捌章
1.
明秦の腕の負傷から早三日が経過した。
桓魋から譲り受けた薬のお陰か、腕の傷は順調に回復している。完治を待っている間腕が鈍ると、無理の無い範囲での鍛錬に精を出していたのが、少しでも過度な負荷をかけようものなら玉叡の制止がかかり、その都度青将軍が心配している事を玉叡から聞かされて、次第に申し訳なくなった
明秦は已むを得ず自重する事となった。
院子で鍛練している者達を眺めながら剣の鞘を拭き上げ終わり、落ち着かせていた腰を上げる。少しばかり伸ばしたところで、近付いてくる足音と共に柔らかな声を耳に拾う。
「
明秦、手は空いてる?」
「あ…祥瓊。空いてるも何も」
「やらせてもらえないのなら手持ち無沙汰よね」
ここ数日の
明秦と玉叡、或いは凱之とのやりとりを祥瓊は目撃している。だからこそ彼女が暇を持て余している事は知っていた。
頼まれた買い物の同行に誘われて、
明秦は頷いた。房間へ一旦戻り剣を置くと門の前で待っていた祥瓊と合流して明郭の大途へと足を向ける。街並みは相も変わらず閑散としていて、露店は点在こそすれ賑わいとは程遠い。建物も欠損が見られ、玻璃も割れて久しい。補強として張られた紙は気休め程度にしかならないだろう。そんな荒廃ぶりも最初こそ驚いたが、何度も繰り出していれば見慣れて違和感は薄い。慣れた足取りで買い物を済ませようと足を運んでいた――その最中の事だった。
「拓峰で襲撃だってよ」
「郷長を狙ったって話らしい…」
「!」
疎らな人のすれ違い様に流れていった情報を、祥瓊も
明秦も逃すはずがなかった。
二人とも振り返ろうとして、不意に視線がぶつかる。互いに言いたい事はそれだけで十分だった。
買い物を途中で切り上げると、鹿林園への帰路を足早に辿る。門を潜り、廊下を抜けて堂へと向かう。人の話し声から、既に噂を耳に入れて集まっているのだろう。足を踏み入れると、おおよそ二十人ほどの男達が集まっていた。
集う者達の中心に立つ桓魋は堂へ足を踏み入れた者達へと視線を向ける。
「桓魋、聞いた?」
祥瓊と
明秦が集う者達の輪へ合流したところで、桓魋は頷いた。
「拓峰だろう。――昇紘の屋敷に焼き討ちをかけた向こう見ずがいたようだな」
焼き討ち、と不穏な言葉を
明秦は小さく呟く。
「殊恩、とは気が利いている。拓峰の連中もなかなかやるな」
「殊恩?」
「昇絋の氏名は籍恩という。殊恩は即ち誅恩…昇絋を誅する、という意味だ」
「ああ、なるほど」
「……大丈夫なのかしら」
「犯人は既に逃走したらしい」
納得した
明秦と不安げに視線を落とした祥瓊を桓魋はちらりと一瞥し、先刻得たばかりの情報を整理しながら言葉を続ける。
殊恩と名乗った者達は屋敷を襲撃し、開門前に拓峰を逃げ出した。半数は瑛州の州境を越えて逃走できたようだった。しかし、襲撃した屋敷に肝心の昇紘はおらず、郷城に籠っていていなかったという。
「じゃあ、昇紘は討ち取られていないのね…」
「だから妙な話だ。拓峰には昇紘を狙っている連中がいる。冬器を集めるくらいだから、本格的に謀反の構えだろう。その連中が、討ちそびれて逃げるものかな」
「…そうね」
本格的な謀反であれば周到な用意を以て襲撃をかけるものである。だが、結果は拍子抜けするほどの失敗と逃走劇だった。…だからこそ、桓魋達には引っ掛かるものがある。
――もしや、この襲撃は。
「拓峰の、あの人たちではないのかしら。……全然別の誰か?」
「分からない。――だが、もしもあの連中がやった事なら昇紘は苦戦するな」
「え?」
不安げに問う祥瓊に、桓魋は軽くかぶりを振る。それからにやりと口角を持ち上げると、祥瓊と
明秦へ目を向けた。
「連中は莫迦じゃないということだ」
―――陽動。
脳裏に過ぎる言葉に、
明秦は思わず息を呑む。つまりこれは謀反の始まりに過ぎないのだと。そして今後規模は更に拡大していくのだろう。おそらくは――拓峰の町全体へと。
「ま、新しい情報が入るまで今後どういう動きに出るのか完全には読めんからな…情報が入り次第声を掛ける」
「分かった」
話はそこで終わると、堂から一人、また一人と退室していく。その誰もが桓魋と同様緊張を含んだ面持ちをしていたためか、
明秦は妙なものを感じていた。
堂に集まっていた者達の大半は顔を知っており、会話をした事がある者達ばかりである。そして、桓魋には礼儀正しい。つまり部下にあたる者達が緊張を含んだ貌をしていたという事は。
――連中は莫迦じゃないということだ。
(…桓魋も部下も進展が予想できている?)
