肆章
1.
落陽を迎えると、闇夜は次第に地平を塗り潰していく。既に閉門も終わり、疎らな人の出入りも絶え、町は沈黙する。
舎館の窓から見えた景色は闇一色、そこに点る灯りは一つも無く、ただ肌を刺す冷えた空気が起居に流れ込むのみ。吐いた息は白く、闇夜に消えていくのを見終えてから、
明秦はそっと窓を閉ざした。
少年の亡骸は棺へ納めるために町の者が運んでいった。明日早朝に埋葬するのだという。それを耳にして悲嘆に暮れる鈴を、
明秦は支えながら連れ歩いた。棺を保管する冢堂は町の外だ、彼女を一人にさせては閉門の合図が聞こえたとしてもおそらく冢堂から戻って来なかっただろう。
臥室から聞こえていた噎せび泣く声は、いつの間にか止んでいた。
(…この町はおかしい。この空気は…そうだ、明郭と似ている…)
荒廃が原因とは言い難い、閑散とした町の風景。事故の際、手を貸してくれたのはたったの一人。緋色の髪の少年は旅人だろう。町の者は誰一人として手を貸してはくれなかった。…華軒の姿が見えなくなるまでは。
(広途に行くのを止められたのは、車輪の音が聞こえたからだ。…つまり町の人は何が…いや、誰が通るのか分かっていた…)
細道で自身を引き留めた男の顔が
明秦の脳裏を過ぎる。微かに震えていた、その顔色は恐怖以外の何物でもなく。
(…新王が立ったのに…一体、これはどういうことだ…)
景王の登極から、じきに半年。浮き彫りになる問題は国内の腐敗ぶりを物語る。その深刻さに顔を顰めた
明秦は、ふと思い出した。…明郭を出る前、拓峰と聞いた桓姙の顔色は僅かに曇っていなかったか。
「…どうして…」
真横から急に掠れ声がして、熟考していた
明秦の意識が急速に引き戻される。声のした方に顔を向けると、いつの間にか臥室から出てきた鈴が泣き腫らした目で
明秦を睨んでいた。
「鈴…」
「どうして慶にいるの…」
「鈴を追いかけてきたんだ」
「あたしを…?」
「ああ。言葉の不自由が嫌で翠微洞を抜け出せないのなら、雁に連れて行こうと思って。雁にはこちらの言葉を教えてくれる所があるから…だから才国へ迎えに行った。…だけど、鈴が才を出たと聞いたから」
「それで、わざわざ…?」
ああ、と
明秦が頷くと、鈴は僅かに目を見開いた。静かに椅子を引いた彼女の、無言の勧めを受けてそっと歩み寄り、ゆっくりと腰を下ろす。
「本当に…何も見なかったの…?」
「広途へ行こうとしたら、住民に止められたよ。今は行かない方が良い。せめて華軒が抜けるまでは、と」
「華軒……」
呟いた鈴の、泣き腫らした眼がうっすらと滲む。無理もない、と
明秦は眉を顰めながら思う。あの事故からまだ数時間しか経過していないのだ、喪失感も悲嘆も癒えていよう筈が無い。
「…あの子、病気だったのか」
「ええ…そうよ……奏からの船で、一緒になった子なの…。あの子は病気で、堯天に行けば景王さまが治してくれるって、そう信じてやっと此処まで来た。……なのに」
俯いた少女から微かに嗚咽が零れる。人を喪う悲しみは
明秦にも理解できる。だからこそ、ただその華奢な背を擦る事しかできなかった。
…希望の地まであと数日歩けば辿り着ける筈だった。それを突然断たれた絶望は測り知れない。
(……一度、華軒が停まった音がした。だとすると、あの子供が目の前にいる事を分かっていながら、敢えて華軒を進めたという事になる)
考えた途端、
明秦はぞっとした。残酷な結果を理解していながら進めた。真っ当な人間ならば決してできない行為を平然とやってのけたのだ、豺虎と言う外にない。
(華軒の主を町の人達が知っていながら見ぬふりをしているのなら、それは住民がどうにもできない存在だ…権力を持つ存在……そんなの、一人しかいないじゃないか)
