陸章
1.
翌早朝、開門前に舎館を出た紫秦と
りつは東の卯門付近に停まる馬車に乗り込み、開扉から間も無く重嶺を出発した。
揺れる馬車の最後部で、
りつは膝を抱えながら遠ざかる門をぼんやりと見送る。門を潜り出てきた徒歩の旅人達と、往路の旅路を無意識に重ねながら。
開門を告げる太鼓の音を聞き終えると、何気なく空を仰ぎ見る。薄く削いだような雲が蒼穹の色を薄めていた。
「そういえば、
りつの字はどうしましょうか」
「え?」
突然振られた問いを聞き逃しかけた
りつは慌てて振り返る。普段と変わらず穏やかな笑みを湛えた紫秦は
りつの顔を覗くように頭を僅かに傾けていた。
「字、ですか」
「呼び名の事です。本姓と名は既に持っているようですので。氏はまだですね」
「氏…?」
「本姓は親から受け継ぐものですが、氏は成人を迎えると自分で選びます。
りつはまだ二十歳ではありませんので」
「あと数年後…」
りつは小さく頷く。確かに、此方に倣って字を持っていた方が生きていくには良いのかもしれない。
様々な呼び方がある事に関心を抱きながら自身の字を考え始めて数秒。
りつの思考は早々に行き詰まった。
字を考える以前に此方の文字の読み書きができないのだ、浮かぶ筈もなかった。
「――
明秦」
「え?」
困窮から肩を落としかけた
りつの隣から突然ぽつりと言葉が上がる。
「どうでしょう?
りつに合うと思うのですが」
突然の提案に、
りつは瞬きながら紫秦を見た。轍を踏む車輪の音と重なったせいで発音は曖昧に聞こえたが、その言葉は意外にも耳に浸透した、気がする。
聞き取った発音を思い出す
りつの手を、紫秦が優しく取る。少女の掌に指を滑らせたそれは形が微妙に違うが、それが二文字の漢字だと分かったのは、紫秦が描いた字を三度ほど辿った後のこと。
―――
明秦。
果たして自分に合うだろうか。別段目立たない、平凡な字の方が良いのだけれど。
提案された字を口内でよく含んで、噛み、考え込むように俯く。そんな難しい表情を真横から見守っていた紫秦は、返事を問うまでも無い表情に思わず苦笑を零した。
とんとん、と指先で自分の額を指し示してから、さらに小首を傾げてみせる。
「眉間に皺が寄ってますよ」
「!」
紫秦から指摘を受けた途端、深く潜りかけた思考を慌てて切った
りつは姿勢を正した。そんなに自分は悩んでいるように見えただろうか。
彼女が浮かべた苦笑の中に様子を心配するような憂慮の色が混ざっていたのを読み取ると、
りつは眉間を親指と人差し指で強く揉み解した。流石にこんな考えで心配を掛けるわけにもいかない。それで、大丈夫だと言外に伝えるように頭を横に振った。
「まぁ、蕭維に到着するまでに決めれば良い事です。幸い考える時間は十分あるのですから、存分に悩んでください」
「そうします……」
りつは深刻そうな面持ちで頷く。これから生涯使っていく呼び名を今即決してしまうのは惜しい。どうせならば十分に時間をかけて考えたかった。
時折車輪から伝わる強い振動に身を揺すられながら、詰めていた息を吐き出した。何気なく視線を上げた先の風景には、道の中央にくっきりと残る轍と、陽に透く細切れの雲。遠ざかるそれらを漠然と見送りながら、少なくとも数日はある猶予を思い、ひとまず思考を切り上げる。
与えられた時間が往路よりもずっと短いなどとは、思いもせずに。
