伍章
1.
重嶺山の麓に穏やかな陽光が降り注ぐ。日暮れは未だ遠く、大途を行き交う人の波が減る様子は無い。明るい声が絶える事なく響き、蓬莱の都会とは違った喧騒を舎館から少し離れた場所で聞いた
りつは暫くの間呆然としていた。
「人が凄い、ですね」
「大途が混み合う時刻なので、見て回るには不向きなのですが……戻りますか?」
「大丈夫です。行きましょう」
やや表情の硬い
りつは紫秦を振り仰いで微笑を浮かべる。人見知だった
りつは以前から苦手である人混みを避けてきた。だが、いい加減克服しなければ此処で生きていけない。そんな思いが数日前から強くなっていた。
舎館に背を向けて歩き出した
りつの後を、密かに苦笑した紫秦が追う。大途へ出る為に少しだけ歩き、人の横顔が鮮明に見て取れるほど近付くと、
りつは無意識に息を呑む。妙な緊張で肩に力が入った――その直後の事だった。
突如曲がり角から黒い影が現れて、胸に軽い衝撃を覚えたのは。
少しだけふらついた
りつは後ろに一歩下がると、目の前で尻餅を着いた黒髪の少年に目がいく。子供とぶつかったのだ。
「っ!!」
「あ…君、大丈夫!?」
擦り傷を負っていないだろうか。そんな心配から慌てて少年に声を掛けた
りつは伸ばそうとした手を咄嗟に引っ込めた。少年と
りつの間を突如逞しい腕が遮ったのである。
驚いて見上げると、偉丈夫な男が威圧感を以て睨め下していた。
突然の威圧に驚いた
りつは思わず目を見開くと、背後から横に並び立った紫秦が視線を少年と
りつ、そして男へ順に向ける。
「
りつは大丈夫ですか」
「私は平気です、けど」
「
りつ…?……海客か」
「胎果ですが」
男が告げた「海客」という言葉にどこか別の意味合いを含んでいる気がした
りつは途端にむっとする。威圧感への緊張よりも、蔑んだような発音に対する怒りが勝っていた。それでつい言い返したのだが、男は意外にも険相をほんの少しだけ和らげて短い謝罪を口にした。
それは失言だった。申し訳ない、と。
男は眼を丸くした
りつを見、それから駆け付けてきたもう一人の連れが少年をそっと起こす姿を横目で確認すると、今度は紫秦へ目を向ける。
「―――貴殿は」
「唐州師師帥、鄭紫秦と申します」
「…武官の者だったか」
男は妙に納得したような声音で呟く。その物言いの所為か、紫秦の面もまた緊張から硬くなり、警戒している様子だった。
漂い始めた妙な緊張感の中、紫秦と男二人を見比べていた
りつはどうすれば良いのか分からなくなり、最後にぶつかった少年を見る。すると、彼は男の手に片腕を支えられながらも軽く眼を見開いたまま
りつをじっと見つめていた。
りつもまた驚いてまじまじと見返すと、その眼が瞬きを一つ。今度は目の前に佇む男の背に移った。
「僕が悪かったんです。余所見をしていたから」
「…、しかし」
「今度から気を付けます」
ごめんなさい、と真っ直ぐに見詰めながら謝罪を口にした少年に対し、
りつは少しだけ間を置いて、頭を横に振る。
「…私も周りをよく見ていなかったので。すみませんでした」
りつも深々と頭を下げる。だが、彼女はここで気が付いた。この世界の言語が違うにも関らず、少年は――いや、この三人は確かに日本語を話している事を。
一体何者なのだろう。頭を上げ、疑問から首を傾げかけたところで、少年が男二人をちらりと見上げた。今度は子供らしい笑顔を浮かべて、再び
りつを見る。
「少し、お話しても良いですか?」
「え?……ええ、はい」
男二人の睨みがあったのも構わず
りつが頷いた瞬間、彼らが何かを言いかけたが、少年が振り返り制したことで惜しげに噤む。上下の関係がよく分かる彼らの光景と、
りつの堂々とした態度と。その双方に紫秦は内心驚くのだった。
大人達と少しばかり距離を置いた少年と
りつは壁に背を凭れながら言葉を交わしていた。
聞けば、少年も連れと共に散策の途中で、戴国から半月も掛けて来たのだという。極寒の戴と比べて漣は非常に暖かい事、開放的な家々で人が皆穏やかな事、それが羨ましい事。そんな漣の感想を話してくれた少年に、
りつは相槌を打ちながら耳を傾けていた。同時、ふと戴国に漂流した海客の結末を予想して寒気を覚えながら。
「生まれは蓬莱なんですか?」
「ええ。半月ぐらい前に漣へ迷い込んでしまって。妖魔に襲われたところを保護してもらったの」
「そうだったんですか……」
少年の表情が微かに沈んで、項垂れる。他人の事情を聞いて落ち込む彼の様子を不思議に思いながら見詰めていた