祥瓊の後を追いながら進めていた歩みを止め掛け、すぐに頭を振った。所詮当て推量でしかない。今は新しい情報を待ちながら備えるより外に出来る事は無いのだから―――。
「
明秦」
思案を巡らせていた
明秦ははたと意識を引き戻した。踵を返して声のした方へ顔を向けると、桓魋がゆっくりと歩を詰めてくるところだった。
「何?」
「怪我の具合はどうだ」
「大丈夫。出られるよう準備も済んでる。…それより、少し気になる事があって」
言い終わるか否かのところで、扉が閉ざされる音がした。最後に堂を出た祥瓊が気を利かせてくれたのだろう、と眼前の青年を見上げながら
明秦は思う。
桓魋の面持ちからは既に緊張の色は窺えず、ただ純粋に彼女の怪我を心配しているのだろう。左腕を一瞥して表情を曇らせた顔が僅かに傾げられた。
「なんだ」
「殊恩党が本格的に謀反を構えているとしても、王が気付かなければ全滅、という事になるのかな」
刹那、桓魋の顔が僅かに強張る。怪訝も含まれていたのは、質問が直球だった所為か、それとも何か思うところがあるのか。
ほんの少し逡巡を経て、桓魋は首肯でも否定でもなく、僅かに眉根を寄せて開口した。
「そうならない為に作戦を立てて事を大きくする必要がある。だが…正直王が気付く可能性は分からないな。何せ信用が薄い」
「――女王、か」
「聞いているとは思うが、慶の女王は信用がない。…だが、偽王討伐の件を顧みれば今回は幾許かの希望がある」
「なるほど」
政治に無関心な女王が続けば信用が落ちる事も道理だと、
明秦は相槌を打ちながら思う。同時にふと脳裏を過ぎるのは女王の友人――半獣の友の存在だった。彼と言葉を交わした数は決して多くないが、好青年たっだ事も、彼の女王に対する信頼が厚い印象を受けた事もよく覚えている。
(…拓峰の襲撃の件を耳にして、もう動き出しているかもしれない)
願わくば動き出していてほしい。
そう密かに願う
明秦へ、僅かに落ちた沈黙の後に投げかけられたのは問いかけだった。
「祥瓊は王を信じると言っていたが、お前はどうだ?」
「私?」
「動くと思うか」
明秦はややあって、力強く首肯する。
「動いてくれると思う。…いや、ただ私が願っているだけかもしれないけど」
「そうか……。芳や漣から来た人間が慶の民より景王を信じるというのは、どうにも不思議だな」
言って、桓魋は苦笑する。思わず
明秦は目を瞬かせたがしかし、仕方ないのかもしれない、とも思う。
――嘗て慶には治世が三百年続いた王がいた。諡名は達王。懐達という言葉ができた所以である。達王の時代を羨望する裏腹で女王に対する期待の低さを物語る。短命な王が、それも女王が続けば致し方の無い事ではあるのだが。
そこまで考えた
明秦はふと、脳裏にとある半獣の存在を過ぎらせた。…王の友人。ふかふかの毛皮を纏った彼は、何処かで元気にしているのだろうか。
(こんな事態になっている事を知ったら、彼は王を心配するだろうな…)
王について語る王の友人、その姿を思い出しながら、
明秦は窓の方へと視線を向けた。
その方角に聳え立つであろう天をも貫く凌雲山――天上の者が住まう、彼の地を。
願わくば、下界の異常に早く気付いてくれるようにと。
◇ ◆ ◇
火急の報せが飛び込んできたのは翌日のことだった。
明秦は房間を出たところで近付いてくる駆け足を耳にして足を止める。丁度角を曲がってきた祥瓊の姿を認めて振り返った。
「
明秦、至急堂に集まるよう桓魋からの指示よ」
「分かった、今行く」
踵を返した
明秦は祥瓊と共に堂へと足を向ける。辿り着いた先では既に多数の傭兵や元麦州師の兵士達が集い、その中心には桓魋と柴望の姿がある。ただならぬ雰囲気が漂う中、祥瓊と
明秦は到着の声を掛けると、桓魋は頷き早々に口を開いた。
