漆章
1.
利紹と
りつは行き交う人の波間を縫いながら里家へ続く道程を辿る。常に混む広途を抜けて、横に並び歩けるほどに人波が減ったのを合図に、
りつは紫秦の最期を少しずつ語り出した。利紹の想像よりも厳しい、その成り行きを。
――馬車の後方から妖魔が迫っていたが、相対するには如何せん足場が悪かった。そのため応援を馬車内で探したが、乗客は皆剣を扱えるような者達ではなく、最終的に紫秦がりつに剣を借し、二人で窮奇に立ち向かったという。
結果、紫秦は腹部を裂かれ命を落とした…と。
裂かれた箇所が腕や足ならばどれだけ良かっただろう。そう、利紹は彼女の不運を心中で嘆く。だが反面、紫秦が貫いた姿勢に対する誇らしさを感じていた。
「最期まで、任務を全うされたのですね」
海客を処遇先まで送り届ける。その果てに命を落としてしまったが、完遂には違いない。
そう口にした利紹の寂しげな笑みが
りつの胸を抉った。罪悪感に駆られて思わず口許を歪めたが、彼に見られまいと顔を俯かせる。
とある違和感を思い出したのは、その時だった。
(そういえば、紫秦さん…最後に話した時は敬語じゃなかった…)
ごく一部を除き誰に対しても敬語であった紫秦の、貴重な言葉遣い。余程切羽詰まっていたせいなのか。…いや、往路で似たような状況に陥ったが、あの時は敬語だったはずだ。
何故だろう、と首を傾げて考えてみる。しかし疑問は色濃くなるばかりで、答えを見出すことはできなかった。
「着きましたよ」
間近に聞こえた利紹の声で
りつははっと我に返った。
弾かれたように顔を上げて周囲を見回すと、人通りの少ない小途をいつの間にか抜けていた。広途へ出た先には漆喰に似た壁が民居三軒分ほど続いており、中ほどには小さな門闕が設けられている。しっかりと閉ざされた扉を押し開いた利紹が先に中へ足を踏み入れてから、
りつを手招く。誘われるまま門闕を潜った先では白髪の老女が利紹と話を始めていた。
二人の会話に一応聞き耳を立ててみるが、利紹が此方の住民と話す際には言葉が翻訳されない。そのため、いくら聞き取ろうとする意欲や努力があっても無駄だった。
里家の中をゆっくりと見渡しながら暫く待ち、やがて二人の会話が終わったことに気が付いた。近付いてくる人影のほうを向くと、目の前で足を止めた利紹がゆっくりと拱手の礼を取る。
「では、自分はこれで失礼します。後はこちらの閭胥の指示に従ってください」
「ありがとう御座いました、利紹さん」
いえ、と短い返答を告げた利紹は目元を和らげると、すぐに身を翻して門闕に向かっていく。
―― 一人になる。
遠ざかる後姿をじっと見詰めていた
りつの胸が途端心許なさに襲われて、締め付けられる。それでも一人で生きていかねばならない。唯一の理解者は自分のせいで失ってしまったのだから。
堪えるように袷を握り締め、口を引き結ぶ。門闕の向こうに消えていく利紹の姿を見送って、
りつは胸にひとつ誓った。
たとえ何があっても、一人で生きていくのだと。
◆ ◇ ◆
閭胥に迎え入れられた
りつは翌日から里家での生活を始めた。文化の違いに四苦八苦しながらも生活に必要な作業を覚え、言葉の勉強は挨拶や物の名前を書き取るところから始まった。里家で暮らす子供達が時折からかうような仕草を見せたが、構わず勉強に励む。
取り組む姿勢は中学や高校のときよりもずっと熱心かもしれない。そう、
りつは時折自嘲を洩らしつつ、やっと見慣れ始めた里家の
院子を掃く。里家の中で働き、勉強詰めの日々に没頭すれば一月が経つのはあっという間だった。
