砂の陛 刻の峠

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主人公設定
●主人公

性別:女性
齢 :十六
  (蓬莱) (十二国)
髪色:黒 ⇒ 黒緑
瞳色:黒 ⇒ 青鈍

序章時は高校二年生。
歳の割に大人しく地味。人見知りがあるせいで他人と戯れる事が苦手。ストレスが溜まるとすぐに体調を崩し、その度に父方の田舎で療養を取っていた。
近頃、顔を合わせる度に喧嘩する両親へ呆れと疲れを覚え始めていた中、体調を崩したために秋休みの間父方の実家で休養を取る事に。
ふとした拍子に漣国へ迷い込み、二十年ぶりに現れた海客として保護される。胎果。
異国の時の流れに翻弄されながらも賢明に生きようとする。
名前
名字


参章




1.

 州城の麓に滞在して、早五日。
 りつが漂着場所を特定したのが二日目。
 三日目には聴取によりりつ自身の情報を書き取られ、四日目に休息が与えられた。
 この時点で心身共に疲労困憊の状態だったりつは、臥室でひたすら眠りに就くか、運ばれてきた食事に手を付けるのみ。他にする事も無く、探す気力も起きなかった。

 数日でも人の好奇ある視線に曝され続けるという事がこれほどまで苦痛で、疲労感が募るものなのだと痛感しただけに、人目の無い部屋に安堵を覚えて脱力してしまう。倦怠感が体を支配して、それで何もする気が起きなかったのである。

 そんな中、紫秦がりつの部屋を訪れたのは五日目の朝のこと。

 起居と臥室を往来する途中に立つ鏡へ度々目を向けていたせいか、他人の顔をした自分の姿にもようやく見慣れてきた。訪れた紫秦を出迎える前にも鏡を目にして、身形を確認する際にもそれほど違和感を覚えなくなってきたことにふと気が付けば、ますます故郷から遠ざかった気がする。

 鏡の前で複雑な心境を抱えたが、訪問者を待たせる訳にはいかない。その心持ちのまま紫秦を出迎えることになった。

「おはよう御座います。体調はどうですか?」
「少しだるいですが、大丈夫です」
「それならば良かった」

 来訪者は安堵したように肩を撫で下ろす。そんな様子を見たりつは首を捻ると、少女の様子を察した紫秦が安堵の理由を切り出した。

「実は重嶺の府第から返事がありまして」
「じゅうれいの、何、ですか…?」
「重嶺は国都の名、府第は国府の一部の名称です。昨日、あなたを連れてくるよう命令があったので、これから出発します」

 急いでいるのか矢継ぎ早な説明にりつは頷くしかない。だが、困惑を抱きつつも視線は彼女の変化を捉えていた。
 服装は普段の軽装と違い、他の兵士と同じような皮甲(よろい)姿だった。腰に下げた剣は妖魔を斬り伏せる為の武器に違いない。そう考えた途端、緊張で身が引き締まる。

「大丈夫ですか?」
「……色々と、不安で」
「蓬莱とこちらは全く違う文化のようですから、戸惑うのも当然でしょう」

 自分の腰元に下がる得物をちらりと確認した紫秦は苦笑を浮かべた。
 三日目の聴取の際、蓬莱では武器を所持する事を禁じられていたという。少女が鞘に収まった剣を目にして身を硬くする理由も、彼女が身を置いていた環境を聞けば理解できた。

 荷物――日本で着ていた服のみだが――を背に負ったりつは紫秦の先導を受けて州城の外へ出る。厩舎(うまや)に停めてあった馬型の獣を連れて出ると、改めてその姿をまじまじと凝視する。

 馬首から首元までは縞馬そのものだが、胴体の色や模様は虎に近い。馬よりやや長い鬣は陽に焼けた紅色をしていて、鬱金色の双眸が陽を受けて宝石のようだった。

 前部に紫秦が鐙を踏んで跨ぐと、鞍の後部にりつを引き上げる。手綱をしっかりと掴み、周囲で見守っていた数名の兵に見送られながら、二人を乗せた騎獣――鹿蜀は真っ直ぐに上空へと駆け上がった。

