陸章
1.
しつこく追い回してくる兵士を何とか撒いた
明秦がようやく鹿林園への帰途に就くと、周囲を警戒していたのだろう。通りがかりの住民のふりをしていた仲間からすれ違い様に軽く肩を叩かれた。
労いか、或いは首を突っ込んだ事に対する警鐘か。…おそらくは、双方だろう。
頭上を仰げば、先程まで淡い縹色の空に紗のような雲がかかっている。遙遠へ飛ばした視線の先にあるのは、曇天。
―――明日は、雨だろうか。
息を整えながら鹿林園の敷地内へ足を踏み入れると、框窓脇の柱に寄り掛かる男の姿を遠巻きに見付けて、
明秦は一瞬足を留めた。遠方ゆえに顔は見えずとも、確実に大門へ――正確には、門を潜ってきた者へ視線を送る彼が誰であるかは、近付かずとも容易く察せられる。
「…凱之」
「お前より早く、勇敢なお嬢さんが手を出したらしいな」
「あぁ、あの子か」
凱之の元へ駆け寄って、
明秦はこくりと頷く。広途で何が起きたのか、正確な情報が既に巡っている。流石州師だと感心を抱いたと同時、不意に桓魋が助けに向かった少女への心配が脳裏を過ぎる。彼女は無事、明郭の外へ逃げられただろうか。
そう、思っていたのだが。
「どうやら足を挫いたらしくてな。将軍が背負って連れてきた時には驚いたが」
「桓魋が、連れてきたの?」
「ああ」
瞠目して問うた
明秦に凱之は軽く頷く。確かに、匿う先は鹿林園が最適だ。寧ろそれ以外に匿える場所を、この土地の者ではない彼らが考えるのは難しい。
いっそあの緋色髪の少年も此処に連れて来れば良かっただろうか。そう考えたのも束の間、いいや、と思案を打ち消した。いくら拓峰での件があったとしても、先刻彼が箝口を願った件については猜疑ばかりが募る。此処へ連れて来たとしても、危難の可能性が高まるのであれば、あの場で別れて正解だろう。
「桓魋に戻った報告をしてくる」
「そうしてくれ。おそらくまだ彼女と一緒にいるだろうから。奥の空きの房間だ」
「分かった」
軽く首肯した
明秦は凱之の前を通り過ぎて框窓を潜る。この民居には院子を囲んで四つの堂屋が建っていたが、空いている房間は限られていた。
明秦が借り受けている房間の他に、空いている奥の房間は一個所しかない。
奥へ奥へと廊下を進んでいくと、僅かに開かれた扉を見て歩む速度を緩める。扉前の衝立越しに聞こえる会話は聞き慣れた男の声と、先刻耳にした少女の声と。衝立の前で足を止めた
明秦は黒緑の髪を手櫛で軽く整え、上着の埃を軽く払うと、衝立越しに声を発した。
「失礼。桓魋殿はおられるだろうか」
「その声は…
明秦か」
「ああ。入っても?」
「構わん」
衝立越しに了承の声を受け取って、
明秦はゆっくりと扉と衝立の間を抜ける。榻の上に片足を伸ばした、紫紺の髪の少女と最初に目が合い、次いで椅子に坐る男が安堵の笑みを浮かべていた。
「ただいま帰った」
「遅かったな。手間取ったのか?」
「ああ、撒くのに少々」
本当は少々どころではないのだが、と。心中の補足を手前で飲み込むと、すぐに少女の足へ目を向ける。余程挫け方が酷かったのだろう、腫れ上がってしまった足首がひどく痛ましい。
「足を挫いたって、凱之から聞いた」
「郭壁から飛び降りた際に捻ったらしい。安静にしていればすぐに良くなるだろう」
「そうか…大事になってなくて良かった」
少女の代わりに説明を挟んだ桓魋へ相槌を打つ。骨が折れなかったのが幸いだと、一先ずほっと安堵の息を吐いた。骨折であれば療養の時間を相当要しただろう。
これ以上は会話の邪魔になるだろうと、
明秦は軽く拱手を構えてから踵を返す。後頭部で一括りにした黒緑の髪が靡いて、覆いかけたその背へ、不意に掛かるは制止の声。
「
明秦」
「ん?」
「暫くは鹿林園から出るなよ。顔を見られているからな」
「…食事は?」
「ああ。俺とお前と、こちらのお嬢さんの分は他の連中に買ってきてもらう。それでいいな」
「分かった」
仕方ない、と
明秦は目を伏せる。迂闊に外へ出られて、万が一この民居の情報を漏らしてしまうような事態が起きれば、画策してきた全てが水の泡になってしまうのだから。
外出できなくなるのはひどく不便に思うのだけれども、自分で首を突っ込んだのだから自業自得だ。
今度こそ退室していった