◆ ◇ ◆
二度の乗り継ぎを経て三日目。馬車の旅は順調に復路を辿り、無事唐州へ入った。
州境付近にある低山を迂回するように麓の道を進む馬車の中には、時折温い風がゆるりと吹き込む。日中は汗がうっすらと滲むほど温かく、馬車に乗る旅人の殆どは最低限の軽装姿で手団扇を仰ぐ者もいた。紫秦と
りつも例に漏れず、髪を纏め上げ、袖は肘下まで腕捲りをして馬車の床に腰を下ろす。町へ入る度に安宿で体を休められるとはいえ、流石に三日間の馬車移動では腰が痛んだ。
もっとも、二人だけに限った事では無いのだが。
「馬車で長旅はするもんじゃねぇなぁ」
二人が座る場所の向かい側で渋い声が上がる。言葉は分からないが随分と大きな独り言だと思った
りつは、空へ投げていた視線を馬車内へと戻した。
膝上に置いた革の荷嚢を片手で抱え込む初老の男が、笑い皺を深く刻みながら腰を摩っている。やがて
りつの視線に気が付くとゆっくりと顔を上げて、笑う。
「あんたら、重嶺にいただろう。馬車の旅によく耐えられるな」
「はぁ…」
曖昧に返事をした
りつはもちろん、男の話を理解できなかった。ただ、道中や町で何度も聞いた「重嶺」と「馬車」の単語だけは辛うじて聞き取れて、それが少しだけ嬉しい。
「此処まで来たんなら、目的地は唐州の船着き場かね」
「いいえ、蕭維まで行く予定です」
男の問いに紫秦が答えると、ほお、と興味深そうな声を上げた。猫背になっていた背がさらに前へ傾いて、前かがみになる。
「蕭維といえば、海客が流れ着いたらしいな。何でも、蝕が無かったとか。随分噂になってるぞ」
「そう、なのですか」
「え?」
好奇心を滲ませて話す男の噂話に、紫秦の顔が途端に渋くなった。その横顔を目にした
りつは首を捻るが、紫秦はなぜか男の話を伝えようとしない。さらには神妙な面持ちで耳を傾け始めてしまったため、問う時機を失ってしまった。
―――言葉を覚えたら、この会話にも参加できるのに。
馬車の一際大きな揺れに身を揺すられながら、疎通できない不便さを今一度実感する。疎外感に少しばかり気不味さを覚えて、顔は自然と逸れていく。馬車の外、蒼穹の下の風景を眺めて、
「……?」
やがて、
りつの首が僅かに傾いた。
先程まで鮮明に見えていた道の先が、いつの間にか白くぼやけてしまっている。目を擦って見直してみたが、靄の掛かったような景色に変化は無い。
疑問に感じるうちに、今度は低く荒い音を耳に拾う。それはさも唸り声のような。
――馬車の後方から何かが。
紫秦と男の会話を背に、駆ける馬車が掻き消し損ねた音に集中して耳を傾ける。気のせいで誤魔化せそうなほどの雑音は次第に近付いている気がした。
まるで往路の馬車旅を彷彿とさせるそれが、りつの掌に嫌な感覚を思い出させる。握り込んだ拳は汗ばんで、鼓膜に響く鼓動がやけに大きく聞こえた。
――地平に立ち込める白靄の中から、
何かが、来る。
そう。この光景は往路のあの時と同じ。厭な感覚が急激に胸を襲う。安全という概念は完全に削がれて、嫌なものが来る危機感だけが先行する。
この感覚が外れてほしい。そんな
りつの切実な祈りも、幾許の間も無く無慈悲に折り砕かれた。
晴れ始めた白靄に、獣の影が浮く。
――輪郭を浮き立たせて、此方へ、
その正体が確信に至った次の瞬間。
地平から顔を逸らした
りつが、馬車内に向かい必死の形相で吼えた。
2.
