-参章-
眩暈のように揺れる視界の中、
明秦はぼんやりと臥室の天井を仰ぎ見る。漸く見慣れ始めたばかりの頭上は未だ黎明が始まったばかりで夜陰が
其処彼処にこびりつく。闇夜に目が慣れて天井の木組みの輪郭を捉える事ができていたが、随所から聞こえる柱の軋む音に眉を顰めた。
…眩暈ではない。ならばこれは、地震。
王が不在の国は政が立ちゆかず、たとえ仮朝が立ち政が為されたとしても、天災は止められないという。いくら故郷で地震を経験していたとしても、原因が異なる以上警戒は必須である。
地震の所為で僅かに残っていた眠気を飛ばした
明秦は
臥牀から抜け出すと手早く着替えを済ませた。念の為家を出て外の様子を窺ったが、まだ開門の時刻にはほど遠いにもかかわらず、人の姿が疎らにあった。確認している間に揺れが鎮まったため、一人、また一人と家の中へ姿を消していく。
明秦がこの町で生活を始めて早二十日。天災と町に迫る妖魔の討伐に追われながらも、何とか生活を送り続けていた。残り少ない住民とも顔見知りとなり、声を掛け合いながら日々を越えていく。想像はできていたが、予想以上に過酷な日々だった。
日中は自身の生活、その最中に鐘が打たれると得物を片手に門へと急ぎ足で向かう。妖魔の討伐に掛かり、終わり次第負傷者を町へと運ぶ。掠り傷程度ならば自身で対処しなければならないが、幸いにも
明秦は今のところ腕に爪が掠った程度で済んでいた。一日で多い日には三回ほど襲撃があり、流石に疲労困憊で食事も取らず睡眠を貪っていた事もあった。妖魔の襲撃が無い日には廟へ赴き、掃き掃除や拭き上げて埃を取り除く。里木の周囲を掃いて綺麗にしていると、住民がよく顔を出すようになった。
「
明秦、おはよう」
「おはようございます。今日は久しぶりに晴れましたね」
「うん。これで妖魔が来なければいい日だよ」
廟を訪ねてきたのは十日前に知り合った女性だった。一月前に妖魔の襲撃で母親を亡くし、暫く塞ぎ込んでいたのだと董革が教えてくれたのはつい先日のこと。天災と妖魔。住民が恐れる二つが無い、という日は実のところ無い。妖魔が来なければ地震や竜巻や蝕があり、天災が落ち着いている日には妖魔の襲来が立て続けに起こる。住民の気が休まる事はなく、殆どの者が心身共に疲弊している状態が続いていた。
(あと二月なんて、到底保ちそうに無い)
できるのならば今すぐにでも避難の支度を始めるべきではあるのだが、董革から話を聞く限りではぎりぎりまで粘るという。どうやら故郷から離れたくない、捨てたくない者達の説得に苦戦しているらしかった。
――あと何日、戦えば。
掃いて綺麗になったばかりの里木の下、うねる根元へ視線を落とす。視界の端まで持ち上げた、豆のできた掌を無言で見つめた。…明秦もまた、町の者達同様疲労の色が見え始めていた。
――あと、何日。
刹那、遠くで荒々しい鐘の音が
明秦の耳に届いた。 反射的に振り返り、次いで女性の顔を一瞥する。体を竦ませ、恐怖の色が顔に浮かぶ。…もう何度、住民の恐怖に歪む顔を目にした事だろう。
「
明秦、」
「すみません、行ってきます」
女性に軽く頭を下げると、いつでも向かえるよう、
里閭の入口に立て掛けていた冬器を駆け抜け様に引っ手繰る。鐘の音を頼りに小径を通り抜け、午門の方角から聞こえてくる事に気が付くと、すぐさま広途に向かい駆け出した。既に住民は鐘を耳にして避難したのだろう。無人の広途を一人で疾走する事に最初は戸惑いがあったが、今では見慣れた光景になっていた。それを、いつも切なく思う。
午門に到着すると、既に数人が僅かに押し開けられた門の間から郭壁の外側へ向かうところだった。妖魔を
歩墻からの標槍や
床子弩で仕留めきれなかった場合に鐘が鳴らされる。そのどれもが人間以上の体躯を持つものばかりだった。今回も例に洩れないのだろう。
僅かに疾走を緩めて息を整えてから門を走り抜ける。曇天の下、緋色の体毛で覆われた妖魔と、槍を突き入れる兵士の姿に、
明秦は一瞬足を留めそうになった。
(今まで以上に大きい…!)
