- 捌章 -
範国へ辿り着いた
江寧は、思いの外長く滞在をしてしまった。七日と決めていたものを、実際に居座った日はその三倍ほど。故にふと思う。一国を見て回るには、一週間ではとても足りないのだと。一年と十月を一国の中で過ごしてきた
江寧は、今更ながらその事に気が付いた自分を恥じた。
四月下旬。
奏国を十分に見回り終えて、出立の準備を着々と進めていた。
以前に尭衛から指摘を受けた通り、慶沿いに行く事はせずに巧の阿岸へ向かう。そこから雁行きの船に乗せてもらい、烏号へ行くつもりでいる。―――問題は、騎獣を乗せてもらえるかどうかにあったが。
舎館代を払い、赤虎を引き連れ隆洽の大途へと出る。街中で発つ事をしないのは、途中で赤虎を飛翔させては迷惑になるかもしれないと、
江寧なりに気を遣っていたからだった。
――それにしても、と足を止める。
奏には他国にない保翠院という荒民のための救済施設があった。
恭にも範にも無い、奏の設備……これが、治世六百年の大きさというものかと感嘆する。他国にその施設が無いのは、恐らくそこまでに手が回らないのだろう。
だがそれも、治世が長くなればいつか。
赤虎の手綱を握る
江寧の掌に力が篭る。思い耽るその表情を、赤虎は不思議そうに振り仰ぐ。まじまじとした視線に気が付いて、思わず苦笑混じりの溜息を零した。
「行こう」
手綱を引けば、赤虎は大人しく主の後を着いて行く。
開かれた午門を抜けて、
江寧は赤虎の背に跨り、勢い良く空を駆け上がった。
目指すは北の赤海、そして青海へ。
未だ見ぬ大国を、その眼で見る為に。
奏南国を北方へ向けて駆け抜けた赤虎は、赤海に面する地を道標として北北東へと飛翔を始める。
最中には奏と巧を隔てる山脈、高岫山の終わりが姿を現し、横目にそれを眺めながら無事巧国の赤海沿岸へ入ることが出来た。
「これが、巧国……」
高岫山を完全に越えた先の遠景に、
江寧は思わず声を出し言葉を口にする。……それは、少女が想像していたものとは遥かに乏しい光景だった。
「緑が少な―――っ!」
驚きの間も無く、急に赤虎が降下を始める。
江寧は慌て手綱を腕へ巻き着け、鐙を踏み締めた。一体何事かと声を出す前に、頭上に一つの影が大きく旋回を始める。それが何かと眼を凝らす余裕も無いまま、淋しい林の間を低空で駆け抜けていく。
刹那、頭上から上がるけたたましい獣の悲鳴に上空を振り仰いだ。降下する影を
江寧は瞬きもせず眼を据える。
――――巧や慶には妖魔が出る――――
尭衛の言葉が不意に脳裏を過ぎる。何故あの時もっと詳しい事を聞いていればと後悔をして、思考は即座に切り替えられた。
……今は、この状況を脱却しなければ。
迫り来る妖魔に、
江寧は手綱を右へと引く。それに従い樹木の間を抜けながら右折すると、声は遠ざかる。だが、振り切れたわけではない。一度空へと舞い戻る妖魔の姿に、あれからは逃げられないのだと
江寧は悟った。
―――それなら。
袈裟懸けしていた弓を片手で取り上げると、鞍の左に括り付けていた矢筒の蓋を開き三本ほど取り出す。そうして再び蓋を閉めると、内二本を歯で咥え込んだ。
弦の張り具合を確かめる間も無く、一本の矢を番える。だが、まだ引く事は出来ない。
「もう少し……」
標的が降下の時を待つ。
右手首には手綱を巻き付けているが、然程問題はない。冬器とはいえ、果たして効くのかどうかも
江寧には分からなかった。何せ、妖魔を射る事は初の試みなのだから。
緊張の最中にいる
江寧は、途端開けた視界に慌てて周囲を見回した。林が途切れたのだ。
