-壱章-
白波が立ち荒れた虚海の上、厚い雲が垂れ込めていた。
降り撒かれる霧雨が崖から吹き上げる潮風に巻かれていく。岩礁に衝突して砕けた飛沫も混ざったそれは潮のにおいを色濃く乗せて、立ち尽くす者の肌に淡く当たっては雫と化して滴り落ちていく。呼吸の度に喉が焼けるよう。小針で刺されるような痛みに顔を歪めた。
渋面を浮かべた理由はそればかりではない。此処に居る現状、その証拠を受容するまでに時間を掛けずにはいられなかった。
(……戻って、来てしまった…)
本来の出生地へ。
もう戻る事はないと覚悟を決めて、少年に背を向けた筈だったのに。
渦を巻く海面を俯瞰して噤み、噛み締めた口の中に鉄錆の味が薄く広がる。動く度に髪や服から潮のにおいが鼻を掠めて、張り付いた衣服がひどく不快だった。
彼女が蝕で流された経験は、正確には一度目である。最初は誤り落ちた蓬莱の池が比方の浅瀬へと繋がっていた。虚海へ流される不快さを実感して思わず零した溜息は、潮風に容易く掻き消されていく。
(…これからどうしよう)
行き先を漠然と考えたのも束の間、そもそも、と
りつは虚海に背を向ける。
視界に映るのは痩せた木々と雑草が僅かに生えるばかりの土地。その先に広がる地には、嘗て盧の一つでも在ったのだろう。倒壊した建物の壁に蔦が這い、土気色に乾いてしまっている。人が離れて随分と久しいようだった。
盧や里が無ければ現在地を問う事も叶わない。先ずは人を探して漂着した国の名を聞かなければ。
そうして歩き出そうとした足は、不意に微かな声を聞き拾った瞬間軌道から逸れた。反射的に手近な細木へ体を寄せて身を屈め、半身を捻るようにして虚海を振り返った、その先。
虚海上空を羽搏き横切る黒い影。遠目でも判別できるほどの体躯を目視して、
りつの身に緊張が走る。
(蠱雕⋯)
妖魔の出没の数は国の治安を表すものでもある。安定するほど妖魔の数は減少し、大国ともなれば一切その姿を目撃することは無い。
傾き始めた国の兆候として最初に現れるのは小物の妖魔である。それも海岸沿いから、傾けば傾くほど黄領地に向かって目撃例が増え、小物から徐々に大型の妖魔の出没が増えていく。
蠱雕は土地が荒れ果て近い内に王が斃れる、その手前に遭遇例が急増する妖魔でもある。虚海を渡る巨躯を目視できた今、現在地が急速に絞られた。
(舜と柳は怪しいところだけど、少なくとも蠱雕が出現するほど荒れた国…加えて海客が蝕で漂着しやすい国といえば…巧……戴は船が近付けないほど妖魔が出没していると聞いていたから、此処よりもずっと酷いはず)
一瞬、数刻前に別れを告げた少年の別れ際の顔が脳裏を過ぎった。彼の安否を按じたのも束の間、彼を迎えに来た存在を思い出せばそれも杞憂だと頭を振った。
雑木の陰から顔を覗かせた
りつは右側に続く崖沿いを視線で辿る。此処がもし巧州国に面する虚海だとしたら、海沿いにひたすら歩き続けた先、奏南国に辿り着けるのではないだろうか。
(…いや、思い込みで動くのは命取りだ。やっぱり人を探そう)
ひたすら歩くといっても、食事の問題だけはどうにか手立てを考えなければならない。故にいつまでも沿岸にいる訳にはいかなかった。…下手をすれば、妖魔の餌食となり得るのだから。
身を屈めながら虚海に背を向ける。遠くで反響する蠱雕の鳴き声を耳に入れながら、低姿勢でゆっくりと海岸から離れるのだった。
◆ ◇ ◆
日中にもかかわらず、曇天の影響で木陰は夜陰のような翳りが随所に落ちている。
本来人通りが無ければ生い茂る筈の雑草も無く、剥き出しの土は雨を含んで泥濘になりつつある。足を取られないよう慎重に歩を進めていると、やがて霧雨から大粒の雨へと変わりゆく。水を含んだ服の重さは変わりないが、雨水のお陰で潮のにおいは徐々に薄れていく気がした。
やがて雑木が途切れて開けた景色を何気無く一望した
