【 何もなかった。】
翌日、朝食を終えた
りつは地域の地図帳を借りて署までの道を歩く。母親の話では幼少期に一度落し物の確認の為に母親に連れられて訪れたらしかったが、生憎記憶の片隅にも残ってはいなかった。
家の近くに署があるという情報だけは記憶しており、咄嗟に近所だと答えたが、自宅から署まではゆっくりとした足取りで凡そ十分程度。周辺が住宅街のため、見立て三階ほどの高さの建物は遠目でも目立っていた。
りつは病院で手渡されたメモを鞄から取り出す。走り書きされていたのは署の住所と部署名、それからメモを渡した本人の名前。目を通しながら自動扉を潜り、てきぱきと仕事に努める制服姿の男女の往来を何気なく目で追いながら、中央に設けられた受付へと近付いた。
「おはようございます。久々の自宅で眠れました?」
一日ぶりに顔を合わせた男性の第一声に
りつは思わず苦笑を浮かべた。それで大方察したのだろう。そうでしたか、と残念そうに呟いきながら踵を返す。先導に従って署内を歩き出すと、すぐに階段を上がっていく。そのまま何処かの部屋で話すのだろうと考えていたのだが、辿り着いた思わぬ場所に目を瞬かせた。
周囲に高い建物が無いために金網越しではあるが街並みが一望できる。幸い本日は天候も良く、首を掠める温い風が心地よい。遠くに見える満開の桜を見るに、今年はどうやら遅咲きのようだった。
「…良いんですか。こんな屋上で」
「なんだかんだ言って、個室にも聞き耳を立てられる方法はありますからね。それに窮屈な部屋にお嬢さんを閉じ込めておく必要も無い。正式な聴取でも無いので」
目を丸くした
りつに、西園寺は金網に背を向けるようにして置かれたベンチへ座るよう勧めた。促されるままに腰を下ろし、ふと顔を上げると西園寺はポケットから煙草の箱を取り出していた。一本抜きかけ、はたと我に返りしまおうとしたが、
りつは掌を見せるようにして手を挙げた。お気になさらず、と。
「すいませんね。いつもの癖でして」
「大丈夫です。…それで、話というのは」
「ああ…
生駒さん。貴方、中嶋さんをご存知ですね」
気遣って横を向いた男の口から、味わったであろう煙が細く長く吐き出される。その直後に挟まれた指摘を耳にした
りつの眉間が怪訝気に顰められた。
何故ばれているのか……と。
「…何故そうお思いに?」
「彼女の名前を口にした時、知らない名前だったらあんな反応見せませんからね」
「顔に出ていた…か。顔に出やすいと言われた事は大分前にありますが、まだ直っていないとは、まだまだ未熟です」
「…その大分前ってのは、何年前か聞いても?」
「…四年前…いえ、三年前の事ですね」
そう
りつが口にした瞬間、西園寺は咥え直した煙草を落としかけた。慌てて掴んだそれを指で摘み直しながら愕然とした顔を向けてくる辺り、瞬時に察したのだろう。
「それって…」
「聞きたいのでしょう?五年間の、消息不明の間に何処にいたのか、何をしていたのか。…尤も、貴方がそれを信用するかどうかは別ですが」
訊きますか?と静かに問いかけた
りつは男をじっと見つめる。するとややあって、帰ってきたのは意外な答えだった。
「…その前に聞いておきたい事があるんですが…
生駒さん。高里要はご存じじゃないですかね」
動揺を落ち着かせるように視線を逸らしながら煙草を一服、すぐにポケットから取り出した携帯灰皿の底へ煙草の先端を磨り潰すように入れて閉じる。彼女からの返事は無い。それは記憶を掘り起こしている時間だと思い込んでいた。
…彼女の顔を視界に入れるまでは。
「―――」
まるで幽霊でも目撃してしまったかのように、絶句した彼女は瞠目したまま西園寺を凝視していた。返事は無くとも、驚愕する
りつの反応が言外に物語る。
「彼も…神隠しからまだ帰ってきてないんですか」
「いや、それがね…貴方と同じく、神隠しから帰ってきているんですよ」
