拾弐章
1.
切り立った断崖から少しばかり離れた場所で、薄明の広がる空を一望する。連なる山々を照らし、下方に広がる街並みが白んだように見えて、
明秦は僅かに双眸を細めた。
「綺麗ですね」
「そりゃあ、五百年の賜物だな」
鹿蜀がいる右側とは反対側から返答がひとつ。大国の麒麟が腰に手を当て誇らしげに話していた。
昨晩、翌早朝の開門と同時に玄英宮を後にする、見送りは不要の為出口までの案内だけ頼みた旨を伝えた結果、何故か延麒が禁門までの案内を引き受けたのである。
「四月に柳で人と会う約束があるので、それを果たしたら戻って来ますね」
「悔いの無い旅をしてこいよ」
もう戻って来られないのだから…と。
言葉に含まれた意味を酌み取って、
明秦は一つ頷く。…もう同じ光景を見る事の無い、最後の旅路。空を翔ける旅など、蓬莱で話せば夢物語だと笑われるだろう。だがそれでも、だからこそ、後悔の無い旅にすると心に誓って。
「いってきます」
「おう。待ってるからな」
朝陽に照らされて眩く見える、尊い少年の金糸。緩やかに吹く風に揺れる様を見詰めて、青鈍色の双眸を細めた旅人は、鹿蜀の鞍へと足を掛けるのだった。
◆ ◇ ◆
関弓を出発した
明秦は二日を掛けて北西へと駆け、雁国と柳国を隔てる高岫山へと到達した。街の門闕を潜る為に鹿蜀の手綱を引きながら人波に合わせて歩く。門闕の上に掲げられた扁額を仰ぎ見、北路という文字を認めてから、門闕をゆっくりとした足取りで潜り抜けた。
雁国では整備された街道を目にするのは別段珍しい事では無かったが、国境の街にまで整備が行き届いている様は流石大国といったところか。
広途を挟んで左右に整然と立ち並ぶ建物や小店を横目に捉えつつ、四、五階はあるであろう高い建物の中から一つの舎館へと足を踏み入れ、北路で一晩体を休めた。翌早朝には開門と同時に雁国と柳国の国境に設けられた門闕で旌券の検めを受けて、柳国へと足を踏み入れた。
(此処からが、柳国…)
数人が足を止めて街の様子を一望し、再びゆっくりと歩を進めていく。無理もないと明秦は思う。同じ街の名であっても、門闕に隔てられた後方、整備の行き届いた大国の街の様子とつい比較してしまう。
全てに玻璃の入れられた大国の建物。対して手入れが行き届かないのか、砂埃を纏う建物の壁に、割れて曇った玻璃。摩耗した石畳を歩きながら、どこか暗い印象を受けるのは、けっして今日の曇天の所為ばかりでは無いだろう。
九十九折りの道が続く山肌を見下ろしながら、
明秦は上空へ翔け上がる鹿蜀の手綱を握り直した。曇天は幸いにも雨を招くほどの厚みは無いようだった。下方で山肌の道を下りゆく旅人が雨に打たれる事は、今のところ無い。少しばかり安堵したのは、以前露翠の仕事で雨の中をずぶ濡れで歩く辛さを経験したためであった。
休息を挟みながら上空を翔け、途中に立ち寄った郷の舎館で一泊を過ごし、翌日には柳国の首都である芝草へと降り立つ事ができた。
天を貫く山――凌雲山。その麓には陽光を湛えた湖と、白と黒を主とした景色が拡がっていた。石畳や建物の色は白、並び立つ屋根の色は薄い黒。白と黒を基調とした街に、並ぶ露店や行き交う人波が彩を散らしている。
人波に合わせて鹿蜀の手綱を引きながら広途を歩く
明秦は、舎館を探して左右の建物へ視線を向ける。流石首都だけあって喧噪は絶えなかった。…耳障りなほどに。
(…これは)
確かに賑やかではあるが、どこか廃れているような空気――あくまでも感覚のみだが――を覚えて眉根を寄せる。
この光景は、見覚えがある。
…そう。それは玻璃のような水面の瓦解の手前。恐ろしい事が起こる手前、人は無理にでも明るくなる事がある。それは拓峰の籠城戦の最中にも同じだった。恐ろしい事の前触れを肌で感じ取り気を紛らわせる為に喧噪を生み出すのか、或いは避けられない凶事を前に自棄になり喧騒を作り出すのかは分からない。ただ、街の様子を観察すればするほど
明秦の背には戦慄に酷似したものが這い上がって来るのが分かった。
(私の捉え違いであってほしい。けど…)
どうにも気のせいだとやり過ごす事ができない眼前の風景に落ち着かず、本来は吟味する予定だった舎館も手近に見付けた所へ入ると、一泊して朝一番に芝草の街を離れるのだった。
早々に柳国を抜けると、陸続きに恭国、範国、才国と三日ずつかけて国を渡っていく。どの国も六太から受けた前情報通り、安定していて穏やかな国だった。
才国から漣国へは鹿蜀を休ませる事もあり、船で渡る事にした。二日待って漣国行の船に乗り、揺られること二日――酷く見慣れた港へ入る様子を甲板上から眺めて、彼女の胸に湧くのは、懐古の念。帰ってきた。…そしてもう、見る事は無いであろう光景を目に焼き付けて。
(…遂に、来た)
港から半日ほど上空を翔けて辿り着いた街。その門闕に掲げられた扁額を見上げて、
明秦はごくりと息を呑む。この地を踏むのは、これで本当に最後なのだと。
漣国唐州州都蕭維。
本気で叩きのめされる覚悟を以て、
明秦は門闕を潜り抜けた。
最初に
明秦が立ち寄ったのは、前回の出立の手前に教えて貰った冢墓だった。紫秦の墓にそっと手を合わせ、ただいま、と呟いて、墓前でこれまでの事をぽつぽつと報告する。
鈴を追って慶国へ足を向けた事。
