初夏の強くなりつつある日差しを緩衝するカーテンがひとつ揺れる。僅かに開けた窓からは蝉の鳴き声が時折届いて、祖母の耳にはまだ、届いているのかもしれない、と漠然と思う。
白い白いシーツの上、角ばった枝のように変わってしまった指先は白く、もう二度と、動く事は無い。
ばたばたと廊下から聞こえてくる複数の足音を背に、
りつは穏やかな顔で瞑目する祖母を前に茫然と立ち尽くしていた。
暑さの増し始めた、六月初頭のことだった。
【 霞む景色を背にして】
親族が病室へ駆け付けてきたのは、看護師が祖母の身を綺麗にして随分経ってからの事だった。葬儀屋や来ていない親戚への連絡で忙しくなり、その間
りつは黙々と入院中に持ってきた荷物を鞄にしまっていく。数時間ほどで葬儀屋が祖母を迎えに来ると、手際よく、丁寧な移送を以て、式場へ運んでもらう事となった。
翌日には通夜の準備で慌ただしく、
りつも駆り出された。駆け回っていると、時々咄嗟にあちらの言葉が出そうになるため、気を付けなければと気を引き締めながら、数人親戚と共に準備を行っていた。その最中、来訪した親戚からは矢張り根掘り葉掘り聞かれたが、記憶がなくて…と困ったように言えば、同情されているように見えて好奇の眼差しが突き刺さる。それも致し方ないと思いながら、通夜は部屋の隅に設けてもらった席に鎮座していた。
慎ましく行われた通夜の翌日、葬儀の為に父親が運転する車で会場まで向かうと、此処でもやはり
りつは針の筵だった。
約五年ぶりに神隠しから帰ってきた子供。
年齢は既に二十歳を超えているが、親戚の印象は五年前で止まっているのだから致し方無いとは思う。
――体は大丈夫なのか。
――何処へ行っていたのか。
――まだ何も思い出せないのか。
葬儀中に散々話を振られて辟易していた
りつであったが、火葬が始まると故人の話が挙げられ、その間だけは静かに祖母の死を悼む事ができた。
(…亡くなる前に帰って来られたのは、良かったのかもしれない)
祖母と再会し、祖母の不安を取り除くために帰ってきたようなものだ。これがもし、葬儀の只中に帰ってきたら後悔だけが残っただろう。
(…あとは、此処から自分で生きていく為に準備が必要になる)
いつまでもあの家にはいられない。どうにかして独立する方法を立てなければ、と。
火葬もじきに終わる頃、控え室の片隅で考えていた時だった。母親に一つの連絡があったのは。
…どうやら、祖母は遺言書を残していたようだと。
胸に抱えられるほど小さくなってしまった祖母の姿に蓋が落ちる。骨壷がひどく小さく見えた気がしたが、そうでは無いのだと内心首を横に振る。小さく見えて当然だ。あちらでは、甕での土葬が基本だったのだから。
そうして納骨まで恙無く終え、無事に帰宅した
りつはすぐに自室への階段を上がるつもりだった。
「
りつ、ちょっといい?」
母親の制止の声が無ければ。
階段に乗せかけた足を下げて、手摺に掴まったまま半身を捻る。好奇の目に晒されて精神的に疲れきってしまったために、早く休みたい心中が面に表れていたのだろう。一段上に立つ娘と顔を合わせた瞬間、母親はぎこちない苦笑を浮かべた。
「…なに?」
「これから弁護士さんが来るの。貴方もいてちょうだい」
「何かあるの?」
「遺言を開けるのだけど…
りつにもいてほしいって、お婆ちゃんが弁護士さんに伝えていたみたいなの」
「――分かった」
祖母の頼みならば、と仕方なく頷いて、再び階段を降りる。リビングに降りると父方の伯父夫婦と叔母夫婦が喪服のままソファに腰掛け、雑談を交わしていた。明るい喧噪のように聞こえたそれは、内容を耳にして
りつの眉根が寄る。…全て、祖母が遺してくれたものについての分配話だったが故に。
故人を偲ぶ言葉も悼む思いも聞こえてこないリビングへ足を踏み入れる事に一瞬嫌悪感を抱いたものの、人が亡くなった以上そういった話は付き物だと、今だけは不本意ながら割り切る事にした。今後は親戚付き合いを無理にする必要も無い。挨拶程度の最低限にしてしまえば良いのだから。