 慣れない浮遊感に身を竦めながら、りつは体を揺らさないようゆっくりと後方を振り返った。…徐々に遠ざかりつつある州城は、何度見ても天を貫く柱のよう。

「此処から重嶺まではどれぐらい掛かりますか…?」
「約一日ですね。到着してから一日待つ可能性もありますが」

 重嶺へ到着次第国府を訪ねるが、すぐに通されるかどうかは分からない。そう紫秦が付け足すと、りつの肩が僅かに下がる。

 ―――国都に行けば、帰り道も分かるかもしれない。
 捨て切れない故郷への思いと希望を胸に、既に遠くなった地上をちらりと見る。騎手の背から身を離さなければ落馬の危険性が無い事を知れば、多少頭を動かすことにも慣れてくる。遥か下方に広がる地を視界に入れる恐怖心も次第に薄れ始めていた。

 紫秦との会話はそれきり途絶え、暫くの間沈黙が落ちた。
 上空を駆けているにもかかわらず吹き付けるような突風は無く、髪を揺らす程度の緩やかなものが頬を撫でていく。何故だろう、と疑問に首を捻りながらも紫秦の肩に掴まるりつは、暫くの間濃淡ある蒼穹の一面を漠然と眺めていた。
 建物に隔たれていない景色を見渡すのは壮観の一言に尽きる。故郷では飛行機に乗らない限り――それも窓越しでしか――見る事の叶わない風景だ。貴重な景色を前に、感嘆せずにはいられない。
 もう一度空を見渡し、ほうと溜息を洩らした、その時だった。

(……?)

 ふと、空の彼方に目が留まる。
 南東の蒼穹に点がひとつ、ふたつ。胡麻ほどの点を見付けたりつは、それがゆっくりと距離を縮めている事に気が付いた。
 胡麻程度の粒は少しずつ大きくなり、やがて若干不鮮明な生き物の姿へと変わる。
 近付いているのは鳥のようだった。…だが、何かがおかしい。

「……紫秦さん、」
「どうかしましたか」
「あれ、何でしょう」

 りつに背を小突かれた紫秦は振り返ると、あれ、と指し示された方角を凝視する。平行して飛ばない二つの黒点。それは規則的に蠢くような動きを見せながら、真っ直ぐに此方を目指しているようだった。

 ―――騎獣ではない。ならば、あれは。

 正体を察した瞬間、紫秦の血相が瞬く間に豹変する。

「!?」
「口を閉じて、手を離さないで!」

 突如がくん、と強い衝撃が襲ったかと思えば、強い口調で告げられた注意に緊張が走る。手綱を振るう音がして、すぐに鹿蜀が降下を始めた。
 上体を前へ倒した紫秦の腰にりつの腕がしっかりと回される。落下する感覚に悲鳴を上げたくなる衝動を抑えながら、騎手の手綱捌きに任せていた。
 地を覆う枯木の群集と上空の黒点と。双方を交互に見比べつつ、鹿蜀が地面へ降り立つ。そのまま枯木の間を滑走し、ある程度密集した場所を見付けるや否や紫秦が鹿蜀の鞍から飛び降りた。続けてりつを鞍から下ろし、比較的太い樹木の幹に体を極力寄せて座り込む。

 状況を把握しきれずに首を捻ったりつは恐る恐る頭上を見上げた――途端、奇声が安穏を打ち破る。
 けたたましい鳴き声は烏に似ていたが、声量はまるで違う。虎の咆哮よりも遥かに大きな奇声が地を震わせて、反射的に首を竦めたりつの顔は瞬時に走る緊張と恐怖から強張っていた。

(妖魔…?)

 人を襲う獰猛な獣。体躯は木々に隠れて分からないが、下手に姿を現せば餌食になるであろうことは、紫秦の険しい横顔を盗み見れば十分察せられる。
 奇声に加えて、羽搏く音と獣特有の異臭が木々の麓まで届く。それらが完全に止むまでの間、二人は樹木の幹に張り付いたまま、身動ぎ一つ取ることができなかった。
















 どれほどの時間を静止の為に費やしたのだろう。
 けたたましい奇声は次第に止み、時折苛立ちの表れか降下した妖魔が地面を爪で抉る震動も無くなり、最後には羽搏きの音が失せた。
 上空で響いた全ての音が消え去って、ようやく樹木の幹から離れたりつは少しだけ歩くと、木々の隙間から見える空を伺う。…一見した限り、怪鳥は既に飛び去ったようだった。