「え……。嗚呼…道理で、白雉が落ちない訳だ…」
「ハクチ…?」
みるみる内に
りつの表情が険相を浮かべて俯いていく。脳裏を駆け抜けるのはいつぞや交わした六太との会話。鮮明に記憶を思い出して、今更ながらひどく後悔した。
これだけ広く長い日本の中で会う確率は間違いなく低い。そう思うのは当然だ。故に連絡手段を検討中である事は知らされていたが、話し合ってはいなかった。ただでさえ六太が鳴蝕を以て渡り来るのは月に一度の夜、それもどの辺りの海へ抜けてくるのかも分からない。
(…いや、この人が陽子と泰麒を挙げているという事は、管轄が一緒…陽子は確か最初巧国に流れ着いたと言っていた気がする…海客は確か東に流れ着く事が殆どで、それを判っているから六太は雁国の虚海から渡って来るはずで)
「…
生駒さん?」
(だとしたら…外れる確率は高いが、月に一度満月の夜に海辺で待っていた方がいつかは会えるか…もうそれしか方法が思いつかない…いや、その前に泰麒と会っておかないと…ううん、お会いしたのはもう何年も前だし、何より今はお互い胎殻がある…見た目じゃ絶対に分からない…)
「
生駒さん?大丈夫ですか?」
(…まず面識を作るところから始めないとどうしようもない…作った後に毎月六太を待つのか…参ったな…もう、あちらとの関わりは全く無くなると思っていたのに…)
「
生駒さん!」
「!!」
肩を叩かれて
りつは飛び上がる。勢いよく顔を上げると、困ったように眉尻を下げた男の顔が視界に映り込んで、思わず小さく謝罪を口にした。
「すみません…考え事をしてました」
「大丈夫ですか…?」
「ええ…まさか、彼が帰ってきているとは思ってもみなかったので」
苦笑を浮かべてみせた
りつの口からそっと嘆息が零れる。
――あちら側との縁は切れた筈なのに、切っても切れない縁、とはこういう事を言うのだろうかと頭を抱えたくなる。兎にも角にも、どうにか手立てを考えなければならない。同時に利紹の言葉が不意に脳裏を過ぎった。帰って来たいのであれば主上に奏上を、と。
念の為に聞いておけばよかったかもしれないと、今更ながら後悔を一念抱いて思わず小さく呻く。
「…という事は、高里さんとは…」
「知り合いです。以前は別の場所で、しかも会ったのは四年前なので、もし再会したとしても顔を覚えているかどうか…」
「待って下さい生駒さん。あんた…「神隠し」中の高里さんと会ったって事は…」
「ええ、貴方の言う「神隠し」先で、会いましたよ。序に言えば、中嶋陽子と会ったのも「神隠し」先です」
西園寺は絶句する。次いで込み上げてきたのは突き詰めたくなる衝動。それを何とか押し殺して、問いを飲み込んだ。
彼女の口から出た情報の真偽が定かではない今、鵜呑みにする事は難しい。だが、捜索が難航している現状への打破が、その可能性がもし一部でもあるのだとしたら。
「高里君の居場所を教えて下さい。彼が本当に高里要なのか確認したいんです」
「……条件がある」
「…「神隠し」先が、何処なのか」
「ああ」
「話しても構いませんが、それを御堅い職業をしている方が信じるかどうか」
「それでもいい。話してくれ」
「わかりました」
そっと溜息を零した
りつは少しの間瞼を伏せた。…信じてもらえない事は承知の上、それでも彼に繋がる情報が得られるのであればいくらでも真実を話し続ける。…そう、覚悟を頂いたと同時に苦笑を落としたくなった。
帰ってきたからには彼方との縁は切れた筈なのに、こうして今も何処かで繋がりができてしまうのは、やはり自分が胎果だからなのだろうか、と。
そうして彼女はぽつぽつと明かし始めた。
始まりの地から、世界のこと、高里要と会った時のこと、陽子と会った時のこと、加えて同じく流されてきた鈴の話も。
少なくとも眼前の男が欲しているであろう情報を淡々と説明していくと、西園寺の表情がみるみる険相を刻んで俯いていく。