程なくして玄関のチャイムがリビングに響く。母親が慌ただしい歩調で玄関に迎えに出、招き入れられたのは六十代の中肉中背の男性だった。皺一つ無いスーツの襟にはバッジがつけられ、如何なる資格かを物語る。
リビングに通された弁護士は一息吐くと、鞄から封筒を取り出した。親戚一同が注視する中、挨拶と自己紹介もそこそこに封のされたそれを徐に開けて。
「――では、読み上げさせて頂きます」
その一言から切り出され、広げた紙に綴られた文章を読み上げる男性の声は淡々と。遺言を受け取った親戚の表情は次第に凍り付き、張り詰めた空気へと豹変していく。
「―――それで、家に居られないって訳か」
からりとした気候の下、すっかり夏の空気に変わってしまった風を緩やかに受けながら、屋上のベンチで一服する西園寺は眉尻を下げながら憐憫の眼差しを投げた。
やや間を置いて隣に腰を下ろす女性の、突然の訪問に驚きながらも以前と同様屋上へ連れてきてしまったが、先月に起きたという身内の出来事に耳を傾ければ思わず辟易する。彼女の話にではない。その類の泥沼の争いに、である。
「で、遺留分を除いだ遺産を貰ったってわけか。大金持ちだな」
「その分集られたり一緒に住まないかって言われたりするんですよ。あからさま過ぎて嫌になります」
――もしも死ぬ迄に孫が生きて発見された場合、自分の全財産を孫に相続させる。発見されなければ息子と、世話になった息子の嫁へ相続させる。
弁護士が読み終えた直後、親戚から突き刺さるような視線を受けて恐怖すら覚えたのだが、今振り返ってもあの光景は背が粟立つばかり。どうしてお前が、と言わんばかりの、嫉妬と羨望が混濁する眼差し。
葬儀の準備の最中にちらりと耳にしていたが、祖母は祖父の遺産も引き継いでいたため、金額は莫大だという。遺留分を抜いたとしても恐ろしいほどの金額が「神隠し」から帰ってきたばかりの存在に舞い込んできた。
親戚はおそらく突然帰ってきた孫可愛さからほぼ全額を相続させたのだと考えているのだろう。そして、相続人の親子関係がぎくしゃくしている情報も漏れている。お陰で心配の面持ちを貼り付けた親戚が頻繁に家を訪問するものだから、辟易した
りつの外出回数は激増した。
貴重品と身の丈に合わない桁の記載された通帳を常にリュックに仕舞い込んだまま、日中の殆どを家の外で過ごす羽目になってしまったのだが。
「お陰で、図書館で高里要に関連する新聞を全て閲覧できたので、そこだけは良かったですが」
「……それで、此処を訪ねたのは」
「ええ、いくつか質問があったので」
いくつか、と復唱を呟いて、西園寺は煙草の吸い殻を携帯用の灰皿に捩じ込んだ。聴取はとうに終え、記憶が戻った場合再度聴取を行う形にはなっている。…が、蓋を開ければ何という事は無い。記憶を失ったふりをしているのだから、二度目――正確には三度目――の聴取は無いと、少なくとも西園寺は思っていたのだが。
「貴方の部下はまだ、高里要について調べていますか」
「ああ。止めたんだが、懲りずに探していてな」
「必ず止めてください」
男の語尾に重ねるようにして返答を発した
りつの語気は強く。怪訝そうに顔を顰めた西園寺の双眸に疑問の色が滲む。
「その部下の方が怪我を……いえ、最悪、亡くなる前に」
「物騒な話だが……そうだな。実は俺もそれを危惧してる。会う度にもう止めろとは言っているが…何せ祟りだの呪いだの信じない奴だ。首を突っ込み過ぎなければいいが…」
「…少し齧っただけでも、大怪我をする可能性だってある…」
学校で遭遇したあれは間違いなく泰麒の使令だった。だが、あの影が泰麒にとっての敵味方を判別する能力は薄いように思う。…いや、おそらくは元々知性があり、理性があったのだろう。だが此処は天の理が無い。元々妖魔である使令が天の理を喪った時、獣と同じように人を襲う可能性は十二分。今はまだ、泰麒が健在故に辛うじて保っている状態なのだろう。
…だが。
先日使令と遭遇した際に鼻を掠めた、あの臭気は――
「あんた、まだ何か隠している事があるだろう」
いつの間にか熟考の為に手元へ向けていた意識が引き戻される。