慶国で起きた乱に参加した事。
慶国に立った新たな王はとても立派な方だった事。
…そして、蓬莱へ帰る事。
「紫秦さんには、お世話になりました。…折角救ってもらった命だから、精一杯生きるよ」
生きる事はこの国でも蓬莱でも変わらない。国があり、場所があり、人がいて、どう生きるかは自分次第。
ただ、誰にも恥じる事の無い、悔いの無い生き方をしなければと決意して、
明秦は立ち上がる。
見上げた先は、眼前。天を貫き屹立する凌雲山。その麓――府第へと。
手頃な舎館の房室を取ると、鹿蜀を厩舎に預けて舎館を出た。府第へ足を運び、役人へ伝言を頼んで、早々に街へ戻る。最後にもう一度ぐるりと街を巡り景色を眺めていたが、矢張り、と
明秦は密かに溜息を吐いた。
穏やかで明るい喧噪には安心感すら覚える。だからこそ、柳で得たあの感覚は間違いでは無かったのだ。それがひどく残念でならない。…勘違いだったなら、どれだけ良かったのだろう。
街の散歩や舎館で過ごしていた時間は、約二日。府第より返答が来たのは陽が高々と昇ったばかりの頃だった。
言伝を任された役人は困惑しながらも、口にした言伝はただ一言。
鍛練場へ来い、と。
(あれは……間違いなく檸典さん)
深い溜息を吐き出しながらも、
明秦は案内されるまま足取り重く府第へと足を踏み入れた。
白磁色の滑らかな階段を上りながら地獄の日々を否が応でも思い出す。だが、自分から訪ねたのだ。こうなる事は概ね予想していた。
覚悟を決めながら進み、鍛練場へ向かうと、鍛練に努めていた者達が木剣を下げて振り返る。どれも
明秦が見知った顔ばかりだった。おかえり、と口々に挨拶を交わしてくれ、それで少しばかり
明秦の緊張が解れたような気がした。
此処は、何も変わらない。
そう、肩の力を抜きかけた矢先。
近付いてきた足音に、幾人かの顔が強張ったのを、
明秦は見逃さなかった。同時に誰の足音なのかも察しがついて、すぐに身を翻した。
両手に木剣を携え大股で近付いてくる、赤銅色の髪のやや大柄な男。遠目でも分かるほど目つきが悪い者は、此処には一人しかいない。
「何だ、戻ってきたのか」
「…ただいま、檸典さん。今回は重大なご報告があって来ました」
「そうか」
明秦の話を耳にした檸典は足を止めると、ぶっきらぼうな返答と同時に片手の木剣を眼前の少女へ乱雑に投げつける。反射的に受け取った
明秦は木剣と檸典を数度見比べたが、彼の中では話を聞く為に剣を置くという選択肢は無いようだった。
毎度の事ながら彼とはそう穏やかにはいかないのだ、と。
早々に諦めた
明秦は荷物と冬器を近くの兵士に預けると、低く構えて先手を打つべく駆け出すのだった。
◇ ◆ ◇
2.
「……本当馬鹿だ…」
「すみません…」
「……本当に、お前は馬鹿だ。いい加減その首を突っ込む癖を何とかしろ…」
「返す言葉も無いです…」
鍛練場で一頻り打ち合った後、息の上がりきった
明秦を木剣で突つきながら片隅に追いやると、座り込む彼女の眼前に屈み込んだ檸典は話を催促した。呼吸を整えながらもぽつりぽつりと話を始めた
明秦はしかし、初めて目にした男の表情に目を丸くする。
眉間を強く揉みながら浮かべたのは、苦悩。次第に俯いていく様子からして、余程心配を掛けたに違いない。
明秦もまた居た堪れない心持ちから、次第に視線が逸れていく。
「それで。生き延びて、景王とも親しくなったと」
「ええ…」
「…運だけは強いからな。運だけは」
はぁ、と盛大な嘆息が鍛練場に響く。幸い兵士の打ち合う音ですぐに掻き消されたものの、数人は音の主に気付いたのだろう。僅かに動きを止めた一瞬の間、緊張が走る様を横目で見ていた
明秦は思わず苦笑を浮かべると、心中で彼らに詫びをひとつ呟く。
「…で…話はこの件だけか」
「いえ。……延台輔と景王のご厚意により、この度蓬莱へ戻る事となりました」
「―――」
瞬間、男の眉間を揉む手がぴたりと止まる。
恐る恐る上げた面には、驚愕と悲愁を綯い交ぜにしたような感情を湛えていた。眼前の男がまさかそのような表情をするとは思いもしなかった
明秦は、今迄に見たことの無い反応にどう声を掛ければ良いか思いあぐねていたのだが。
暫くの間無言で
明秦を見つめた後、檸典が顔を横へ向けたことで視線が切れた。男の横顔は、いつの間にか普段の仏頂面へ戻っていた。
「…そうか」
「なので、紫秦さんの形見を檸典さんにお返しに来ました」
「要らん。お前が持っとけ」
「ですが…」
ここで返さなければ、もう一生彼の手元に戻ってくる事は無い。それは分かっている筈。にもかかわらず、檸典は掌に乗せて差し出した彼女の形見へはちらりと視線を寄越すと、すぐさま
明秦の掌ごとそっと押し返した。
「蓬莱は平和なのか」
「――物理的には、平和ですね」
「なら尚更持っておけ」
けど、と言い返そうとした
明秦は一度押し返された手元を見、再度顔を上げて、言葉を詰まらせた。
あまりにも真剣な男の双眸が、彼女の言葉を言外に拒絶していたが故に。
「それで、此処には二度と面を見せるな。いいか、二度とだ」
「…。分かりました」
戻ってくる筈が無い者へ念押しするように告げたのは、本当に戻って来させない為か、それとも未練の無いよう自分に言い聞かせる為か。
