拾壱章
1.
白群の天を背に、神獣と少女は大軍を見据えていた。私物にも拘わらず指示無く己の眼下まで進軍した其れを――彼らを拓峰迄引き連れてきた男へ視線を落とし、陽子は彼の名を口にする。彼女の――王の声に、矛先である左将軍に限らずその場に居合わせる誰もが気圧され、息を呑む。
誰の許可を得て拓峰へ進軍したのか、と。
無論、王を見上げる者は釈明の返答など持ち合わせている筈も無く。王宮に潜む豺虎の拘束を命じた王を頭上に、龍旗を掲げる一軍は次々と膝を折り、叩頭していく。圧巻の様子を注視していた者達からの歓声は無い。郷城に、拓峰にいる誰もがただただ茫然と、王と一群の姿を見守っていた。
◆ ◇ ◆
乱の終息、その進展の報せが届くまでの間、陽子達は仲間と共に郷城の片付けに加わっていた。が、王と判明した以上態度が変化する者も少なくはない。桓魋達は元々麦州師の軍人なのだから仕方ないとは思いながらも、多くの者達が叩頭し、腰を低くする事に辟易してしまった。
「態度が変わるのは仕方ないけど…そりゃあ、疲れてしまうよね。同じ立場だったら私も籠城の選択を取っていたと思う…」
「そう言ってくれて助かる…」
郷城内の跡片付けをしていた
明秦は廊下に落ちていた剣を拾いながら苦笑を浮かべる。郷城内へは殊恩党や元麦州師の者達、信用に値する者達に限り出入りの許可を出していた。偏った政務の追及に必要な書簡や、血税によって購われ溜め込まれた宝物等は証拠として残しておく必要がある。街の者を信用していない訳では無かったが、念の為立ち入り制限をしていた事が陽子にとっては功を奏した形となった。
「…そういえば、
明秦は浩瀚と面識があるのか?」
「浩瀚様?…ああ、一度だけ、舒栄の乱でお会いしているけども。実はそこで桓魋とも会っているから」
「という事は麦州城で、という事か」
ああ、と軽く首肯して、
明秦は堂へ足を踏み入れる。丁度鈴と祥瓊が拾った冬器を一括りに纏めているところだった。
「冬器がこんなに沢山……全て郷城の備品になるの?」
「折れた剣は回収してもらうとして、まだ使えるか確認した後だろう。…何れにしても、そろそろ戻らないといけないな」
「戻る?」
「うん。そんなに長く留守にはできない。景麒に恨まれてしまうから」
「そっか…そうだよね」
「なんだか、ちょっとだけ踏ん切りがついた。――色んな事に迷っていたけど」
「大変なのね、王様も」
うん、と陽子は頷く。ただでさえ戦場に呼び出したのだ、景麒の体調に影響を及ぼしてしまった事は気掛かりだった。そんな彼にいつまでも任せきりにする訳にはいかない。
彼女の言葉の端から汲み取れる心中を察しながら傍に転がっていた、折れた冬器の柄を拾い上げてふと、
明秦は振り返る。
「陽子――さっき、どうして私に蓬莱へ帰る提案をしたのか、聞いてもいい?」
え、と鈴と祥瓊は陽子と
明秦を交互に見る。そういえば祥瓊達にとっては初耳であったと、瞠目した二人の反応を一瞥して、
明秦はやや不安げに答えを待っていると、うん、と陽子は小さく首肯した。
「
明秦はまだ、此方で生きていくのか彼方へ戻るか、まだ選択できる時期だ。戻りたいのなら、景麒に頼んで蓬莱へ送ってもらう事ができる。
明秦にとって、後悔無く生きる為の選択をしてほしいと思った」
「……それで、考えておいてほしいと」
「うん」
仙籍に入っていない
明秦の年齢を考えると、数年前に流されてきたと判断したのだろう。となると遠い故郷の親も知人も未だ健在という事になる。…だが、それは彼女も同じだと、
明秦は胸の片隅に痛みを覚えた。
彼女もおそらく帰りたかったのだろう。だが、王に選ばれた所為でそれは叶わなくなった。…
明秦と同様、故郷に帰りたかった願いを、潰しざるを得なかった。
だからせめて、故郷に帰りたいと願うのであれば、叶えるつもりなのだと。