「…もう行きました……?」
「ええ。…もう少し警戒した方が良さそうですね」

 紫秦もまた枝に切り取られた空を睨み、息を吐く。…姿が見えなくなったとはいえ、油断してはならない。空へ上がった途端に襲撃を受ける可能性も十分に有り得るのだから。

 腰元の剣柄を触れて確認して、一拍。再び投げ掛けられたりつの問いかけに答えようと視線を下ろす。

「じゃあ、暫く此処で待機ですか?」
「いえ、半日は空から行かずに歩―――」

 言葉の途切れた紫秦が見下ろした、先。目に入る少女以外のもの。明らかに自然でも人でもないそれを視界に入れた瞬間、彼女の表情が凍り付いた。

「伏せろ!!」
「え、っ―――!?」

 突然の叫声にりつがぎょっとした次の瞬間、ふいに耳を衝く悲痛の声に気を取られて振り返る。
 いつの間にか陽を切り取る獣の姿。逆光で詳細の程は掴み難い。その黒い影から抜け出るようにぐらりと傾いた鹿蜀が、突如血飛沫を撒き散らして横倒れる。
 愕然として一瞬思考を硬直させたりつの衿元を紫秦が強引に引き寄せると、入れ替わるように前方へ飛び出した。

「合踰、」
「紫秦さん!!」
「あなたはそこを動かないで!!」

 紫秦の背後で投げ出されるようにして倒れたりつは地面に打った体の痛みを我慢しながら起き上がる。既に抜き身の剣を手に構える彼女の背を見上げるも、動くなと言われてしまえば、妖魔に向かって駆け出す姿を緊張で身を硬くしながら見守る事しかできなかった。




2.

 血臭立ち込める地に荒い息遣いが響く。
 足元に横臥する妖魔に息は無い。それを見下ろしながら息を整える紫秦は片手の剣を一振り、刀身にべったりと付着していた血糊を払った。

「大丈夫ですか…」
「…ええ。何とか仕留められましたが…」

 振り返った紫秦に倣い、りつも同じ方向を見る。二人が立つ場所からやや離れたところでは、妖魔と同じく横倒れたまま動かない鹿蜀の姿があった。
 妖魔の数が多い今、遭遇は勿論、騎獣を失う可能性も考えていた。ここは命拾いしたのが幸いだったと考えるべきだろう。

「…騎獣あしを失った以上、ここからは徒歩で向かうしかない。幸い半分以上は来たようですし、国都までは十日も掛からない筈です。宿も格を下げて泊まれば十分保つ。……良いですね?」
「はい」

 りつに異論は無い。深く頷けば、剣を納めつつ鹿蜀に向かって歩き出した紫秦の姿を目で追いかける。鞍に括り付けていた荷物を取り外しに掛かる後姿を見守り、さらに悲惨な現状を見渡すと、りつの顔が歪んだ。
 自分が非力でなければ、騎獣を失わずに済んだのかもしれない…と。

「…すみませんでした」
「ん?」

 突然の謝罪を間近で聞き拾った紫秦は鞍の荷を外す手を止めて振り返る。項垂れた頭を上げたりつの表情は哀愁を孕んで歪み、眼差しは鹿蜀の亡骸へ向けられていた。

「私が早く妖魔に気が付いていれば、騎獣を失う事なんて無かったのに…」
「過ぎた事を引き摺る必要は無い。―――それよりも、妖魔の血が他の妖魔を呼び寄せる。急いで離れましょう」
「っ、はい…」

 落ち込むりつを横目に、鞍から荷物を外し終えた紫秦は立ち上がる。空を仰ぎ見ると、高々と昇る太陽は真上を過ぎて傾きつつある。急がなければ、此処から一番近い町の閉門に間に合わない。
 …間に合わなければ、夜を街の外で過ごす事になる。そうなれば命の保障ができない。

 陽を背に早足で歩き出す紫秦の後をりつが慌てて追いかける。彼女の背に見え隠れする焦燥のせいか、言葉を交わす余裕は無い。今のりつには、足手纏いにならないよう必死で着いていく事しかできなかった。



















 不時着した場所は幸い郷城――旅人や商人が多少出入りする程度の大きな町――から近い森林だったため、閉門の太鼓が鳴る二時間ほど前に町へ足を踏み入れる事ができた。
 門を潜り抜ける際に、掲げられた扁額の甘清という文字を辛うじて読み取ったりつは、擡げたせいで痛くなった首を擦りながら町の様子を一望する。城壁が見えてきたころ、大きな町だという紫秦の説明は受けていたが、実際に町の中へ入ると彼女の言葉を疑った。
 確かに、人の出入りはある。広途(おおどおり)には天幕を張った露店も出ている。しかし町の建物には所々損壊が見受けられ、壁の崩落や黒い焦げ跡もあった。緩やかな人の波から外れた場所で目にしたそれらに首を捻ると、紫秦を振り返った。