どちらにしても後悔を残さずに発てるよう配慮したが故の、不器用な彼らしい言葉だった。
「―――お世話になりました」
彼女の形見を握り締めたままゆっくりと立ち上がった
明秦の頭が深々と下がる。言葉での反応は無かったが、微かに耳にしたのは、鼻を鳴らす音がひとつ。
敢えて彼の顔から視線を背けると、彼に背を向けて歩き出すのだった。
◆ ◇ ◆
荷物を小脇に抱えて鍛練場を後にした
明秦は、一度も振り返らなかった。
振り返れば檸典の喝が飛んで来そうな気がしたし、未練が生まれる可能性もあった。だからこそ足早に鍛練場から遠のき、見えなくなったであろう場所で漸く足を止める。徐に来た道を振り返り、もう二度と見る事の無い光景を暫くの間漠然と眺めていた。
その最中だった。真横から近付いてくる人影に、ふと気が付いたのは。
視線を其方へ凪げば、見知った顔の、愕然とした顔を見るのは今日で二度目だと苦笑を零して。
「
明秦!」
「利紹さん。今丁度挨拶に伺おうかと」
「檸典から話を聞いて飛んで来たんです。蓬莱へ帰るそうですね…」
「ええ。延台輔の厚意で」
ここまで情報を得たのが早かったのは、鍛練場では僅差で入れ違いになったためだろう。そのまま出ていく可能性を考え、慌てて追いかけてきたに違いない。額に薄らと浮かぶ汗が言外に物語っていた。
「二度と来るなと言われてしまいました。まぁ、当然ですが…」
「それは……二度も蝕に巻き込まれるなんて不運は無いでしょうから」
「残念ながら、蝕に巻き込まれた事は無いんです」
「――ああ、そういえばそうでしたね」
本来ならば蝕に巻き込まれて辿り付く筈の海客だが、ふと何かの拍子にふらりと迷い込む海客や山客も稀にいるという。
明秦は正にその稀な内の一人であった事を思い出せば、苦笑を浮かべた利紹は失礼しました、と小さく謝罪を告げる。
尤も、と。利紹は以前耳にした情報を振り返って苦い思いを胸中に滞留させる。蝕に流されてくる海客の生存率はけっして高いとは言えない。つまり、二度目があったとしても、生きて再会できるとは限らないのだと。
「…
明秦。貴方が納得をしているのなら、私は別に引き留めません。ただ…もし、此方へ帰って来たいと少しでも思うのなら、主上へ奏上しておきましょう」
「…そんな都合のいい話は流石に無いですよ、利紹さん」
急に真剣な面持ちへ変貌した利紹の様子に、
明秦は思わず困ったように笑う。麒麟が此方と蓬莱を行き来できる事は知っているが、流石に漣国の麒麟にまで迷惑を掛ける訳にはいかなかった。…それが喩え、呉剛環蛇という此方と蓬莱を繋ぐ漣国宝重の存在が有ったとしても。
「冗談ですよ。…数年でも貴方の師を務めていたものですから、喩え多少の情が移っても、誰も文句は言わないでしょう」
「利紹さん…」
「蓬莱でも、お元気で」
利紹の両手が
明秦の左手を優しく掬い上げる。枯茶色の双眸が細められ、あくまでも優しく送り出そうとしてくれる彼の姿に、
明秦は思わず言葉を詰まらせた。
言いたい事が沢山あった。
今迄の事も。紫秦の事も。師となり剣術を教えてくれたあの日々の事も。何度も迷惑を掛け、それでも投げ出さずにいてくれた彼への感謝の言葉も。
熱くなる目元を右手の甲でぐいと擦り、利紹の手にそっと重ねた。感謝を以て下げた頭は深く、深く。
「…お世話に、なりました」
絞り出した声は細く、けれども利紹の耳には確かに届いたのだろう。
明秦の左手を包む手に力が籠もって。
彼の両手は、微かに震えていた。
◇ ◆ ◇
州城から舎館へと戻った
明秦は一晩を過ごすと、唐州を後にした。本来ならば目的を達成したため、再び才国への船を探すべく港へ向かうべきではあったが、最後の旅だからと漣国国内を見て回る事にしたのである。
鹿蜀のお陰で移動は時間も掛からないため、数日を掛けてゆっくりと国内を見て回り、最後に漣国国都を訪った。
南の陽光は温かく、穏やかな町並みに麓を纏われるようにして凌雲山が屹立している。住民や旅人で絶え間なく行き交う人波の中、白い岩肌が陽光に照る様を見上げ、数年ぶりに目にした光景に
明秦は目を細めた。
(…最初に紫秦さんと来て、)
それから、と。
記憶を振り返っていた最中、ふと、見覚えのある途を目にして広途から逸れた。人通りの少ない、建物の間の小径。日が当たり難いこの場所を、
明秦は確かに覚えている。
(…泰台輔と出会った場所…)
不意に嘗ての記憶が脳裏を駆け抜ける。
杖身に警戒されながらも、同じ海客だからと、片隅で話してくれた小さな黒麒麟。
――彼は今、一体何処へいるのだろう。
明秦が漣極国を離れたのは三月初頭の事だった。
連日虚海の波が高かった影響で遅れていた才国行きの船に漸く乗る事ができた。小さな島を経由して二泊三日、辿り着いた才国の港から、
明秦は鹿蜀に騎乗して空の旅を再開する。目指すは才国国都――露翠や李偃がいるであろう場所へと。
(漣国にはいなかった…という事は、才国にいる筈なんだけど…)
一日半をかけて才国国都揖寧へと到着した
明秦は、以前に露翠が才国で使用していた舎館を訪ねた。丁度舎館前の掃除をしていた店の者に露翠が来ていないか訪ねたが、ここ数か月は来ていないらしかった。もしかしたら来る途中で追い越してしまったのかもしれないと考え、念のため付近の舎館で十日間ほど待つ事にしたのだが、やはり彼らが現れる事は無かった。
