弐章
1.
りつは困窮していた。
突然の迷子から遭難へ。言葉の疎通ができない村人。見たことの無い獣の襲撃。そして、空から降りてきた獣と容姿に違和感のある二人。そのどれもが、彼女自身の持つ常識に当て填まらない。
足の応急手当を施してくれる目の前の女性とその手元を交互に見比べながら、次から次へと起きた不可解な現象を考える。
この二人は今し方、自分を見てカイキャクと言っていた。それはどんな字で、どのような意味なのか。そして何故、二人が自分を見て奇妙な驚きを見せたのか―――。
考えても疑問が頭の中をぐるぐると巡るばかりで、手際良く進む足の止血をぼんやりと見下ろし続ける。すると、傍で砂利を踏み込む足音を耳にして視線をゆっくりと持ち上げた。男が獣の亡骸に近付き、体躯を貫通して地に突き刺さる槍を引き抜くところだった。
男の右手に得物が収まる。と、亡骸と槍に落ちていた彼の視線がふいに持ち上がって、若干怯えたふうの
りつと目が合った。
未だ警戒しているような様子に、二、三度瞬く。
「私が妖魔に見えるか」
りつが慌てて頭を横に振ると、男はそうか、と微かに笑みを浮かべた。槍の穂先にべっとりと着いた血糊を一振りで払い、軽々と肩に担いだところで、
りつの足から女性の手が離れゆく。手当が終わったのだ。
布袋を片手に立ち上がった女性は男のほうを真っ直ぐに見、次いで地に横たわる獣の亡骸を見下ろした。
体躯の下から滲み出る紅が砂利を染めている。それを不快げに見詰めていた男はしかし、女性の声に反応して視線を凪いだ。
「ひとまずこの場を離れましょう」
「ああ。長居は無用だ」
答えた男は空を振り仰ぐと、何かを警戒するように槍を握り直す。そんな姿を目にした
りつもまた肩に力が入ったが、ふいに女性に腕を引かれて立ち上がる。説明を受ける間もなく静止する馬の元へ連れられ、女性に次いで鞍を跨がると、馬は助走を付けて上空へ舞い上がるのだった。
高所恐怖症ではないが、下を見るのが怖い。女性の背にしがみ付きながら並び飛ぶ妖鳥を見詰める
りつは、抱く不安と恐怖を混濁させる。
宙を疾駆する馬を見、手綱を握る女性を見上げると、靡く茶髪が視界一杯に映り込む。空に上がって随分と経つが、会話は一言も無かった。
…このままでは何の情報も無いままだ。
「あの…これから何処へ向かうんですか」
「州城へ」
「…シュウジョウ…」
恐る恐る尋ねたものの、復唱した単語に当て填められる漢字が見付からずに疑問を増やすばかりの
りつを、女性は横目で確認したのだろう。すぐに背後へ向けた言葉が風に乗じて聞こえてきた。
「理解できないのは当然だが、詳細は後ほど。ここで動揺されては落下し兼ねないので」
「分かりました……」
途端、ぶり返した緊張で体が強張る。落馬すれば助からないことは空の高さを見れば明らかだった。
少しでも動けば落馬してしまうのではないか。そんな考えが脳裏を過ぎれば、女性の背中を掴む手に力が篭もる。同時にもう一つ疑問が浮かんで、再び小首を傾げた。
(つまり…動揺するくらいの何かがある、ってこと…?)
