伍章
1.
自分を含めて二足分の足音を聞きながら、
明秦は困惑していた。
凱之が行き先も告げずに先導する、その後を無言で歩いているのだが、奥へ奥へと進むこの道程には確かに見覚えがある。そして予想が的中するならば、凱之が目指している場所はおそらく。
考えて、息を飲む。すると彼女の思考を察したかのように、前方を歩く凱之の足がぴたりと止まった。彼が向かい合わせになった扉を見てしまえば、
明秦の予想は確信へと変わりゆく。
――この房室は、やはり。
「凱之です。入って構いませんか」
「ああ」
「失礼します」
僅かに開いた扉の間から声を聞き受けて、凱之が房室へ体を滑り込ませた。食事へ行く前に寄る場所があると言っていたのはこの部屋の事なのだろう。ならば後に続く必要はない。
話が終わるのを廊下で待っていようと、後退して扉から距離を置く。そのまま踵を返そうとして移動した足は、残念ながら前には進まなかった。
「何してんだ。入ってこい」
「――此処は、将軍殿がいる房室では」
「いいから来い。此処じゃ話せるものも話せなくなる」
「はあ…」
扉の間から顔を出した凱之の手招きに、
明秦は躊躇いながらも恐る恐る房室に足を踏み入れた。外から中が見えないよう広げられた衝立、その向こう側に顔を出すと、先程凱之に通された房室よりも幾分か広い空間に、質素な棚と書卓が一つ。そこに向かっていた男が顔を上げ、
明秦の姿を目にした途端、やや怪訝げに見えた表情が瞬く間に驚きのものへと豹変していく。
「お前…いつ戻ってきたんだ」
「ついさっきですよ。随分と暗い顔して来たので今しがた事情を聞いていたんです」
桓魋の視線が
明秦から外れた。代弁した部下と視線を交わせば、彼は続けて口を開く。
「拓峰の事情に気付いたようです」
「…昇絋か」
桓魋が口にした名を聞いた瞬間、
明秦の肩がぴくりと揺れた。
以前に此処を離れる際、彼が拓峰の名を耳にしてどこか釈然としない様子だった事をふと思い出した。妙に引っかかったあの表情も、今なら納得できる。あの町に行かせるか否か…或いは町の情報を伝えるか否か迷ったのだろう。
明秦がじっと見据えると、見返した桓魋は憂慮を込めた双眸を僅かに細めた。
「その反応は…さしずめ、昇紘の悪事を見た、というところか」
「…子供が、轢き殺された」
「町の子供か?」
「いや。…でも、生まれは慶だ。他所の国に避難していたが戻って来たらしい」
「…そうか…災難だったな」
明秦は怪訝げに眉を顰めた。眼前の男の言葉には少年に対する憐れみと、その現場に遭遇してしまった
明秦に対する哀れみが含まれている気がした。
「…新王になってから、という訳ではなさそうだな」
「ああ。予王時代からずっとそうだ。…拓峰の住民は重過ぎる役と税に苦しみ、払えなければ死ぬ」
「死ぬ…?餓死、という訳では」
「いや。拓峰で七割一身という言葉を耳には入れなかったか」
「いいや」
「税は七割、払えなければ自分か家族の首を差し出さなければならないという」
「は…」
明秦は絶句した。七割一身。そもそも民が払う税は一割、払えなければ首を差し出す、などという事も有り得ない。七割も税を払えば生活は逼迫するだろう。拓峰の住民が疲弊し、且つ郷長に恐怖を抱いている理由の一端として結びつければ、
明秦は固く拳を握った。
「なんで…なんでそんなおかしな事が放置されてる…」
「新王は登極したばかりで国の現状を把握する事に時間が掛かっている…と思いたかったが、どうだろうな」
「…?」
「言っただろう。麦州候が罷免されて国外追放、対して民を虐げる昇紘は罷免される気配が無い。王が予王と同様媚び諂う者を優遇しているのでは、という声も少なくはない」
「それは…」
違う、と言いたかった。楽俊の友人はそこまで愚かではない。そう、思いたかった。だが現状を目の当たりにしては断言も喉に閊える。言葉を詰まらせて俯いた