それを機に急降下を始める妖魔の姿に、慌てる事無く弦を引く。赤虎は本能のままに駆けるが、
江寧が方角を正す事はしなかった。
接近するにつれてその姿が巨大である事を知る。漆黒の羽を持つ妖魔に眼を細めて、
江寧は迷わず一矢を放った。
その手元は寸分狂うことなく、しかし漆黒の毛羽と同化し見えなくなる。……刹那。
頭上で轟く悲鳴が耳を貫き、体躯はもがきながら地へと落下していく。それに驚いたのは、矢を打ち込んだ
江寧本人だった。
彼女が狙っていたのは嘴の下、人間で言うならば喉にあたる箇所である。喉元を射られた妖魔は巨体を激しく蠢かせ、地は傷口より噴出した液体に塗れている。
江寧は呆然としたまま妖魔の姿を確認して、赤虎の手綱を引く。
「……命がいくらあっても足りないか」
咥えていた二本の矢を矢筒の中へ戻し、弓は右肩へ掛けたまま再び上空へ駆け上がる。陽は真上から少々西へ傾いている事から、昼時を過ぎたのだと
江寧は思った。そうして、赤虎の進路を僅かに逸らす。
海岸沿いでは時間が掛かると判断し、現在地から阿岸までの陸地を突っ切ろうとしていた。
しかし、と
江寧は顔を俯かせる。
あの一矢のみで、果たして巨大な妖魔が落ちるだろうか、と―――。
◇ ◆ ◇
各国でよく見かける港の形は地が窪んでいる所なのだと、
江寧は以前に青稟から教えてもらった事柄を思い出す。
上空から確認すると、確かに弧の字を描いた丘陵の下に港が構えられていた。
江寧が見る限りでは舗装された港付近の階段上には誰がいるわけでも無かったので、手綱を握り直して赤虎は降り立っていく。その体躯をしなやかに曲げて、ゆっくりと地に足を着ける。数歩足を進めたところで、
江寧は鐙から足を外して巧の地を初めて踏んだ。……とはいえ、すぐに国を出てしまうのだが。
近場を歩く衛士は港へ降り立つ
江寧へ視線を向ける。一見十六、七に見える少年が赤虎に騎乗していた事を不審に思ったのか、階段を上りきり一人と一頭を引き止めた。
「旌券を検めさせてもらう」
「旌券?ええ、良いですけど―――」
首を捻った
江寧は、首元を探り首に下がる紐を探す。間の経たない内にそれを掴むと、するすると引き上げた。
紐の先には括り付けられた旌券がぶら下がっている。それを首から外すことなく衛士に見せると、男は旌券に刻まれた名を見る。
坂 江寧……どう見ても、こちらの名である。
旌券を不審の眼で眺めていた衛士は、裏を返したところで動きを止めた。……いや、体が固まった。
―――恭国冢宰。
旌券と少年の顔を交互に見やる。衛士の驚きも気にせずに、
江寧は検めが終わる事を待っていた。
表情は凍る中、良い、と短く言葉を掛けて、衛士はその場を離れようとする。だが―――背後から聞こえてきた少年の声で止まらざるを得なくなる。恐る恐る振り向いた男に向かって、その少年は笑みを浮かべた。
「一つお尋ね致しますが、雁国烏号行きの船はどちらでしょうか」
雁行きの船まで案内をさせた衛士は、礼を一つ取ると逃げるように立ち去っていく。その様子に頭を傾げたが、大して気にも留めずに旌券を袍の中へとしまう。そうして
江寧は船乗りに赤虎の事柄を告げると、彼等は即快諾の意を出した。
無事乗船出来た事に安堵しながら、赤虎を厩舎代わりの部屋へと連れて行く。五日に一度しか出ないと聞いた際、
江寧は本当に良かったと胸を撫で下ろしていた。聞けば阿岸からは三泊四日だと言う。だが、一日増えたところで旅は大して変わらない。
「四日間、此処で大人しくしておいて」