ゆっくりと話す閭胥の単語が聞き取れるようになり、里家の子供達とも身振り手振りを交えて何とか会話ができるようになった。そんな日の、午過ぎ頃だ。
突然院子から名を呼ぶ声があったのは。
「
りつはいるか」
「
りつなら私………え?」
つい答えてしまったが、今の言葉は間違いなく日本語だった。しかし漣には
りつを知る海客はいない。―――ならば、仙か。
箒を柱に立て掛けると急ぎ足で院子を出ようとする。その行き先を、突然眼前に現れた人影が立ち塞いだ。
咄嗟に蹈鞴を踏んで立ち止まった
りつは思わず仰ぎ見る。纏う上質な袍。綺麗に纏め上げられた紫黒の髪に、黒瑪瑙のような双眼。引き締まった顔が今は穏やかさを湛えて、柔らかな表情を浮かべている。
「一月ぶりだが、健在のようで何よりだ」
「康由さん…?」
突然の訪問客に疑問を浮かべた
りつはしかし、ふいに一月前に見た康由の悲痛な顔を思い出すと気拙い思いが胸に去来する。…やはり、彼女の死について叱責しに来たのだろうか。
考えながら康由を見上げていた
りつだったが、ふいに院子の外れから男の声を聞き拾って首を傾げる。駆けて来る足音がして、真横に一歩ずれると康由の後方を見た。
院子の入口に姿を現した男の袍もまた上質な物だった。軽装からでも窺える屈強な体付きに、仏頂面が気難しげな印象を与える。赤銅の髪を揺らして立ち止まった男の、康由と対面する人物へ移した双眸が途端に鋭くなった。
男を目にした
りつは小さく声を上げた。彼が一月前、利紹と共に紫秦の遺体を運んだ事を鮮明に覚えていたのだ。
「檸典、里家の前で待っていろ」
「しかし、流石にお一人で残すには…」
「心配無い。行け」
康由が鋭い口調で下した命令に、康由と
りつを交互に見比べた檸典は腑に落ちないといわんばかりの表情を浮かべたが、すぐに踵を返して院子から離れていく。
部下が出て行く様子を見送った康由は暫くの間無言であったが、ほどなくして
りつの元へと向き直った。
「様子は今しがた閭胥から聞いたが、どうやら元気でやっているようで安心した」
「…はい」
「勉強の方は進んでいるか?」
「ええ、時間を費やせる限り机に向かってはいます」
「そうか。ならば良かった」
康由は安心したように口端を持ち上げたが、それも一瞬。軽く瞼を伏せた後、彼の安堵は瞬く間に削ぎ落ちていく。真剣な眼差しで見下ろす、その豹変ぶりを前にした
りつは困惑の表情を浮かべた。
「今日は君に…いや、貴殿に聞かなければならない事があって来たのだが…まずは座ってくれ」
りつは指し示されるまま軒から離れた場所にある井戸の蓋の上へゆっくりと腰掛ける。自然と康由を反り返るようにして見上げる形になると、今度は徐に片膝を屈した男の手が自身の腰元へと伸びた。佩刀していた長嚢の口を開いて中身を取り出すと、現れる一振りの剣。
艶の無い黒鳶の鞘と、赤銅の柄。
「これを覚えているか」
りつはすぐに頭を横へ振ろうとした。一月前の記憶が鮮明に甦らなければ、違うと言い切れただろう。…だが、これだけは嘘を吐けない。今手中にある物が無ければ、今此処に自分の命は無かったのだから。
「これ…紫秦さんが貸してくれた剣…」
「ああ、やはり覚えているな」
りつの呟きをしっかりと聞き取った康由が洩らした低声には、安堵とも憂いとも取れる声音が篭もっていた。
だが、何故一月経った今頃になって紫秦の物を持ってきたのだろう。それも、たった一度借りただけの剣を見せて。
「
明秦」
「え…?」
ぴくり、と指が跳ねる。
聞き間違いではないかと耳を疑った。眼前の男がその字を知る筈が無いからだ。
りつが瞬くと、康由は剣の鞘を自身の脇に挟み、柄を
りつの顔の前に差し出した。