(もしかしたら、新しい取引先を見付けたのかもしれない…だとしたら、此処にはもう来ないだろうな)
諦めて柳国へ向かった方が良いのかもしれない。
四月までは残り半月と数日。四月の初旬には柳国に滞在している予定を立てていた
明秦は、仕方なく諦めを着けて身支度を始めると舎館を出た。全員に別れの挨拶ができないのは仕方ない。
そっと溜息を吐きつつ厩舎から鹿蜀を連れて途へ出た、その刹那。
「あれ…
明秦?」
思いもよらぬ声に目を丸くして声の方を見た。長い黒髪を襟足で一括りにした袍姿の少女。荷を背負い、褞袍を片腕に提げているのは、慶国を出発した時には未だ朝晩が酷く冷え込んでいたためだろう。黒い双眸が瞠目して、二、三度瞬いていた。
「鈴…?どうして此処に」
「采王さまへ御礼を言いに来たの。これから慶へ帰るところよ」
成程、と
明秦は納得する。拓峰郷城の院子で話していた、御礼を言いに行くという話を陽子が早速後押ししてくれたのだろう。ともなれば、祥瓊もまた北方へ向かっている事は想像に難くない。
「一緒に帰る?」
「…ごめん、鈴。延台輔が蓬莱へ送ってくれる事になったんだ」
「そう……じゃあ、慶へはもう寄らないのね…」
「四月に柳へ用事があるから、西回りで雁まで向かうつもり」
西周り、と鈴が呟く。東回りとなると、巧国を迂回しなければならないほど現在は妖魔が跋扈しているのだという。現在辛うじて出ている船は慶国から舜国を経由して奏国へと入る長距離の便だろう。それなりに危険が伴うために便も少ない。
それならば、と。
少しばかり落胆の色を面に滲ませる鈴に首を傾けて。
「東回りよりずっと安全だと思うけど…私の方に来る?」
「いいの?」
「鈴が良ければだけど」
「もちろんよ」
嬉しそうに顔を綻ばせた鈴の返事に
明秦もまた釣られて口許を緩めた。
腹拵えを済ませて揖寧を出ると鹿蜀に騎乗する。鈴が鹿蜀の主の腹に腕を回して掴まってもらった事を確認すると、
明秦は鐙を軽く振り叩く。鹿蜀が緩く弧を描く様にして空へと駆け上がり、最後の旅路を辿り始めた。
暫くの間はぽつぽつと会話を交わしていた鈴と
明秦はしかし、やがて長い沈黙が落ちる。別段気拙い訳では無かったので、
明秦は特に気にする事無く進行方向や下方の風景を見渡していたのだが。
とんとん、と。
肩を叩く感覚があって、
明秦は僅かに顔を傾けた。
「…あのね、
明秦」
「うん?」
「じつは、
明秦が羨ましかったの」
「え?」
明秦は目を丸くする。羨ましがる素振りは一切見られなかった。少なくとも、そういった様子は記憶に無かったので、意外な告白に驚きながらも鈴の言葉の続きに耳を傾けていた。
「言葉を覚える環境にいられて、周りの人達にも恵まれているんだろうなって。ずっと我慢ばかりしていたあの時は、本当に羨ましかった。同じ海客なのに、どうしてこんなに違うのかなって」
それは鈴がまだ、才国の琶山――翠微洞にて洞主に仕えていた頃。滅多に降りない下界で初めて出会った頃の記憶を思い出せば、
明秦の袍を掴んでいた手へほんの僅かに力が籠もる。
同じ国の出身なのに何故、彼女ばかりが待遇良く暮らせているのだろう、と。
「…私は、そんな鈴をきっと、哀れんでいた気がする。言葉だけが留まる理由なら、学ぶ場所がもっとある。なのに無理して琶山に…翠微洞に留まり続けているから、私なら連れ出して、一緒に行けるのにって」
明秦は当時の事を振り返った瞬間、ひどく苦い思いをぶり返して顔を顰めた。あの時、利紹にも李偃にも止められた。だが嘆く鈴を見ていられなかった
明秦は彼女を連れ出すために行動を起こした。
…今思えば。
蓬莱にいたあの頃。何かあれば祖母宅へ預けられた理不尽に対する思いと、彼女の嘆きを重ねて見てしまった事も、行動を起こした動機としてあったかもしれない。……だが。
「こちらで暮らしていくうえで、確かに言葉は覚えた方が良い。だけど、それは必ずしもしなければいけない事ではない筈だ」
え、と鈴が小さく声を上げるのを聞きながら、
明秦は言葉を続ける。
「努力して言葉を覚えるのもいい。けど、仙籍に置いてもらって暮らしていく事も間違いではない。結果が同じでも、方法までもが同じとは限らない。…私は、その方法を押し付け掛けたのだと思ってる。人は、それをお節介と呼ぶのだけど」
尤も、そのお節介のお陰で今回は慶国の内乱に首を突っ込み、微弱ながらも景を手伝う事が出来たのは良かった事だと思いたい、と。
そう
明秦が苦笑を零した時だった。彼女の耳に、予想外の言葉が届いたのは。
「…ありがとう」
「え…」
「考えてくれていた事は、素直に嬉しかったから」
背にいるために鈴の表情は分からない。が、彼女の素直な礼を聞けるとは思いもしなかっただけに、
明秦は照れ臭さから視線を青々とした山へと落とした。…彼女は拓峰の乱を経験して、大分変わったように思う。少なくとも悲観する事も人と比較する事も無くなった。あの少年の死を切欠に、陽子や虎嘯達の支えのお陰で前を向けた事には違いない。良い仲間に巡り合えた事に内心感謝しつつ、再び前方に拡がる白群を眺めていた
明秦はしかし。
でも、と途切れかけた言葉を紡ぐ鈴の言葉に、再度耳を傾ける。
「本当に蓬莱へ帰って良いの?