彼女は思わず息を飲み、徐に窓の方を振り返る。…正しくは、既に夜陰に飲まれてその姿を一切捉える事のできない町の中心部――郷城へ。
この町で徒に権力を振り翳せる者。それがおそらく、華軒の主。こんな事が、何故許されているのだろう―――。
「…帰って」
「!」
涙声で聞こえた拒否に、はたと我に返った
明秦は傍らに視線を戻した。涙を袖で拭い目元を腫らした鈴の、怪訝の混ざった眼差しが再び彼女を射ていた。
「あたし、言葉を教えてほしいだなんて、一言も頼んでないもの。…それに、仙籍は削除しないって采王さまが約束して下さったから、言葉はもう、問題ないわ。……けど」
不意に夕刻の惨劇が脳裏を掠めて、鈴は言葉を詰まらせる。丸い甕に膝を畳み納められた少年は今、町の外にある冢堂に安置されている。明日になればきっと埋葬されるだろう。…もう二度と、清秀の姿は見られなくなる。そう考えた途端、瞬く間に視界が滲んだ。
「もう、構わないで…」
「鈴…」
「放っておいて……!!」
景王に会いたかった筈だった。それが彼の治療の為に堯天へ向かおう、という考えに変わったのはいつからだっただろう。勿論自身の希望を失くしていた訳ではない。…けれど、今はもう。
そんな、悲嘆に暮れた鈴を見詰めていた
明秦であったが、やがて瞼を伏せると静かに頷いた。…彼女の背に添えた手は、離さないままで。
「…明日の埋葬までは、傍にいさせてほしい」
「っ……」
「それでもいい…?」
返事は無かったが、拒否する様子も見受けられない。ただ深く項垂れて、嗚咽を零しながら目を袖で覆う彼女の姿を痛ましく思いながら、小さな背を擦り続けていた。
泣き疲れて眠ってしまった鈴を臥室に運び入れた
明秦は、起居の長椅子で外套に包まりながら睡眠を取った。浅い眠りの所為か何度も目を覚ましては眠り、やがて日の出と共に体を起こすと、臥室の鈴に声を掛けてから身支度を始める。鈴の身支度が終わるのを待って、冢堂へと足を向けた。
墓地は閑地に広がっていたが、その範囲は異様と思えるほど広かった。加えて、墓石と思しき石の半数以上は古いものではない。短期間で死者が続出しているという事だ。
そんな異様な広さの墓地を背に、冢堂から二人がかりで運び出された棺の甕を
明秦は鈴の傍らで見詰めていた。
卵果に見立てた丸甕は再び生まれ変わって来られるよう願いを込めて石で叩いて罅を入れる。そうして少年の亡骸が埋葬されていく最中、突如鈴が駆け出した。彼女を止めようと伸ばした
明秦の手をすり抜け、今まさに穴の中へ下ろされようとしている甕にしがみついた。止めて、埋めるのは可哀そうだ、と――そう懇願する彼女を墓士の男達が宥めながらも、棺をゆっくりと下ろしていった。
穴が埋められると、小さな塚が立てられる。あっという間に埋葬が終わると、男達は一人、また一人と墓から離れ、町の中へと消えていった。
埋葬が終わり次第別れるとは言ったものの、墓前に呆然と座り込む鈴を一人にする事はできなかった。誰かがいなければ、おそらくこのまま墓の前に居続けるだろう。未だうろついている妖魔の餌食になる可能性も十分にある。
「…鈴」
「……わかってたわ…、清秀は死ぬんだって…」
「…ああ」
「でも、こんな死に方をする筈じゃなかった…あたし、馬鹿だった…景王なんて信じて―――呉渡で医者に連れていけばよかった…!!」
塚の前で吐き出した嘆きが虚しく霧散する。後悔しても戻ってはこない。あの蜜柑色を目にすることも、あの憎まれ口を聞くことも、もう二度とできない。
その原因を作ったのは堯天に拘っていた自分ではないのか。景王なら、きっと彼の病気を完治させることができると信じていた自分の、愚かな期待のせいで。
「ごめん…ごめんね、清秀……」
塚の前で項垂れて悲嘆に暮れる姿は見るに堪えなかった。
