-肆章-
避難が決定したその日から、町は急に喧噪を増していた。広途は行き交いが多く、各所から声が聞こえる。急な決定のために慌ただしく準備に取りかかる町の者達の顔は、焦燥の中に希望が滲む。町を――故郷を捨てる事に後ろめたい気持ちは勿論ある。だが今はそれよりも、安定した国で妖魔や天災に怯える事の無い時間を欲する者達が殆どだった。
そうして四日目の夜――町を出る前夜、
明秦は
歩墻を歩きながら町の外を見回っていた。
数日は特に妖魔の襲来も小物で済んでいたため、避難の準備に集中する事ができた。冬器を新調してもらい、軽装ではあるが甲皮も借りた。あとは翌早朝に出発する。…三日間、気を抜くことは許されない。
そういえば、と。
歩墻の只中で足を留めた明秦は子門の方へ視線を薙いだ。…自分よりももっと、危険な旅をする者がいる。もしかしたら、既に旅の途中かもしれない。巧国よりもずっと妖魔の出没が多い、最北東の極国。
(…泰麒は、無事に帰還しただろうか…)
最近は日没を過ぎると風が急激に冷たさを増している。戴国はもっと寒くなっているだろう。
郭壁を這い上がってくる冷気を含んだ風に少しばかり肩を震わせる。…慶国もまた、巧国の北に位置する国ならば今日は冷え込んでいるだろうか。…それとも、王のいる国は安定するのだから、幾分か暖かいのだろうか。
(陽子達も元気かな…)
戻ってきてからというもの、会いたい人物が日に日に増していく。謝りたい人が居て、昔を語りたい人がいる。これからも宜しく、と声を掛けて良いものか悩んではいるが、ここで悩んでいるよりはずっと良いだろう。
「まだ寝てなかったのか」
突然聞こえた呆れた声に、
明秦は思わず肩を跳ねて振り返った。叱責の声ではなかったが、どうしようも無い奴だな、と眉尻を下げた男に
明秦は思わず苦笑を浮かべる。
「董革さん…」
「早く寝ないと明日に差し障る。さっさと寝ておけ。…まぁ、眠れないのは分かるが」
「……ええ、まぁ」
明秦は小さく頷きながらも、町の方へと目を向ける。既に何処の明かりも消え、静寂が町全体を覆い尽くしている。…明日の夜には無人の町となる。彼らが帰ってきた時に、どれだけのものが残るのか。
次の王が立つまでに、一体どれほどの時間が掛かるのか。改めて、巧国の住民が行き先の見えない不安に駆られている現状に、胸が締め付けられる。…一月近く町の者達と共に過ごしたために、尚更。
「……高岫まで、守り抜けるか不安です」
「分断して進むからな。無理も無い」
大勢での移動は妖魔にとって容易く狩る事のできる獲物の群れとなる。守る範囲が広すぎて間に合わない可能性が高いため、杖身役と住民を三つの集団に分けて進む事となった。
明秦と董革は別行動となったため、次に再会するのは三日後の高岫山である。…正直、何人生き残る事ができるのか、
明秦も董革も想像を避けるようにしている。日によって全く来ない事もあるのだ、願わくば、明日から三日間はそうであってほしい。機能していない国から杖身が頼めない以上、そう願うしか無い。
「…董革さん」
「ん?」
「奏に着いて、保護の申請が通り終わったら、董革さん達はどうしたいですか」
「…ひとます、休みたい」
ひどく気の抜けた声だった。今まで耳にした事の無い声に瞠目した
明秦であったが、董革は苦笑を浮かべながら肩を竦めた。
「精神すり減らしながら過ごしてきたんだ、それくらいの時間は許されて良い筈だろう」
「ええ、勿論」
思えば、と。
明秦が来る前から――国が機能を果たさなくなってから、ずっと町の為に奔走を続けてきたのだ。どれだけの者達を見送ってきたのだろう。想像するだけでも、心が折れても可笑しくはない、壮絶な日々だったに違いない。
「お前はどうだ、
明秦。やりたい事は無いのか」
「私は…」
言葉を詰まらせて、数拍。…やりたい事は、既に決まっている。
「……会いたい人達がいます。門前払いをされるかもしれませんが」
奏国の他に、漣と才と雁と慶と。どれだけ時間が掛かったとしても、会いに行きたい。それから自分の身の振りを考えたとしても、決して遅くは無いだろう。…自分の人生を考える時間は、まだあるのだから。
「…お前は、幸せだな」
「え?」
「間柄はどうあれ、会える友人や知人がいる。それは幸せだと、俺は思う」
明秦は今度こそ言葉を詰まらせたまま、返す事ができなかった。…彼が大勢見送った者の中には、家族も友人もいた筈だ。…もう二度と、会えないのだ。
(……そうだ…死んだら、会いにすら行けない)
考える時間はまだまだあると、悠長に考えていた事が恥ずかしい。
自省から俯いた
明秦はふと持ち上げた自身の掌に視線を落とした。…豆や傷だらけになった手。会いに行くためには、まず生き延びなければ。高岫山へ辿り着くために。
◆ ◇ ◆
翌早朝、三つの集団に分かれた町の者達は時刻をずらして出発する事となった。
