漆章
1.
薄明から間もなく、淡い霧に包まれた明郭の朝は恐ろしいほどの静寂に満ちていた。
拓峰の朝と酷似している―――そう、既視感を覚えながら外套の首元を掻き合わせた
明秦は、吐き出した息が白く濁る様を横目で追いつつ厩舎へと足を向けた。
「行くよ」
柵越しに馬房を覗いた
明秦の声が響く。主の声に首を擡げた鹿蜀は尾をぱたりと一振り、それからすぐに畳んでいた足を伸ばして立ち上がった。
鹿林園に来てからというもの、馬房で過ごしてもらっていた鹿蜀には暫く運動させられずに申し訳ないと、
明秦は思う。同時にふと、手綱を引こうとする手を止めた。
…今更ながら気が付いた。
これだけ一緒にいるにも関わらず、呼ぶ名を持たせていない、と。
馬房で体力を持て余していたのだろう。曇天の下を力強く駆ける鹿蜀は普段よりも速く、しかし騎上の主には緩やかな風を吹かせながら、北韋を一路目指す。
そうして休憩を二度挟みながら旅路を進むこと約半日。昼過ぎには地上へ降り立ち、北韋へ入る事ができた。
北韋から固継までの道程は鹿蜀で地上を駆ける。左右を田圃に挟まれた途は畦と呼ぶには幅広い。遠くでおっとりと働く人の姿が見えたが、少なくとも和州の民が纏う憂鬱は感じられない。
――これが州候の差。
和州では豺虎が郷長と州候という地位へ就いてしまったがために、惨劇が続いている。…そして今度は和州に留まらず、この瑛州の片隅にまで。
侵食、と。そんな言葉が脳裏を過ぎって、駆ける鹿蜀の手綱を握りしめた。
―――早く。
楽俊が話してくれた王は、少なくとも愚鈍などではない。故に一刻も早く王が足下に気が付かなければ、侵食は広がるばかり。
―――早く、気付いて。
あの華軒に轢かれた子供のような犠牲を、これ以上出す前に。
平穏な景色を一望する者の、青鈍色の双眸が瞬いて、僅かに歪んだ。
英州北韋にある固継は広大な田圃と畑に囲まれてぽつんと建っていた。冬のために殆ど緑は見受けられず、収穫を終えて均された土が広がるだけの土地。その只中に建つために目立つのだが、生憎昨日の事件の所為か人の姿はない。それは里家の内側も同様であった。
到着した
明秦は、里家の門がぴったりと閉ざされていたために叩こうとした手を引いた。おそらく無人になってしまっているのだ。それは昨日の事件の所為で残りの者が一時別の場所へ移動したのか、或いは里家に住む者そのものが最早いないのか。
次に開く時は後継の閭胥となる者が来る時だろう。…だが、いつになるか分からない時を待っていられない。
侵入できそうな場所を探して里家をぐるりと囲む擁壁を見渡していると、不意に老婆の声がした。
内心飛び上がったものの、咄嗟に平然を装いながら
明秦が振り返ると、円背の強い老婆が一人と一騎をまじまじと見つめていた。
「見たところ旅の人みたいだね。里家に用かい?」
「ええ…」
「ご覧の通り、今は無理だよ。閭胥も死んでしまったみたいだからね」
「死んだ…?」
「そういう噂さ。荒民が食うに困って、里家に押し入ったって。尤も、死体は見つかっていないんだけどね。血の跡があったらしい」
だから余所をあたりな、と。そう言い切った老婆は鹿蜀の横を抜けて途を歩いていく。次第に小さくなっていくその背を見送りながら、
明秦は双眸を細めた。
――里家の襲撃。
――血痕。
――里家に住む子供の死。
――そして死んだと噂される、亡骸の見つからない閭胥―――。
噂と柴望から得た情報をすり合わせると、遠甫という閭胥はやはり連れ去られたのだろう。そして里家に住む子供はおそらく襲撃の目撃者。口封じの為に、命を。
考えて、はたと我に返った。…いつの間にか、指先が白く色変わりするほど拳を握り締めていた。
人目が絶えたのを確認した
明秦は鹿蜀で擁壁を悠々と飛び越える。里家の院子へ降り立ち、すぐに鹿蜀から降りた。里家の門は閉ざされているとはいえ、長居はするべきではない。万が一気付かれた場合が面倒になる。
鹿蜀の手綱を院子の木に括り付け、里家の建物の中へ足を踏み入れようとした
