拾章
1.
陽子は再び仮眠をとる為、箭楼へ戻っていく。篝火を過ぎて夜陰に溶けていく後姿を漠然と見送って、
明秦は再び郷城の外へ視線を向けた。近くの篝火から小さく爆ぜる音と、歩墻を吹き抜ける風の音。人の声は無く、篝火の無い街は闇が等しく沈んでいる。
きっと、朝が来れば静寂など隙間にも無くなる。絶え間なく飛び交う怒号と悲鳴と断末魔。この静寂が惜しくなるだろう。
そう、腕を組んだ両肘を窓の縁に掛けた
明秦は瞼を伏せかけて、視界の片隅に小さく灯る存在に瞠目した。
思わず身を乗り出して街に目を凝らす。
「……火だ」
明秦が落とした呟きは激しい太鼓の音に掻き消された。火急の合図。深夜に住民が火を焚く事は無い。となれば、最悪の想定が脳裏を過ぎった。
慌てて歩墻へ飛び出して駆け出すと、既に数人の男達が街を見下ろしている。そのうち半分は桓魋とその部下達だった。
「桓魋!街の火はもしかして…」
「ああ、間違いないだろう」
桓魋が指し示す方角を視線で追う。街の南側、その片隅に微かに揺らめく灯火。
遠方から認めて灯火である。ともなれば実際は火事に近いだろう。最悪の想定が現実と化して、
明秦の顔がひどく歪んだ。
太鼓の音を聞きつけた者達が次々と歩墻を駆け上がって来る。集う者達は騒然として街へ目を向け、程なくして駆け付けてきた虎嘯と夕暉もまた愕然とした顔で拓峰の街を見下ろした。灯火は一つ、二つ、と次第に数を増やし始めている。
「…呀峰のやる事なんだもの。分かっているべきだった…州師は街ごと、ぼくらを焼き殺す気だ…!」
街ごと焼き払う。まるで疫病の扱いだと、
明秦は喧騒の中で舌打ちをする。豺虎からすれば反乱を起こす民は疫病と同等、他所の街も同様に決起されては困る、という事だろう。芽は早々に摘むのが得策であると。
街に放たれた灯火を視界の端目にして踵を返した
明秦は歩墻を降りようと駆け出した。その二の腕を、桓魋の手が急ぎ掴み取る。
「待て
明秦、何処へ行く気だ」
「火を消さないと…拓峰の住人が犠牲になる」
「駄目だ」
どうして、と問いかけた
明秦の声と被るようにして、夕暉が口を開いた。
「州師が待ってるよ」
「州師?でも、到着にはまだ時間があったはず…」
「多分、歩兵を置いて騎馬兵だけが先に着いたんだ。連中はぼくらが城内から出ていくのを待ってる。人を向かわせれば、州師の精鋭騎馬兵に袋叩きにされるだけだよ」
騎馬兵――歩兵にとって厄介な相手が街の至る場所に潜んでいる現実を前にして、視線を拓峰へ向けた者達の表情が曇る。一瞬落ちた沈黙の中で、誰かの息を呑む音がやけに大きく聞こえた気がした。
「郷城にまで火がには時間がかかる。暫く様子を窺った方がいい」
「見殺しにしろってえのか!?」
「ぼくらにできることはきっとない。多分…」
焦燥で声を張り上げた虎嘯から視線を外して、夕暉は俯く。苦渋の中に滲む葛藤を表情から読み取れたが、少年越しに見えるのは一つ、また一つと街に放たれる灯火。
これ以上足を止めているのは時間の無駄だと、
明秦はもう一度身を翻した。
「
明秦!」
叫ぶように制止を飛ばした桓魋に、
明秦の足が止まる。半歩だけ退がり振り返った彼女は、遠くから聞こえる悲鳴を耳にしながら、静かに口を開いて。
「桓魋。今助けに行かなければ、殊恩党の人たちを助けられるならそれに加わらなかった拓峰の住民は犠牲になっても良い事になってしまう。…でも、そうじゃないだろう?」
零しかけた言葉を飲み込んで、桓魋は眉根を寄せる。
…殊恩党への加勢は、ひいては拓峰の住民を助ける事にも繋がる。勿論、桓魋が殊恩党への加勢を決めた時から全滅の可能性を見ている事は
明秦も十分理解していた。だが――見捨てた結果の全滅と、助けた結果の全滅と。どちらがましなのか、口にするまでもない。
「私達が助けに来たのは拓峰の住民のはずだ。戦力になる人たちだけじゃない。…罠だとしても、見殺しになんてできる筈が無い」
断言した