「紫秦さん!!」
りつの叫声が馬車内に響く。引き攣った青白い顔で連れを振り返ると、乗客達の突き刺さる視線の中、息を呑んだ紫秦の顔が忽ち緊迫の色に染まっていく。
りつの叫びが何を示しているのか、すぐに見当がついたのだ。
「な、何だ…?あんた、今なんて」
「失礼します」
すぐに腰を上げた紫秦は男の疑問を遮ると、ざわめく馬車内を一瞥して
りつの傍らに膝を着く。
馬車に追いつくならば四肢歩行の獣だ。見たのは犬か狼か、或いは虎か。そう問おうとした紫秦の口は景色の異変に気が付けばすぐに引き結ばれた。
白靄を切り抜けて現れた、狼でも虎でも無い巨躯の妖魔。強いて言えば犬型か。馬車を追ってくるのは、おそらく中に馳走がいる事を知っているからだろう。
油断していた。そう、紫秦は内心苦い思いを抱いて剣の柄を握る。
新王登極から一年と少々。妖魔の数は国都から激減していくが、国端にあたる唐州から妖魔の姿が完全に消えるのはもう少し先の話だ。蕭維まであと少しだからといって、警戒を怠るべきではなかった。
「逃げ切れない、ですよね」
「ええ。向こうの脚の方が早い。撒くのは不可能でしょう」
苦渋混じりに答えた紫秦の利き手が佩刀する剣の柄に掛かる。馴染みのある感覚を確認すると、徐々に距離を詰めてくる獣を一睨みした。
交戦を避けられない理由は二つある。馬車の全速を以てしても追い付かれる事実と、もうじき蕭維から繋がる街道へ差し掛かるからだ。今仕留めておかなければ妖魔もまた街道に入る。そうなれば旅人が襲撃される可能性は十分にある。
此処で仕留めなければ。
そんな思いが強くなる反面、自分の二回りほど大きな体躯の妖魔を馬車の上で狩る自信は少しばかり欠ける。せめてもう一人いれば確実に仕留められるのだが。
「この中で剣の腕に覚えのある方は――」
居ませんか、と。
振り返った先から、返答は無い。あろう筈がないと口を噤んで、再び追跡者に目を向ける。
「…一体だけなのが幸いです」
「紫秦さん」
「あなたは後ろに下がって、」
不安げに声をかけた
りつを紫秦が横目で一瞥する。正面から目を離したのはたった一瞬。その一瞬が、馬車内に飛び込んできた何かを捉え損ねた。
二人の真横を駆け抜けた小さな影に目を見開き、同時に身を翻して抜刀する。侵入したのは、鳥。乗客目掛けて突撃するそれが持つ毒々しい羽色を捉えた瞬間、勢い良く振り被った紫秦の手から得物が離れた。
刹那、上がった悲鳴と奇声が重なった。乗客に襲い掛かる直前、投擲した剣で胸を貫かれた妖魔が断末魔を上げて墜落したのだ。
妖魔を貫いたまま落ちた剣を拾い上げた紫秦はすぐに踵を翻すと、再び馬車内の後方に戻り、外に向かい剣を払う。振るい落とされた亡骸は流れ行く景色と共に小さくなっていった。
それを最後まで見送ることなく、さらに距離を縮める妖魔の姿を見下ろした紫秦は思わず口元を歪めた。
背に翼の生えた墨色の体躯に虎のような頭。口から突き出る鋭利な牙と四肢の爪は獲物を狩るためのものか。
「窮奇――」
以前にも馬車の移動中に妖魔――犬型の谿辺と対峙したが、窮奇の方が遥かに獰猛且つ残虐だ。此処で斬らなければ、間も無く馬車内の乗客は全員窮奇の餌食となるだろう。
考え、息を飲んだ紫秦は再び横目で連れを見る。緊張を孕みながらも窮奇を睨め据える
りつの姿。だが、彼女は一度だけ剣を以て見事妖魔の首を落とした経験がある。
…危険だが、いないよりはずっといい。
「
りつ」
紫秦に名を呼ばれて視線を横へ滑らせた
りつは、突然視界の中央に飛び込んできた褐色の何かを反射的に伸ばした両手で受け取った。立てれば腰よりやや上あたりまでの長さのある、ずしりと重みのあるもの。
中身を問おうとりつの眼差しは渡し主の方へと向かう。しかし紫秦は既に迫る獣へ注意を向けたまま、けれど後ろへ手を払いながら顎をしゃくるような動作に、
りつの足が自然と数歩ほど退がった。