りつはふと足を止める。若干の泥濘はあるが、踏み固められた途が細く蛇行しながら伸びている。旅人が行き交う街道なのかもしれないが、今は日中にもかかわらず人一人通っていないところを見るに、やはり国の荒廃によって旅人の足が遠のいているのだろう。まして開けた地ならば、空からの襲撃を受けた場合逃げ場は無いのだから。
りつは途を見失わないよう視線を据えつつ、なるべく雑木の只中を進んでいく。すると雨によって霧がかったような薄く白い景色の中、ぼんやりと立つ郭壁らしき建物を認める事ができた。よく見ると門が開いており、衛士らしき人影も二人ほど確認できる。旌券が無いため尋問を受けるのは致し方無いが、郭壁の内側へ入り安全を得られるのであれば安いものである。
幸いにも妖魔の気配も影も見当たらないため、意を決して雑木の陰から一歩踏み出した
りつは郭壁に向かって駆け出した。途中で泥土に足を滑らせながらも距離を縮め、程無くして人影に気が付いた衛士が身構えた様を認めて速度を緩める。漠然と捉えた衛士の表情は予想通りの険相であった。
「止まれ。旌券を検める」
「すみません、持っていないんです」
「お前…その格好、海客か?」
「ええ。正確には胎果ですが」
「海客は近くの郷城へ送る事に」
「おい、それは以前の話だ」
厳しい口調で質問を投げ掛け、
りつの身形に眉間を寄せた衛士はしかし、同じ役目を務めるもう一人の男に肩を叩かれた。その会話が尚更、
りつの中で土地の特定に確信を持たせる。海客を差別する国をいくつか知っているが、その中で荒れている国は巧州国しかない。ならば、あとは此処がどの辺りなのかを聞けば向かう方角も自ずと決まるだろう。
一先ず胸を撫で下ろそうとして、衛士が指し示した方角をふと目で辿る。門の脇には潜戸があり、そこで訊問を受けるのだと推察すれば、しぜん肩に力が入った。
「向こうで手続きをする。町に入る為には色々聞かなければならないが…海客の癖に言葉が分かるのか」
「それなりには話せます。以前は漣国の夏官にお世話になっていたので」
久方振りの此方の言葉をどこか懐かしく思いながらも
りつは淡々と返事を口にした。…だが、数秒顔を見合わせた衛士はすぐに失笑する。今の会話のどの辺りに笑う要素があっただろうかと首を傾げたが、理由はすぐに判明した。
「そうかそうか、海客も冗談を言えるんだな」
明らかに馬鹿にした態度で笑う衛士を前に、
りつの眉尻が下がりゆく。…こういった差別意識は長年沁みついて抜けないものなのだろうか。
残念な結果を眼前にそっと溜息を吐く。
――瞬間、不穏な足音が
りつの鼓膜を僅かに揺らした。
反射的に振り返った彼女の視界には霧雨で輪郭のぼやけた、荒廃した土地が広がる。その漠然としか捉えることができない景色の只中、今しがたりつが駆けてきた途から少しばかり外れた風景に、けっして自然のものではない異物が複数紛れ込んでいた。
それは徐々に距離を縮め、やがて全容が見えてくると、
りつも衛士達も身構えずにはおれなかった。
「あれは…」
「妖魔――馬腹か…!!」
基本的に妖魔は集団行動をしない。だがーー今回は運が悪かったのだろう。少なくとも肉眼で鮮明に捉えられる巨躯の数は、三。腕の立つ者がいなければ少人数での討伐は厳しい。
険しい表情で見定める
りつの手が無意識に左腰へ伸びかけ、すぐに空を切って拳を作った。彼女の手に馴染んでいた得物は、今現在此処には無い。
駆け出した衛士を追って、
りつもまた門の内側へと足を踏み入れる。同時に身を翻して今しがた自身が立っていた場所、その先へ視線を投げると、巨躯が大きく揺れていた。
…否、揺れているばかりではない。
硬い四肢と爪が泥濘の地を叩く。朧気だった輪郭は徐々に鮮明と化し、それが門目掛けて突撃する只中である事を判断した刹那、目撃した誰もが顔色を失った。
「も、門を…!」
衛士の一人が漸く絞り出した声で
りつははたと我に返った。血相を変えて開かれている門扉へ駆け寄ると、縁に手を掛ける。郭壁の高さに合わせて設けられた門は見上げるほど高く、厚みも重さもある。妖魔が突撃敢行を果たす前に重厚な門扉を少人数で迅速に閉ざすのはあまりに無謀な事のように思えた。加えて、雨に叩かれた後では手元が滑りやすく、巧く力を加え難い。