明秦に、桓魋は言葉を続けた。
「真実は分からん。だが、このままでは死者を出し続けるばかりだ」
「ああ…」
「そこでだ。――昇紘と、昇紘を擁護する輩に、ちょいとばかり吹っかけようと考える人間がいてな」
「!」
明秦ははっと顔を上げる。桓魋の面持ちは変わらなかったが、側に立っていた凱之の口角が僅かに持ち上がった様を、彼女は見逃さなかった。
「豺虎の非道を、流石にこれ以上放置しておくわけにもいかんだろう。――
明秦」
「…はい」
「この国を良くする為に、もう一度力を貸してくれる気はあるか」
もう一度。その言葉で、
明秦はああ、と納得した。
何故麦州師の者達がよりによって悲惨な現状の和州に隠れていたのか今まで疑問に思っていた。だがそれも彼らの腹積もりを酌めば納得がいく。―――彼らは乱を起こす機を窺う為に潜んでいるのだと。
しかし、手を貸すとなると話が別だ。あの時王から要請を受けて、護衛として内乱に手を貸した。人を斬ったのはやむを得なかった。だが今回の内乱は一兵士として参加することになる。それは前回よりもずっと、人を斬る覚悟を持たなければならない、という事だ。
―――抱けるだろうか。
大義の為に人を斬り捨てるという覚悟を。
「返事は今してくれとは言わん。よく考えてくれ」
桓魋の言葉で一人熟慮していた意識を眼前に引き戻す。
明秦の心中をおおよそ斟酌したのだろう。眉間に皺を寄せたままの彼女を見て、桓魋は苦笑を浮かべた。
「それまではここに泊まっていけ。なに、房室は十分余っているからな。好きなところを使ってくれ」
「…はい」
明秦はややあって小さく頷く。するとそれを話の区切りと踏んだのだろう。二者の会話を途中から傍観していた凱之がようやくこの房室を訪れたもう一つの理由を口にした。
「ところで将軍、飯でも食いに行きませんか」
「そうだな。今行かなければ食いっぱぐれる。
明秦、お前も行くか」
「え?あ、ああ…ご相伴に預かっても構わないのでしたら」
「堅苦しくならなくていい。俺の事は桓魋と呼んでくれ。今は仮にも、州師から離れた身だからな」
先程とは打って変わって堅い雰囲気を崩した桓魋は
明秦の肩を軽く叩いて廊下へと向かう。その後に凱之が続いて、追いかけるのを若干躊躇していた彼女にもう一度、行くぞ、と声がかかれば、
明秦は慌てて二人の後を追いかけるのだった。
◇ ◆ ◇
2.
近場の小さな飯堂で食事を済ませ、すっかり闇夜が落ちた途を、桓魋と凱之は慣れた足取りで鹿林園に向かい歩く。そこそこがたいの良い二人の背を見ながら、
明秦は後に続く。会話は短く密やかに、それも町で流れている情報が殆どで、外出の際会話にも気を付けているのだろう、と
明秦は思う。
鹿林園に到着すると、二人に別れを告げて先程荷物を置いていた房室へと戻った。出ていく前に戸を閉め切ったにもかかわらず、温かさは微塵も残ってはいなかった。しんと冷え切った空気の中で吐き出した溜息はやけに大きく聞こえる。冷えた椅子へ静かに腰を下ろして、立て掛けていた剣を卓上に置いた
明秦は、背凭れに寄り掛かりながらもう一度深い溜息を落とした。
―――国の改善には乱が必要だ。このまま放置しては王が与り知らぬまま横暴が増え、死人が増え、墓地が…不毛な地が広がっていく。貧困と恐怖が蔓延るばかりの町――否、この州の現状を、何とか王に報せなければならない。その為の、蜂起。
それを桓魋達が起こそうとしている事は理解している。できる事ならば手を貸したい。…だが、加わるにあたって決めなければならない覚悟は、未だ胸中で揺らいだまま。
(利広には物騒な事には首を突っ込むなと言われた…檸典さんからは…)
微かに音がして、ふと首元へ視線を落とした。首に下がる紫水晶。けっして蒿里へは持って行くなと言われて渡された、師の形見。
参加すれば彼らの忠告を破る事になる。
(…どうすればいい。どうすれば……)