鮮やかな赤銅色の柄。柄の端には珠が付いていて、これを柄頭という。手から滑り落ちるのを防止する為のものだった。
その柄頭に目を向けた
りつは、思わぬものを見付けた途端に呆然とする。掌に何度も描いてもらった言葉の形は、未だ忘れていない。
「知っているのか」
「え、ええ…帰りの馬車の中で、字を考えてもらっていたんですが…
明秦はどうかと紫秦さんに言われて」
「これは君の為に紫秦が作らせたものだ」
「え…」
初めて聞いた事実に
りつの瞳が揺らぐ。あの時は切羽詰っていて、手元を確認する余裕が無かった。大体、字を考案したのは帰りの馬車内――紫秦が亡くなる三日前の話だ。その間に買い物だと言って彼女が一人出た事はあったが、その時に見繕ったのだろうか。短い間柄、それもたった数日で終わる旅だというのに。
動揺を隠せない
りつの手の甲を、康由が優しい手付きでひっくり返した。天を向かせた掌にそっと乗せられる、ずしりとした重み。赤銅色のそれを受け止めた
りつは驚いて康由を見上げた。男の手は既に離れ、再び
りつの前に佇む。
「だから私の側に置いてはおけない。持っていなさい」
――そして、決して手放すな。
彼の双眸が訴える言葉の続き。真摯な願いが、
りつの胸に突き刺さる。そっと握り締めた掌から伝わる金属の冷たい感覚が、ふいにあの日の別れを思い出させた。
後悔してもあの日は戻らない。それを今一度胸に刻めば、胸に熱いものが込み上げてくる。
眦が熱い。肩が震える。だがそれでも、彼に伝えなければならないものがある。そう、意を決した
りつは剣を胸に強く抱いて、ゆっくりと顔を上げた。
「康由、さん…私、紫秦さんと約束したんです」
「約束?」
「はい……生きていく事に、決して挫折しないと」
噛み締めるように告げた
りつの言葉を耳にした康由は眉を顰めた。彼女の言葉から読み取ったのは約束ではなく覚悟だ。己の故郷に背を向ける覚悟。異なる理の世界で生きる決意。それは、生半可な気持ちで下せる決断ではない。
「私がここで立ち止まったら、紫秦さんの死は無意味になってしまう。命懸けで守ってくれたのに、その命を守られた者が踏み躙る事になるんです」
「…ああ」
「だから私は一生懸命生きていく。もう、振り返らない」
徐に腰を上げた
りつの真摯な眼差しを、誰が折る事ができようか。
康由を見上げる青鈍の瞳に迷いは微塵も無い。しっかりと胸に抱いた剣を握り締めて真っ向から注視する様は、まるで獰猛な獣へ果敢に挑む兵のよう。
そのとき、康由はふと思い出した。
それはまだ、紫秦が州師左軍に配属されたばかりの頃。鍛錬の折に、初めて彼女と真っ向から対峙したあの時の雰囲気。それが、今の彼女と不意に重なる。
それで、彼は内心いたく安堵した。
「…そうでなければ困る」
「はい」
言葉少なに、毅然とした少女に背を向けた康由はゆっくりと歩き出す。もう、気を掛ける必要は無い。紫秦を慕っていた部下は文句を言うだろう。だが、文句は聞いても彼女の決意に水を注すような真似は決してさせない。それが
りつの成長の為、ひいては亡き部下の願いなのだから。
砂利を踏む音が響く。距離が開いても佇み続ける
りつの気配を感じながら足を進める康由は、しかし。
刹那、後方で身動ぎする気配を感じた。
「里家まで足を運んで下さって、本当にありがとうございました」
一旦足を止めはしたが、答えは無い。予想が違っていなければ後方で頭を深々と下げている彼女の姿があるのだろう。だが、彼女の決意が数年先も果たされている事を信じる事にした康由は、里家を出るまでの間、振り返る事は一度も無かった。
2.