渡した物を開けろ、という指示だと見做したりつは革の紐で縛られた口を開いて嚢から中身を取り出した。黒鳶色の身が七分、赤銅色の柄が二分、間に鍔が一分。ずしりとした重さを手に感じて思わず身を硬くする。
―――剣。
渡された意味を理解した瞬間、
りつは愕然とした。
「ちょっ…ちょっと待ってください!」
「何かがあった時には頼みます」
「でも…!」
「馬車の中をよく見なさい」
危機は間近。だが、紫秦の冷静を保ったままの声に、取り乱しかけた
りつは落ち着きを取り戻した。剣を胸に抱いたまま指示通りに後ろを振り返り、日除けの為に張られた幌の内を見渡して、息を呑む。
作られた陰の中で恐怖から身を寄せ合う乗客達。外の風景に気を取られていた
りつはそこでようやく気が付いた。乗客は老人や母子ばかり――少なくとも、武器を扱える者がいない現状を。
「勝手で申し訳ないが、妖魔を倒した経験のあるあなただけが唯一の頼りだ」
「でも…この間は単なるまぐれで、」
「まぐれでも、いないよりずっといい」
「だけど、私は」
元々病弱な体で運動も不得意だ。故郷では竹刀すら持った事が無く、剣を持つ事も先日が初めてだった。そんな自分を頼りにしないでほしい。ただでさえ恐怖で足が竦んでいるのに。
動揺から口籠る。妖魔はすぐそこまで迫っている。狩る道具が手中にある。だが、できない、とははっきり言えない。
りつが抱くそんな躊躇を、
「生きるか死ぬかの瀬戸際で迷うな!!」
紫秦の一喝が刹那に吹き飛ばした。
りつははっとして紫秦を見る。背中を向けたまま、剣を握り締める彼女の顔は確認できなかったが、
りつはこの時初めて紫秦の怒りに満ちた声を聞いた。それほど彼女は切羽詰まっている。乗客や
りつ、自分の命が懸かっているのだから。
(…迷っていたら、死ぬ。死ぬのは…嫌だ)
生きたいのなら、迷うな。
恐怖を堪えるように唇を噛んで、拳を握る。革の嚢を放り投げると、震える手で剣を引き抜いた。揺れる馬車の上で窮奇に向かい構えた剣先はやはり微かなぶれがあるが、目の錯覚にして柄を握り締める。
馬車に窮奇の爪が届くまで、あと僅か。
迫る、迫る、迫る。
眼前に迫る死の可能性が緊張を極限まで膨張させ、今にも弾けそうになった、その直後。
真っ直ぐに地を蹴り上げた黒い体躯が太い前脚を振り掻く瞬間を、確かに捉えた。
反射的に瞑りそうな目を堪えて見開き、同時に駆け出すと、馬車に飛び込んできた黒の体躯目掛けて剣を思い切り振り抜く。
瞬間、肩に走った重い衝撃を、歯を噛いしばって堪え、肉を断つ手応えを確かに感じながら剣を全力で振り切った。
…肉を断つ感触と、鼻を衝く嫌な臭気。複数の甲高い悲鳴と、泣き喚く声と。
一瞬視界が真っ白に飛んだ中で感じたものの大半はひどく不快だった。
微かに痙攣する右肩に痛みがじわじわとやってくる。回復した視界の中央に横たわる妖魔の体躯を捉えて一瞬身構えたが、横一線に深々と切り裂かれた傷と身動ぎ一つしない様子を認めて、
りつは詰め掛けた息を吐き出した。
何とか妖魔を仕留められた。そう、思った途端に体から力が抜けてしまった。
「…助かった……」
傍に転がっていた鞘を拾い上げて剣を納める。そこでようやく剣から手が離れた。
馬車の奥からは安堵の声と子供の泣き喚く声が聞こえる。外を見れば景色は流れ続けていたが、乗客が身を寄せ合っていた馬車の端から幌を開けて中を覗き込む男がいた。手綱を手繰っていた馬車の主が車輪の音で掻き消されていた騒動にようやく気が付いたのだろう。
暫くぼんやりと座り込んでいた
りつであったが、次に息を大きく吸い込んだ瞬間、強烈な鉄錆の臭いに思わず咳き込んだ。さらに噎せる度に右肩へ激痛が走る。そこに目を向けると、裂けた衣が紅色に染まっていた。妖魔の爪で裂かれたのだ。
「いっ、た……」
痛みに顔を歪めながら左手で右肩を押さえ、よろめきながら立ち上がる。騒ぐ乗客達にもう大丈夫だ、と声を掛けたかったが、言葉が通じないなければ意味が無い。代わりに彼女に伝えてもらわなければ。