膝上で立てて組み合わせた手に額を乗せて、そっと瞼を閉ざす。瞼の裏に見えたのは、嘗ての師――紫秦の、朧げではあるが柔らかく笑む姿で。
「
明秦、まだ起きてるか」
屈めていた上体を起こした
明秦は思わず扉の方を振り返る。先程別れたばかりの男の声を聞けば椅子から立ち上がると、寒さから閉ざしてしまった扉を僅かに開けて廊下を覗き見る。夜のせいで微かに翳る将軍の顔を見上げると、彼は気まずげに微苦笑を浮かべた。
「悪いな。…もう寝るところだったか?」
「いいや、まだ。…入って。廊下で立ち話じゃ寒いから」
「ああ、そうさせてもらう」
開けた扉の間から身を滑り込ませた桓魋が起居に進む姿を見つつ、
明秦は扉を閉ざした。彼女が今しがた座っていた場所とは対面状の椅子を引いた桓魋はゆっくりと腰を下ろし、自然と視界に入った卓上の剣に目を落とす。
「…冬器か。いい剣だな」
「師の形見だ」
「形見……そうか」
「ああ、気にしないで。師が亡くなったのは五年以上前だし、別に乱で亡くなったわけじゃない」
最低限点けていた明かりを増やして、
明秦もまた席に着く。剣を立て掛け、改めて卓越しに向かい合うと、先に口を開いたのは真剣な面持ちの桓魋だった。
「返事はゆっくりとでいい、とは言ったが、正直どうにも気になってな」
「気になるって…何が?」
「何か引っ掛かっている事でもあるのか」
食事中も浮かない顔だった…と。付け加えられた言葉に、
明秦は複雑な表情を浮かべた。無意識に出ていた貌は誤魔化しようが無い。だが、彼に心中を明かしても吹聴などしないだろう。あっても精々、気心の知れる者達の中で話題に上がる程度で。
卓上に軽く乗せた手を組み合わせて、視線を落とした
明秦の瞼がそっと落ちる。
「…何点か」
「聞いても構わないか。嫌なら話さなくていい」
「……」
落ちた沈黙は数拍。
暫くして、深く息を吸い込んだ
明秦は静かに心中を紡ぎ始めた。
「私は慶の民ではない、余所者だ。…余所者が手を貸して、本当に構わないのか」
「何を今更。お前はこの間も慶の大事に関わっただろう。あの件の方が余程大事だったというのに」
「皆、不快に思わないだろうか」
「そこまで偏見を持つ奴等じゃない。むしろ腕が立つならどの国の民でも大歓迎だ。あとは乱を起こす覚悟さえあればな」
「…そうか」
「他の傭兵連中とは違う、という事か」
己の技術を活かして働くのは報酬分、度外の物事には手を付けない。それが傭兵というものだが、今の
明秦は報酬など一銭も受け取る気は無かった。そもそも今回は傭兵として雇われるのではなく、声を揚げる者の一人として参加するに過ぎない。
「他には?」
「師の友人と知人から、物騒な事には首を突っ込むな、と忠告を受けている」
「お前自身はどう考えている」
「……」
返答を躊躇ったのは数秒。
桓魋から視線を外した
明秦はゆっくりと瞬く。…その瞬きの間に浮かんだ光景が、
明秦の表情を歪めさせた。あれは当分、脳裏から離れる事は無いだろう。
「彼らの忠告は尤もだと思う。…だけど、頭に浮かぶのは拓峰で轢かれた子供の事だ。…あんな事が起きない国になるのなら、私でも力になれるのなら、協力したい。…忠告は、破る事になってしまうけど」
破った事を知れば、特に檸典は憤慨するだろう。呆れて首飾りを返せと言い出すかもしれない。そう考えると、後ろめたい気持ちが若干浮上するのだが。
「そういえば
明秦、出身は何処だ?」
「蓬莱だ。ああ、旌券は漣なんだけど」
「そうだったのか…そいつは大変だったな…」
男の憐憫には苦笑するに留めた。出自を明かせば時折こうして受ける同情にも慣れてきた。向けられたものを否定しないのは、自分が海客でありながらどれだけ恵まれた環境に居られたのかを噛み締められるからだ。…だからこそ、恵んでくれた者達の忠告を退ける決断にはどうしても躊躇ってしまう。