「早朝、拓峰から青鳥が届いた。未明、拓峰で郷城の義倉が襲われた。義倉に火を放って瑛州へ逃げた連中がいる。――例の殊恩の連中だ」
一瞬堂内にどよめきが起こった。
「拓峰の連中は切れる。本気で乱を起こすつもりだ」
「どういう――」
「昨日、昇絋の屋敷を襲った連中は、昇絋をし損じたわけじゃないということだな」
屋敷への襲撃は二十人前後だという情報だった。彼らは殊恩の文字を書き残して瑛州へと逃げたのが昨日のこと。そして、次に襲撃を仕掛けたのは義倉。三十人前後で郷城へと忍び込み、義倉に火を放つと屋敷の襲撃と同様に殊恩の文字を書き残し瑛州へと逃走したという。
「今頃昇絋は激怒しているだろう。あの男はそういった挑発を冷静に受け流せる男じゃない」
「それは…そうだけど」
「昇絋はきっと、駐留軍と師士に命じて州境を固めさせる。市民を監視して仲間を捜索しようとする。――目的は明らかだ。警備の分散」
桓魋と柴望の前に置かれた卓上には拓峰の地図が置かれている。それにそっと目を落とした桓魋はさらに言葉を続けた。
「郷城には州師三旅千五百、師士千、射士五百で総計三千の兵がいる。これに正面からぶち当てて勝てるだけの兵力が無ければ、俺でもそうする。昇絋を挑発して兵力を分散させ、できる限り郷城から警備を減らすな。どれだけの兵が実際に犯人捜索と州境警備に出されたのかは知らないが、それでもまだ相当数の兵が郷城にはいるだろう。昇絋は近辺から各県に配備した師士を呼び戻しているようでもある」
「それじゃあ、かえって増えるんじゃないの?」
「呼び戻した師士がすべて戻るまでには、二日や三日がかかる。戻る前に決起すればいい。それも拓峰の外に囮を立て、挑発に怒っている昇絋が残存の兵を出したところで郷城に突入する」
つまり、と
明秦は息を呑んだ。
――今この時にも準備は大詰め、今日には夕暉達が、拓峰の民が決起するのだと。
「連中が大量の冬器を集めているようだ、という情報がなければ、俺でも踊らされたかもな。…連中は師士が戻る前に兵を挙げる。おそらくは三日以内。州師を引き付ける為に、囮にはかなりの人数を割いて、相当時間粘る筈だ。その後温存した兵力で一気に郷城を落とす」
しん、と堂内に沈黙が落ちる。
桓魋の説明で殊恩党の覚悟は十分に汲み取る事ができた。それが本当に成功したのならば、と。
期待を抱きかけた堂内の者達はしかし、桓魋の静かな低声に息を呑んだ。
「……だが、連中は分かっていない」
地図に手を置いた桓魋は僅かに眉根を寄せる。
「昇絋と呀峰の癒着は深い。単なる地方官吏なら、呀峰もあえて支援はしないだろう。州師の到着は遅れるし、さほどの大軍が派遣されることもない。乱が起きるほど民に疎まれる官吏なら、あえて庇う必要はないが、呀峰はそれを承知で昇絋を飼っている。いわば昇絋は呀峰にとって、汚い仕事をさせるための手飼いの部下だ」
つまり、と。
緊張を含んだ静寂の中、桓魋は淡々と話を続ける。
「昇絋は呀峰の汚い面を相当深く知っている。乱が長引いて国が出てきては困るはずだ。万一昇絋が捕えられ、喚問される事があれば一蓮托生だからな。呀峰は既に大軍を準備している。乱を平定するためには手段を選ばん肚だ。だとしたら、たかだか三千の護衛を分散させて叩かねばならない連中には、まず勝ち目がない」
そんな、と誰かが小さく洩らした声を耳にした
明秦もまた、決して良くはない状況、その先の悲惨になるであろう結末に顔を歪めた。
このままでは夕暉達が殺されてしまう。加勢に向かいたいと願う反面、自分一人が加わったところで何になるのだろう、とも思う。そして桓魋の話を顧みれば豺虎らによって乱が起きた事実は隠蔽され、王の耳には届かない。夕暉達の覚悟も、拓峰で声を挙げた者達の願いも、総て無かった事になる。…つまりは、全滅。