「紫秦さん。あれは?」
「?どれでしょう」
「ほら、壊れた家……あっちにも、こっちにも」
「ああ…、内乱の爪跡です」

 荷を背負い直した紫秦はりつが指差した方向を見るや否や神妙な顔付きになる。

「昨年に内乱がありまして。復興は中々進まず、崩れた民居(みんか)もそのままなのです」
「……ひどい」
「王朝が変わって間もない頃でしたから。妖魔の数も少しずつ減っているようですが、まだまだですね」
「?」

 町の様子を一望する紫秦の説明に、りつは首を傾げる。
 王朝が変わった事と、妖魔の数と。無関係であるはずの二つを関連付けて話したように聞こえたのは、気のせいだろうか。

「妖魔の数と政権の年数って、関係あるんですか?」
「ええ、大いにあります。王が玉座に就けば、天変地異も減りますから」
「…?王様が土地を整備するように指示するから?」
「いえ。玉座に就くだけでも自然の理が保たれるからです。あちらもそうではないのですか?」
「違います……妖魔も蝕も無いですし、国で一番偉い方は投票で決めるので」
「ああ、なるほど」

 感心したように首肯した紫秦に対して、りつは思わず苦笑いを浮かべた。あまりの違いに戸惑いを覚えるのもこれで何度目になるだろう。
 困惑しながらも次々と得る情報を頭の中で整理していた、その途中で、再び始まった紫秦の説明に慌てて耳を傾ける。

「そもそも、王は人ではありません。麒麟が天命に従って王となる人を選び、天勅を頂いて神籍に入る。するとその身は不老長寿となるのです」
「天勅って…確か、世界の中央にいる天帝、ですか。その方が王になる人へ渡す命令や義務…でしたっけ」
「ええ。天帝からの勅令、といったところでしょうか」
「へぇ……じゃあ、キリンというのは…あの首の長い…」
「?いえ、霊獣です。神獣とも言います。普段は人の姿を取り、台輔と呼ばれていますが……蓬莱の台輔は首が長いのですね」
「…いや……多分別物だと思います」

 少なくとも、此方の「キリン」は首長ではない。さらに人の形を取るのなら、それは間違いなくあの動物ではないだろう。
 奇妙な想像を頭の中から早々に追い出したりつだが、紫秦の説明の中にはもう一つ、気になる単語があった。
 不老長寿は人類の夢だと、どこかの新聞かテレビ番組で言っていた気がする。その夢が叶う世界は、他者からすれば辿り着くべき憧れの地に違いない。
 そんな事を漠然と考えていたりつへ、さらに説明を続けようとした紫秦の声音が突然落ち込んだように暗くなる。

「台輔が今の主上を選ばれたのは一昨年。そして昨年、内乱が起きました。……死傷者も、少なからず」
「…そうだったんですか…」

 紫秦の話を聞きながら町の様子をもう一度眺めていたりつもまた表情を曇らせる。
 ブラウン管越しでしか見たことの無い、戦争。その爪痕を間近で目にすれば、此処でも人が亡くなったのだろうかと考えて、眉間に皺を寄せる。すると、故郷で毎日のようにあった両親の喧嘩がとてもちっぽけに思えてならなかった。



3.

 その日、二人が泊まったのは町の中心に比較的近い二階建ての宿だった。
 木造の階段を上がって左側、角部屋の扉を開くと、最初に四畳半ほどの起居(いま)が現れる。置かれている家具は小卓と榻(いす)、それから小さな棚があるのみ、あとは右側と前方の壁に扉が設置されていて、その先がどうやら臥室(しんしつ)のようだった。
 これが部屋の基本的な構造なのだと紫秦は言う。共有の空間である起居が一室と臥室が二部屋。これを一明二暗という。

 榻に荷を下ろした紫秦を背に、りつは興味深げに部屋を見渡した。部屋にある殆どの物が木製で、こちらでは常識なのだと思えば、どこか不思議な気分がする。それは田舎を訪れた際に感じる懐古に似ていた。

「慣れない旅で疲れたでしょう。ゆっくり休んで下さい」
「あ、はい…」
「ああ、臥室はどちらを使っても構いません。私は少し外に出てきます」
「分かりました。…気を付けて」
「ええ」

 荷を榻へ置いたまま踵を返した紫秦の背を、りつが見送る。町に入る際、此処にも大きな役所があるのだと言っていたから、きっと到着予定が大幅に遅れる旨を国都の役所へ連絡してもらうよう頼みに行ったのだろう。
 紫秦の姿が扉の向こうに消えて、ぱたんと閉まる音がする。一人きりになった空間でほっとする反面、罪悪感にも似た思いがりつの心の片隅をじわじわと蝕んでいた。