明秦は胎果なのに」
「胎果でも、生まれて育ったのは蓬莱だから。…それに、残してきた婆ちゃんが心配でね」
「お婆ちゃん?」
うん、と
明秦は深く首肯する。
「私の半分育ての親。…きっと、すごく心配しているだろうから」
約五年という歳月は大きい。もし流されず蓬莱に――日本にいたのであれば、既に高校を卒業して、おそらく大学には行かずに働きに出て一人暮らしをしているに違いない。その間にも頻繁に祖母へ会いに行っていただろう。祖母から昔からの知恵を教えて貰い、他愛ない話で笑い、穏やかな時を過ごす事もできただろう。
―――その時間を取り戻すように、暫くは祖母宅に身を寄せて過ごすのも良いかもしれない。
無事に蓬莱へ帰る事ができた際の身の振り方を考える必要性を考え始めていた
明秦であったが、ふと背から投げかけられた言葉によって、思考の海から意識を引き揚げた。
「そういえば、陽子がとっても残念がっていたわ」
「陽子が?」
「ええ。本当は
明秦も金波宮にって話をしたでしょ?でも、流石に強く勧める事はできないからって」
「それは悪い事をしたかな…」
「じゃあ、今からでも」
「それは無理」
鈴の首肯と共に紡がれた了承の意を耳にしてから、
明秦は僅かの間瞼を閉ざした。
彼女ならばきっと良い王になるだろう。…それを目にする事が叶わないのは、少しばかり残念であるのだけれども。
◇ ◆ ◇
3.
才国より二人旅を始めた
明秦と鈴が一国を四日ほどかけて渡り、柳国と雁国の国境である巌頭の街に足を踏み入れたのは四月初旬の頃だった。
四月ともなれば気候は温かくなるが、北方では朝晩に流れる風は冷たさが残る。特に柳国の朝は窓を開ければ雪崩れ込む冷気に自然と身が引き締まった。窓から見える舎館の院子には、ふっくらと蕾を付けた枝の内、数輪が赤い花を開かせている。春の訪れの前兆を眺めながら窓の傍に榻を引き寄せて腰を下ろすと、
明秦は髪を括り始めた。
…雁国や慶国では既に花が咲き始めているのだろうと、想像を膨らませながら。
「元気でね、
明秦」
「ああ。鈴も無茶はしないで。皆によろしく」
まるでいつか再会するかのように、あっさりとした別れだった。
巌頭の門闕を潜る手前、互いに手を振りながら別れ、人波に消えていく鈴の姿を見送る。しんみりとした別れよりはずっと良いと、完全に姿が見えなくなった事を確認した
明秦は身を翻した。一度舎館へと引き返し、残してきた荷物と鹿蜀を連れて、雁国側の巌頭に背を向ける。
雁国へ足を踏み入れるのは、最後に残してきた約束を果たしてからであると、街の外へと出た
明秦は鹿蜀へ身軽に騎乗する。
目指すは柳国国都芝草―――彼の仙と約束した地へと。
一日半ほどで芝草に到着した
明秦は以前に利用した舎館を訪ねると、幸いにも空いていた残り一室を確保する事ができた。とはいえ、彼といつ再会できるのか分からない。故に滞在期間が未定である事を了承してもらった上での滞在となった。
厩舎に鹿蜀を預けた
明秦は舎館を出る。いくら芝草で待ち合わせるといっても、国都だけに街の土地は広大だった。あの時は何も考えずに承知したものの、もう少し細かい待ち合わせ場所を指定するべきだったかもしれないと、今更ながら若干後悔の念を脳裏に過ぎらせていた。
(…さて。最後に一つだけ)
寄りたい場所がある、と。
明秦の足は寅門の方角へと向かう。荷物の中から取り出したのは、六太から預かった書簡だった。広げた先には
明秦が本来此方で生まれる筈だった国と地名、里家の名前、さらには卵果の親の名までが細かく書き連ねられている。
(芝草の里祠…)
人波を避けるようにして小径を進みながら書簡に一通り目を通した明秦は、ふと足を止めた。
仰ぎ見た先には、文字通り天を貫く、最早柱と見間違う程の山――芝草山。薄い雲が掛かっている所為で目にする事ができるのは途中の山肌のみ。風に何百年と撫でられてなだらかになった白い肌は神々しくも見えるが、約二十年前にこの凌雲山の真横を蝕が通り抜けたなど、俄かには信じ難い話だった。
(蝕はそのまま柳の北東へ抜けたという。被害はそこまで甚大では無かったらしい、が…二十年前、劉王は一体何をしたのか)
神の怒りを買いでもしなければ、安定した統治の国に蝕が起こる筈が無い。或いは国政内の決まり事を破ったか、怠ったか。
どちらにしろ、と。再び歩を進めて程無く、里祠が祀られている里家へと到着した
明秦は扉の前で足を止める。何があったか追究したところで、自身が胎果となった事実は変わらないのだから。
里家の門を叩くと、出てきた円背の老婆が
明秦に微笑みかけた。拱手を以て挨拶を交わし、里木を見せてほしい旨を
明秦が伝えると、扉の内へと案内された。
「帯を結ぶ夫婦だけが中に入れるんです。ごめんなさいね」
「いえ、見せてもらうだけでしたので。ありがとうございます」
里木を囲むようにして設けられた格子の外側へ連れて来られた
明秦は、申し訳なさそうに頭を下げる老婆にゆるりと頭を振った。終わったら呼んでほしい旨を受け取って首肯を見せると、老婆はゆっくりとした足取りで小部屋を後にする。
明秦は出ていった事を確認してから、格子の間から里木をぼんやりと見つめた。太い幹から長く張り出された枝。白く滑らかな木肌が遠目でも分かる。枝の先には色とりどりの帯が結ばれていて、その内の幾つかには拳二つ分ほどの大きさの実りができていた。