…と、
りつはそこでようやく連れの姿が見当たらない事に気が付いた。
「紫秦、さん……?」
声を掛けたが、反応が無い。気絶しているのだろうか。
首を傾げた
りつは息絶えた窮奇の体を伝いながらゆっくりと反対側へ回り込む。もう一度呼ぼうと口を開きかけ―――言葉を失った。
紫秦は倒れていた。それだけならまだいい。揺すり起こせば済むことだ。だが、倒れ伏す彼女には、腹が無かった。
爪で深々と抉られた痕跡。傷口からは窮奇の毛皮を染めるほど溢れて広がる血溜まり。虚ろな眼で宙を見据え、僅かに口が開いていたが、その口からはもう、何の音も紡ぎ出される事はない。
一目瞭然だった。
彼女は、既に絶命しているのだと。
「紫――う、」
目眩がする。沸き起こる動揺が吐き気を催して、ひどく気持ちが悪い。胸に押し寄せてくる衝撃と絶望が戦慄となってりつの体を駆け巡っていく。
――そんな筈がない。何かの間違いだ。剣の腕は良かった。なのに何故、こんな。
思わず口を押さえた手の隙間から、急激に込み上げてきた嗚咽が漏れる。堰を切ったように溢れ出す涙が止まらない。歪む視界の中、紫秦の遺体から目を離す事ができなかった。
◆ ◇ ◆
その後の記憶はひどく曖昧だった。
道中で馬車が停まり、窮奇の亡骸を道の外れに捨てたのは目の端で捉えていた気がする。
誰かが慰めるように背中を撫でてくれた感覚も覚えているが、振り返り顔を確認できるほどの気力は無かった。
遺体の傍で茫然と座り込んだまま、気が付いた時には馬車は蕭維の門の内側で停止していた。
「……着いたの」
誰かの
背子が掛けられた紫秦の亡骸を見下ろしながら呟く。当然、答えは返ってくる筈がない。一人言に虚しさが込み上げて、先程引いたばかりの涙がまた溢れてくる。
どうしてこうなってしまったのだろう。妖魔が馬車を追わなければ、無事に蕭維へ到着できたのに。
乗客が降りて、誰もいない馬車の中。一人祈るように組んだ手を額に押し付けて蹲る。右肩の傷よりもぽっかりと空いた胸に突き刺さる罪悪感の方がずっと痛かった。
あの時、迷わなければ彼女がこんな目に遭う事は無かったかもしれない。だが、今後悔しても、もう遅い。
のろのろと顔を上げた
りつは亡骸を見る。背子の間から見える紫秦の青白い顔を暫くの間見詰めて、ごめんなさい、と謝罪を呟いた。
その時だった。
誰かが馬車の傍へ駆け寄ってきたのは。
3-1.
「鄭師帥!」
若い男の声だった。
駆け寄ってくる足音がして、それが馬車の前で止まると共にごくりと息を呑む音が聞こえる。
りつがのろのろと顔を上げると、鶸茶色の長髪を束ねた男が横たわる亡骸を前に愕然としていた。
「これは……一体」
「利紹、どうした」
立ち尽くしていた男は呼ばれて背後を振り返り、
りつもまた声が聞こえてきた方を見る。耳に入れた言語は日本語だったので、紫秦と繋がりのある者だと判断できた。
駆けつけてきた男の赤銅色の短髪が揺れて、ふいに止まる。利紹と呼ばれた青年の肩を掴みながら馬車の中を目にした瞬間、褐色の眼が驚愕に見開かれた。
「紫秦、なのか……?」
男が恐る恐る訊くと、青年の暗い顔が次第に俯いていく。言葉は無かったが、事実を確認するには十分だった。
そんな、と呟いた男は青年の傍をすり抜けてふらりと歩き、馬車の縁を掴む。胴を半ば断たれた亡骸、その顔が親しい同僚でなければどれだけ良かっただろう。
彼らの絶望的な様子を目にした
りつは耐え兼ねて思わず目を逸らした。すると、亡骸に寄り添う存在に気が付いた青年と男は顔を見合わせ、すぐに少女を注視する。
「海客…?」
「え…」
「師帥が護送した海客はお前か」
「師帥…紫秦さんの事、ですよね」
びくりと肩を竦めた
りつであったが、咎めるような声では無かったのでおずおずと頷いた。重嶺で少年――泰麒の護衛役の男性が紫秦をそう呼んでいたことを、ふと思い出しながら。