低く喉を鳴らす赤虎から鞍を外し、荷を一つの布袋に纏める。最後に轡を外して、その背を撫でた。
脚を折り畳む赤虎から離れると、
江寧は甲板へ登ろうと廊下を通り階段を上がる。
阿岸から浮濠へ掛かる時間は大凡一昼夜。
一旦浮濠で留まり、そこから二泊三日で烏号に着くという。大してするべき事もなく、日頃の疲れを取るには最適だった。
甲板から階段を下った所には、広間のような場所が船客の房として用意されている。大抵は誰もがその場所で三泊四日を過ごす事になるのだが、出航の前でさえ人の嬉々とした会話が集まり喧噪となっていた。
その客房を横切り、
江寧は迷わず船上への階段を目指し歩く。姿を目で追う者も数人いたが、差して気にする事もなく階段へ足を掛けた。
「……潮の匂い」
階段を上りきり、
江寧は思わず呟く。
港に降り立った際は匂いなど気にしなかったというのに。
見える水平は一直線に、名の通り青々とした海だった。風は僅かに波を立て、静かな水音は度々船へ当たり弾ける。港で話す人の声が入り混じっては掻き消えて行く。
……一見は、平穏だった。
出航の太鼓が同じく甲板にて大きく響いたのは、それから暫くの間
江寧が船上から青海を眺めていた後のこと。
突然の音にびくりと肩を跳ね上がらせて、音の元である背後間近を振り返る。そこには、手吊れの太鼓を鳴らす男の姿があった。
同時に船はゆっくりと動き出す。もう出発の時かと思うと、慣らし終えた男が
江寧を振り返る。
「坊ちゃん、船旅は初めてか?」
「え?ええ、はい」
「ま、船の揺れで酔わないようにな」
ひとしきり豪快に笑った男は、太鼓を脇に抱えて階段を下りていく。その姿を見送りながら、
江寧は僅かに苦笑を洩らした。
―――船酔いの事なんて、考えていなかったけど……何とかなるだろう。
昼食を客房にて摂り終えると、赤虎を置いた部屋へ向かった。あんなに煩くては寝られないと、赤虎の隣で眠る事にしたのだ。
そうして向かった部屋の先、数人が騎獣を遠巻きに眺めていた。
「あの……すみません退いてください」
「あ?」
男女数名、子供も好奇心があるのか赤虎を覗き見ている。
江寧は人の間を縫い、赤虎の側へ寄る。
何の恐怖心もなく近寄る
江寧の姿に、近付いても危険はないのだと子供が思い込む。そうして近寄ろうとした少年を、手で制す。……赤虎は既に警戒心をむき出しにしていた。
「他の人には馴れていないんだ。迂闊に近寄らない方が良い」
そう言うなり、
江寧は背を撫でて赤虎を落ち着かせる。少年はどこか落ち込んでいる様子だったが、ひとつ謝った
江寧に少年は数度首を振る。母親と共に廊下を戻る少年を見送って、次に未だ佇んだままの少年を見上げる。
「それで、貴方は何か用ですか?」
「私は……」
だが、用件を口に出すその前に驚きの表情を見せたのは、
江寧の方だった。
「貴方――胎果?」
「え?」
「違うなら良いけど……海客か」
「―――!どうしてそれを……」
次いで驚愕の声を上げたのは少年だった。
胎果という言葉を知らないという事は
江寧にとって予想外だったが、聞こえてきた言語は日本語で間違いはない。仙籍入りという可能性もあったが、雁へ行くのならば海客だろうと判断した。その結果、やはり海客で違いなかったが。
何故と問われて、
江寧はあっさりとその返答を出す。
「私も海客だから」
「な―――」
「本来こちらに産まれるべきだったのに、蝕で流されて日本へ辿り着く。……卵果は適当な母親の腹に宿って産み落とされる」
「何を言って」
「その時胎殻というあちらの殻を被っているから、十二国へ来た時に姿形が全く異なる」