(あれが卵果か…)
知識としては入れているものの、実際目にするのは初めてだった。野木とそう変わりはないものの、あの実の中で人が育つという事実が、何年此方で過ごしてきても今一信じられなかった。…そして、二十一年前、この場所で、この里木に実った卵果の中にいた事実も。
どうにも不思議な心地でいると、不意に近付いてくる足音が聞こえた。他にも見学者が来たのだろうと気にせず見詰めていた
明秦は、しかし。
「あの布は夫婦で色を選び、思いを込めて作るそうだよ」
「そうなんですか…素敵ですね」
「君の為に結ばれた布の色は、どんな色だっただろうね」
「……きっと、素敵な色だったんでしょうね」
若い男の声だった。随分と丁寧な説明をしてくれる親切な若者だ。余程優しい両親に育てられたのだろう。
明秦はそんな考えを何気なく巡らせながらも男性の方には一度も目を向ける事無く里木を注視し続けていたのだが。
「そう返せるようになるなんて、成長したのかい?」
「え?」
そこで初めて、
明秦は右隣を振り仰ぐ。其処には長い髪を右肩辺りで緩く結んだ優男がにこにこと彼女に笑みを向けていた。
この街に来てから悩みの種の一つでもあった男の突然の来訪に、
明秦は思わず困惑の色をありありと浮かべながら青年を見返す。
「…利広…何故此処に」
「君が入っていくのを見て、こっそり追って来たんだ」
「気付かなかった…」
まさか着けられているとは思いもせず、唖然とした
明秦の様子を目にした利広は満足そうに笑む。実を言えば彼が芝草へ到着したのは今しがた、丁度寅門から人波に乗じて入ってきたところで、偶然
明秦の姿を見付けただけだった。故に、正確には着いて行ったのは里家の入口からなのだが、それに関しては彼女の面白い表情が見れたので伏せておこうと決めたのだった。
「おかえり。いい旅をしてきたようだね」
「…ああ」
「是非とも今晩酒の肴にしたいな。付き合ってくれるかい?」
「私で良ければ、喜んで」
以前よりも幾らか表情が明るくなった気がした彼女の眼差しは、程なくして再び里木へと戻される。
…枝に結ばれた帯。本来の両親が自身に選んでくれた色は、一体何色だったのだろう。
◆ ◇ ◆
里家の敷地内で騶虞を待たせていた利広は
明秦の予想通り、舎館を探していた。
やはりと思いながらも、振り返るのは数ヶ月前の初めて会った日の事。今回も別段気負う事は無いだろうと相部屋を提案すると、迷いなく返ってきたのは快諾だった。
「それで、慶はどうだった?」
店員からの許可を得て相部屋となった房室の起居、酒杯へ注いだ酒を一口喉へ通した利広が口を開くと、
明秦は開放した窓の向こうの景色から視線を引き戻した。国の見聞という、眼前の男からの依頼。そうだった、と居住まいを正して、
明秦はゆっくりと切り出した。
慶国で見たもの、得たもの、失ったもの――その全てを。
「慶は良い国になると思う」
「ほう?」
「二月の内乱は王自ら出てきて鎮めてくれた。今迄はそういう事が無かったと聞いたから」
「なるほど。それは確かに…慶の女王は短命続きだからね」
そう返して、利広はもう一口酒を含む。自国から大陸続きで北上する途中で耳にした、懐達という言葉。達王が築き上げた三百年という治世、その時代が懐かしい。そんな言葉を巷で耳にするほど、三代続けて短い治世で終わりを告げた女王の時代は民にとって過酷なものだった。
だからこそ、
明秦の話に耳を傾け、彼女が見てきた王へ抱く期待の通りになる事を密かに願って。
「…景女王は、どんな御人なんだい?」
「とても真面目で、どんな時でもしっかり人と向き合える人だよ。悩みも多いようだけど、悩みながらも答えを出せる人。きっと素晴らしい国を作っていけると、私は信じてる」
「…そうか。
明秦がそう言い切るのなら、私も期待して見守ろうかな」
解放した窓から流れ込む冷ややかな風。けれど春先に咲く花の匂いが鼻を掠めて、二者は僅かに目を細めた。
春の始まりはすぐそこに。
慶にも早く春が届く様にと願いを篭め、酒杯をひとつ煽った。
「そういえば、先程は何故里木を見に来ていたんだい?」
「嗚呼…約二十一年前に、私があの里木に実っていたと聞いたので、一度で良いから見てみたかったんです」
「嗚呼、成程。…あの蝕の時に流された卵果が、君だったとは」
「…覚えていたんですか」
「不可解だったからね」
不可解、と復唱した
明秦の眉間に皺が寄る。頷いた利広は片手に持っていた杯を卓上へ静かに置くと、膝の上でそっと手を組み合わせた。
「あの時、私は丁度芝草にいたんだ。あの時も少々柳が怪しいという情報を風の噂で耳にしたものだから、見聞目的で来た矢先に蝕と遭遇した」
「被害は、かなり出たんですか」
「いや、首都を通過したにしては其れ程甚大な被害ではなかった。…だが、王が政を滞りなく行っていれば、蝕が首都を通るなんて事はまず有り得ない。それで益々、柳が傾いているという情報が風の噂だけで済まない事を実感したよ」
もしかすればこのまま柳は傾き続け、何れ登霞するのではないか、と。
蝕の発生と通過を耳にした東と西の隣国は最悪の事態を想定してそれなりの準備を整え、身構えていた。…が、それは杞憂に終わってしまった。