南西に位置する四極国の一つ、漣極国には冬期という概念が薄い。一年を通して気候が温暖なため、冬季に薄着のまま夜を過ごしても凍死する心配は無い。…尤も、それは重嶺近郊の話である。
東に位置する蕭維は虚海が近く、流れ込む潮風によって大気が冷える。すると朝には肌寒さで目が覚めた。
りつも例外ではなく、目を覚ましたときには質素な臥牀の上で自分の腕を抱え込み蹲っていた。冷気に中てられた意識は眠気など微塵も残さず、目が冴えて仕方がないため、臥牀をのそりと抜け出した。
起床した
りつの朝は里祠の掃除と参拝から始まる。
里祠の落葉を掃き、廟内の埃を払い落とす。それが終わった頃に開門の太鼓が聞こえるので、扉を開放する。里祠の外で袍子に着いた埃を払い、手を洗ってから、改めて礼拝する。
それが終わると今度は里家に戻り、閭胥や里家の子供達に挨拶をして、里家内の掃除を粗方行う。朝食にありつくのはそれらを終えた後だった。
「
明秦、掃除終わった?ご飯食べようよ」
「うん。今行く」
駆け寄って来た少年は
りつの袍子の裾をぐいぐいと引っ張る。その様子を宥めながら掃除の道具を片付けて、もう一度手をよく洗ってから、朝食が用意されている飯堂の席に着く。ここからは普段と変わらない光景だった。
子供達と食事を取る中、彼らと
りつが交わす言葉は日本語ではなかった。三年間で必死に習得した賜で、言語同様、生活や普段の立ち振る舞いも里家に住む者達と殆ど変わりが無い。
そう……康由と別れたあの日から、三年が経とうとしていた。
閭胥や里家の子供達と共に賑やかな食事を終えた
りつは、使い終わった食器を重ねていく。外へ元気良く飛び出す子供がいれば、
りつを手伝うために重ねた食器を水甕の隣にある桶まで運び入れる子供もいる。その姿をぼんやりと眺めつつ重ねた食器を両手に持った
りつだったが、院子に向かった子供の一人が駆け足で戻ってきた様子をふと目に入れた。
そのまま自分の方へ駆け寄ってくる小さな姿を見下ろすと、慌てた少年が強調するように外を何度も指差す。
「
明秦、お客さんだよ!外で待ってる!」
「客?」
りつは目を丸くする。この三年の間に客人が訪れた事は一度も無い。まだ榻に腰を落ち着かせたままの閭胥を振り返ったが、彼女にも思い当たる人物が居ないため首を傾げるばかりだった。
困惑しながらも子供達に食器洗いを頼んだ
りつは起居の外へ出て行く。軒下から出た瞬間、強い陽射しを受けて思わず顔を顰めたが、真っ白になった視界は徐々に慣れていく。
門闕の前に佇んでいたのは、青年。彼は
りつを目にすると、途端に顔を綻ばせた。
「え…」
「お久しぶりです。三年ぶりでしょうか」
「利紹さん……?」
はい、と顔を綻ばせた利紹の姿に、
りつは思わずぽかんとした。もう会う機会など無いと思っていただけに、三年ぶりの再会に喜ぶ反面困惑を抱く。
そんな
りつの心持ちを余所に、利紹は和らげた表情のまま僅かに首を傾けた。
「勉強の方はどうですか?」
「大分進んでいますよ。里家の人達とも普通に会話ができるようになりましたし」
「それは随分と頑張りましたね。…以前に閭胥から話を聞きましたが、馴染んでいるようで安心しました」
「え」
胸を撫で下ろした利紹の答えを聞くと、
りつは思わず声を上げた。閭胥から話を聞いた、とはつまり、以前にも里家を訪れていた事になる。
「…里家に用事があったんですか…?」
こうして再会したのは彼が里家に用事があった、そのついでに違いない。それ以外の訪問理由が浮かばない。
眉尻を下げて問う
りつであったが、途端に利紹が失笑する姿を目にして瞬いた。
「いいえ。久々の休暇なのですが、貴方の様子を見て来いと将軍が仰ったので」