りつだったが、以前から自分のせいで他人が気落ちする姿を見るのが苦手だった。それで、話を逸らそうと別の話題を慌てて挙げる。
「君は海客?」
「あ、いえ。僕も胎果なんです。高里要といいます」
「私は
生駒りつ。……まだ小さいのに、大変だったね」
「いえ…僕はまだ、恵まれてる方で」
少年――要はゆるゆると頭を横に振る。磨きのかかった艶やかな黒の髪が陽光を弾いて綺麗だった。
それから二、三言会話をしているうちに、
りつはふと思う。
異国の地で故郷の者と言葉を交わす事はどれほど貴重なのだろう。漣国では二十年ぶりの海客で、彼が遠路遥々この国を訪れてくれなければ
りつはまだ同じ境遇の者と出会えていなかっただろう。そしておそらく、今後海客の者と出会える確率は極めて低い。そう考えると、要と出会えた事は奇跡に近いのかもしれなかった。
―――ならば、憂鬱な気分のまま別れるのは惜しい。
「……ありがとう」
「え?」
「要君のような小さな子が頑張ってるんだもの。年上の私だって、弱音を吐かないで頑張らないと」
今卑屈な思考に向かえば、きっと前向きに生きる事が難しくなる。だから、自分だけが苦難に遭っているわけではない事を此処で改めて確認しなければ。
そう、自分に言い聞かせる意味も含めて要に心中と感謝を告げた
りつは胸を張る。すると、驚きにぽかりと口を開けた少年は瞬きを二、三度、途端神妙な面持ちに変化した。
「
生駒さんは、お強いんですね」
「ううん、ちょっと強がりなところがあるだけ。それに高里君、弟みたいだからお姉さんぶろうかなぁと思って」
りつの明朗な答えを聞くと、要の口元にくすりと笑みが零れた。先程からどこか落ち込んでいる様子だっただけに、多少気が紛れた様子に内心ほっとした
りつは再び口を開こうとした、その手前。
一つの人影が少年に当たる陽光を遮る。
「台輔」
「あ、はい。…じゃあ
生駒さん、これで失礼しますね」
「うん。さようなら、要君。帰りも気を付けてね」
「はい。
生駒さん…いえ、
りつさんもお気を付けて」
男の射るような視線を受けながらも態度を変えなかった
りつが別れを告げると、連れをちらりと一瞥の後に苦笑を浮かべた要もまた惜別を篭めて別れの挨拶を述べた。
――― 一期一会。
もう、会うことは無いのだろう。そんな予感がした二人の胸に残ったのは、寂しさだった。
「可愛かったですね」
少年と会話を終えて、別れた彼らの姿が見えなくなるまで見送った後。
ぽつりと呟いた
りつの感想を隣で耳にした紫秦は思わず眉を顰めた。信じられないと言わんばかりの表情で穏やかな顔付きの
りつを凝視する。
「怖くはなかったのですか」
「怖い、って……あの二人の事ですか?」
軽く目を見開いた少女の顔には恐怖の欠片も見られない。それが紫秦にとって驚くべき事だったが、何も知らない彼女だからこそ穏やかにいられたのかもしれない。
思い直した紫秦の口から溜息が洩れる。まるで圧されていたものを一気に解放したような長い嘆息だった。
「どちらも恐ろしい気迫でした。…流石、将軍の席を賜るだけありますね」
「……将軍?」
紫秦の言葉の一部に
りつは耳を疑った。聞き間違いだと思いたかったが、彼女が冗談を言わない事は国都までの旅路で理解している。
仮に男達が将軍だとする、ならば、将軍の護衛着きで漣国を訪れているあの少年は一体何者だったのか―――。
気になった単語を復唱しつつ浮上した謎を考え始める。自然と渋面になり、首を捻る
りつはしかし…その疑問は存外早く解決される事となった。
「よく聞いてください。あの御子は、戴国の台輔です」
「台輔、台輔………え」
聞き覚えのある単語。それが最近習った言葉であることを思い出した
りつは未だ浅い知識の中から単語の意味を掘り起こす。
およそ数秒。辿り着いた先には、はっきりとした表情の硬直が見受けられた。冷汗を掻いているように見えるのは気のせいではないだろう。
「麒麟、ですか?」
恐る恐る訪ねた
りつに対して、紫秦は無言のまま深く首肯する。それで、あの邂逅がどれだけ貴重かつ緊張あるものだったのかがやっと理解できた。
顔を硬直させたままの
りつは冷汗を誤魔化そうと頬を掻きつつ、雑踏ある大途とは反対方向―――少年らが去っていった途を振り返る。
無礼な言動に対する追及が無かったのは奇跡に近い。そんな紫秦の言葉を背に受けると、さらに顔を引き攣らせるのだった。
2-1.
