-陸章-
「落ち着いたかい?」
声を掛けられて、悄然としていた
明秦はのろのろと面を上げた。房室の入口から運ばれてきた灯りが卓上に置かれて、温かな光が先日の旅路の夜を思い起こさせる。…思い出したところで今更何か変えられる訳でもないのに、どうしても何度も考えてしまう。あの時一人でも多く助けられた方法があったのではないか…と。
目の前に置かれた湯呑から湯気が立っているのが見えて、
明秦は向かいの席へ腰を下ろした青年へゆっくりと視線を移した。
「……ありがとう」
「うん。…それで、
明秦はこれからどうするか、予定は決めているかい?」
「…本来は、奏に入ったらとりあえず仕事を探そうと思っていた」
「仕事?」
「路銀は持っているけど、少なくて。奏で路銀を稼いで他の国へ向かおうかと」
「ああ、なるほど」
巧国を出発する前に杖身の報酬として渡されたのは旌券と路銀、そして冬器だった。どれも旅には必須だが、特に路銀は国によって物価が異なるため、旅の途中で底を着く可能性がある。冬の野宿は北に行くほど凍死の確率が高くなるため、どうしても避けたかった。
そんな
明秦の思案を察したのか、それなら、と利広は一つの提案を切り出した。
「まずは保護の申請をするといい。わたしが手続きをしようか?」
「それはできれば止めてほしい。…そういう特権は、あまり使ってほしくない」
特権、と復唱した利広に、
明秦はひとつ頷く。
「使えるものは使えと言う者もいるだろうけど、私はもう、王とも神仙とも縁の無い一人の人間として生きていきたい。…だからといって、“友人”と縁を切りたい訳じゃないけども」
「神仙の立場としてではなく、友人として接するのであれば、今後も会ってくれるという事かな」
「ああ。友人としての利広なら、大歓迎」
権利や立場など関係無しに、一人の人間として接する。それは長年雲の上に住む者達にとっては難儀であるが、少なくとも
明秦から見た利広という男は、特権も立場も下界では殆ど拘らないように見える。だからこそ持ち掛けた話に、青年はただ、分かった、と一つ頷いていた。
「――そうだ。利広、戴国に動きがあったかどうか知らないか」
「いや、何も来てはいないな」
「……そうか…」
小説が来ていないという事は、未だ戴国で変事が起きていないのだろう。…或いは、泰麒が動いている只中なのか。麒麟の帰還ともなれば大事の筈――すぐに話が国外へ出回っても可笑しくは無いのだが。
一抹の不安が靄と化して胸に残る。表情を曇らせた
明秦が俯く様子を見詰めていた利広はしかし、再会後から思案していた案を思い切って切り出す事にした。
「…
明秦。もし良ければ、わたしの旅についてくる気は無いかい?」
「利広の?」
うん、と利広は小さく頷く。
「ついでに
明秦が寄りたい場所へも行こうか」
「良いのか…?」
「ああ。但し、その前にわたしは用事を済ませて来なければならなくてね。十日ほど私の友人宅に身を寄せてもらっても良いだろうか」
「それは…構わないけど」
旅の支度にもそれなりの費用が嵩む。一から揃えると受け取った路銀の大半が飛んでしまうため、内心有難かった。
「因みに巧から来た者達は明日、保翠院の者達が迎えに来てくれる手筈になっているから心配は無用だ」
「そう…それなら、良かった」
明秦は窓の方へ視線を向ける。日没後は国境の門扉が閉ざされる。懐事情に合わせて国境の門を抜けて隣国の舎館に宿泊する例は決して少なくは無かった。だが、安い方の舎館にすら足を向けられない者達も存在する。その場合は町の片隅で火を熾し、身を寄せ合いながら一晩を明かすのである。
高岫で解散の約束とはいえ、一人だけ舎館の臥室で眠る事は気が引けた。…だが、それを断る気力も、最早残っていない。緊張の糸が完全に切れてしまった所為で体に重しを乗せたような倦怠感と睡魔に襲われ始めていたが故に。
「とにかく、今日は休んだ方がいい」