「ああ…頼まれたんですか」
「それまでは“会うな”“覗きも許さん”の一点張りだったので、やっと許可が出たといった感じでしょうか」
本当はもう少し早く様子を見に来たかったのですが、と。
苦笑を浮かべた利紹が零した言葉。部下に発していたであろう康由の注意を聞いた
りつは、ああ、と納得した。
りつが紫秦と交わした約束を、康由はしっかりと覚えていた。だからこそ部下に接見を禁じていたのだ。お陰で誰に縋ることも無く成長できたのだから、感謝をしなければ。
そう思い、緩みかけた表情を引き締めた
りつはふと、首に当たる陽射しの暑さを感じて頭上を振り仰いだ。
朝こそ肌寒いが、日の出を迎えると気温が急激に上がる。このまま立ち話を続ければ汗も掻くだろう。いや、そもそも客人を立たせたままにするのは如何なものか。
「立ち話も何ですから、中へどうぞ」
「では、お言葉に甘えまして」
りつが里家内へ手を差し向けると、利紹は軽く頷いて歩き出した。そのまま二人で里家の中…ではなく裏にある院子のほうへ進み、陽射しを遮る軒下で足を止める。軒下沿いには古びた榻が壁に寄せられていて、利紹はそこにゆっくりと腰を下ろした。
りつは一旦飯堂へ引き返すと、閭胥に院子で話す旨を伝えながら朝沸かしたばかりの茶を湯呑みに注いで院子へと向かった。
まだ湯気の立つそれを零さないよう両手で慎重に運んでいくと、榻に腰掛ける利紹が背後の壁を漠然と眺めていた。
「お茶、どうぞ」
「え?ああ、ありがとうございます」
りつの声ではっと我に返った利紹は、目の前に差し出された湯呑みを丁寧に受け取った。湯呑みを持つ両手を膝上に乗せる姿を見下ろした
りつは首を傾げ、次いで今しがた利紹が見上げていた壁に目を向ける。他の壁と変わりは無い。ただ、少しばかりくすみがあるだけで。
「…壁が、どうかしました?」
「近頃妖魔が里に出るような事は」
「ありません。三年も経って出たって噂を聞く方が不穏だと思いますけど」
「それもそうですね」
伸びた汚れを拭き取り損ねたようなくすみ。それを青年が目に留めた理由を察した
りつは僅かに表情を曇らせる。同時に凄惨な記憶が脳裏を過ぎった。
「これは三年前のものなんです。私が来て三ヶ月も経たない頃だったか……、妖魔が迷い込んで、里家の者を食い散らかしたんです」
「そう、でしたか…ですが、妖魔は」
「斬り捨てました」
え、と驚いて見上げた利紹を、
りつは真剣な顔で見返す。
「剣を持っていたのは私だけでしたし、他に剣を扱える人が居なかったので」
「しかし…怪我は?」
「勿論しましたよ。腕と足とおでこと…傷は残りましたけど、生きてるだけで儲けものです」
肩や脛も傷跡が残っていて、三年で傷だらけの体になってしまったのだけれど。
そう言って、
りつは苦笑いを浮かべると、前髪を掻き上げて額を晒した。
蟀谷から真ん中の生際に向かって太く走る傷跡。当時は深かったであろうそれを笑いながら見せる姿は、昔の気弱な印象を払拭させるには十分だった。
「随分、逞しくなりましたね」
「そうですか…?そりゃあ、三年前よりはずっとまし――」
言い止した
りつは、不意に脳裏を過ぎった記憶に目を伏せる。苦いものを味わうように唇を歪め、手隙になった両の手で拳を作った。
「……ましだとは思いますけど、どうしてもっと早くましになれなかったんだと時々思うんです」
「…鄭師帥の事ですか」
「はい…」
りつが垣間見せたのは、絶望ではなく後悔。三年前の悔いのお陰で今は迷わずに生きていこうと思える。だからこそ時々振り返っては後悔を強めてしまう。今顧みたところで、もう戻りはしないのだけれど。