戴国の麒麟との遭遇から、早くも三日が経った。
りつは予定通り紫秦からこちらの処世を習い、序でに国府で官と対面する際に必要な礼儀作法を教えてもらった。こちらの挨拶は叩頭と呼ばれる土下座から、軽いものでは右の拳に左手を重ね、水平に立てた腕を胸元まで掲げて軽く会釈をする拱手がある。勿論立礼もあるが、それはあくまで親しい者同士の間でしか使われていないようだった。
本来泰麒に対する礼儀は叩頭と呼ばれる下座なのだと引き攣った苦笑で教えてくれた紫秦の顔を思い出しながら、
りつは三日間の授業を復習していた。
その授業の師である紫秦は現在、起居にはいない。朝早く礼服に着替えると国府へ向かってしまった。じきに昼時を迎えるが、そろそろ戻ってくるだろうか。
そう、暢気に考えていた。
「!!」
ばん、と壊れんばかりに扉を叩き開く音が耳に飛び込んでくるまでは。
反射的に首を竦めた
りつは慌てて半身を捻り振り返る。一体何事かと目を剥いた先には、少々着崩れた礼服のまま息を切らせて立つ紫秦の姿があった。その形相は何故か険しく、顔色は蒼白に近い。
ほぼ確実に一悶着あったであろう様子に戸惑いながらも、
りつは帰ってきた紫秦を迎える為に立ち上がった。
「お帰りなさい。…何かあったんですか」
「…着替えなさい」
「え?」
「礼服に着替えて下さい。今すぐに」
起居の扉を後ろ手で閉めた紫秦は元々卓上に広げられていた礼服を掴み上げて押し付ける。早く、と催促を告げながら背を押す勢いに
りつは困惑しながらも、渡された礼服を胸に抱くと半ば押し込まれるように臥室へ入っていった。
◆ ◇ ◆
りつに詳しい説明がなされたのは、舎館を出て環途を歩き出した頃。いよいよ重嶺山にある国府へ向かうべく広途を避けて向かい始めた時だった。
「秋官長、ですか」
「ええ。…まさか六官長の一人が出てくるとは思いもしませんでした」
六官長の一人といえば、地位は卿伯。王と宰輔、六官を纏める冢宰に次ぐ。しかし
りつには地位を説明されたところで分かる筈も無く、今にも頭を抱えそうなほど深刻な顔をやや俯かせる紫秦と並び歩きつつそっと顔色を窺っていた。
「紫秦さんは、その方と面識はあるんですか?」
「まさか。あったとしても小司馬ぐらいですよ」
「小司馬?」
「官名です」
紫秦の上官――州師の左軍将軍ならば有り得るかもしれない。だがそもそも、国の法令を司る秋官と軍事を司る夏官とは、あまり接点が無いのが実情だった。
人通りの多い還途を見据えて目を細めた紫秦は数えるように指折り示してみせる。
「天地、春夏秋冬で六官。夏官は主に軍事関連、秋官は法令関連の役処だと考えてください」
「はい」
「秋官長の役名を大司寇と言います。夏官長は大司馬。彼の補佐役が小司馬です」
「なるほど…」
紫秦は頷きながらも人波を避けて進む。処世の師の背に向けて相槌を打ちつつ歩いていた
りつだったが、脳裏ですぐさま復習に掛かると、気掛かりな単語があった。
秋官は法令関連の役処だと紫秦は言う。そしてこれから面会する相手は秋官の長。だとすると、もしかしたら――。
「紫秦さん…私、裁かれるんでしょうか」
「え?」
堪らず口にした
りつの不安を、紫秦は微塵も予想していなかったのだろう。足を止めて振り返った彼女の顔は虚を衝かれたように呆然としていたが、次の瞬間には彼女の不安を吹き飛ばすように軽い失笑を漏らすのだった。