りつの予想通りの反応である。
「…そんな夢物語、ある訳がないだろう」
「そう言うと思いました。信じてもらえないから、要君も話せなかったのかもしれませんね」
「それは…」
西園寺は言い淀む。彼女の「夢物語」が真実なのだとしたら、話さないのは道理である。間違いなく精神的な罹患を疑われるのだから。
「私が教えられる事は全てお話しました。…高里君の居場所、教えてください」
「その前に…これを見てくれ」
西園寺は険相を湛えたまま、ベンチに置いていた新聞を
りつへと差し出した。四つ折りにされたそれを受け取って、広げた見出しに自然と視線が持っていかれた。
自殺、呪い、祟り――不吉な文字ばかりが並ぶ、不穏な一面を。
「……何ですか、これ」
「神隠しから帰ってきた後から、周りで妙な事故が起き続けている。その所為で周囲から距離を置かれているらしい」
「これ…」
まさか、と
りつは記事を何度も読み込む。読む度に焦燥と危惧ばかりが競り上がり、あまりの衝撃に思わず片手で口を覆った。
…彼の周囲で起きる傷害や事故等の事件を纏めて取り上げられた記事は、彼の本質とは無縁である筈の言葉ばかりを並べ立てている。だが、麒麟は仁の生き物だ。人を傷つける事は本能的に不可能の筈。故に、麒麟が危機に陥った際には動く者がいる。
「…使令」
「うん?」
「まずいな…」
「どうした」
「すみません、やはり早く要君に会わないと」
「何か分かったのか」
「いえ、会ってからじゃないと分かりません」
「は?」
ですが、と折り畳んだ新聞を呆然としている西園寺へ突き返して、
りつは顔を思い切り歪めた。
「このままだと、死人が沢山出る事は間違いないかと」
◆ ◇ ◆
小刻みな揺れと共に、窓の外は町中の景色を流していく。中では無線なのかラジオなのか人の話し声が機械越しに聞こえてきたが、興味など皆無であった
りつは助手席からの眺めを流し見て、しぜん小さな溜息が零れた。僅かに開けられた窓から流れ込む風だけが心地よく感じ、そっと双眸を閉ざして。
居場所を教えてもらうだけで良かった筈の
りつは、西園寺からの車で送るという提案を三度断って、四度目で折れた。おそらく何かしら追加の情報が得られる機会だと考えたのだろう。逃すまいと執念を見せる男に根負けして、結果車の助手席に揺られていた。
目的地の建物が見えてきたのは、署を出発して十五分も経たない頃だった。
門を潜ったすぐ側に設けられた駐車場へ車を停めて、降りた二人は訪問者用の入口へと足を踏み入れた。西園寺が事務所の締め切られた窓硝子を軽く指でこつこつと叩くと、事務員であろう男性が怪訝な面持ちで窓を開く。だが、西園寺が徐に手帳を見せたことで事務員の顔色がほんの僅かに堅いものへと変わった。事情を説明すると、事務員は廊下へと出て小走りで何処かへ消えていく。昼間にしてはやや暗がりのある廊下に不気味なものを感じて、
りつは双眸を細めた。
…何かが、暗がりの隅で蠢いた気がした。
「申し訳ありません。高里は今授業中でして」
事務員が連れてきた別の職員は慌てて駆けてくると深々と頭を下げた。確かに午前中では授業中、それもあと残り二十分はあるという。どうする、と眼差しを向けて言外に問う西園寺に対して、
りつは僅かに首肯する。
「今日は姿を確認するだけで大丈夫です。教室まで案内をお願いできませんか」
「え?ええ…分かりました」
西園寺と
りつの顔を交互に見比べて、職員は困惑の色を濃くしながらも歩き出した。その背を追って歩を進め始めた二人はひどく静かな廊下を、三人分の足音を耳にしながら進んでいく。
階段を上ると、開けられた踊り場の窓から生徒の声が聞こえてくる。おそらく体育の授業中なのだろう。時折笛の音がして、不意に
りつの足が止まりかけた。
…あの時、彼方に行っていなければ高校生活を楽しめたのだろうか。
そんな考えが胸の内にふと沸いて、すぐに沈下していく。