明秦の足がふと止まる。院子の一部の砂だけが泥を撒いたような色で汚れている。それが何であるか…何であったかなど言うまでもない。吸い寄せられた視線に次いで、爪先が汚れた土へと向かう。暗い赤錆色は土と、すぐ側に伸びる廊下を大きな斑状に汚していた。
―――これほど酷いなんて。
一部の床には拭き取られた痕跡もあったが、随分と時間が経過していたのだろう。木目に染み込んでしまったせいで上澄みだけしか拭い取れなかった、という印象を受けた。
廊下に上がり、点々と続く血痕を辿ってさらに奥へと向かうと、更なる惨状が待っていた。
蹴破られたらしき複数の障子。踏みにじられた血痕。その向こう。
薄暗い起居の、血飛沫のかかる半開きの扉から辛うじて光が入る。倒れた椅子、擦られた血痕、散乱していたであろう、堂の隅に寄せられている物達。
絶句していたのも束の間、ふと何気なく落とした視線が複数の足型を捉えた。はっきりとした痕跡は、揉み争った訳ではない事を言外に表すものである。つまりこれは一方的な襲撃。それも、見るからに単独ではない数の。
里家に手練れの者などいる筈がない。少し考えれば分かる事だ。にも関わらず、襲撃した者達は容赦なく蹂躙した。おそらくは、最初からそのつもりだったのだろう。
土足で踏み荒らし、人の命まで刈り取って。
(酷すぎる…)
祥瓊の予想通りならば、この惨劇を差し向けたのは拓峰に巣食う豺虎だ。そして拓峰の門が開き、郷城へ入ったのは華軒だという目撃証言は得ている。ならば、里家から拓峰までの途は街道を通ったのだろう。小さな馬車ならば兎も角、華軒であれば通行できるのは街道ぐらいなものだ。
…そう、おそらくは拓峰で子供を轢いたものと同じ規模の―――。
そこまで考えた
明秦は不意に、墓地で出会った少年の存在を思い出した。彼や彼の身内ならば、目撃か噂を知っているのではないだろうか。
(…拓峰は他の連中が調べている、けど)
大人数での行動は好ましくない。そのため里家の調査が終われば拓峰へ向かった者達と合流などせず明郭へ帰るべきである事は理解している。それでも墓地で出会った少年の事が脳裏に浮かんで離れない。
逡巡に然程時間は掛からず。人目を気にしながら里家を出ると、鹿蜀に騎乗し足を延ばすのだった。
疎らな人の流れの中、扁額を仰ぎ見て去来するのは、嘗ての苦い感情だった。
旅人に混ざり門を潜り抜けた先に見える広途は相変わらず閑散としていた。時折住民らしき者が鬱々とした面持ちで、しかし足早に通り抜ける。…まるで、そこに何も無かったかのように。
(…そうしなければ、此処では生き延びることができないのか)
豺虎の目に留まらない為には見ない振りをしなければならない。だからあの時――少年が華軒に轢かれた時、誰も手を差し伸べなかった。
そう考え、
明秦ははたと我に返った。ぎり、と奥歯の軋む音を耳にしたがゆえに。
(…いいや、誰だって自分の身は大事だ)
無意識に握り込んでいた拳を解いて、そっと息を吐き出す。誰だって――特定の者を除いて――死は恐ろしい。桓魋達のように決起する意志を持つには散華の可能性を含む覚悟を据えなければならない。できなければ、脅威に怯えるのも致し方ない事なのかもしれなった。
(正直、私だって死ぬのは怖い)
思い、
明秦は広途から目を逸らす。
―――そういえば、あの時駆けつけた者は無事だろうか。
そんな心配も記憶を顧みて、即座に撤回した。…よくよく思い返せば、あの青年は日本語を話していた。少なくとも
明秦の耳にはそのように聞こえていた。ならば無事に違いない。本来ならば怪我とは無縁の身なのだろうから。
次第に疎らになっていく人波の中、
明秦は広途を通り抜けながら郷城を遠巻きに見詰める。墻壁は恰も権力を誇示するようにおそろしく高く、
箭楼にはあまりにも似つかわしくない装飾が豪奢に施され、果たして要事の際に機能を果たすのだろうかと目を疑った。…否、おそらくは要事が来る事など考えてすらいないのだろう。郷長よりも上の存在が罰を下さない限り、拓峰を牛耳る豺虎でいられるのだから。
明秦は以前の記憶を辿りながら嘗て出逢ったあの少年が働く飯堂を探して歩き、案外早く辿り着く事ができた。
…だが。
(ん…?)
