-伍章-
「……流石に可笑しいだろう」
三日目の早朝、疲労の溜まった顔を突き合わせた者達は、一様に頷いた。
出発前に一度集った場所に野木は無く、二日目の晩は見張りを交代しながら夜を明かした。できるだけ枯れ木の多い場所を選び、窪んだ木の根の間や、妖魔の襲撃ですぐに人が散って逃走できるよう、等間隔で横になるよう指示を出してから町の者達を休ませた。本来ならば一体でも妖魔を狩った場合、血臭に惹かれて他の妖魔が来る。そうなれば町の者達を叩き起こして場所を移動しなければならない。だが、どういう訳か夜中に一体も現れる事は無かった。
「本当に、一体どういう事なの…」
「分からない。…強いて挙げられるなら、奏に近い場所まで来ている分、妖魔が少ない、とも考えられるが…」
「それだと一日目や二日目が道理にならない…」
「確かに…」
このまま行けば午の前後には高岫山の麓へ到着できる。…だが、喜びよりも動揺が勝るなど、誰が予想できただろうか。
杖身役の者達の困惑は町の者達にも広がっていた。町にいたから妖魔が寄せられていたのか、それとも妖魔がいない場所を偶然通過してきただけなのか。
困惑の声が随所から聞こえる。まるで細波のように広がるそれを見、しかし誰も答えを出せる筈も無いまま、最後の旅路を辿り始めた。
奏国へ近付くにつれて雲が薄らいでいく。それは数刻も経てば晴天へと変わり、日差しが眩しいほどだった。
随所に罅割れが見受けられる地面を歩き、やがて一人、また一人と水が底を尽きた話が持ち上がる。残っている者の水を分け与え、さらに分け与えた者の水が尽きると別の者から。それを続けながら歩いている内に、大半の者の水が尽きてしまった。
「恐れていた事が起きたか…」
「あとはもう少しなので、頑張ってもらうしかないです。ここ近辺の里や町もおそらく、無人でしょうから」
整備されていない井戸の水は腹を下す可能性が高い。そもそもこの土地の罅割れ様ではおそらく井戸水は涸れているだろう。故に、水の補給は期待できない。
だが――誰かが前方を指差した。釣られて一人、また一人と顔を上げ、次第に歓喜や安堵の声が響いていく。
高岫山の山脈は薄らと見えていた。だが、麓の景色を漸く目視できる場所まで辿り着いた喜びに、気を緩める者が一人、また一人と増えていく。
「まだ此処は巧国だ。気を抜くな!」
「でも、これまで妖魔に遭った回数を考えたら、もう遭わないんじゃないか?」
「しかし……」
それでも最後まで――高岫の街へ入るまでは気を抜いてはならない、と。
杖身役の者達が口を揃えて注意を発しかけた瞬間、一人の若者が数人を引き連れて駆け出していく。
「待て!列から離れるな!!」
「大丈夫だろう!ほら、誰が麓へ一番に着けるか競争だ!」
緊張が弾けたのだろう。歓喜の声を上げながら四、五人が麓を目指して駆けていく様に、杖身の者達は制止の声を荒げ――
明秦は、頭から血の気が失せていくのが分かった。
――彼らは、気付いていない。
「蠱雕!!」
「しまっ――頭上だ!蠱雕が来ているぞ!!」
「!?」
最後尾から全力で声を荒げた男の隣から、
明秦が急ぎ駆け出した。鞘から剣を引き抜きながら、漸く空から急降下する蠱雕の姿を捉えて散り散りになる者達を目で追いかける。一体だけならばまだ何とかなるかもしれない。だが――襲来の個体数は、二。一体は集団目掛けて飛ぶ様を横目で見、他の杖身達に任せる事にした。そしてもう一体は逃げ遅れ、転びかけた瞬間、胴を鷲掴みにされる。蠱雕の足首を狙い振り切った剣は爪先を僅かに掠って、巨躯が頭上へと急上昇していく。
「しまっ」
「助けてくれ…!!」
死にたくない、と。
聞こえた声は、最後に掠れていた。
空へ投げ出された男の体が、旋回した蠱雕の嘴に抉られる。陽と重なって目を眇めた直後、ばたばたと降ってくる生温いものに気が付き大きく後退する。 顔に降られたものを袖で拭って、それでも鉄錆の臭いが強くこびりついた鼻を覆った。瞬きの後に、どしゃりと何かが落下し潰れるような音がしたが、今は視界から外して残りの散り散りになった者達を視界に入れる。
「隊列に戻れ!!急いで走れ!!」
「ひっ…!!」