明秦に返される言葉は無い。ただ逡巡からか男の双眸が微かに揺らいだのを、彼女は見逃さなかった。
折れるまであと一手、と…そう開口しかけた
明秦の肩を、大きな手が力強く叩く。
「
明秦、行くぞ」
「虎嘯…」
「兄さん…!」
「ここで街の連中を見捨てたら、俺たちは単なる人殺しだ」
人殺し。
内乱の渦中、誰も口にする事の無かった罪がこの場に立つ者達の心中に重く圧し掛かる。これまで斬り結んだ者達と、拓峰の住民と。
身を引き締めて虎嘯に続く者が一人、二人と歩墻を降りていく。陽子も続いて降りゆく姿を目で追って、
明秦もまた薄暗い階段に足を着けるのだった。
◆ ◇ ◆
飛び出した街は倒壊した建物の瓦礫が道に散乱し、息絶えた住民の亡骸が横たわり、飛び交う喧騒の只中に騎馬が駆け抜け、逃げ惑う住人達の姿があった。まさに地獄のような光景は随所に撒かれた放火によって否が応でも鮮明に視界に飛び込んでくる。
視界が照らし出される反面、歪な陰翳が道の端々に揺れて、陰から身を潜めていた兵士が飛び出してくる。騎馬兵に対抗するべく数人で徒党を組みながら、目指す先は酉門へ。これは拓峰の住民を酉門から逃がすという夕暉の提案だった。
住民を避難させる為には安全な道程を拓かなければならない。その為に今、彼女は迫り来る騎馬目掛けて勢い良く抜剣する。
馬上から振り下ろされた槍をぎりぎり躱して、騎馬の体躯に切先を深く走らせる。即座に弧を描くようにして足を地面へ滑らせ身を反転させると、横倒れになった騎馬から転落した兵士に真上から首目掛けて重い一撃を落とした。
「…陽子の時にも思ったが、敵には回したくないな」
「それは…褒められてるのかな」
足元の断末魔が周囲の喧騒に搔き消される。お陰で聞かないふりをする事もなく、
明秦は剣に乗った露を払いながら虎嘯の若干呆れたような顔を見上げた。
「私も今、虎嘯と同じ事を思った」
「陽子まで…」
倒壊した物影から飛び出してきた兵士達を鮮やかに仕留め終え、小さく呟いた陽子の至極真面目な横顔を、
明秦は一瞥する。…正直、王にそう言われる事は光栄と思うべきか、それとも。
「しかし、相当伏兵がいるな」
「の、ようだな」
「街に火を点け始める時点で潜り込んでいたんだろう。厄介だね」
郷城から酉門までの一直線を拓く為とはいえ、数の多さに苦戦しているのが現実だった。北側の倒壊した建物には既に火が広がり、大経を挟んで市井まで火が迫ろうとしている。少なくとも良い状況とは言えない現状にしぜん、表情が険しくなる。
大経へ視線を戻した
明秦の耳に地面を叩く四肢の足音。男達の叫ぶ声が瞬く間に近付いてくる。
「連中は速い。…馬の足を狙えよ」
迫り来る騎馬の姿は三。行く手を阻む者達の姿を捉えて手綱を引き、対峙する事暫し。声を潜めた虎嘯の指示に男達が微かな首肯を見せる。彼等から少し離れた位置で構える
明秦はしかし――騎馬が動いた瞬間、傍らの君主が僅かに身を低く沈めたのを見逃さなかった。
「…頼んだぞ」
小さく落とした言葉の先は足許へ。短い返答を耳にした刹那、駆け出そうとした
明秦の足が咄嗟に留まる。瞬く間に離れる気配を感じ取れば、陽子の言葉の意味を察したが故に。
虎嘯達が散開するよりも早く、先を駆けていた騎馬が突然どうと横倒れた。後続の騎馬もまた続け様に躓くようにして倒れ行く様に、虎嘯達は愕然とする。
「どうしたんだ!?」
「儲けたな」
虎嘯を追い越し様に陽子が投げかけて、駆ける緋色を
明秦が追う。地面に投げ出された兵士が起き上がるよりも早く握り込んだ冬器を躊躇なく振り下ろした。
指令の存在を知らない虎嘯達にとっては驚愕するのも無理はないと
明秦は思う。数刻前に彼女から正体を明かされていなければ、虎嘯達と同様の反応だっただろう。
剣に滴る血水を振り払いながら、すぐさま駆け出す陽子の後姿を追いかける。酉門へ辿り着くまでにはまだ距離がある。油断をするまいと気を引き締めながら向かう先は、遠くから届く喧騒の方へ。
◇ ◆ ◇
2.