声の方へ顔を向けると、訝し気に眉を顰める男の、どこか確信を得た上での訊き方に思わず苦笑を浮かべた。それは、彼方の国に関する情報を信じてくれた上での問いなのだろうか、と。
「…彼が祟りと言われる原因を、先日突き止めたので」
「!」
「けど、人がどうこうできるものじゃない。最初の頃はまだ上手い関わり方ができなければ怪我をする程度で済んでいた。…でも、今はもう違う」
使令は主君を守る為にある。守る為ならば人にも爪を立てるが、それはあくまで最悪の場合である。麒麟は血の穢れにひどく弱いと聞く。故に使令に穢れがあれば主君である麒麟にも不調の影響が出る。死人が出た以上、麒麟にも使令にも悪影響が出ている事は確実――不調が重なるほど、余裕も判断能力も削がれていく。
「…もう一つ、質問があります。これはあくまで私が西園寺さんの意見を参考にさせていただきたいだけなんですが」
少しばかり改めたように背筋を伸ばした
りつの真摯な面持ちは真っ直ぐに男を注視する。
「高里君がもう一度神隠しに遭ったら、彼の家族は…世間はどんな反応をするでしょうか」
「…まさか…帰すのか」
愕然とした男が恐る恐る口にした問いに、ええ、と
りつは首肯する。
「彼は此方にいるべきではないですから」
「だが……方法は知っているのか」
もう一人名を挙げた少女については「帰れない」と断言した。それは帰る方法が分からないからではないのか。
男がそう遠回しに告げた気がしたが、
りつは敢えて軽く頷くだけに留める。…仮に彼女の親が事情を知ってしまった場合、娘の帰郷に一縷の望みを抱く可能性がある。徒に希望させ、絶望させたくはなかった。
だからこそ、今はただ彼の帰還の為にもう一度口を開いて。
「もしかしたら途方もない時間が掛かるかもしれません。それでも彼を帰してあげたい。…その為に、協力してくれませんか」
◆
茹だるような暑さで空気が澱む七月の只中、淡い丹色の空が海の色に溶けていく。
突き刺すような日差しで熱気を孕んでいた堤防は斜陽から日没の間に幾らか熱を手放していた。心地よいほどの温かさになった風が頬を掠めて、
りつは僅かに双眸を細めた。――後方頭上を振り仰ぎ見た先には、満月。彼はきっと、来る筈だと信じて。
満月と街灯を頼りに、真夜中の捜索が始まった。
「少年?」
ええ、と
りつは首肯する。
隣国の民族衣装に近い服装を纏った、髪の長い少年。彼は海辺にいる可能性が高い。勿論泰麒の気配を感じ取って町の方へ捜索の足を延ばす可能性も十分ある。会える可能性は極めて低かったが、泰麒の現状を知ってしまった以上、動かずにはいられなかった。
(もう、彼方とは無縁になった筈なのに…)
日本への帰還を果たして早三ヶ月。早々に再び彼方に関係のある案件に首を突っ込む事に対し自嘲が思わず溢れたが、すぐさま飲み込むと四つ折りに畳んだメモを西園寺へと差し出す。
「彼の名前は六太。もし彼と会ったら、これを渡してほしいんです」
「何が書いてある?」
「高里君が通っている学校の名前と住所、それから彼の現状が書いてあります」
「…見ても構わんか」
「いいですが、学校名と住所以外は読めないと思いますよ」
それでもいい、と西園寺は綺麗に折られたメモを丁寧に広げた。彼女の言う通り、学校について書かれたその下段には漢字ばかりが羅列する。隣国の言語について齧った経験もあったのだが、文法が異なるのか文章として読む事は難解だった。
「…これをその六太少年に渡せば、高里要は」
「ええ、何れ…その翌月の満月にはおそらく帰ることができる」
「…まるで竹取物語だな」
「月に帰るわけでは無いですけどね」
西園寺の喩えに
りつは思わず苦笑を浮かべた。あの物語のように、美しく静かな旅立ち、という訳にはいかない事は想像に難くない。鳴蝕であっても海は多少荒れる。その上、不穏な状態の使令を伴った泰麒を果たして六太一人で連れて行けるのだろうか。
首を擡げた不安から苦笑が徐々に失せていく。そんな彼女の懸念を余所に、分かった、と西園寺がメモを畳みながら軽い首肯を見せて。