縁を掴み、肩を押し当てて体重を乗せる。泥濘に足を取られながらも門扉を押し続け、すぐ様事態を把握して駆けつけた兵士や住民が一人、二人と加わり、門を閉ざそうとした時だった。
「だめだ、間に合わない!」
反対側の門扉の裏から上がる、絶望の声。足が震えたのは近付いてきたものによる震動か、或いは戦慄の所為か。
逃げろ、という叫び声を耳にした瞬間、咄嗟に門扉から離れた
りつの鼻先を門扉の縁が勢い良く掠めた。扉から離れ損ねた者達の姿が門扉の向こうに消えた瞬間、郭壁に強か打ち付けられた鈍く重い衝撃音と断末魔にも似た悲鳴が耳を衝いた。
愕然とした
りつの前を馬腹が大途に向かい駆け抜けていく。疎らで緩やかな人の流れが一変、突撃する妖魔の姿を目にした通行人が悲鳴を上げながら散り散りになっていく様を茫然と見つめていた。
「食い止めろ!」
「槍を持ってこい!楯は役に立たん!」
逃げ惑う住民の悲鳴と兵士達の怒号。門扉と郭壁の隙間から地面へ滴る赤黒い水。瞬く間に拡がりゆく惨状を眼前にして、
りつはひどく顔を歪めた。
(嗚呼……地獄だ…)
全ての兵士が妖魔に対抗できるほどの腕前を持つものなのだと思い込んでいた。それだけの鍛練を日々積んでいるのだと。…だが、そうではなかった。
馬腹の鋭利な角に突き上げられた兵士が放物線を描いて地面に叩きつけられる。どしゃりと落ちて呻いた兵士の元へ思わず駆け寄ろうとして、不意に靴先に何かが当たる感覚で足が縫い止められた。
視線を落とした先には、泥と赤黒い液体に塗れた、得物が一振。おそらく吹き飛ばされた兵士のものだろう。
起き上がろうとする兵士、その背後から追撃を掛けるべく体勢を低く構える巨躰ひとつ。兵士が立ち上がったとしても応戦には到底間に合わない。
――どうする。
馬腹の前脚が地を
刳る。此方へ突撃を開始するまで、あと一拍。
――どうする。
瞬きの間に駆け抜ける、その思考の只中。
ふと、首元の冷たさを覚えて手を伸ばした。首から下げたまま、蓬莱でも片時も離す事の無かった、彼女の形見。それが指先に触れて、嗚呼、と詰め掛けていた息を吐き出した。
――迷うな。迷えば死ぬ。
――私も、この人も。
逡巡が途絶える。此処へ来てからずっと教わってきた大事な心得を思い出せば、
りつの体は自然に動いた。
屈み込み、柄を手繰り寄せて握り込む。どの得物でも扱えるよう叩き込まれた体は自然と構えを取る。迫り来る死の可能性に対する恐怖が払拭された訳ではない。それでも此処で剣を向けなければ、行き着くのは死のみ。
(…もう、見送るのは沢山だ)
紫秦を。慶の少年を。桓魋の部下達や殊恩党に参加して散っていった者達を。…嵐の中、海を渡っていった彼を。
馬腹は既に逃げ遅れた者へ標的を定めている。ならば逃走の道は潰えた。恨むなら茫然としていた自分を恨めときつく歯を食いしばって、
りつは駆け出す直前姿勢を低く落とした。
「おい、死ぬぞ…!」
脚を負傷したのだろう、それでも何とか立ち上がろうと足掻く兵士の真横を
りつが駆け抜ける。すれ違い様に聞こえた制止の声は届かないふりをして、ほぼ同時に駆け出した馬腹との距離を急速に詰めていく。
豪快に振り下ろされた鉤爪を真横へ跳んで間一髪躱し、駆け抜け様に渾身の力を篭めて体躯へ一閃を走らせる。皮膚を護るように覆われた硬い剛毛から上がる血飛沫を目の端で捉えながら身を翻し、耳を劈くような咆哮が上がる中、馬腹の後ろ脚目掛けて追撃を叩き込む。筋を絶たれ、血水を撒き散らしながら姿勢を崩した妖魔の背を駆け上がり、剣を逆手に構えた。
目下は首。全力で腕を振り上げ、全体重をかけて尖先を穿てば、嗄れた悲鳴を上げた馬腹が僅かにのたうって、どう、と頽れて横倒れた。振られて叩きつけられる直前に剣から手を離した
りつが咄嗟に受け身を取って転がり、即座に身を起こしたが、口を薄く開けて息絶えた馬腹の姿を確認すれば、一息を吐き出して巨躯へと近付いた。