明秦を、桓魋と少女が見送る。遠ざかる足音を聞きながら訪れ始めた静寂にぽつりと声を落としたのは、紫紺の髪の少女――祥瓊だった。
「…あの人」
「さっきお前さんを助けてくれた少年に加勢してな。手間取ったという事は、既に顔を覚えられているだろう」
「…ごめんなさい、私のせいで…」
「気にするな」
祥瓊は気拙そうに俯いたが、桓魋は坐ったままゆるりと頭を横に振ると、膝上で手を組み合わせながら微苦笑を浮かべた。
「ちなみに、真っ先に助けに行こうとしたのはあいつだな。正義感が強いのか、それとも咄嗟だったのか…」
桓魋は扉をぼんやりと見ながら呟く。隣で彼の言葉を聞いていた祥瓊は、不意に複数の記憶を思い出した。
嘗て閭胥の息子が刑吏に石を投げて殺された話。
先刻に出会った緋色の髪の少年は、石を投げた祥瓊を助けた。
緋色の髪の少年を助けた黒緑の髪の。
勇敢と無謀は紙一重だ。失敗に終われば無謀と評価され、死が待っている。だが、彼らは臆することなく動いた。…いや、自分のように衝動的だったのかもしれない。
だがそれでも、人を助ける為に危険を顧みず動いたのは事実で。
「桓魋。あの人の部屋は?」
「後で房間を案内する行きがけに教える。今はもう少し休んだ方が良い」
「ええ…ありがとう」
出ていく桓魋の背を見送りながら、祥瓊は肩の力を抜く。
先刻見た限りでは同じ年頃の少年だった。…少しばかり、話を聞いてもいいだろうか。
◆ ◇ ◆
房間を出た
明秦は暫く廊下を歩いていたが、やがて自然と足を止めた。
衝動的とはいえ、自分が取った行動は結果的に桓魋達へ迷惑を掛けたのかもしれない。お陰で外出を制限されたのは自分だけではなく、彼も巻き込んでしまった。此処がばれてしまえば今まで進行させてきた計画が全て水の泡になってしまう。下手をすれば、全員殺刑になっていた可能性もある。そう考えると背筋が凍る思いがした。
…ただ。
あの時動かなければ、少女は一体どうなっていたのだろうか、とも思う。逃げられずに輪の内へ引きずり出され、磔刑にされただろうか。それとも別の処罰を―――
「
明秦」
不意に名を呼ばれて、
明秦は反射的に振り返る。今しがた通ってきた廊下を見ると、房間を出てきた桓魋が神妙な面持ちで歩いてくるところだった。
「何処に行くつもりだった」
「自分の房間に戻ろうかと。…桓魋は?」
「お前さんと少々話そうと思ってな」
「私と?さっきの話の他に?」
「ああ」
片腰に手を当てて頷く桓魋に、
明秦は首を傾げる。勇敢な客人との話を切り上げてまで話しておく事が他にあっただろうか。
そう、思い当たりそうな事柄を顧みていたのだが。
「あの時動いたのは衝動からか?」
問うた者の、心持ち低くなった声音。あの時とは、と問い返すまでもなく僅かに目を見開いた
明秦は桓魋を注視したが、程無くしてふっと視線を逸らした。
不意に脳裏を過ぎるのは、先刻の磔刑と悲鳴。本来有り得ない光景は国の――国政の腐敗ぶりを物語る。あの時抱いたのは眼前の、理不尽な理由から他者の命を絶つ者への怒りであり、自分と出自が同じ王の目を逃れて行われていた所業が許せなかったのもあるかもしれない。
何れにせよ、と
明秦は深く頷いた。
「ああ…半ばそうだった」
「中途半端な覚悟のうちは加担しないと、以前に言っていた気もするが」
彼の追及に
明秦は内心苦笑する。そう問うのも無理はない。加担を躊躇し逡巡していた者が制止をかけられたにも拘らず、突然反逆者になり兼ねない行為をやってのけたのだ。一体どういう心変わりだと責められて当然だった。
「腹が決まった、と捉えても?」
「衝動的に動いたとはいえ、足を踏み入れたのは私からだから。そう捉えてもらっていい」
「そうか。それなら助かる」
刹那、桓魋の神妙な面持ちが崩れる。一転して和らげた表情、その口からは安堵の溜息がひとつ。それはそうだ、と
明秦は思う。ここで中途半端な返答であったなら、今後の不安要素になり得るのだから。
「お前さんほどの腕前なら歓迎だからな。…衝動的なのが玉に瑕だが」
「それは……もう大丈夫」
今後衝動で動けば命取りになる。それは重々理解の上、硬い表情で
明秦が頷くと、苦笑を浮かべた桓魋は冗談だと彼女の肩を叩くのだった。
◇ ◆ ◇
2.