「但し、三ヶ月ぐらいなら協力しよう。月に一回とはいえ俺も家庭のある身だ。妻に心配は掛けたくないんでな」
「分かりました」
そうして、深夜に西園寺は海辺から少し離れた町中を――正確には高里少年の家と学校周辺の町中を――車で見回り、
りつは自転車で海辺を走り捜索する事となった。
闇夜犇めく水面に淡い月光が散る。お陰で普段よりもやや高い波の具合が遠目からでも見て取れ、六太が鳴蝕を経て此方へ来ている可能性は十分考えられた。だからこそ、薄ら額に汗を滲ませながら自転車を漕いで、満月のお陰で普段よりもずっと明るい海辺や道端へ目を凝らしていた。……だが。
探し回ること約五時間半。夜通しの捜索も虚しく、少年と再会を果たす事は叶わなかった。
西園寺に礼を告げて、解散した
りつは渋々実家への帰路を辿り始める。ふと道中に見上げた晴天は夜陰を追いやり始めた陽光が少しずつ広がっていた。夏季は夜明けの時刻が早くなる。…その分だけ、捜索の時間も削られていく。
――本当に、見つかるのだろうか。
初日早々に気落ちして、思わず深い溜息を落としながら実家の門を開ける。門の内側に自転車を入れると庭の隅に停め、欠伸を噛み殺しながら玄関へと向かう。ポケットから取り出した鍵を差し込もうとして、不意に鍵穴が横滑りする様に
りつは思わず双眸を瞬かせた。瞠目したのは、彼女だけではなかった。
玄関の内側、玄関扉を引いた女性は鉢合わせた娘の顔を眼前にして両肩をびくりと跳ね上げる。
「あら…
りつ、いつ外へ出ていたの?」
「ちょっと散歩に。もう満足したから帰ってきたんだ」
「そうだったの」
少しばかり気まずそうに表情を硬くした母親の顔を目の端で捉えながら、うん、と緩く首肯した
りつは母親の横をすり抜ける。…流石に徹夜明けでは身が保たない。何度も押し寄せてくる睡魔の所為か、軽い眩暈を覚えながら二階の自室へ上がる為に階段へ足を掛けたところで、制止の声が背後より響いた。
「
りつ、おばあちゃんの相続の事だけど」
「え?…ああ、私の方はもう手続き終わってるけど」
「え?」
庭では噛み殺せていた欠伸が今度こそ出た。ひどく気怠そうに、まるで大した事でも無いと言わんばかりに返答を吐き出したのも、徹夜明けで巧く思考が回らなかったためなのかもしれなかった。
「そんな、相談も無しに…!?」
「弁護士さんに相談したから大丈夫」
愕然とした母親からの追究の言葉を背に受けながらも、
りつは足早に階段を上がっていく。追い掛けて来る足音がしたが、部屋の扉を一人分が通る余裕だけ開け、身を滑り込ませると急ぎ扉を閉じた。鍵を閉めた瞬間扉を叩く音と説明を求める声がしたが、聞かないふりをして手近の鞄を引っ手繰る。着替えを片っ端から突っ込みながら、暫く止みそうに無い扉の向こうの音に辟易して、しぜん嘆息がひとつ落ちた。
家を出る為の軍資金を用意してくれた祖母には感謝しているし、孫が困らないようにという祖母の配慮は素直に嬉しかった。…が、まさか殆どの遺産を相続をするとは予想外だった。お陰で別件で追い掛け回されている現状があるのだが。
(金にがめつい親戚連中もしょっちゅう来るしな…月の見える、海沿いのアパートでも借りて過ごそうか)
そこではた、と手を止めた
りつは苦笑した。
…泰麒が帰れば、満月も海も観察の必要が無くなるのだ。何も海沿いでなくとも構わないだろう。
兎にも角にも、明日から引越し先を探そう。これ以上親戚がしつこく接触を図ってくる前に家を出なければ。
(だけど、親戚も親戚だ…故人を悼む時間すら与えてくれないなんて…豺虎か)
ーーーけだもの。
不意に口から滑り落ちた言葉。此方ではもう、使う筈の無いーー使ったところで何を指すのか、誤った解釈をされるもの。本来は憎悪を伴って吐き出される忌みある言葉。それが、何故かひどく懐かしく感じてしまう。
次いで不意に脳裏を過ぎったのは拓峰の乱。共にあの内乱を駆け抜けた戦友達の姿。乱を経て金波宮へ登用された者達も多かったと聞く。
(…桓魋や凱之達、元気かな)
思い出すほど胸に淡い痛みが走る。その理由を察しかけ、頭を振って思考を解いた。