…だが、と。彼女の丸められた背中を見、視線を遙遠の空へ飛ばす。既に陽が傾いている上空は緋を薄めたような色に変わってしまっている。闇夜が押し寄せてくるまでにそう時間は掛からないだろう。―――閉門の合図が鳴り始めるのも、時間の問題だ。
「鈴…今日は町に戻ろう。じきに門が閉まる」
「ほっといて…」
「放っておけるわけないだろ」
「お節介なんていらないわ…!」
墓前から動かない鈴の片腕を、
明秦が鷲掴む。その華奢な腕を強く引き上げようとした手前、ふと背後を振り返った。不意に、背後に人の気配がしたのだ。
「お兄さんたち、門が閉まるよ」
歳は十四、五だろうか。質素な身形の少年はただ冷静に
明秦と鈴を見詰め、僅かに緑がかった瞳に微かな憂愁を滲ませた。
「慶はね、夜に町の外にいても安全な国じゃないんだよ、まだ」
「…放っておいて…」
「そうして嘆いていても、死んだ人間は返ってこない」
「っ…あたしに構わないで…」
「このままいて妖魔に食われたい?とても自暴自棄だね」
少年の言葉にようやく鈴が振り返った。
明秦に腕を取られたまま背後に立つ少年を泣き腫らした眼で睨み付け、くしゃりと顔を歪める。
「あんたには分からないわ…あたしの気持ちなんか!」
「…自分を哀れんで泣いているのじゃ、死んだ子に失礼だよ」
少年の言葉に何か思うところがあったのだろう。はたと我に返った鈴の悲嘆が次第に引いていく。濡れた涙を袖で拭う様子を見守っていた
明秦はそっと腕を放すと、改めて少年の方へと向き直った。
「君は…拓峰の住民か?」
「うん。――町へ戻ろう。門が閉まるよ」
そう頷いた少年は鈴の元へ歩み寄ると、手を取って立ち上がらせる。繋いだ手を引いて歩く彼の足が僅かに歩調を早めようとしているのが見て取れて、
明秦もまた足早に門へと向かう。町の中に入る事ができたのは閉門の合図が鳴り響く最中のことだった。
疎らな人の流れに乗じてゆっくりと歩き、広途を過ぎたところでようやく足を止めた。日没が迫る町の中は薄闇が広がり始め、ただでさえ人通りの少ない途がさらに閑散としつつある。どこか薄気味悪ささえ感じるのは気のせいだろうか。
翳る町並みを一望して眉を顰めた
明秦の手前、鈴は少年と繋いでいた手をそっと放して向き直った。
「あなた、名前は?」
「夕暉」
「ねぇ夕暉…清秀を轢いた人が捕まったかどうか知らない…?」
瞬間、夕暉の顔に緊張の色が走る様を、
明秦は確かに捉えた。周囲に目を走らせながらしっ、と声を潜めるよう促されて、困惑する鈴の手を、少年の手がもう一度引いて小走りに歩き出す。その後ろを
明秦がついていけば、無人の小路に誘われて身を滑り込ませる。
「…それは大きな声で言わない方がいい。――捕まらないよ、あいつは」
「あいつ…?誰なの…?」
「この町の人間はみんな知ってる。…郷長が旅の男の子を殺したって」
やはり、と。驚く鈴の背後で、
明秦は確信を得て顔を歪めた。…残念ながら、推測は外れていなかったのだと。
「殺した…?清秀をそいつが…?」
「郷長の車の前にその子が飛び出して、車を止めてしまったんだ。それで」
「それで、って…たったそれぐらいのことで」
「昇絋にはね、それで充分なんだよ」
「ひどい…ひどいわ……清秀は真っ直ぐに歩けなかったのよ…それなのに…」
容赦なく、轢かれて殺されてしまった。
その事実に思わず屈み込んだ鈴の胸に生まれたのは後悔。…そして、黒く燻り始めたもの。
「…背負って、連れていけばよかった…」
「自分を責めてはだめだよ」
「……」
「昇絋を恨んではだめだよ」
「…!どうして…!?」
「昇絋を恨むということはね、昇絋に殺されることだから」
少年の声音は暗く、強く。それが何を意味するのかを理解して、
明秦は渋い顔をせずにいられなかった。
…眼前の少女の拳にくっと力が込められる様子を目にしてしまったがゆえに。
◇ ◆ ◇
2.