「早速やらかしたねぇ」
翌早朝、
明秦は鈍りそうな体を動かす為に院子へ出ると、聞こえてきた快活な声に足を止めた。井戸の縁から立ち上がったのは、見事な体格の女性だった。鹿林園の中でも数少ない同性の傭兵で、此処へ来た当初
明秦に声をかけてきた人物でもあった。
決して責めるわけではない声音が、一瞬強張った
明秦の表情を緩めさせる。
「玉叡」
「此処へ来て間もないのにね」
「まぁ…やらかしたのは間違いないけど」
「別に批難してるわけじゃない。それにもう皆知っている事さ。…でも、あんまり無茶するんじゃないよ。早死にはしてほしくないからね」
「ああ、今度からは気を付ける」
玉叡は諫めるように
明秦の肩を叩く。彼女は桓魋にも同様の話をしたが、苦笑と共に流されたのだという。
やはり彼には迷惑を掛けてしまったのだろう。そう考えると、胸の内に若干苦い思いが蟠る。
「――あ、それで思い出した。あの人が連れて来たっていう御客人は無事かい?」
「足を挫いただけとは聞いた」
「そうかい。じゃあその内治って歩けるようになるね。良かったよ」
「うん。…少し様子でも見てこようかな」
「そうしな。外をほっつき歩けないとはいえ、剣の鍛練ばかりじゃ気が滅入るだろうし」
「そうする」
ややあって頷いた
明秦はゆっくりと踵を返した。何しろ昨日は桓魋へ帰還の報告の為に房室を訪れただけだったので、彼女自身から事情を聞いてはいない。そういえば何故あの場所にいたのか、覚悟を以て石を投げたのか―――少しばかり疑問を抱きながら、昨日少女が手当を受けていた房間へ足を向けた。
辿り着いた房間の扉は閉ざされていた。
別段鍵が掛けられている訳ではなかったので戸を開けて室内を覗いたが、人の姿が無ければ気配もない。ただ、完全に房間の空気が冷え切っていない事から、房間が無人になって然程時間が経過していないのだと分かる。
(昨日の今日だ、あの足でそこまで遠くは歩けないはず…)
決して広いわけではないが狭くもない。さらに言えば客人が長居できる場所も限られている。一体何処へ、と思案していた矢先、窓の外から微かに聞こえてきた声を耳にして振り返った。
一人は男性――桓魋の声だ。そしてもう一つは若い女性。聞こえてくる会話の元を辿り歩くと、厨房の裏手へと出る。井戸の方から水音がしたので振り返ると、井戸端で甕を洗う桓魋と少女の姿があった。
「何してるの?」
「ああ、
明秦。丁度良いところへ来たな。暫くの間祥瓊が此処に居る事になった」
「よろしく。…ええと、あなたは昨日房間に来ていた」
「
明秦です。どうぞよろしく」
「ええ、こちらこそ」
手を休めて立ち上がった少女の淡い紺青の髪が揺れる。手巾で水滴を拭い差し出された手を、
明秦は軽く握った。…この手が、磔刑にされた男を助ける切欠を作ったのだ。
そう思うと同時、掌から伝わる拭いきれなかった水の感覚に、思わず怪訝気な眼差しを屈み込む男へと向けた。
「…怪我が少し良くなったからといって、客人を働かせるのはちょっと」
「別に強制しているわけでも俺が言い出したわけでもないんだが…」
苦笑した桓魋は同意を求めるような眼差しを少女へ向けたが、返ってきたのはくすりと微笑が一つのみ。桓魋の言葉は正しいのだが、