酉門へと続く大経を駆けて到達した広途は既に混戦状態だった。
燃え上がり焼け落ちる建物に囲まれながら敵味方入り交じる光景に足を留めかけ、躊躇したのはほんの僅か。すぐに見知った顔の、敵兵と斬り結ぶ姿を目にした
明秦は駆け出さずにはいられなかった。
翳した白刃が激しく揺れる灼熱を反射する。
「
明秦!?」
「玉叡、無事か!」
「ああ、助かったよ」
背から切り伏せた敵兵が頽れる様を視界の端に入れながら、
明秦は玉叡の無事を認めて僅かに安堵の息を漏らした。多少傷はあるものの、重傷には到底及ばない。
「酉門までの制圧はあと少しだ。油断せず行こう」
そう、
明秦はすれ違い様に玉叡の肩を叩こうと持ち上げた左手を、反射的に引いた。
二の腕に走る鋭い痛み。僅かに顔を歪めた
明秦はそこでようやく思い出した。数日前、自身も負傷していたのだと。
「大丈夫かい?」
「大丈夫。少し腕が痛いだけ」
「少しって…」
玉葉の不安気な視線が少年の左腕に留まる。袖に滲む赤い斑。彼女の負傷に気付けば、慌てて周囲を見渡し、付近に転がる兵士の布を槍の穂先で長く引き裂いた。すぐさま踵を返し、怪訝な面持ちの
明秦の腕を手に取ると、袖の上から布を強く巻きつけていく。
「気休め程度だけどね…無理はするんじゃないよ」
「…ありがとう」
腕を軽く動かせば、多少の痛みは伴うものの交戦に支障はきたさない程度だった。酉門へ至るまでにはまだ距離がある。ここで脱落などしていられないと、駆け出そうとした
明秦の足が、真横をすり抜けていった存在を目にして咄嗟に止まった。
口にした男の名が、鈍い殴打の音に掻き消される。三百斤も重さのある得物を軽々と扱い、複数の敵兵を易々と薙ぎ飛ばす眼前の光景はあまりにも異常だった。
「なんて馬鹿力…」
「すごいだろう?私も最初に見た時はびっくりしたよ」
愕然としている
明秦の傍ら、玉叡は苦笑する。見慣れればどうってことないよ、と言い残して玉叡は仲間が交戦する方へ駆けていく。その背を見送る最中、
明秦ははたと我に返った。こんなところでいつまでも呆然としていられない。
急ぎ駆け出した
明秦は陽子と対面し二、三言交わしていた桓魋の元へと駆け寄る。
「陽子!桓魋!」
「…
明秦、無事で何よりだ。――さて、先へ進むぞ」
明秦の肩を軽く叩いて、鉄槍を担ぎ直した桓魋は先へと駆け行く。男の後を追うようにして陽子と
明秦が並び走り、周囲の伏兵に警戒を巡らせていた。その最中。
「ありがとう、
明秦」
「え?」
突然真横から届いた礼に謂れは無い。何故、と首を傾げた
明秦に、陽子からの返答は無い。ただ、彼女が足元へ向けた視線は、次いで先を行く男の背へ。それで、
明秦は大方察しがついた。眼前の男は中々に勘が良い。指令の存在に薄々気付いて陽子に問うていたのだろう、と。
騎馬兵や歩兵を退け、やがて間近に見えてきたのは、闇夜の中にもかかわらず街中の火の手の所為で漠然と浮かび上がる酉門、その堅固な扉だった。
酉門の手前に待ち構えていた敵兵は市井に紛れていたよりも幾分か少ないように思える。だが、切れ味の衰えてきた冬器での応戦は力を要する。その分だけ腕の負担がかかるせいか、二の腕の傷口の痛みが増しているように感じていた。
耐えて押し切り、門の手前で残る兵を切り伏せると、途端酉門には沈黙が落ちる。
門を開ける陽子達から少し離れた場所で伏兵の警戒のため周囲を見渡していたが、今のところ倒壊した建物の間に動く影も気配もない。さしずめ、陽子の指令が粗方排除してくれたおかげなのだろう。
陽子がいなければ今頃もっと苦戦していたに違いない、と。地面に転がる兵士達の、けっして冬器のものではない、獣のような傷跡を静かに見下ろしていた。
(鈴や祥瓊は大丈夫だろうか…)
そんな心配が脳裏を掠めた、その時だった。
「
明秦!!」
男の切羽詰まった声にはっと顔を上げる。酉門の方へ振り返った先、険相を湛えた桓魋と視線が合えば、すぐに半開きにされた扉の前に集う者達の元へと駆け付けた。
