【もう一度、】
街灯の下に佇む少年の黒髪が潮風に揺れていた。
時折吹く強風に煽られる髪を鬱陶しげに顔の横へ掻き分けて、恐る恐る近付いてくる一人の女性を注視する。足元の動く気配を静かに制して、街灯の内側に入ってくるのを待つ。
だが……彼女が光の下に足を踏み入れる事は無く。それでも薄ら顔が窺えた女性の顔は、今にも泣きそうな顔をしていた。
「間違っていたら申し訳ない…雁国の台輔でいらっしゃいますか」
「え…ああ、そうだが…あんたは」
誰だ、と。
誰何しようとした少年の口が最中に固まる。女性は眼前で頽れるようにがくりと両膝を着き、茫然としたまま少年を見上げていた。
「お、おい…大丈夫か?」
「すみません…漸く会えたものですから、ほっとしてしまって」
「もしかして探していたのか」
「勿論です……泰台輔を見つけたら頼むと仰ったのは延台輔ではないですか」
「―――
明秦、か…?」
「お久しぶりです。といっても、まだ半年も経っていませんが」
――そう、五か月。
慌ただしく駆け回っていたつもりは無かったが、気付けば半年近く経過していた。その事実を口にした当人も内心驚きを覚えていると、少年基延麒が片膝を着いて
りつの顔を覗き込む。
「泰麒は?」
「見つかりました…ですが、泰台輔に対する、此方の扱いに混乱したのでしょう…使令による穢瘁が酷い状態です」
「穢瘁…」
「それと、あちらで過ごされた記憶を失っています」
「なるほど…こっちに帰って来られなかったのも、それが理由の一つだったか」
自身が麒麟という事実を知らなければ、鳴蝕を起こせないのも道理であると。
延麒が納得する一方、
りつはふと浮上した疑問から眉間に皺を寄せた。…記憶喪失とは、本質や本能をも喪失させるものなのだろうか。
「…記憶が無いと、使令の姿も見えなくなるものでしょうか」
「どうだろうな…記憶が無くなっても本質は変わらない筈だから、見えなくなる可能性は低いと思うんだが…」
延麒はふと言い止した。彼女が今投げかけたのは単なる疑問からではない。おそらくは事実確認だ。…だとすれば、恐ろしい可能性を見出して思わず息を呑む。
「まさか…見えてないのか…?」
「ええ。なので、使令の行いによって泰麒は人を祟ると噂になっています…御すにも見えないのでは…」
「思ったより深刻な事態になってるな…」
制御の利かない使令。穢瘁。祟るという噂と周囲から向けられる敵意。
蓬山生まれの麒麟に比べて胎果の麒麟の方が穢瘁に対する耐性があるというが、実際大した差は無い筈だと、延麒は苦い経験を脳裏に過ぎらせる。だとすれば、これ以上毒に曝す訳にはいかない。…彼の肩には、極国の命運が掛かっているのだから。
「実は、景王が各国に泰麒救出の協力を要請してきてな」
「陽子が…?」
「それで、廉王が漣国の宝重を貸してくれてな。他国の麒麟もこっちへ捜索に来てるんだ」
「ああ…それで、目撃情報があったんですね…」
「?目撃って…何かあったのか」
「ええ…「き」を知らないかと聞く金髪女性が夜な夜な出没していると噂になっていますよ」
あー、と延麒は微かに苦笑を浮かべた。蓬莱を知らない麒麟達には念の為蓬莱の住居について一通り説明をしたものの、胸中の片隅にあった懸念が的中してしまった事実を耳にして延麒は謝罪の言葉を述べる事しかできなかった。泰麒を発見した今、じきに噂も消えゆくだろう、と。
「遅くなってわるかった。苦労しただろ」
瞬間、
りつの表情が固まった。
苦労。したのだろうか。
泰麒の件はただ一人の警官の手を借りて探し回っていただけに過ぎない。延麒と再会できていなければまだ無駄に浜辺を探し回っていたかもしれない。此度の陽子のように、大きく事を動かす為の行動も起こしていない。そう振り返ると、本当に、些細な行動に過ぎない気がした。
「いえ…泰麒や捜索している台輔に比べたら、苦労など」
「謙遜するなよ。大体、苦労は比べるもんじゃないだろ」
「それは…そうですね」
「あと少しだけ、迎えに来るまで時間がほしい。…折角帰ってきたのに苦労を掛けてすまない」
「いえ…」
りつは表情を曇らせたまま、緩く頭を振る。あともう少しで漸く泰麒の帰還が叶うのだ。落ち込んでいる暇は、今は無い。
そう奮い立たせて腰を上げようとした
りつはしかし、不意に左頬へ触れる温かな感触に思わず視線を持ち上げた。頬へ伸びたそれを視線で辿ると、少年は困惑と心配を綯い交ぜにしたような面持ちで
りつを覗き込む。
「台輔…?」
「少し痩せたな。帰ってから、泰麒の事以外でも色々あったんだろ」
「ーーー」
歯が浮きかけ、すぐさま引き結んだ。反射的に口から出そうになった言葉は腹の奥底にしまい込んで、蓋をする。緩みかけた涙腺から滲むものの落下を辛うじて堪えて、もう一度頭を横へ振った。
「…いいえ、役所の手続きや家のことで少し、忙しかっただけですから」
「そうか?けど…」
「大丈夫です。ああ、そうだ…念の為、住所を書いたものをお渡ししておきます。迎えの際に必要でしょうから」