「ありがとう。…おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
徐に椅子から腰を上げた
明秦は重い足を引き摺るようにして臥室の向こうへと消えていく。その丸められた背中は疲労のせいばかりでは無いだろう。そう、思いながら静かに見送った利広は、訪れた静寂の中にそっと溜息を落とすのだった。
目を開けると、そこには闇ばかりが広がっていた。
黒く塗り潰したような空間の只中、困惑を憶えながら振り返ると、足元で水の撥ねる音がした。薄く水が湛えられているのだろうと推察したものの、足元を照らすほどの明かりは無い。ただ、振り返った先には白い光が見えて、それが随分遠くに細く長く在る。まるで立てた蛍光灯が煌々と点いているようだった。
その白い明かりを目指して足を進め始めた
明秦はしかし、十歩も進まない内に足を縫い留められる。ぐい、と足首を覆ってくる何かに引っ張られて、足元へ視線を向けた瞬間にもう片足に何かが巻き付いた。酷く冷たいそれが人の手である事に気が付いたのは、膝下へ更に腕のようなものを巻き付けて来たものが人語を発した所為だった。
足許から次々人に縋り付かれている。その恐怖で喉を引き攣らせたまま身を強張らせた瞬間、闇の中である筈なのに、それらの顔がぼんやりと浮かび上がってくる。…それは、隣国に辿り着けなかった者達の、嘆きに歪む顔だった。
――里祀へ毎日足を運んでいた女性。
――蠱雕に食われた青年達。
――…董革。
「……!!」
思わず飛び起きた先には、薄い闇夜が広がっていた。
狭い臥室の、冷え切った空気を取り込みながら、荒い息遣いだけが響く。動悸の苦しさから胸を押さえる
明秦の頬を、どっと噴き出した冷汗が頬を伝い落ちていく。胸に残る苦しさが悪夢からのものなのか、それとも色濃く残る後悔からなのかは判然としなかった。
責められても仕方ないのかもしれない。
けれども一体、どうすれば良かったのだろう。戻れば良かったのか、そもそも出発の方法から間違っていたのか。別案をもっと組んでいれば。
考えても考えても答えは見つからない。…否、見つかる筈も無い。答えを知る者など、此処には誰もいないのだから。
■
悪夢に魘されて目を覚ました
明秦の元に睡魔が戻ってくる事は無かった。
臥室で膝を抱えたまま鬱然と過ごし、ふと見やった窓に区切られた空の片隅は白み始めている。幸い此処は最南端の国境、早朝に漂う冷気は巧国のそれよりも暖かい。それで、窓の下方を覗いた先に身を寄せ合って眠る者達は袍の袷を掻き合わせる事も震えて縮こまる様子も見られない事に安堵する。
(保翠院には既に連絡を入れたと利広は言っていた。…多分、浮民や荒民を保護する機関なんだろう)
本来ならばあの中に混ざり、浮民として一緒に保護を受けるべきなのだろう。ただ奇跡的に国境の町にいた利広と再会したことで、待遇が格段に跳ね上がった。…それを此方では天意と称する者もいるが、果たしてそうだろうか。
蓬莱で泰麒を見守り、此方の国へ送り出し終えた今、既にそこらの海客と大差が無くなっている。だから本当に、利広と再会したのも偶然でしかない。…そう、思い込みたかった。
本当に天意があればきっと、全員が助かった筈なのだから、と。
「予想はしていたが、酷い顔だ」
身形を整え終えた
明秦が臥室を出ると、房室には身支度を終えた利広の姿があった。投げかけられた第一声を受けて
明秦の顔が僅かに強張る。房室の椅子に腰掛けた青年の表情には心配の欠片も見られない。但し好奇の眼差しでもない。本当に酷い顔という感想だけを述べたようだった。
「…昨日は、色々あったので」
「そうだね。長年生きた者でさえ、あれはきっと堪えるだろう」
「…そう言ってくれると、多少は心が軽くなるよ」
彼なりに考えたであろう慰撫に、
明秦は微かな笑みを浮かべる。……否、浮かべたつもりで口端が引き攣るように持ち上がっただけだった。
「……利広。騎獣を迎えに行っている間、広途に行ってきて良いかな」