「何かあったのか」
「雲橋だ」
「雲橋?」
「塡壕車と言えば分かるか」
「え……そんな代物は城攻めでしか…」
使われない、と。言いかけた言葉を飲み込んだ
明秦の視線が、徐に郭壁を上っていく。
――郷城。
まさしく城とついた此処は、豺虎の手によって堅固な要塞と化した。塡壕車を引っ張り出してくるには相応しいと言うべきか。
嘗て利紹から教わった、知識を飲み込むだけで終わりだと思い込んでいた代物を桓魋越しに目にした
明秦は思わず絶句する。
「そういう事だ。一回り大きな塡壕車を横に連ねている」
「中は人?」
「いや、騎兵だな」
「だとしたら到達するまでに速い。…何とかしないと籠城どころじゃなくなる」
「ああ、だから急いで雲橋を止める。北側は鉄槍を振り回して止めるよう虎嘯に任せた。
明秦は虎嘯の援護を頼む。歩墻からの火箭には当たるなよ」
「分かった」
「行くぞ
明秦」
鉄槍を肩に担いだ虎嘯が扉から北側に向かって駆け出していく。彼の掛け声に首肯して
明秦もまた冬器を握り直して走り出すと、改めて夜陰の中にじりじりと距離を詰めてくる地平並びの車を目の当たりにする。酉門にもう少し辿り着くのが遅れていれば郭壁は破壊されていたに違いない。そして――今止めなければ、籠城戦へ持ち込むことも叶わないだろう。そう考えた途端、
明秦の背筋に緊張が走る。
虎嘯が射られないよう、前方から弧を描いて落ちてくる矢を打ち払う。直後に虎嘯が雲橋目掛けて鉄槍を叩き込む、その衝撃で盾がめり込んだ。
穴が開いた間から虎嘯目掛けて突き出される槍を、明秦は間一髪弾き上げる。蹈鞴を踏むようにして雲橋から僅かに離れた二人の頭上が僅かに明るくなった気がして、
明秦は思わず虎嘯の腕を思い切り引いてさらに後退させた。
「うおっ!?」
「あまり近付くと援護に当たる」
雲橋の盾に次々と刺さる火箭がじわじわと焼いていく。断末魔が聞こえたのは虎嘯が開けた穴に偶然火箭が落ちたのだろう。焦げる臭いに眉を顰めながら、駆けてきた騎兵に向かい男の逞しい腕が三百斤もある鉄槍を容赦なく振り回す。皮甲の砕ける音が盛大に響いた気がした。
桓魋が易々と使いこなしていた鉄槍を、持ち主よりずっとがたいの良い虎嘯が重さに苦戦しながらも振り回す姿を不思議に思いながら、
明秦は虎嘯目掛けて放たれる矢を払う。突き込まれる騎兵からの槍を避けて冬器を首に突き入れ、悲鳴を上げる兵士を馬から突き落とした。拾った槍を構え、一騎が虎嘯の殴打を避けたところで騎馬を全力で一突きすれば、嘶きのたうつ馬から敵兵が地面に強く振り落とされる。落ちたところで頸に一突き止めを刺したところで、次の一雨が来る。さらに郭壁の方へ後退した二人の前で、火の雨が雲橋や騎兵へ降り注ぐ。敵側からの矢は、いつの間にか絶えていた。
(…陽子の指令のお陰かな)
心中で感謝すると共に歩墻を一瞥する。絶え間なく歩墻から放たれる火箭が雲橋の盾に刺さる。次第に火が燃え広がり、中から押す事は困難なほど延焼していた。鉤で連ねた塡壕車同士を切り離す事は容易ではなく、隣の塡壕車へ燃え移るまでにそう時間は掛からなかった。
虎嘯を狙う騎兵の槍を受け流し、柄を片手で掴み首に剣を突き立てる。そのまま横へ振り抜いて、虎嘯へ撤退を伝えるべく駆け出した時だった。
腹の底に響くような震動を感じて、南側を振り返る。立ち上る砂煙。遠くの塡壕車が横転しているように見えたのは、見間違いだろうか――。
「
明秦、退くぞ!」
「あ…ああ!」
此方は燃え始めた雲橋がようやく止まった。雲橋へ命中した火箭によって次々と燃える様を確認し、加えて騎馬が後退したことで虎嘯と明秦は酉門を目指して駆け出した。
交代の間にも歩墻からの火箭は放たれ、同時に時折中央の塡壕車から放たれる矢を
明秦が打ち払いながら仲間が待つ酉門へと駆け込む。すぐさま二人が振り返ったのはほぼ同時のことだった。