国府へ向かうには、まず重嶺山の麓に設けられた皋門を潜り、階段を上がらなければならない。その際には身分の証明書――旌券と呼ばれる縦長の木板を
門卒に示した。
既に話が届いているのだろう。旌券を検め終えた門卒は紫秦のやや後方に佇む
りつをちらりと一瞥しただけで、すんなりと道を開ける。しかし潜り抜けて早々、
りつの背中に突き刺さったのは好奇心に満ちた眼差し。それらを心地悪く感じながらも真っ直ぐに延びた階段をゆっくりと上ること、約十分。
階段を上りきったところで、待ち受けていたのは礼服姿の男だった。紫秦といくらか言葉を交わすと、すぐに先導のため廊下を歩き出す。男の後を追って何度か角を曲がると、廊下の風景も次第に変化していった。
変化したのは風景だけではない。
りつも紫秦も、麓での失笑が嘘だったとしか思えないほど余裕の失せた堅い表情に、いつの間にか変わってしまっている。周囲に目を向ける余裕など、勿論有ろう筈が無い。
秋官の府署へ到着するまでに然程時間は掛からなかったが、二人にはひどく長い時間に感じられた。
さらに堂屋へ通されると、案内を終えた男はそそくさと退出していく。扉の閉まる音を聞いた
りつが微かな安堵から僅かに肩の力を抜いた瞬間、今度は真隣からの耳打ちが入った。
「良いですか。扉が開いたと同時に叩頭してください」
「…分かりました」
紫秦は面に緊張を滲ませながら告げる。すると釣られて強張った顔を僅かに上下させた
りつは、改めて堂屋内を見渡した。
中央に置かれている方卓は明らかに石製で、特有の光沢がある。縁には繊細な彫細工が施されていて、置かれた椅子の背凭れにも彫細工で模様が描かれていた。厚みのある
佳氈に、壁には
堂福。膝を着いた床には埃の一片も見られない。手入れが隅々まで行き渡っている証拠だ。
これが国府の客堂か、と思えば感嘆の溜息が洩れる。反面、肌に合わないこの空気が息苦しく感じて仕方がない。用が済み次第すぐにでも退出したいと思う
りつの不安を、突如聞こえた開扉と複数の足音が遮断した。
叩頭した紫秦に倣い、
りつも慌てて平伏する。視界一杯に映る磨かれた床に目を落としたまま、緊張から身を硬くして待っていたのだが。
複数の足音はすぐにぴたりと止んだ。
「この人が海客ですか」
「はい」
「分かりました。頭を上げてください」
頭上から降ってきた穏やかな声に惹かれるように顔を上げる。立ち並ぶ官服姿の男達が数人。彼らを背にして立ったのは、素朴な顔に穏やかな笑みを浮かべた青年だった。外見の年齢は二十代後半か、三十代前半か。官吏にしては特有の堅さが見受けられない、気がする。
―――彼が秋官長大司冦だろうか。
そんな疑問を漠然と抱く
りつの隣。面を上げ青年を凝視した紫秦は、多大な違和感を得て困惑していた。
部下であろう官を背に立つ青年が纏う衣は、少なくとも官服には見えない。質素ではあるが、おそらく六官長の召物よりも質が良い。それこそ冢宰か、或いは――。
そこで紫秦はとある考えに辿り着いた。まさか、と疑いの眼差しで青年を注視し、以前に入手したある人物の情報と照らし合わせる。そして、背に立つ部下達の一見冷静なようで緊張に満ちた面持ち。それらから導き出した結論が、忽ち紫秦の顔から血の気を引かせた。
次の瞬間、青褪めた顔を再び勢い良く伏せると、床に額を押し付ける。発した声は微かに震えていた。
「畏れながら、主上に御座いましょうか」
「えっ?」