明秦は最初の集団に振り分けられ、夫々が日持ちする食料と水を背負って向かう。足腰の弱い者達は最後の集団に分けられ、馬を利用して向かう手筈になっていた。
(馬でも一日掛かる…それまでに、なるべく妖魔と遭遇しなければ全員が辿り着ける筈…)
妖魔に一度も遭遇しない。それがどれだけ奇跡であるか
明秦も理解はしている。誰一人欠けずに辿り着く事などできない事も。
「出発するぞ」
「!」
隣に立っていた甲皮姿の男が呟いて、
明秦は思考を区切る。眼前の未門が開き、列を成して、ゆっくりと隊列が進む。誰もが初めは恐る恐る足を運んでいた。黄海では無い。だが、郭壁の外に一歩出た先は妖魔の領域と言っても過言ではない。
近日は厚い曇天続きで気が滅入る者も多かった。それでも何とか希望を抱き、自身を鼓舞して町を出た者達は、やがて馴れてくると足取りも幾分か早くなる。
本来ならば深緑の広がる土地が、今や枯れた草木が寂しく冷風に揺られるだけ。虫も小動物もいない。変わり果てた荒地を茫然と見送りながらも、只管足を動かしていた。
「歩墻から見てはいたが、間近で見ると、これは…」
「…王がいないって事は、こんなに酷くなるって事なんだ…」
ぼそぼそと聞こえてくる声の中に混じる、微かな泣き声。外を目にした事の無かった者達にとっては衝撃的だった事は間違いない。
明秦を含む、護衛として前後を歩く者達は暫くの間口を噤んでいた。無言のまま周囲を警戒し、時折僅かな休憩を挟んで、進行を再開する。それを何度か繰り返してから、護衛役の中で漸く口を開いたのは
明秦だった。
「…おかしい」
「やはり、そう思う…よな」
頭上を仰ぎ見た先には、紗を広げたように淡い斜陽が広がっている。曇天は――おそらく一時的だろうが――晴れかかっていた。久しぶりの夕陽を目にして、少しばかり緊張を解す者も少なくは無い。…何より、今夜を過ごす場所を偶然見つけたことで、杖身役も気を抜く事ができていた。
だがその一方で、違和感を抱く者達が集団から少しばかり外れて集っていた。
甲皮姿の男女が五名、倒木に腰を下ろし或いは地べたに座りながら、ぼつりと洩らした
明秦の言葉に夫々が首肯する。
「王が不在の場合、首都から離れれば離れるほど、妖魔の数は多くなると聞いた事がある。…だが、今日一日で遭ったのはたった長右三匹だ。可笑しいだろう」
「ええ、あまりに少なすぎます。…何故、と言われても、原因は分かりませんが」
幸運、としか言いようがない。町の者達は妖魔についての知識が殆ど無い。黄海で生き抜く知恵を持つ朱氏や剛氏ならば、おそらく何か分かるかもしれないが、少なくとも
明秦は妖魔を除ける為の知識を聞いた事が無かった。
「町にいる時にも来ない日があったのだから、今日は偶然遭わなかったのかもしれない」
「それは…そうだが」
一先ず、と。少しばかり離れた場所から
明秦達が見上げたのは、しっかりと根の張った大樹。垂れ込めた枝の先には両の掌で包み込めるほどの、丸々とした実が付いている。集団の内の一人が揺らそうと試みたが、微動だにしなかった。
「野木を見つけたのは
明秦、お前だったな」
「ええ…他の木とは違うので」
「まぁ、見た目は里木と変わりないしな。殆ど毎日見ていた
明秦だから、すぐ見つけられたんだろう」
初日で幸運続きなのは有り難い。だからこそ、明日には大きな不運が来るのでは無いか。今日の分の皺寄せが一気に来るのでは。
手放しで喜べない杖身役達を余所に、気を抜いた者達の笑い声が聞こえる。しかし敢えて誰も注意はしないまま、明日の出発の機会を話し合っていた。
そうして翌早朝、周囲に妖魔の姿が無い事を確認してから、一群は再び動き出した。
最前列を歩いていた
明秦ともう一人の男は、今日は最後尾で警戒に当たる。今日こそは遭遇するに違いない。今日こそ気を抜けない。冬器の柄に手を掛けながら歩を進めていた
明秦達であったが、ふと、
明秦の傍らからぽつりと呟きが聞こえた。
「…後ろを行っていた奴らは、昨日の晩、何処かで休めたかな」
明秦は足を留めそうになる。…実を言えば、気になってはいた。似たような途を進んでいるなら、野木のところで合流する可能性も十分にあった。その上馬で移動する者達は追い越しても可笑しくはない。もしかしたら別の途があって、自分達が見落とした結果、野木に辿り着いたのだとしたら。別の途の先に野木が無かったとしたら。
嫌な汗が手の内に滲んだ。
「…別の道で、野木を見つけたのかと」
「それだったら良いんだが…」
会話はそこで途切れ、再び無言のまま、荒廃した景色を何度も見渡していた。
…今は、最悪の想定をするべきではない。高岫山を登り切るまでは、目の前の対処だけを考えなければ。
何度も何度も言い聞かせながら、漸く発見した小物の妖魔の元へ、抜剣した
明秦が疾走する。余計な思考毎切り捨てるように、全力で得物を振り下ろすのだった。