不意に最悪の結果が脳裏を過ぎった、その刹那。
「――殊恩の連中を支援する」
え、と
明秦は思わず俯きかけた面を持ち上げた。広がるざわつきの中、思わず祥瓊と目が合った。意外だったのだろう、彼女もまた驚きを湛えて
明秦を見、すぐさま前方の男へと視線を戻した。
「ついでに悪いが利用させてもらう」
「利用…?」
「おそらく殊恩党討伐のために、州師の大半が一日両日中に拓峰に向かう。明郭はがらあきになるぞ。この機を逃す法があるか?」
つまりは拓峰の乱に乗じて明郭でも乱を起こす、と。にやりと口角を上げた桓魋の話にどよめきが起こった。千載一遇の好機を逃す手は無い。今起こさねば次の機会など当分無いだろう。
三名の男を呼び出した桓魋は配下と共に拓峰へ向かうよう命じ、これに全員が歯切れ良い返事をする。命じる際に“汚名を雪ぐ機会をやる”と桓魋が口にしたのはおそらく以前の乱か、それ以降の件で何かがあったのだろう、と首を傾げる祥瓊を視界の端に入れながら
明秦は漠然と思う。
「――で、どうなさいます」
「明郭は私が預かろう。お前は拓峰に行きたいだろう」
「ばれましたか」
「ああいう連中が好きだからな、お前は。――ただし、開戦まではいてもらう。備えが整ったら、拓峰に行け。我らの目的は呀峰を討つことではない。和州に過ちあり、と王に伝えることだ。なにも無理に勝たなくてもいい。あとは私が何とかしよう」
「ありがとうございます」
桓魋は苦笑する。柴望には心中を察されてこそいたが、拓峰へ向かう許可を得られたことで一先ず安堵した――そんな彼の耳へ不意に届いたのは、一歩踏み出した少女の申し出だった。
「私も――拓峰に行かせてください」
傍らより上がった、決意を含んだ祥瓊の声に
明秦は思わず瞠目する。柴望と真摯に向き合う姿から読み取れるものは、覚悟。
「拓峰には知り合いがいるんです。殊恩党の中に。……お願いします」
「祥瓊と言ったか。騎獣には乗れるかね?」
「乗れます」
「では、桓魋と行動を共にせよ。行って義勇の民を助けてやるがいい」
「ありがとうございます…!」
柴望の返答を受けた祥瓊は深く頭を下げた。…今の話を聞けば知人の安否を危惧するのも無理はない。そう、傍らで祥瓊の顔を目にした
明秦もまた例外ではなかった。
…夕暉は今どうしているのだろう。郷城への襲撃の準備に奔走しているだろうか。それとも備えを終え、来たる時を待ち構えているのだろうか。
考えた
明秦の胸中を不意に不安が過ぎった、その直後。
「
明秦、お前も行くだろう?」
「え?」
「お前も殊恩党にいる知人が心配だろうからな」
桓魋からの投げかけに、落としかけた視線を持ち上げた。心なしか苦笑を隠し切れなかったように見えた彼の表情を見詰め、そこで
明秦は自分の心中が面に滲んでいた事を察した。…同時に、自身が何処へ足を運びたいと願っているのかという事も。
一呼吸の後、
明秦は桓魋の後方――供案の前に坐る柴望と視線を合わせた。
「私も行かせて下さい。騎獣は持っています」
「……念の為聞いておくが、今回は誰かの意志を託されたものではないのだな?」
「はい」
青鈍の双眸を僅かに細めて、
明秦は力強く首肯してみせる。
「自分の眼で明郭を…拓峰を見て、自分の判断と意志で此処にいます。どうか許可を頂きたい。…この国の事態を、王に気付いてもらうために」
お願いします、と。
真摯に心中を伝えた
明秦と柴望の間に沈黙が落ちる事数拍。僅かに思案の間を置いて開口した彼は首肯を一つ。
「―――では、桓魋や祥瓊と共に拓峰へ向かうといい」
「ありがとうございます」
明秦もまた祥瓊と同様深く頭を下げる。…男の返答、その声音から奇跡にも近い期待を薄らと感じ取りながら。
◇ ◆ ◇
2.