明秦の言葉にも一理ある。故にあえて祥瓊は返答せずにいると、思わず眉尻を下げた男はやれやれと後頭部を掻くのだった。
「足はどう?歩いて大丈夫か?」
「ええ、何とか。…あの、ありがとう」
「え?」
礼を言われる心当たりがない
明秦は首を傾げると、祥瓊は言葉を続ける。
「閑地に逃げた人を支援してくれたって聞いたわ」
「礼なら桓魋に。私はただ衝動的に飛び出しただけだから」
「でも、あの人に代わってお礼を言うわ。こんな事でしか、お礼できないのだけれども」
「いや、これは大いに助かる。なぁ
明秦」
「まぁ、掃除できる人がほとんどいない上にやる気も無い人達ばかりだし」
「そうなの?……呆れた」
桓魋と
明秦を交互に見、祥瓊は肩を落とした。多忙故に出来ないのではなく、そもそもやる気がないのであればここまで荒れるのは当然であると。
「三人でやればすぐ終わるわよ」
「だそうだ、
明秦」
「分かった…荷物置いてくるよ」
苦笑と共に得物を近くの柱に立てかけた
明秦は袖を捲った。剣を振るうに値する筋力のついた、傷だらけの腕。随分逞しくなったそれを見下ろし、ふと祥瓊を振り返る。肌が日に焼けてはいるが、端正な顔立ちの少女だ。女性らしい―――自分よりずっと。
そんなものは随分前に何処かへ置いてきてしまったと、口からはやはり苦笑しか出なかった。…それを取り戻すつもりも、最早微塵もないのだけれども。
祥瓊の言葉通り、三人による作業ではあっという間に厨房が片付いた。洗われた器は拭いて重ね上げられ、鍋も茶器も分けて並べ置かれている。整理された厨房に出入りする通路が現れた時には――以前は足の踏み場も殆ど無かった――桓魋も
明秦も思わずおお、と声を上げてしまった。そんな二人の横から、少女の苦笑が聞こえた。
「二人とも、口が開きっぱなしよ」
「いや、ここまで片付くとは思ってなかったからつい」
「ああ。本当に助かった。…と。そういえば
明秦」
「うん?」
「何か用事があって来たんじゃ無かったのか」
今更ながら合流した理由を尋ね忘れたことを思い出した桓魋は首を傾げると、
明秦は手をひらひらと横に振る。
「単にこのお嬢さんの様子を見に来ただけだから」
「そうか。…後で少し話があるんだが、いいか?」
「ああ、都合のいい時に声をかけてくれればいいから。私は自分の房間にいるよ」
「分かった」
◆ ◇ ◆
桓魋が仲間となった客人の房間を訪ねてきたのは日没から随分と時間が経過してからのことだった。
臥牀――といっても榻を並べ背子を敷いただけの簡易的なものだが――に就く準備をしていた
明秦は、僅かに開けてある扉を叩く音を耳にして振り返る。続けて、近頃ようやく耳に馴染んできた声を聞き僅かに籠もった肩の力をそっと抜いた。
「入るぞ」
「どうぞ。…てっきり、今日は来ないものかと思った」
「すまん、少々用事ができてな。すぐには来られなかった」
房間へ出ようとして、扉を閉ざす音を耳にした
明秦は僅かに眉根を寄せる。こちらの常識では、戸は常に僅かでも開けておくものだった。無論知っている筈の桓魋が閉ざしたのならば理由はただ一つである。…余所に決して漏れたくない話を交わすという合図。
房間へ出た
明秦は桓魋に椅子を勧め、彼が席に着くのを確認してから自分もまた対面状の席に腰を下ろした。扉が閉ざされているのを衝立越しに一瞥したのは、警戒しているためか。