蠱雕と同様か、それ以上か。対する兵士は三人、
明秦を含めて四人。なるべく負傷者を出さずに仕留めるには速やかに急所を突く必要がある。抜剣しながら詰め寄った
明秦に、兵士の一人が声を荒げた。
「こいつの首回りは硬い!狙うなら背中だ!」
「背中…!」
妖魔が奮う爪を躱し、或いは受け流しながら死角へ回り込む。真後ろからでは後脚が飛び来る可能性がある。爪を奮う度に妖魔が体勢を変える為、体躯や脚を切り込みながら隙を只管探して。
(此処で…いけるか…!)
兵士が真横から槍を突き入れた瞬間、妖魔の斜め後方から全力で背を駆け上がる。振り払われる前に逆手にした剣を渾身の力で突き入れれば、鼓膜を叩くような絶叫が反響した。耳を塞ぐ余裕は無い。ひたすら突き入れた剣の柄を掴み、大きく藻掻く妖魔に振り落とされないよう耐え続ける事数拍。
血を振り撒いて暴れた妖魔は漸く力尽きたのか、横倒れて動かなくなった。
倒れた際に剣が妖魔の体から抜けた
明秦はそのまま投げ出されたが、上手く受け身を取ってごろりと転がる。すぐに起き上がり、妖魔の死を確認すると
歩墻で見守っていた者達へ手を振った。
「…おい…」
「え…」
男の動揺で震えた声を聞き拾って、
明秦は振り返る。妖魔の傍らを見下ろして、ひどく泣きそうな顔で歪めていた男の視線の下。それを辿った
明秦は、暫くの間言葉が出なかった。
妖魔の体躯に潰されるようにして、兵士が一人、息絶えていた。背中を狙うよう
明秦に指示を出した、まだ二十代の若者だった。
◆ ◇ ◆
「次の機会で逃げようって、昨日、皆で話して決まったよ」
翌早朝、里木の周囲の掃き掃除をしていた
明秦は地面から視線を持ち上げた。昨日も顔を合わせた女性は一瞬、
明秦の顔を目にして何かを口にしようと唇を震わせたが、すぐに噤んだ。…昨日の事は、既に町に報されている。また、一人喪ったのだと。
疲労を湛えた面を女性へ向けた
明秦は思わぬ報告に困惑の色を浮かべた。
「それは、いつ」
「五日後だって。
明秦に伝えてほしいって言われてね」
「五日後…」
渋っていたのに、一体何故。昨日の件があったからだろうか。これまでも人が亡くなったにもかかわらず、若者の死で漸く危機感を募らせ、重い腰を上げた、という事なのだろうか。
明秦の胸中が靄掛かる。伝言を頼まれた彼女に何故と問うても意味は無い。ならば伝言の主に直接聞かなければ。
女性に別れを告げると、剣を手に里家を出た。今日のところは何の報せも無いため、人が疎らに出ている。行き交う人といくらか言葉を交わしながら、目撃情報を頼りに伝言主を探して門の手前へ向かうと、相変わらず人相の悪い男が甲皮姿で他の兵士と言葉を交わしていた。
「董革さん」
「お、来たか」
「今日は甲皮姿なんですね」
「持ち回りでやってるからな。…伝言は」
「聞きました。五日後に出発だそうですね」
「お前も用意しておけ」
「他の方は説得できた、という事ですか」
ああ、と頷いた董革はしかし、浮かない顔を町へと向けた。
「皆の顔を見ただろう。あれじゃこれ以上は耐えられん。蠱雕が一体でも降ってくれば被害は甚大になる。…人の命が最優先、もう待っていられない」
――何故、もっと早くその決断ができなかったのだろう。
男の険相が言外に物語る。元々董革も早々に避難を勧めていた。町の者の反対が無ければ、昨日の若者も、これまで町を守って落命した者達も、避難した国で――奏国で脅威に晒されず過ごす事ができていたかもしれないのに。
他にも問う言葉は胸中にあったものの、
明秦はそれらを呑み込んだ。…思うところは同じだと、彼の表情で気が付いた。この男一人へ詰めるように訊くのは違うのだと。
「私の支度はすぐ済みますから。――何か、手伝う事はありますか」
「人手が足りないところに手を貸してやってくれ」
「分かりました。行ってきますね」
こくりと頷いて、
明秦は董革に背を向けた。
五日後に町を離れる。つまりそれは、奏国へ辿り着くまでの間、避難する住民達を妖魔から守り抜くという事だ。
守れるのだろうか。若者一人、守れもしないで。
広途を駆け抜ける
明秦の脳裏に、ふととある男の顔が浮かぶ。
――生温い、だからお前は駄目なんだ。
舌打ちと共に、誰かが叱咤する声が聞こえた気がした。