「おや。このまま出発すると思ったのだけど」
「流石に無言のままでは後味が悪くて」
「構わないよ。鞍を着けるのに少し時間が掛かるから、話してくるといい」
明秦は口を開きかけ、喉元まで出掛かった言葉を寸でのところで呑み込んだ。馴れた騎獣に鞍を着ける事は容易い。まして長年の相棒に梃摺る訳が無い。…つまり、彼なりの配慮なのだろう。
小さく礼を告げて身を翻すと足早に房室から出ていく。長い廊下を通り抜け、舎館を飛び出した瞬間、昨日よりも幾らか冷気を纏った空気が頬を掠めた。
広途の片隅で身を寄せ合い眠る群衆は複数。その内の一群の元へと歩み寄っていくと、一番手前で背を丸めて座る老婆が顔を持ち上げた。疲労の残る顔ではあったが、少なくとも昨日の緊張と警戒で強張っていた表情よりもずっと和らいでいた。
「あ…
明秦」
「お早う御座います」
「おはよう。…もう、行くのかい?」
声を潜めて訊ねた老婆に軽く頷いてみせると、視線を合わせるように片膝を着く。
「此処まで一緒だったのに、挨拶も無しに発つのは薄情な気がして」
「薄情なものかい。此処まで守ってくれただけでも有難いのに」
刻まれた皺を深くして、老婆は柔らかな笑みを浮かべる。…守った。その言葉に
明秦の面持ちが僅かに歪む。
最後の日に多くの犠牲者を出してしまった。それで、果たして守ったと言えるのだろうか。もっと早く蠱雕に気が付きさえすれば、少なくともあの若者は助かったのでは。
昨日の光景を何度も思い出しては後悔の念が胸中の片隅を蝕み続ける。夢を思い出しては深い泥沼に身を沈めていくような心地が圧し掛かる。そんな思いを抱きながらも、眼前の老婆には心中を察されまいと僅かに苦笑を繕った。
…繕った、筈だった。
「私達や後の事は気にしなくていい。お前は巧の民ではないからね。自分のこれからの事を考えなさい」
「……はい」
「お前の手や目の届かない所で起こった事は変えられる筈が無いんだもの。なるようにしかならないのさ」
「…ええ」
「董革達の事は残念だが、気にしなさんな。私達の判断の遅さが招いた事だ。お前の所為じゃない」
「……」
人は、手を伸ばして届く範囲でしか誰かを救えない。
立ち止まったところで何も変わらない。
そう頭では理解していても、もどかしく歯痒い気持ちは湧くばかり。
袍の内側で拳を強く握り締める
明秦の面が次第に俯いていく。そんな彼女の肩を、皺を深く刻んだ手がそっと撫でた。
「それでも後悔するのなら……せめて今後は同じ轍を踏まないよう生きておくれ」
これ以上の後悔を重ねない為にも。
老婆の願いに返答を躊躇った
明秦であったが、ややあって拳を解くと自身の肩に乗せられた手に掌を重ねて、小さく頷いてみせた。
「……頑張ります」
「うん。……ああほら、お連れさんが待っているよ。行っておあげ」
老婆の眼差しが遠くなる。視線を追って振り返った
明秦の視界には支度を終えて舎館前に佇む青年と、その傍らには白黒模様を湛えた立派な騎獣の姿があった。
明秦はもう一度老婆を見詰めた。…神仙ではない彼女の寿命はあと十年在るか否か……ならば、此処を発てばもう二度と会う事は無いだろう。
そっと唇を噛み締めて、深く深く頭を下げてから立ち上がった。老婆の後方で未だ疲れ切った顔をして眠る者達を一望し、最後にもう一度だけ頭を下げてから、ゆっくりと踵を返していく。
そうして静かに離れゆく者の後姿を、老婆は寂しげに見送っていた。
「終わったのかい?」
「ああ」
「よし。じゃあ出発しよう」
利広は騶虞の手綱を引いて歩き出すと、高岫山の国境を背に歩き出した。黎明を迎え、じきに陽光が差し始めるであろう時刻ともなれば、開門まではあと僅か。真っ直ぐに伸びた、今は人の疎らな途を進みゆくと、やがて門扉が見えてくる。歩墻からは開門を報せる太鼓の低音が響き始めていた。
高岫の町を早々に抜け出すと、利広は騶虞の鐙に足を掛けた。慣れた動きでひらりと騎乗し、続けて