「内乱に加わる覚悟、人を斬る覚悟……忠告を破る覚悟。いろんな覚悟が決まっていないうちは、こんな半端者、加わらない方が良いんだ」
「―――分かった」
吐露した者を見据えていた桓魋の返答は数拍の沈黙の後。はっきりと答えた男を若干驚きの表情で見詰めた
明秦に、彼は微かに笑みを浮かべた。
「だったら―――お前が覚悟を据えるまで、待つとしよう」
明秦の口から、え、と驚きの声が微かに零れる。彼は分かった、と返してきたものだから、てっきり断られるものだと思い込んでいた。待つ、と言われてきょとんとした
明秦はしかし、桓魋の顔に湛えられている情がけっして冗談交じりのものではない事を察して、しぜん居住まいを正した。
「多分、長くなると思う」
「大丈夫だ」
今度は即答だった。返答に込められたその自信は、一体どこから来るのだろうか。
そう、怪訝気な彼女の考えを斟酌したかのように、桓魋は快活に言葉を続ける。
「轢かれた子供の事が頭にあるんだろう?それは既に、お前さんがこの事態に見て見ぬふりができなくなっている、という事だからな。長くは掛かるが、決起までには決めてくれると俺は信じている」
そう言い切った桓魋が浮かべた笑みは、どこか自信に満ちたもので。信じているとまで言われてしまっては、
明秦は返答に窮するばかり。
「…その言い方は、卑怯だな」
「すまんが、こういう物言いしか思いつかなかったのでな。悪く思わないでくれると助かる」
すまん、と。苦笑交じりに呟いた言葉とは裏腹に、湛えた笑みに悪びれた様子は無く。彼の内心を垣間見た気がして、どこか憎めない男をじっと見据えること暫し。
明秦は呆れとも諦めともつかない溜息を短く吐き出した。
「…分かった。考えるよ」
◇ ◆ ◇
3.
鹿林園に集う者達の朝は緩やかだった。
出入りする者、表で剣戈を手に鍛練に励む者、鹿林園をふらりと出ていき、暫くして戻り来る者。その大半が日の出から二、三時間した後の起床だった。
彼らが緩やかだからといって、別段合わせる必要はない。
明秦は普段通り眼を覚ますとすぐに臥牀から抜け出した。冷えきった臥室の空気に身震いしながら着替えを早々に済ませ、足早に房室を出る。廊下の窓から見えた空は未だ暗く、遙遠の空が白み始めたばかりであった。
明秦が明郭に滞在して、早五日。
出入りする者達を観察しつつ厩舎で鹿蜀の世話をしたり、時折声がかかるので凱之や桓魋と共に食事がてら明郭の街を巡回していた。
しかしながら、巡回だけでは大した運動量にならない。そこで剣を携え庭院へ赴いた
明秦は、無人の気配を確認しがてら庭院の周囲を見回した。
壁は修繕が施されておらず、砕け或いは崩れている箇所が点々と見受けられる。冬のせいか葉を落としきった細木が壁沿いに立ち並び、廃れた印象を醸している。それでも庭院自体は広く、過去の繁栄を物語っていた。
…落ちぶれた原因は、口にするまでもない。
明秦は庭院の片隅に置かれた木箱を見付けると足早に近付いていく。乱雑に突っ込まれている鍛練用の戈剣の中から木剣を引き抜くと、携えていた冬器を立て掛けて木箱から距離を置く。確かめるように一振り、二振りしてから、鍛練に没頭していく。
気付いた時には周囲にあった夜陰が欠片も無くなっていて、冬にもかかわらず額にうっすらと浮かぶ汗を袖で拭いながら、木剣を木箱に差し戻した。
「驚いたな」
近付いてくる足音と共にここ数日で聞き慣れた男の声がして、
明秦は冬器を手にしながら振り返る。彼は朝の冷え切った空気に首を竦めながら此方へ歩いてくるところだった。
「凱之、おはよう」
「ああ、おはよう。…朝っぱらから長時間の鍛練とはな」
「元々の日課なんだ。…って、いつから見てた?」
「ついさっきだ」
明秦は眉を顰める。凱之はさっきと答えたが、その前に長時間の鍛錬と答えていたはずだ。そう言わしめるほどの時間、鍛練を見られていた、という事になる。
…もしかしたら、最初から見ていた可能性も十分にあり得るのだが。