不安と猜疑が交互に押し寄せてくる。できるなら今すぐにでも教えてほしいところだが、彼女の言う通り狼狽して暴れるかもしれない。そうなれば帰るどころの話ではないし、保護――おそらく――してくれた二人には多大な迷惑が掛かる。それだけは絶対に避けたかった。
逸る気持ちに自制を掛けながらひたすら到着を待つ。すると暫くして、女性の肩越しに蒼以外の何かか映り込んだ。
りつは僅かに背を伸ばす。上空にあるとしたらきっと同類だ。この高さで山などあるはずが無い。きっと、向こうから誰かが飛来してきたのだ。
そんな
りつの予想を常識に嵌まらない世界が打ち砕くまで、幾許の間も無かった。
「え…」
薄く広がる雲が唯一の異色を隔てていた事に気が付いたのは、間も無くしてからのこと。
近付く毎に鮮明になりつつある景色を確認した
りつの双眼が次第に細くなる。
「前に何か…ある……?」
視界の中央を占める縦状の異色。それをよくよく凝視していた双眸が、何かに気が付くや否や大きく見開かれた。
…壁ではない。獣の群集でもない。地から天を結ぶように聳え立つあれは、強いて言えば、山の類。だが未だ距離が開いているにもかかわらず、垂直に屹立したそれの胴囲は彼女の常識を遥かに超えていた。
あれは何だ、と疑問を発しかけたその手前で、察したような声が上がる。
「あれが州城です」
そう、平然と答える女性の答えに、言葉を失った
りつは今度こそ開いた口が塞がらなかった。
空色を隔てるように聳え立つその山は、最早絶壁としか言い様が無かった。
荒ぶ風に削られたのだろう、薄茶の山肌は滑らかに見える。遠巻きに見れば一本の柱だったが、近付けば山の質は岩に近いものだと分かる。
唖然とする
りつを余所に、二騎は山へ近付くと共に上昇する。中腹辺りへ差し掛かったところで失速し、若干張り出た岩盤を越えた途端、突如刳り貫いたような洞穴が現れた。
平面な床に対し、天井の高さは学校の体育館ほど。その巨大な空間内でゆっくりと降り立つと、洞の奥から駆け付けてくる人影がある。
数は二人。どちらも
りつを助けた男と同様に鎧のような武具を身に纏い、男と女性、それから見覚えのない少女を目にするなり顔を顰めた。
「今戻った。騎獣を頼む」
「は。―――しかし」
「州候の指示だ。…民は既に海客の噂を耳に入れている。下から入れば、一騒動になり兼ねんからな」
困惑する兵士に手綱を渡した男はすぐに騎獣から降り立った部下と
りつの元へ歩み寄る。鞍から下ろした荷を肩に担いだ女性と目が合えば、すぐに指示を下す。
「紫秦。着替えの手配と客堂への案内を頼む」
「分かりました」
女性の首肯を確認すると、男は足早に洞の奥へと進んでいく。陽光は最奥まで届かないため、遠巻きからでは白い壁のようなものをぼんやりと捉える事しかできない。
あれは一体何なのだろう。そう疑問に思い凝視する
りつの背を、女性が添えた掌でそっと押した。
「こちらへ」
「…はい」
荷を背に歩き出した女性と共に、
りつもまた奥へ向かい足を踏み出す。胸を押し潰しそうな不安に震える手を押さえながら。
2.