「昔は優柔不断だったんですよ、私。大した目標も無くて、毎日両親の喧嘩を止めようと必死で…自分の将来なんて、少しも見ていなかった。多分、現状を見て諦めてたんでしょうね」
淡々と吐露しながら、院子に満ちた陽光に目を細める。
人は諦めると前を向けなくなる。明るい未来など遥か遠い先、描ける筈も無い。そんな落ち込んだ状態のまま、
りつはこちらに迷い込んでしまった。
「こちらへ流れてきて、康由さんと紫秦さんに助けてもらって…また一から始める人生に途方に暮れている中で、それでも紫秦さんは諦めずに接してくれた」
彼女の支えが無ければ、今の自分は存在しなかった。そう明かす
りつを見詰める利紹は静かに首肯する。面倒を見ると決めた以上は決して諦めず、時には喝を入れる事も厭わなかった。あれほど真っ直ぐに人と向き合う者を、利紹は紫秦の他に知らない。だからこそ慕う者も、悔やむ者も多かった。利紹もその一人だ。
りつの思いは痛いほど理解できる。
「あのとき助けられなかったのは私のせいだと、今ならはっきりと言える」
「
りつさんのせいではありません。状況からして、運が悪かったとしか言い様が無い。部下である私達は最終的にそう判断しました。だから、」
「ええ、運は悪かったかもしれない。…だけど、私はそれだけじゃ納得がいかない。……いや、自分が許せない」
理不尽な状況が生んだ、最悪の結果。それは元を糺せば
りつの護衛を買ってしまったがゆえの災難で、自分の為に他人を犠牲にしたという負い目が
りつの心底に在り続けていた。
…そして、これ以上の犠牲を出さない為にどうするべきかをずっと考えてきた。その末に新たな決意を固めた
りつは、無意識に作っていた拳を解いて、深呼吸を一度。
「利紹さん。お願いがあります」
「なんでしょう」
「今、剣術を教えてくれる方を探しているんです」
「剣術…
りつさんが?」
「はい。利紹さんのお知り合いで、どなたか師となって下さる方はいませんか?」
意外な吐露に瞠目した利紹は思わず
りつの顔をまじまじと凝視したが、彼女の硬く真剣な表情は変わらない。真っ直ぐに見詰めてくる双眸に揺らぎが無いのは、決意が固い証拠だ。
互いに注視すること数秒。そうして、先に逸らしたのは利紹だった。
「残念ながら、いませんね」
「そう、ですか……」
「私以外には、おそらく居ないでしょう」
落ち込みは刹那の間。思わず間の抜けた声を洩らした
りつは俯きかけた顔を再度持ち上げると、何度も瞬いた。聞き間違いではないだろうかと自分の耳を疑いながら。
だが、彼はもう一度、今度は聞き間違いかと疑われないようはっきりと告げる。
「本気で覚える覚悟があるのなら、私が責任を持って師を引き受けます」
「え……」
「ただし最低一年、長くても一年半です。その間に、あなたは次の住居を探さなければいけないでしょうから」
りつが里家で面倒を看てもらえるのは二十歳まで、以降は里家を出て新たな住居を探さなければならない。その為には労働先も探す必要があり、仕事と剣術の稽古の両立は並の体力が無ければ務まらないのだ。
「ただし、相応の覚悟を持って下さい。そうでなければ面倒を見切れない」
利紹はここで初めて厳格な態度を
りつに見せた。鋭い視線に射られて一瞬肩が竦んだが、
りつは勿論此処で引き下がるつもりなど毛頭無い。口を引き結んで頷き、もう一度拳に力を篭める。
「分かりました。……一年、ですね」
「短いですか?」
「いえ」
りつはゆるりとかぶりを振る。短くはない。むしろ
りつが思っていたよりもずっと長い期間だった。
一旦姿勢を正して、頭を深く下げる。…新たな決意を胸に抱きながら。
「一年間、ご指導のほどよろしくお願い致します」
3.