「何故師帥が亡くなられている。どういう事か、説明してくれないか」
「……蕭維に入る少し前で、妖魔が馬車を襲ってきて――」
二人で妖魔に挑み、紫秦が亡くなった。そう説明しようとした口は、当時の記憶を脳裏に掠めた瞬間、言葉ではないものを吐き出そうとしてえずいた。咄嗟に口を覆い、亡骸の反対側を向いて咳き込むと、一気に込み上げてきた吐き気が胸を焼く。
おい、と心配げな声がかかって、背中を擦る感覚がある。衣越しに伝わる掌の温かさがひどく虚しかった。
「とにかく、紫秦を馬車から運び出す。お前は吐き気が治るまで馬車で休んでいるといい」
「…はい」
顔を歪める
りつが口を覆いながら頷くと、男と青年が馬車に上がった。遺体の背中には降ろす為に布が敷かれていて、顔を見合わせた二人が遺体を挟んで立つ。それぞれ布の隅を掴み上げると、遺体を速やかに運び出していった。
りつが馬車を降りたのは、男の指示の通り吐き気が大分治まってからのこと。地面にゆっくりと足を着き、男達の姿を探そうと虚ろげな眼で周囲を見回した。
旅人や蕭維の住人が往来する波の中に、紫秦の遺体を運んだ男達の姿は無い。一体何処へ運んだのだろう。
困惑したように視線を泳がせる、その最中だった。
「紫秦!」
長旅で忘れかけていた存在を、その短い呼び声によって思い出したのは。
足が竦むと同時、頭から血の気が引いていく。…報告するのが怖い。だが、これだけは他人に説明させる事などできない。
足音が近付いてくるにつれて恐怖が胸に迫る。手が震える。肩の切り傷の痛みを忘れるほど緊張が込み上げていた。
恐々としながらも、足をそろりと一歩出して身を反転させる。馬車を背に町の様子を見るりつの視界に、部下を引き連れて此方に向かって足早に歩いてくる男の姿が映った。
「康由、さん…」
「馬車が襲われたという情報を耳にしてな。居ても立ってもいられずに此処まで来てしまったのだが…まずは君が無事で何よりだ」
「……いえ」
「ああ、君はまた怪我をしたのか。後で手当てを――」
「すみません、康由さん」
「ん?」
名を呼ばれた反応に目を軽く見開いた男の顔色は、まだ明るい。それをこれから自分が壊してしまうのだと思えば、ごめんなさい、と謝罪の言葉が口を衝いて出た。真正面から向き合った康由はそこで初めて少女の顔色を認め、嫌な予感に口元の笑みを少しずつ、崩していく。
「…紫秦さんは、馬車が妖魔に襲われた時に、私を庇って……亡くなりました」
「――」
りつが言い切った瞬間、男の漆黒の双眼が、形相が、口元が、悲愴に歪んだ。何かを言いかけては閉じ、引き結ばれた口からは悼みも怒号も罵声も洩れず、拳を強く握り締めたまま正面ではない余所へ視線を据える。通行人の喧騒はまるで蚊帳の外のように、耳に入らない。痛いほどの沈黙が二人の間に流れた、そんな時だった。
往来の波を外れた一人の青年が馬車に駆け寄ってきたのは。
「将軍――」
「…話は聞いた。紫秦の亡骸は何処だ」
「此処では流石に人目があったので、包んで冢堂に運びました」
「分かった。行こう」
拳を解いた康由は青年を振り返る。律を背に歩き出して、数歩。青年とすれ違いざま、覇気の無い声が指示を零した。
「利紹、すまんが彼女を里家に案内してやってくれ」
「分かりました」
暗い顔色をした青年の返事は低く短い。それでも指示を受けると、立ち尽くしている
りつへ向き直った。持ち上がった片手が城壁沿いの還途を指し示して、
りつを背にして歩き出す。
「案内します。此方へ」
「……はい」
おずおずと頷いた
りつは青年と距離を開けて歩き始める。手前、反対方向へ歩いていった康由の姿を振り返ったが、既に人波に紛れて確認する事はできなかった。
二人は行き交う人の間を縫うようにして還途を北に向かい進む。紫秦の死という衝撃を引きずるせいか、心も足取りも重い。あの時どうすれば紫秦が助かったのか、そんな考えばかりが頭に浮かんでは消えていく。考えたところで、もう戻らないのに。
