【還った先には】
消毒液が沁みついた部屋の中、薄いカーテンが陽を淡く透いて揺れていた。
揺れる度に微かな衣擦れが聞こえてくる。揺らめくそれを漠然と見詰めて、
りつは瞬きを一つ。僅かに開けられた窓の間から流れ込む温い風が頬を撫でて、春の来訪を報せる。細めた双眸が捉えた世界は陽射しが強い所為で殆ど白く、眩しさから僅かに頭を左へ逸らした。燻んだ乳白色の壁と、天井には白く長い棒――いや、蛍光灯が一つ。今は陽光のお陰で部屋が明るいために光を落としている。
(…ああ…そういえば、帰ってきたのか)
りつは細く長く息を吐き出して、徐に上体を起こした。ベッド横には焦茶色の床頭台が一つあるだけの殺風景な個室。入口を隠すように引かれた、褪せた緑色のカーテンが部屋へ流れ込む風でほんの僅かに揺れていた。背後を振り返ると、壁へ横並びに埋め込まれた機器を認めて、それがもう随分前に見た事のあるものである事を思い出した。
…凡そ七年前の記憶の片隅に残っていたものを引きずり出したのである。
海辺で警官に発見された
りつは幾つかの質問に答えた後、暫くの間無線でのやりとりで待たされる事となった。それから知らされたのは、捜索願が出されている事実。所在について詰問された
りつが咄嗟に分からない、と答えた。後にそれが間違いだったのかもしれないと、ベッドの上で小さく溜息を零した。
救急車で運ばれ、家族に連絡した旨を警官より告げられ、渡された袍のようなものに着替え、巨大な機械のある部屋で寝かせられて大人しくするよう言いつけられる。それが病院の検査である事を思い出して、
りつはそっと瞼を落とした。
検査に連れ回され、医者からは家族が到着次第話をして、念の為一泊だけ入院をさせるという話になったが、交通機関はとうに終電を過ぎていた。結局再度家族と連絡を取り、朝一番で来院する事を条件に一泊の入院のため病棟の一室へと通された。
それが昨晩の流れである。
だが、
りつが更に辟易したのは翌朝からの事だった。
扉を叩く音の少し後、入室を報せる声がした。足音は複数。それから閉められていた入口のカーテンを開けた先、複数の人間が一斉に患者へと目を向けてくる。その内一人には見覚えがあって、暫くの間茫然としていた矢先、女性は涙を浮かべて駆け寄ってきた。そこで
りつは漸く思い出した。
――眼前の女性が、自分の母親だという事を。
◆ ◇ ◆
今まで何処にいたのか。
何をしていたのか。
警官から聞いたがあの恰好は何なのか。
時間を挟みながらも繰り返し聞かれて、
りつはただ分からない、覚えていないと繰り返し続けた。…続けながら、ひどく反省をした。蓬莱に帰った後の言い訳を考え忘れていたのである。
「本当に、何も覚えていないのか」
事情を聞く為に足を運んだ警官の問いに、
りつは無言で頷いた。本当の事を話したところで夢物語だと一蹴される事は分かりきっていたので、母親からの問いも、警官や医者からの問いにも、同じ返答を繰り返す事十数回。
本当に何も覚えていないと判断したのだろう。警官と医者は何か些細な事でも思い出したらすぐに報告するよう告げて部屋を退出していく。
そうして部屋に残されたのは
りつと母親の二人のみ。ベッドに腰掛けていたりつはふと俯く母親の顔を見た。最後に見た顔よりも幾らか頬がこけたようだった。無理もない。田舎に追いやっていたとはいえ、娘が急に消息不明になったのだから。
「…ねぇ、母さん」
「うん…?」
「おばあちゃん、まだ田舎にいる?」
母親の顔色を観察しながら恐る恐る問いかける。…蓬莱へ帰る手前、亡くなっている可能性も考えていた。そうなれば墓前に手を合わせに行きたいと切り出す事も考えていた。謝ったところで、自己満足にしかならない事は分かっていたのだけれども。