りつは紫秦と呼ばれた女性と共に洞の最奥へ進む。洞に合わせて嵌め込まれた、身の丈の数倍もある大扉を茫然と見上げながら、脇に設けられた閨門(くぐりど)を抜ける。その先の空間を目の当たりにした
りつの目が大扉同様にうんと高い天井を仰ぎ見、そして女性の背を含む風景を見渡した。
――洞窟の中の宮殿。
そんな印象を受けた
りつの口から、思わず感嘆の溜息が零れる。
だが、圧倒されたのも束の間。時折すれ違う者達の好奇心に満ちた眼差しが
りつに突き刺さる。次第に悪くなる居心地から表情は曇り、やがて案内された一室に足を踏み入れ、扉が閉ざされるのを確認してから、ようやく肩の力を抜く事ができた。
「あの……紫秦、さん」
「はい」
「私が此処に来るのは拙かったんじゃ…」
りつが恐る恐ると疑問を零すと、紫秦の冷静な表情がほんの少しだけ柔らかくなる。いえ、と僅かに頭を横に振って、部屋の机上に用意されたものを手に取った。
「本来は下で話を伺う予定でしたが、事情あって此方に場所を移す事になりました。……緊張しますか?」
「ええと……はい」
「そうでしょうね。…しかし、緊張と彼らの視線ばかりはどうにもならないので、もう少し我慢して下さい」
畳み置かれていた布をゆっくりと広げる紫秦の口元が苦笑に歪む。彼女もまた周囲の視線に気が付いていた事を知れば、
りつの気も少しばかり楽になった。
…とはいえ、まだ居場所すら分かっていない
りつの胸中は不安で一杯だった。命が危機に曝されるよりはずっと良かったが、それでも常識が通用しない場所に身を置く事はひどく落ち着かない。
それでも紫秦の指示に従って、湯の張られた盥で髪や体を洗い、着方の分からない衣服を紫秦に教わりながら袖を通し、再び部屋の外へ出る。着替えても突き刺さる視線を我慢しながら歩き、暫く階段を下ったところでようやく部屋に通された。
「失礼致します。将軍、
りつ殿をお連れしました」
「入れ」
扉越しの返答を聞くと、扉を開いた紫秦が不安そうな少女の背をやんわりと押す。緊張から表情を強張らせた
りつは深呼吸をひとつ、促されるままに部屋へ足を踏み入れると、そこには先程大扉の前で別れた男の姿があった。
目が合えば、真剣な顔が力を抜いたように和らぐ。
「気構える必要はない。腰掛けなさい」
「はい。…失礼します」
一礼と共に部屋へ入った
りつは何気なく部屋を一望する。壁沿いに飾られた壷や置物、机や椅子……そのどれもが高価なものに見えて、思わず身を縮こめたくなった。こんな豪奢な造りの部屋に自分が居るのはあまりにも場違いだ…と。
声は自然と小さくなり、さらに勧められた椅子に恐る恐ると腰を掛ける。
そんな少女の恐縮ぶりに苦笑を洩らした男だが、部屋の隅から聞こえた部下の咳払いによって途端に表情を引き締めた。
改めて向き直り、ゆっくりと開口する。
「私はこの唐州で将軍職を与る康由という者だ。改めて、君の名は」
「
生駒りつ……高校二年生です」
「高校…学生か?」
「はい」
康由と名乗る男の質問に、
りつは緊張の面持ちで答える。彼が高校という単語に閊えた気がしたが、一先ず質問はせず耳を傾けることにした。
「まず言っておこう。……ここは倭…日本ではない」
「……はい」
りつは真剣な表情で頷く。此処へ来るまでに異様なものばかりを見てきたのだ、異国と言われても驚きは少なかった。
だが…康由が続けた言葉を聞いた瞬間、ほんの僅かに残っていた余裕が失せる。
「此処は漣極国。十二ある国の、南西に位置する離島だ」
「レン…キョクコク?十二の国…って…」
「……最初から説明しよう」
よく分からないと呟いた
りつの視界に、歩み寄ってきた紫秦の腕が映り込む。丸められた紙を広げると、丸い文鎮のような物で四方を押さえる。紙に描かれたものは、一見幾何学模様に見える地図だった。
――こんな地形など見た事が無い。国名も知らない。土地に書かれた字でさえ、果たして何と読むのか。
見下ろした地図の異様さに顔が強張る。握り込んだ手の内が汗ばんで、頭から血の気が引く感覚に嫌な予感を覚えた。
「この世界には十三の国がある。その内一国は人外の地、これを黄海という。黄海を取り巻く金剛山の四方には海があり、その周囲に八国が存在する。……ここまでは理解できたか?」