西園寺へ渡したメモの他にもう一枚、同じ内容を書き記したメモを夜の外出の際には必ず持ち歩いていた。鞄の中から取り出した四つ折りの紙を差し出すと、延麒は徐に開いて文字を辿る。紫紺の双眸が上から下へと移動を繰り返す事三度、それからメモを畳んで袍の懐へしまい込む。ありがとな、と短く感謝の意を述べた彼の笑顔は、胎殻があっても元の表情を連想させた。
「もうそろそろ戻らないとな…また来る。それまで泰麒のこと、頼んだぞ」
「ええ、お任せ下さい」
りつの首肯を認めて、立ち上がった延麒の身が瞬く間に溶解する。一度小さく縮んだように見えたそれは刹那、色を豹変させてながら獣の形を作り上げていく。半獣の人とは似て非なる、貴重な転変の光景を目の当たりにして
りつは茫然とした。…麒麟とは、此れほど優美なものであったのかと。
その神獣は黄毛並みを潮風に揺らしながら大きく跳躍する。夜空を飛翔しながら燐光を放つそれはまるで流星のようだった。
燐光が見えなくなるまで見送った頃には、潮騒は止んでいた。先刻と変わらない静寂を取り戻して、暫く。…
りつは静かに肩を震わせた。
それは漸く六太と再会できたからでも、泰麒の帰還の目処が立ちそうだからでもなかった。
―――少し痩せたな。帰ってから、泰麒の事以外でも色々あったんだろ。
初めて指摘を受けて自身の頬に触れる。確かに、以前よりも幾分か頬がこけているようだった。…それで、漸く自覚した。
自分が思ったよりもずっと無理をしていたこと。
本来は祖母を悼む時間を取らなければならないところを、感情に蓋をしていた。
…そうでなければ、動けなかったから。
ーーこの件が終わったら、少し休もう。
誰も知らない場所がいい。自然のある土地で、人の声が届かない場所で、ゆっくり休みたい。
細く細く息を吐き出して、ひどく静かになった波の音を聞きながら自転車を停めた場所に向かい歩き出す。一先ず、最初の目的は達成した。あとは迎えが来るまでの間泰麒を無事に帰すべく支援をするのみ。
今はそれだけを考えて、ハンドルを掴んだ自転車のスタンドを蹴った。
ふと見上げた空の、夜明けは未だ遠く。
◆ ◇ ◆
後日、西園寺と連絡を取った
りつは、休憩の一服中を条件に署の建物の裏側に設けられた喫煙所で会う事となった。
設けられた、といっても壁や衝立等の隔たりは無い。ただ水を張った吸い殻入れがあり、青い樹脂製のベンチが建物の壁沿いに設置されているだけの簡易的な空間だった。
幸い人の姿は見当たらず、合流した
りつと西園寺はベンチの両端に腰を下ろすと、早々に本題を切り出す。六太少年との再会。高里少年が帰るにはもう少しばかり時間が掛かりそうである事。今までの夜分の捜索への協力に対する感謝。
りつが要約してそれらを話し終えると、そうか、と煙と共に深く息を吐き出した西園寺が両足を投げ出す。煙草を銜えたまま脱力したふうの男は、視線もまた頭上へ放り出していた。
「部下には深入りするなと忠告してきたが、忠告した当人がここまで協力するとはなぁ…」
「…最初は、その気は無かったんでしょう?」
ああ、と西園寺は頷く。
「何せ半信半疑だったからな。今だって、
光野木さんの話が嘘じゃないかと思う時もある」
「それなら、どうして」
「目がな、違うんだよ」
目、と復唱するりつに対し、男はとんとん、と自身の眉間を軽く曲げた指で小突いてみせる。
「仕事柄、嘘を吐く輩と何度も言葉を交わしてきた。だから長年培ってきた勘と経験則からだな。あんたが嘘を吐いたのは最初だけだと感じた」
「それは…申し訳なかったです。信用してもらえる可能性の方が低かったものですから」
夢物語だと一蹴され続けるものだと思っていた。それだけに、現状でここまで明かせる者が――それも堅い職業の者が――存在する事自体、今でも不思議に思う。
そうだろうな、と西園寺が軽く笑った時だった。
ひどく慌ただしい駆け足の音が次第に近付いてくる事に気が付いたのは。
りつはすぐさま居住まいを正し、流石に西園寺も投げ出した足を引っ込めるとベンチに深く座り直した。顔を見合わせ、次いで二人して足音の方へ顔を向けると、三十代半ばぐらいの男が建物の角を曲がってくる。手前の男の姿を認めて、思わず声を上げていた。
「西園寺さん、やっぱり此処にいたんですね!」
「なんだよ、休憩中だぞ。一服くらい良いだろう」
西園寺はあからさまに渋い顔をしながら煙草を水の張られた灰皿に投げ込んだ。そんな悪態に構わず、彼の部下は声を潜めて再び口を開いて。
「――例の高校の生徒が校舎から転落したと一報がありまして」
「転落?事故から一週間も経ってないんだが…」
「それが…転落したのは例の生徒で…」
「なんだと?」
例の高校と生徒。それだけで誰何は不要。
瞬間、
りつの顔から血の気が引いた。一体何故。彼の安否は。病院へは運ばれたのか。
質問を口にしかけたが、ぐっと堪えた。いくら面識があるとはいえ、一般人が質問を挟むべきではない。
そんな彼女を横目で一瞥した西園寺は、すぐさま部下へと視線を戻した。
「無事なのか」
「ええ、軽傷のようです。病院へ搬送されたとの事ですが…」