――別れも言えなかった。
ずきりと、後悔の念が胸を刺す。思わず胸を押さえながら前を向くと、青年の広い背中が前を行く。揺れる背と足取り。それが誰かに似ている気がして、
りつはゆっくりと瞬いた。
この姿はよく目にしてきた。そう思うのも無理はない。彼の背は確かに、亡き彼女のものと酷似していたのだから。
「…あの…」
「はい?」
「貴方は康由さんの部下なんですか…?」
「いいえ、鄭師帥の部下でした。利紹と申します。紹介が遅れましたね」
「い、いえ…こちらこそ。
生駒りつといいます。……利紹さんの姿が、紫秦さんに似ている気がして」
「よく雰囲気が似ていると言われるんですが、それは誰に対しても敬語だからでしょう」
恐る恐る話しかけた
りつに対して、柔らかな物腰で答えた青年はそこで初めて背後を振り返った。利紹と名乗った彼はそこで足を止め、枯茶色の双眸を寂しげに歪ませる。
「……できれば、師帥の最期を教えていただきたいのですが」
そう申し出た利紹の声は、微かに震えていた。苦渋を色濃く滲ませた表情が内心の悲痛を物語る。それでも紫秦の死を受け止めようとする意志を知った
りつは今にも押し潰されそうな思いを抱いたまま利紹を見返した。
不意に脳裏を掠めたのは紫秦の亡き姿だった。思い出すと同時に胸が締め付けられて、鼓動が一際大きく鳴る。この痛みは悲しみが癒えるまで消える事は無いだろう。
まだ話せそうにない。頭を横に振り、そう答えようとした時だった。
突然、利紹の明るい声が
りつの耳に滑り込んだのは。
「鄭師帥はとても鷹揚な方でした。同僚にも部下にも同等に接して下さった。加えて剣術の腕も確かだったので、いつしか部下達の目標になってましたね。…もっとも、剣術を人前で披露するのは嫌がりましたけど」
利紹の双眸は
りつを捉えていたが、その実、意識は別所に放られていた。思い出しながら明かす姿は楽しそうで、心底慕っているのだと分かる。
だが…彼の笑みは、刹那の間に呆気なく崩れ去った。
「我々にとって…きっと貴方にとっても、大事な存在を失った悲しみは大きい。しかし、それが憎しみに変われば一方的に貴方を恨む者も出てくる。師帥を殺したのは、貴方だと」
「…!」
違う、と反論の声を上げたい衝動に駆られた
りつはしかし、利紹の幽愁に満ちた顔を目にすると何も言えなくなった。そも海客が来なければ、紫秦が命を落とす事など無かった。無駄な死だと思う者も少なくはないだろう。
誰もが行き着く可能性のある思想。だが、彼は拡散を許さなかった。
「できれば同僚や部下にそんな誤解はさせたくありません。恨みや憎しみは身を滅ぼしますから。…だから、話してください。それが今の貴方の義務だと思います」
「義務……」
利紹が訴えた願いは切実だった。真実を伝えたい。ただその一心が
りつの心を強く揺さぶる。
彼は義務と言った。それは紫秦を支持していた多くの人達の為、ひいては
りつの為になる。そんな、彼の他者を思い遣る姿勢も紫秦に似ていると強く感じながらも、苦心に胸を痛ませた。
―――あれを話すのは苦しい。苦しいが、紫秦を知る者達の為に堪えて話すべきだ。
そう、心中で決めた時だった。
“振り返らないと、決めたのでしょう?”
数日前に見た亡き者の笑顔が、ふと閉じた瞼の裏に甦ってきたのは。
…振り返らない。それは自分の為であって、紫秦が死んでも変わらない。死を悼むのは後でも遅くはないのだから。
ごめんなさい、と胸の内で小さな謝罪を告げた
りつは、不意に込み上げてきた熱で潤みかけた眼を擦って、拳を握る。真剣な面持ちで見詰めてくる青年をしっかりと見返すと、ゆっくりと口を開いた。
「…今から、お話していいですか…?」
「はい。お願いします」
寂しげな笑みを浮かべて、利紹は頷く。一旦止めていた足を再び運ばせて、里家へと向かうその道中。
りつは利紹と並び歩きながら、彼女の最期の時を静かに伝え始めるのだった。
3-2.