今、彼女は何と言ったのか。
紫秦の突然の言動が
りつに更なる困惑を与える。叩頭する紫秦と眼前の青年を交互に見ては、どうすればいいのか分からず困惑は深まるばかり。
すると、二人の反応を見守っていた青年が困ったような笑みを浮かべた。
「驚かせるつもりはなかったんですが……とにかく、頭を上げてください」
彼の言葉には否定が無い。つまりは、彼が“主上”。
即ち――漣国の王。
あまりにも突然すぎる国主との対面に、
りつはただただ困惑を浮かべて青年を見上げる。想像に描いていた王の姿とはかけ離れている上、王に謁見する際の礼儀を教わった覚えがない。どうすればいいか分からずに紫秦のほうをちらりと見ると、彼女はゆっくりと面を上げて王の穏やかな笑みを
りつと同様戸惑い気味に見詰めていた。
「泰台輔が数日前、漣に流れ着いた海客と会った話をしてくれたので。そうか、胎果だったんですね」
「え…ええ、はい…」
りつは控えめに頷く。泰麒が道端で遭遇した者を話題に挙げてくれた事実に内心驚いた反面、王が此処へ来た目的を考えた。
泰麒の話を聞き興味本意だけで訪れたわけでは無いだろう。もしかしたら、秋官長の代わりも兼ねているのかもしれない。
そう考えると、
りつの口からは自然と問いが零れた。
「あの……私の処遇は決まったんでしょうか」
「ええ。ひとまず唐州都の
蕭維にある里家に居住してもらう事になりました。後でちゃんと通達しておくので、安心してください」
「蕭維――分かりました」
復唱した町の名には聞き覚えがある。それも当然だった。保護されたばかりの
りつが連れて来られた町が蕭維であり、紫秦の所属地でもある。見知らぬ場所に居住まいを指定されるよりはましだと思えたが、同時、心中の片隅に心細さが生まれたのを確かに感じた。
言葉の通じない場所で生活するには相当な苦労があるに違いない。それを乗り越えて生きていけるだろうか。
王の拝謁を前にして、あれほど膨れ上がっていた緊張は、この先を思い始めた途端に鎮まっていく。未だ硬い表情のまま王を見上げる紫秦の隣で進む話を耳に入れながら、冷静になっていく頭の中で一つの意思を抱いて、彼女は決意した。
――これを、最後の賭けにしようと。
「他に何かありますか?」
「……」
「
りつ…?」
王の問いかけに反応が無い事を不思議に思った紫秦は隣に目を向ける。少女は確かに眼前の王を真っ直ぐに見上げていたが、その横顔は先程の困惑に満ちたものと全く違っていた。
迷いの無い青鈍色の双眸が心中の決意を物語る。引き結ばれた口がゆっくりと開き、吐き出されたのは、今まで何度も投げかけてきた言葉。彼女の意志を固める為の問い。
「倭国に…日本に帰る方法は無いんでしょうか」
「それは…」
瞬間、青年が浮かべていた笑みに苦味が混ざった。背後に佇む者達と顔を見合わせたが、彼らは無表情のまま一様に頭を横に振る。
少女の最後の希望が絶えた瞬間だった。
「…分かりました」
「力になってあげられなくて、ごめんなさい」
「いえ…いいんです、もう」
王の謝罪に
りつの頭が垂れる。その顔には憂いを湛えながら。
―――現実は、ずっと前に突き付けられていた。今さらじゃないか。
故国の喪失感が空虚となって胸に広がる中、そう心に言い聞かせながら帰郷への願望を切り捨てる。重くなった空気の中で続く話に耳を傾けつつも、今後の自分の在り方を一人考え始めるのだった。
2-2.