だが――返された母親の答えに、
りつは瞠目した。
「実はね…おばあちゃん、病気で今入院中なの」
「え……病気…?」
「ええ。…一個下の階にいるのよ」
思考が停止する。難しい言葉ではない筈なのに、母親の言葉を咀嚼して、飲み込むまでにおおよそ十数秒。
退院して、電車に長い時間揺られながら会いに行くものだと思っていたのに。再会までにたった数分しか掛からないなんて。
動揺から目を泳がせる
りつに、母親は眉尻を下げながら笑った。
「…会いに行く?」
病衣から母親が持参した服に着替えて、病室を出る。退院前に会いに行く旨をナースステーションの看護師へ伝えて、エレベーターで一階下へと降りた。右も左も同じような、白いばかりの廊下が長々と続いている。等間隔に設けられた四人部屋のカーテンが開けられているのだろう。廊下まで陽光が伸びていて、廊下の電気が消されているせいで部屋と部屋の間の廊下が暗く見える。まるで横断歩道を引き延ばしたような風景が少しばかり陰鬱な印象を与えた。
先導していた母親が突き当りの病室で足を止めた。
りつもまた立ち止まり、恐る恐る入口を覗き込む。四人部屋はカーテンで仕切る事ができるが、どこも開いていて部屋が広く感じた。響くのは談笑の声。時折聞こえる笑い声が、ひどく懐かしい。
「ありゃ、ちょっとお客さんだね」
「こんにちは。
義母がいつもお世話になっています」
「いいんだよ私達は。どうせ暇だし、話すぐらいしかできないからねぇ」
先に足を踏み入れた母親が病室の患者に挨拶を交わし、すぐにからからと笑い声が聞こえる。突き当りの部屋の所為か声量を遠慮せず話しており、廊下にいる
りつにも会話が鮮明に聞き取れた。加えて掛かる、母親からの入室の催促。呼吸を整え、彼女が掌で指し示した方向へと歩を進めて。
「ばあちゃん。ひさしぶり」
「……
りつ……?」
母親よりもずっとやつれた祖母は、弛んだ瞼を大きく持ち上げていた。まるで幽霊を目にしているような、けれども徐々に眼前の人間が紛う事無く自分の孫である事を認識した途端。
わなわなと体を震わせた祖母は掌で顔を覆い、背中を丸めて小さくなっていく。
初めて祖母が号泣する姿を目の当たりにして、
りつもまた涙腺を緩ませながらも祖母の背中を優しく擦っていた。
◇ ◆ ◇
祖母と個室で話がしたい。
そう相談した
りつに看護師が案内したのは、普段医者と家族の話し合いに使われている小さな部屋だった。
二人きりで話がしたいと母親に席を外してもらい、
りつは祖母と向かい合うようにして席に着く。数年ぶりに腰掛けたパイプ椅子を前に引いて、改めて祖母の顔をまじまじと見た。
白髪を後ろで束ねた祖母の、以前はふっくらとしていた頬は瘦せこけていた。弛んだ瞼を押し上げて、神妙な面持ちを帰ってきたばかりの孫に向けている。まるで、眼前にいる存在が信じられないかのように。
「…突然、いなくなってごめん」
「てっきり、山で何かあったもんだとばかり…」
「迷子になって、帰れなくなったの」
間違いではない。迷子も帰る事が叶わなくなったのも事実。今回はただ奇跡と縁があって帰って来られただけで。
ただ、と。
祖母には、本当の事を話しておきたかった。理解してもらえない事は承知の上、それでも唯一、真実を耳にしてほしいと。
(…でも、何処から話すべきだろう)
いなくなったあの日から順を追って話すべきか、それともあの国の事から話すべきか。
思いあぐねた
りつはテーブルの上で組み合わせた手に視線を落とした。…その手にそっと伸ばされる、筋角ばった二つの手。
「いいんだ、いいんだ…わりゃ死ぬ前に帰ってきてくれた…もう、それだけで…」