「…全く。主上は延台輔と同じ事を仰られる」
「延麒からも提案を…?」
「ああ。同時に身元も割り出してくれるようだから、この乱が落ち着いたら雁に行く予定だった。…ついでに、楽俊にも会いに行ってこようかな」
雁にいる友人は不思議な事に四人中三人が縁のある人物だった。博識な半獣の友人。その名に反応した祥瓊が、そうね、と微かに笑みを浮かべる。
「私も、一度雁に行かないと」
「祥瓊も?」
「楽俊に会いに行って、報告をするって約束したの」
「そうだったのか…。できれば、私が此処にいたって事は、内緒で…」
おそらく今回の乱は遅かれ早かれ、風の噂や小説で雁にも伝わるだろう。友人には心配を掛けたくないのか、手を合わせて小さく頼み込む陽子の様子に、三者は思わず顔を綻ばせた。
「鈴は?」
「一度才に戻らないと。采王に御礼を言わないといけないから。…
明秦は、漣に戻らなくてもいいの?」
「…報告した方がいいとは思うけど、雁と柳にも用があるから、その後になるかな」
言って、
明秦は苦笑する。二度も忠告を破っている事実から合わせる顔が無い、と思わないでもない。だが実質、漣国を出た時のやりとりを振り返れば、送り出す、よりも追い出される感覚に近い気がした。更に言えば、康由の州師に加える案も檸典と同様の思惑があったように思えた。
ただ、と。
それでも、最後に礼の一つでも言わなければ間違いなく後悔するのだと。
首から提げた紫水晶をそっと握り込み、
明秦は胸の内で静かに謝罪を呟いた。
「善い国とは、何だろう」
片付けの途中で休憩を挟む為に、人気の無い院子に設けられた榻に腰掛け、或いは石案の縁に寄り掛かる最中、ぽつりと言葉を零したのは陽子だった。
純粋な疑問。その問いに、其々が顔を上げて陽子を見詰める。
「どういう生き方をしたい?その為には、どういう国であってほしい?」
投げかけられた疑問にややあって、祥瓊が口を開いた。
「…寒いのや、ひもじいのは嫌だわ。里家でそれは辛かったもの。私が言ってはいけないんだけど、やっぱり誰かに辛く当たられたり、蔑まれるのは嫌だったわ…」
嘗て王宮を追われて里家で過ごした日々が祥瓊の脳裏を過ぎる。どれ程罵倒されても手を上げられても、ただただ耐えるしかなかったあの日々を。
しぜん、手元に視線を落とした祥瓊を少しばかり見詰めて、鈴はひとつ頷くと、僅かに俯いた。
「あたしもそうだったな。我慢するの、やめればよかったのに。そういうのを我慢してると、何だか気持ちが小さくなってしまうのよね…」
――百年。
翠微洞で洞主の理不尽な言動に只管我慢し続けたあの時間を思い出して、複雑な負情が胸中に蟠る。あの時、我慢を止めたらきっと、何かが変わっていただろう。それに気付けなかった事への後悔もある。だからこそ、蔑む者と蔑まれて耐える者が無い国であってほしいのだと。
「…
明秦は?」
「二人とそう変わりないな。誰かに脅かされて、怯えながら生きていくのは嫌だ。…嘗ての拓峰の人達のように、それが当然として生きていくのも」
拓峰で助けられた筈の命。怯えるあまり助けられなかった命。自分さえ助かるのならば見殺しも致し方無いと思ってしまう、そんな住民の心持ちを知って、受けた驚愕を
明秦は今も覚えている。…脅かされていなければ、あの少年はきっと、治療を受ける事ができて、ひょっとしたら病気も良い方向に向かっているかもしれなかった。
「でも、これって全然答えにならないね。ごめん」
「――いや、参考になった」
「ほんと?」
ああ、と陽子の首肯を目にして、祥瓊と鈴の表情が微かに和らいだ。次いで、それで、と再び口を開いた陽子が問いと共にほんの僅かに首を傾げる。
「どうするかは分かったけど、それから?」
「…私、勉強がしたいわ。何にも分かっていないのが、恥ずかしかったから」