…今はそんな事を考えるよりも先にやるべき事がある。それが終わってから存分に考えればいいのだと。
◆ ◇ ◆
「「き」、ですか」
携帯灰皿へ煙草の灰を弾き落とした男は、煙と共にそうだ、と吐き出した。以前よりも窶れた印象を覚えたのはおそらく錯覚では無い。ここ最近、とある高校で起きた不可解な事件に頭を悩ませているのだろうと
りつは推察して、深刻になりつつある現状に眉を顰めた。
八月に期待した邂逅も空振りに終わり、更に気を落ち込ませた一方、親戚の迷惑な押し掛けによる体調不良を理由に保証人欄へ母親の名を一筆貰う事に成功した。
そうして無事に実家を出た
りつは新しい住所と連絡先を西園寺へ伝えた。その数日後の事だった。早速呼び出しの電話が留守番電話に入っていたのは。
「こういう類は、今後
光野木さんに話が回ってくるようになるかもしれんなぁ」
「幽霊話まで持ってこられても困りますよ。私、そっちはからっきしなので」
「なんだ、見た事無いのか」
「無いです。…まあ、幽霊より生きてる人間の方が怖いですからね」
「違いない。…って事は、アレを読んだのか」
無言の首肯と共に視線が投げ出される。休憩中だからこそ西園寺が署から抜け出せている今、周囲に人の姿は無い。故に人の耳を気にする事なく話せてはいるものの、何を、と訊かれずとも分かってしまうのがひどく残念でならなかった。
ーーとある男子高校生が不慮の事故により死亡。原因は究明中。
暈されてはいたが、読み進めるほどそれが以前より祟ると噂される男子生徒によるものではないか、という憶測が掲載されていた。次第に羅列する文字が過激な表現へ変貌していく様は、背に刃物の尖先を当てられたような気分だった。
他の生徒や外部の者が正義感に掻き立てられず、下手な行動に移さない事を願うしかない。
「それで…「き」とやらの心当たりは」
「無い…とは言い切れません」
念の為にポケットへ忍ばせていたメモとペンを取り出して、心当たりのある文字を書く。…書いて、二重斜線を文字に走らせた。ついあちらの字体で書いてしまったものの、鉛筆ではないため斜線で消したその真下に此方での文字を丁寧に書き記して、男に差し向ける。
「私が思い当たるのはこれくらいです」
「ほぉ…麒、か」
「ええ」
「…キリンの漢字の片側だな」
「動物とは違いますけどね。…西園寺さん、普段ビールは呑みますか」
「風呂上がりによく呑むが……ああ、あのラベルの方か」
馴染みあるラベルを思い出して、西園寺は納得する。現実の動物ではない、幻想種。隣国では伝説とされているのだったか、と昔どこかの雑誌で読んだ記憶を頭の片隅から引っ張り出しながら、彼女の話をいつの間にか鵜呑みにしてしまっている自分に内心苦笑していた。
そんな男の心情とは真逆に、
りつは一つの疑問を抱えて俯く。もし本当に「き」なる者を捜す人物ーー人なのかも怪しいがーーが虚海を渡ってきたのだとしたら、以前に六太から聞いた話と異なるのである。
(どういう事だろう…満月まで日があるのに、彼方から来ている……)
もし推察通りに高貴な仙や麒麟が渡ってくるとしたなら、通常は月の呪力を借りて蝕を起こし、あちらと蓬莱を繋ぐ。正確には境界線に開けた穴を道として潜るのだが。何れにしても月の呪力を借りる事が前提ーーならば少なくとも呪力の弱い三日月や新月のような日は避ける筈である。安全を考慮するのならば満月の日だと六太も言っていた。だからこそ満月の夜を狙って捜索に当たっていた。
…だが、もしも例外が存在するのだとしたら。
「…西園寺さん。お願いがあります」
「なんだ」
「その人物が出没した場所を教えてください」
分かった、と軽く頷いた西園寺は少し待つように告げて離れていく。脇に抱えていた、若干草臥れたスーツへ袖を通し建物の扉の向こうへ消えていく姿をぼんやりと見送りながら、
りつはそっと溜息を溢した。
蓬莱へーー日本へ帰ってきたというのに、あちらに関わっている事が未だに不思議でならない。…が、泰麒が帰還を果たせばその縁も完全に切れる。だから、あともう少し頑張れば。
(…頑張った先に、何が残るんだろう)