「…ばあちゃん、そういえば病気だって母さんから聞いた」
「…癌で、手遅れだって、医者さから言われてなぁ」
「…癌…」
りつは愕然とする。何処の癌なのか。一体いつから。もう手は無いのか。折角帰って来られたのに―――
聞きたい事が次々に思い浮かぶのに、喉で閊えて言葉にならない。混濁する感情に表情が歪む。小刻みに震える彼女の手を、祖母は優しく擦っていた。
「
りつ。あでね親んとこから出てきな。ばあちゃんの、何もかもやるから」
「でも…」
「ばあちゃんはな、
りつと最期に会えたのが、一番幸せだ」
そうくしゃりと笑む祖母の姿に、
りつは思わず俯いた。
五年の歳月で得たものは確かにあった。
だが……代わりに喪うものはあまりにも重大なもので。
結局
りつは言葉を失ったまま、終ぞ五年の経緯を口にする事が出来なかった。
◆ ◇ ◆
個室から出た
りつは祖母を病室まで送ると、ベッドに腰を下ろした祖母は持参していた連絡帳を鞄から取り出し捲り始めた。何か急用でも思い出したのだろうかと首を傾げながらも、
りつは一旦退出を告げて母親と一緒に病室を後にする。
「…ねぇ
りつ、おばあちゃんと何を話したの?」
「ばあちゃんの病気の事を話してもらっただけ。病室じゃ他の人の耳もあるし、後で気まずくなるのはばあちゃんだから」
「あ…そうね……」
人気の無い廊下の只中、会話が途切れて足音だけが響く。気拙いのか視線を逸らした母親を横目で認めて、
りつは小さく溜息を吐いた。…失踪前も良好とは言えなかった仲の娘が五年ぶりに帰ってきたのだ。どう接すればいいのか分からないのだろう。
とはいえ、
りつもまた母親と同様だった。どう接していたか思い出せず、神妙な面持ちのまま、二歩分距離を置きながら自分の病室へ足を運ぶ。
どうせその内思い出すだろう、と。一度思考を止めた
りつは、入口の扉の取手を掴もうと手を伸ばして、ふと動きを止めた。
廊下から突き刺さる誰かの視線を感じ取ったが故に。
「どうも」
「?」
りつが振り返るのを認めて、視線の主は軽く頭を下げた。スーツを着込んだ、五十代前半の男性。彼はスーツの胸ポケットから手帳を取り出して掲げて見せる。それで、嗚呼、と
りつは納得した。
「申し訳ないですが、詳しくお話を聞かせて貰っても良いですかね」
「…ええ」
男からの投げかけに了承したものの、
りつは表情硬く口を引き結んだ。
…彼らに明かしたところで信じてくれる筈が無いのだ、と。
病室に入室した警官と
りつが会話した時間は十分にも満たなかった。
――保護された場所以前の記憶は。
――断片的でも良いから思い出せないか。
――あの独特な服装は一体。
――本当に、何も覚えていないのか。
それら全ての質問に対する
りつは何も覚えていない、分からないという返答だけで貫いた。一切の襤褸を出す気は無かった。するとこれ以上の情報は得られないと察したのだろう。丸椅子に腰かけていた男は徐に立ち上がると、取り出したメモ用紙に走り書きをして
りつに手渡した。受け取ったメモに目を落とすと、羅列するのは数字ばかり。
「何か思い出したら連絡して下さい」
「分かりました」
「では、私はこれで」
りつと母親へ軽く頭を下げて、男は出入り口の扉へと向かおうと踵を返す。その最中に嗚呼、と小さく声を洩らして、思い出したように
りつを振り返った。
「二年ほど前に、突然いなくなった女性がいましてね。まだ何処かで生きているなら、
生駒さんと同じぐらいの年齢でしょう」
「…そうなんですか」
「中嶋陽子さんという方なんですがね。…
生駒さん、ご存じないですか」
「…、いえ」
「そうですか。…お母様、ちょっと廊下でお話宜しいですか」