明秦もまた利広の肩と鞍に手を掛けて跨る。上背のある青年の背後からは前方を拝む事は難しく、掴まる場所も無いため、仕方なく彼の両肩へ手を置くのだった。
「騎獣も久しぶりだろう」
「久しぶり過ぎて、酔わないか心配なくらいだ…」
「騶虞に乗って酔った人間は見た事が無いから、大丈夫だろう」
騎獣の中でも最上と謳われるほどの騎獣――騶虞。普通の騎獣ならば一国を渡るのに数日は掛かるところ、騶虞は一日で駆け抜ける事ができるという。乗り心地も他の騎獣とは比べ物にならないほど良いのだから、騶虞で酔うのであれば他の騎獣も乗る事は困難に違いない。
そんな利広の予想通り、
明秦の心配は杞憂に終わった。時折休憩を挟みながらも上空を駆け続け、半日も経たない内に青年の背越しに見えてきたのは蒼穹を分断する柱。天を突き抜けて屹立する凌雲山が陽光に照らされて、淡い黄土色の地肌が存在を浮き立たせていた。
近付いている筈なのにいっかな大きさの変わらないそれを、
明秦は懐古の念を胸に眺めていた。一昨年まで時折目にした風景。虎が上空を駆ける事も天を穿つ山の存在も、蓬莱と全く異なるのだと改めて認識させられる。
やがて緩やかに降下していく騶虞の背から、凌雲山の麓に広がる街並みを一望した
明秦であったが、僅かに軌道が北へと逸れ始めた事に気が付いて首を傾げた。…てっきり首都である隆洽の街へ降り立つものだと思い込んでいたのだが、そういえば目指す地名については話していなかった。
やがて隆洽山を背にして騶虞は北へ疾駆する。少しばかり駆けた先、下方には広大な畑が穂を靡かせていた。
そして、風が吹く度に波打つ穂の間。複数の小さな建物を寄せ合うようにして形成された集落――里がぽつんと見えてくると、騶虞は更に高度を落としていく。大きく弧を描きながら外還途の手前へ下り立ち、鞍から降りると、手綱を引いて歩き始めた利広が里閭を潜りゆく。明秦も追って里へ足を踏み入れると、利広が還途沿いの民居を訪ねるところだった。
「おおい、いるかい?」
ぴったりと閉ざされた戸越しに声を掛けたが、返答は無い。僅かに戸を開けて覗き込んでみたものの、房室は薄暗いばかりで人の気配が無かった。
「いないのか……畑に出ているかな」
「……利広。此処は?」
「言っただろう。わたしの用事が終わるまで、友人宅に身を寄せてほしいと」
「言われたけども……まさか、今からその友人に許可を取る訳では」
「話す時間が無かったからね」
明秦は呆れ顔で利広を見上げた。関係性は分からないが、その友人とやらが一日外出していたらどうするつもりなのか。首都は比較的近い土地なのだから、隆洽まで足を運んでいるかもしれない。けれども向かうとしたら少なくとも片道一日以上は掛かる。
一体どうするのか、と
明秦が改めて問い掛けようとした時だった。僅かに駆け来る足音がして、還途から曲がり来る人影が一つ。利広と
明秦が振り返ると、齢は二十代後半だろうか。嚢を片手に足を止めた短袍姿の青年がたちまちの内に驚愕の面持ちへと変貌する。
「……利広殿?」
「やあ、数年ぶり。――いや、待った。今はそのままでいい」
嚢をその場に落として拱手を取りかけた青年へ、利広は即座に制止を掛けた。だが、と困惑の色を滲ませたのも束の間、利広の隣に立つ少女を一瞥して理由を察したのだろう。渋々下ろした手で落としたばかりの嚢を拾い上げた。
そんな二人のやり取りを認めて、
明秦は嗚呼、と思う。彼は間違いなく利広の正体を知っている。そして叩頭礼ではなく拱手を以てして礼節を重んじようとする姿勢は、彼が決して只の民ではない事を言外に表していた。
「……何かあったのか」
「いいや、まだ何も。今日は頼みがあって来たんだよ」
「…貴殿の頼みは一癖ありそうだ。身構えそうになったぞ」
「ええ…それほど厄介事を持ち込もうとしている自覚は無いんだけどな」
「……まぁ尤も、私そのものが最大の厄介事だからな…これ以上は何も言わんが……それで、その頼みとは」
「十日ほど、彼女を預かってくれないか」
「―――」