「お前の師匠はどこ出身だ」
「前も話した気がするけど、漣国の」
「違う。士官先だ」
「……州師、だけど」
「上の方だな?」
「ああ。…なぜ?」
「お前の基礎的な動きは剣客というより兵士寄りに見えたからな。時々違った動きをするのは、師匠の癖だろう」
「…やっぱり、ずっと見ていたのか」
「戦力を知っておくのは大事だからな」
追究すればあっさりと認めた挙句堂々と返す男に、今度こそ呆れた。…呆れたが、最後の言葉には納得できる。決起の際に州師以外の戦力がどれほどのものなのか、把握をしておかなければ戦力の分配にも困るからだ。
もっとも、大した戦力には成り得ないだろう。ぼんやりとそんな事を思いながら額から伝い流れてくる汗を再び袖で拭った。
「もう少ししたら飯食いに行くが、お前はどうする?」
「食べに行くよ。お腹減った」
「だろうな」
長時間の鍛練のせいか、腹の虫が低く鳴く。咄嗟に腹を押さえた
明秦は恥ずかしそうに呻いて、ちらりと凱之を見る。腹の虫はばっちり彼の耳に届いたのだろう。彼は用意をしてこい、と背中を叩きつつ彼女に告げながら、笑っていた。
「そんな笑わなくても…」
「それからな、
明秦」
「うん?」
「背中から、湯気出てるぞ」
「!」
鍛練のせいで体温の上がった体は熱を発する。それが真冬であれば温度差で湯気が出るのだという。慌てて後身頃を摘まんでぱたぱたと仰げば、体に滑り込む冷気が心地よい。そのまま鹿林園の中に駆け込んでいく
明秦の姿を、凱之は見送りながらもくつくつと笑うのだった。
◆ ◇ ◆
駆け足で自室に戻り、手早く着替えを終えて佩刀した
明秦は鹿林園の門まで駆け足で向かった。起床した者達が行き交い、時折挨拶を交わしながら、階段を駆け下りて屋外へと出る。門の脇に立つ二人は褞袍を羽織りながら何事かを話し合っているようだった。
「凱之」
「ああ、来たか。早かったな」
「少し急いだ。―――おはよう、桓魋」
「おはよう。凱之から聞いたぞ。朝から腹が減るまで張り切っていたらしいな」
「ただの日課だよ」
興味津々に聞いてくる桓魋から視線を外して、情報提供の元を軽く睨め付ける。そんな
明秦へ凱之は誤魔化すように軽く笑うと、そそくさと門を潜り出ていった。
「…遊ばれてる?」
「信頼の証とも言えるな」
「良い方に捉えたら、ね」
「まぁ、この中では凱之が一番お前を見ているからな。…ちなみに、俺も
明秦を信頼しているんだが」
「舒栄の乱の事があったから?」
「それもあるが、真面目だからな」
「うん?」
「お前さん、嘘が吐けんだろう」
「………まぁ」
桓魋が言いたい事は分からないでもない。彼らが決起する前に事を余所にばらされては困る。故に、口が堅い者でなければ信用がならないのである。
そう、分かってはいるのだけれども、やはり凱之が自分の反応を楽しんでいるような気がしてならない
明秦は腑に落ちない顔のまま鹿林園を背に歩き出すのだった。
朝にもかかわらず、途は相変わらず閑散としていた。時折旅人が不思議そうな顔で町の様子を見渡しながら通り、或いは町の者が足取り重く歩いていく。それらを横目に小さな飯堂へ入ると、比較的手前にある四人掛けの席に腰を下ろした。
其々が注文を告げ、店の者が厨房へ入っていく。その後ろ姿を
明秦はぼんやりを見送っていた。
「…厨房、いい加減片付けるか」
「ん?」
「いや、流石にあれはないなと思って」
宿泊初日に覗いた厨房の、埃を被って積み上がった鍋達、散乱した厨房の中を思い出して
明秦はげんなりする。彼らが外で食べるのはあの厨房が原因だろう。
「そうだな、片付けてくれると有難い」
「ちょっと待って。人任せ?」
「すまん。だが俺はどうもああいう場所の片付けが今一分からなくてな……やる時には声を掛けてくれ。手伝うことはできるから」
「なるほど…分かった」
片付けに不馴れなのは出自が高い身分の家だったからなのか、或いは兵として鍛練ばかりの日々を過ごしてきたせいなのか。