「それで、話の内容は?」
「ああ…
明秦、改めて確認したい事があるんだが、いいか?」
「確認?…答えられる範囲であれば」
神妙な面持ちの桓魋を前に、
明秦は思わず眉根を寄せた。
…何かを疑われているのでは。そんな不安と疑問が一瞬胸を過ぎる。
「舒栄の乱の件についてだが…あの時、お前は麦州候へ書簡を届けに来た折、延台輔の名を挙げていたな」
「ええ」
「…雁国延台輔とは、どういった関係だ?」
「どういった関係…とは」
「ただ剣の腕前があるというだけではあんな大任に抜擢などされる筈がない。できればその経緯を教えてくれると助かる」
「経緯…」
明秦は考え込むようにそっと顎へ指を当てる。目まぐるしい変化の渦中。果たしてどこから話すべきか回顧しつつ思案を巡らせ、結局巡り合わせから切り出した。最初から話してしまった方が変な誤解を生まないだろう、と。
――慶国と巧国の国境で出会った事。
――妖魔の襲撃の折に接触し、共に慶国の惨状を目の当たりにした事。
――その後雁国へ赴き、縁あって延王とも交流し、結果舒栄の乱の折に招集を受けた事。
「…それで、あの時麦州師が動いて王師と合流すれば偽王軍もすぐに陥落するだろうと、書簡を託されたと」
「なるほど…」
「だから、上と政治的な繋がりがあるわけではないし、今回はあくまでも個の繋がりだけだったから」
明秦が付け加えた言葉で、経緯に納得しかけた桓魋の動きが一瞬止まった。視線を合わせ、沈黙が落ちること数拍。微苦笑を浮かべた桓魋が脱力する。
「なんだ、ばれていたか」
「疑うとしたらそこかなと思っただけ。…疑われても仕方がないよ。話してなかったんだから」
「すまん。ただ、念の為に確認しておこうと思ってな」
確かに、と
明秦は相槌を打つ。決起する仲間の中に伏兵が混ざる事の無いよう慎重に事を進めるのは当然である。
明秦の相槌を見、桓魋はさらに言葉を続けた。
「もう一つ確認したい事がある」
「なに?」
「舒栄の乱の折、景王との面識は」
「無い。残念ながら」
これにはきっぱりと断言した
明秦に、桓魋は意外そうな顔をした。延王からの招集を受けたとはいえ、参戦したのは慶の内乱である。その流れならば景王との接触があるのだろうと踏んでいたのだが。
「無いのか?本当に?」
「何せ招集から参戦までに時間が無かったし、何より私の役目は各州候の説得に向かう延台輔と景王のご友人の護衛だったから。雁の王師の顔すら拝見していない」
「なるほどな…別行動では、謁見もないわけだ」
「そういうこと。…分かってくれた?」
「ああ。納得した」
完全に警戒心が失せた桓魋に、
明秦はほっと安堵の息を吐いた。これでようやく
傭兵として認めてもらえるだろう…と。
「もっとも、大国の王や台輔と面識があるのは本当に意外だったがな」
「そうだよね。…今思うと、私も不思議」
もしもあの時出会わなければ慶国の惨状を知る事もなく、結果的に此処にいる事すら無かったのかもしれない。その奇跡が願わくばもう一度――あの時出会わなかったこの国の王との間に起きないだろうかと、何気なく思ったのも束の間。二度もそんな事があれば苦労などしないと、
明秦は一人苦笑を漏らすのだった。
◇ ◆ ◇
3.