「南側はどうなってる!」
「あっちは虎嘯達が返って来る前に止まったよ。すごい音がして…どうやらひっくり返ってるらしい」
「ひっくり返った…?」
「何があったのかは分からんが…兎に角、雲橋は止められたってことか」
鉄槍の石突を地面に落として、虎嘯は肩で息をしながら扉の外の光景に目を凝らした。明るくなった南側と比べて、北側に火の手は見られない。ただ、僅かに砂埃のような影が立っている様を漠然と捉えて顔を顰めていた。
明秦もまた傍らに並び立ち、南側の現状を見つめる。どっと噴き出す汗を拭いながら二人の帰還を待っていると、やがて二つの影が見えた。
一つは揺れる髪から陽子だと分かった。もう一つは、と――疾走してくる影を次第に鮮明に捉えて、
明秦は思わず身構える。虎嘯もまた鉄槍を構えたが、傍らにいるのは間違いなく陽子である。扉の内側で上がる困惑の声はけっして少なくなかった。
「あれは……熊?」
「おや、知らなかったのかい」
明秦の帰還を聞きつけ酉門へ駆け付けてきた玉叡は丁度彼女の呟きを聞き拾ったのだろう。不思議そうに首を傾げた。
「将…桓魋は半獣なのさ」
「え…」
明秦の表情が一瞬硬直する。
あまりにも衝撃的な事実と、陽子と共に四肢を踏みしめ門に駆け込んでくる巨躯の姿と。受容するまでに時間は掛かったものの、
明秦は何とか現状を飲み込んだ。…だが、同時に合点もいった。
(だから、鼻が利いたのか…)
以前明郭で腕の負傷をすぐに察されてしまった理由はそういう事だったのか、と。
後方で門が閉ざされたのを確認した
明秦は、以前より抱いていた疑問が解消されて納得しつつ、近付いてくる獣の姿をぼんやりと見つめていた。
「わるいが
明秦、郷城まで付き合ってくれるか」
「あ…ああ。分かった」
野太い声に応じて頷いたが、未だにかの男と眼前の獣を結び付ける事は中々に難しい。が――此処で悠長に話す時間は無いと、一先ず彼の後を追いかけ郷城を目指して途を駆け戻っていく。
◆ ◇ ◆
酉門へ戻るまでに袍は粗方回収できたが、流石に暗闇の中で小物までは拾いきれなかった、と。
桓魋の話を扉越しに聞きながら、
明秦は代用品を探して棚を片っ端から引き出していく。拓峰の住民が目にすれば憤りを抱かずにはいられない贅沢の品々。昇絋が溜め込んだ罪の数々。
「…あった」
帯を手に戸を叩くと、承諾の返答が聞こえてくる。そっと半開きの戸の間から身を滑り込ませると、榻に腰掛け膝袴を当てているところだった。
「桓魋、あったよ」
「わるいな。全て拾いきっていれば物影でも着替えられたんだがな」
「だけど、あの状態で拾いきったら矢の餌食になっていだろうし」
「違いない」
明秦から片手で帯を受け取って、桓魋は苦笑する。膝袴を着け終え、次に帯を締めていく男の姿を、彼女はぼんやりと眺めていた。
将軍だけあって鍛えられ引き締まった上体だが、あの三百斤近い鉄槍を軽々と振り回すにはどこか心許ないように見える。しかし半獣――それも熊――ともなれば納得がいく。
「…私の怪我が分かったのは、血の臭いのせい?」
「ああ。戦場じゃ流石に分からないが……もしかして、腕の傷が開いたのか」
桓魋の問いに返答は無い。ただ、ほんの僅かに眉根を寄せた
明秦の反射的に視線を逸らした様子を眼前にすれば答えを口から聞くまでも無かった。
「……ま、この不利な状況じゃ下がっていろとは言えんだろう。ただ、突っ走るような真似や無茶だけはするなよ」
「…分かった」
首肯からややあって、
明秦がぽつりと返答を溢した。彼の言い分は理解できる。だが自分や殊恩党、元麦州師の者達の命が懸かっている以上、無茶をするな、という言葉は受け入れ難い。現状は未だ不利。厳しい戦況なのだから。
翳る彼女の面持ちから心中を粗方酌んだのだろう。桓魋からの追究は無く、すれ違い様に
明秦の肩を軽く叩いた。
「さて――街に戻るぞ」
◇ ◆ ◇
3.