本来ならば宿として、飯堂として開いている筈の建物はしかし、戸口はぴったりと閉ざされ、明かりも人の気配も途絶えていた。嘗て裏口から出入りした際に通り抜けた串風路へ回り込んでみたが、ただ薄暗く影が落ちるばかり。その先に灯るものは微塵も無い。
(――拓峰を逃げ出したのだろうか)
明秦は思い、しかし即座に打ち消した。
不意に思い出したのは嘗て飯堂で待っていた折に覚えた違和感と緊張感。あの時受けたのは飯堂にいた男達の警戒を含む鋭い視線。拓峰の住民とは異なる、抜刀すればすぐにでも飛び掛かり兼ねない――そんな空気の中に居座る者達を、夕暉は身内だと言っていなかったか。そんな者達が、果たして拓峰を逃げ出すだろうか。
だとすれば、もしや。
(…彼等もまた、動いている?)
その疑いが確信へと変わったのは、周辺の住民への聞き込みで判明した、宿が二日前に閉じたという情報だった。まるで夜逃げのように、一晩であっという間に姿を消したのだという。そして同時期に北韋の労の移動、里家の襲撃。
(襲撃に警戒した…?)
里家の襲撃を耳にした彼らと労が、次の襲撃先を危惧して姿をくらませたのでは。
行き着いた思考に
明秦は足を止めかけ、急ぐように踵を返した。人気がなく陰りばかりが淀む元飯堂の前を通り過ぎ、急ぎ足で明郭への帰路を辿り始めるのだった。
◇ ◆ ◇
2.
明秦が明郭へ戻ったのは夕方、閉門間際のことだった。
彼女が延王から賜った鹿蜀という騎獣は高価ではあるが趨虞ほど稀少ではない。それでも騎獣は馬より目に付く存在ゆえに、数日間に同じ門闕を往来するのは憚った。そのため往路とは正反対に位置する門闕へ回り込み明郭へ足を踏み入れたのである。
迷路のような壁の間を紆余曲折した末に鹿林園へ戻ってきた
明秦は、厩舎に鹿蜀を繋ぐと早々に正堂へ足を踏み入れた。人目を気にしながら足早に借り受けている房間へ駆け込み、なるべく音を立てないように戸を閉ざした。さらに臥室へ入ると手早く背子を脱ぎ捨て、左腕にきつく巻いていた布切れを解くと思わず顔を歪めた。深くはないが浅くも無い切り傷から、僅かに血が滲む。
(下手は打ったけど、追っ手がいなかったのが幸いだった…)
房間へ駆け込む手前で調達した手巾を細長く破きながら、日中の失態を顧みる。
おそらくは拓峰で目を付けられていたのだろう。帰路の途中で草寇に待ち伏せされていたのである。
鹿蜀に騎乗し街道を駆けていた
明秦は明郭へ戻った際に桓魋へ報告する内容を整理していた。拓峰へ足を踏み入れた事は伏せるべきか。それとも伝えた上で虎嘯や夕暉達の存在を知らせておくべきか―――。
思いあぐねていた
明秦が少しの間視線を田圃広がる景色へ逸らした、その最中。
視界の端に物影を捉えた刹那、意識を引き戻して物影へ視線を飛ばした。目に飛び込んできた鈍銀の光を認めた瞬間、それが何であるかを理解し咄嗟に身を反らした。僅かに避けるのが遅れた左腕に鋭い衝撃が走る。
(草寇…!こんな時に…!)