無論見返りは求めていない。泰麒を見送る事ができれば十分だ。そして念願だった祖母との再会も果たして、見送った。…だがその先に残るものは。
悠々自適な暮らしが叶うほどの莫大な遺産と、
りつも慣れ親しんだ祖母の小さな家。あの家に帰ればまた、戸の向こうからおかえりとひょっこり顔を出してくれるのではないかとある筈のない希望を抱いてしまう。…もう、叶うはずなど無いのに。
(…もう少しだけ、ばあちゃんと一緒に暮らしたかったな…)
麦わら帽子を被り、皺の刻まれた手で畑を弄りながらくしゃりと笑う、あの姿はもう無い。もう少し早く帰ってきていればという後悔が、彼女の胸の片隅を少しずつ、少しずつ蝕んでいく。
そうして、思ってしまった。
……此方への執着は、本当にあるのだろうかと。
戻ってきた西園寺が広げたのは地図だった。地域で配布される、店等が手書きで記載されたものである。目撃情報のあった箇所を指し示し、
りつがペンで印を付けていく。現在主な場所は五カ所。どの目撃情報も容姿は似たようなもので、共通するのは金髪と、女。この時点で六太の可能性は排除される。
(海沿いが多い…やはり、慣れない土地…いや、天意の届かない場所は海沿いが限界なのか…)
もしかしたら、これまで泰麒を発見できなかった可能性の一つなのかもしれない。そう、ペンのノック部分を顎に添えながら地図を俯瞰し続けること数十秒。
ふと地図から視線を持ち上げた西園寺が僅かに首を傾げた。
「そういえば、高里要とは面識があるんだったよな?」
ーー面識。
即座にはい、と口が型取りかけて、喉元で声が詰まった。
面識と言える程ではない。漣国の町を散策していた他国の台輔と遭遇しただけの話だ。たった一度きり、五年以上昔の話を憶えているだろうか。
…何より、と。
りつは持ち上げた掌を見つめて、僅かに双眸を訝しげに細めた。
「…いえ」
「は?」
「少なくとも、私は記憶していますが…彼は覚えているかどうか…何せ向こうは小学生でしたから」
そうは口にしたものの、記憶以前に問題がある。
ーーー胎殻。
胎果にとって一、二を争う衝撃でもある。蓬莱では肉の殻を被っているため、あちらでは容姿がまるで異なる。加えて記憶が無ければ初対面そのものだ。だからこそこれまで接触を避けていたのだが。
「一度顔を合わせてみたらどうだ」
「…良いんでしょうか」
「覚えてるかもしれないだろう?」
困惑気味に眉尻を下げた
りつに、西園寺は腕を組みながら首を傾げた。男がそう勧めたのは、彼女が少年との再会を逡巡しているように見えたからだ。迷うのなら憶えているか否かの確認だけでも早めにしておいた方がいいのだと。
だが、と
りつは息を飲む。それは更に深く関わる事になるという事だ。首を突っ込んでおいて今更ではあるが、使令と遭遇したあの日から、無闇な接触は死を意味すると考えていた。…それこそ、図書館で目を通してきた、新聞に掲載された死傷者の一人になる可能性。決して低くは無いと考えてきたために、此方で面識を得ないまま何とか解決できないものかと考えてきた。
(…けど、周りを嗅ぎ回っているだけでも使令にとっては癪な筈だ。何れ小蝿を叩き落としに来る)
それならば、と。
りつはひとつ、遠慮がちに頷いた。
「そうですね…一度会ってきます」
九月ともなれば斜陽が始まる時刻も次第に早くなりつつある。からりとした暑さが残る中、響き渡る終鈴を背に校門の外側で佇んでいた
りつは軽く手団扇を動かしながら視線を頭上へ持ち上げた。日の入りとは反対側の、未だ白い月の満ち欠けを何となく確認しようとしてほんの僅か視線を彷徨わせていた。
…会ってくると西園寺へ宣言したものの、どう声を掛けたものか。
生徒の下校時間、まるで緩く吐き出されるようにわらわらと出てくる生徒の喧噪を聞きながらーー時折此方へ投げられる視線に気付かないふりをしながらーー彼を待つ。先月購入した腕時計に一度目をくれつつ切り出し方を思いあぐねていた、その刹那。
まるで刃物を突き付けられるような、ひやりとした悪寒に背筋が粟立つ。使令と遭遇した、あの日と同じ感触だった。