「あたしも。学校に行きたいっていうのとは違うんだけど…沢山色んな事を知りたいの。残念だな。松塾ってもうないのよね」
「松塾の教師ももう殆どいないというし、生き残っていたとしても、今はまだ身を潜めているだろうし…」
「そうよね…」
少塾や庠序のような知識を学ぶ場所とは異なり、松塾のように道を学ぶ義塾は豺虎によって悉く潰されており、今の慶国には殆ど存在しなかった。
後は生き残った教師を探し出すか、と。そう悩む三者へ、では、と声を上げたのは陽子だった。
「こういうのはどうだろう。遠甫を太師にお招きする。金波宮で働きながら、遠甫に学ぶというのは?」
「ちょっと待って…それって」
鈴と祥瓊に女官として王宮で働いてほしい――と。
驚愕に瞠目する二人を見上げて、陽子は真摯な眼差しで願いを紡ぐ。…今の彼女にとって、ひどく切実な願いを。
「私は今、一人でも多くの手助けがほしい。私にはあの王宮の中で、信じる事の出来る人が、本当に一人でも多く必要なんだ」
予王時代から牛耳られた朝廷。蓬莱から来て間もない胎果の王を侮る官吏達。無能が続いたが故に女王だからと決めつけ殆ど耳を傾けてくれる者のいない王宮内。彼女の周りには、信頼できる味方があまりにも少なすぎる。だからこそ、拓峰の乱を共に乗り切った、信頼に足る仲間に、手を貸してほしいのだと。
沈黙は僅かの間。
小さく肩を上下させた祥瓊が零した溜息は、少しばかりわざとらしく。
「…仕様が無いわね。行ってあげてもいいわ」
「そうねぇ。陽子がどうしてもって言うんなら、助けてあげないでもないかなぁ」
「――どうしても」
悪乗りした二人と、手を合わせて頼み込む王と。そのやり取りに思わず其々が失笑を零して。
穏やかな院子の只中、少女達の笑い声が静かに響いていた。
「ああ、そうだ。実を言えば……本当は、
明秦にも手助けをしてほしかったな」
「…もし戻って来るような事があれば、その時は金波宮を訪ねさせてもらおうかな」
「また戻って来るつもりなのか?」
陽子は不思議そうに首を傾げる。そもそも世間では蓬莱へ帰る方法が無いと断言されている。二度蓬莱から流されてきた、という話も当然聞いた事が無い。そんな事態が起こる可能性は無いに等しいのではないだろうか。
「不意にまた流されるかもしれないだろう?」
「そんな事が二度も三度もあったらきっと奇跡よ?」
「……。三度も死にかけるのは嫌だな」
「そうよねぇ……溺れないように必死だもの」
各々が不意に思い出したのは、蓬莱から流された当時の、水の底に引き寄せられるようにして沈む記憶。三者が少しばかり神妙な面持ちになる様を、祥瓊は苦笑しながら見守るのだった。
◇ ◆ ◇
2.
「浩瀚様?」
「ああ」
腕の包帯を巻き直す手を止めて、
明秦は首を傾げた。城内の片付けも一段落ついたところで、適当な房室を借りて袖を捲り上げ、血の滲む包帯を棄て新しいものと交換する最中、居場所を聞いたであろう桓魋が房室を訪ったのである。陽子に対して謙遜している今、彼に教えたのはおそらく祥瓊あたりであろう事は大方予想がつく。
「雁に行くのだろう。ならば行きだけでも一緒に来い」
「でも、私は麦州師の人間ではないし、遠慮しておく」
「安心しろ、主上から許可は頂いてある」
「…随分用意周到だな」
呆れ半分の眼差しを向けた
明秦は僅かに肩を竦める。
国外追放の身であった元麦州候を国境まで迎えに行く、その人員に随従せよとの事だった。但し往路のみ。そこから先は別れて構わないのだと。
(…密かに拓峰を離れようとした事を察されているのか、それとも偶然なのか…)
兎にも角にも、と。
吐きかけた溜息を飲み込んで、包帯を巻き終えた
明秦は立ち上がる。いつでも出ていけるよう荷物を密かに纏めていたために慌てて準備する手間が省けたのが幸いだった。
「分かった。荷物を持ってくる。何処へ向かえばいい?」
「午に午門前で待っている。遅れずに来いよ」
