【海へ。】
要が玄関の手前から戻ってきたのは、日没が過ぎた頃だった。
茫然とした表情も同様の様子もなく、ひどく落ち着いた様を見ると、心の中で整理がついたのかもしれない。
時折吹き寄せる風が窓を微かに揺らして、かたりと鳴る音の方を一瞥しながら、要は再び席に腰を下ろした。
「おかえりなさい」
「時間を貰ってしまってすみません」
「大丈夫ですよ。突然の話で頭を整理する時間も必要でしょうから。…何か、思い出せました?」
「もう少しで思い出せそうなんですが…まだ」
すみません、と小さく謝る要に、
りつはゆるりと頭を振る。此処で思い出せなくても、戻った先には思い出す切欠が多くある。だから、無理をする必要は無いのだと。
また、風が一つ鳴る。今度は窓へ強く吹き付けくる風そのものの唸る音だった。三者とも夕闇に塗り込められた外へ目を凝らすこと数拍。
りつがふと視線を逸らすと、要と目が合った。
「この風…もしかして、」
「ええ。来る前兆でしょう」
「偶然じゃないのか」
「いえ、確実です。…今夜、来ます」
先程の天気予報の後、速報が流れていた。それも暴風警報。陸付近での急な発生と進行については前例が無いのだろう。海へ近づかないよう警告も流れていた。現状で強風が吹いているのだ、かの王が虚海を渡った時、規模が――被害がどこまで大きくなるのか見当もつかない。
「……
明秦さん。貴方は帰らなくていいんですか」
不意に問われて、
りつは沈めていた思考の海から意識を引き戻した。帰る、とひとつ復唱を呟けば、要の首肯がひとつ。
「貴方の話の通りなら、迎えが来るのでしょう?」
「ええ。泰麒、貴方を迎えに」
「泰麒…?」
「戴極国の麒麟。麒は雄、麟は雌。彼は雄なので、国氏をつけて泰麒となります」
りつはテーブルへ置かれたままの紙の余白にペンを走らせる。これまで台輔と呼び方を一択に絞っていた理由は呼び慣れてしまったからだけではない。使令を刺激しない為の策の一つでもあった。
広瀬と共にメモに書かれた文字へ目を落としていた要はしかし、ひどく申し訳なさそうに、恐る恐る問いを投げかけて。
「もしかして…帰ってきたのは、僕を連れて帰る為ですか」
目を丸くした
りつの反応が否応を物語る。呆然とした表情が微かに和らいで、いえ、と緩く頭を振った彼女の口元が苦くも笑みを象った。
「私は元々此方に帰りたかったんです。此方に残してきた祖母の事が気になっていて。ですが、此方へ帰ってきて二カ月ほどで見送ってしまいました。……なので、もし泰麒を見つけたら頼む、とは言われていましたが、必ず、という訳ではありませんでしたよ」
ですからお気になさらず、と。
彼女は微笑もうとした。その口端が、僅かに歪んだ。
――二ヶ月。たった二ヶ月だ。
あれだけ何年もかけて気にかけ、漸く再会できた祖母は行方不明だった孫の帰りを待っていたかのように、あっという間に逝ってしまった。
お金なんか要らなかった。ただ、もっと時間をかけて居なくなった事を謝りたかった。信じてもらわなくてもいい。彼方での生活を語り、
りつが行方不明の期間にどう過ごしていたのかを聞きたかった。
一緒に過ごしたかった。ただそれだけの願いが、あれほど難しかったなんて。
象った笑みが崩れていく。忙しさにかまけて後回しにしていた感情が、自身の発言の所為で波のように押し寄せて来る。胸に込み上げる衝動を辛うじて飲み込みながら瞼を閉ざした。
「それなら……一緒に帰りませんか」
「ーーー」
不意にぽつりと持ち出された。ひとつの提案。
要からの案に、
りつの俯きかけていた面がのろのろと持ち上がる。思いがけない言葉に呆然とした、その矢先。
聴覚が微かに雑音を拾って、要と
りつが窓の方へ振り返ったのはほぼ同時のことだった。
「今のは…もしかして」
「ええ…さっきから聞こえているんです。誰かが呼ぶ声が」
「ただの風の音だろう」