明らかな敵意を受けて反射的に校門の方を振り返る。少しばかり人の流れが絶えて、一人の生徒が校門から出てくるところだった。学生鞄を手に提げて出てくる黒髪短髪の生徒は何処にでもいそうな大人しい印象はしかし、何故か目が離せなくなる。それは彼が特別な存在だと分かっている上だからか、或いは彼の周囲ーー足元から発せられる澱んだ眼差しの所為かもしれなかった。
躊躇は束の間。次いで声を掛けようと体を傾け、一歩を踏み出し、開口して。
「台輔、」
しぜん、其方の言葉が衝いて出た。
拙い、と口を閉じたが滑り落ちた言葉は戻らない。後から出てきた数人の生徒が
りつの方を訝しげに見つめて、そのうち一人が踵を返して校舎の方へ駆けていく姿が見えた。おそらく不審者の報告にでも行くのだろうと他人事のように感じたのは、彼女へ向けられた敵意が強くなりつつあるからだろう。少しでも油断をすれば、爪が飛んでくる。…今日はこれ以上の接触は、もう。
早々に諦めをつけ、仕方なく校門から離れようと踵を返した。
「待ってください」
声変わりした少年の、よく通る声が制止を掛けてこなければ。
ふ、と敵意が和らいだ気がして、
りつは恐る恐る振り返る。台輔と呼ばれた少年は真っ直ぐに来訪者を見詰めていた。
「僕に用があるんじゃないですか」
「――…ええ。お時間頂けますでしょうか」
「分かりました」
柔く頷いた少年の、何処へ行きますか、と訊いてくる声はひどく静かだった。その代わり、歩く度に少年の足元の気配がぞろぞろと纏わり付いて同行者にとってはひどく落ち着かない。足元へ警戒を向けざるを得ない状況の中、
りつが指定したのは近場の公園へと。
公園の入り口手前に設置されている自動販売機で緑茶を二つ購入して、階段を上がる。子供が駆け回るには十分な広さと幾つかの遊具が設置されていたが、遊ぶ小さな姿は一つも見当たらない。住宅街の只中にあるものの、公園の周囲が雑木に囲まれて外から公園の様子が伺い難いという住民の心配する声を
りつは先程ちらりと耳にしていた。…尤も、今回はそれが有難いのだが。
「この間、学校に見学に来ていた方ですよね」
「!覚えておいででしたか」
「はい。――それで、僕に用とは」
何でしょう、と小さく首を傾げた。その少年の仕草が
りつに齎すのは、懐古の念と小さな落胆。漣の町中で出会った少年のそれと重なって、嗚呼、と嘆き混じりの息が洩れる。…姿形は異なれども、彼はやはり、あの時の少年なのだと。
「最初に確認しておきます。神隠しの間の記憶は」
「すみません、思い出せていないんです」
「やはり…」
「やはり?」
「あ、いえ。…体調は大丈夫ですか?」
「…少し、重い感じがあります」
「……食事で、肉は食べないようにしてくださいね」
「え?」
りつからの思わぬ勧めを受けて、少年の顔色には困惑の色が浮かぶ。一つ目の質問は幾度となく投げかけられてきたが、二つ目との関連性が今一見えてこない。何故、と問い返そうとした少年はしかし、やや間を開けて再び言葉を切り出した
りつの話によって開きかけた口を結んだ。
「初対面でこんな事を言うのは警戒されても当然です。ですが、もし気になるようであればやってみてください。多少は体が軽くなると思います」
「それは…どうしてでしょう」
「体質、ですかね。少なくとも、教室でお見かけした貴方の顔色が御世辞でも良いものとは思えなかったので」
「そう、でしたか」
麒麟だから、と素直に告げたところで記憶が戻らなければさらに疑問が増えるだけだろう。故に今は誤魔化せば、それ以上追究するつもりは無いようだった。
近場のベンチに勧められるまま腰を下ろした少年へ、
りつは今しがた購入した缶の緑茶を差し出した。一瞬目を丸くしたが、おずおずと受け取った少年は掌が程良く冷えて心地よいそれを両手で包み込み、改めて公園へ誘った人物を見上げる。同じものを買った女性の、缶を口元へ傾ける横顔に見覚えは無い。けれどもふと、校門前で覚えたあのひどく懐かしい気持ちは、一体。
「……あの…一つ、お願いしてもいいですか」
「何ですか?」