男の蘇芳香の双眸が丸くなり、明秦を見詰めて、利広へ再度視線を戻すこと数拍。沈黙の中、途端に顰め面をしてみせた男の口角があからさまに下がりゆく。
「断る」
「ええ…」
「いいか利広殿。いくら長く生きた身とはいえ、一人身の男の家にお嬢さんを預けるような事は止めろ。貴殿ならば舎館の一つや二つ、用意は容易かろう」
「わたしも最初はそう思ったのだけどね。何せ彼女は私の特権行使を嫌うものだから已むを得ず、わたしが信頼を寄せる君に預けようと思ったんだ」
「特権……まさか、自分の身分を明かしたのか…?」
「そうしても問題は無い人物だから明かしたに過ぎない」
「………」
男と利広の間に再び沈黙が落ちる。男の面持ちの厳しさに変わりはなく、また利広の余裕を含ませた笑みも変わらない。
やがて沈黙を破ったのは男の盛大な溜息だった。
「…君、名は」
「初めまして、
明秦と申します。…やはりご迷惑をお掛けしてしまうと思いますので、お暇させて頂きます」
「おや、どうするつもりだい?」
「十日程度なら、仕事を見つけて働きながら待てるから大丈夫だと思う」
明秦はそう淡々と、事も無げに告げる。奏国隆洽であれば仕事は探そうと思えば幾らでもある。幾らか日銭を稼いで安宿を借りる事もできるし、最悪野宿でも構わない。何より、いくら利広の紹介とはいえ眼前の男が迷惑がっている事は明白である。流石に押し切って世話になれるほど厚顔無恥にはなれなかった。
だからせめて隆洽までは送り届けてくれると助かる。そう利広へ続けようとした言葉は、不意に吐き出された男の嘆息によって阻まれた。
利広と
明秦が視線を移した先、目元を掌で覆った男が軽く項垂れていた。
「……
明秦殿、鍬は持てるか」
「え?」
「働けるかと聞いている」
「ええ、できます」
明秦が戸惑いがちに頷いてみせると、よし、と小さな呟きが男の口から零れ落ちる。再び持ち上がった男の面持ちは未だ渋いまま、笑みを深くした利広の元へと渋々向けられた。
「…今回だけだ。これ以上の預かり事は止めてくれ」
「ああ、恩に着るよ」
満足気に微笑んだ青年を、
明秦はまじまじと見上げる。…彼はもしかしたら、この民居の主が折れる事を最初から確信して突撃してきたのだろうか。それも、事前に伝えると門前払いを食らうと見越して。
その計算高さはどこか北東の州国の王と似たものを感じる。長年生きてきた者は皆そうなるのだろうか、とも思う。…景王もまた大国となれば、何れそうなる可能性は無きにしも非ず。
複雑な感情を抱きながらも、ひらりと手を振り身を翻した利広を漠然と目で追いかけていく。
「じゃあわたしは早めに戻って来れるよう努めてくるよ」
「ああ、そうしてくれ」
「行ってらっしゃい」
民居を背に騶虞の手綱を引いて還途へ向かう利広の姿を、二者は角を曲がり見えなくなるまで見送った。少しすると上空を力強く翔け上がる一騎が緩やかに旋回し、南へ向かう姿は瞬く間に小さくなっていく。
遥か頭上から視線を戻した
明秦は、未だ上空を仰ぎ見る民居の主へ深く頭を下げた。
「…申し訳ありません。十日間、よろしくお願いします」
「貴殿が謝る必要は無い。謝罪なら戻ってきたとき、彼の口からさせるさ。不便はあると思うが、気を楽にして過ごしなさい」
「お気遣いありがとうございます。…ええと」
明秦の言葉が不意に詰まる。…今更ではあるが、初対面ならば交わすべき挨拶を未だしていなかった事に気が付いた。思えば利広は一度も男の名を口にしておらず、
明秦自身は名乗ったもののすぐに断りを述べてしまったために男が名乗る機会も失っていた。
思わず眉尻を下げた彼女に対し、男はほんの僅かに和らげた表情に苦笑を混ぜる。
「私は勠秦という。それから敬語は不要だ。使われる理由が無いからな」
「分か、…った」
言った傍から敬語を用いかけて言葉を閊えさせた
明秦に、勠秦の苦笑が色濃くなる。そのまま民居の中へ入るよう促しながら歩を進め始めた男の背を、
明秦は慌てて追いかけていった。