州城へ戻るよう部下に指示を出した康由が一人で向かったのは、東側に位置する卯門の外、人気の無い閑地だった。
閑地の中央には小さな堂が一つ、忘れ去られたように建っていた。周囲に羅列する石碑を横目に見つつ、堂へ続く道を歩く。
冢堂の戸は普段から解放されている状態だったが、今は半分ほど閉められている。その古びた扉の縁に片手を掛けて入口で足を止めると、棚に甕が並び置かれた仄暗い堂内の中央、腹部を布で覆われたまま横たわる部下の亡骸が、そこにあった。
亡骸の傍らで片膝を着いていた男は足音に気が付いて振り返る。悲愁と憤怒を瞳に灯し、僅かに顔を歪めていた。
「腹を一裂き…か。避けられない状況だったのなら、馬車のせいか、あの娘を庇ったせいか」
「彼女は、自分を庇ったせいで紫秦が死んだと言っていた」
「っ……くそっ!」
男は込み上げた衝動から怒号を吐き捨てる。彼女ならば妖魔を斬り伏せられる腕を持っていた。なのに何故、こうして命を落とさねばならなかったのだろう。
男の心痛は康由にも十分理解できた。だが、冷静な眼差しで部下を見下ろした康由は静かに注意を下す。
「止めろ檸典。見苦しい」
「蝕は運ばなくとも、海客は災厄を運ぶ!最初から余所の国へ放り出すか処刑を下せば良かったんだ!」
「聞こえなかったのか。――止めろ」
再度、今度は覇気を含んで発した康由の鋭い指摘が、我に返った檸典の口を噤ませる。…この結果を前にして感情を吐露する事は実に簡単だ。だが、情に流されてしまえば彼女が命を挺した理由を見出せなくなる、と。康由はそう、切に思う。
「……紫秦。君はあの娘に何を見出して護送を買って出たんだ」
檸典の隣に片膝を着き、部下の死に顔を静かに見詰めながら呟く。無論、答えは無い。ただ、穏やかな表情には苦の一欠片も無かった。
負情の無い顔で、彼女は最期に何を思ったのだろう。そして、彼女に何を託すつもりだったのか――。
他に沸く情を沈めながら考える矢先、冢堂に向かって大きくなる足音が聞こえた。それは入口の前でぴたりと止まると、同時に若い男の声が堂内に響く。
「ただいま戻りました」
「ああ、すまなかったな」
「いえ。……色々と、話を聞けたので」
「話?」
怪訝そうに振り返った檸典に、利紹は頷いてみせる。彼の表情は馬車の上で紫秦を発見した時よりも幾分か落ち着いていた。
「鄭師帥の死因は妖魔の爪によるものですが、彼女を庇ったわけではないようです。此処へ戻る前に馬車の乗客からも証言を得ました」
「…つまり、どういう事だ」
「彼女は師帥と共に剣を持ち妖魔に立ち向かったそうです。その結果に彼女は傷を負い、師帥は亡くなられました。――荷も検めましたが、」
首を捻る康由と檸典を見比べた利紹は、脇に抱えていた細長い嚢の口を紐解く。腕を入れて中から引き出したのは剣だった。目を凝らした康由が、その剣が紫秦のものだと判断した直後――続けて引き抜かれた二本目の剣に、思わず眉を潜める。
彼女が所持する得物は一本のみの筈だ。
「剣が、二つ?」
「片方は真新しく見えるが……紫秦は古くなっただけで新調するような奴じゃない」
「ええ、お察しの通りです。…柄頭を御覧になって下さい」
「柄頭?」
柄の端がどうかしたのだろうか。
康由と檸典は顔を見合わせてから、利紹が差し出した剣を受け取る。鈍銀に光る丸い柄の端。そこに細い線で彫られた文字が二つ。全く聞き覚えの無い名が刻み込まれていた。
「
明秦……誰だこれは」
「師帥が命名した彼女の字です」
「なんだと…?」
驚きの声を上げた檸典が有り得ないと言わんばかりに猜疑の色を濃くする。妖魔を断ち斬る為には呪の施された剣――冬器が必要になる。妖魔を斬ったというのならばこれは間違いなく冬器だ。だが、その価格は普通の剣十本分に値する。少なくとも、安易な考えで民に買い与えられるような物では無い。
しかし、と利紹は真剣な表情のまま言葉を続ける。
「帰りの馬車で考えてもらったのだと彼女は言っていました」
「高値である冬器を、腕の立たない小娘にくれてやったとでもいうのか?」
「そういう事になるだろう」
詳しい経緯は定かではなく、理由も分からない。だがそれでも、彼女に何かしらの意思を託そうとしていた事は見て取れた。
(……紫秦。君が見出したのは、もしや)
剣の柄に認められる文字と、剣越しに見える部下の亡骸。その二つを見下ろしながら、康由は静かに彼女の遺志を推察する。
かつて彼女と共に過ごした時を――最早二度と無いあの日々を、束の間の静寂の中で振り返りながら。