-弐章-
「こうして見ると、海客とは思えないな」
臥室から出た
りつに一声が投げかけられて、目元を擦りかけた手を止めた。房室に衛士が残ったままであった事をここで漸く思い出せば、若干腫れた目元を歪めて苦笑する。彼は胎果という存在を目にした事が無かったのだろう。本来ならば此方で生まれるはずだったのだ、大差が無いのは当然なのだけれども。
「お待たせしてすみません」
「気にするな。時間はまだある」
片手をひらひらと振って、円卓の傍の椅子に腰掛けていた男は組んでいた足を解いて座り直した。揺れていた掌が翻り、向かい側の席に座るよう促されるまま、
りつは徐に席へ着く。男の顔を正面からまじまじと目にしたのはこれが初めてだった。がっしりとした体型に無精ひげを生やした、服装が違えば草寇と見間違えても可笑しくはない風体。吊り上がった眉と目尻も相俟って、尚更人相が良いとは言い難い。そこに疲労の色が窺えなければ衛士と偽っているではと疑うところである。
――妖魔の跋扈する状況下で持ち堪えているのだ、無理もない。
「お前、行く宛てはあるのか」
「ええ、奏に知人がいるので一先ず其方を訪ねようかと」
「奏の高岫までは徒歩でも三日だ。近いといえば近い、が……こう、妖魔が跋扈しているんじゃあな…」
「三日以上かかる上、野木が見つからなければ安全も確保できない」
「そういう事だ」
そして何より、と
りつは男の腰元へ視線を落とした。…冬器が無ければ、妖魔を斬る事ができない。太刀打ちする術が無ければ餌食になるのは明白。ならば、此処でどうにかその手立てを得るしかない。
だが――ここで一つの問題が浮上する。
冬器は冬官もとい国が許可した店でしか売られず、しかも購う者の身分や身元が十分信用に値する者にしか売らないという。残念ながら今の
りつには信用どころか衛士からの訊問を受ける立場にある。入手するまでの道程を考えるとあまりにも遠かった。
「衛士としてはお前を訊問する立場にあるんだが、俺個人としては友人の命の恩人に訊問したくはなくてな」
「友人?」
「ほら、いただろう。馬腹に飛ばされた兵士が」
「ああ、あの…ご友人でしたか」
彼が吹き飛ばされ、冬器の剣を手放してくれたお陰で馬腹の討伐に加わる事ができた。あの時は人の得物を勝手に拝借した事への罪悪感が胸の片隅を蝕んでいたが、結果的には守る事に繋がったのだから、良かったのかもしれない。
「怪我をしているようでしたが、大丈夫だったんでしょうか」
「足の骨は折れたようだが、他は概ね掠り傷だ」
「それは…不幸中の幸いでしたね」
「痛いと喚けるぐらいだ、大丈夫だろう」
だが、と
りつの視線が手元に落ちる。医療技術が蓬莱よりも進歩していない上限られた物品しかない状況下で、動けるようになるまでどれほどの時間が懸かるのだろう。
りつは男から僅かに視線を外し、肩口の向こう側の玻璃を注視する。質が良いとは世辞にも言えないそれは、左下から斜め上に大きく走る罅によって歪んだ景色を分断する。…まるで、巧国の現状を表すかのように。
「…町が気になるか」
「…ええ…あとどれほど、人が残っているのか」
「半分以上は既に奏へ逃げている。残りは…残念だが、半年も保ちそうにはない」
「そう、ですか…」
視線と共に男の声音が落ちていく。奏に避難しなければ――故郷を離れなければならない時が近付いている現状。次の王が立つ目処など無い。それは国を一度離れると帰る目処がつかないという事だ。それも数月ではない。麒麟もまた不在の今、少なくとも五年か、それ以上か。
――帰りたい。帰れない。
国を離れ、望みの薄い帰郷を思い描く。嘗て
りつ自身も経験した痛みが不意に去来して、思わず胸を押さえそうになった。…あの苦しい思いを、彼らはこれから長い年月胸に抱かなければならないのだから。
浮かせた手を握り締めて、膝の上に据える。…今苦しいのは自分ではない。これから国を離れなければならない眼前の彼やこの町の住民だ。――ならば、彼らの為に何かしら力になれる事は無いだろうか。
そうふと思い立った
りつが巡らせた思案を選択するまでに然程時間は掛からなかった。自身が力になれる事など限られているのだから、と。
「…もし良ければなんですが」
「うん?」
「奏へ向かうまでの間、町を守る手伝いをさせてもらえませんか」
男にとっては思わぬ提案だったのだろう。怪訝を含んだ眼差しを対面者へ真っ直ぐに向け、僅かな沈黙の後に一度引き結んだ口をゆっくりと開いた。
「……正気か?」
「町を守るのなら、一人でも多い方がいい筈です。……それに、一人で奏へ逃げようとしても冬器が無ければ妖魔に太刀打ちできないですから」
瞬いた双眸の先を男へ据えて、
りつは淡々と訳を説明する。奏へ避難する際に町の者達と共に向かえば、遭遇した妖魔を払う杖身役として冬器を借り受ける事ができる。ともなれば今出て行くよりもずっと生き延びる可能性が高くなるのだから、と。