「分かった」
ひとつ頷いて、
明秦は桓魋と共に房室を出る。廊下で分かれると、午までに終わらせなければと、しぜん歩幅が大きくなる。密かに拓峰を出るつもりだったために交わす積もりの無かった挨拶。
(…寂しくなるから、挨拶はしたくなかったんだけどな)
胸の微かな痛みに顔を顰めて、足を止める。
点在する窓は換気の為に開放されており、足元へ流れ込む二月の冷気は今、差し込む陽射しによって温められ、廊下の空気はまるで春のよう。
(…蓬莱では、春は旅立ちの季節だったか)
――もう暫く此処に留まっていたい。
そんな心中を打ち消すように、彼女が鳴らした踵の音は僅かな間、廊下に反響していた。
城内を巡っていた
明秦が親しい顔を発見したのは、暫く探し回った後の事だった。忙しない足音に気付いたのだろう。振り返った二人の少女は面に疑問を湛えて首を傾げていた。
「あら、
明秦?」
「そんなに慌ててどうしたの?」
「拓峰を発つ用事ができたから、旅立つ前に挨拶をと思って。…陽子は?」
「多分、そろそろ戻って来ると―――あ、陽子」
丁度城内から出てきた陽子を、三者が振り返る。片付けの合間、休憩を取る場所は大方院子だった。陽子もまた小休憩の為に院子へ出てきたのだろうと
明秦は思う。
「もしかして、もう向かうのか?」
「ああ。桓魋が態々連れていく許可を貰いに来たんだって?」
「浩瀚と面識があるそうだから」
「ああ…前にも少し話したけど、舒栄の乱で麦州に書簡を届けた際に会っているから」
「…なるほどな」
納得した陽子はしかし、表情を僅かに曇らせる。
――舒栄の乱。
よくよく思い返せば、あの乱からたった半年しか経過していない。そして今回二度目となる乱。乗り切りはしたが、課題は山積している。
今後の為、できれば彼女にも金波宮へ来てほしかった、と。
眼前の青鈍色の双眸を見詰め、陽子は改めて思う。尤も、彼女の意志を捻じ曲げてしまう事は不本意だったために、何も口にはしなかったのだけれども。
「多分このまま国を回る事になると思う」
「そう…気を付けてね」
「祥瓊と鈴も、この後長旅になるだろうから、気を付けて」
恭国と、才国と。どちらの国も慶国からの往復は長い旅路となる。二人が怪我する事無く旅を終えられるよう願って、微かに笑みを浮かべた
明秦は別れを告げて。
「…陽子、またね」
「ああ、また」
…おそらく、もう一生会う事は無いのだけれども。
それでも、いつかまた会えたら、と。
奇跡に近いであろう、一匙の願いを篭めた挨拶を交わして、
明秦は三人に背を向けるのだった。
高々と昇る陽の下、旅の支度を済ませた
明秦は疎らな人の往来の只中、鹿蜀の手綱を引いて歩き、午門の内側に到着した。内側に開かれた門闕の前に佇む三人と三騎の姿を認めて近付くと、
明秦の姿に気が付いたらしき男が振り返る。
褞袍を纏う桓魋と、すっかり顔見知りとなった顔が二つ。
「早かったな」
足を止めた
明秦は声を掛けてきた彼に一つ頷き、次いで二人の顔を――正確には二人の元地位を――改めて振り返る。
「…左将軍に師帥が一人か」
「元、だがな」
「それと凱之と私の四人…それなら覿面の罪には当たらないか」
そもそも現在麦州師ではない身なのだから、覿面の罪の対象にも入らないのかもしれない。
あくまで漣国にいた際、王宮に関する莫大な知識を補足と称して一通り叩き込まれたに過ぎない。仔細までは覚えていなかったが、取り敢えず大丈夫だろうと密かに安堵していた。
「麦州候は国外追放、という事は雁国の国境まで迎えに?」
「ああ。今は慶国側の巌頭まで足を運んでおられるだろう」
桓魋が慶国側、と称したのには理由がある。
国境の街の名称はどちらも同じなのである。雁国側と慶国側の街の名称は共通して巌頭、と。国の繁栄の比較をするのならば国境の街を見聞するのも面白い、と言っていたのは、果たして誰であったか。