拓峰への支援が決定すると、鹿林園の中は一気に慌ただしくなった。
明郭から拓峰へ向かうためには何れかの門を通らなければならない。衛士に勘付かれないよう分散して出ていくにも時間がかかるため、準備を終えた者から明郭を出て街道で合流する手筈となった。
桓魋や祥瓊達は明郭での開戦を見送った後の出発になるが、騎獣で拓峰まで向かうのにそう時間は掛からない。先に出発した兵とすぐに合流できるだろう。
厩舎で鹿蜀の背に鞍を掛け終えた
明秦は、出発前の腹ごしらえにと用意した餌を食む鹿蜀の様子を茫然と見つめていた。
(…檸典さん達に怒られそうだな)
大勢の人が命を落とすであろう内乱に自ら身を投じる。それは命を危機に晒す行為であり、漣国の者達が此処にいたのならば早々に制止を受けていただろう。その光景は想像に難くない。
それでも、と。
鞍から離した
明秦の手が緩く拳を作る。
誰に指図された訳でもない、自分で選んだ道だ。迷うなと自身に言い聞かせて。
「
明秦、今大丈夫かしら」
不意な呼び掛けに、
明秦は慌てて馬房の外を振り返った。
聞き慣れてしまった声であったが、動揺を隠すために敢えて確認をする。
「祥瓊か?」
「ごめんなさい、こんな慌ただしい時に」
馬房の前で足を止めた少女を認めると、いや、と
明秦は頭を振った。慌ただしいのは先に明郭を発つ者達なのだけれども。
馬房を覗く顔があって、刹那、周囲を見回してから柵の間を身を屈んで跨ぎながら馬房に足を踏み入れてくる。彼女の面持ちは普段よりも神妙に、鹿蜀の主をじっと見詰めていた。
「どうしたの?」
「今日の話し合いで気になる事があって」
「何?」
「…
明秦って、一体何者?」
明秦は鹿蜀の背へ伸ばしかけた手を一瞬止めた。
問いの意味を汲み兼ねて見返すと、祥瓊は一度区切った問いの仔細を続ける。
「以前、昨年の内乱の折に柴望と話した事があると聞いたの」
「確かにある」
「今日の話の中では、
明秦が誰かの意志を託されたとも言っていたから、以前の内乱の時にそれを柴望に伝えたとしたら…」
なるほど、と
明秦は僅かに目を見開きながら内心感心する。国政に関与しているのではないか、と言いたいのだろう。柴望も桓魋も伝えていないところを見るに、隠しているのかもしれない。
故に、
明秦は核心を突かれるよりも早く返答を切り出した。
「繋がりというより、面識だな」
「面識?」
「以前、内乱に協力した時にたまたま面識を得ただけの事だよ。桓魋とはその時に顔見知りになったぐらいで」
説明に虚偽は無い。但し明確でもない。この会話から祥瓊が推察する事は自由であるし、そもそもばれたところで不都合などあるのだろうかと、祥瓊の神妙な面持ちを見つめながら
明秦は僅かに首を傾げた。
「やっぱりそうだったのね…ただ傭兵を纏めているだけではないと思っていたけれど」
「桓魋からはどこまで聞いている?」
「何も。ただ、傭兵を纏めている立場にある事が分かるだけよ」
「あー……桓魋が何も話していないのなら、私はこれ以上話せないな。ごめん」
「気になったから聞いただけよ。別にその隠し事だけじゃ信用は揺るがないから大丈夫」
「ありがとう」
礼を告げた者の笑みに苦いものが滲む。仲間を騙している感覚があるのは、おそらく錯覚だろう。
二人は馬房から出て園内へ戻ろうと並んで歩き出す。手が不足している所はないか聞きに行こうとした矢先、後方より掛けられた声に反応して振り返った。
「よう、
明秦」
「あれ…凱之と玉叡」
二人を呼び止めたがたいの良い男女はどちらも皮甲を着込んだ出で立ちだった。それだけで声を掛けてきた理由が概ね予想できる。
「もう行くのね」
「ああ、閉門前に出発しないと間に合わなくなる」
「二人は騎獣で来るんだろう?」
「ええ」
「なら、拓峰で合流だねぇ」
景気付けのつもりなのだろう。遅れるんじゃないよ、と付け足して笑った玉叡は
明秦と祥瓊の肩を軽く叩いた。合流できるのは明朝――それも、空と地から行くのだ、再び会えるのは騒動が落ち着いてからになる。
会えるのだろうか、という嫌な疑問が不意に脳裏を過って、掻き消した。
まずは生き延びる事を考えなければ。
「気を付けて」
「ああ、互いにな」