怪訝な面持ちで気の所為だと否定した広瀬に対して、要は明瞭な声でいえ、と否定を口にする。確かに風の音はする。だが、風に混ざって掻き消えそうなほど微小な声が確かに届いていた。
不明瞭だったそれは次第に気の所為だと誤魔化すには難しいほど、人の声を形成していく。
ーー…へーー
ーー此…へーー
ーーどうか、此処へーー
「……来た」
勢い良く立ち上がった
りつはテーブルに乗せていた要の手を掬い取る。握った細い手の先、一瞬驚いたように目を見開いた要はしかし、すぐに頷くと引かれるまま足を踏み出した。
二人で駆け出した姿に釣られて立ち上がった広瀬の焦燥に駆られた声が背に刺さる。
「待て!高里を一体何処に連れていくつもりだ!」
広瀬が追いつく前に玄関扉の鍵を手早く開けて、廊下へと駆け出す。エントランスへ向かう階段を駆け下り、外へ出た途端、強風に乗せられた雨が真横から叩きつけてきた。一瞬蹈鞴を踏みかけた要の手を再び引いて駆け出せば、雨に混ざって強い潮のにおいがした。海に近付けば近付くほど濃くなるそれをまるで道標とするかのように、肺に取り込みながら必死に走る。時折後ろを振り返り、若干息を切らしながらも駆ける要の姿を確認して、幾度も跳ね返り道路を浸す雨を蹴る。
水を含んで半ば泥濘のような砂浜に足を取られながらも、嵐に混ざり聞こえる声を頼りに辿り着いた先、白波ばかりが立つ海を一望して、漸く足を止めた。
招きの声はいつの間にか止んでいた。声の主の姿は見当たらなかったが、検討は大方着いている。少し気を抜けば体が押し倒されそうなほどの強風の中、それでも少年の手を握りながら声の主を待っていた。
「…まずい」
ぽつりと溢した要の呟きを聞き拾って、
りつは少年の横顔を振り返る。焦燥が色濃く滲む顔は今来たばかりの道を見返していた。つられて
りつもまた半身を退いて後方を確認すると、風に若干煽られながらも二者を追い浜辺を駆けてくる男の姿がひとつ。
「先生…此処は危険です。部屋に戻ってください」
「お前たちも戻るんだ。危険だろうが!」
要の冷静な忠告、その語尾に重なるように反論が語気強く吐き出される。距離は瞬く間に詰められ、少年の雨に濡れた色白の腕を広瀬が勢い良く掴んだ。
その直後だった。
「その手を放して、逃げて下さい」
凛とした透明感ある女の声に三者ははっとして振り返る。いつの間にか、
りつの傍らには金髪の女性が佇んでいた。要と
りつは先程から聞こえていた声の主とすぐに結び付いたが、加えて女の正体を察した
りつはごくりと息を呑む。
否ーー察したのではない。
何故なら、彼女には一度会っているのだから。それも、あちらで。
「どうか、逃げて下さい。まもなく王がお出ましになります」
「どういう事だ」
「水害になります。王がお渡りになるので仕方ないのです。どうか、少しでも高い所へ逃げて下さい」
「ふざけたことを」
「どうか」
彼女が切実な願いを口にした刹那、女性の姿が急速に溶けていく。溶解したそれは一度縮んだように見え、途端捲り上がるようにして色を形を豹変させていく。瞬く間に雌黄の毛並みを纏う体躯と四肢を象った優美なそれは、紛う事無き神獣の姿だった。
語気強く否定していた広瀬も、改めて転変を眼前にした
りつも、彼女であった獣が荒れた空を翔け上がる姿から目を話すことができずにいた。ーーその二者の間から、少年の笑う声が聞こえるまでは。
荒れた闇夜を薙ぐ光から視線が落ちる。笑い声の主もまた空を見上げていた。希望に満ちた双眼を瞬かせて、静かな歓喜の声が一つ。
「…思い出した」
ぽつりと溢された言葉に、どれ程の希望が篭められていたのだろう。
そしてその言葉は傍らの二人にどれだけの感情を湧かせただろう。…希望と、衝撃と――無自覚の絶望と。
「僕は人じゃない。彼女の言う通り、麒麟だったんです」
「馬鹿なことを言うんじゃない……お前は人間だ!」
叫ぶように否定した男の声は微かに震えていた。今眼前にした光景を信じない訳ではない。だが――彼は人だ。そうでなくては。