胸に提げた紫水晶の首飾りを握り込んで、呼吸をひとつ。
「どうした?」
「…いえ、何でもないです」
晴れた空から背を向けて、再び階段を上がる。僅かに首を傾げた西園寺の横を過ぎて上がりきった、そこに。
ある筈の無い、殺気と戦慄を受けて背が粟立つ。
「―――」
這い上がる悪寒。向けられる敵意。
誰かが此方を見ている。だが姿は見えない。分からないのは当然だと、
りつは冷や汗を浮かべながら周囲へ目を配った。
使令は遁甲できる。つまり…たとえ壁の中、真横に居ても可笑しくは無いのだから。
「?今度はなんだ」
「…少し、そこの踊り場で待っていてもらっていいですか」
「あ、ああ…分かった」
顔を見合わせた職員と西園寺は困惑を隠せないまま、立ち止まったままの少女の背を確認してから階段を下りていく。それを振り返った目の端で確認した
りつはしかし、更に息を詰める。これで耳は無くなったが……問題は。
「…泰台輔の、使令でいらっしゃいますか」
『オマエ、ハ』
慎重に選んだ問いかけに対して、確かに返事があった。僅かに途切れながらも明確な敵意を含んだ声音が、足裏に響く。…ここで言葉を間違えた瞬間、足が飛ぶ。
「…泰台輔に仇為す者ではありません。延台輔、延王の友人で御座います」
『エン…、』
「泰台輔のお力になれるかどうか、御目通りの為に参りました。…まずは、御無事なお姿だけでも拝見させて頂けないでしょうか」
『エンオウ…タイ、ホ……』
呟きが気配と共に遠のいていく。殺意もまるで引き潮のように失せた瞬間、
りつの額からどっと冷や汗が噴き出した。
一言でも間違えていれば、真下から爪が飛んできたに違いない。危うく台輔のいる建物内で流血沙汰を起こすところだったと、盛大に息を吐き出した。
(助かった……)
だけど、と。頬へ伝い落ちた汗を袖で拭う。
…何故、足元に遁甲する使令から強い死臭がしていたのだろうか。…いや、あの新聞記事の原因は、やはり。
落ち着いた後、
りつは踊り場で待つ者達へ声をかけて合流した。あまり良いとは言い難い彼女の顔色を目にした西園寺はぎょっとしたが、
りつは大丈夫だと苦笑して流しつつ、足を進めていく。
程なくして案内の職員が足を止めて掌を向けた。潜めた声で説明を受けて窓越しに見た教室の中――そこに、確かにいた。
(あれが、高里要…)
窓側の席でペンを取り黒板の字を写す少年。その横顔に、嘗て出会った頃の面影は無い。当然だ、彼も胎殻があるのだから。……だが何故だろう、どこにでもいる同じ人のように見えて、目が離せなくなるのは。
不思議な不思議な感覚に陥っていたが、ふと要少年の視線が廊下へと向く。視線が合った気がして、
りつは深く頭を下げた。軽く下げようとしたが、矢張り使令が何処かで監視する視線は感じる。西園寺にも案内をしてくれた教師からも妙な視線を貰ったが、構わず頭を下げ続けて、そのまま廊下を引き返した。
「おい、
生駒さん」
「姿は確認しました。間違いなく彼は私の知る要君です」
「何で分かった」
「分かるんですよ。先刻話した、貴方からすれば夢物語のような話の中を生き抜いてきた私からすれば」
案内してくれた職員に礼を告げて、
りつは足早に建物を出た。
すぐにでも六太と連絡を取りたいところだが、上手く行く保証はどこにもない。まして次の満月まではあと一月近く。かといって、翌月の夜に六太が来るとも限らない上、近くの砂浜へ辿り着くとも限らない。あまりの遭遇率の低さだが、賭けなくてはならない案件に眩暈がした。
「…とりあえず、今日のところは帰りますね」
「
生駒さん、ちょっと」
「はい?」
「まだ聞いてない事があるんだが」
「何でしょう」
「中嶋さんが今何処にいるのか」
嗚呼、と
りつは視線を落とした。…彼の事ばかり話していたものだから、彼女の名前は挙がったとしても、追究してこないと思っていたのだが。