握り込んだ剣の柄を勢いよく引き抜き、馬首を巡らせた。男の舌打ちと共に距離を置いた
明秦の視界に捉えたのは、一騎と二人の合計三人。それらが行く手を阻むように街道を立ち塞いで、明らかに不利な状況を目前に手汗が滲む。
「姉ちゃん、いい騎獣を持ってるな。あんたにゃ勿体ねぇから、ここで置いてきな」
「生憎、置いていく道理がない」
「聞こえなかったのか?あんたにはその騎獣はもったいねぇって言ってるんだ」
「言葉を返すようで悪いけど、貴方にこの騎獣は勿体ない」
「あ?」
騎獣に乗った男は片眉を吊り上げた。おおよそ初老に見えるが、もし手練れであれば油断はできない。じりじりを間合いを詰めてくる男達を視界に入れながら、
明秦は男達が現れた方角――街道を挟んで右側に開けた田圃とは反対側を眼の端に捉える。
陰翳が濃く落ちる雑木林。そこに潜んでいたという事はおそらく良い獲物が通りがかるのを待ち伏せしていたのだろう。
睨み合いに痺れを切らしたのか、男は騎獣を走らせ、片手に握り込んだ剣を明秦目掛けて振り翳した。振り下ろされた鈍銀のそれを、明秦は余力を残して弾き上げる。呆気に取られた相手の隙を逃さず、歯を食い縛りながら軌道を定めて剣を走らせた先は、騎獣の頸だった。
深く滑らせた手応えと騎獣の断末魔に思わず顔を歪めながら振り返る。鈍い音を立てて地面に転倒した騎獣と共に男が投げ出されたところで、
明秦は無言で剣を差し向けようとした。
―――やるしかない。
そんな考えが刹那脳裏に浮かんで、
明秦は愕然とした。あれほど人を手に掛ける事に葛藤し、故に桓魋達への協力に悩んでいたというのに。
いつから、こんな判断をするようになってしまったのだろう。自分が非道かつ冷酷な人間になった気がして、
明秦はひどい吐き気を覚えた。
(…こんな考え、里家を襲った犯人とそう変わらない)
違う、と
明秦は顔を歪めた。こんな事をする為に檸典から対人の技術を叩き込まれたのではない。あれはあくまで自衛と窮地を切り抜けるための術だ。決して人を殺めることを目的とした技術の向上では無かったはずだと。
血迷った自身を叱咤して、
明秦は剣の切先を男に定めた。
「これ以上やるのなら、次は貴方の首を刎ねる事になる。どうする?」
「くそっ…!手練れかよ!!」
悪態を吐きながら立ち上がった男は後に引けないのだろう。騎獣を倒されてもなお剣を握り直して立ち塞がろうとする草寇を眼前にして、
明秦は内心溜息を吐くと、向かい来る男達に応戦すべく鹿蜀の鞍から降り剣を構えるのだった。
(…、痛い……)
欝血しない程度に腕を縛ったが、腕を動かす度に痛みが走る。以前に傷を見ると痛みが増す、という話を玉叡から聞いていたため、房間へ到着するまで傷そのものは目にしていなかった。あの話は本当だったのだとしみじみと実感しながら、替えの小衫と背子を引っ張り出して。
「
明秦?いるの?」
戸を叩く音と少女の声に
明秦は思わず飛び上がった。
慌てて小衫に袖を通すと臥室から顔を出す。完全に閉ざしたためか戸は開けられておらず、廊下にいるようだった。
「祥瓊?どうした?今着替えてるけど」
「馬房に鹿蜀がいたから、帰ってきたのは分かっていたのだけど……桓魋が探していたから、報せておこうと思って」
「分かった。着替えたらすぐに行く」
祥瓊に返事をして着替えを手早く済ませると、臥室を出た。房間を抜けて廊下へ出たところで、待っていたであろう祥瓊と鉢合わせて
明秦は思わず目を丸くした。
「どうした?」
「桓魋は正房にいるわ。私は日中帰ってきて、もう報告を済ませたから」
「分かった。今から行ってくる」
「それと」
うん、と返事をしかけた
明秦の袖が不意に引かれる。すれ違いかけた祥瓊を振り返ると、真摯な眼差しを
明秦へ据えていた。
「さっき、急いで房間へ入っていくのを見たの。見間違いだったら謝るわ。…腕、怪我をしているんじゃない?」
「…見た?」
「血が滲んでいたわ。見間違いじゃなければ」
明秦は逡巡も束の間、すぐに溜息を吐いた。見られていたのならば言い訳を並べたところで意味は無いのだと。
「帰りに少し怪我をしただけ。大したことはないから」
「大した事ではないのなら、見られないようにしていたのは何故?」
「心配をかけたくないから」
「…、何で怪我したの?」
「小競り合いに巻き込まれただけ。大丈夫、追手はいなかったから」
「小競り合いって…里家で?」
怪訝そうに首を傾げた祥瓊に、
明秦は言葉を詰まらせた。里家で小競り合いがあったとなれば、それはそれで報告しなければならない。下手に嘘は吐けないと、観念して経緯を白状するのだった。
◇ ◆ ◇
3.