呆れ交じりに頷きながらも、前者と後者どちらに該当するのか思案する。だが、最中に運ばれてきた食事に――その香ばしい匂いに阻まれて、
明秦は一旦思案を区切った。空腹の中湯気の立つ飯を前にすれば、然して大事ではない思案は後回しである。
◆ ◇ ◆
腹を満たした三人はゆっくりとした足取りで飯堂を後にする。
鹿林園に戻り次第厨房を片付けよう。あの乱雑な状態をこれ以上放置する訳にはいかない。
そう、帰った後の漠然とした予定を脳裏で組みながら歩いていた。…ふと顔を上げた先、目に付いた人の流れに違和感を抱かなければ。
疲労を湛えて鬱然とした顔の住民達。広途の方へと運ぶ足取りは重いように見受けられたが、無言か、話し合う声を極力潜めながら人の流れを形成している様が、
明秦にとっては違和感に満ちたものだった。
「どうした」
「あちらに、何かあるのか」
「あっちは―――ああ、行くなら止めん。明郭の現状が分かるからな」
明秦は桓魋を振り返る。彼は人波の向こう側を怪訝気に見詰めていたが、やがて手前に佇む
明秦へ視線を下ろしてくる。何があるのかと、言外に問う彼女の眼差しに対して明確には答えなかったが、これに反応を示したのは側に立つ凱之であった。
「まさか、見せるおつもりでは」
「ああ。…悩んでいる
明秦に、現状を見てもらうのもいいかもしれん」
「しかし、」
「心配するな、見終えたらすぐに戻る」
「…分かりました」
二者の会話に耳を傾けていた
明秦は眉を顰める。制止を挟んだ凱之の複雑な表情が決して良いものではない事を物語る。…彼がそれほど懸念するものとは、一体。
物言いた気な顔を群衆とは真逆の方向へ向けた凱之は、すぐに怪訝気な少女の元へ視線を戻した。
「……
明秦」
「ん?」
「助けようとは、思うなよ」
明秦は思わず眉を顰めた。落ちた声音で告げられたのは、間違いなく忠告。釘を刺して踵を返した凱之の、人混みとは真逆の方向へ立ち去っていく背中を暫くの間見送っていたが、背中に添えられた手の感触を覚えて振り返る。
「そろそろ行くぞ」
「…うん」
人の流れに乗るべく人混みの方へ歩き出した桓魋の後を、
明秦が追う。
疲労に満ちた顔の住民達が集うもの。明郭の現状が分かる光景。助けようとは思うな、という凱之の忠告。
それらを踏まえて人混みの向こう側にあるものを想定した
明秦は、眉を顰めた。自分が想像したものが、願わくば当たる事の無いように、と。
―――だが。
おざなりな整備から久しく日の経つであろう、若干凹凸のある途を人波の中で進み行くと、やがて男の声が聞こえてきた。声の元を人の間から確認しようと僅かに踵を浮かせた、その先。
群集が留まった先は、広場。衆目の中心にある光景を視界に捉えた瞬間、
明秦は愕然とした。
複数の兵士が戈剣を手に群集を警戒しながら、時折中心部を一瞥する。…斜めに設置された、大きな木板の台。そこに手足を拘束されている、一人の男を。
傍に立つ役人が掲げた紙に目を落とすと、群集に向けて読み上げ始めた。…そこに認められた、罪状を。
(…これは…まさか…)
―――磔刑。
漣に留まっていた当時、その刑は残酷極まる為にどの国も廃止されたと聞いた。…だが、どうだ。施行されていない筈の刑が今まさに目の前で行われようとしている、この現状は。
「慶ではまだ、続いている」
耳元に寄せられた小声に
明秦ははっとして振り返る。背後に佇む桓魋は拘束された罪人を渋面のまま注視したのも束の間、眼前の彼女へ視線を落とした。
「これが現状だ」
明郭の現状。見聞よりもずっと深い闇を抱える町の現実に、愕然とした。
聞こえてきた男の罪状は、少なくとも磔刑に到底値するものではない。軽い処罰で済む筈が、何故。
何故、こんな事になっている。
衝撃から立ち直る間も無く、聞こえてきた悲鳴にはっとした。