「以前の事件が無きゃ、大事にして動くことも無いんだがなぁ……宮下、砂沢に声かけてこい」
「分かりました」
身を翻した男は足早に建物の角を曲がり消えていく。その背を確認し、足音が遠ざかったのを認めてから、肩の力を抜いた
りつはしかし……勢いよく背後を振り返った西園寺と不意に目が合った。
「だ、そうだ」
「あ…」
「今にも飛び出していきそうな顔だったぞ」
「お気遣いいただいてすみません」
代弁してもらった事に頭を下げたが、実際西園寺の言葉通りだった。病院の場所まで聞けば、おそらく今頃は自転車を走らせていたに違いない。延麒から頼むと言われて早々に負傷させるなど、あまりにも申し訳が立たなかった。
「誤って転落、という事でしょうか」
「それを調べるのはこれからだな。ちくしょう、休憩が無くなっちまった」
「度々お時間を頂いてすみませんでした」
「いや、俺も話を聞いておきたかったからな。それに休憩が無くなったのも
光野木さんの所為じゃあない」
頭を下げた
りつを横目に立ち上がった西園寺は背凭れに掛けていたスーツを引っ手繰り、袖に腕を通していく。そのまま部下の後を追うように歩を進め始めた――その最中。
ふと思い出したように
りつの方を振り返った。
「…つまり、いつになるかは分からんが、近々彼は行方不明になるんだな」
「ええ…その方が、これほど世間から疎まれる事も無くなるだろうから」
彼方貴ぶべき存在は、此方ではあまりにも生き辛い。本来いるべき場所に帰るのが一番だろう。彼にとっても――此方の人間にとっても。
りつに背を向けると、ややあって、そうか、と西園寺の呟く声が聞こえた。
「また、何かあれば連絡してくれ」
「ええ…分かりました」
喫煙所を後にする男の肩は僅かに落ちているように見えた。行方不明者が出ると分かっていながら見過ごすしかできない現状がもどかしいのだろうと、建物の向こうへ消えていく男の背を見送りながら
りつは思う。
自転車を押しながら署の敷地を出ると、一度自宅へ戻る為に道路を渡り、サドルへ跨る。濃い潮の臭いが鼻を掠めたのはその直後だった。
思わず勢いよく上げた顔を海の方へと向ける。此処から海までは多少距離があり、建物の間からはほんの僅かに水平線が覗いていた。風向きによっては潮風が運ばれてくる事もある。…だが、鼻の奥に絡みつくような、ねっとりとした濃い臭気は少なくとも波打ち際に立っても滅多に嗅ぐ事は無い。
ひとつ、風が吹いた。
風は柔く緩く、右手にした署から海に向かって抜けていく。その瞬間、嫌な予感に背を粟立てた
りつは即座にペダルへ足を掛けた。
――此処にいてはいけない。
そう直感的に、この場を離れようとした。
「
りつちゃん!」
二月ぶりに耳にした、耳障りな声が無ければ。
りつは自転車に乗ったまま、慌てて上体を捻り声の方を見やる。そこには祖母の葬式以来頻繁に接触を図ろうとしてきた叔母がハンカチで額の汗を拭いながら小走りで駆け寄って来るところだった。
「叔母さん…?」
「漸く見つけた!散々探したのよ!」
「どうして此処に…」
「時々出入りしてるってご近所さんから聞いたのよ」
ああ、と
りつの眼差しが呆れに満ちたものへと変貌する。情報の出所は母親だろう。近隣住民との井戸端会議で大方話したに違いない。そこから叔母が知る事となったのだろうと容易に想像が着くと同時、待ち伏せされた現状がひどく不快だった。
渋面を作る
りつの様子にも構わず、叔母は再び嬉々として開口する。
「家を出たんですって?」
「ええ、一人暮らしを始めたかったので」
「今何処に住んでるの?」
「此処から少し遠いところです」
「遠いなら送っていくわよ?」
「いえ、大丈夫です。寄るところがありますので」
「そう?…もし時間があるなら、一緒にご飯でも」
「すみません、約束の時間に遅れるので」
下心を存分に水面上へ押し上げた者の貼り付けた様な笑みがひどく気持ち悪い。勿論愛想など微塵もくれてやるつもりはないと言わんばかりに断りを入れた
りつは冷ややかな視線を突きつけると、すぐに進行方向へ顔を戻した。
「…独り占めした癖に」
ぼそりと聞こえた声に滲むのは、羨望と嫉妬。それを敢えて聞かないふりをして、
りつは今度こそペダルを踏み込んだ。それ以上の声は無く、風を切る音だけが鼓膜に響く。
(…あからさま過ぎて嫌になる)
心中の不快を吐き出すように零した重い溜息は風音に紛れて消えていく。
…潮の臭いは、いつの間にか普段と変わらぬ海風のそれに戻っていた。
◇ ◆ ◇
自宅へ戻り数日が経過する只中、
りつは暫くの間熟考に浸っていた。
――泰麒の帰還方法は虚海を渡る他に無い。だが麒麟の自覚があった頃の記憶が抜け落ちている今、鳴蝕も使えない筈である。それならば、人型の泰麒を乗せる為の妖魔――つまり使令と、使令を御せる者が必要になる。そこから導き出せる人選は、やはり麒麟とその使令。蓬莱への被害を最小限に抑えるにはそれが最適だ。
(となると、やはり所縁のある延台輔が適任なんだろうか…)