胎果の説明を坦々として話す
江寧に、少年は言葉を失った。同じ海客だと言うのに知識があり、言語も周囲と差し障り無く話す事が出来る。本当に海客なのかと疑心の眼を向けると、
江寧は微笑した。
「知識は学ばないと手に入らないよ」
「そんな事は分かってる―――けど」
―――私はこの世界の救世主。
幾度と無く告げてきた言葉を、何故だか口にする事が出来なかった。
俯き拳を握り締める。その様子に
江寧は首を傾げる。この少年は流されて来た訳ではないのか―――
押し黙る少年に再び声を掛けようとして、突然その姿が横に流れる。それを目で追った
江寧は、走り去ってしまった少年の後姿を呆然と見送っていた。
◇ ◆ ◇
夕刻に赤虎へ寄り掛かり仮眠を取ったが、如何せん室内では夜を迎えたのか朝がやってきたのかも分からない。仕方なく甲板の上へ向かった
江寧は、船の下に小さな明かりを見つけた。
「なに……?」
身体を乗り出す格好のまま下を覗き込む。小さな船であったが、見えたのは甲板で篝火を振る男のみだった。何かの合図だろうかと疑問を抱いて、途端横からその声は聞こえてきた。元を辿り見れば、出航前に太鼓を鳴らしていた男が立っている。
「おい坊ちゃん、そこの梯子を下ろしてくれ」
「え?ええ……」
足元に纏められ、船に取り付けられた梯子を外へと投げ出す。それはがらがらと音を立てて暗がりの海へ消えていった。誰かが乗るのだろうかと闇へ眼を凝らす
江寧の耳に、梯子をゆっくりと登る音が聞こえてくる。ぎしり、ぎしりと軋むような音を立てながら、その内靡く紅の髪を見る。
「悪いが、後の事は頼めるか?」
「梯子を上げれば良いんですよね?」
「ああ。じゃあよろしくな」
小走りで去る男に、船員と見られているのではないかと苦笑を零した。
座り込み、上がってくる紅の髪の人物を待つ。そのまま頭上を見上げると、幾つもの星が燦々と輝きを放っている。こちらにも宇宙があるのだろうかと不意に思う疑問は、恐らく一生解明される事は無いだろう。
やがて登り切った影は甲板へ無事に足を着けた。その姿を見上げて、
江寧は夜の挨拶を添えて笑う。
「こんばんは、ここまでお疲れ様」
「あ、ああ……こんばんは」
……刹那。
その少年――少女だろうか――の言葉に、
江寧は一瞬にしてその表情を凍りつかせた。今日は珍しい事もあるものだと、目前の少年――
江寧の判断だが――と向き合いながらも思う。
「名前は?」
「―――陽子」
「海客か……?」
「ああ……貴方は?」
「私の事は
江寧と」
梯子を引き上げながら名乗ると、脇から手が伸ばされる。陽子もまた梯子の引き上げを手伝う。そうしてするすると上げられた梯子を、今度は元のように巻き始める。手を休める事の無い
江寧の横顔を眺めながら、陽子は口を開いた。
「どうして私を海客だと……」
「私にはそれが故郷の言葉に聞こえるから。いつ頃こっちに?」
故郷の言葉―――その言葉にはたと気がついた陽子は、思わず立ち上がりそうになる。だが、
江寧は苦笑を洩らしながら落ち着いて、と陽子を宥めた。それに大人しく頷き、再び腰を下ろす。
「三ヶ月前に……」
「そうか……高校何年生?」
「二年生―――」
「十六か十七歳か……」
巻き終えて元の位置へ戻すと、軽く手を払う。そうして陽子を振り返った
江寧は、その場に腰を落ち着かせた。
「私は二年前に恭に漂着したんだ。当時は高校一年生で、高校生活は一月ちょっと」
短いよね、と苦笑した
江寧に、陽子は遠慮がちに頷く。