「……何とか」
場所は説明と共に地図を示す康由の指を頼りに、何とか冷静を保ちながら知識を飲み込んで、頷く。
真剣な眼差しで地図を見下ろす
りつの首肯を確認した康由はさらに説明を続けた。
「君がいるのは八国から離れた離島の一つだ。この南西の国を漣国という。こういった島国は極国と言われている」
「だから漣極国、なんですね……。じゃあこの国以外にも極国が三つ…」
「物分りが良くて助かる」
一旦地図から視線を外した康由は安堵から微かに笑む。理解力のある娘なのが幸いだ、と。
だが、当人は康由の指が離れても地図を見据えたまま、面を上げようとはしなかった。
―――四極国。その内の一国に
りつは迷い込んでしまった、と……そこまでは理解できた。しかしどれだけ地図を見渡しても、見付からないものがある。男は確かに名を口にした。それならきっとある筈だ。
「あの……」
「ん?」
「それで…日本は何処に」
この地図に、故郷は載っていない。ならば何処に位置しているのだろうか。
りつが胸中の疑問を口にした瞬間、康由の表情が僅かに曇る。少女と距離を開けて待機する部下の顔が強張ったのを視界の端で捉えながらも、彼は説明を区切ろうとしなかった。
「此処から東へ向かうと、倭、と呼ばれる国があるという。そこが君の住んでいた国だとされている」
「じゃあ、東に向かえば―――」
「いや、帰る事はできない」
「………え…?」
一瞬、思考が理解を拒否した。
ようやく顔を上げた
りつは呆然と康由を見詰め、次いで彼の言葉を疑ったが、男はもう一度断言を叩き付ける。
「倭を目指して発った者はいる。だが、その誰もが生きて帰ってはこなかった」
「そんな……」
りつは今度こそ愕然とした。
嘗て幼い頃に神隠しらしきものに遭い、戻ってきた。その曖昧な記憶しか残っていない体験の所為か、帰路は当然あるのものだと思い込んでいた。
根拠の無い確信を打ち砕かれて、思考が上手く回らない。動揺で目が泳ぐ。
衝撃を受けた少女の狼狽を見詰めていた康由は、次の説明を進めるべきかどうか少しの間逡巡したが、数拍の間を置いて説明を再開する。
「すまないが、君の所持品を検めさせてもらった。その結果、君を海客と認めよう」
「…カイキャク」
「虚海とは四大四州四極の国を取り巻く海の事だ。その海から来た倭国の民を海客という。……だが、」
「私は、海から来ていません」
「だろう。蝕が無かったからな」
「ショク?」
動揺の中でまたもや不可解な単語を聞き取った
りつは思わず復唱する。尤も、男の発音とは少しばかり違ったが。
「蝕とは、天変地異の一つでな。嵐が空気の乱れなら、蝕は気の乱れだ。蝕が起こると海客が迷い込む。大半の海客が漂着する先は虚海の岸辺だ」
「え……」
「だから最初は君を疑っていた」
すまん、と。謝罪を告げた康由は瞼を伏せる。実際、彼も
りつと会うまでは海客の情報に疑いを掛けていた。
海客の情報は村を訪ねた役人が仕入れたもので、言語の疎通が叶わなかったことや衣の違いを複数の村人が証言し、それが偶然州候の耳に入った事から捜索と保護の指示が下されたのである。
康由の謝罪に困惑を抱きながらも頭を横へ振った
りつは口を引き結ぶ。再び俯き、地図に目を落とし、故郷が描かれていない事をもう一度だけ確認してから、のろのろと視線を上げた。今にも泣き出しそうなほどに、双眸を歪めながら。
「……帰る方法は、無いんですか」
「無い。少なくとも、無事に帰ったという事例を聞いた事がない」
「………」
可能性は皆無――。そんな男の断言が、
りつの胸に蟠る不安を絶望へ変化させる。呆然として背凭れに体を預けた少女は次第に俯き、やがてくしゃりと歪めた顔を両手で覆う。無音の嘆きだった。
吐きかけた溜息を飲み込んで、康由は徐に立ち上がる。…口内が苦い。それでも伝えなければならない事実を言い残しては彼女の為にならないと、苦味を飲んでもう一度口を開く。
「ちなみに、この漣(くに)に海客が流れ着くのはごく稀だ。君は二十年ぶりの海客になる」
「二十、年……」
その長い年月に愕然とした