「――それで、拓峰の人達とは会えなかったのね」
「うん。おそらくは、何かがあって移動したのだと思う」
一旦房間へ戻った
明秦は祥瓊を招き入れると、榻に腰掛け里家と拓峰を訪った件を明かした。
話が進むにつれて、祥瓊は考え込むように顔を俯かせる。
明秦は少女の神妙な面持ちを少しばかり覗き込むと、不意に視線が合った。
「…もしかしたら」
「うん?」
「豊鶴の労の所へ行ったとき、拓峰で冬器を集めてる人と会ったの。それって、
明秦が探していた人達じゃないかしら」
「…そうかもしれない」
「だとしたら決起が近いと、桓魋が言っていたわ」
なるほど、と
明秦は頷く。夕暉達が営む舎館、その飯堂に集っていた身内とはおそらく決起する仲間だったのだろう。
…動き始めている。
全ては、腐敗した慶国を変える為に。
桓魋達に手を貸す決意をした以上、独断で拓峰へ加担しに向かう訳にはいかない。尤も、向かったところで何ができる訳でもない。
明秦にはそれが少しばかりもどかしく感じていた。
「…ありがとう祥瓊。今から桓魋に報告してくる」
「ええ、いってらっしゃい」
榻から立ち上がった祥瓊と
明秦は房間を出る。途中まで廊下を共に歩き、一階の最奥へ続く廊下の分岐で二手に分かれた。最奥の房室へと向かう
明秦の足取りは普段よりもゆっくりと。…あくまでも、腕の怪我の件は伏せておく方向で報告を整理しながら。
そうしていくらも掛からず辿り着いた房室前の、僅かに開けられている扉を軽く叩いた。中からは誰何の声があり、名乗った
明秦の入室を許可する声がある。そうして足を踏み入れた桓魋は彼女の姿を認めると席から立ち上がった。
「遅かったな」
「少々いざこざがあって」
「いざこざ?」
「ええ」
桓魋が僅かに眉根を寄せて問うも、
明秦は首肯するのみ。間髪入れずに別件を切り出した。
「里家の件については、閭胥は亡くなったが遺体がまだ見つかっていない、という噂が流れてるらしい。里家の中は血痕がそのままだったけど、少なくとも里家で殺された少女のものと、あと一人分の血痕があった」
「……そうか」
明秦の報告を受けて、桓魋の表情が僅かに険しくなった。眼前の者から視線を外したのはおそらく情報と照らし合わせているのだろうと、
明秦は落ちた沈黙の中でぼんやり思う。
「それで…そちらは?閭胥を連れ去ったのが昇紘であるという情報は」
「裏付けして、やはり間違いない。手の早い昇絋の事だ。閭胥は既に拓峰にいないかもしれん」
「いないって…それは」
「殺されたか、或いは…昇絋が殺すのではなく攫うよう命じるほどの人物だ、案外別の場所へ送られている可能性がある」
「なるほど…」
願わくば後者でいてほしいと、
明秦は密かに願う。閭胥との面識は皆無だったが、人の訃報を耳にするのはやはり胸が痛くなるものだから、と。
そこまで考えてふと、
明秦は問わねばならない件を思い出した。
「そういえば、労という人が余所に移った理由は」
「ああ、労の周りをうろつく不審な娘がいてな。移動した方がいいと、忠告を受けて豊鶴へ移ったらしい」
「忠告?誰から?」
「そこまでは聞いていなかったが、おそらく拓峰の者だろう」
「それは…決起が近いという?」
「うん?…ああ、祥瓊から聞いたのか」
意外そうな表情を浮かべた桓魋に、
明秦は頷く。
「随分と前から冬器を集めていたらしい。労が移動した件も、決起を考えている連中の忠告だろうな」
「なるほど…」
労が捕まれば夕暉達の身もまた危うい。冬器が見付かれば尚更、一層慎重に事を運ばなければならない事は想像に難くない。
今は夕暉達が無事に事を運べる事を願うしかない、と。僅かに俯いて、少年の険しい面持ちを脳裏に過ぎらせながら、密かに願う。
「何か気掛かりな事でもあるのか?」
「…間違いで無ければ、拓峰で決起する者達の中に知り合いがいる。それで、少し心配しただけ」
「それは…確かにな」
明秦の話に頷いた桓魋の表情が僅かに曇る。
「正直、状況は思わしくない。いくら乱を起こす者達が多勢だたとしても、失敗する可能性の方が高いと言える。昇絋を守る者が後ろ盾に在るからな」
