肆章
1.
「おはようございます」
辺りに薄闇が漂う頃になって、ようやく目を覚ました
りつは目を擦りながら臥室を出た――矢先、ぎょっとする。突然の挨拶に驚きを隠せず瞬きを繰り返した先には、いつの間にか戻ってきた紫秦が小卓に荷を広げつつ、
りつの方を振り返り見ていた。
「お帰りなさい、紫秦さん。…もしかして、随分寝てました?」
「いえ、戻ってからあまり時間は経っていないので。熟眠できたのなら良かったのですが」
眠れただろうかと問う代わりに笑みを浮かべた紫秦に対して、
りつは軽い首肯で答えを返した。泣いているうちに睡魔が襲い、いつの間にか眠ってしまったが、目覚めは冴えているので熟睡できたのだろう。
紫秦が顔を小卓へ戻す様子を確認してから、
りつは空いている榻へ腰を下ろす。自然と紫秦と向かい合う形になって、そこで静かに深呼吸をすると、気を引き締めてしっかりと紫秦を見詰めた。
「紫秦さん」
「ん?」
「こちらのこと、もっと教えていただけませんか?」
小卓上に向けていた顔を上げた紫秦は目を見開いて
りつを凝視する。此方の世界から目を逸らしていた少女の口から突然前向きな言葉が出た事に驚きを隠せなかった。
「こちらで生活をするのなら、色々と学ばないといけないと思ったので…。道中だけでも、教えてはもらえませんか…?」
りつは真剣な表情で紫秦を見詰める。こうして徒歩での長旅となってしまった今、他に気を回す余裕は無い。それは分かっているつもりだ。だから、断られる覚悟で頼んだのである。
息を飲み、じっと見詰める
りつと紫秦の間に流れた沈黙はほんの僅か。
驚きから一変して普段の落ち着きを取り戻した紫秦は僅かに表情を和らげた。
「私は構いません。道中のみと限定する必要も無い。
りつが良ければ、今からでもお教えしましょう」
「え……本当に、いいんですか?」
「ええ」
頷いた紫秦の顔が、今度は少しだけ真剣なものになる。
「それに……私との旅が終わっても、あなたには学ばなければならない大きなものがある」
「え?」
「言葉です。私とあなたが話している言葉は一緒のように聞こえますが、実際は違う言語ですから」
紫秦の話を聞いた
りつは瞠目も束の間、ああ、と納得した。
最初に辿り着いた村で言葉が通じなかったのは方言のせいなどではない。この町の住民や舎館の者達の会話が分からなかったのも、言葉そのものが異なれば道理だ。
兎も角、と仕切るように軽く手を打った紫秦がゆっくりと腰を上げた。財囊だけを懐に入れて榻を引くと
りつに笑いかける。
「勉強する前に、飯堂で食事を済ませてきましょう。……ああ、その前に」
「はい?」
「顔を洗って来た方が良いですよ」
泣き腫らした跡が残る顔で人目のある飯堂に下りさせる事は流石に可哀想だと思い指摘をした紫秦であったが、一瞬目を丸くした
りつは羞恥から頬をほんのり赤く染めた。…仮眠前に泣いていた事は、既に見通されていたのだ。
頷きも中途半端に慌てて臥室へ引き返した
りつであったが、背越しに紫秦の苦笑が聞こえると益々顔を赤くするのだった。
りつが臥室で顔を拭き終わると飯堂で夕餉を取った二人は、部屋へ戻ってきた。予定通り、勉強の為に起居で向かい合うように席へ着くと、早速紫秦が口を開く。
「さて……此方の事はどこまで理解していますか?」
「国の場所と、国の大まかな成り立ちと…私の立場、それぐらいですか」
「分かりました。ならば処世を中心に教えた方が良さそうですね」
「処世?」
「民の生活に必要な知識の事だと思って下さい」
はい、と首肯する