「先程、僕の事を名前以外の言葉で呼んでいました」
「あ……」
「とても懐かしい気がしたんです。心が温かくなるような…だけど、切ないような」
「台輔…」
先程呼ばれた時の感情を丁寧に思い出して、少年の表情が少しばかり沈む。
あれはそう、自身がふと頭に浮かんだものを描いた時だ。粗方描き終えた絵をイーゼルに立てて眺めた時とひどく似ている。胸中に蟠る行き場の無い焦燥と懐古。もう一度彼女が口にした呼称に胸が締め付けられる思いがした。
ベンチに腰を下ろし、呼ばれた称を噛み締めるように固く瞑目する少年を、やや距離を開けて見つめていた
りつはしかし――額に冷汗を浮かべたまま、微塵も進退が叶わずにいた。
ひやりとした何かに、右の足首を掴まれる感覚。恐る恐る下ろした視線の先、土からするりと這い登ってきた二本目の手が足首を掴んでいた白い手に重なる。力の篭もったそれは少しずつ、少しずつ食い込んでいく。
「…お願いします。もう一度、呼んでもらえませんか」
「―――」
まずい、と直感が叫ぶ。
彼の頼みならば呼ぶべきだろう。だが……もう一度口にした瞬間、足首があらぬ方向へ拉げる可能性は高い。麒麟の眼前で流血沙汰は御法度だ。それを使令は分かっている筈だが、主人の危機と判断すればやむを得ず下す時もあるだろう。
締め付けられる痛みを面に出すまいと平静を装い、喉を震わせながらも深呼吸を一つ。
返答が無い事を不思議に思ったのか、少年が俯きかけた面を持ち上げる。…持ち上げた少年の視界の内に、
りつの顔は映らなかった。
久方ぶりに掲げたのは、丁寧な拱手。
「延台輔にもご報告差し上げなければなりませんので、今日はこの辺りで失礼致しますね、台輔」
りつの発言を理解したのだろう、足首を掴む力を弱めた白い手がするりと引いていく。土の中へ、恰も水面下へ潜るようにするりと消える瞬間を捉え、それでも気配は真下から動く様子が無い。おそらく警戒を解くまでには至らなかったのだろう。
それでも今は退くべきであると身を反転させて。
「…あの、貴方の名前は」
「――
明秦と申します」
「
明秦さん、また会ってくれますか」
「…ええ、私で良ければ」
では、と小さく呟いて、今度こそ
りつは公園の敷地を出て階段を下りていく。気配はついてこなかった。
自身が咄嗟に彼方の字を名乗った事への疑問と勝手に大国の麒麟を挙げてしまった事への謝罪を胸に抱きながら、一先ず自宅への道程を辿り始めるのだった。
◆ ◇ ◆
落陽を迎えた海は波を揺らす度、風が吹く度に月光を弾いていく。道路沿いの街灯と浜辺は距離があるために光は届かず、けれども今晩浮かぶのは七日月。浜辺を歩くには月光頼りで十分だった。
ガードレールの外側に自転車を停めて、
りつは浜辺を踏みしめるように歩く。西園寺から教えてもらった「き」を探しているという人物の目撃場所を回ってみたが、どの場所にも金髪の女性と遭遇することはできなかった。
三時間ほど仮眠を取ってから捜索すること約四時間。腕時計に目を落とせば、短針は二時を指す。…あと一時間だけ探して引き上げるべきか。
自転車の元へ戻ると、スタンドを立てた自転車の荷台部分に腰を掛け、前籠に入れてきた水筒の麦茶を一口飲む。夜陰が下りて暑さが和らいだとはいえ、湿度は変わらず、動けば汗も掻く。半袖で額を擦るように拭い、はぁ、と零した嘆息は一際浜辺に雪崩込んできた波の音に掻き消されていく。
そうして落としかけた視界の端―――佇む人影がひとつ。
惹かれるままに顔を向けると、そこには少年の姿があった。年は十四、五だろうか。肩甲骨辺りまで伸ばした髪が潮風に弄ばれて、顔が覆われる。
ふと
りつの存在に気が付いたのだろう。振り返った少年の顔に、憶えはない。その筈だった。なのに、足が一歩、また一歩と少年へ進みゆく。
よくよく見れば、彼の衣服は彼女が近年見慣れたものだった。此方では隣国の民族衣装に近いが、現代において日常で纏うことは少ない。だからこそ踏み出す度、疑惑が確信へと変わりゆく。
そうして、思い出したのだ。
かの大国の麒麟もまた、胎殻が在ることを。