挨拶を終えると院子を抜けて園外へ出るのだろう、逞しい二つの背が遠ざかっていく。角を曲がって完全に見えなくなると、足音が絶えた。その一時の静寂の中、
明秦は急に背筋が伸びる思いを抱いて。
「…いよいよか」
「開戦まで間もないわ。私達も用意を急ぎましょ」
「うん」
祥瓊に首肯を返して、ふと視線を持ち上げた。
斜陽に翳る群青。概ね時間の限りを、閉門の時刻を確認する為の行動は、いつにも増して焦燥感を覚えさせる。
◆ ◇ ◆
拓峰を目指す者達が鹿林園を発つと、残されたのは騎獣で拓峰へ向かう者達、それから明郭での決起に参加する者のみとなった。
園内は不気味なほどに静寂が広がっていた。日没を過ぎれば人も床へ就く。尚更物音も気配も無い空間の中、窓辺へ寄せた榻に腰掛けた
明秦の意識は冴え冴えとしていた。
明日の夜には明郭の町が騒乱となり、乗じて街を発つ。その未来が分かっているからこそ、嵐の前の静けさのような空気に緊張覚を見出して中々寝付く事ができない。
ぼんやりと見上げた夜空には身に沁みる冷気の中で冴え冴えと光る白い月。無灯の起居を照らしてくれるそれだけは昔も今も変わらないと、
明秦はそっと溜息を吐く。
(…私は、変わってしまったな)
生きる為に努めた筈の剣術を、国を良い方向へ促す手伝いの為とはいえ人を殺める為に行使しようとしている。…否。行使を始めたのは随分と前からだ。だが今回は数が違う。本当の騒乱に身を投じるのだ。今罪悪感を覚えても、明日の出立までにはその感情を殺さなければならない。
(まだ、物音や声があった方が気も紛れるのに…)
そうして二度目の溜息を吐いてふと、廊下から慎重な足音を耳に拾った
明秦は反射的に起居の入口へ視線を投げた。
足音は入口前でぴたりと止み、僅かに開けていた扉へ細い指が掛かる。ゆっくりと開かれ起居を覗く正体は月光の薄明りですぐに分かった。
「…祥瓊?」
「眠れそうにない?」
「うん、全く。祥瓊も?」
「ええ」
起居へ足を踏み入れた祥瓊が後ろ手に扉を閉ざした。ゆっくりと窓辺の
明秦に歩み寄り、月明かりで淡くなった濃紺の髪が顔を傾けた事で僅かに揺れる。間近で目にすれば端正な彼女の面立ちをぼんやりと見上げて、
明秦はすぐに榻の空席を指した。ありがとう、と小さく告げて腰掛けた祥瓊もまた、僅かに上体を捻り窓越しの月を仰ぎ見る。
「…凱之達は、どこまで進んだだろう」
「今日の日中に出たばかりだから、そこまで行ってはいない筈よ」
分散して拓峰へ向かうには時間を要するが、桓魋が出した部下への指示を考えると拓峰の新たな動きまでに間に合うよう夜も急ぎ移動しているのかもしれない。まして今夜は月が明るい。夜道を良く照らしてくれるだろう。
彼らが妖魔と遭遇しない事を願いつつ、
明秦は空から視線を落とした。今は静寂に満ちた庭子も、明日は騒がしくなるに違いない。
「そういえば、殊恩党の中に知り合いがいると言っていたけど」
「以前に話した、拓峰で冬器を集めている人たちの事は覚えている?」
「ああ」
「労の所で会ったのが殊恩党の人よ。同じ年頃だった事もあって色々と話ができたけど、間違いないわ」
なるほど、と
明秦は相槌を打つ。祥瓊が殊恩党の支援を申し出た理由にも納得がいく。
「でも、意外だった」
「うん?」
「
明秦も殊恩党の中に知り合いがいるんでしょう?」
うん、と
明秦は頷く。
「以前拓峰へ寄った時世話になった人なんだ。拓峰の内情について少し話をしてくれた。…尤も、里家を調べに行ったついでに寄ったら蛻の空だったから、会えなかったけど」
「そうだったの…。どちらの知り合いも、怪我をしていなければ良いけど」
「大丈夫だよ。景王が気付いてくれて、下界にも目を向けてくれて、皆も大事無く事を成せる筈だ」
「――随分、自信たっぷりに言うのね」
「合流するまで持ち堪えてくれる。そうじゃなきゃ困るから、今は信じる事にしているんだ」
「それは…確かにそうね」
――信じる事にしている。その言葉を咀嚼して、祥瓊の表情が僅かに曇る。
内乱とは民と国との衝突である。今回は相手が王ではないとはいえ郷や州との敵対だ。怖気付けば落命は免れない。
ふと、窓越しの夜空から起居へ視線を戻した祥瓊の目に卓上の剣が目に入る。それが尚更、近日の内開戦するであろう事態に現実味を得て、膝上で組み合わせていた手が微かに震えるのを覚えた。