兎にも角にも、人員が揃い、説明を終えた桓魋の出発の指示に従い、其々が門闕を潜り抜けると、騎乗して上空へと駆け上がる。妖魔の存在に注意を払い、着かず離れずの間隔を保ちながら北上していく。
時折休憩を挟みながら駆けること約一日。特に妖魔の襲撃に遭う事も無く巌頭へと到着した。
扁額を漠然と見上げながら門闕を潜り抜けて町へと足を踏み入れると、すぐに一人の男が桓魋の元へと駆けつけてくる。おそらく元州候からの遣いなのだろうと、桓魋と二、三言交わす様子を眺めながら明秦は思う。
すぐに先導を始めた男に一行が着いて行く形となり、程なくして到着した舎館へ騎獣を預けると、一階の最奥へと通された。廊下で褞袍を脱ぎ、半分ほど開けられた扉の間より桓魋が訪室の声を掛けると、ひどく穏やかな声によって招き入れられた。
(…この声、聞き覚えがある)
間違いないと確信しながら、桓魋達に続いて
明秦もまた房室へと足を踏み入れた。片膝を着き拱手する男達に倣い顔を伏せて拱手をする、その直前。
椅子へ腰掛ける男の貌を一瞥だが目にした。…確かに昨年、書簡を渡した州候の姿がそこにあった。幾分か頬が痩せたように思えたのはけっして気の所為ではないだろう。
拓峰の乱、その経緯を事細かに説明した桓魋は最後に主君からの伝言を口にする。
―――元麦州候の復廷。
部下や麦州の民が皆切に願っていた事なのだと、巌頭へ来るまでの間に凱之から聞いていた。それだけ彼が慕われているのであれば、陽子の力になってくれるだろう。
(…どうか、朝廷の中で陽子の味方が一人でも多くできますように)
拓峰までの同行を承知した浩瀚の声を耳にしながら、
明秦は密かに願って。
「――ところで、桓魋の後ろにいる者は馴染みの無い顔のようだが」
「昨年、舒栄の乱にて州城まで赴き書簡を届けた者です。彼女もまた、此度の乱に奔走してくれた者の一人ですよ」
「そうだったか。…顔を上げなさい」
はた、と我に返った
明秦は恐る恐る面を持ち上げた。声音に似合う、穏やかな面持ちの男性は一見四十代に見えるが、仙籍に入っていたのだ、実際の年齢はずっと上なのだろう。
明秦を見詰めた彼の口許は、すぐに緩やかな弧を描いた。
「二度も慶国の為に尽力してくれた事に感謝する。桓魋達と共に、よく頑張ってくれた」
「いえ…」
元とはいえ復廷が決まった州候からの感謝の言葉に、
明秦は思わず拱手に顔が隠れるほど深々と頭を垂れる。
脳裏に甦るのは、長いようであっという間に過ぎ去った戦いの日々。最初は決して慶国の為を思い動き出した訳では無かったが、結果的には慶国の――景の為にもなった事は良かったのかもしれない、と。
桓魋と浩瀚のやりとりに耳を傾けながらこれまでの旅路を顧みていた
明秦は、拱手の裏側でそっと瞼を伏せるのだった。
「雁と柳、漣へ行くそうだな」
舎館の厩舎にて出発の準備を整えていた
明秦はふと振り返る。房室で桓魋と浩瀚が暫く話し込んでいたため、早々に退出した
明秦であったが、厩舎へ足を運んできたとなれば彼等もまた出立の準備を始めるのだろう。
小さく首肯した
明秦の手が鹿蜀の背を優しく撫でていく。
「長旅といっても、鹿蜀がいるから。それほど大変では無いよ」
「それでも無茶はするなよ。まだ腕も治りきっていないからな」
「…そうだね」
明秦は苦笑する。結局彼には終始心配を掛け続けてしまった。改めて今までの記憶を顧みると申し訳なく思う。
――もっと、強くならなければ。
そう、強く願い掛けて、厭、と内心首を横に振った。蓬莱へ――日本へ帰れば剣を奮う機会は無くなるだろう。そう考えると少しばかり寂しさを覚えた気がした。
「よく頑張ったな」
「え…?」
頭を撫でられる感覚。労いの言葉を耳に知れて、俯きかけた顔を上げる。一体何の事なのかと眼前の男を見上げれば、僅かに双眸を細めた桓魋の、頭を撫でていた手が