残りは、四人。うち三人は何とか躓きながらも隊列に向かって駆け出した。残りの一人はおそらく蠱雕の動きを目で追ってしまったのだろう。座り込んだまま放心しているらしかった。
「立て!!此処に居ては死ぬぞ!!」
「ぁ…ああ…」
「しっかりしろ!さっさと走れ!!」
明秦は青年の腕を引き起こそうとしたが、がくがくと震えたまま一点を見つめていた。やむを得ず、頬を容赦なく平手打ちすると、そこでようやく我に返った青年が焦点を合わせた。
「走れ!!」
「あぁ…!」
四つん這いから少しずつ駆け出した青年を目の端に入れ、次いで降下の体勢に入り始めた蠱雕を見上げる。急降下してくる蠱雕を仕留めるには標槍が適している。だが、今の得物は冬器の剣一本。仕留めるにはそれなりの技量を要する。
(焦るな…落ち着け)
舞い上がった黒点が次第に大きさを増していく。町の外で蠱雕を仕留める事ができたのは、複数人での討伐だったお陰だった。だが今は一人。…漣国で学んだ技術が今、試されている。
(やらなければ、死ぬ。仕留めるのなら、確実に)
瞬きの内に急速に接近してくる巨躯に、
明秦は低く構える。次に瞬けば、死ぬ。全力で得物を振り被り――渾身の力を篭めて、全力で紫電を描いた。
蠱雕の爪を間一髪で躱した
明秦の、鮮やかな軌道が胴を深く斬る。刹那、鼓膜を破り兼ねないほどの奇声が頭上間近で響けば、
明秦は顔を歪めながらももう一度、翼の付け根から胴目掛けて一閃を奮った。
どう、と地面に身体を打ち付けた巨躯は幾らか藻掻いて、やがてその動きを止めた。息絶えた事を確認してから振り返った
明秦はすぐにもう一体を迎撃する者達に加勢しようとして、不意に足が縫い止められる。
倒れている町の者達が、複数。その中に二名、杖身役の者達が腕や足を喪ったまま横倒れていた。残り二名も必死で抵抗しているが、迎撃を躱され、また一人蠱雕の爪に持って行かれて黒点と化していく。
「あっ…」
上空へ飛翔する蠱雕に連れ去れた者の声が、一瞬だけ聞こえた気がして、
明秦の顔がひどく歪んだ。
(…駄目だ…助からない…)
小さな黒点が、蠱雕から分離する。それを目で追ってはいけないと分かっていながら、蠱雕を視界に入れ続けるとどうしても入ってしまう。
…今は、残る者達を守らなければならない。その為には余計な思考は切り捨てるべき。そうしなければ――死ぬ。
今にも泣きそうに顔を歪めながら、柄を握りしめる手を震わせながら、それでもただひたすら、頭上から目を離さずに。
「わたしが引きつける。
明秦は止めを。今は余所見をするな」
不意に聞こえた、懐かしい声。すぐに視線を移しかけたが、するりと耳に入り込んだそれに小さく頷くと、手の震えは止まっていた。
新たな獲物を仕留めるべく、再度上空を大きく旋回した蠱雕が影と化して降下する。失敗すれば死ぬ。そう分かっていても、彼の声で心を落ち着かせる事ができた
明秦は、頭上一点に集中する。
先に動いたのは声の主だった。僅かに滑りながら一閃、無駄の無い軌道を描いて蠱雕の脚を断つ。瞬間、けたたましい鳴き声と共に上昇しかけた蠱雕の胴から首を目掛けて、
明秦が一気に斬り抜いた。
縦一線に散る血飛沫を咄嗟に躱し、地面に胴が着いた瞬間、全力で剣を振り抜いた先は、首。叩き斬るように奮った剣は半分以上食い込んで、完全に蠱雕の動きが止まった。
(…終わった…)
肩で息をしながら、二体の妖魔の亡骸を目視する。それから周囲を見渡したが、他に妖魔は居ないようだった。
「…すぐに、怪我をしている者には誰か手を貸して向かおう。…亡くなってしまった者は、せめて何処か木の傍へ」
「あ…ああ」
血が流れた以上、血臭につられて次の襲撃があるのはほぼ確実。長居ができない以上、亡骸を埋葬する時間を割く事は難しい。
くっと堪えるように口を引き結んだ
明秦の足が進む。その背を柔く押す手があって、手の主がすれ違い様に低く声を落としていく。
「わたしも手を貸すよ。…後で話そう」
無言で頷いた
明秦の顔が、僅かに歪む。けれども今は感情に蓋をして進まなければならない。そうでなければ、動けなくなる。
誰もが言葉を失ったまま亡骸を付近の木々の根元へ寝かせると、再び高岫を目指して足を進め始めるのだった。
◆ ◇ ◆