暗闇の中で話す二人を照らすものは、空に燦々として煌く月のみだった。だがまさか同年代の者と話せる日が来ようとは、
江寧とて予想外である。
久方振りに蓬莱の話が出来たことを嬉々として、
江寧は微笑んだ。
「今日は疲れただろうから、ひとまず休む?」
「そうさせてもらう……」
疲労の色が見える陽子を見やって、客房への入り口を指す。その指先を辿ると、微かな明かりが階段より洩れている。あの場所から入るのだと言葉を添えた
江寧に、陽子は一つ頭を下げてから階段を下っていった。
甲板の上、再び一人となった
江寧は再び空を仰ぐ。緩やかな時間を、ゆっくりと噛み締めながら。
◇ ◆ ◇
事件が起こったのは翌日、ちょうど昼時を迎えた頃だった。
陽子が甲板にて半獣の青年を助けたと同時期、
江寧は客房にて弓の調整をしていた。
周囲は絶えない喧噪の中、黙々と弦の張り具合を確かめている。ゆがけ――三つ指の皮手袋――が無い事は物足りなかったが、それでも唯一特技であった弓を手に取る僅かな間は、恐ろしい程の集中力を発揮していた。
先程近場に集っていた客が甲板での出来事を話していたが、陽子ならば大丈夫だろうと作業を続ける手が休まることはない。そうして磨かれていく弓は、既に主の手に馴染んでいた。
江寧の目前には、先日赤虎を見に訪れた少年の姿がある。黙々と作業をする姿を、その少年もまた何一つ話しかける事無く眺めている。……その視線に耐えられなくなって、
江寧は思わず面を上げた。
「見ていて楽しい?」
「うん、だって興味あるからさ」
笑みを浮かべる少年に、
江寧は溜息を吐く。物好きなのかと、向けられる視線を諦めて弓を立てる。
その時、複数の足音が階段から聞こえてきた。
「陽子―――」
紅の髪が階段を下る度に揺れる。その姿を認めて声を掛けようとするが、その背後にもう一人の海客がいる事に気が付いて、思わず言葉を呑み込む。最後に着いてきたのは、猫の姿をした半獣の姿だった。
階段の脇へ行った事から、彼等は話があるのだろうと、敢えて声を掛ける事を止めた。邪魔をしてはいけない、と……。
視線を戻して、
江寧は少年を見やる。
「お母さんは?」
「うん、向こうにいるよ」
指を差したその先には、房の隅にて腰を落ち着かせている女性の姿があった。
「傍に居なくていいの?」
「別に具合が悪い訳じゃないし……なんで?」
「―――いや、何でもない」
昨日の印象とは別として、しっかりした子なのだと内心思う。同じ年頃の時にはしきりに両親の心配をしていた子供とは大違いだと、蓬莱の家族を不意に思い出した。
―――私がいなくなって、元気でやっているだろうか。
何気なく故郷に思いを馳せて、弓を握り締めたまま瞼を伏せる。家族を気遣うような思いを持ったのは、
江寧がこちらへ来てから初めての事だった。
不意に横から気配を感じて振り仰ぐと、陽子が
江寧の元へと歩いてくる。
「怪我は無かった?甲板で起きた事がこっちで少し話題になってたけど」
「ああ、大丈夫だ」
一見して怪我一つない姿を確認して、ほっと溜息を吐く。陽子もまた座り込むと、手に握られている弓へ視線を移す。彼女の眼には、それが高価な物として映っていた。
―――……そういえば、彼女の呼び名と流されてきた年月しか知らない。
はたりと気が付いた陽子は僅かに目を細める。その表情が不安の色を浮かべているようで、
江寧は頭を傾げる。
「陽子、まだ疲れが取れていないんじゃ……」
「そんな事はないよ。ただ―――」
日本での名前を聞いていない。
そう口にしようとした言葉は、突如起きた船の揺れに飲み込まれた。