りつは両手で塞いだ面を上げかけたが、視線は男の元まで上げられなかった。
手前、机の上で文鎮の外された地図が一瞬で丸くなる。彼女の目前で元の形に戻った物を康由が手にする気配はなく、代わりに二、三歩ほど席から遠退く足音がした。
「この地図は君にあげよう。今日は部屋に戻って休みなさい。……紫秦」
「はい」
康由は合図のように字を呼ぶ。その意味を理解しているのだろう、頷いた紫秦がそれ以上の言葉を返す事も無く、部屋から退出する男の背を見送った。
りつもまた閉ざされた扉を見詰めて、深い絶望から深い嘆息を吐く。此処へ来るまでに抱いてきた希望が全て崩落した。
……故郷に帰れない。田舎に帰れない。家族にも、友達にも、祖母にも会えない。二度目の神隠しで、本当に帰れなくなってしまった、その深い絶望。
椅子の上で膝を抱いて、目を瞑る。心が落ち着くまで、その場を動くことができなかった。
3.
(……十二国。漣極国。蝕。…海客)
寝室の硬い牀榻(しんだい)に寝そべりながら、知り得た少数の知識を頭の中で並べてみる。枕元には康由から貰った地図が置かれていたが、絶望が心底に根付いている今は眺める気になれなかった。
康由による説明の後、時間を掛けて気持ちを落ち着かせた
りつは山の麓に建つ宿へ案内され、此方に来てから初めて衣食の確保された場所で休む事ができた。
しかし短時間で知識を詰め込まれた所為か、此所が全く別の世界だという実感が今一沸かない。加えて見慣れない部屋では落ち着けないまま、気を休める事ができないでいる。
それでも、瞼を伏せつつ此処へ来るまでに見てきたものを記憶から掘り起こせば、じわじわと胸に押し寄せる何かがあった。
自分は今、故郷から遠く離れた異郷に迷い込んでいる。
じくじくと痛む足を優しく摩りながら、現実を受け止めようと少しずつ現状を整理し始めた時だった。
とある噂を、ふと思い出したのは。
(そういえば、神隠しに遭ったって子が近所にいたっけ……随分変な噂が立ってたけど)
自分の噂にもまた、あんな変な尾鰭がつくのだろうか。
仰向けになり、天井をぼんやりと眺めながら、そんな些細な疑問が頭に浮かんでは消えていく。
――両親はまだ喧嘩しているのだろうか。
――祖母は責任を感じてしまわないか。
――村では噂になっているに違いない。
――探してくれている人達に申し訳ない。
膨らんだ想像はどれも故郷の事ばかり。それほど、当然のように送っていた日々が懐かしくなる。
帰りたい。けれど、帰れない。その現実はまだ、少しも受け入れられないでいる。
込み上げる虚しさを散らすように、思い切り寝返りを打って蹲る。冴えていた眼は柔らかな眠気に誘われて、瞼が次第に重くなっていく。ここ数日間、野外で神経を尖らせながら仮眠を取っていたせいだろう。重く感じていた体から急速に力が抜けていく。
(…帰りたい……)
こうして離れると、荒れている家庭でも恋しくなる。仲の悪かった両親に会いたくなる。
…帰りたい。自分の居場所に。
(…自分の居場所って、どっち…なん、だ…ろ……)
薄れ行く意識の中で、懐古と不安が入り交じる。瞼を閉ざし、そのまま落ちる手前、眦から涙が伝い落ちた気がした。
ふと何処からか声がして、
りつは瞼を押し上げる。…いや、開眼の感覚に現実味は無い。視界一面に広がっていた闇が開けたから目を開けたのだと感じ取っただけだ。
この光景は幻に過ぎない。
視界が開けて、最初に見たのは明かりの無い廊下だった。日が落ちると人の通らない場所は基本的に電気を点けない。点けなくともリビングまでは迷わず辿り着ける事を、住人である
りつは知っている。
(……また、この夢か)
りつが一年前から見る夢はその実、過去の記憶だった。もう何度も繰り返される光景に辟易していて、それでも足は迷いなく同じ道を辿る。廊下の突き当たり、扉の間から漏れる光を目指してゆっくりと進んで、ドアノブに手を掛けるその手前――
りつの手がぴたりと止まる。
ドア越しに聞こえてくる、苛立ちの声。それは
りつの母親の声だった。
(もういい加減にして。家事は全て私に押し付けて、自分は仕事から帰ってきたら動かないなんて。私も働きに出てるのよ?)