薄明を迎えた空は次第に群青を色濃くしていく。
白み始めた頃に臥牀から抜け出した
明秦は身支度をして院子へ赴いた。傭兵らも起きる者は少なく、今は塀越しに町からの音も何一つ聞こえてはこない。ただただ静寂だけが満ちていた。
寝起きの体は温かかったが、外へ出ると指先から凍てつかせるような空気に思わず首を竦めた。動き出しは僅かに体を震わせながら、此処数日で鈍った気がする体をほぐすように動かし、朝食までに剣術の鍛練に努める。懐古の念が過ぎるのは、おそらく漣国で早朝の鍛練が多かったためだろう。
そろそろほとぼりが冷めた頃かもしれないと凱之が話を持ってきたのは、仲間が調達してくれた朝食を平らげ終わった頃合いだった。
「…という事は、外に出てもいいって?」
「らしい。まぁくれぐれも気を付けるようには言われたけどさ」
厩舎で飼い葉を分けていた
明秦は顔を上げる。今朝方に凱之が持ってきた件を話しながら祥瓊と共に鹿蜀の世話をしていた。
鹿蜀の為に桶へ注いでくれる水音を聞きながら、そういえば、と
明秦は言葉を続ける。
「私が出てもいいという事は、祥瓊ももう出ていいという事だね」
「そうなるわね。…尤も、私は今のところ食事以外の用事は無いから、わざわざ出歩く必要はないのだけれど」
「ああ、確かに」
明秦は相槌を打つ。…自分とて祥瓊とさして変わらない。食事以外は鍛練と待機しかない。待機の間は体が鈍ってしまうため、近頃は祥瓊と共に掃除を行う事が多かった。
ねぇ、と柵の外から呼びかけてくる祥瓊の声を耳にして、鹿蜀の側にいた
明秦は首を傾げた。
「一つ聞いても?」
「なに?」
「
明秦は、慶の人ではないでしょう?」
「え?…ああ、漣から来たけど」
「どうして此処にいるの?雇われたから?」
「雇われてはいないかな」
鹿蜀の世話を終えた
明秦は柵の間を潜り抜けて馬房から出てくる。屈めていた体を起こすと、怪訝そうな祥瓊と目が合った。
「此処にいるのは私の意思だよ」
「傭兵ではないの?」
「見返りも報酬も貰うつもりは無いから、傭兵とは少し違うかもしれない」
「じゃあ、どうして…」
「この国の惨状に不満があるから、かな」
惨状、と祥瓊は呟く。脳裏に去来するのは先日の広途での光景。磔刑の、石を打ち下ろす音は今も耳に残っている。
―――石を投げたい気持ちは分かる。
不意に桓姙の言葉を思い出す。並び歩き出した者の神妙な横顔を一瞥すれば、国が違えどその心持ちは此処にいる者達と何ら変わりないのだろうと、納得するのだった。
そうして大門前の院子で祥瓊と別れた
明秦は慣れた足取りで自室へと向かう。警戒する必要があるとはいえ、折角外へ出る許可が出たのだ。もう一度明郭を見ておきたい。その為に外套を取りに戻り、羽織ったところで、忙しい足音が急速に近付いてくるのを耳にした。
無意識に立てかけた戈剣を横目に捉える。首を擡げる警戒心から足音をなるべく立てないよう戈剣のある壁まで近付いたところで、僅かに開けてある扉越しに声が聞こえた。
「
明秦、いるか」
「…なんだ、凱之か。急ぎ?」
「ああ。一緒に来てくれ」
「外?」
「いや、堂だ」
わかった、と返事をすると同時、
明秦は肩の力を抜いた。戈剣の元から離れて自室から出ると、真剣な面持ちの凱之が軽く手招く。
先導されるままに堂へと向かうと、そこには既に三人の姿があった。桓魋と祥瓊、そして厳格な雰囲気を持つ初老の男。少なくとも記憶に無い人物ではあったが、桓魋が祥瓊と並び立ち、男が主人の席に腰を下ろしている以上、彼は桓魋よりも高い地位にあることを示していた。目にした瞬間理解した
明秦は堂の入口で拱手すると、男は僅かに目を細めた。
「――桓魋。彼女は?」
「
明秦です。…昨年の内乱の折に話した」
「ああ、成程…彼女が」
男と桓姙の会話を耳にして、
明秦は面にこそ出さなかったが、内心苦笑する。舒栄の乱に参戦した話は麦州の者達の中で一体どこまで広がっているのだろうか。
