妖魔が間近にまで迫っていた。
思わず地上の妖魔から軌道を逸らして上空の鳥へ向けて弓を引き絞る。幕の上を暫く走り飛び降りた陽子と代わるように二本構えの矢を放ち、集団にいた内の先頭二匹を打ち落とす。
安堵し掛けた
江寧に、突如冷やりとした光景が目前に映った。
目前へ降りた陽子の下に突撃してくる地の妖魔。一発でも撃ち込まなかった事を
江寧は酷く後悔した。
弓を急ぎ構えるが、間に合いそうにもない。今からでは陽子が避ける時間も無く、しかし避けてしまえば他に避難している人が怪我をする可能性も十分にある。
それでも
江寧は弓を引き、目的を定めず放つ。額を穿った矢は僅かながらの猶予を作った。獣は血を振りまきながらも一瞬ではあったがその場に留まる。
しかし、次の矢を携える余裕まではいかない。
江寧の目前で構えた陽子はそのまま獣に向かい一歩を踏み出そうとして、
突然現れた薄水の背が妖魔と二人の間へ滑り込み、大きく一太刀を振るった。
一瞬、何が起こったのか把握が出来ない。理解の為らないまま、突撃してくる筈だった妖魔が伏している姿を二人して呆然と見つめる。
…獣は既に息絶えていた。
「気を散じるな、まだ来るぞ!」
男の声に
江寧はふと現状を思い出す。今ここで呆然としていては命が危険だ――――。
そう思う間にも、男は次々と妖魔を薙ぎ払う。
ついには頭上に群がっていた欽原を全て討ち落とし、辺りは騒然となった。
壊滅の状態を確認して、楽俊が陽子と
江寧の元へと駆ける。楽俊が陽子に二三言告げている光景を見て安堵をしてから、
江寧は剣に付着した血を振り払う男を見やる。
歳は二十代後半から三十代。薄水の袍を纏い、濃緑を含んだ黒の長髪に背後を桜色の布で結わえている。怪我一つもせず剣を振るっていた姿はどう見てもただの民とは思えない。
「迎えをやらせた者には、会わなかったか?」
男のその言葉に、楽俊が反応する。延台輔の使者の事だろうか。陽子がそう思った刹那、楽俊の口から出た人物の名に思わず目を見開いた。
「もしや、延台輔様!?」
「いや、お前達が遅いので台輔は迎えにやった」
気さくに笑む男に、陽子と楽俊は戸惑う。では擦れ違ったのだろうかと。
そして
江寧は気が付いた。この男の言葉は―――日本語に聞こえると。
さらに、台輔を迎えにやらせる、つまりは台輔に命令をする事ができる―――即ち、この国の台輔の上へ立つ者。それは……その人物は、たった一人しかいない。
行き当たった答えに、
江寧の表情が瞬時にして凍りつく。
「では、貴方は…」
「俺は小松尚隆。胎果で、称号で言うなら、延王だ―――雁州国王、延」
雁国の、頂点に立つ者。
そんな方が何故、こんな場所に―――――そう三人が言葉も無く驚く暇は、たったの一時。
屋根から下りてくる複数の妖魔に延は剣を構え、陽子は楽俊の前へと周り妖魔を迎え撃つ体勢へと入った。
江寧もまた弓を構え、降りてくる猿型の妖魔へ狙いを定める。小物ばかりではあるが、先程よりもその数は明らかに多い。
「まるでお前等を狙っているようだが……通常、妖魔は群れて襲う事は有り得ない」
個々に打ち払い、射ち落としながらも延の言葉は続く。決して視線は向けられず、発される言葉は耳を傾けるのみであったが。
江寧は弦を引く指に度々走る痛みを無視しながらも放ち続ける。
時折生温い感触がじわりと浮かんでは弦と共に弾かれる。……それを敢えて、終わるまでは見ないようにした。
「これは指令が操っているのだ。指令を探せ!」
「指令って……」
四方を見渡して、陽子は空の一点に視線を留めた。詳しくは空……を区切る、屋根の上であったが。
――楽俊を頼む。
そう
江寧に短く告げた陽子は、振り掛かってくる妖魔を薙ぎ払いながら駆けて行く。
江寧は陽子の居た場所へ走り込み、向かってきた猿の腹へと一つ射ち込んだ。操られているのは可哀想だが、そう言って何もしなければこちらがやられる。そう思いながら、弓を引き絞り、降って来た妖魔に目掛け討とうと弓ごと腕を上げた。