言葉に迷ったのはほんの僅かの間。今更この男に隠したところで、と俯きかけた面を上げた。
「…陽子は、もう帰ってきません」
「…それは、どういう…」
「そういう事です」
彼女は帰って来る事ができない。
王が帰ってくれば此方では蝕の影響で大津波が起きると聞いた。帰還して一月ほどで息絶えるとも。そして何より、彼女が王として役目を果たす事を決めたのだ。此方に帰って来る事は、まず有り得ない。
複雑な表情をした西園寺が視線を逸らす。その言い方では生死について、と誤解されるだろうが、生涯会えないのなら意味は同じだろう。…
りつ自身もまた、陽子とはもう、会えないのだから。
では、と西園寺に一礼して車から離れる。歩き去っていく彼女の背を、西園寺は複雑な思いを抱えながら見送っていた。
◆ ◇ ◆
「ばあちゃん、調子はどう?」
「ん、今日はよがんすねぇ」
「良かった」
日差しの傾き始めた午後、病室でベッドに椅子を寄せて祖母と話す
りつは、先程僅かに開けた窓から流れ込む風の温かさに目を細める。四月ともなれば春の陽気。本来ならば今頃は山菜を取りに山へ入る時期なのだが、
りつはよく春休みぎりぎりまで祖母宅で過ごし、祖母に連れられて山菜獲りを手伝っていた。
「…こごみ、わらび、食べたいねぇ」
「取ってこい?」
「ここら辺に山無いし、勝手に取って行ったら怒られるし」
祖母はからからと笑う。昨年までは山に入り山菜を採りながら、孫の痕跡を探していたのだが、無事に戻ってきた上毎日顔を見せに来てくれる孫に笑みを禁じ得ない。時折風に靡いた髪の間から覗く傷痕が気になりはしたが、敢えて問いとして口にすることは無かった。
…戻ってきてくれた。
ただ、それだけで十分なのだと。
「…
りつ」
「うん?」
「ばあちゃんが死んだらな、あの家も、ばあちゃんのものも、全部やるからな」
「……嬉しいけど、ばあちゃんがいなくなるのは、寂しいな」
困ったように笑う祖母は
りつの頭をそっと撫でた。
あとどれくらいの時間が、祖母に残されているのだろう。あとどれくらい――
「
りつ、ちょっと」
祖母の見舞いの後、海辺を一通り確認してから夕方に帰宅した
りつは、呼び止められて自室へ続く階段の途中で振り返る。階段下から見上げる母親が手招きをしていたが、二、三段下りたところで足を止めた。
「なに」
「…五年の間、何処にいたの?」
「…病院でも警察の人にも話したけど、何も覚えていなんだ」
「もし、何か少しでも思い出せる事があったら、私や警察の人に言うのよ。分かった?」
「うん」
首肯した
りつはしかし、母親に明かす気は微塵も起きなかった。…話したところで、何も変わらない。ただの世迷い事だ、混乱しているに違いないと一蹴するに違いない。それならば記憶喪失のまま過ごしていた方がずっと過ごしやすかった。
…そしてそれは、父親にも同様なのだが。
「…五年ぶりだって、父さんは何も変わってないんだね」
「え?」
「何も話しかけて来なければ、顔を見ようともしない。…まぁ、どうでもいいけど」
「それ、は…」
溜息を吐いて階段を上がっていく。そういう自分も父と然程変わらないと自嘲する。何せ祖母の為だけに帰ってきたようなもので、父親と話す必要も無いと未だまともに顔を合わせていないのだから。
それから毎日祖母のお見舞いのために病院へ通いながら仕事探しを始めた。最初は新聞配達から始め、さらに日中は工場勤務にて流れ作業を行い、仕事終わりに祖母へ会いに行く。家には寝に帰るだけの生活。そんな日々を繰り返し、五月の満月の夜――海が一望できる砂浜で一人、ぼんやりと明るい海を眺めていた。
(もし泰麒を見付けられたらどうするかって話、もう少しすればよかったな…)
後悔先に立たず。考えていても仕方ないと、海の寄せては引く波音に耳を傾けながらただひたすら待ち続けていたが、その日は結局何もないまま薄明を拝む事となってしまった。