(家事はお前の仕事だろ。男がやる事じゃない)
(それは昔の話でしょう)
昔気質の強い父親と、家庭の為に文句も言わず働き続けてきた母親。その間が拗れてきたのは三年前の事だと、
りつは扉越しの話に耳を傾けながら記憶を振り返る。
(大体あなたの給料が少ないから私が働きに出てるんじゃないの。
りつの高校の諸経費、納入が遅れてるのも知らないでしょ)
(あいつのせいで家庭が圧迫してるなら辞めさせろ。働きに出せば少しは楽になるんじゃないか?)
(何、ですって……!?)
テーブルを叩く音と母親の荒げた声が重なる。冷静な父親の言葉は、何度聞いても
りつの胸に突き刺さる。
家計が苦しい事は知っていたが、母親は気にせず学校へ行きなさい、と言ってくれた。だからこそ休まずに学校へ行き、勉学に励む事が今自分にできる事だと思っていた。……父親の意見が正反対だという事を知るまでは。
(家庭の為に子供を犠牲にするなんて、できるわけないじゃない!)
(だったら文句を言うな)
(あなたへの文句と
りつの件は関係無いわ!)
口論は次第に激しくなる。ドア越しの喧騒を聞きながらふらふらと後退る
りつはそのまま何かに躓き倒れ―――
「っ………」
片足が跳ねるような感覚で目が覚めた。
気が付けば、天蓋。昨晩と変わらない景色を見上げると、安堵とも落胆とも取れない溜息が漏れる。
「……寝覚め、悪い…」
ぼそりと呟いた
りつは両の目を掌で覆い、それからすぐに眠気と後味の悪さを引き摺らないよう起き上がる。部屋の中は窓から射し込んだ朝陽で明るくなっていて、寝坊という言葉が
りつの脳裏を過ぎった。
被衫姿のまま牀榻から下りると裸足で窓辺に歩み寄る。昨晩には闇夜に沈んで見られなかった、低い建物が整然と並ぶ町並み。遠景は霧で白掛かっているので鮮明には捉えられないが、大きな町である事は十分に分かった。
(…そういえば、お昼頃に迎えに来るって言ってたっけ)
昨晩、紫秦が退室する手前にそう言っていたのを思い出した
りつは部屋をきょろきょろと見回す。今の時刻を確認しようにも、時計らしき物はどこにも無いようだった。
時計探しを諦めて、一先ず牀榻の足元に畳んでおいた袍に着替える。
覚えたての着方で、不恰好になっていないだろうか。そんな不安が胸中に生まれると、鏡を探して部屋を一望する。と、部屋の片隅に設けられた小さな鏡を視界の端に捉えて其方へ足を向けた。
小棚の上に置かれた鏡を手に取って覗き込む。そんな日常の動作に、首を捻る。
「……?」
手に取ったものは鏡に間違いない。だというのに、何故映り込んだものが自分の顔ではないのだろう……?