「そういえば…漣国に流れ着く海客はどれぐらいいるんですか?」
「え?」
温かな陽光に満ちた果樹園の中、切り詰めて落ちた枝を一本、また一本と拾い上げた少年は、上体を起こすと果樹園の主に問いかける。その眼は紅嘉祥の木の枝に触れている、袍子に身を包んだ青年を見詰めていた。
少年を振り返った青年は穏やかな笑みのまま頭を僅かに傾げる。脈絡の無い話が突然少年の――泰麒の口から出た事に疑問を覚えながら、作業をしていた手を休めた。
「漣国に海客が流れ着くのはとても珍しい事なんですよ。十年か二十年に一人というところかな」
「へぇ……」
軽く目を見開いた泰麒は関心の声を小さく上げる。海客が流れ着くのは東国に多いと聞いたが、西国がそれほど少ない事実に内心驚きを覚えていた。同時に重嶺で遭遇した少女の顔を脳裏に思い出して。
あ、と青年――世卓が声を上げのは、泰麒が返答を口にしようとした直前だった。再び紅嘉祥の木に目を向けかけ、ふと何かを思い出したように言葉を続ける。
「そういえばこの間、東の唐州に海客が流れ着いたと聞いたけど…たしか、胎果だったような」
「…それって、十五歳ぐらいの女の子ですか…?黒っぽい緑の髪の」
「俺より詳しいみたいですね」
妙に詳しそうな少年を不思議に思う世卓に対し、泰麒は深く頷く。
「雨潦宮を訪れる前に偶然町で会ったんです。ちょっとお話しただけなんですけど、とても前向きな方でした」
「へえ、そうだったんですか」
朝議で官吏達が若干揉めていたのを思い出しながら、世卓もまた枝を拾う。すぐ傍に置いた手桶の中には取れたての紅嘉祥の実が陽光を弾いていつもより鮮やかな紅色に見えた。
「俺も会ってみようかな…」
世卓の呟きを耳にした泰麒は明るい表情で頷いた。世卓の考えにはもちろん、そこに官吏が思うような他意は無く、ただ純粋な興味本位だけだったのだが―――
◆ ◇ ◆
「まぁ、本当にお会いしたの?」
「つい気になって。皆に動揺を与えてしまったのは申し訳ないと思ったけど」
官服に近い質素な礼服姿で内宮へ戻ってきた王を迎えたのは、周囲の官吏同様に困り顔をした女性だった。廉麟、と彼女を呼んだ世卓は苦笑いを浮かべたが、後悔はしていないのか謝罪の言葉は無い。泰麒が雨潦宮を出てから早三日、官吏を困窮させるような要望を通したのだから、文句などあろう筈が無かった。
護衛を三人ばかり連れて府署に足を踏み入れ、希望通り海客と会った王を、廉麟は心配して待ち続けていた。その不安を取り除くように、世卓は顔を綻ばせる。
「でも、泰台輔の言う通りいい人だった。これからが大変だと思うけど、頑張ってほしいな」
「そうですね……。できることなら、呉剛環蛇で蓬莱へ帰してあげられたら良かったのですが」
「うん。でも、万が一噂になって漏れた場合を考えると国が混乱してしまうから、今はこれで良いのかもしれない」
漣国には宝重といわれる王の呪物が存在する。名を呉剛環蛇という。こちらと蓬莱を蝕無しで繋ぐ事ができる代物だ。
帰る方法は無いかと問うた海客に、世卓はあると答えたかった。だが、彼女一人の為に起こす行動が仮に噂となって他国へ流れた場合を考えると、重嶺の府第に海客が押し掛けるとも限らない。そのため、彼女の為にできる事は自立までの支援に限られてしまったのである。
少し寂しげな顔をする廉麟の思いを酌みながらも、世卓はそれ以上何も言わずに後方を振り返る。あとは彼女の努力次第なのだから。
3.
廉王の退出を叩頭で見送った後、紫秦と
りつもまた府署を出た。再び先導を受けながら着た道を戻り、皋門前で案内人と別れたところで、
りつは恐る恐ると隣を見る。未だ面から困惑の色が抜けずにいる、紫秦の横顔を。
「大丈夫ですか?」
「ええ…あまりにも予期せぬ謁見でしたので」
「そう、ですよね」
王と面会できた光栄さを今一実感できていない
りつだったが、紫秦の狼狽ぶりを見ると貴重の程が大いに分かる。すると謁見の際には無かった高揚感が、今さら胸に込み上げてきていた。
深呼吸をして気分を落ち着かせたところで、歩き出した紫秦が声明るく話を切り出した。
「しかし、これで唐州に戻れます。時間は行きと同様に掛かりますが、何とかなるでしょう。
りつにも早く処世に馴染んでもらわなければ」
「はい。―――あの、紫秦さん」
「はい?」
控えめな声で呼ばれて振り返った紫秦は