そんな見え隠れする男の希望を打ち消すかのように、愁眉を寄せた要は頭を横に振る。
「麒麟だって?お前が?人の姿をしているじゃないか。ちゃんと両親がいただろう。人から獣は生まれない。そんなことはあり得ない」
「僕は胎果です。おそらく、彼女も」
「たいか…?」
「そもそもこちらの生き物ではないんです。誤ってこちら側に落ちて人のお腹に宿った。それを胎果と」
要が確認の意を込めて傍らの
りつを一瞥すると、彼女ははっきりと頷いた。
だが、此方の生き物ではないとはいえ
りつは人である事に変わりはない。特別なのは彼の方だ。彼は彼方で十二しか生まれない神獣の泰果なのだから。
それでも、転変を眼前にしてなお、広瀬は有り得ないと首を振る。
「帰らなければなりません。帰って王をお助けしないと。僕は記憶を失くしたために恐ろしいほど時間を無駄にしました」
「帰るって、どうやって」
「迎えが来ます」
―――延王が。
上空からの甲高い空気の響きと、分厚い風が陸へ押し寄せて来る音。加えてひどく荒立つ漣の音はまるで、海が悲鳴を上げているようだった。王が渡る手前でさえこの荒れ様なのだ。虚海を越えた先の水害、その規模は計り知れない。だからこそ、少年の訴えは切実だった。
「お願いです。どうか、部屋に戻って下さい」
それでも広瀬は頑なに駄目だと頭を振った。…その足元を、ずるりと泥が這う音が立つ。
厚い雲によって月光は届かない。足元に満ちた夜陰の中を、一つ、また一つと泥が這い、それはいつの間にか群れを成して浜辺を広瀬や
りつ、要の足元を過ぎていく。まるで、個々に意思があるかのように。
「先生」
「逃げるんだ」
「そんな必要はありません。彼らも帰っていくんです」
彼方へ。
その時、
りつは顔を歪めた。要の腕を掴む男が貌に滲ませた、侘しさと羨望――否、嫉妬の色を、垣間見てしまったが故に。
「どうして帰る必要があるんだ。帰る事なんか、ない」
「もう…この世の何処にも、僕のいる場所は無いんです」
「居場所なら作ってやる。――行くな」
制止の言葉は最早、総てを思い出した少年の意志の前に意味は成さず。
要の答えは変わらず、男を真っ直ぐに見返してゆるりと頭を振る。
彼らの間を、重い風が吹き抜けていく。
「……俺を置いていくのか」
要からの答えは無い。ただ眼前で必死に引き留めようとする、これ迄世話になった恩人の顔が本心が、その一言で崩れ始めた姿を、静かに見詰めていた。
「俺は帰れない……なのに、俺だけを置いて帰るのか、高里!」
悲嘆の心中を叩きつけるような叫びが暴風に攫われていく。
先生、と諫めるように投げ掛けた要の呼びかけにも応じる事なく、悲痛の滲む声が一瞬風の弱まった海辺に響いた。
「お前だけが故国に迎えられて…どうしてお前だけなんだ!」
――帰りたかっただけなのに。
広瀬の言葉に顔を歪めたのは
りつだった。心底に甦る、懐古と痛み。それはまだ才国へ足を延ばしていた頃、出会ったばかりの鈴から受けた願いにも似ていた。…あの時の鈴と同じ気持ちだ。
同時にもう一人、蓬莱への帰国を願っていた王をふと思い出した。最終的には彼方での王としての役目を選択したが、帰りたかった気持ちは有った筈。
陽子には悪い事をしてしまった、と。胸中の片隅を蝕む罪悪感から僅かに顔を俯かせた――その先。
決して潮風ではない、濃い潮のにおいが鼻を掠めた瞬間、咄嗟に広瀬を全力で突き飛ばした。彼も感じ取ったのだろう、慌てて要の腕から手を離し後退った瞬間、男の靴先を砂から抉り出た鋭利な爪が掠めていく。
思わず凶器の元へ目を向けると、砂から姿を現したのは赤い獣だった。広瀬の眼前に立ち塞がるように身構えた獣はしかし、背後からの声にぴくりと体躯を揺らした。
「傲濫、やめなさい。この人は敵ではない」
赤い獣の傍らに歩み寄った要が僅かに身を屈めると、血膿色の頭を彼の方へ僅かに寄せた。優しく撫でた頭をそっと抱き込んで、それからやや左後ろへと目を向ける。彼女の足許――片足に絡みつく、白いふっくらとした腕へと。