闇夜の中で苦戦した痕跡は薄明と共に浮かび上がり始める。火はようやく鎮まり、まるで小さな狼煙のように街の各所で燻った煙が立ち上っていた。郷城の白虎門から酉門までの広途には、脱出経路の確保の為に搔き集められた車で左右の道を塞がれている。州師の姿は郷城にも拓峰の町にも存在しない。南側より歩兵到着の報せがすぐに舞い込んだのは、十二門の箭楼の各所にも無数の人が配置されているためだった。
籠城の範囲は郷城ではなく、拓峰の町全体に及ぶ。その現状を角楼の階上から一望した
明秦は、絞り出した吐息が白く流れていく様を一瞥して、冷たくなった指先を拳の内に納めた。
「…夜明けだ」
まずは一夜。籠城戦の一歩を乗り越えて、士気が未だ落ちていない現状に一先ず安堵する。僅かに下方へ視線を落とした先には虎嘯と桓魋が話し込む様が見えて、更に郷城内を見渡すと鈴や祥瓊達が仲間達と会話する様子が見て取れた。正に束の間の休息である。
捉え切れていない人物を探して、
明秦は僅かに身を乗り出すようにして視線を巡らせると、角楼の入口へ向かい来る赤毛の少年を認めて軽く瞠目した。
(…此処に上がって来るつもりなのか)
おそらく早々に全体を把握しておきたいのだろう。郷城内には穏やかな空気が流れているが、援軍が到着している以上いつ襲撃が再開しても可笑しくはないのだから。
「――…おい、あれ」
「ん?」
隣に佇んでいた男が肩を叩いて、
明秦は振り返る。空を指差した先、無数の黒点と点在するはためき。数は州師とそう変わりはなかった。……だが。
次第に近付く群衆の中、掲げられた旗の柄と色彩に気が付かなければ良かったと、
明秦は表情硬く息を呑んだ。
「……とんでもないのが出てきたな」
呟いた
明秦は即座に角楼の階上から身を乗り出して下を見る。肺一杯に空気を取り込んで喉を開く。
「虎嘯!桓魋!援軍だ!!」
「なに!?援軍だと…!?」
援軍の報せに驚愕し振り仰ぎ見る者が多数。血相を変え身構えた虎嘯と桓魋に援軍の方角を報せるべく腕を向けた。
「西に、龍旗が――!!」
明秦に続くようにして隣の男が下方に向かい叫ぶ。援軍の報せに次いで龍旗の存在を知った者達の動揺は郷城内に留まらず、郭壁上、十二門の見張りにつく者達から困惑と動揺、喧騒が波紋のように広がる。
(王師…本来はある筈が無いのに)
王は紛う事無く郷城内に在る。にも拘らず援軍として到着した一軍。加えて、一番問題なのは旗の色だった。あくまでも一環として利紹より教え込まれた夏官の知識。記憶から掘り出せば、重大な事実に
明秦の面持ちが険しくなる。
「軍旗の色は!?」
「………紫」
階上へ駆け上がってきた陽子を振り返り見た
明秦は、一言。一瞬息を詰めて瞠目した陽子は愕然とした。州師に合流すべく降下を始めた一群の中、棚引くそれは間違いなく金波宮で目にした己が私物。
「禁軍…」
「王の私物を動かしたのか…大罪だぞ…」
「脅しのつもりなんだろう。…でも、一体誰が…」
俯き逡巡する陽子を見、ふと下方へ視線を移した
明秦は歩墻を走る祥瓊と鈴の姿を認めた。おそらくこの角楼を目指し陽子と合流するつもりなのだろう。そして…と。
明秦は角楼内を一瞥する。此処には陽子と王と知らない者ばかりだった。
「…陽子、少し離れよう」
「ああ」
陽子の肩を叩いて足早に階段を下りる。続いて角楼を出ようとしたところで、丁度祥瓊と鈴が角楼へ足を踏み入れかけるところだった。
「陽子!あれは…」