遠回しに自身の腹積もりを添えて話せば、険相を浮かべ始めていた男の表情が僅かに和らいだ。おそらく別の魂胆があるのではないかと疑われていたのだろう。
それなら、と男は滑らせていた腰を僅かに浮かせて座り直し、組み合わせた手を卓上へ乗せた。
「奏へ逃げる前に旌券と奏へ辿り着くまでに必要な路銀、それから冬器の譲渡を約束しよう」
「働いた分の報酬という事ですね。……しかし、良いのですか」
「良い、とは」
僅かに首を傾げた男に、今度は
りつの怪訝な表情が向けられる。
「冬器は本来厳正に管理されるもののはず。それを譲渡すると易々約束してしまって良いのですか」
国の管理物の横流しという形になる可能性への危惧から問うた
りつであったが、男は大げさに肩を竦めると、呆れを色濃く含んだ嘆息を溢した。
「安心しろ。管理だの調整だのと騒ぐ役人はとっくに高岫山を越えている。国も府第も機能していないようなもんだ。俺だって本当は衛士ではない。残った者達が生き残るために役割を選んでやっているだけだ」
自身も住民も、生き残る為に。
そこでふと、
りつは嘗ての経験を脳裏に甦らせる。慶国にて、拓峰の乱に参戦したあの頃の記憶。あの時と状況は異なるものの、誰もが生き抜くために必要な役割があれば身を投じた。国や状況が違えども、やるべき事は変わらないのだ。
「…分かりました。よろしくお願いします」
「腕の良い奴がいてくれるのは本当に助かる。頼りにしてるぞ」
◆ ◇ ◆
男は
董革と言った。彼は
りつが暮らせるよう空き家を斡旋し、着替えを掻き集めてくれた。妖魔の討伐では甲皮の貸与も含まれていたが、それでも纏っていない隙間に爪や牙が引っかかってしまえば衣を駄目にしてしまう事が多い。多めに貰っておけるのは正直有り難かった。
「お前、冬器の手入れは覚えているか」
「ええ。必要な物が揃っていればですが」
「それなら次の討伐以降は自分で管理してくれ」
「分かりました」
一時的に提供された居住は一明二暗の造りこそ成されているが、一室自体がけっして広くはない。嘗て暮らしていた住民もおそらく一人だったのだろう、とぼんやり思いながら房室の中を見渡していた。埃があまり溜まっていないように見えるのは、前の住民が出て行ってからそれほど日が経過していないためだろう。
「妖魔が来れば歩墻の上で鐘を叩いて報せる。準備が出来次第音のする方へ向かってくれ」
「開ける扉の上で鐘を鳴らしている、という事ですね」
「物分かりが良くて助かる」
立て付けの悪い窓をがたがたと揺らしながら開けると、僅かに舞う埃を吸い込んでしまった董革が咳き込んだ。緩やかに流れ込む風が房室内の埃を巻き込んで、当たる日差しによって細かに光を帯びる。その光景を目にして
りつは思わず袖で口を覆った。…仮住まいとはいえ、住むには念入りな掃除と手入れを要するようだった。
「…なぁ、
りつ、といったか」
「此方では
明秦と。字で呼んでもらえると助かります」
「そうか……
明秦は奏へ逃げた後、どうするつもりだ」
「どう、とは」
「俺達は隣国へ避難しても新王が起てば国に戻れる。帰る土地があるからな。だが…お前は違うだろう」
違う、と断言を聞き受けて、
りつは僅かに眉根を寄せた。…帰る場所というものは、此方には存在しない。故に避難した後、巧国に新王が起ったところで戻ってくる必要は無いのだ。
保証の無い身分故に家や土地を国から与えられる事も無い。土地に縛られない事は自由があって良い事だと考える反面、安定した暮らしにありつく事は難しい。
りつが安定を手に入れたいと考えるのであれば、けっして選択肢が無い訳ではないのだけれども。
(…別れを言った手前、利紹さんや檸典さんに会いに行くのは憚られる。会いに行ったところで、その後は此方での定住生活を考えなければならないし)
何より――冗談だと思いたいが――康由が
りつを夏官所属とする手続きを踏もうとしていた事実を、蓬莱へ帰る前に聞いてしまった。ともなれば、今漣国へ渡り彼らを訪えば――本当に、冗談でなければ――ほぼ確実に話が浮上するだろう。
(…まぁ、それでも良いかもしれないけれども)
安定した生活という点で考えると、悪くは無い話ではある。が、規律に締め上げられる生活に耐えられる自信は無いに等しい。
(……生きる術を…道を、見つけなければ)
後ろ盾が無い今、長い道程である事は明白。それでも故郷に背を向けてしまった以上――もう戻れない以上、自身の身の振りを考えなければならない。
胸の片隅へ去来する痛みを錯覚だと断言して、
りつは僅かに口角を引き上げてみせた。…今は、沈むべきではない。
「まだ戻ったばかりですし、これからゆっくり考えていくつもりです。考えるのは奏に避難してからでも遅くはありませんから」
「……そうだな」
遠い先に思案を巡らせる事は確かに大切ではあるが、まずは目下――生き延びなければならない明日からの生活に覚悟を決めて。