「汕子も離しなさい。そんなことをする必要は無い」
要の嗜める様な言葉に躊躇いは数拍。白い腕は
りつの足から離れると砂へ潜り込み、改めて少年のもう側らへと上体を現した。長く白い髪に白い体、砂から出た腹部からは獣の体毛が覗いていて、やや離れた砂から突き出た尾は鱗のようなもので覆われていた。
――あれが、泰麒の使令と女怪。
りつがはっきりと目視したのはこれが初めてだった。これまで祟るという噂の原因を作ってしまった者達。何年もの間、泰麒を守り続ける為必死に戦っていた従者達。
女怪――汕子が深々と頭を下げると、広瀬は愕然としていた。今まで目にしたであろう人ならざる存在から頭を下げられるとはあまりにも予想外だったのだろう。
この世界のものではない、異形を従える者。彼がこの世界の者ではない証明を眼前にして唯々呆然とした広瀬に、少年の腕が挙げられる。真っ直ぐに伸ばされた指は広瀬の後方――町の方角へと。
「行ってください」
「高里、」
「あなたは行って、この世界で生きなければならない」
ひどく真っすぐな眼差しを向けた少年は明瞭な声で断言する。けっして、此処で命を落としてはならないのだと。
「行ってください。あなたは、人なのだから」
…人として、生きていかなければ。
嗚呼そうだと、吐き出した息を一つ。此れは眼前の男に限った話ではない。元は胎果だとしても今は人として生きているのだ。生きていくのなら、何方の世界でも同じこと。ただ、自分が何をしたいのか――何を為したいのか。それを明確にしなければ虚海を渡ったところで同じ事だ。
(…本当に、私は優柔不断でどうしようもない人間だ)
りつは一瞬浮かべた自嘲を潜めて歩き出す。汕子からやや離れた横を通り過ぎ、広瀬の方へ歩み寄っていく彼女の背に、要の声が掛かった。
「
明秦さん?」
「彼を、山に避難させます」
「ですが、迎えがもう」
「構いません」
もう二度と来ないかもしれない機会。それを敢えて逃すと決断した彼女に要は愕然としたが、広瀬の腕を掴みながら振り返った
りつはそれに、と微かに笑みを浮かべて。
「彼が巻き込まれてしまったら、貴方の夢見が悪くなりますからね」
帰った後では、巻き込まれたかどうかも分からない。彼方に帰った後で気を揉ませる訳にはいかないのだ。彼には帰国後、大役が待ち受けているのだから。
「延王と景女王に宜しくお伝え下さい」
「
明秦さん!!」
背後で響いた制止の声は耳に届かなかったふりをして、
りつは広瀬の腕を引いて浜辺を走り出す。広瀬は一度だけ振り返り、深く、深く頭を下げる少年を目にして、彼もまた頷いた。腕を引かれ、半ば引き摺られるようにして動いていた足は徐々に自ずと動かして、浜辺を離れていく。…もう、振り返ることは無かった。
(――これでいい)
横殴りで道を体を叩き付けてくる雨の中、広瀬を先導する
りつは迷う事無く道路を駆けていく。念の為、巻き込まれない場所――山への道を把握していたのが幸いだった。
駆け抜けた町中の明かりは街灯を除いて殆どが消えていた。恐らく、彼へ残した留守電が耳に届いたのだろう。間に合って良かったと、息を切らしながら内心安堵する。
(…これで、良かったんだ)
…帰りたかった。陽子や鈴達ともう一度会いたかった。利紹達と手合わせをして、露翠から請け負った仕事を李偃とこなして。
だが、それらはあくまで今思えば幸せだと感じた記憶に過ぎない。再現を為して、その後を考えられなければ、此方へ帰ってきた時と同じだ。祖母を見送った後、やるべき事を見失いかけたあの頃と。
「此方です!急ぎますよ!」
「っ…おい!」
「何ですか」
「いいのか!お前は高里と戻る筈じゃ、」
「私が決めた事です。構いません」