明秦の肩へと落ちた。
「昨年といい今回といい、よく頑張って乱を生き抜いたな」
「いや…頑張ったのは祥瓊や鈴や陽子だ」
「お前もだろう。…まぁ、唯一悔やまれるところは
明秦が蓬莱へ帰る件だがな」
「…桓魋は、帰ってほしくない?」
「ああ。できればお前さんも慶に留まってほしかったがな……決めるのは
明秦だ。俺に引き止める資格は無い」
「それは、景王の為?それとも桓魋個人の感情?」
「随分突っ込んでくるな。…まぁ、そうだな。半々といったところだろう」
そう、苦笑を浮かべながら答える桓魋に、
明秦はふと思う。もし此処ではっきりと蓬莱へ帰るなと言われた時、自身の意志は揺らぐのだろうか、と。
それでも少しばかり淀んでいた心が少しだけ、彼の言葉で和らいだ気がした。
「蓬莱は良い所か?」
「此方と変わらないよ。…良い所もあれば、良くない所もある。…もう、五年以上も経っているから、どう変わっているかは分からないけど」
――思い返せば、約六年。
六年という歳月を過ごし、馴染んだこの世界から、じきに別れを告げる。
考えて、
明秦は嗚呼、と深く嘆息を吐いた。
…祖母に会いたい気持ちが無ければきっと、この国から離れるという選択肢を取る事は無かったのだろう、と。
◇ ◆ ◇
「もし蓬莱が嫌になったら帰ってこい」
肩を軽く叩いた桓魋の思わぬ発言。そこに半分、けっして冗談では無い、本心が混ざっている事に気付いた
明秦は困ったように笑った。おそらく、自身の心中を斟酌してくれたのかもしれない、と。
「…簡単に言ってくれるね。でも、ありがとう」
尾を引く名残惜しさが切ない。
それでも自身の決めた事だからと、今はただ、前を向いて。
3.
約一日半掛けた蒼穹の旅路の先、眼前に広がる壮大な街並を眼前にして、改めて感嘆を一つ漏らした。
雁国靖州首都、関弓。
凌雲山を中心とした、裾を広げたような街並みは街道から建物まで一つ一つ整備が行き届いており、道の端に並ぶ小店や往来する人の声で喧噪が絶えない。足を踏み入れた事はあるものの、長い年月王が統治する重大さを改めて思わせられる光景であった。
初めて来たのだろう、数人の旅人もまた同じように立ち尽くしている姿を視界に入れながら、鹿蜀の手綱を引いて門を潜る。真っ先に向かうべき目的地はあるものの、騎獣連れでは行けないため、以前立ち寄ったことのある舎館を当たってみる事にした。
(鹿蜀を預けたら、府第で言伝を頼まないと)
そう、考えつつ歩いていた
明秦の足がふと、とある露店の前で縫い留められる。
露店を覗いていたのは、少年のような後ろ姿。頭に頭巾を巻き付けたその姿に既視感を覚え、最後に露店の店主と掛け合う声で確信を得た。
「――何をされておいてで?」
「うわっ!びっくりした…!!」
文字通り飛び上がった少年は慌てて後ろを振り返る。紫色の双眸が見開かれ、頭数個分上にある
明秦の顔を認めるや否や、更に驚愕の表情へと変化する。麒麟とはいえ、表情豊かな少年の様子を若干微笑ましく見下ろしながら、お久しぶりです、と
明秦は小さく笑った。
「いつ帰ってきたんだ!?」
「今慶国から来たばかりですよ。国府で伝言を頼む手間が省けました」
国府に頼めば返事を貰えるまでに一週間前後掛かる。緊急性が無ければ更に延びる可能性もある。その手間が省けたのは、今後別国へ渡らなければならない
明秦にとっては大いに助かるものだった。
対する少年基六太はそうか、と口にして周囲へ目を配る。…否、配っているように見えて、何かを探している様子である事に気付けば、
明秦の首が僅かに傾けられる。
「何かをお探しですか」
「尚隆見なかったか?」
「あの方も降りてらっしゃいますか…見てませんよ。探しますか?」
「―――いや。一回止めとく」
露店で買い物を済ませた物を懐にしまい込みながら、六太は歩き出した。小さな台輔の後ろ姿を追って