まじまじと見つめてくる男は柴望と名乗った。州師の左将軍よりも上の地位となれば、州候に近しい存在なのかもしれなかった。
「まさか、祥瓊と
明秦に会うためにいらっしゃったんですか?」
「無論、用があって来た。桓魋に伝えるようにと」
「何かあったんですか」
怪訝そうな面持ちで首を傾げた桓魋に、柴望は本題を切り出した。
固継の里家より連れ去られた閭胥――遠甫。そして里家の娘が一人殺され、その弟が連れ去られたのだと。
「里家からは盗まれたものがなく、何ゆえの犯行なのか分からない。ただこのところ、頻繁に里家の周囲をうろつく男達があって、これが拓峰の者だという」
「拓峰…」
「昨日拓峰では、日没後に門が開いた。馬車が一台、閉じた門を開けさせて入ったという」
郷名を耳にした瞬間、
明秦は僅かに眉根を寄せた。次いで、呟いた桓魋の横顔を一瞥する。事情を把握している者ならば、その名だけで背景を察するのはそう難くない。
故に、推し兼ねた祥瓊が投げかけた先は隣の桓魋へと。
「……どういう…?」
「拓峰にはもう一匹の豺虎がいる。昇紘という名のな。―― 一旦閉じた門を開けられるとなれば、よほどの人物が命じたとしか思えんだろ。拓峰で一番に考えられるのは、まず昇紘じゃないか。そして昇紘の背後には必ず呀峰がいるもんなんだ」
「呀峰が昇紘に命じて、その閭胥を攫わせた…?」
「結論を急がぬ方がいい。それを調べてほしいと、伝えに来たのだ」
はい、と各々が相槌を打つ。裏付けの依頼ともなれば拓峰へ向かうのだろう。…豺虎によって荒みきった、あの郷へ。
考えた瞬間、脳裏に蜜柑色が過ぎった。…錆色で斑になってしまった、少年の。
口内が苦くなる錯覚に口元を歪めながらも、一拍ほど置いて続けられた柴望の言葉に俯きかけた面を上げた。
「さらにもう一つ。――明日、ここに荷が届く。それを北韋の労のところへ届けてほしい」
「労は豊鶴に移りました。――なんでも周囲を嗅ぎ回っている者がいるらしいということで」
「労が…?」
「詳しいことは、荷を運べば聞けますでしょう」
これに柴望は頷いた。北韋から豊鶴は馬で約三日ほどかかる。そこまで遠方に移った事情は気に掛かったが、依頼に支障が出ないのでならば事情の把握は一先ず後回しである。
「冬器が二十だ。確かに頼んだ」
「――かしこまりました」
◆ ◇ ◆
柴望が鹿林園を後にすると、園内の一部で動きが忙しくなった。これから拓峰へ向かう者、荷運びの人選が為されるのだろう。そう漠然と考えながら房間へ戻ろうとした
明秦の足を止めたのは、今し方耳にしていたばかりの男の声だった。
「
明秦」
足音と共に声も近付いてくる。振り返った
明秦は軽く返事をして桓魋と向き直ったが、やや引き締められた男の表情を目にすれば、決して世間話のために訪れたわけではない事は安易に察せられる。
「頼みがある」
「うん?」
「他の連中が連れ去られた閭胥の行方を探す。その間、お前は襲撃を受けた固継の里家を探ってきてくれ」
「里家の襲撃跡から何かしらでも手がかりを掴めれば…と?」
「そういう事だ。頼めるか」
「わかった。…ちなみに、荷運びは?」
「ああ、それなら祥瓊に頼んだ」
「祥瓊に?」
客人の扱いでは無かったのか、と。
明秦が怪訝そうに首を傾げると、ああ、と桓魋の表情が心なしか和らいだ。
「力になってくれるそうだ」
「そうか…」
「明日早朝に発てるか」
「了解。準備しておくよ」
頷いた
明秦は踵を返した。鹿蜀の世話を丹念にしておいて正解だった。あとは剣の調整をしなければ…と。
そう、思考を巡らせながら歩を進ませ始めた
明秦の足は、不意に背後より自身の字を呼ばれて留まった。
「なに」
「大丈夫だと信じているが…拓峰で何かを目撃しても」
「首を突っ込むな、でしょ。大丈夫、分かってるよ」
未だ心配だったであろう桓魋の再三釘を刺すような言葉に、振り返った
明秦は思わず苦笑を浮かべた。…先日起こした、自身の行動を顧みれば尚更である。