漸く慣れてきたばかりのワンルームの台所で、野菜を切りながら先日の延麒との会話を顧みる。もう少し詳細を聞いておけば良かったかもしれない。そう、微塵の後悔を抱いた矢先だった。
棚の購入まで手が回らないために畳へ置きっぱなしにしていた電話がけたたましく鳴り響いたのは。
流水で軽く手を洗い、包丁と切りかけの人参をまな板に置いて電話へ駆け寄る。この家の電話番号を知っているのは三人。母親と大家と、先日署で会ったばかりの協力者だった。
「はい、
光野木です」
持ち上げた受話器を耳に当てて名乗った
りつの顔が程なくして強張っていく。急いでいたのか、矢継ぎ早に話す男の声が右の鼓膜を震わせる。
「……え…」
届けられた一報を耳にした
りつは絶句したまま、暫くの間首から下げた紫水晶を握り込み続けていた。
校舎で起きた、生徒の集団転落事件。
…そして、彼の両親が自宅で亡くなったのだと。
葬儀が執り行われているという寺の場所を電話で聞き受けた
りつは喪服代わりの黒いシャツとズボンに身を包み、髪を纏め上げると家を飛び出した。幸い近所だったため五分ほどで到着したが、山門が見えたところで
りつの足が止まりかけた。
門の両脇に固まる人の群れ。カメラを首に手に下げ、時折ぼそぼそと会話を交わしながら山門の内側を覗き込むようにして睨めつけている。どう見ても弔問客ではない者達の正体は容易に推察できたが、異様な光景を前に顔を歪めずにはいられなかった。
到底人の死を悼む空気ではないのは一目瞭然であったが、それでも意を決して山門へと近付くと、不意に振り返った一人の記者と目が合った。
「…凄い記者の数ですね」
「ああ、何せ生徒を祟って死に追いやったあの高校生が、ついに自分の両親まで祟ったんだからな」
「―――」
おぞましい誤解を耳にして、
りつは絶句する。
ーー違う。麒麟が祟る事は無い。原因は使令だ。だがそれを分からない者にとっては彼が祟る存在だと、これほどまでの人数が思い込んでいる。そして記者の物言いに篭められた、怨恨にも似た感情。
こうなった以上、泰麒に行き場など無い。多くの怨嗟を向けられて行き着く先は絶望一択。想像すら嫌悪する末路にひどく顔を歪めながら、山門を潜り抜けた。
葬儀も終盤に差し掛かっているのだろう。微かに聞こえていた読経はいつの間にか止んでいた。記者の視線を背に受けながら数段設けられた石の階段を上り、参道を歩く。中程まで進み、本堂内の話し声が漠然と聞こえるほどまで近付いた時だった。
前に出しかけた足が、急に縫い留められる。
りつの意思で足を止めたのではない。足首にひやりと冷たい何かが嵌められた感覚があり、それ以上足を前に出そうにも頑として動かなかった。同時に鼻腔へ満ちる濃い潮のにおいが、危機感と焦燥を急速に募らせる。
恐る恐る下方へ落とした視線の先、足首に纏わり付くのは白い手だった。地面から生えたふっくらとした腕が、黒のズボン越しに足首を縊るように掴んでいる。ぎりぎりと絞め上げるように徐々に力を増していくそれは、間違いなく校舎内で遭遇したものと同一だった。
「……白汕子」
ぽつりと溢した正体に、絡みつく白い腕が僅かに揺れる。足首を掴む手からはほんの僅かに力が緩められて、彼女はまだ辛うじて人の話に耳を傾ける事ができるのだと、内心安堵した。
りつの心中に不思議と以前のような恐怖は無かった。彼女達はただ泰麒を守りたいだけなのだ。だが、どうすれば守る方法に繋がるのかが理解できない。だから泰麒に怒る者、触れるものを害成す者と見做して攻撃をする。理の異なる地で、周囲に少なくとも好意ではないものばかりを向けられながら、必死に泰麒を守り続けてきた。それはなんて、先の見えない孤独な戦いなのだろう。
「…先日、延台輔にお会いした。泰台輔を戴へお送りする為の話も行ってきた。だからどうか、会わせていただけないだろうか」
「――…――、…」
りつの静かな語りかけに反応したのか、足元からは呻くような声が響く。しかし逡巡を伴ったそれは、以前に感じた明確な敵意も気迫も薄い。お願いします、と加えて零した呟きが届いたのだろう。更に手の力がゆるゆると弱まり、程無くして足元の圧迫感が失せた。落とした視界には絞られた形跡のあるズボンだけが映っていた。
無意識に詰めていた息をそっと吐き出して、
りつは再び参道を歩き始める。解散していない事を願いながら少しばかり歩幅大きく進んでーーその足が本堂まで辿り着くことは無かった。
急に背後で腹の底に響くような轟音と悲鳴が重なって、反射的に振り返る。参道へ押し寄せる土埃混じりの風に思わず口を掌で覆いながら、
りつは後方の光景に愕然とした。
立派に構えられた山門。本来ならば崩れる筈のないそれが、薙ぎ倒されるようにして崩落していた。舞い上がる土埃の所為で全容は把握し難く、けれども瓦礫に圧し潰されたであろう者達の呻き声と怒号にも似た悲鳴が凄惨な現場を物語る。
本堂の方から引き戸を開け放つ音がして、すぐにばたばたと足音がする。引き攣ったような声が響いたが、