船客は床に倒れ込み悲鳴を上げる者が多く、陽子は咄嗟に臨戦体勢へと入る。
江寧もまた薙がれずに済んだが、体勢を崩した少年に気が付き抱き止める。……先に動いたのは陽子だった。
「
江寧達は此処にいて!!」
怒号のような叫びを吐き出して、陽子は灰色の布包みを片手に階段を駆け上がる。引き止めようと呼んだが、見向きもせず甲板へ出て行ってしまった。
―――海が荒れているのに、外へ出るなんて死ぬ気だろうか。
「君はお母さんの所に行きなさい」
未だ不安定に揺れ動く船の中、
江寧は少年の肩を軽く叩いて立ち上がる。矢筒の紐を腰に括り着けると、弓を片手に陽子の後を追って駆け出した。無我夢中で行動を起こしていた。
「何で上なんかに……!!」
階段を勢い良く駆け上がったその先、甲板は正に雨嵐。
雨足は酷く、潮風は吹き叩き付け、人を薙ごうと躍起になっている。そして甲板の端、船の最後部に紅と藍鉄は―――愚かにも剣を交えていた。
「馬鹿、滑るぞ!!」
江寧の叫び声は潮風に流され掻き消される。ただ、ぶつかり合う金属音だけは風音を凌いで錚々と聞こえてくるばかり。雨の降る甲板は滑りやすい筈だというのに、二人はそれを厭わぬように離れては幾度も火花を散らす。
しかし何故、と
江寧の内心に疑心が渦巻く。海客同士の争い。それが、何故何故愚かな事だと分からないのだろう―――陽子も、あの少年も。
……その疑問に対する答えは、数度交わした刃の後に言葉となって現れた。
人技とは思えない程に跳躍し、帆の先端へ登った少年は剣の先を陽子へと差し向ける。それはまるで、見下しているかのように。
「ここは私の国よ!」
その言葉に、
江寧は耳を疑った。
―――違う。
ここは、海客がいるべき世界ではないのに。
例え胎果だとしても、この世界は優しく迎えてなどくれない。何かに甘えきってしまえば、この十二国では生きて行けないのだ。それを、果たしてあの少年はわかっているだろうか。
顔を酷く歪める
江寧を余所に、二人の交戦は更に勢いを増す。宙から降り立った双方は息一つ乱す事のないまま対峙した。
互いに睨み合う状態で、杉本と呼ばれていた少年は口を開く。
「帰ったって、もう元のようには居られないわよ」
「一度は帰りたくないと思った。でも違う―――私は怠惰だった。卑怯だった……ただ楽をしたくて皆と対立しなかっただけ。でも―――!」
交わった剣を弾いて、再び僅かな距離を取る。剣を両手で握り締める陽子の顔は悲願に満ちていた。
その叫ぶ言葉に、
江寧はぴたりと動きを止める。
「もう一度帰れれば……帰ったら、前とは違った生き方が出来る!努力するチャンスが与えられれば、もう一度やり直してみたいのよ……!!」
ズキリと軋む胸の底。目を見開いて、
江寧の足は完全に動かなくなってしまった。
陽子の言葉―――それは、己の内心ではなかったか。
思わずその名を叫ぼうとした刹那―――多くの足音は、背後にまで迫り来る。
呆気なく身体を押し退けられた
江寧は、船客を引き留める事が出来なかった。
◇ ◆ ◇
「妖魔だーっ!!」
船客の叫び声を火種に、不安と恐怖は次々と感染していく。
江寧もまた上空を仰ぐと、そこには妖鳥が異常な程の群れを成して船を取り囲んでいる。短剣にも似た尾を突き出し、今にも襲い掛からんとしていた。
(数が多い―――)
矢筒の蓋を開け、その弓に三本の矢を番える。狙いを定めるその前に、妖魔は群れのまま急降下を始め船客を狙う。
その様に舌打ちをすると、客の一人を狙い迫る妖鳥の背に迷いなく一矢を放った。