夕暉と別れた鈴と
明秦が舎館に戻ってきたのは日没も間近のことだった。
鈴は臥室に入ったきり出てくる気配はなく、暫くの間起居で待機していた
明秦であったが、ふと、窓の向こう側に広がる薄闇を目にすれば、腰を上げざるを得なかった。そろそろ夕飯を調達して来なければ店が閉まるのも時間の問題である。
「鈴、夕飯を調達してくる」
返答は扉越しに小さく、ええ、とただ一言のみ。声は絶え、以降無音が続けば、僅かに肩を落とした
明秦はそっと溜息を溢した。今日はもう部屋から出てくる気は無いのかもしれない。
仕方なく扉に背を向けて房室を出る。宣言通り夕飯の調達の為に舎館を出ると周囲の景色はいつの間にか闇夜に没していた。
不意に冷えきった空気が首を掠めて、思わず外套を掻き合わせる。身体が冷え切る前に調達して戻ろうと、足早に途を進みながら店の明かりを探した。だが、店らしき建物はどこも戸締りを終えた後で、途はすれ違う住民の話し声がひそひそと聞こえるばかり。足音が遠ざかれば耳に入るのは自分の足音と吐息のみ。
――今日は随分と陽が落ちるのが早いな。
住民とすれ違う際、聞こえた会話に耳を傾ける。店仕舞いが早いのはそのせいなのだろうか。ただでさえ店数は少ないというのに。
ふと振り返った広途は薄暗い。その闇の深さに
明秦は思わず目を凝らす。…まるで、何かを見定めるかのように。
「あれ…お兄さん?」
不意に聞いたことのある声がして、闇に目を凝らしていた
明秦は視線を凪いだ。薄闇の中を凝視すると、小脇に桶を抱えた少年の驚きを湛えた顔が次第に浮かび上がってくる。それは、先程町中で別れたばかりの顔だった。
「さっきのお兄さんだよね」
「君は確か…夕暉?」
「どうしたの、こんなところで。ここらの小店はもう閉まってるよ」
「ああ…やはり出遅れたか」
もう少し早ければ間に合っただろうか。若干肩を落とした
明秦の、そんな心中を酌んだのか、一度背後へちらりと視線を投げた夕暉は僅かに目を細めた。
「うち、宿だけど飯堂もやってるよ。少しだけなら作れるけど」
「いいのか…?」
「うん。こっち」
踵を返して歩き出す夕暉の背を追って、
明秦もまた歩を進めながら安堵の息を吐いた。ここで彼と再会しなければ、おそらく夕食にありつく事はできなかっただろう。
青年の小脇に抱えられた空の小桶を時折一瞥しつつ、自分よりも小さな背中を追って明かりの無い途を足早に抜ける。しんと途絶えた物音の中を、二人分の足音だけが響く。旅路にも同じ音を耳にしていたにもかかわらず、今聞いている音は警戒心を擡げさせた。
夕暉と
明秦の足は広途から逸れると、うらぶれた一郭にある、戸締まりの終わった建物の裏側へと回り込む。裏口から入り、端に樽や桶の置かれた串風路を抜けると、小さな裏庭に出た。建物の中へ続く戸が僅かに開いていて、隙間から漏れる明かりが小さな菜園を淡く照らしていた。
それらにぼんやりと目を向ける
明秦の姿を、夕暉が振り返る。
「何でもいい?」
「ああ、うん。構わない。此処で待ってるから」
「そこは寒いから、中に入って待ってて」
「いや、片付けをしているのなら邪魔になるだろうし」
「大丈夫だよ、片付けならもう終わってるし、いるのは身内だけだから」
「…、そう。じゃあ、お言葉に甘えて」
夕暉に手招かれて開かれた戸を潜る。すぐに兄さん、と身内を呼ぶ夕暉の声が響くと、厨房から男がひょいと顔を出した。身内を見、すぐに背後の
明秦を目にすると首を傾げる。
「後ろにいるのは誰だ?客人か?」
「うん。少し此処で待たせるから。――適当に座っていいよ」
「ああ」
明秦に声を掛けた夕暉と彼の兄の姿が厨房の中へと消えていく。遠ざかる会話が僅かに潜められた気がしたが、一先ず近くの椅子を引いて腰を下ろした。その、直後。
背中に刺さる違和感。複数の視線を背にひしひしと感じて、
明秦は僅かに眉を顰めた。
夕暉は、中にいるのは身内だけだと言っていた。だがこの神経を研ぎ澄ませざるを得ない空気と突き刺さる視線は、部外者を警戒する者達が生み出すものだ。それは、
明秦が利紹の元に弟子入りしたばかりの頃に鍛練場で味わった空気と酷似していた。
「おにいさん、あのおねえさんは?」
すぐに厨房から戻ってきた夕暉の声で背後への警戒が薄れる。
明秦がぱっと顔を上げると、夕暉が湯気の立った湯呑を
明秦に差し出していた。温かなそれを受け取りながら、
明秦は僅かに表情を崩した。