「ああ。その件ついて三人に話をしたい」
息を整えながら、祥瓊と鈴が一つ首肯する。人の耳が薄い場所を探して小走りで移動を始めた四者はしかし、最中に掛けられた男の声を無視できよう筈もなく、足を止めて振り返った。
「
明秦、いいか」
「あ…ああ。三人とも、先に行って」
「分かった」
其々が頷いて、陽子達は歩墻を足早に駆けていく。その後姿を
明秦は僅かの間見送ってから、虎嘯と一度別行動を取ったらしき桓魋を振り返り見た。昨晩の夜襲よりもずっと深刻な現状に険相を湛えた男の声は重く低い。
「…この状況をどう思う」
「王の意志によるものではないと思う」
「どうして言い切れる?」
「王が動かしたのであれば、とうに城内は血の海になっている筈だから。そもそも脅しの道具として禁軍なんて使えるものじゃない」
「…もし、脅しの道具として動かす事が許可されていた場合は?」
「彼方から何かしらの訴えがある筈だ。脅し、なのだから。制圧としての戦力ではなく、ね。それに、武力だけを以てして解決するような御人ではないよ、今回の王は」
「……お前さんがそう判断して俺達が納得できたとしても、街の奴らは違う。…午門を見てみろ」
桓魋が示した指先を辿って、
明秦は午門前に視線を飛ばした。集う人だかり。風向きによって聞こえてくる喧騒はおそらく、禁軍の到着によって動揺――否、王が出てきた事で絶望した民が投降しようとしている声だろう。
「彼らの説得…か」
此処で投降を許し門を開放した途端、州師が雪崩れ込む事は明白だった。投降した民の全滅は明白。加えて籠城戦の最中にあれだけの数を迎撃するとなればかなりの痛手になる事は想像に難くない。加えて士気も落ちれば三日も保たずに拓峰は――郷城は陥落するだろう。
「午門へ行ってくる。その前に陽子達と少し話があるから」
「余裕が無い。できるだけ短い時間だと助かるが」
「ああ。頑張る」
怪訝気な面持ちで見送る桓魋を一瞥して、
明秦は駆け出した。この緊急時に話し合いなど、と思っているに違いないが、今は説明の猶予など微塵も無い。
降りてくる数人とすれ違いながら階上へ駆け上がると、ほぼ同時に振り返った三者の顔を其々一瞥して、
明秦は僅かに頭を下げた。
「ごめん、遅くなった」
「桓魋はなんて?」
「現状をどう思うかと聞かれたから、今の王が動かした訳ではない事は伝えた。そんな人ではないと。まだ半信半疑のようだけどね」
「目の前に禁軍がいるんだもの、確証が無い以上疑いが拭えないのは仕方ないわ」
「そうよね。…街の人達は流石に信じてしまうだろうし」
階上から見下ろした先、眼下の拓峰の街だけではなく郷城もまた喧騒が絶えない。嫌でも耳に入るのは失望や恐怖の声音ばかり、混乱が落ち着く気配など有る筈もない。
「陽子達は何の話を?」
「禁軍を動かした元凶について話をしていた」
「元凶は判明した?」
「元冢宰の靖共――今は夏官大司馬だ」
「…元冢宰は、予王時代からの?」
「ああ」
大司馬ならば王不在の今、私物を勝手に動かせると判断したのだろう。加えて前王時代は官が朝廷を牛耳る形で保持していたのだと、昨年の舒栄の乱で耳にした情報をふと思い出した
明秦はすぐに納得した。尤も、保持していたのは腐敗した朝廷だが。
「戻りながら詳しく聞きたい。…このままだと街の人が投降しようと動き出してしまうから」
「止めないと拙いわね…」
祥瓊が眼下を認めて、顔を僅かに歪めた。その横顔に滲む後悔と憐憫は、はまるで現状と別の情景を重ね見ているかのよう。