ぼとりとその場に落ちた妖魔の姿に、誰もが釘付けとなる。その場を動けなくなる者も多々あったが、
江寧は声を振り絞り叫ぶ。
「動ける者は中へ逃げろ!!」
一本を弓に携える
江寧を人々は振り返り、慌てて逃げ込もうと走り出す者が数人。その他は体勢を低くしながらも階段の元へ行く者達がいる。中には未だ恐怖でその場に留まる者も少数ながら見受けられた。
最中に妖魔は人を狙い続ける。その度に射落とすが、上空に留まった妖鳥の数と矢の数を比べれば半分も落とせない事は明らかだった。故に最低限の獣を射ち落とす。
船客を、守る為に。
「引け、妖魔たち!これは私の獲物だ!」
不意に視線が声の元へと移される。特攻していく妖鳥の群れの中で、陽子と杉本ががむしゃらに剣を振るっていた。
妖魔の中には利巧な者がいる。……だが、群がった獣がそうだとは決して言えはしない。鶏大の大きさの鳥に、人語が通じるとは思えない。
江寧の脳裏はそう冷静に判断を下していく。
だが―――その後にああと納得する。
「賓満!居るんでしょ……こいつらを下がらせて……!!」
自らの胸に手を当て、蹲るようにして叫ぶ杉本の言葉に
江寧の眼が細められる。客へ襲い掛かった鳥を射ながらも賓満という名に反応した。
それならば、言葉も通じるはずだと。
妖魔にぶつかり腰を床に落とした杉本の視線は、遥か頭上へ。陽子や
江寧もまたつられて頭を上へ向けた。
「……さっきよりも増えてる」
陽暮れの曇天に、黒々とした点がどこまでも続く。その膨大な数に、最早誰の手にも負える事は出来ないと
江寧が俯きかけた。
―――その時。
得体の知れないものが青海を彷徨う。
時折海上へ覗かせる鱗を偶然にも捉えて、
江寧は鳥肌を逆立てる。嫌悪を含む直感は、すぐにその真実を曝し出した。
―――青い雷鳴が空を裂く。
海上から天へ向けて駆け抜ける幾つもの稲妻が、妖鳥の体躯を幾度も貫く。それが次々と海上へ落ちていく様に、場に居合わせた誰もが唖然として空を見る。一体何が起きたのか―――その元凶は、船の真横から海面を貫き空へと登る。
本来帆柱のある高さよりそれは大きく長く、竜神とも呼べそうな妖魔は、体躯に雷鳴と同じく青い雷を纏う。首を擡げて船を見下ろすその姿に、
江寧の血の気が引いた。
あの雷に撃たれて死ぬのだろうか、と。
次の瞬間―――その巨大な体躯が、青く光り迸る。
上空に残っていた妖魔は、八方に弾ける紺碧の刃によって次々と撃たれ落ちていく。……それは妖魔のみ。人への危害が皆無なことに、陽子と
江寧は目を合わせた。
巨大な妖魔は全てを八つ裂きにし、空を見回したところで黒の点は一つも見当たる事はない。船にも被害が来るだろうかと、皆の心配を余所に妖魔は竜の如く空へと駆け登っていく。その姿が雲に消えるまで、視線は空へと釘付けられていた。
いつの間にか曇天は消え、晴れ間までが覗いている。夕刻の陽が落ちるその前に、
江寧や女性達は怪我人の手当てにあたっていた。……中には数人、毒針に貫かれ亡くなってしまった者もあった。
初めて人の最期を看取る
江寧は、暫くの間立ち直る事が出来ない。手当てはしているものの、酷く虚ろな眼がその衝撃を物語っている。
―――この人達に、罪はなかったはずだ。
手当てを終えて、
江寧は部屋の隅に蹲り面を伏せる。
その様子を心配したのか、陽子は何も口にしないまま隣に寄り添っていた。……陽子の優しさは余計に沁みて痛い。
―――もっと、人を守る力があったら。
震える掌に力を篭めて、
江寧は悲痛の叫びをそっと胸内にしまい込んでいた。