「あ…ええ、はい」
男と母親が病室を出ていく。その後姿を目で追い、扉の開閉音の後に訪れるのは束の間の静寂。そこに落ちたのは小さな溜息と、思わず零れた言葉。
「……陽子…近所だったのか…」
病院からの戻り途中、西園寺は人通りの少ない脇道に車を寄せて停めると缶コーヒーのタブを起こした。考え事をする際に無糖の珈琲を口にするのが若い頃からの習慣になっていた。
バックミラーを一瞥しながら珈琲に口を附けて、嚥下の後に溜息を零す。
(…彼女は知らない振りをしている)
何も覚えていないと頭を振るばかりの少女。何も手がかりがないと諦めかけた矢先、行方不明になった少女の名を耳にした彼女の反応は何処か違和感があった。
垣間見た、瞬きほどの間の動揺。僅かに顔を顰めかけて抑えたような表情が目に付いた。…あれは、何かを隠す時に見せる反応と似ている。
(隠さなきゃならない情報…誰かに口止めでもされてるのか…)
或いは、隠匿すべき事情があるのか。
少なくとも、と西園寺は昨日渡された一枚の写真を鞄の中から取り出した。写るのは一着の衣服。病院で病衣に着替えた後、彼女が着ていた衣服を撮らせてもらったものである。
彼女の失踪先の手がかりに繋がるかもしれない。そう感じた後輩が撮影したのも理解出来た。発見された当初に彼女が着用していた衣服が日本のものでは無い可能性が高い。…否、確実と言っていい。隣国の民族衣装――それも百年以上昔の――にも似た服を纏っていたのだから。
(隣国まで行っていた…とは考え難い)
ならばこの格好で、一体何処へ行っていたのか。
疑問ばかりが浮上する。だが考えたところで何かが閃く訳でもなく、飲みきった珈琲缶を置いた西園寺は仕方なく車を発進させた。
署へと戻った西園寺は古びた建物内に時折目をやりながら階段を上がる。若干煤けたような壁色のせいか、毎度薄暗い印象を覚えながら自身の部署へ足を踏み入れ、鞄を置いて席に着く。書類を引き出しかけたところで近付いて来た人影を振り返ると、昨年に入った後輩が肩を竦めながら西園寺を見つめていた。
「あの…西園寺さん」
「おう、どうした宮下」
普段は明快な後輩の珍しく物怖じするような様子に首を傾げる。以前も似たような様子の時があった。あの時は確か、と思い出した途端、嫌な予感を覚えて思わず眉を潜めた。彼自身の失態ならば潔く頭を下げるような性分の彼が言い難そうにしている。…ならば、彼が受け持つ案件ではなく。
「何かあったのか」
「ええ…高里要の件で」
切り出された少年の新しい情報に、西園寺は思わず蟀谷を押さえて呻く。
次から次へと起こる厄介事に思い嘆息を吐き出して、席を立ち上がった。
◆ ◇ ◆
ふと、衣擦れの音で意識が浮上する。
瞼を起こせば薄暗い天井が視界を占めた。時計が無いために正確な時間は分から無かったが、僅かに顔を窓の方へ傾けると、カーテンから光が漏れる様子は無い。まだ夜明けまで時間があるのだろう。
徐に起き上がって、
りつはベッドから足を下ろす。足裏に感じる床の冷たさは何時ぞや、何処ぞの王宮で一泊を余儀なくされた時の感覚と似ていた。
ベッドから降りると近くの洗面台へと歩いていく。備え付けの大きな鏡の前に立ち、久方振りの顔を目にして覚えたのは、違和感。五年前蓬莱にいた時はこんな顔だっただろうかと鏡に顔を近付けて、まじまじと観察する。
…あちらの顔にすっかり慣れてしまったのだと溜息を溢したが、慣れていくしかない。
自分はこれから、此処で生活していくのだから。
翌朝、食事を終えた頃に病室を訪れたのは鞄を抱えた母親と、その後を着いてきた中年の男性だった。