蝕による町の被害を復旧させた芝草の街には再度暗い影が差す事も無く、海岸沿いに出ていた妖魔もいつの間にか姿を消した。――いつの間にか持ち直したのである。
「だが結局、何が原因で傾いていたのか、どうやって持ち直したのかも詳しくは分からない。隣国にさえその情報は流れなかったほどだ」
「つまり…王宮内で何かが起き、内々で解決したと」
「それも、国が急速に傾くような大事を」
余程の事態を起こさない限り国が急速に傾くという事は無い。少なくとも
明秦の知識の中から掘り出せた事例は覿面の罪で有名な遵帝の故事ぐらいなものだった。
困窮した隣国へ助け舟を出す為に派遣した兵が越境した瞬間王が天からの罰を受け崩御した、と。…尤も、今回はそこまで急なものではないのだが。
明秦は俯かせていた面を僅かに上げて利広を見る。彼もまた思案を巡らせるように顎へ指を添え視線を逸らしていたが、可能性として挙げられる例は無いようだった。
「今回も持ち直してほしいとは思うのだけどね…何せ、以前の見聞とは違うものだから」
「違う、とは」
「民の反応だよ。――明る過ぎる」
明秦は僅かに肩を揺らした。…其れは確かに、先刻
明秦自身が感じ取ったものである。背筋が粟立つ感覚すら得た町の印象。
「…崩壊を肌で感じ取りながら、見て見ぬふりをしようと明るく振舞っている」
「うん、正にそんな感じだ。…訪ねたばかりの君にも感じ取れてしまうほどの傾きを、果たして持ち直せるかどうか」
開放された窓の方へと耳を傾ければ、聞こえるのは建物の間を流れる人々の声。起居へ流れ込むのは、春の訪れを感じさせる仄かに温く、柔らかな風。
一見春に浮かれた人々の喧噪に聞こえるそれはしかし、今や不穏な足音のように思えてならなかった。
◇ ◆ ◇
4.
「旅は楽しかったかい?」
翌日早朝、鹿蜀を連れて舎館の門を潜る手前、背後から問われた
明秦は振り返る。もう少しだけ滞在するという利広の見送りを受けたが、彼の問いからふと言い忘れている件があった事を思い出した。…これが最後の旅だったのだ、と。
だが、まるで察しているかのような彼の問いに、
明秦は少しばかり口端を持ち上げた。
「ああ……とても」
桓魋や陽子達と駆け抜けた日々。それは楽しいよりも辛い出来事の方が多い旅ではあったのだけれども。
深い首肯を見せた
明秦に、利広はそうか、と呟いた。
「私が言わずとも、君は何処からか自分の出自を知ったようだし、私から言う事は何も無いよ」
そう言い切った筈の青年の眼差しが、僅かに逸れる。軽く曲げた人差し指を顎へ添え、ややあって思い出したように双眸を眼前の者へと戻せば微かに笑みを浮かべた。
「…いや、一つだけあったかな」
小さく呟いた利広の片手がひらりと挙がる。
「いってらっしゃい。気を付けて」
「え?ああ…、いってきます。…利広」
「うん?」
「…お元気で…っていう言葉は、仙には合わないかな」
「相手の旅路の無事を願う言葉だろう?放浪癖のある私にはぴったりさ」
彼の砕けた物言いに、
明秦は思わず破顔する。仙は不老ではあるが不死ではない。確かに良い旅を願う言葉にもなるだろう。…自身が生涯を終える頃も、彼はきっと変わらず十二の国を旅しているだろうから。
長い長い旅路の無事を願って、軽く手を振る。別れを告げた
明秦は最後にもう一度だけ利広の穏やかな顔を振り返り見て、向かうべき方角へと視界を戻した。
さよなら、と。
通行人の耳にも届かない、小さな声で別れを告げながら。
◆ ◇ ◆
雁州国首都である関弓へ足を踏み入れたのは、
明秦が柳国芝草を発ってから六日後の事だった。
別段急ぐ用件も無いためゆっくりと旅路を進む。所々に春の訪れを見、国が北部に位置する為に未だ朝と夕の冷え込みは続くが、日中は外套が不要なほどに温かい。
関弓へ足を踏み入れたのは陽も高々と昇りきった頃だったので、外套を鹿蜀の鞍に括り付け、大国の喧噪を耳にしながら舎館を探して町を歩く。無事に房室を確保してから府第へと赴くと、台輔への謁見を申し入れる為の書簡を渡して、一旦取った舎館へ戻り待つこと三日。
相変わらず突然である小柄な麒麟の訪問に慣れてしまった
明秦は、然して驚く事も無く房室へと招き入れた。
「わるいが、あと五日待ってくれ」
起居の榻へ腰を掛けた六太が早々に切り出した本題に、
明秦は首を傾げる。
「五日?」
「月が満ちる迄あと五日なんだ」
「月の満ち欠けと、何か関係が?」
「ああ…流石にそこまでは知らないよな」
わるい、と零した延麒が次いで切り出したのは、鳴蝕について――詰まるところ、蓬莱に戻る為の術についてだった。
鳴蝕。
天災の蝕とは異なり、麒麟は自ら蝕を起こし蓬莱との往来を可能にする術を持っている。それを鳴蝕と呼ぶが、麒麟の力のみで起こすものではなく、月の呪力を借りて蝕を起こすのだという。
「だから起こせるのは月に一度、満月の時だけだな」
「安全を考慮したら、ということ?」
「まぁ、そんなところ。おれが蓬莱へ行く頻度が月に一度なのはそれが理由なんだ」
次の満月まで、あと五日。
明秦が荷物の処分や整理を行うには充分な時間だった。
そこでふと、
明秦は重要な件に気付いて窓へと視線を滑らせる。荷物の整理は物ばかりではない。これまで旅を共に歩んできてくれた、謂わば相棒のような存在。その行方を決めておかなければならない、と。
「そういえば……折角鹿蜀を賜ったのに申し訳ないですが、お返ししても良いでしょうか」