「怖い?」
「…怖くないと言えば、嘘になるわ。そう言う
明秦は、怖くないの?」
「…怖いよ。きっと」
「?」
曖昧な表現に祥瓊は首を傾げた。窓に背を向けて座り直した
明秦の表情は陰りよく見えない。その横顔から心中を推し量る事は難しい。…否、難しいのは当然かもしれない、と祥瓊は思う。
国や民の為とはいえ、内乱に身を投じて人を手に掛ける、その重みは如何程。そう思えば、脳裏を過ぎるのは嘗て自国で眼前にした親の死。…下した者は一体、どれだけの重圧を背負っていたのだろう。
(…月渓)
芳国の仮王は今、傾きつつある国と苦しむ民の為に身を粉にして動いているに違いない。そして、自分もまた国は違えど動こうとしている。そう考えると、国を追放された時よりもずっと考え方が変わったのだと、しみじみ思わざるを得ない。これも単衣に、景王の友人のお陰でもある…と。
もう一度、祥瓊は澄んだ夜空を振り仰ぎ見る。
冴え冴えとした白い月を、彼も――明日に合流するであろう彼女も、見上げているのだろうか。
「流石にそろそろ寝ないと」
祥瓊は榻から立ち上がる。うん、と頷いた
明秦は微かに苦笑を零した。体調は万全にしておかなければならない。おそらくは明日から過酷な時間を過ごすのだから。
「明後日、殊恩党の人と合流出来たら会ってほしい人がいるの」
「わかった」
「鈴っていう、海客の子なんだけど」
刹那、
明秦の思考が停止する。
すず。海客。いくら海客が流れ着く人数が多い慶国とはいえ、同名の者がそうそういる訳ではない事は理解している。
「…鈴?」
再度、恐る恐る聞き直した
明秦に、祥瓊はええ、と小さく頷いた。
「年齢は私や
明秦と大体同じくらいよ」
間違いであってほしいと願った直後、それはあっけなく打ち砕かれた。
◇ ◆ ◇
3.
臥牀の上、浅い眠りと覚醒を繰り返しながら薄明を迎えて、
明秦は身を起こした。
漠然と疲労感を覚えながら臥牀を抜け出すと、肌に触れる臥室の冷えきった空気に身を一つ震わせる。手早く身支度を済ませるとすぐに厩舎へ向かい、鹿蜀に食事を食ませた。昨日人が出払い、或いは早朝の所為か、厩舎も院子も静寂に満ちている。
井戸から水を汲み上げた
明秦はふと、昨晩に聞いた祥瓊の話を思い出した。
――鈴が拓峰にいる。
「え?…もしかして、知り合いなの?」
「知り合い、というか」
解散の手前に祥瓊が話した、予想だにしない話題に
明秦は困惑を隠せずにはいられなかった。
立ち去った筈の鈴が拓峰へ戻り、殊恩党へ加わった。昇絋を討つ事など考えていないという応えは、一体どこで変わったのだろう。…いや、もしかしたらあの返答は嘘だったのかもしれない。どちらにしろ殊恩党にいるという事実が衝撃だった。
言葉を詰まらせながらも、不思議そうな祥瓊に順を追って説明をしていく。すると彼女は僅かに首を傾げた。
「…鈴は、復讐の為に拓峰へ戻ったということ?」
「おそらく。それ以外にいる理由が見付からない」
少なくとも、今は。
再会した彼女の口から新しい答えが紡ぎ出されるのを願いながら、一先ず就寝が遅くなってしまった事をひとつ謝罪して、起居の入口で自室へ戻りゆく祥瓊を見送る。
完全に足音が絶えて静寂に満ちた廊下の只中、
明秦はそっと溜息を落とした。
(…無茶をしていなければいいけど)
無茶をすれば命取りだ。選択を違えたならば尚更。豺虎は容赦がない。それを鈴は十二分に理解している筈だ。…だが、理解している上だとしたら。
推察が堂々巡りする。そうして止まない思考の所為で、気付けば朝を迎えていた。
うっすらと眠気を残しながら馬房での用を済ませた
明秦は厨房で火をくべて湯を沸かす。ついでに火の傍に冷えきった掌を寄せて温める。
…何もない、穏やかな時間。これから起こそうとしている事がまるで嘘のような静けさは平和を錯覚させる。
(…明日の朝、手が悴んで剣が握り難くならないようにしないと)
漣国では決して無かった冬の冷え込みは指の関節に堪える。湯の沸騰を始める音に耳を傾け、不思議と訪れる懐古の念。どこかで似たような事を経験した気がして、柔らかな眠気と共に瞼を落とせば、ふと思い出した。