りつを見下ろして、思わず目を丸くした。気苦労を要する用事が済んだにもかかわらず、見上げてくる少女の顔に不安の色が滲んでいるのは一体どうしたことか。
「私を送り届けるのが、紫秦さんの任務なんですよね?」
「ええ」
「でも、私の疑問を面倒臭がらずに答えてくれて、不自由がなくなるように処世まで教えてくれる。…いえ、処世は私が頼んだから、なんですけど」
「?」
言葉を選びながら慎重に話す
りつは一度言葉を区切って俯き、足を止めた紫秦に倣って立ち止まった。言いたい事は上手く纏まっていないが、それでも今聞いておかなければならないと強い思いを胸に抱いて、再び口を開く。
「海客を送り届けるだけの任務なのに、そこまで親身になってくれるのが少し不思議で…」
「ああ、そういう事ですか」
りつの意中を酌んだ紫秦の顔に再び笑みが浮かぶ。しかし返答は得心の声を呟いたきり絶えて、一時は止まった足も舎館に向かって進め出す。その背中を、
りつは眼と足で追っていた。
紫秦の話が再開したのはそれから暫くしてからのこと。往来する人波を抜け、舎館の門が見え始めた頃だった。
「海客や胎果は、正直あまり良く思われていません。漣に至っては存在自体が珍しいので、どうしても好奇の目を向けられる。…はっきり言えば、これから辛い時期が長く続くと思います」
「はい…」
「その辛い時期が来る前に、身に付けておける事は全てやっておくべきだとは思いませんか?」
「それは、そうですが…」
紫秦の意見は確かに頷ける。しかし、果たしてそれが
りつに対する親切心を働かせる理由に繋がるだろうか。
今一納得がいかない
りつは不満そうな顔で紫秦を見上げる。彼女の肩越しに舎館の門が見える。到着まであと五歩という距離まで来た時だった。
突然振り返った紫秦の笑みが失せ、急に真面目な顔へ変わったのは。
「
りつが現実を嘆き続けていたら、背を押すような事はしなかったでしょう。ですが、あなたはしっかりと前を向いた」
「え?」
「振り返らないと、決めたのでしょう?」
りつは呆然とした。
紫秦に本音を打ち明けた覚えは無い。だが、彼女は
りつの心中を的確に見抜き、意思に合わせて接したという。帰郷は不可能だと答えた廉王の言葉で一縷の希望を切り捨てたあの時も、切り替えた意志を察していたのだ。
驚きに瞠目した
りつを、紫秦は揺るぎない眼差しで注視する。その双眼には切願を込めて。
「だから強く生きて下さい。自分の決意を貫く為に」
口調は厳しく、けれど胸に響く願い。
常識も理も違う国から来た人間にもかかわらず、生き抜く為に力を貸してくれ、明日を願ってくれる。その思い遣りが
りつの心を揺さぶった。
他人とはもっと冷たく心無いものではなかっただろうか。両親の不仲を知る者達の冷ややかな眼差しと絶えぬ陰口。作り笑顔の裏の、陰湿な思想。少なくとも、故郷ではそんな人ばかりだった気がする。
だが―――彼女は違った。
懸けてくれた思いは、けっして上辺だけのものではないのだから。
「もしも挫折した時には、叱咤しに里家へ行きます。いいですね?」
「……」
「
りつ?」
冗談を交えて告げたつもりだった紫秦であったが、俯き加減で反応の無い彼女の様子を不思議に思い僅かに首を傾げる。そのまま上体を傾けるようにして顔を覗き込むと、深刻そうな面持ちを俯かせた
りつと目が合った。
「大丈夫ですか?」
「…いいです」
「え?」
「ここで生きていくと決めた以上、挫折は絶対にしません。妥協するつもりもありません。だから、安心して下さい」
顔を上げれば、強くなる青鈍色の眼光。その決意に満ちた瞳と明言を受けた紫秦は目を見開いた。あれだけ不安げで頼りなく見えた少女が今、決然として一歩を踏み出そうとしている。王への謁見が何かしらの影響を与えたのか、それとも以前から考えていた事なのか―――。
どちらにしても、その成長を阻んではならない。そう考えた紫秦の顔が自然と綻んだ。
「そこまで言うのならば、分かりました。私は遠くから見守る事にします。その方があなたも成長できるでしょうから」
「ありがとうございます」
りつは深々と頭を下げる。自身の主張を考慮として受け入れてくれた事に感謝を抱いて、思わず礼が零れた。
しかしその一方では、苦難の道を進む決意を新たに据えた。こちらの常識すら分からないのだ、おそらく今以上に辛酸を嘗めて進む事になる。それも当然だと、自身の足元を見詰めながら口を引き結んだ。
並大抵の努力でこの世界を生き抜く事などできるはずが無いのだから。