「ああ、そりゃそうだよな。尚隆に伝えとく」
「ありがとうございます」
六太もまた外を一瞥してから軽い首肯を見せる。流石に騎獣を蓬莱へ連れて行く事は不可能である。…否、正確には可能なのだが、連れて行った先で天の理から外れた騎獣はただの獣でしかない。見た事の無い生物の存在を世間が放っておく筈が無いし、何より蓬莱には空を翔ける生物が鳥や虫以外に存在しない。…何より、最悪妖魔として転んだ場合が一番恐ろしい。正直試したくもない、と六太は表情を曇らせた。
――天の理から外れた獣。
それはおそらく、指令も変わらない。
「…なぁ、
明秦」
「はい」
「もし、なんだが…あっちで泰麒を見付けたら、どうにか報せる方法が無いかと思ってさ」
明秦は軽く瞠目する。…瞠目して、嘗ての故郷の様を霞みかけている記憶の中から引っ張り出した。
明秦の住んでいた場所が海沿いなのは幸いだが、正直海沿いの街などいくらでもある。そして困った事に、鳴蝕では決まった場所へ渡る事はできない。どうしたものかと悩んだ末に、ふと先日の府第で見た光景を思い出した。
流れ着いた海客が雁国で暮らす事ができるよう、身元を保証する為の旌券を発行する場所がある。聞こえてきた懐かしい故郷の言語は、海客へ住所を書くよう促す役人の言葉だった事には驚いたのだが。
「……私が住んでいた町の住所を教えて、台輔が蓬莱で通行人に聞いて向かってもらう…ぐらいしか案が浮かびませんね」
「時間は掛かるけど、やっぱそれぐらいしか無いよなぁ」
六太は少しばかり唸った後、分かった、と小さく溜息を吐いた。手間だが今はそれしか方法が思いつかないのだから致し方ないだろう。
後程紙と筆を舎館へ届ける旨を受けて、
明秦は首肯する。その反応を認めてから榻から腰を上げようとした六太へ、呼び止める声がひとつ。
「延台輔」
改まって呼ぶ
明秦の静かな声。視線を合わせた六太に、彼女は再び口を開いて。
「貴方にお会いできて、私は本当に幸せ者でした」
彼女はそう、小さく微笑んだ。
「様々な国を旅して渡り、色々なものを見聞させて頂きました。その結果に感じたのは――私は、とても幸運だった」
卓上で組み合わせた手に力が籠もる。決して短いとは言えない年月を過ごした中で目にしてきたものが脳裏に浮かんでは消えていく。
「街の道端に坐る荒民の中には海客もいた筈です。けれど私は住む場所を与えられ、こちらの知識や剣術を教わる機会を得て、国を旅する事ができた。そしてただの海客では有り得ない、王と台輔との面識を得て、帰る事ができる。…私はきっと、一生分の運を使い切ったんだと思います」
勿論苦労が無かった訳では無い。だがそれ以上に幸運に幸運の重なった旅路だった事は間違いなかった。
うん、と六太は小さく頷く。他国の王や麒麟との遭遇や謁見――その時点で強運の持ち主である事は間違いない。だからこそ自身も、自身の主も彼女に出来る限りの協力を惜しまなかった。そこに純粋な気持ちが無い訳では無かったが、彼女ならば泰麒を見付けられるのではないか…と。その可能性への期待の方が大きい。
六太はわるい、と零しかけた言葉を飲み込んで、少しばかりの後ろめたさを抱きながらも、眼前で深々と頭を下げた彼女を見詰めていた。
「本当に、お世話になりました」
◇ ◆ ◇
桜が散っていた。
街灯が照らす小さな範囲を舞って抜ける花弁が、まるで雪のようにちらつく。照らされた地面を埋め尽くす淡い色が、海風に攫われて音も無く舞う。湿り気のある温い風が、気持ち悪い。
(……嗚呼…、帰って来たのか)
我に返った彼女は周囲を一望する。暗く黒い夜の海辺に一人、ぼんやりと佇んでいる。一緒に此処まで来た金色の少年は、いつの間にか何処かへ行ってしまった。荷物は全て置いてきてしまった。辛うじて向こうの服装のままだった事が、数年の旅路を幻想ではないと証明してくれる。
砂浜を抜けて、道路へと上がり、ふと後方を振り返った。
暗い海にぽっかりと浮かぶ満月が波飛沫を白く浮かび上がらせる。虚海のように渦巻く事の無い、ただ寄せては引くを繰り返すだけの波。
そこに、何故か虚しさを覚えて。
「君、そこで何をしているんだ」
急に真横から飛び込んできた眩さに思わず双眸を細めて身構える。声を掛けてきた男性を細目で捉え、背格好を目にした瞬間、何年も目にした事など無かった筈の情報が彼女を現実へ引き戻した。
「変な格好だな…君、何処から来た。名前は?」
質問を続けて投げかけられて、彼女ははくはくと口を動かした。声は出なかった。
――何処から。海から?
――字?いや、それはあちらの名で。
予想外の誰何に困惑する彼女を怪訝に思ったのだろう。男は一先ず少女を近くのベンチに座らせると、少し離れた場所で黒い機械を口に当てて誰かと話し始めた。
――無線。
少し時間を置いたことで落ち着いてきたのだろう。彼女はちらちらと存在を確認する男の様子を一瞥し、ベンチから見える海を漠然と見る。…海を遥か上空から直に見下ろす事は、もう無いのかもしれない。
おそらくは、二度と。
少しばかり離れた場所から再び足音がする。距離を置いていた男性が近付いてきたのだろう。
顔を其方へ向けた彼女は今度こそ、平然とした面持ちで警官を見上げた。
「君、名前は言えるか?」
「……私は、」
風の陸 薄明の月 - 完