明秦もまた歩を進める。おそらく人の耳が届かない場所へと移動をするのだろう。
行き交う人並みの中、先導されるまま暫く歩き、辿り着いた先はとある舎館だった。
並の旅人が宿泊に使用するには些か格式の高い二階建ての舎館へ、話を付けてくると告げた六太は慣れた足取りで入っていく。程なくして六太と舎館の店員が出てくると、促されるままに鹿蜀の手綱を預けて房室へと案内された。
外の街並みを遮断するように囲われた、水辺の庭園。小さな谷を模した山の間から流れ落ちる流水。春はまだ先だと言うのに、桜に似た花弁が湛えられた池に浮かんでいる。池に向かい張り出された枝、そこに咲く花は梅に似ていた。
露台のような席に通されて、六太と
明秦は対面状に腰を下ろす。人払いを頼んだのか、本来ならば少しばかり開けておくべき扉がぴったりと閉ざされている。それを一して確認した
明秦は、すぐに眼前の麒麟へと視線を戻した。…これから話してくれるであろう内容を、概ね察しながら。
「
明秦が生まれた年に蝕がどの国を通過したのか、調べるのに少し時間が掛かったけど、やっと掴んだぜ」
「…という事は、流された卵果があった、と」
「ああ」
明秦は息を呑む。蓬莱へ帰る前に判明するとは思いもしなかったが、折角ならば本来どの国で産まれる筈だったのか、知っておく事も悪くは無い。やや緊張した面持ちで次の言葉を待っていると、六太はゆっくりと口を開いて。
「柳だ」
「柳…」
雁国の北西、隣国に位置する国――柳北国。
芳国や戴国と同様、冬が厳しい国、という印象ばかりで、内情を知らない。利紹が教えてくれた情報を何とか記憶から引っ張り出してはみたものの、統治暦百二十年の法治国家、としか覚えていなかった。
「
明秦は本来なら、此方で柳の民として生きる筈だった。詳細は玄英宮に書簡を保管してあるけど…どうする?玄英宮に来るか?」
「流石に二度も王宮に足を踏み入れるのは勘弁してほしいですね…」
「何だ、遠慮せず来ればいいものを」
「―――え?」
突如真後ろから聞こえてきた第三者の声に
明秦は硬直する。扉をちらりと見れば、先程閉ざされていた筈の扉が僅かに開けられている。それで、恐る恐る背後を振り返れば、
明秦の視界一杯には笑みを湛えた男の姿がひとつ。
「あ、尚隆」
「六太、お前の声はよく響くからな。誰と話していたのかと来てみれば……よく来たな」
「…お久しぶりです、主上。相変わらず仲が宜しいですね」
「長年の半身故にな。何せ不仲になれば国が傾く」
「おいおい、言い方が極端だな…」
大国の王だからこそ軽口が言えるのだろうと、
明秦は苦笑を浮かべながらやりとりを耳にする。…いつか、陽子も景麒とこんなやり取りができる日が来るのだろうかと思い浮かべながら。
「それで――他国で収穫はあったか」
「…ええ。色々と」
「ほう…長話になりそうだな。酒の肴に聞かせてもらおうか」
「……という事は、やはり上がらなければ駄目ですか…」
諦めろと言わんばかりに肩を竦めた六太と、態度で当然だと言外に語る男――尚隆と。二者を交互に見比べた
明秦の脳裏を不意に過ぎったのは、溜息を吐く朱衡の姿。
明秦は思わず心中で謝罪を呟きながら返答を口にすると、諦めて席を離れた雁国主従の後を追うのだった。
予想通り、禁門を潜り清香殿への路を進む途中で朱衡と遭遇――否、待ち構えていた彼へ無沙汰の挨拶をすると、深い溜息を吐きながらも
明秦の滞在を了承していた。その様子に申し訳ないと思いながらも案内を受け、せめて一度でも見慣れた場所が良いだろうとの配慮から以前宿泊した室へと通される事となった。
用意された酒に口をつける尚隆へ
明秦が話題を上げたのは、はやり先日の拓峰の乱だった。目まぐるしく過ぎた日々の中、隣国の王が収めた乱。嘗て後ろ盾を行った延にとっては良い報せだったのだろう。彼の酒が進む様子に苦笑しながらも収束までの話を綴れば、いつの間にか日が落ち始めていた。