りつは本堂を振り返る事なく土埃の立つ方へ駆け出そうとした。
「馬鹿みてぇ」
動揺と驚愕の混ざった喧騒の中、この場にはあまりにも不謹慎な笑い声。侮蔑交じりの一言が、
りつの表情を引き攣らせる。
「あんな大騒ぎしてさ、無事で済むわけねぇのに」
「だよな。祟るなんて放送しておいて、信じてないんだからなあ」
けらけらと笑う少年達の会話はひどく異様だった。人の死が眼前にあるかもしれない。なのに何故、そうして笑えるのか。見てみぬ振りならまだいい。他人の死が恐ろしい者もいるから。ーーだが、彼らは違う。
負傷者を前に、明らかに不遜な態度で侮蔑を含んだ言葉を吐き棄てる者達へ、沸々と込み上げる怒りで
りつの拳がひどく震えた。
「何を笑っている!!」
少年達の肩がびくりと竦む。僅かに気圧され、後退る。嗤いを鎮めた者達を追い越して本堂から駆け出してきた大人達に、
りつは再び声を張り上げた。
「誰か救急車を呼んで下さい!急いで!」
「は…はい!!」
「瓦礫をどかします!どなたか手を貸して下さい!!」
言い切るや否や山門目掛けて駆け寄った
りつは持ち上げた瓦礫の一つを脇に放り投げた。ごとりと地面にぶつかる音で我に返った記者が一人、二人と瓦礫に手をかけ、時折呻く声を頼りに倒壊物を除けていく。さらに
りつの隣には少年が加わって、女性が、男性が、次々と本堂から駆け付けた人手が下敷きになった記者達の救出に掛かるのだった。
程無くして数台の救急車が到着し、怪我人が搬送されていく。警察車両も到着し、残る弔問客の間で困惑と動揺の声が随所で犇めいていた。これもやはり少年の祟りなのか…と。
りつは暫くの間規制線の張られた内側に残る、倒壊した山門の残骸をじっと見詰めていた。
(これは…汕子の仕業ではない)
まるで爪を立て凄まじい力で薙ぎ倒したような形跡だった。汕子も爪は持ち合わせているが鋭利には程遠い。ならばもう一人の使令の仕業だろう。
更に事が大きくなりつつある事態に焦燥を募らせながらも、身を翻して本堂へ続く参道を今度こそ歩く。来たからには焼香をと、数段ある階段に足をかけようとしたところで、本堂の脇から、あの、と少年の声がした。今回喪主を務めたであろう、高里少年だった。
「先程はありがとうございました」
「いえ。礼を言われるような事は何も…」
りつがゆるりと頭を振ると、少年は驚いたように目を瞬かせる。
「
明秦さん…どうして此処に…」
「訃報を聞いて、居ても立ってもいられなかったので」
ありがとうございます、と呟くように返して、要の表情が沈む。
同級生が亡くなって、両親を喪って、ずっと悲しい筈なのに、周りが悲しむ暇さえ与えてくれないーーそんな時に来るべきではなかったかもしれないと一瞬後悔を抱いた
りつは表情を歪めかけたが、ふと続けられた要の言葉に俯きかけた面を持ち上げた。
「
明秦さんは、不思議な方ですね」
「え?」
「まだ一度しか会っていないのに、それよりもずっと前に会った事がある気がするんです」
「―――」
既視感。
本当に会った事が無いのであれば合っているであろうそれを、不思議ですね、と濁しかけた口が止まる。…彼に偽りを告げて、一体何になるのか。既に延麒には高里少年の居場所を伝えてある。だとしたら、これからするべきなのは。
「ーーええ、会った事はありますよ」
「え……」
「御身が十歳の頃でしょうか」
「十歳…待ってください、それは僕が神隠しに遭った頃に、という事ですか」
「ええ」
さらりと、恰も当然のように返した
りつの言葉を反芻すること三度。呆然とした要の心中にゆるゆると驚愕がやってくる。慌てて確認の為の問いを投げ掛けると、彼女からの返答は深い首肯。
少年の口が薄く開いては閉ざすを何度か繰り返し、どう問えば良いのか分からず思いあぐねているように見えた。突然自身が喪った記憶の一部を知る人物が現れたのだ、動揺するのも無理はない。
だが、と
りつは後方をちらりと見やる。弔問客の耳があるこの場で彼方の話を持ち出す事はひどく憚られた。
「…一から説明させて頂きたいところではありますが…今はご両親の葬儀の場。喪に服す時間でしょうから、この話は後日に」
では、と一礼した
りつは本堂へと目を向ける。堂内は既に人が捌け、整列した椅子の奥に祭壇が設けられ、両脇に飾られた花の中央に薄い和柄が描かれ白い布に包まれたものが三つ、ぽつんと置かれている。おそらく、彼の家族だったものだろう。
祭壇に向かいそっと手を合わせてから、
りつは踵を返した。
「待って下さい!」
背後に投げかけられた制止の声に周囲の視線が集中する。好奇心を抱く者、咄嗟とはいえ叫んだ少年を疎ましげに思う者、単純に驚いて振り返る者。…そして、彼の変化を心配する者。
「どうした、高里」
「あ…先生」
「先生?」
二十代前後の若い男性だった。先生と呼ばれた男は早足で本堂脇に立つ少年の傍へ寄ると、彼が引き留めた女性を凝視する。足を止めた
りつもまた怪訝そうな面持ちを少年の側へ向けると、要は慌てて口を開く。
「僕が通う高校の先生なんです。…この人と話をしていて」