背後から届く困惑混じりの声に軽く頭を振る。雨に浸る道路が街灯の光を反射して、時折視界を焼いた。眩む目を凝らしながら記憶に叩き込んだ道を曲がって、辿り着いたのは山を登る為の山道だった。丸太を踏み場にして作られた階段は山の上へと続いているようだったが、鬱蒼とした木々の所為で街灯の明かりが届いているのは五段ほど先まで。暗澹に満ちた中を進まなければならない。それでも獣道を登るよりよっぽどましだと、広瀬の背を押して上るよう促した。
広瀬は三、四段ほど駆け上がりかけ、背後に足音が続かない事に違和感を覚えて振り返る。これまで先導してくれた背はいつの間にか山に向けられていた。
「待て、何処に行くつもりだ!」
「来るときに人の姿が見えました。その人にも山へ行くよう伝えてきます」
「これから戻って、間に合うのか?」
「分かりません」
けど、と。
半身を退いて振り返った
りつは暗澹に飲まれかけている男の姿を仰ぎ見、微かに笑みを浮かべた。
「貴方はちゃんと逃げ切っていてくださいね」
――台輔が悲しみますから。
この世界で唯一、要の理解者になろうとしてくれた男を死なせる訳にはいかないのだ、と。
告げるや否や、今度こそ山に背を向けた
りつは駆け出した。彼が山の上まで行ける事を切に願いながら。
風向きの所為か、波の音が強くなった気がした。時折叩きつけて来る暴風に蹈鞴を踏みながら、先程町中で一瞬目撃した気がした人影を探す。街灯の届かない夜陰に目を凝らし、ガードレールに掴まりながら辺りを見回した。
「確か…この辺りで…」
見た筈だと、顔を上げた――その時だった。
轟、と一際風が唸って、海の方へ目を向ける。暗渠に塗り潰されてただ黒く澱むばかりの空と海の境界も定かではない、その景色の中。
「―――…延王」
横殴りの雨によって視界は不良の筈だったが、何故だか見えた気がした。…虚海を越えて現れた、一騎の姿が。
嗚呼、これで無事、泰麒は帰還を果たす事ができる。
胸に生まれたのは安堵と、僅かな寂しさ。
それを吐き出した一息で搔き消して、海から目を逸らした――その先、標識の根元に掴まる小柄な女性の姿を視界に捉えて、慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか!逃げますよ!」
「ご、ごめんなさい――風で飛ばされてしまって、動けなくて」
「それなら、負ぶっていきます」
この暴風の中、体重が軽い者ならば吹き飛ばされるのも当然だ。動けなくなるのも無理は無い。ならばと、背を向けて屈んだ
りつの首に、女性の腕が回る。背負い立ち上がった瞬間、風に煽られて僅かに蹈鞴を踏んだものの、山へと続く道は追い風だった。何とか間に合うだろう。
追い風に助けられながら――時折方角を変えて横から飛び来る暴風に耐えながら――今しがた通過したばかりの道を駆け抜け、辿り着いた山への入口で女性を下ろした。山の中は暴風に曝された樹木の枝が揺れ或いは折れる音と、木々の間を抜ける風音で凄まじい音が立っていたが、お陰で山道は暴風から幾分か免れていた。これならば、体重の軽い者でも上がっていけるだろう。
促されるまま上がる女性の後を追って、
りつも駆け上がっていく。手元すら見えない暗闇の中、雨の所為で土は滑っていたが、丸太のお陰で辛うじて滑落せずに黙々と階段を上がっていた。
――広瀬は何処まで上がっていけたのだろう。
もう、中腹辺りまでは登れただろうか。
あとどれほどの猶予があるのだろうかと考えていた
りつはふと、枝が揺さぶられる音と共に先を行く女性の息が切れ始めた音を耳に拾って眉を潜めた。元々雨風に曝されて体力が奪われていたのだ、そろそろ体力的に限界なのだろう。
「限界になったら言ってください、背負っていきますので」
「いえ、そういう訳には――!?」
いかない、と小柄な彼女が言い切る手前だった。
ずる、と前方から嫌な音が響いたのは。
嗚呼、滑ったのだと
りつは冷静に思った。ならば次に来るのは自分への衝突だと低く身構えて、予想通り滑落者の下肢が