りつを見る紫秦もまた軽く頷く。
彼女の処遇が決定した後、住む場所を考えると大方の予想は着く。すると生活の知識を覚えておくに越した事は無い。そうでなければ、
りつが文句を言われるか困り果ててしまう事になるのだから。
まずは民の暮らし方や衣服の種類、荷物の中にある知らない物の説明をすると、あっという間に時が過ぎた。気が付けば色濃い闇を照らす月光が窓から小卓に向かって伸びていて、就寝の時が過ぎている事を知らされる。
「…続きは明日の道中で。寝ましょうか」
「はい。ありがとうございました」
紫秦に向かって深々と一礼した
りつであったが、頭は詰め込んだ知識を整理する事で一杯になっていた。
…覚える事がありすぎる。覚えられる自信が無い。加えて言葉を覚えなければ会話もできないのだから、まともに生活できるまでの道程は遥か遠い。
夕餉前の決心が揺らいだ気がした瞬間、
りつの口を衝いて出たのは弱音の一部だった。
「…すごいですね」
「え?」
首を僅かに傾げた紫秦に対し、肩を落とした
りつは暗い顔で視線を膝上に落とした。半日も経たないうちに揺らぐなんて、なんて軽い決心なのだろう―――。
「知識は勿論、決断力も剣の腕もあって……私はまだ、何もできないから」
「
りつ……」
「だから、紫秦さんの逞しさが少し羨ましいです」
苦い思いを抱きながら、少しだけ吐露した
りつは敢えて苦笑を浮かべてみせる。しかし紫秦はけっして釣られず、真剣な顔を僅かに顰めつつ頭を横に緩く振った。
「自分を蔑視するのは止めなさい。そもそも私の腕前など、羨まれるほど抜きん出ているわけではないのですから」
「けど……」
「こちらへ来て間も無い
りつがそこまで気に負うことはありません。決断力は心に迷いが無くなれば自然とつくもので、剣術も身に着けようと思えばいくらでも機会はある。羨みも蔑視も、今は不要です」
「……はい」
明確な答えに、
りつの顔色もまた微かに明るくなる。こちらの知識も自分の立場も曖昧な今、そうはっきりと答えをくれる事が、今の
りつには何よりの励みだった。
2.
翌朝、舎館を出た二人は門へ続く途を見る。開門の時間まで余裕があるのは、西行きの馬車を探す為だった。
郷城のような大きな町には、北の子門を始めとする十二の門が存在する。二人が出るのは西に位置する酉門で、国都へ向かう者達はこの門を通る。そのため酉門を抜けて次の町へ向かう馬車がいくつか出ているのだと、馬車探しの間に足を止めた
りつは先程紫秦から教わった情報を思い出していた。
「さて、行きましょうか」
「はい」
人波の間を確認して歩き出した紫秦の後を
りつが着いて行こうとして、ふと足を止めた。途を緩やかに吹き抜けていく風が、重い。体に纏わりつくような湿気を含む空気が
りつを振り仰がせる。遥か上空、そこに広がっていたのは、薄雲。さらに東を見ると、厚い黒雲が迫ろうとしていた。
「雨、降りそうですね」
「…おや、本当だ」
りつの一声に反応して空を見上げた紫秦もまた遠くの雨雲を確認すると、自然と足早になる。できるならば、雨が降り出す前に天幕のある馬車を見付けたかった。
馬車は大抵、内還途か郷城から酉門に伸びる途――中大緯に停まっている。そう、探す途中で教えられた情報を振り返りながら、
りつは紫秦が酉門で発見した馬車に乗り込んだ。
然程待たずに開門の時間が訪れ、馬車は二人と数人の乗客と乗せて門を潜り出る。慣れない揺れを感じながら、遠ざかる郷城をぼんやりを見送っていた。
胸に沸く、妙なざわつきを覚えながら。
◆ ◇ ◆