「…貴方は?」
「
光野木と申します。昔、彼とお会いした事がありまして。今は彼が引き留めて下さったんです。彼の小さな頃の話を聞かせてほしいと」
「
光野木、さん…」
「ですが、今日のところは御暇申し上げます。…また、お会いできましょうか」
「はい、勿論」
「ありがとう御座います」
そういえば、と
りつはポケットから取り出した四つ折りのメモを要へ手渡した。家を出る直前に気が付いて走り書きした新居の電話番号だった。彼が今より少し落ち着いて、話を聞きたい時に電話をしてくる事を願いながら、少年が受け取ったのを認めて今度こそ境内を出ていく。
脇に寄せられた山門の瓦礫を横目に抜けた寺の外、すっかり捌けて記者らしき者が一人もいない様子に少しばかり安堵して、帰路へと就くのだった。
◇ ◆ ◇
カーテンの隙間から部屋へ一閃を描く月光をぼんやりと見つめながら、僅かに蒸し暑く感じる部屋の中、
りつは布団に横たわり続ける。
泰麒と再会したあの日から三日、何故か寝付けない日が続いていた。疲れて眠ってしまいたい彼女の意思に反して、目が冴えるばかり。何度か寝返りを打ち、さらに数度月光の道標を眺めて、枕元の置時計に目を向けると時刻はじき午前二時を迎えようとしていた。
このままでは眠れそうにないと、布団から起き上がった
りつは夜陰に満ちた六畳の部屋をゆっくりと歩く。…気晴らしでもすれば、少しは眠気が訪れるだろうか。
そう、ふと思い立った
りつは手早く着替えを済ませて薄い上着を羽織ると、静かに玄関扉を閉めてそっとアパートの階段を下りていく。
アパートの陰に立て掛けていた自転車を押して、街灯の下を通りながら歩き出す。少し離れたところで漕ぎ始めると、部屋内よりも少しばかり涼しい夜風が首元を抜けていった。
然して考える事も無く自転車を漕いでいると、気が付けば海沿いの道路まで来ていた。先日まで頻繁に訪れていた所為で足が向いてしまったのだろう。
街灯の下、ガードレールの外側に自転車を停めてスタンドを立てる。後輪上の荷台に座りながら、穏やかに寄せては返す波の音に耳を傾けて、そっと瞼を伏せた。
ふと、視界が使えなければ聴力や嗅覚が鋭くなると、以前何処かで耳にした情報をふと思い出した。…きっと、そのせいだろう。いつもより潮のにおいを強いと感じるのは。
「あの」
不意に声がして、
りつはびくりと肩を跳ね上げる。他者の気配に対して鋭い訳ではないが、けっして疎い方ではない。だが、声の主は一切の気配がしなかった。何故、と慌てて開けた双眸を声の方へ定めると、そこに佇む人物から目を離す事ができなくなってしまった。
「ここに行きたいの。何処か分かるかしら」
彼女は金の髪をしていた。靡く髪の間から窺えた紫紺の瞳。以前他国で見覚えのある紗のような淡い色の袍が潮風に靡く。差し出された紙には、ひどく見覚えのある走り書き。雁の麒麟に渡した筈のそれを目にした瞬間、表情を硬直させた。
「――台輔」
慌てて荷台から降りた
りつは拱手と共に片膝を着く。
―― 一体何処の台輔なのか。
――漣国宝重を使って蓬莱へ来たのか。
――メモを持って此方を訪れたという事は。
瞬時に浮上した疑問を一先ず片隅に寄せて、拱手の手前で俯く面を更に深く下げる。
「失礼致しました。私は延台輔へその紙を渡した者に御座います」
「まぁ…これをあなたが?それなら泰麒の居場所も御存じなのね」
柔らかな声に含まれた喜び。だが、耳にした
りつは気まずそうに頭を小さく振った。
「…実は、先日泰麒の此方の両親が亡くなりまして」
「…それは、残念でしたね…」
「ええ。それで、おそらく別の場所に移動すると思います」
「移動?」
はい、と答えた
りつは言葉に渋る。これまでの事は彼方の麒麟にとっては信じ難い事件ばかりである。卒倒し兼ねない件まであるのだ、どう伝えるべきか。
そう言葉の選別を必死に行い、少しばかり間を置いた
りつは再び口を開いて。
「その…穢瘁のある場所に住み続けるのは、毒ですので」
りつは僅かに顔を持ち上げ、少女の表情をちらりと窺う。予想外の言葉に絶句した彼女は困惑を露わにして、どう返せば良いか逡巡しているようだった。
…だが、今の話はあくまで
りつの予想である。両親の死に使令が関わっているのは間違いない。ならば亡骸は凄惨なものだっただろう。まして今は夏季――発見が遅れれば遅れるほど、腐敗が進んで悲惨な現場と化すのは想像に難くない。
先に火葬したのもきっとその為だろう。そう推察していた
りつはしかし―――次に飛び込んできた言葉に、耳を疑った。
「…明日、延王がお迎えに上がります」
「……は…今、何と…」
「泰麒を迎えるため、延王自ら虚海をお渡りになります」
「王自ら…それは、何故」
「おそらく泰麒が角を喪っているため、無事に虚海を渡る為の方法としてやむを得なかったのです」
泰麒が角を喪っている。
初耳の情報に、
りつはああ、と納得する。それで使令の姿が見えなかったし、制御も叶わず、記憶が無かったのかもしれない。
だが、納得の一方で背筋に冷たいものが走った気がした。