ごつりと、一打。掌に宛がわれ釘へ打ち下ろされた石の重い音が、悲鳴と重なる。群集から微かに上がるどよめきの中、
明秦は震えた手で、無意識に剣の柄へ手を伸ばしていた。
「…やめろ」
さらに一打、劈くような悲鳴に掻き消される。凱之の忠告が、見せる事を渋っていた理由が、今なら嫌でも理解できる。
「やめろ…」
もう一打、 壮絶な悲鳴が鼓膜を震わせる。わなわなと震える腕を、背後から桓魋に掴まれた。それでも震えは止まらず、もう一打、止まぬ悲鳴に思わず唇を噛んで。
「――やめて!!」
誰かの制止の声に、思わず視線が向かった。
淡い紺青の髪の少女だった。振りかぶった姿に、何かを投げたのだろと予測がついた瞬間、危機感が急速に首を擡げた。
投げたのは、石。それが見事兵士の一人に当たれば、途端にざわめきが広がっていく。
兵の頭部にごつりと当たった瞬間、
明秦は思わず一歩を踏み出したが、桓魋に咄嗟に肩を掴まれてそれ以上は動けなかった。
「今石を投げた奴は誰だ!」
「引きずり出せ!!」
兵士達の声を背に、少女が人混みの中から逃げ出そうとする姿を目で追いかけながら、
明秦は剣の柄へ手を掛ける。
野次馬の中から抜け出したのは、二人。紺青の髪の少女と、少女の手を引く緋色の髪の―――
「あの子は――、桓魋」
「こうなった以上は仕方ない。行くぞ」
何処へ、とは聞くまでもない。
顔を見合わせ、無言の首肯を合図に踵を返した桓魋と
明秦は、走り去る少女達の後姿を目で追いながら人混みを抜けていく。
複雑に入り組んだ郭壁を、桓魋は馴れた足取りで駆け抜ける。後を追う
明秦は片手を柄に添えたまま、周囲の声や足音を警戒していた。
とうに役目を終えた嘗ての郭壁、その向こう側から聞こえてくる兵士達の会話。それは先程石を投げた少女と、共に逃げた者の所在だった。
兵士達のやりとりを盗み聞きしながらまるで迷路のような郭壁の間を走り抜けていた桓魋の足が、ふと止まる。
明秦もまた立ち止まり郭壁を睨んだ。…正確には、郭壁の向こう側を。
それまで聞こえていた兵士達の声が分散したのだ。理由は聞き耳を立てると即座に判明する。
「二手に分かれたようだな」
「ああ」
一人は未だ郭壁の間を逃げ、もう一人は閑地へ抜けていった、と。
明秦は眉を顰めた。追う兵士は多数。この状況下で二手に分かれる事は不利のように思える。それを理解している上で分かれたとしたら、理由は明白だ。
閑地へ逃げた者が、囮になっている。
「桓魋、郭壁の方に逃げた子を頼む」
「閑地の方に行くのか」
「あんな広い場所で囲まれては逃げようが無いから」
「帰りまで気を抜くなよ」
「ああ、お互いに」
悩む猶予など無かった。助けるのならば逃げた二人共。片方を見捨てるなど言語道断である。
不意に拓峰で看取った子供の顔が
明秦の脳裏を過ぎった。あの子供のように、不要な犠牲者を出してはならないと、柄を固く握りしめて、桓魋に背を向けた。
明秦と桓魋が駆け出したのはほぼ同時。男の足音は瞬く間に郭壁越しの喧騒に掻き消されて失せ、
明秦は閑地へ出るべくひたすら古い郭壁の間を抜けていく。
喧騒が近付く。他の瓦礫とは異なり、一層高く古い今にも崩れそうな壁の間を抜ける。喧騒の元はその向こう側から響いていた。ならばこの先が閑地なのだろう。
躊躇は無かった。走る勢いを殺さぬまま郭壁を抜けて開けた地へ飛び出した
明秦は眼前の光景に唇を噛みながらも帯から鞘ごと剣を引き抜く。端的に言えば一対複数の多勢に無勢。緋色の髪の少年が、複数の兵士に包囲されている不利な状況。
―――ならば、斬り抜けるしかない。
標的に気取られて背後の気配に気付かない兵士の一人の項に走る勢いのまま鞘を叩き込む。崩れ落ちる姿を確認する間も無く、音に気が付いて振り返った兵士に向かい身を沈ませる。刈り取ったのは、膝裏。鞘を思い切り叩き込めば、膝を屈した兵士は前のめりに勢いよく倒れ込んだ。