りつの腕に衝突する。当たった部位の衝撃を和らげようとやや下げるようにして受け止めた――そこまでは良かった。
りつ自身の足も、泥濘に取られなければ。
滑落者は止められた、その代わりに
りつの体が滑り落ちていく。滑落を止めなければいけないのに、暗闇の所為で足場が判然としない。何度も丸太を踏み締め損ね、掴み損ねて落ちていく。最悪麓まで落ちる覚悟で、それでも何度も滑落を止めようとした彼女の聴覚が、突如籠った。
「!?」
全身を包む浮遊感と冷気。水の中に落ちたのだと理解した瞬間息を止め、慌てて水面を目指して泳ぎ始めた。――だが。
どれだけ水を掻いても、足を動かしても、急速に引きずり込まれる感覚ばかりに襲われる。暗い所為で海面までの距離も底も分からない。浮上の兆しがないまま、流されるまま、意識と共に深く深く沈んで。
砕かれた波音に鼓膜を叩かれて、
りつの意識が薄らと浮上する。
――嗚呼、助かった。
そう自覚した瞬間、喉から込み上げた激しい咳と共に水を吐き戻した。口内に残る塩辛さに眉を潜め、次に襲い来る体の随所の痛みに顔を顰める。持ち上げた腕は細かな切り傷や小さな痣が無数にできていて、袖は数箇所が裂けていた。ただ水の中に落ちただけだと思っていたが、実際は流されたのだろう。
痛みに歯を食いしばり耐えながら徐に体を起こすと、薄らとだが景色を目視する事ができた。おそらく時刻は薄明の始まり辺り――五時頃だろうか。随分気を失っていたのだろう。
波飛沫の立つ海を凝視すると、眼前に広がっている歪な岩が岩礁である事に気が付いた。
打ち上げられたのは、波が何度も当たり削り丸くなった窪みだった。その所為で時折ぶつかる高い波の飛沫が体に降り掛かっていた。
(この辺りで岩礁がある場所は知らない……随分流されたんだろうか…)
疑問に思いながら振り仰いだ背後は切り立った崖が聳えていた。崖を支えに立ち上がりながら辺りを見渡し、どうにか登れる場所が無いか岩礁伝いにゆっくりと歩き出す。張り付く服の気持ち悪さに辟易しながら、漸く見つけたのは人一人が登れるほどの階段だった。階段と言っても、崖を削って足場を作っただけの、地元の人間だけが使用するような簡易的なものである。
崖へ掴まりながら慎重に足場を上がり、辿り着いた先には細い木々が乱雑に生え、絡み合った枝が風に揺すられていた。広がっている地面には雑草が生い茂り、夜露に濡れた花が揺れている。あまり見た事の無い花だったが、野草なのだろうと気にせず、持ち上げた双眸――その先に。
「――……は…」
崖上から一望が叶う海の景色。漸く日の出が始まり、薄明の空の下、海の色が目視できる。その色を認めた
りつの喉から出たのは、乾いた笑いだった。
海上は色だけで判断すれば然程問題は無かった。どの海も多少は色が異なるものなのだから。…だが。
海は、渦を巻いていた。それが一か所ならば、そういう現象も時にはあるかもしれないと思い込めるだろう。しかし渦は幾重にも存在していた。……そして、その渦に、
りつは見覚えがあった。
もう、戻らないと決めたばかりの場所。
呆気なく覆された現実を眼前に突き付けられて、崩れ落ちるように膝を着く。
「は……はは…」
夜明けの海に、乾いた笑いだけが虚しく響いていた。
『一件 の 留守電を 再生 します』
『こんにちは。
光野木です。緊急の用件ですが時間がありませんので、留守電に残しますね。今夜、大型の台風が来ます。神隠しの影響によるものです。住民がいつでも避難できるよう呼び掛けをお願いしたいのです。頼る先がお門違いである事は承知しています。ですが頼れる方が貴方しかおりません。どうか、よろしくお願いします』
『録音された メッセージは 一件 です』
『母さん、
りつです。今夜は大きな台風が来るから、夜は絶対に家の戸締まりをして、外から出ないで。そこの土地は高いし、大丈夫だと思うから。…身体、大事にしてね。父さんにもよろしくお伝えください』
-残丘 了-