国都と州の中心には凌雲山と呼ばれる山が存在する。それは実状天を穿つほどの長大な柱であったが、麓に住む者達の殆どはそれを山とも柱とも捉えていなかった。山の内側を掘り誂られた府第と山頂付近に構えられた城が山の全容なのである。
州都蕭維の北、十二ある門のうち子門に位置する場所に、凌雲山は悠然と聳え立っていた。
麓は山によって陽が遮断されるせいか、日出から日没までの時間が近隣周辺の郡や郷と比べて圧倒的に短い。それでも午前には陽光が麓にまで届き、蕭維の街を等しく照らす。快晴のお陰か、温暖に吹く風は普段よりも爽やかだった。
「―――できた」
陽の下、木箱に腰を据えながら片腕で額の汗を拭う。達成を一人呟きながらもう片腕に抱く棒を壁に立て掛ける
りつは、休む間も無く次の棒を手に取るなり固く絞った布で汚れた箇所を拭いていった。
りつが今居るのは、蕭維の州師兵が頻繁に赴く鍛錬場の片隅だった。鍛錬用として木製の棒槍が木箱へ乱雑に突っ込まれ、中には破損しているものもある。それらを判別し、綺麗に拭き上げるのが今や
りつの日課となっていた。
「おい、またあいつやってるぞ」
「熱心な奴だな。…海客なのに」
鍛錬に赴いた兵の大半はそう、当人の耳に入り兼ねない声量で小言を囁く。そこに若干の蔑みが含まれていることを、通りがかった男は確かに聞き取っていた。
「弟子を取ったそうだな」
「はい?」
夏官府の一郭に設けられた房室の内、訪れた部下と目を合わせるや否や問うた康由に対し、目を丸くした利紹は首を傾げる。前置きの無い話に一瞬理解が遅れたが、それを察した康由が机上で手を組み直した。
「今しがた檸典から聞いた。鍛錬場で見世物になっているようだが」
「ああ、
明秦ですか」
ようやく理解した利紹の顔色が途端に明るくなる。師弟関係となって早一月、彼女が鍛錬場を出入りする許可は既に得ているため、上官も存知していると思い込んでいたのだが。
思いの外遅かった事実確認に対し、利紹はあっさりと頷く。見世物という意見は敢えて否定しないままで。
「紫秦の遺志を引き継ぐ気か」
「そんなつもりはありません。…ただ、あの子は三年掛かって今と向き合っている。健気ですよ」
「……」
「ですが、彼女を弟子にしたのは試したんです」
「試す?」
「ええ。本当に後悔と覚悟があるのなら、陰口なんてものは些細な事でしょうから。体力作りがてら、ああして掃除をしてもらっているんです」
あくまでも冷静な表情で話す利紹の様子を、康由は怪訝そうな眼差しで見上げた。
「それで、いつまで面倒を見るつもりだ」
「一年です」
「一年…?たった一年で伸びる思うか」
「伸びます」
康由の猜疑が自信に満ちた断言に打ち消される。部下のあっけらかんとした態度と確証の無い確信は彼の疑りを一層深くさせたが、それでも利紹は自身の発言を撤回する気など更々無かった。
脳裏を過ぎるのはおよそ一月前の光景。里家で再会した彼女の双眼にはっきりと表れた、意志と覚悟の色。
「いくら腕の良い人間が一人近くにいたとはいえ、剣の腕に全く覚えの無い人間が、妖魔に勝っています。それが一度ならまだしも、聞く限りでは三度。そして驚いたことに、三年前、主上への謁見を果たしている。相当な強運の持ち主でしょう」
「それと剣の腕が伸びる事とは無関係だろう」
「いえ?鄭師帥が剣を与えたのは、その強運ゆえだと私は思っていますよ」
「……」
強運の持ち主が周囲に与える影響はけっして良い事ばかりではない。むしろ悪影響を及ぼす方が多いだろう。自分の意思に拘らず周囲を巻き込み、最悪紫秦のように落命させる可能性も無いとは限らない。だが、徒に民を巻き込む事を彼女は決して望んでいない筈だ。
――せめて彼女に周囲を守れるほどの実力があれば。
落ちた沈黙の中、利紹の意見を元に思考を巡らせた康由は部下に据えた双眸を僅かに細める。毅然とした姿がふいに嘗ての同僚と重なって見えた気がした。
「……近頃紫秦に似てきたな」
「無自覚ですが、周囲によく言われるので多分、そうなのでしょうね」
眉間を押さえた康由の重い溜息が利紹の笑みを朗らかなものへと変える。重い空気と緊張が取り払われ、普段の雰囲気に戻ったところで、利紹は忘れかけていた本題をようやく挙げるのだった。
◆ ◇ ◆
りつの基礎体力がつくまでに二月。剣術の指南を受け始めたのは三月目に突入して間もないころだった。