話を切り上げた雁国主従から宿泊を勧められ、
明秦は結局断り切れずに一泊する事となってしまった。
(柳の芝草…首都か。利広と合流する地でもある…)
臥室の臥牀へ寝転がりながら、六太より貰った書簡を広げる。生まれた年に内海から虚海へと駆け抜けた一つの蝕。その年の天災による被害が甚大だったという。だが天災は国が傾かなければ起きる事も無いという。つまり、百年を迎える前に一度国が揺らいだ、とも考えられる。
それでも持ち直して百二十年という長い歳月を統治してこられたのは凄い事なのだと、数時間前に六太が話していたことをふと思い出しながら、肘を立てて起こしていた体を臥牀に沈ませた。
(…約二十一年前…という事は、まだ親は生きてる筈…)
喪った卵果の親は、芝草で商いを起こしていた夫婦。蝕に巻き込まれたり病気に罹ったりしていなければ、おそらくは生きている筈である。
(どんな人達だったんだろう…)
瞼を閉じて、何気無く想像する。
蝕が起きていなければ。
卵果が流されていなければ。
自分は幸せな環境の中で育っていただろうか…と。
◆ ◇ ◆
「柳?」
翌朝、起きたばかりの
明秦の元へ六太が朝餉の誘いに訪れた。慌てて身支度をしてから露台へ向かうと、運ばれてきた朝餉、その品数に目を回しそうになった。
少しずつ口に入れ、一区切りついてから六太に投げかけたのは、次の行先。
「この後抜けようと思うのですが、柳国の現状はあまり噂で入ってこないので…何かご存じであれば、と」
「……あまり、虚海沿いは行かない方が良い。妖魔が出るって話だからな」
「妖魔…?という事は」
「傾いているらしい。が、そんな兆しは見られないんだよな。なんというか…元気なんだよ」
「元気?」
「民が虐げられている訳でも土地が荒れているわけでもない。天災もまり無い。街も廃れているようには見えなかった。…だが、妖魔が出るという事は、確実に傾いている前兆なんだ」
「何だか…気味の悪い話ですね」
明秦は思わず眉間に皺を寄せる。これまでに慶国や巧国の荒廃を見てきただけに、民が元気、というのが気味悪く感じる。…だが、同時に何処かで聞いた覚えのある光景な気がして、思い出そうと試みたものの、胸の靄が蟠るだけに終わった。
「なら、内地を通過した方が良さそうですね」
「ああ。念のためそうした方が良い」
ひとつ首肯を示した
明秦は経路を組み立て直す。芝草から南へ向かい、内海を渡るのも悪くないかもしれない。恭国、範国、才国に面する内海を白海と呼ぶ。何れの国も今は安定した統治国家なため、上空で妖魔と遭遇する事も無いだろう。
妖魔は虚海から、或いは黄海から来るとも言われている。そのため、雁国から柳国へは内地を抜け、恭国からは白海を抜けて南下する。幸い恭国や才国付近の内海には島が点在しているため、休息を挟める場所があるのは有難かった。
「で?出生の地を見てから漣に行くんだっけか」
「ええ。最後の挨拶に」
「恭も範も才も今は落ち着いてるから通過には問題ないな」]
にこりと笑う六太に釣られて笑みを浮かべた
明秦はしかし、気懸かりな点が浮上した事で僅かに表情を潜めた。…気になっているのは単に経路だからか、それとも自身の本当の出身地であると聞かされた所為なのか。
(…一体、柳で何が起きているのか)
何れにしても途中で街に立ち寄らなければならないため、見聞するには丁度良い機会なのかもしれない。そう、頬杖を着いて露台の向こう側――穏やかに広がる海をぼんやりと眺める。
本来生まれ、生きる筈だった場所。
自身の目で確かめる事に興味がある反面、正直目にするのが怖い。
不意に蘇る、海客に対する偏見を持つ者達の、蔑む言動。せめてその場所だけは、拒絶する者がいない事をただ願いながら、そっと瞼を閉じるのだった。