…以前、陽子が王になる前の話だ。
天勅を頂いた後に虚海を渡ったらどうなるのかという話を聞いた事がある。拓峰の乱を終えて郷城に暫く籠りながら片付けをしていた頃の事だ。延王から聞いたという陽子の話に、
りつ自身が顔を歪めながら耳を傾けていたのを覚えている。
――水害。
麒麟の鳴蝕は波が荒れる程度で済む。だが王ともなれば規模は格段に変わる。海が荒れるどころではない。台風そのものだという。それも突発的な出現になるため、どれだけの人が被害を受けるのか―――
愕然としたまま再び面を沈めたかけた
りつはしかし、急に眼前まで掲げていた手が温かなものに包まれて、はっと顔を上げる。少女が拱手を掬い取るようにして、両手で優しく包み込んでいた。
「泰麒を見つけてくれてありがとう。大丈夫、貴方も無事に帰れるよう取り計るから、心配はいらないわ」
「え…」
「それまでの間、泰麒をよろしくね」
微笑む麒麟を前に、修正の言葉を喉元で留めてしまった
りつは茫然としたまま違う、と返答を口にしようとした。だが口から洩れるよりも早く、彼女の姿が透過していく。ぎょっとした
りつの視線が少女の手と顔を交互に走り、それは瞬く間に街灯の光に重なり消失していった。
濃ゆい潮のにおいが次第に薄れていく。…そういえば、汕子の時にも同様のにおいがした。もしかしたら海を渡り此方へ来た使令の特有の臭気なのかもしれない。
そう考えながら、徐に立ち上がった
りつは彼女が触れた右手を見つめて――悲しいことに、気付いてしまった。
(そうか……もう、こっちでの未練が無くなった今、拘る必要も無くなったのか)
無事に帰れるよう取り計ると言ってくれた台輔に即答できなかったのは、きっとそれでも良いかもしれないと思ったから。…だが、折角蓬莱へ送ってくれたのに戻りたいと言い出すのはとんでもない我儘に違いない。今後一人で生きていけるよう遺してくれた祖母にも申し訳が立たない。
……それでも、良いのだろうか。
「……不孝者でごめんね、ばあちゃん…」
呟きは海から吹き寄せてきた潮風に攫われて掻き消えていく。暫くの間、細月の微かな明かりに照らされた黒い海を静かに見詰めていた。
◆
りつの自宅の電話が鳴ったのは、翌日の昼過ぎの事だった。
荷物整理に一区切りを着けて休憩していると、部屋に響く呼び出し音に驚きながらも慌てて部屋の隅へ移動し、すぐに左手で持ち上げた受話器を耳に当てる。
「はい、
光野木です」
『こんにちは。高里です』
「あ…台輔」
葬儀の日に番号を渡したのを思い出してつい敬称を口にすると、受話器から、ふ、と微かに笑う声がした。泰麒と出会って後、ずっとそう呼んでいたものだから癖がついてしまったのかもしれない。
『この間は来ていただいて、ありがとうございました』
「いえ、とんでもない。寧ろお邪魔だったのではと心配していました」
『そんな事は無いです。ただ――話の続きが聞きたくて』
ああ、と
りつは電話越しに頷く。落ち着いたら話をする約束をした。葬儀の日から既に三日――相変わらず世間での報道はされているようであったが、受話器から聞こえてくる声音は少なくとも落ち着きを払っている印象を受けた。
「…分かりました。長電話になりますが、大丈夫ですか?」
『いえ…直接お話を聞きたいんですが…駄目でしょうか』
「構いませんよ。夕方でも大丈夫ですか」
『大丈夫です。よろしく願いします』
近場に置いていたメモを引き寄せ、伝えられた住所を走り書きする。
りつの住居から比較的近いマンションのようだったが、住所を伝えられている最中に受話器の向こう側で男性の声がしていたのが少しばかり気懸かりだった。…誰かと一緒に暮らしているのだろうか。
要との電話を終え、荷物の片付けを済ませると、二件ほど電話を掛けた。何方も留守だったため、留守番電話に伝言を残してから家を出る。時刻は既に十六時手前――ふと見上げた先、斜陽が始まっていた。
住所を書いたメモ頼りに向かい、辿り着いたマンションのエレベーターを上がる。部屋番号を二度ほど確認してから呼び鈴を鳴らすと、徐に玄関扉を開ける者が一人。先日、要から高校の先生だと紹介された男性だった。
「こんにちは、
光野木です」
「どうぞ」
「お邪魔します」
軽く一礼してから玄関に足を踏み入れる。履物を揃えて隅に置き、男性に案内されるまま部屋に通されると、少年が客人を迎える為に立ち上がったところだった。
「わざわざ来ていただいてすみません」
「構いません。話を区切ったのは私ですから」
挨拶もそこそこに済ませると、テーブルを挟んで腰を下ろす。自然と泰麒の隣へ男性が座る姿を見るからに、彼にとって信用に足る人物なのだろうと
りつは判断した。
「改めて……初めまして。
光野木と申します」
「広瀬です。高里の高校で教生をしています」
「よろしくお願い致します」
「それで――
明秦さん」
「話の続き、ですね」
はい、と要は至極真剣な面持ちで深く頷く。空白の一年を思い出せないもどかしさと焦燥感があったのだろう。…いや、そうであってほしいと願う。何せ彼にはかの国の行く末が懸かっているいるのだから。