深々と突き刺さった剣を引き抜いて、地肌へ艷やかに滴る赤黒い露を一振りして払う。ばたた、と弧を描くように散る飛沫の音を雨音混じりに聞き、そのまま一休憩ーーーとはいかなかった。
町の中には逃げ惑う通行人を標的に暴れる妖魔があと二体、兵士が未だ仕留めきれずに奮闘している。剣を握った以上加勢に向かうしかないと潔く諦めて、
りつは喧騒の上がる方へと駆け出していった。
◆ ◇ ◆
剣客の加勢によって甚大な被害を出す前に妖魔の討伐を終える事ができた。三体の馬腹の亡骸は町の外へ速やかに運び出し、地面に散る血液は水を被せて流していく。その内に雨足が強くなり、雨で洗い流されるだろうと踏んで、次に取り掛かったのは犠牲者の弔いだった。
りつも手を貸そうとしたものの、衛士の一人に呼び止められた。そういえば訊問前であったと思い出せば、小さく頷いて仕方なく衛士に先導されるままついていく。
門の方へ戻るかと思えば、辿り着いたのは小さな舎館だった。店員と軽くやりとりを交わした衛士の男はこっちだと指で方向を示し、一つの房室へと消えていく。
僅かに躊躇って足を止めた
りつであったが、すぐに足音が失せた事に気が付いたのだろう。すぐに顔を覗かせた男は僅かに苦笑を浮かべていた。
「こんな所で訊問はしない。すれば舎館に迷惑が掛かるしな。何より、今回の功労者に手を上げてみろ。俺が非難されてしまう」
だから安心して入れ、と。
手招きして再び房室へ姿を引っ込めた男の後を、
りつは今度こそ追って足を踏み入れる。
室内はそれ程広くはないが、典型的な一明ニ暗の造りだった。房室へ入った空間に小さな円卓がひとつと椅子が二つ、左右に臥室へ続く扉を認めて、りつは円卓の前で足を止めた。決して良いとは言えない質の布と襦君に袍衫、男物の袍と履が一足、乱雑に畳まれ重ねられていた。
「急いで掻き集めたから幾分かちぐはぐで悪いが、無いよりはましだろう」
「え…」
りつは眉尻を下げながら着替えと男を交互に見比べた。着替えろという事なのだろう。そんなに海客の服は見窄らしいものなのかと自身の襟元を摘んでみせる。すると男は苦笑を噛み合わせた歯の間から漏らして、そうじゃない、と僅かにかぶりを振ってみせた。
「妖魔の討伐に貢献した事は町の住民も知っている。そんな者を破れた袍のまま歩かせる訳にはいかないだろう」
「…破れてますか?」
「背中とかな」
岩礁へ打ち上げられる際にでも引っ掛かってしまったのだろう。どちらにしても戻ってきてしまったからには洋服のままではいられない。甘受から首肯してみせた
りつはしかし、房室から退出しようとした男の背を慌てて呼び止める。図々しいとは思いながらも、頼まない訳にはいかなかった。
「ーーすみません。できれば、湯もお借りしたいのですが」
◆ ◇ ◆
男が舎館の者に頼んだ湯と桶は程無くして届けられた。雨に打たれて幾らか流れたとはいえ、海水を含んだ服や髪からは未だ潮のにおいがこびりついている。桶に張られた湯に浸かり丹念に髪や体を洗うと、においは大分取れたようだった。
手早く体と髪を拭いて袍に袖を通す。離れてから一年も経過していない上、以前に着ていたものよりも粗い質の袍だというのに、胸中に込み上げてきたのは安堵と懐古だった。
ほんの数時間前まで、絶望から暗澹とした気持ちで沈み続けていたというのに。
(…嗚呼、何だ)
衿元を正そうと掛けた手がふと止まる。
(彼方に愛着なんて、無かったんじゃないか)
気がかりだった祖母の存在は既に無い。両親が気にならない訳ではなかったが、家の中でも必要最低限しか会話の無い関係だった彼等への未練があるかと考えてしまえば、答えは否、と。
―――つまり、蓬莱への未練は無く。
喉奥から溢れた笑いは乾いていた。洩れた自嘲を房室の片隅で零し続け、やがて湿った嗚咽へと変わりゆく。
生まれ故郷へ馳せる思いが無い。それはあまりにも薄情な人間に成り下がったようで。
ぽっかりと穴が開いた気がした胸を両手で掻き抱きながら、暫くの間嗚咽を押し殺し続けていた。