筵を敷いただけの床に座っていると、多少凹凸のある道を走る度、振動が直に伝わってくる。腰を痛めそうな予感が
りつにはしていたが、さらに各下の馬車は幌が無いという補足を聞くと、雨を凌ぐ物があるだけましに思えた。
紫秦の補足から会話が途切れると、
りつは乗客の理解できない会話を背に、流れゆく風景にぼんやりと目を向ける。そのうち雨が降り、次第に雨足が強まると、遂には土砂降りに変わっていく。
天幕を強か打つ雨音に耳を傾けた
りつは雨漏りを心配して仰ぎ見、また雨で白濁する景色に目を戻した。
微かに見える景色と白濁の豪雨――その中に見えた、横並びの薄い黒点。
「紫秦さん……あれ」
「また、何かありました?」
名を呼ぶ
りつの不思議そうな声が、紫秦の脳裏に嘗て妖魔の襲撃を受ける直前の光景を甦らせる。
最初に妖魔を見付けたのは
りつだった。あの時の声音に似ている気がして、胸騒ぎを覚えた紫秦は
りつと共に後方の景色に目を凝らす。
白の景色に黒点が一つ、二つ。すると、右側の山に立つ雑木林から枝を折るような音が雨音に混ざって聞こえる。
そこではっとした紫秦は徐に腰を上げると、乗客の間を縫って馬車を繰る主の元へと歩み寄った。
やや大柄な男の肩をそっと叩いて、乗客の耳に届かないよう小声で囁く。
「妖魔が来ている。奴等に気付かれないよう、ゆっくりと速度を上げて下さい」
「へ!?」
驚き声を上げた男を、紫秦が宥める。視界は非常に悪いが、妖魔から逃れる為には致し方無い。馬車の主がこの道を走り慣れている事が唯一の幸いだろう。
紫秦の指示通り馬車は次第に加速する。それを確認して元の席へ戻った紫秦はじっと景色を凝視する
りつの肩に手を置いた。
「どうですか」
「大きさが変わらない。…速度は上がっている筈なのに」
小声で告げる
りつの焦燥の滲む言葉に、紫秦は小さく舌打ちをした。よりによって視界と足場の悪い時に襲撃してくるなど。
だが、ここで嘆いてばかりではいられない。佩刀した剣の柄を触れて確かめると、念の為に荷の中から取り出した短剣を連れの懐へ差し込んだ。すると驚いた
りつは紫秦を見返して、渡された物に触れた途端に言葉を失った。
「え…」
「いざとなったら、それで自分の身を守りなさい。この視界であの数だと、あなたを守りきれる自信が無い」
りつは息を呑む。以前の襲撃を対処した時と同じ真剣な顔で、有り得る可能性を伝えられると、緊張と不安がどっと押し寄せてくる。
妖魔の数は分からない。だが、大方予想している紫秦の口から不安が漏れるのだから、相当いるのだろう。
思わず懐で短剣の柄を握り締める。元々運動が得意ではない自分が、果たして身を守りきれるのか。もしや、ここで死んでしまうのではないか。
―――死。
急に隣り合わせとなった恐怖に、身震いする。
解り兼ねる世界で、知らない土地で、あんな化物に喰われるなんて。
―――死にたくない。
そう、強く願った直後だった。
突然、右側の天幕から凄まじい音と共に豪雨が馬車内に降り注いだのは。
一瞬、何が起こったのか理解できずに呆然としていた
りつの前を、即座に立ち上がった紫秦が塞ぐ。乗客の悲鳴が沸いて、直後に断末魔が上がる。
りつもまた尋常ではない状況に気付き緊張を走らせた。
剣を握る紫秦の脇から前方を確認すると、慌てて身を退いた乗客の大半が戦慄に顔を引き攣らせている。彼らが皆目を落としているのは中央に横臥する黒い獣で、大きさは大型犬ほど。首から体躯にかけて走る切傷が致命傷となったのだろう。断末魔が妖魔のものと分かると、一先ず安堵する。
「お、おい…」