(…迷惑を掛けている事は分かってる。けど、今はこうして従うしかない)

 迷子で、何も知らない自分。常識すら全く異なった世界で、守られる事しかできない子供。それが申し訳なくて、辛くて、苦しくて、悔しい。
 無人の起居を見詰めていたりつの顔が苦しげに歪む。このままでは日本にいた時と何も変わらず、辛い環境の中でじっと縮こまって生きていかなければならないのだろうか…と。
 誰にも胸の内を明かせない今、そう思わずにはいられなかった。















 暫くしてから臥室に入ると、その狭さにりつの目が丸くなる。
 部屋の広さは二畳といったところか。一畳に質素な臥牀しんだいが置かれ、それ以外には何も無い。天井は低く、背伸びをすると手がゆうに届く。本当にただ寝るだけの部屋として作られた。そんな印象だった。
 それでも完全な密室という事もあって、緊張を解いたりつの肩からはどっと力が抜ける。臥牀の片隅にそっと腰を下ろし、着慣れない袍衫――そういえば、渡される服は何故かいつも男物だった――の襟元を崩すと、ようやく大きな溜息が吐き出せた。

 脱力し、微かな身動ぎすら止めると、すぐに訪れた静寂の中で、りつはゆっくりと思考を掘り下げていく。この世界の理から遭遇してきたものまで、それら全てを思い出し、そして行き着く結果に落胆する。

 ―――もしかしたら、戻らない方が両親の為にもなるのかもしれない。いや、そもそも戻る方法が無いのだから、この考えも最早意味を成さない、という事になる。
 そう考えると、思わず自嘲が零れた。

(…ばあちゃん、悲しむだろうな)

 臥牀に背から倒れ込めば、体が沈み込む。仰ぎ見た天井に片手を翳し、擦り傷だらけの肌を見れば、まるでぶり返してきたかのように痛み出す、掌――いや、胸。
 途端に熱くなる涙腺が視界を歪ませる。

 ―――帰れない。

 当たり前のように暮らしていた家も。
 当たり前のようにいた身内や友達も。
 当たり前のように学校に通い、両親の喧嘩を止めようと努力し、祖母の家で畑仕事を手伝い、笑い合った、あの日々も。

 ―――もう二度と、触れられない。


 堰を切ったように溢れた涙は暫くの間止め処無く頬を伝い落ちる。拭う気は無い。代わりに天井へ翳した掌を、指先が白くなるほど握り締めた。
 …まるで、胸に沸いた悲しみを無理矢理握り潰そうとしているかのように。










◆ ◇ ◆












 郷城で用を済ませた紫秦は、いくつかの店に立ち寄ってから舎館に戻ってきた。
 荷物を片腕で抱えたまま細い階段をゆっくりと上がり、部屋の戸を開ける。声を掛けようとも思ったが、彼女はりつが起居に居ないと予想していたので声を掛けずに部屋へ入る。案の定、起居に人の姿は無かった。
 榻に置いた荷物に一切手を付けられていない事を確認してから、臥室の戸をそっと開けて確かめる。しかし人の気配は無く、今度はもう一つの臥室をそっと覗き見た。

りつ?」

 声を掛けたが、返事は無い。ただ、臥牀から足が落ちている様子がちらりと見えたので、眠ってしまっているのだろう。
 そうと考えた紫秦は戸をゆっくりと開く。踏み込む度に床が軋みを上げたが、それでもりつは身動ぎ一つしない。余程疲れていたのだ、今は起こさずそっとしておいた方が良いのかもしれない。飯堂へ下りるのは起きてからにしておこう。

 紫秦なりに配慮し、そのまま起こさぬようにと足を後方へ運びかけたときだった。りつの目元が腫れている事にふと気が付いたのは。
 薄暗い中で目を凝らせば、さらに判明する留守中の行動、その痕跡。

(涙の跡……)

 若干複雑な思いでりつの寝顔を見詰めていたが、やがて臥室をそっと後にする。
 …彼女が言い出さない限り、こちらからは聞かない方が良い。それが今の彼女の心に障らない方法なのだから。

 退室する手前、薄暗い闇の中にあるりつの姿を確認してから、今度こそ扉を閉じる。何事も無かったかのように起居の榻に腰を下ろし、彼女の起床を待つことにした。
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