明秦達が妖魔の襲来から逃れるように足を早め、九十九折りの道を声を掛け合いながら登り切り、高岫の町並みを目にしたのは夕刻の手前――あと一刻ほどで閉門するであろう時刻だった。
国境の町並みは隣国との差異が顕著に現れるという。それは、一つの町の中央を壁に隔てられ、巧州国側と奏南国側に分断されている為である。其々の国が統治と管理を行っており、人の流れは豊かな国の方へ向かっていく。
巧国側の町並みは悲惨なものだった。
建物に嵌め込まれた窓の玻璃は割れ、紙を外と内から貼り合わせて補修されている。罅割れて砂埃を被った外壁はそのままに、路上の露店はほぼ無いに等しい。
寂れた光景の中、奏へ入国する為に国境の門へ並ぶ列は疲労を湛えた顔の者が多かった。旌券を持っていたとしても、国から逃れる以上荒民、若しくは浮民扱いとなる。ともなれば国境での訊問があるのだろうと、
明秦は進む列に合わせて足を進めていた。
だが、いざ順番が回り衛士の元へ進むと、幾らか質問を投げかけられた後にすんなりと通過を促された。随分とあっさりとした対応に疑問を抱いた
明秦は奏国へ足を踏み入れた直後に後方を振り返る。…共に来た巧国の者達は、未だ足を留められている。
「いるかい?」
「!」
急に前方から声を掛けられて、
明秦は踵を返した。眼前に差し出されたのは杯に湛えられた水。それをおずおずと受け取ると、乾ききって引き攣りそうな喉に少しずつ、潤いを流し込んでいく。
「…ありがとう」
「どういたしまして」
青年は以前と少しも変わらない態度で、微かに笑みを浮かべる。彼との再会までに一年も経過していない。にもかかわらず何年も会っていない友人との再会のようで、懐古の念を抱きながら
明秦は僅かに表情を崩した。…ようやく、崩す事ができた。
ここ数日の間に気を張り続けていた所為だろう。巧く表情を動かせず、頬が攣りそうな感覚を得て一度上げかけた口角を下げる。それから残った水を飲み干すと、利広に背を押されて建物の片隅へと移動した。
「…久しぶり。どうしてあそこに居たんだ、利広」
「偶然、国境にいたのだけどね。巧国から逃げてきた者達と偶然会って話を聞いたら、まだ来るというじゃないか。一先ず保翠院には伝達を頼んだけども…まさか、
明秦が居るとは思わなかった」
そうだったのか、と納得した
明秦は同時に安堵から胸を撫で下ろした。違う道を通過しただけで、やはり他の者達も高岫へ到着できたのだ。妖魔との遭遇が少なかったのは、本当に奇跡だったのだと。
「先に到着したのは、馬の者達か」
「ああ」
「そうか…皆、無事に辿り着いたようで良かった」
明秦は漸く口角を持ち上げて笑みを浮かべる。…だが、対照的に柳眉を顰めたのは利広だった。彼女の発言を耳にした途端、みるみる内に怪訝な面持ちへと変わりゆく。やがて
明秦の言葉の意味を推察したのだろう。僅かに見開いた双眸が、すぐに険しく細められる。
「
明秦」
「うん?」
「馬は、二騎だけだった」
絶句した
明秦の貌から色が失せていく。耳を疑いたいのに、青年の言葉が脳裏で反復される。
…二騎。
たった、二騎。
馬で向かった集団は本来数倍はいた筈だ。
「辿り着けたのは、合計四人だけだったらしい」
「まさか…いや、でも…」
「妖魔の群れの襲撃に遭ったそうだ」
「―――」
明秦の背を流れる冷や汗が止まらない。おぞましい悪夢を見ている気分だった。
建物の壁に背を凭れながら、先程潜り抜けてきたばかりの、巧国へと続く門へ恐る恐ると視線を向ける。ようやく共に逃げて来た者が一人、また一人と奏国への門を通り抜ける光景から目が離せない。…ただでさえ、あの麓の手前で喪ったというのに。
「…あと一群、来る筈なんだ」
「…閉門までに間に合うと良いが」
――来る筈だ。きっと、来る。そうでなければ、生き残った人数は。
潤った筈の喉が急速に乾いていく。漸く国境を越えて安堵で涙する町の者から、視線を外す。酷い動悸と眩暈を覚える中、それでも藁にも縋るような眼差しを門から決して外さない彼女を、利広は無言のまま見つめていた。
やがて斜陽の彼方に夜陰の兆しが微かに見えた頃、閉門の太鼓が虚しく響き始める。
奏国への入国を最後に果たしたのは、
明秦と共に来た集団の一人だった。