―――刹那、遥か頭上から聞こえた獣の悲鳴。
陽子が指令を倒したのだと思い―――それで少しばかりの油断が生まれた。
落下していくものは、決して止められない。急ぎ視線を戻せば、猿型の獣は
江寧の目前にまで迫り来ていた。
「っ―――!」
背後に楽俊が居るため、僅かに身を引きやり過ごそうとして、過ぎる瞬間彼女の腕に痛みが走る。
思わず息を詰まらせて、悲鳴を喉で留めた。
指令が斃れた事を機に、我に返る妖魔が次々と散り去っていく。無数の死体を残し、僅かな時間の内に街の中には生きた妖魔の姿は見えなくなってしまった。
襲撃を終えて、延は鞘へ剣を収め陽子もまた建物の屋根から軽々と降りてくる。
周囲を一通り見回した延は、陽子と楽俊、
江寧へ視線を順に移していくと、着いて来いと短く用件を告げてそそくさと歩き出した。
三者は思わず顔を見合わせて、先に歩く延から遅れて歩き出した陽子と楽俊の後を
江寧が追う。
―――行き先は、予定の通りに桃林園の一室であった。
◇ ◆ ◇
桃林園へ到着する手前、陽子が突如血相を変えて
江寧の元へ駆け寄る。
一体何事かと
江寧が首を捻ると、隣を歩いていた楽俊と先頭を歩いていた延もまたそちらへ視線を向ける。延は少々驚いた風を見せ、楽俊は陽子と似たような反応を示していた。
「
江寧、血が出てるじゃないか……!!」
「ん?」
緊張で痛覚が麻痺していたのか、右頬と右腕が傷付いている事に
江寧は告げられるまで全く気が付かなかった。
多少流血しているなんて何故気付かなかったのだろう。そう思うが、じくりとようやく痛み始める傷に顔を歪める。……指については傷口がどうなっているのかは未だ分からない。見ない方が良いかもしれないと、袖の中に手を引っ込めた。
懐から布を取り出した陽子が、
江寧の頬に流れる血を拭き取っていく。その行動に大した傷じゃないと苦笑すれば、二人は次に腕の傷を気に掛ける。
…… 心配性なのか、陽子と楽俊は。
この思いは、敢えて出さない事にしておく。
「他人の怪我を心配するのは良い事だが、どうせなら宿の中で手当てをしてもらえ」
延は苦笑して、桃林園の門前で佇む女性に声を掛ける。
江寧を指差しながら、会話は進む。差された当人は首を傾げるばかりだった。
「そこに突っ立っていないで早く入れ」
「すみません……!」
陽子は慌てて延の元へ駆け出して行く。その後に
江寧が小走りで続いて、宿の門を潜っていく。その際、楽俊は門の前で立ち止まっていた。それを立ち止まり眺めると、再び延の催促を聞く。仕方なく足を進たところで、廊下が左右に分かれている。延と陽子はそのまま右へ進み、
江寧もまた続こうとした―――が、その前方を女性二人が遮る。
その光景に陽子も戸惑うが、ふと振り返った延の口は弧を描いていた。
……彼の仕業だろうか。
「お前はそちらで手当てをしてもらえ」
江寧に向けてそう告げると、二人は階段を上り消えていった。
小さな客房へ案内された直後、
江寧の背後から二人の女性が湯の入った桶と木箱を抱えて扉を潜ってくる。彼女達は傷を見るなり驚きの声を上げ、慌てて
江寧の左腕を引っ張りながら榻へと座らせた。上着を無理矢理脱がし、上は胸部へ巻いていた晒しのみとなっている。部屋は暖かいので寒くはないが、風に触れる傷口はよく痛む。
桶の湯で温め絞った布を右腕の傷に伏せれば、さらに静電気のような痛覚が走った。傷口に直接当てているのだから仕方無い事だが、血を拭き取る際に傷を撫ぜるのはどうにかならないかと思う。
「可哀想に……これじゃあ傷が残ってしまうわね」
「妖魔にやられたの?」
「あぁ、はい」
右頬の傷は少々深かったらしく、傷が残るかもしれないと女人は言う。どちらの傷も楽俊を背にしていた際に避けようとして受けたものだ。……例え残ったとしても生活に支障の無いものだから良いとは思うが。