目を擦って、もう一度鏡を覗き込む。間違いなく他人の顔だ。
恐る恐る自分の顔に触れると、鏡に映る他人が全く同じ動作をする。それが意味する事実を理解した瞬間、鏡を掴む手が震えだした。
―――これは、間違いなく自分だ。
一見黒い長髪は、朝陽が当たると深緑色に見える。瞳に至っては碧がかった鈍色。全く知らない自分の姿が、そこにあった。
―――何なんだ、これは。
鏡を片手に愕然と立ち尽くす。頬を抓ってみたが、頬にぴりぴりと痛みを感じるばかりで、決して夢の続きではない事実に暫くの間言葉を失っていた。
その、最中。
「
りつ殿、起きていますか」
不意に扉越しに掛かった声にびくりと肩を竦めた
りつは扉の方を振り返る。
一声の後、軽く叩く音がしてから、扉が開く。そこには昨晩の通告と違わず訪れた紫秦が、鏡を手に佇む
りつと目を合わせるなり不思議そうな顔をしていた。
「どうかしましたか」
「……これ、誰ですか」
「?映っているのはあなたの顔でしょう」
りつは鏡を指差し、紫秦もまた鏡の中を覗き込む。蓬莱には鏡が無いのだろうかと思ったのも束の間、質問の意味を考えると穏和だった表情を曇らせる。
「…紫秦さんと会った時から、私、こんな顔でした…?」
「ええ」
そんな、と呟いた
りつが狼狽から視線を落とす。…では、田舎の池から此方の浅瀬へ迷い込んだあの時点で、容姿が変わってしまった事になる。
自分の顔を見る機会が無かったとはいえ、何故気付くのが遅くなったのだろう。
昨日に引き続く衝撃から、
りつの顔色が悪化する。その傍らで見守っていた紫秦は少しの間考え込んでいたが、思い当たる節があったのだろう。驚いたように眼を見開いて少女を見下ろした。
「なるほど……胎果でしたか」
「っ……たい、か?」
またもや理解できない単語を耳にして眉を顰める
りつに対し、紫秦はあくまでも冷静に説明を述べ始める。
「蝕に巻き込まれた卵果が蓬莱や崑崙へ流れ着き、あちらの母親の腹から生まれた者の事をそう言うそうですよ」
「らんか、ですか」
「こちらの子は皆、里木という樹に成る実から生まれます。それが卵果です」
「実…?子供が、実から生まれるっていうんですか…?」
「ええ」
当然と言わんばかりに頷く紫秦を前に、
りつは絶句した。
国や文化の違い云々ではない。誕生の方法が違えば、それは世界の成り立ちから全く異なるという事になる。昨日に故郷の話が浮上していたせいか、帰国は不可能だと告げられてもいつか辿り着ける気がしていた。それが、急速に遠ざかっていく。
「胎果は蓬莱で肉の皮を被るために、此方へ帰ってくると本来の姿に戻るのだとか。顔立ちや髪の色が変わったのはその所為でしょう」
「………」
あまりにも違う理に、眩暈がする。
容姿が変わった原因は分かったが、少なくとも今は到底受け入れる事ができなかった。…話を理解した瞬間、その先を察してしまったのだから。
「つまり……私は元々、こちらの人間だって事、ですか…?」
「ええ。間違いなく」
彼女の返事は余地の無い断言だった。本来の出自も育つべき場所も、紛れも無くこの世界だったのだと。
認めたくない、と心の片隅で声がする。
心底には帰国に対する切望が未だに根強く残っていて、両親や祖母との再会を強く望んでいるのは確かだった。
だがその一方で、世間に馴染めなかったのはあの世界の人間ではなかったからなのだと、心のもう片隅で悲嘆する声がある。
恋しいと感じた家も身内も友達も、真実を知った今では全てが嘘だったように思えるのだと。
矛盾した心持の中、脳内は混乱から困窮する。それでも
りつは暫くの間、片手に握っていた鏡をもう一度覗き込みながら、胸中で葛藤を続けていた。