明秦は口を開きかけたが、すぐに閉ざした。今は追究の時間さえ惜しい。
「私は午門へ行ってくる。
明秦、ついて来てくれないか」
「分かった」
「私と鈴は虎嘯の所へ向かうわ」
「分かった。――急ごう」
階上を駆け下りた四者は二手に分かれる。行きがけに桓魋へ午門へ詰める事を伝えて、
明秦は陽子と共に歩墻を駆けて。
―――感謝を言われたいが為に守るな。それは驕りだ。その驕りはお前を殺す。
不意に
明秦の脳裏を過ぎったのは、漣で剣術を叩き込んできた誰かの発言。
嘗て利紹にも似たような事を言われたが、驕っていたつもりは無い。勿論拓峰の全ての住民が殊恩党を信頼している訳では無い事も自覚していたつもりだった。
(…そのつもりは無かったけど、少しだけ考えていた自分に吐き気がする)
拓峰を豺虎から解放すれば拓峰の民も殊恩党に加わってくれるのではないか…と。
到着した午門を角楼から眼下に、押し寄せる拓峰の民の群集を漠然と見守りながら、
明秦は心底で濁る感情を押し留める。…拓峰の民を守ったところで、威嚇の為だけとはいえ王師が出てきたともなれば殊恩党は瞬く間に反逆者扱いである。
無意識に首から提げていた紫水晶を握り込むと、陽子は僅かに首を傾げた。
「…それは?」
「……恩人の形見」
形見、という言葉を耳にした陽子の瞼が僅かの間伏せられる。気を遣わせてしまっただろうかと思いながらも、
明秦は握り込んでいた手を開く。今しがた脳裏で、嘗て鍛練場で吐き棄てた彼が、漣を旅立つ手前に渡してくれた形見という名の御守。
「大事な事を教えてくれた人だよ。…いざという時には、迷うなと」
「…いざという時、か」
「うん。昔から優柔不断だったから尚更、その言葉は堪えたよ。…でも、お陰で此処まで来られたと思ってる」
「そうか…。…聞きたかったんだが、
明秦はいつ日本から此方へ?」
「日本、か…懐かしい響きだと思うぐらいには経過しているよ。五年ぐらいかな。…だから、陽子と同じく日本にはまだ親も知り合いも生きていると思う」
「…それなら、おそらく一番年が近いのは
明秦か。仙は見た目が変わらないから、分からなくて戸惑う時がある」
「ああ、それは私も」
午門から目を離して、
明秦はふと一歩手前に身を退いた陽子を振り返る。彼女の双眸は午門ではなく、唯々上空へ。一点を見詰める姿は恰も、何かが飛来するのを待ち侘びているかのように。
「陽子?」
「…
明秦。もし全てが片付いたら、
明秦は何をしたい?」
「私?…四月に約束があるから、柳へ行って、その後雁で楽俊殿にも会ってこようかと」
「楽俊か…」
「それから…漣にも一度戻らないと」
「漣?」
「ああ。…感謝を、伝えたい人がいて。私が今回生き残る事ができたのは、彼に剣術を叩き込まれたお陰でもあるから」
「…そうか」
何故、と
明秦は問う事が出来なかった。
陽子が見詰める上空の先に黒点が一つ、それは瞬く間に姿を捉えられるほど急速に拓峰へと駆けてくる。鹿に似た体躯が纏う、雌黄の毛並みに金の鬣。
―――誰もが紛う事の無い、神獣。
「
明秦。それが全て終わったら、蓬莱に帰らないか」
「え……」
「考えておいてほしい」
茫然とする
明秦を背に、神獣の主は階段を駆け下りていく。
乱の終幕、その兆候は唐突に。
波紋のように広がりゆくざわめきを聞きながら、歩墻より禁軍の頭上へと飛翔するその姿を、閑地に整列する者達を圧する王の姿を、ただ静かに見守るのだった。