最後には完全に血を洗い流して、消毒された包帯で傷口を覆う。頬は施しようが無いので、血が固まるまで待つ事となった。
その内に女性二人は道具を抱えて部屋を後にし、ようやく江寧は一人になる。
……ようやく落ち着いて、息を吐き出すことが出来た。
個室と言っても牀が三つ置ける程度の空間で、そこに小卓と榻、一つの臥牀が置かれている。開けられた窓からは園林に咲いているであろう花の香りが風と共に運ばれてきた。
座らせられていた榻の凭れへ身体を預け、焦点も合わせぬままぼんやりと外を眺める。庭には、桜にも似た花が満開となっていた。
時折運ばれてくる暖かな空気が肌を撫で、陽気は春に酷似していて今にも眠りへ落ちてしまいそうだ。
自然と瞼が落ちる。
緊張から解放された身体は疲労を訴え、陽気と合わせ睡魔を誘う。
―――早く、行かないと。
……その思いとは逆に、意識はずるずると眠りの中へと引きずり込まれていった。
◇ ◆ ◇
暖かな風が頬を撫ぜる感覚に、
江寧はふと目を覚ます。
開かれた玻璃の窓の向こう、園林から吹き込む風だと分かって、瞼を落とし息を吸い込む。
風や花の匂い―――それから、香水にも似た香りが鼻を衝いた。
花とは違う、人工的なものが含まれているような……一体何の匂いだろうかと、思わずぽつりと脳裏に過ぎるものを言葉にする。
「…香水…?」
何処かで嗅いだ事のある匂いだと思う。だがしかし、一体何処で……。
覚めたての意識のまま、ぼんやりと遠くに見える園林を眺めた。
―――その時だった。男の声がしたのは。
「麒麟は血臭が苦手な生き物でな。こうして別の匂いでもつけて行かんと、入ってきた途端に嫌な顔をされる」
突然脇から降って来た低い声に聞き覚えがあり、それが誰であるか理解した途端に
江寧の意識は鮮明となり、身体を一気に引き起こす。
榻の端に腰を掛け、くつくつと笑う雁の国の王。いつ入って来たかなど、眠りについていた
江寧には判断をし兼ねる。
気配も全く無かったのだから、気付きようもなかった。
陽子達との話は終わったのだろうか。そう思いながらも平伏しようとして、怪我人は動かんで良いと延より制止を受ける。言葉に甘える事として、誰かが掛けたらしい毛布を膝に掛けたまま身を上げた状態で
江寧は延を見上げる。
「怪我はどうだ?」
「治療して頂きました。ありがとう御座います」
「いや」
座った状態で頭を軽く下げると、俺が治療した訳ではないと尚隆は苦笑を零す。
……他国の王はどうか分からないが、この王はよく笑うと思う。そういった印象がつきかけている―――同時、今は威厳たるものが見当たらないと、失礼な事も。
視線を暫くの間園林へと投げて、話は始まる。
「
江寧―――いや、
巴で違いないな」
「……延台輔からお聞きになられました?」
「ああ」
久方振りに聞いた本名に違和感を持ちながらも、延にそう訊ねると返答として頷きはすぐにやってくる。やはり、と思う
江寧は園林へ投げていた視線を手前に戻し顔を俯かせた。延は
江寧の様子が少しばかり気になったが、構わず本題の事柄に着手する。
「それでな、
巴……供に玄英宮へ行く気はないか?」
「え……王宮、ですか?」
「ああ。これは景王の提案でもあるのだが」
どうだろうかと表情を窺がう延の顔を、
江寧はまじまじと見る。
思わぬ提案に、困惑を隠せない。
玄英宮と言えば、関弓山の王宮……一般の海客が入る事を許されるとは到底思えない上に迷惑が掛かってしまう。そう戸惑うと、尚隆は苦笑交じりに言い放った。
「何を遠慮している。一度は王宮へ入った事があるだろうが」
「あれは呼ばれたのです。そこで、雁の国府に行くようにと―――」
供王は仰られたのです。そう言葉にするはずのものは、とある事柄を思い出して不意に途切れた。あれから、―――赤虎は?