利紹は時間があれば
りつを呼び鍛錬場で指南したが、当初は兵の誰もが鼻で嗤うほど剣の扱いは粗末なものだった。これで妖魔を倒せたのか疑わしいほどだと、師である利紹もまた呆れていた様子を、周囲にいた兵は確かに覚えている。
だからこそ、半年――正確には指南を受け始めて四月が経過した
りつの姿に、誰もが口を出せなかった。
木製の得物が衝突する度に硬い高音が響く。荒い息は一人分だが、息吐く間も無いほど衝突音は続く。
「脇を締めろ!」
「はい!」
返事の直後に息を吸い込むと、肺が焼け付くような感覚が
りつを襲う。噎せかけながらも手中の剣の柄を握り直し、眼前に迫る突きを間一髪で打ち払い、隙かさず相手の懐を狙って踏み込んだ。
脇腹を狙い振るった彼女の一撃を、読んだ利紹が防ぎ、剣を引く間も与えず反撃の一手を繰り出せば、少女の脇腹に本日三度目の打撃を叩き込む。
「痛っ!!」
「そこで大振りになるなと言った筈だ!」
「っ――、はい!」
痛みに耐え切れなかった
りつが剣を突き立てて片膝を着く。それでも檄は飛び、歯を食い縛りながら立ち上がると、息を整える間も無く再び剣を正眼に構えた。
「もう一度、お願いします…!!」
ここで弱音を上げては指南が終わってしまう。
それは利紹と交わした約束の一つだ。指南中は絶対に弱音を洩らしてはならず、破った場合はそこで指南を打ち切るのだと。
元より覚悟の上で挑む
りつは弱音を吐く気など無かった。
心が折れかけたときには必ず数年前の記憶が脳裏を過ぎる。彼女の死を思い出す度に、彼女は自身に喝を入れた。だからこそ全身を殴打されても、襤褸になっても立ち上がれる。全ては、同じ悲劇を繰り返さない為に。
何度打ちのめされても決して折れる事は無い。その気迫から、誰もが囁くのだ。
鄭元師帥の見立ては決して間違っていなかったのだと。
「ただいま」
「ああ、おかえ……どうしたんだい、その傷」
夕暮れも間近、里家へ戻った
りつを迎えた閭胥は、彼女の姿を認めるなり穏やかな笑顔を曇らせた。ここ半年の間、鍛錬場に入り浸っているという話は当人と噂から聞いていたが、帰ってくる度に新しい怪我を作る少女を心配せずにはおれなかった。
しかし彼女は平然としていて、既に把握している二の腕の傷を指差しながら笑う。
「ああ、これ?稽古でついた傷」
「稽古で、って…一体どんな稽古を着けてもらっているのか心配だよ」
「大丈夫。これぐらいやらないと、上達しないから」
「でも…」
少なくとも、閭胥は少女が痛がる素振りを目にした事が無い。掌にできた血肉刺が破れたときには流石に無理矢理手当てを施したが、それでも彼女は困ったように笑っただけだった。
何度言っても聞かないのが玉に瑕だと呆れているうちに、
りつは閭胥の前を横切っていく。向かう先には、夕刻に他の子供達が集う場所。
「とにかく、心配しなくても私は平気だから。夕飯の用意、手伝ってくるね」
「
明秦…!」
待ちなさい、と閭胥の制止も聞き流して厨房に向かい駆けていく
りつは内心で謝りつつ前を見る。薄暗い院子を通り抜け、厨房に入る手前で水甕から柄杓で水を掬い上げると、それで手を片手ずつ洗った。
(…折角利紹さんが忙しい中で教えてくれているのに、弱音を吐くなんて我侭だ)
濡れた掌を見下ろし、既に何度も潰れて硬くなった肉刺を親指で擦る。これも努力の証と言えるだろうか。
剣術を習い始めてから二月の間は心身の辛さに苦しめられた。全身が打撲に筋肉痛、時には歩く事も耐え難く、腕が上がらない日もあった。それでも里家では普通を装い振舞って、四月が過ぎた頃には筋肉痛が少なくなり、青痣の数も次第に減っていった。最初は捉える事すらできなかった利紹の剣捌きは、今やしっかりと捉え応対までできるようになったのだから、死に物狂いで覚えた成果は確実に身になっている。
(残すところ、あと半年…)
蓋をした水甕の上に柄杓を置きながら、半分を切った期間を考えて、溜息を吐く。…実を言えば、
りつはこれまで一度も師に褒められた事は無い。呆れこそ減りつつあるが、怒号が大半を占めているため、自身の実力は量り兼ねていたのだが。
溜息を落として、気を取り直した
りつは厨房に足を踏み入れる。途端、彼女の些細な憂鬱を吹き飛ばすほどの元気な声が厨房の外にまで溢れるのだった。