男性を数秒注視して、それが自身の父親であることを認識した。母親とは違い、最後に会った記憶の姿よりも少しばかり肥えた印象の父親は、言葉も無く出入口の手前で佇んでいる。感動の再会など程遠い。ただ生存確認と医者からの話を聞く為だけに来たのだろう、と
りつは漠然と思う。
(…嗚呼、少しも変わらない)
娘に関して関心が薄く、けれども体裁だけは気にする。此処に医者か看護師が入れば心配の振りの一つでもするに違いない。
午前中に退院予定だと告げた母親から服を渡された後、両親は看護師に呼ばれて病室を出ていく。その間に服を着替えていると、扉の開く音がした。
「
生駒さん、今大丈夫ですか?」
「いえ、今着替え中なので少し待って下さい。…何かありました?」
「
生駒さんに面会したいという警察の方がいらっしゃってます」
え、と
りつは一瞬動きを止めた。昨日来たばかりだというのに、まだ何かがあるのだろうか。
服を着替え終え、カーテン越しに承諾すると、看護師が出ていく音が聞こえた。少しして男性の低声が入室の断りを告げ、カーテンがゆっくりと開かれる。昨日来た男性警官だった。
彼は申し訳なさそうに頭を下げると、ベッドに腰掛けていた
りつもまた軽く会釈する。来客用の丸椅子を勧めたが、彼は軽く手を横に振ってそれを断った。すぐに終わる話だから、と。
「おはようございます
生駒さん。退院おめでとうございます」
「ありがとうございます。…それで、話とは」
「本当に申し訳ないですが、もう一度話す機会を設けてもらいたくてですね」
「はぁ…いつ頃ですか」
「今からでも…は冗談ですが、できれば早めの方が有難い。明日は如何でしょう」
「分かりました。明日の午前でしたら大丈夫です。午後は、祖母のお見舞いがありますので」
「分かりました。では明日の午前、警察署の方でお待ちしてます。場所は分かりますかね?」
そう訊ねて、西園寺は住所の書かれたメモを手渡した。受け取った
りつはメモを眺め、同時に自宅の住所を思い出す。おそらく、そう遠くはないだろう。
「確か家が近所だったと思います。分からなければ母に聞いて伺いますので」
「宜しくお願いします。それでは」
再度頭を下げて、彼はカーテンの向こうへ消えていく。部屋を出ていく西園寺の足音を確認してから、
りつは詰めていた息を吐き出した。…また昨日と同じ会話を繰り返さなければならないのかと思うと辟易してしまう。
だが……と。
ベッドに転がり、天井を仰ぎ見る。昨日警官が口にした戦友の名前。帰還早々に耳にするのは予想外だったが、同時にふと思う。
(陽子の母親は、まだ帰りを待っているんだろうか)
退院手続きを済ませると、父親の運転で車に乗り、一時間ほどして一軒家の前に備え付けられた駐車場に車が停められた。
車を降りて見上げる、五年ぶりの家。こんな家だったか、と目を細めながら眺めていると、母親に背を押されて家へと上がる。…だが、不意に思い出すのは嫌な記憶ばかり。暗がりの廊下。薄暗い階段。昨晩気合を入れて掃除をしたのだという自室も、そういえばこんな部屋だったな、と思うのみ。これといって特別な感情は湧かなかった。
それでも何となしに勉強机の引き出しを開け、ノートや教科書を出しては捲る。高校生の頃から時が停まったままの部屋。教材、筆箱、学生鞄、制服……何もかも、もう必要無くなってしまった。
過ぎ去ったもの達を要らない紙袋に纏めて部屋の隅に置く。着られそうな衣服を適当な旅行鞄に詰め込んで、いつでも家を出られるよう用意する。…が、問題が一つ。
帰って来たばかりで、金銭の持ち合わせが全く無い。何処かへ行くにしても金銭面で援助してもらう事が必須な状態だった。先立つものがなければ何もできない。
となれば…先ずは、働き先を見つけなければ。