江寧が尚隆へと視線を向けると、焦燥を悟ったかのように手を軽く振った。
「安心しろ、先程桃林園の前でうろうろしていた。今は厩舎にいる」
「厩舎?だって、赤虎は人に馴れてない……」
「人も騎獣も、話せば分かる」
そうだろう?と口角を上げる目前の男の言葉に、自然と頭を振った。
ふいと視線を逸らして窓の外に広がる風景を見渡す。桜色の花が満開の庭園に、暖かな風が吹き抜け花弁が吹雪の如く霧散する。榻へ腰掛けながらも、窓際へ視線を向けて笑みを零す。溜息を吐いた延は僅かに声を落として、ぼそりと呟いた。
「弓は良い腕だった」
呟きの後に、敢えて蓬莱での名を零して王は笑む。その顔をまじまじと見て、
江寧はすぐに逸らした。……どうやら王は、こちらの名よりも日本名の方が呼びやすいらしい。そう思った直後に、ふとこの王が胎果だった事を思い出してしまった。
そうしてもう一つの返答を待つ延に、
江寧は苦笑を零す。
「……恐れながら、景女王陛下の供として参らせていただきます」
「ああ、歓迎する」
六太が宿へ姿を現し、陽子との再会を果たした後。少しの間留守にすると席を立った尚隆は程暫くして元の客房へと戻ってきた。陽子は何処へ行っていたのか想像がつくのだが、六太はこの宿にもう一人の客が居る事を知らない。
戻ってくるなり少量一杯の酒を口にする尚隆に、金髪を揺らして主の前へ立つ少年は何をしていたのかを問う。それを彼は手で軽く制し、榻へと腰掛けた。
「供に行ってもいいとの返答があった」
「良かった……ありがとうございます」
「おい尚隆、一体何の話だ?」
首を傾げる己の半身を見やって、尚隆は口を開く。
「お前は知らなったか」
「だから、何をだよ」
「下に
巴がいる」
瞬間―――あれだけ軽い表情をしていた六太の顔が豹変する。笑みは引き消え、その顔を硬直させていた。異様な表情の変化に驚きながらも、陽子は首を傾げ延に問う。
「あの……
巴とは」
「
江寧のことだ。知らなかったのか」
「はい……」
陽子の返答に、今度は尚隆が驚きの色を浮かべる。何だ、知らなかったのかと言葉にする―――その前に、六太が突如遮った。
「何処にいる!?」
「落ち着け―――
巴も玄英宮へ行く。あちらで聞けばいい」
そうだろう?と問いかける尚隆の声は酷く落ち着いている。それに渋々と頭を振って、納得をさせた。
榻から立ち上がった王は、すぐに扉へと向かい足を進め行く。
「では―――参ろうか」
長いこと居座っていたのだろうかと、陽子は思う。
桃林園の前で待っていると言った楽俊の―――友達の姿が見当たらない。思わず見送りにやってきた女人数名にその事を訊ねたが、首を横に振られてしまった。
「あの、もう一人連れて行きます」
「さっきの半獣か……従僕か?」
「友達です!」
……駆け出す陽子の後姿を見送って、六太はぼそりと呟く。
「友達、か……」
呟きは尚隆の耳に届く。二つ頭分ほど下にある少年の頭に手を置くと、六太はゆっくりと振り仰いだ。その表情には憂いが浮かぶ。心配を掻き消すように笑う尚隆からふいと視線を逸らして、六太の視界に緋と白藤が映った。
「あ―――」
「お待たせしました……そちらは?」
赤虎を連れてようやく出てきた
江寧に、頭を布で覆った少年が真直ぐに見上げてくる。尚隆はその問いに一瞬呆けたが、理由を理解するとああ、と頭を縦に振った。当然だと思いつつも、六太の背を押して一歩を踏み出させる。
「延麒だ」
「延――台輔?」
驚愕は双方に。
全く異なる少年の姿と故郷で遭遇した姿を重ねる事は難しかったが、それでも胎果であれば当然なのだと思う。だが―――まさか、此処で出会うとは思ってもみなかった。
六太もまた
江寧の姿に数度瞼を瞬かせ、以前の姿を思い出す。面影は髪型のみで、更に出会ったのは二年前のこと。その顔に以前あった幼さはない。別人を見ているようであったが、目前の彼女は間違いなくあの少女だった。
「
巴……?」
「―――久しぶり、六太」
―――嬉しいのに。
嬉しいのに、近付けない。足がまったく動かない。
あれだけ探して、ようやく会えたのに―――泰麒を見つける事が出来るかもしれないのに。
―――どうして、哀しくなる。
「六太?どうした」
「あ……」
「もしかして、血の臭いする?」
「そうじゃない……何でもない」
感動の再会になると思っていた。だが、六太の様子に尚隆は首を捻り、
江寧もまた心配をする。一体何が嬉々とした感情を削いでいるのか、二人には今一理解できない。ついには俯き沈黙してしまった少年に、二人は顔を見合わせた。
「延麒?」
「―――
巴、玄英宮に行ったら、大事な話がある」
「え……?ああ、うん」
主君にさえ滅多に見せる事のない真摯な表情は、しっかりと
江寧に据えられている。その言葉に戸惑いを見せながらも応える彼女を尚隆は横目で眺めると、さて、と話を切り出した。
「友を迎えに行った景王を、迎えに行くとしよう」
歩き出す尚隆に、その後を六太と
江寧が着いていく。
大事な話、と―――少年があそこまで真剣となって出した言葉は、
江寧の胸内に留まり続けていた。