(…そうだ。この冷えは)
もう何年も経験していない、祖母の家の冬の朝と同じ。
そう自覚した刹那、心の隅が切なく痛んだ気がした。
◆ ◇ ◆
朝から鹿林園を留守にしていた桓魋から連絡があったのは昼過ぎの事だった。夕刻――日没前に戌門を少し進んだ先の街道で落ち合う、と。
さらに、旌券が無い騎獣所有者を怪しむ可能性を危惧した桓魋は二人で亥門から出るよう指示があった。仮に旌券を持たない祥瓊が怪しまれても、
明秦の旌券で誤魔化せるだろう、と。
「
明秦の旌券は誰かの裏書きがあるの?」
「え…?どうして?」
「桓魋が、
明秦の旌券なら誤魔化せるって言っていたから」
中大偉から一本隣の途を右に曲がったところで、突然投げかけられた祥瓊からの質問に
明秦は苦笑を零した。誤魔化せるという行為と確信が裏書きの話に繋がる彼女の思考には感心する。懐から取り出した旌券、その裏書きの名に目を落として、ひどく懐かしく思う。
「一応まだ、漣国のお偉い方の名前が書いてあるからだろうね」
「…ねぇ、
明秦」
「うん?」
「仙籍でも入っていたの?」
「え?」
一瞬目を丸くした
明秦はしかし、すぐさま否定の意を籠めて手をひらりと振った。
「無い無い。たまたま縁があって保護してもらった時に書いて頂いたものを持ち続けていただけで」
「保護って…」
「私は胎果だから。幸い、漣国は海客を優遇してくれる。運が良かったんだ」
胎果、と祥瓊は呟く。彼女の容姿はどう見ても海客のそれではい。道理で分からない筈だと。
「だから、この国に逃げてきた海客を見ていると辛いよ。…せめて、雁に流れ着けば良かったのにって」
「…そうね」
亥門へ近付く程に分かる、襤褸を纏い郭壁沿いに身を寄せ合いながら暮らす人々。それは大半が巧国から逃げてきた荒民だが、中には海客も混ざっているだろう。
そんな彼らを眼前に、思ってしまった。
慶国に流れ着かなくて良かった、と。
もしもあの中に自分が混ざっていたとしたら。あの荒民達と自分の立場が逆であったとしたら――思うに違いない。
どうして私が、と。
(きっと今の私の立場を羨んで、妬んで、僻むに違いない)
だからこそ変わってほしいと切に願う。
何年かかっても良い。この内乱を切欠として、苦しむ人間が見捨てられる事の無い国へと。蝕で流れ着いた者が、或いは荒れた故郷から泣く泣く逃げるしかなく絶望する者達が、国の対応によって更に追い詰められる事の無いように。
何重にも建つ、出来損なったまま放置された郭壁を横目に、廃れた扁額の下を疎らな人波と共に潜り抜ける。衛士の視線こそあったが、然して怪しまれる事無く明郭を出た二人と二騎の後方で、低い音がした。
斜陽の下、腹に響く太鼓の音。閉門の合図を聞きながら、祥瓊と
明秦は街道沿いに暫く歩を進めていく。
完全に閉門が終われば人波は自然と絶えた。新王が立ったとはいえ、妖魔が出没しない訳ではない。治安が悪くとも陽が落ちれば街の方が安全と言える。そんな中で二人が目に留まらなかったのは騎獣を所有しているお陰なのか、それとも街を出る旅人への忠告を告げる事が面倒なのか。
多分どちらもよ、と答えたのは祥瓊だった。彼女の即答に苦笑いを浮かべた
明秦はしかし、今がそれは有難いと思う。引き留められて街を出られなかったのでは、桓魋との合流も殊恩党との合流も叶わなくなるのだから。
亥門から伸びる街道を暫く進み、夜陰が色濃くなり始めたところで街道を逸れた。陰鬱とした木々の間を抜け、戌門の街道へ出たところで声が掛かる。街道脇の茂みから二人の顔を確認する者がいて、手招きする者がある。その数はざっと見、十人と十騎前後。その顔触れを一目で確認した
明秦はしかし、肝心の男がいない事に眉を顰めた。
閉門の太鼓の音が止んで暫く経つ。まさか門闕で衛士に引き留められたのだろうかと嫌な考えが頭を掠め―――突然背後より聞こえた嘶きに、思わず振り返った。
「待たせたな。急ぐぞ」
各々が頷き、或いは短い返答と共に騎獣へ騎乗する。迅速に隊列を組んで街道を駆け始め、祥瓊は先頭を駆ける男のやや左斜め後方に、
明秦は最後方を疾駆する。
「暫くは街道を進むが、日没が完全に終われば上がる。――どちらも周囲に気を付けろ。特に草寇と妖魔にはな」