「やはり…」
夕暉達の狙いが止水郷長である昇絋であるのならば、桓魋達が狙っているのはその上だ―――和州州候、呀峰。
癒着している事は
明秦も耳にしていたが、乱が起きた際に後ろ盾が出てくる可能性は考えていた。やはりそうなのだ。……だとしたら、敗走の可能性は。
決して明るくはない結果を想像して、しぜん、
明秦は暗くなった面を俯かせる。僅かに落ち込んだ彼女の左肩を叩く感触が重い。
「それに、俺達も同じように立ち向かうからな…決して他人事になれんだろう」
「…うん」
…遠くない先に、乱を起こす。
その皮切りは桓魋達の判断なのだ、もしかしたら拓峰よりも早い決断になる可能性もある。無論、対岸の火事ではいるつもりは無かったが、桓魋の言葉を胸中に留めると再度据えた覚悟を顧みる。
―――共に乱を起こす覚悟。
―――人に手を掛け、命を賭す覚悟を。
心中を落ち着かせるように深く息を吐き出したところで、頭上から降る声に
明秦は俯かせていた面を上げた。
「―――それで?」
「うん?」
「道中のいざこざとやらも、話してくれるんだろう?」
「なんてことはないよ。ただ、帰り道の途中で小競り合いに巻き込まれただけ」
「小競り合い?」
「…草寇に絡まれただけ」
草寇、と
明秦の言葉を耳にした途端、あからさまに桓魋の顔色が曇った。どこか剣呑な雰囲気さえ漂わせ始める男を前に
明秦は発言を後悔した。小競り合いで止めておけば良かった、と。
「大丈夫、叩きのめしてから帰ってきた。追手はいなかったから」
「お前さんはよくこう…標的にされるな」
「高価な騎獣を持っているからかと」
「そうだな…若い割に高そうな冬器と騎獣を持っていれば標的にもなるか」
納得するように、或いは諦めたように話す桓魋に、
明秦は苦笑しながらも相槌を打つ。確かに、二十歳を越えたとはいえ、まだ若い部類に入るのだと。
同時に若者へ報酬と名目をつけて騎獣を贈与した大国の王の、その気前の良さには改めて脱帽するのだった。
「――報告は以上です」
では、と
明秦は一礼をして踵を返した。房間に戻り少し休息を取りたい気分だったが、交戦したのだから剣を拭っておかなければ。それから、血で汚れた小衫も洗っておきたい。切られた箇所も縫い合わせておかなければ。
今後のやるべき項目を挙げながら房室の出口へと向かう。足早になるのを抑えながら普段通りの足取りを心がけて、扉に手を掛けた
…いや、掛けようとした。
「
明秦」
背後より呼び止められる彼の声が無ければ。
足音が迫り来たのも束の間、
明秦が扉に手をかけるよりも早く彼女の右肩を掴む力に引かれて、扉に触れかけた右手が遠くなる。思わず振り返り、視界に入れた男の表情を認めた瞬間、僅かに身を硬くした。
怒りと呆れを綯い交ぜにしたような、複雑な面持ちを。
「俺を誤魔化せると思うなよ」
何を、と問いかけるよりも早く、桓魋は
明秦の異常を目視で探し始めていた。
疑いをかけているのではない。確信を以て負傷箇所を探しているのだと、彼の発言から察した
明秦は愕然とした。傷を庇うような動きをしたつもりはない。包帯は小衫の下に巻いている。その上から袍を着ているのだ、見える筈が無い。
ならば、見透かせた理由は一体。
「何処だ、怪我したのは」
「掠り傷程度」
「ではないな。どこを斬られた」
あっさりと断言されて、
明秦は戸惑いから視線を泳がせた。桓魋がこの房室から外を覗くとしても、窓は表が見えない位置に設けられている。ならば何故、祥瓊が先に情報を伝えたのか。或いは凱之か誰かが先刻の姿を目撃して先に報告したのでは―――。
桓魋が断言する理由と疑問が
明秦の脳裏に渦巻いていく。右腕を持ち上げられ、矯めつ眇めつして下げられ、左腕を掴まれたところで、桓魋と視線がぶつかった。どうして、と
明秦が動揺の中で辛うじて零した問いに、男は僅かに苦笑を浮かべた。
「訳あって、鼻が利くからな。――さて。負傷したのは左腕だな?」
ここだ、と上腕へ武骨な手がそっと添えられる。
そうして正確に言い当てられては、諦めるより外に無く。深く溜息を一つ吐き出すと、苦笑と共に首肯を返すのだった。