「速度を落とさないで。このまま走り続けて下さい」
険しい表情で裂かれた幌の間を睨み、また後方にも目を向ける紫秦は構えの体勢を一切緩めずにいる。
白濁の景色の向こう、碁石程度だった黒点は次第に大きさを増す。それは同時に鮮明な形となり、後方から近付いてきたのは馬車内の亡骸と同じ形の獣が二匹。
「……来る」
「
りつは天幕の方をお願いします」
「はい」
再度舌打ちをした紫秦は、狼狽しながらも馬車の前部へ移動する乗客と入れ替わるようにして裂かれた天幕から後部へ後退する。背後からは複数の恐怖心が吐露されたが、この状況下では仕方ない。妖魔に対抗する為の武器も、討てる程の腕を持ち合わせている者も、紫秦を除いては居ないのだから。
馬車に追い付いた妖魔が泥塗れの前脚を蹴り上げる。跳躍し、馬車内に飛び込もうとしたその黒い体躯を、紫秦による渾身の一薙ぎが打ち落とす。血飛沫を撒き散らしながら馬車の外に投げ出されたそれは、白い景色に紛れて見えなくなった。
どよめきと恐怖の声を背に、続けて飛び込んできた妖魔の鼻面に容赦無く剣を突き入れる。けたたましい悲鳴を上げた獣に慈悲など無い。振り切るように右へ払えば、のたうつ体躯が地面に叩き付けられる姿を豪雨の中に見た。
「妖魔――!!」
「!!」
りつの悲鳴に近い叫びにはっと顔を上げた紫秦は即座に踵を返す。天幕がさらに大きく破かれ、雨が馬車内に降り注ぐ中に、見慣れない白毛の獣が一頭、もがく乗客の一人を足蹴に立っていた。
―――谿辺。
犬の形をした獰猛な妖魔を前に、瞠目した紫秦は剣を握り直す。吹き込む雨のせいで滑る床を踏み切って駆け出し、背後から斬り掛かった、その一秒前。
眼前に飛び込んできた鋭利な爪を、避ける余裕は無かった。
「紫秦さん!!」
りつの叫びも虚しく、爪の一振りを剣で防ぎ切れなかった紫秦の体が馬車の隅に弾き飛ばされる。馬車から落下しなかったのが幸いだったが、安堵は無い。むしろ危機を感じた
りつの頭からは血の気が引いていた。
紫秦が手にしていた剣は馬車内の床を滑り、
りつの足先にこつりと当たって止まる。それを見下ろせば、紫秦の手元に対抗する得物が無い事は明らかだ。
慌てて剣を拾い上げたが、妖魔越しに見た紫秦は縁に凭れ掛かるように倒れたままぴくりとも動かない。気を失っているのだと分かった瞬間、柄を握った手に嫌な汗がじわりと滲む。
―――このままでは、紫秦が。
唸る妖魔に向かって踏み出そうとする足が、自制心に阻まれて動けない。恐怖で震える両手は、それでも確かに剣の柄を握り締めていて、同時、命を殺ぐ凶器の重みが両腕に圧し掛かる。
―――恩人を、見殺しにしていいのか。
獣の脚が一歩、紫秦に向けて進む。
りつの背後で響く悲鳴。走る馬車の、泥土を裂くようにして回る歯車の音。遠ざかる白濁の景色と、豪雨。
それら全てを目に、或いは耳にした
りつの恐怖が、一瞬にして叫声へと変貌する。
「ァ、ぁあ――ぁあああああっ!!」
竹刀すら握った事の無い両手が、首を傾けかけた妖魔に向かって刃を振り落とす。力任せの一刀は床を叩き斬ること無く獣の首を深々と抉って、傷口から吹き上げた紅の飛沫が襤褸となった天幕に赤の斑点を描く。その直後、獣の振り上げかけた前脚と体躯が、力無く崩れ落ちた。
苦しげに何度か足掻いた後、獣はぴくりとも動かなくなった。
その瞬間、
りつの震える手から剣が零れ落ちる。剣が離れても両手は小刻みに震えたまま、見開いた双眸を血塗れの獣へ落として、何かを堪えるように口を引き結ぶ。
りつが初めて自らの手で生物の命を奪った瞬間だった。
3.