「…貴方が記憶を失った時間の中で、確かに私と貴方は会っています。まだ貴方は十歳でしたので、それでてっきり覚えていないのかと思っていましたが…まさか、記憶そのものが無かったとは」
「実は…思い出した単語があるんです」
立ち上がった要がテーブルから少しばかり離れた棚に置いてある紙の束を手に取ると、数枚捲ってから
りつの方へと差し出した。達筆な字で書かれた文字は様々だったが、そのうち半分以上は彼方に関連のあるものである事に気が付いて、
りつは瞠目したまま紙を一枚、また一枚と捲っていく。
「…どうですか」
「……正直、これだけ思い出せているとは思いませんでした」
――思い出す。
けっして無関係ではないと断言されたそれに、要の表情が僅かに明るくなる。…同時、傍らの広瀬の表情が少しばかり曇った様を
りつは目にしてしまったのが。
「蓬山とは、貴方が生まれた山ですよ」
「僕が…生まれた…?」
「ええ。そして蓬盧宮とは貴方が王を見つけるまでの期間過ごした場所です」
若干驚きはしたものの、違和感は無かったのだろう。頷いた要が気になっていた次の単語を口にする。
「白汕子」
「貴方の使令です。…白い手を、よく見ませんか」
「ああ、確かに見る」
これに答えたのは広瀬だった。彼女の手である事を告げると、これにも要が首肯する。
「戴極国」
「四極国のうち北東に位置する極国です。冬は雪が厚く積もる極寒の地になると聞いています」
今は夏季、涼しく感じる程度だろう。…尤も、国が恙無く統治されていればの話だ。今は妖魔の跋扈する土地で、近付く事も儘ならないのだから。
「泰王」
「戴極国の王です。戴と泰、漢字が異なるのは戴が国、泰が国氏だからですね」
広瀬からペンを借りて、
りつは泰王と書かれた文字の横に書き加えていく。念のため、彼方の言葉と蓬莱の言葉を両方書くと、要と広瀬が食い入るように見つめていた。
「何故そこまで詳しく話せるんだ」
「言ったでしょう、あちらで台輔とお会いしたと」
向けられた怪訝な眼差しを見返した
りつは泰然としていた。広瀬に疑われている事は葬儀の日から何となく察していたが、露骨に態度に出された眼前の様子は流石に内心苦笑を禁じ得ない。
…だが、彼の信用を捥ぎ取る時間まで残されてはいなかった。
「台輔。今夜、迎えが来ると思います」
「え…」
「どうしてそう言い切れる」
「昨晩他の台輔からお聞きしました。お会いした事の無い方だったので、何処の国の台輔かは分かりませんでしたが」
少なくとも漣の麒麟ではなかった。廉麟よりも幾らか小柄で幼い印象を受けたが、あの時も確認するまでには至らなかった。一体何国の麒麟がこの救出計画に協力しているのだろう。
「そもそも、その台輔というのは何なんだ」
「台輔は本来宰輔といいます。畏れ多いので台輔とお呼びしますが、他国の台輔がいらっしゃる場合には国氏をつけてお呼びします。彼の場合は泰台輔と」
「つまり、高里は畏れ多い役職にいた、という事か…?」
ええ、と
りつは頷く。
「彼は麒麟ですから」
「―――」
「麒麟…?」
広瀬が復唱した時だった。
呆然と…否、愕然とした要がテーブルを叩くようにして立ち上がったのは。
少年の双眸は対面者から外れていた。窓から見える、斜陽を追う夕闇をじっと見つめていた。何かを探すように時折揺らいで、口を引き結ぶ。深刻そうに顔を顰めた少年の異変に、
りつは恐る恐る声を掛ける。
「台輔…?」
「少し…一人になってもいいですか」
「分かりました」
りつの了承を得て、要はゆっくりと玄関の方へと向かっていく。玄関扉を開ける音は無い。ただ座り込んでしまった後姿だけを確認してから、
りつはテーブルへと静かに戻った。
「…高里をどうする気だ」
「本来いるべき場所に帰るだけです」
「いるべき場所は此処だろう」
「彼の居場所はもう無いですから」
「何処か知らない土地に引っ越しさえすれば、」
「知らない土地になったら、使令の制御ができるとお思いですか」
答えと問いを淡々と返されて、広瀬は僅かに言い淀む。
「…引き剝がす事はできないのか」
「引き剥がすなんてとんでもない。彼らは泰麒に必要な者達ですよ」
此方では祟りと呼ばれる原因になってしまったが、本来は彼を手助けしてくれる頼もしい者達。その筈だった。
断言はしたものの、血の穢れを幾度も被った彼らはどうなるのだろう。当分の間は浄化の為に傍にいる事は叶わないのではないだろうか。
そう、何気なく考えた矢先、窓を揺らすような音が
りつの耳に響いた。普段ならばただの風だと気にも留めないが、今日ばかりは別である。
「――失礼します」
テーブルの隅に置いていたリモコンを手に取り、テレビに向けて電源ボタンを押した。チャンネルを回し、丁度夕方の天気予報が始まった頃だった。予報士の言葉に耳を傾け、そして規模を耳にした途端得た確信から眉間に皺を寄せる。
「台風…?」
「……やっぱり、今晩か」
今日の夜、訪れるのは間違いなく延王なのだと。