突然の乱入者に、それまで緋色の髪の少年を包囲していた兵士達が振り返った。一人、二人。倒れている兵士を目の当たりにすれば、数人が警戒心を露わに乱入者の方へ身を反転して身構える。
その僅かな隙を、緋色の髪の少年は見逃さなかった。
背を向けた兵士の背後から、少年は剣を叩き入れる。ごつりと良い音が響き、頽れる様を兵士達が見たものの、反逆者が二人に増え前後にいる形となれば、ほんの僅かの間、どちらに対応するべきか動きに躊躇いが出る。
(やるなら、今――)
明秦は息を詰める。
桓魋達に加担するか否か。
その覚悟を背負えるか否か。
葛藤は鞘から刀身を引き抜いた時点で消失する。だが、迷う暇などない。迷えば自分の、少年の身を危険に曝す事になるのだから。
柄を固く握りしめて、鞘を引き抜く。眼前まで距離を詰めた兵士の、驚愕の顔から目を逸らさず、刀身を振り抜こうとした。
「殺すな!!」
相対する兵士の後方から、切羽詰まった声が飛んで来なければ。
明秦は咄嗟に構えを変える。一拍遅れて兵士が振り下ろした剣を頭上で受け流し、懐へ入り込むと、柄頭で兵士の顎を思い切り突き上げた。
伸びて背中から倒れた兵士を一瞥、拳に走る痛みに眉を顰めながらも次の標的に目を向けようとした
明秦の足が、止まる。
それは、妙な光景だった。
少年に剣を弾き上げられた兵士の前に、突如として現れたもの。何も無い空間から飛び出した、虎型の妖魔の頭部。眼前に出現した妖魔に驚愕した者達が悲鳴を上げながら
明秦の横をすり抜けていく。反逆者の存在には眼もくれず、散り散りに逃げ出した彼らを横目に捉えながらも、剣を構えようとした。
…だが。
「あ、れ…」
一瞬。ほんの一瞬目を離した隙に、妖魔の姿はなく。周囲を見渡しても、閑地に残ったのは
明秦と緋色の髪の少年のみ。それも、周囲を警戒する素振りもなく剣を鞘に納めていた。
困惑を隠し切れなかった
明秦は未だ抜き身の剣を手にしたまま少年を見詰めると、彼女の心中を酌んだのだろう。いない、とだけ答えた少年は
明秦との距離を数歩縮めると、神妙な面持ちで口を開いた。
「すまないが、この事はくれぐれも他言しないでくれ」
この事とは今しがたの妖魔の件だろう。僅かに迷って、
明秦は頷く。
「分かった」
「すまない」
「いいや。…あの子に手を貸してくれて、ありがとう」
「知り合いか?」
「いや。…ただ、あんな勇敢な子が捕まったんじゃ目覚めが悪いから」
勇敢と聞いた少年の顔色が曇ったのは一瞬。微かに笑みを浮かべてああ、と首肯する少年に、今度は
明秦が顔色を曇らせる番だった。脳裏を過ぎったのは、蜜柑色。斑に赤黒く染まった、小さな体。彼を抱いて声を掛けた、緋色の。
……よもや明郭で再会できるなどと、誰が思うだろう。
「拓峰の件も……ありがとう」
「!もしかして、あの時の……。…いや…礼を言われる筋合いはない。…結局、助けられなかった」
「……あの状態で医者に見せても、もう手遅れだったと思う。…けど、看取ってくれる人がいるだけでも違うから」
ゆるりと頭を横に振った少年の、落胆から落ちた声音は苦し気だった。翡翠を思わせる双眸の歪む様を見、
明秦もまた表情を歪める。…そう、違う。誰も知らない場所で一人静かに朽ちていくより、幾分かましだ。…あくまでも、想像でしかないのだけれども。
胸に痛みを覚えて瞼を伏せ、ふと、眼前の少年へ名を訊ねようとした。ここで再会したのも何かの縁だろう、と。
…遠方から、兵士の声さえしなければ。
「そろそろ行かないと」
「あの…あなたの名は?」
「通りすがりの海客。また会う機会があったら話そう」
「!待って…!!」
少年の制止を背に、剣を鞘に収めた
明秦は駆け出すと再び郭壁の迷路に身を滑り込ませていく。ただ一人、残された少年は遠方に響く兵士の声を耳にしながらも、黒緑の髪をした剣客が残した言葉を暫く反芻させ、猜疑から眉を顰めていた。
「…海客……、いや……胎果…?」