いつもより落陽の早い曇天の下、視界が白く霞むほどの豪雨の中を、幌の破れた馬車が駆け抜ける。
雨音に混ざり聞こえてくる鈍い太鼓の音は、町に十二ある門が閉じる合図だ。それを
りつが耳にしたのは、町の東に位置する卯門を通過した直後のこと。
道中で妖魔の亡骸を落としてきた馬車内には、裂けた天幕の間から吹き込んだ雨と血飛沫で酷い有様だった。
乗客は汚れの及ばない端に寄り、片隅では気絶してから未だに目を覚まさない紫秦と、彼女の意識が回復するのを待つ
りつの姿がある。
卯門へ入り右へ曲がったところで馬車が停まり、それに気が付いた
りつが俯かせていた面を上げる。雨足の弱まった外の景色。それをふいに乗客の一人が遮った。頬の痩せた長身の男だった。
男が
りつに何事かを話し、両掌を見せるように立てながら馬車をゆっくりと降りる。此処で待てという事なのだろう。そう捉えた
りつは大きく頷くと、男は雨降る町中を駆けていく。
紫秦が目を覚ましたのは、それから暫く経ってからのことだった。
「!紫秦さん…よかった」
「此処は――町に入ったのですか…」
「はい」
ゆっくりと体を起こした紫秦の姿から、
りつは安堵に胸を撫で下ろし、気抜けたように表情が崩れた。すると背後の町を見、次いで彼女の安堵しきった様子を目にした紫秦は首を傾げる。
「妖魔はどうしました…?」
紫秦にとっては単なる疑問だった。しかし問いを口にした瞬間、
りつの安堵に満ちていた顔が強張ったのを確かに見た。
…“どうなったか”ではなく“どうしたのか”と聞いたのは、妖魔が獲物を前に自ら退く存在ではない事を十分に知っているからだ。だから誰かが退けたのだと理解し、精一杯繕われた笑顔を目の前にして事情を察した。
「……そうですか。お陰で助かりました」
言って、紫秦は笑む。だがその一言で、
りつが繕いかけた笑顔がくしゃりと歪んだ。平静を装っていた心が、ぼろぼろと崩れ落ちていく。今しがた妖魔の肉を断ち切った感覚が鮮明に甦ってくる、その恐怖。
「…
りつ?」
目線を落とす
りつの顔から血色が失せた事に気が付いた紫秦は覗き込むように身を屈めたが、反応は無い。心配になって肩を揺すろうとした手前、馬車の外から紫秦に声が掛かった。町中に行っていた男がずぶ濡れで戻ってきたのである。
紫秦と
りつは戻ってきた男の案内で町の西側へと向かった。男の知人がこの町で医者をしているのだという。
大途から少し逸れた一郭に一見古びた
民居があり、その中で診てもらったものの、紫秦は擦り傷程度、
りつに至っては顔色こそ悪いが無傷だった。
男に礼を言って別れた二人は、雨の中で宿を探し、三件目でようやく軒下に入る事ができた。
部屋に入り、起居で濡れた袍を脱ぎ、被衫に着替えて小卓前の榻に座る。互いに腰を落ち着かせたところで、紫秦が小卓越しに
りつを見る。顔色は先程より良いが、物憂げに俯く様子から気分は沈んだままのようだった。
「妖魔を――いえ、獣を斬ったのは初めてでしたか」
途端、
りつの肩がびくりと跳ね上がる。膝上で作った拳の内に嫌な汗が滲んで、不快な記憶が脳裏に甦る。それでも恐る恐ると紫秦を見て、小さな頷きを返した。
「蓬莱はそれほど安全な国なのですね」
安全といえば安全だ。妖魔のいない国。命の危機に曝されない事はこの国の者にはひどく羨ましいに違いない。
そう思う一方で、
りつは紫秦の言葉に頷き難いものを感じていた。残念ながら、その心中を言葉で上手く表現することはできなかったが。
「罪悪感がありますか」
「少し…。自分の手で命を奪う事が初めてだったので…」
「しかし、奪わなければ自分の命が無い」
指摘を受けた
りつの顔が引き攣る。それでも紫秦は姿勢を変えなかった。
「こちらで生きていく為には、ある程度の覚悟はどうしても必要になる。できるならば早めに決めていただきたい」
「…はい」
生き残る為に障害となる者の命を奪う。故郷との大きな違いを改めて感じた
りつは紫秦の言葉に頷きそっと目を伏せた。
妖魔との交戦を思い出すと共に、妖魔を斬った感覚が戻ってくる。伴う嫌悪はあと何度斬れば薄れるのか。…いや、慣れるまでに生き抜けるのだろうか。
行先への不安に胸が詰まる。そんな
りつの様子を見守る紫秦は何かを言いかけて飲み込む。すると微かに表情を和らげた。
「ですが、あなたのお陰で私も乗客も救われた。感謝していますよ」
あのとき、紫秦の代わりに剣を奮わなければ乗客の命は無かった。その事実が、命の奪取に対する重さと自責の念に苦を抱く
りつの胸中を僅かながら軽くさせる。それでも対面者を見る
りつの視線に含まれていたのは複雑な心情だった。
襲来する妖魔を仕留めなければ生き延びるのが難しい。覚悟を抱かなければならないほど死が間近にある。安寧など程遠い。そんな世界で、平和に浸っていた自分が果たして生き残れるのだろうか……と。
◆ ◇ ◆
その日は其々の臥室で身を休めると、翌の明けには町を出た。再開した二人旅はそれから、まるでこれまでの騒ぎが無かったかのように平穏無事な旅路を辿り、七日目にようやく国都へ足を踏み入れた。本来ならば騎獣で一日少々の旅である。
宿を取るなり足を踏み入れた起居を過ぎて臥室に入ってしまった紫秦の姿に
りつは首を捻って、その数分後に行動の意味を理解した。
臥室から出てきた彼女の格好は礼装で、これまで解いていた髪も纏め上げられている。普段よりも肩に力が入っているように見えるのは、気のせいではないだろう。
「では、行ってきます。私が帰ってくるまで寛いでいて下さい」
「はい―――行ってらっしゃい」
若干言動の硬い紫秦の背を見送って、ぱたりと閉ざされた戸に鍵を掛ける。それから起居に戻った
りつは、窓辺へ榻を寄せると徐に腰を下ろした。窓から見える凌雲山――国都の凌雲山を重嶺山とも呼ぶ――、その麓に広がる街並みは国の中心部だけあって、今まで訪れたどの町よりも賑やかで、活気があった。
窓の縁で頬杖を着きながら、途を行き交う人の波を漠然と眺める。絶えず聞こえる明るい声を聞くと、妖魔を警戒しながら此処まで進んできた旅がまるで嘘のように思えた。
(ここで私の処遇が決まる……)
二十年ぶりの海客への対処にあぐねているという役人が、一体どのような処遇を打ち出すのか。良ければ住む場所を与えられるが、最悪追放になどなりはしないだろうか。
……或いは。
帰る方法があるのだとすれば、教えてくれるのかもしれない。
「……まさか」
一度諦めた帰郷への可能性を考えて、頭を横に振る。康由も紫秦も帰れないと断言したのだ、まず無いだろう。
自嘲を零して、今度こそ考えを断つ。途端に情けなさを覚えた気がしたが、これで良いのだと自分に言い聞かせて、押し寄せる寂しさを外の賑やかな声のせいにした。
紫秦が戻ってきたのは、
りつが睡魔に船を漕ぎ始めた矢先のこと。
扉の開く音がして、はっと目が覚める。振り返ると、礼服姿の紫秦が片手で扉を閉めたところだった。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
榻から立ち上がって出迎えた
りつを視界に入れた紫秦は笑み、それから首を捻る。起居を見る限り、榻が窓辺へ移動している以外に変わりは無い。到着時に小卓へ乗せた荷物にも弄った形跡が見られなかった。
「ずっとそうしていたのですか?」
「はい、街並みが珍しかったので…」
答えて笑う
りつに、紫秦は感心を通り越して呆れを覚える。
いくら珍しいとはいえ、余程興味を惹くものでも無ければ何時間も眺めていられないだろう。そう思い、窓の外を見るが、そこには国都らしい喧騒があるだけで、特別物珍しい事は無い。
軽く溜息を吐いて窓から離れた。それと同時に
りつの問いが掛かる。
「どうでした?」
「返答は三日後だそうです。骨休めと思ってゆっくりしていましょうか」
三日、と呟いた
りつは小さく頷く。紫秦に処世を教えてもらえば、三日もあっという間に過ぎるだろう。だから、焦る必要は無い。
自分に言い聞かせながら再び外を見る。そんな彼女へ紫秦が投げ掛けたのは、
りつにとって思わぬ提案だった。
「街を見に行きますか?」
「え…いいんですか?」
「構いません。
りつが疲れていなければ、ですが」
どうですか、と是か非か求めようとした紫秦の口が、発する前に閉ざされる。驚く
りつの顔に滲む期待の色を読み取れば、聞くまでもなかったのである。