「飯を食べに行くと声を掛けても、臥室に篭ったきりだ。仕方ないから一人で飯堂を探していたんだけど……まさか君の所が飯堂とは、運が良かった」
僅かに悴んだ指先に湯呑越しの熱が伝わる。夕暉と会っていなければもう少しこの周辺を探して、おそらく諦めて舎館に戻っていただろう。
「一食分は包んでくれないか。鈴に持っていきたいんだ」
「あのおねえさん、鈴って名前なんだね」
「ああ」
「彼女は才から来たって言っていたけど、おにいさんは?」
「私は漣から」
「漣…才より長旅だったね」
「騎獣を連れているからそうでもないさ」
緩く頭を振って、
明秦は飯堂の中をざっと見渡した。正確には飯堂の中ではなく、ここにいる人の顔ぶれを、だが。
背後にいた人数は存外多く、十人前後といったところだろうか。…宿だとは聞いたが、戸締まりの終わった飯堂にこれだけの人数がいるのは違和感がある。…そして、今しがた飯堂に広がっていた緊張感も。
「…止水といい明郭といい、随分荒れているな」
「え…明郭を見てきたの?」
「ああ、此処へ来る前に。…だけど、此処は明郭よりずっと酷い」
白湯を一口、二口飲んで、
明秦は日中に目にした拓峰の街の姿を思い出す。荒れ様は明郭よりも酷い。町の者の顔も暗い所為なのか、やつれているように見えた。
やはり、豺虎が元凶なのか―――。
「おにいさんも早くこの町を出た方がいいよ」
「ん?」
「巻き込まれて、命が危うくなる前に」
夕暉の淡々とした忠告に、
明秦は湯呑から口を離して彼を見る。関わらない方が良い、と。そうでなければ、あの少年のようになるのだと。
彼の言葉は尤もだ。保身を考えるならば一刻も早く町を離れ、何も見なかった事にするべきだろう。
「…そうだな。私一人が動いたところでどうにもならない」
自らに言い聞かせるように呟き、また一口白湯を飲む
明秦に、夕暉は目を細めた。呟きの一部に表れていた心中。それを酌んだ少年の反応を
明秦は一瞥したが、見ぬふりをして残りの白湯を飲み干した。
…少年の忠告を切欠にふと沸いた懸念が、胸中にじわじわと広がっていくのを感じながら。
(…鈴は、町を出ていくだろうか)
◆ ◇ ◆
食事をそそくさと済ませ、包んでもらった一食分を片手に舎館への帰路を辿る
明秦の背が闇夜に紛れるまで、夕暉はその姿を注視していた。
もう少し、釘を刺しておいた方が良かったのかもしれない。兄が食事を運んでくる手前の、客人の含みある呟きを振り返れば尚更そう思えてしまう。
「…死なないといいんだけど」
「何が死なないといいんだ?」
「あ……兄さん」
背後から聞き慣れた声が掛かって、夕暉は振り返る。巌のような体格の男が開けた戸口に立って僅かに首を傾げていた。
「さっきの人。関わりそうだったから忠告はしたんだけど…あのおねえさんの事も気になるし」
「?誰だ」
「夕方に話した、墓地で会った人。さっきの人はそのおねえさんの連れなんだ」
「なんだ、そうだったのか」
夕暉は再度
明秦の姿が小さくなった途に目を向ける。彼女の姿はいつの間にか闇夜に紛れて、普段の音の途絶えた途に戻っていた。
◇ ◆ ◇
3.
「あたし、堯天に行くわ」
翌早朝、臥室から出てきた鈴が開口一番に言い放つと、出発の準備を終えかけていた
明秦はぴたりと手を止めた。驚きに見開いた双眸を鈴の方へ向けると、彼女は決意の言葉には似合わぬ、浮かない表情のまま口を引き結んでいた。
「元々景王様に会いに来たの。だからこのまま堯天に行く」
「…そうか」
「あなたはどうするの?」
「ああ…目的が終わったから、帰ろうとは思っているよ」
そもそもはこちらの言葉が分からない鈴を才国まで迎えに行き、雁国へ連れて行く予定だった。だがいざ再会してみれば仙籍は削除されておらず、言葉にも不自由しない旅をしていた。即ち、
明秦の計画は最初から意味を成していなかったのである。
彼女の言葉に不自由していなかった事への安堵を抱いた反面、此処まで足を運んだ苦労を顧みると、複雑な感情にどんな表情をすればいいのか分からなくなる。…だがそれも束の間、ふと別の心配事が胸に沸いた。
「だけど、鈴。…本当に堯天へ行く?」
「ええ」
「昇絋を討つ、なんて事は考えていないだろうな」
郷長の名を耳にした瞬間、鈴の肩がぴくりと揺れた。―――清秀を殺した、止水の豺虎。
胸に競り上がったものを抑えるかのように、鈴の肩が大きく上下する。けれども表情は険しいまま、開いた口から零れた言葉はおそらく本音ではなく。
「…考えていないわ」
「……、そう。だったらいいけど」
鈴を視界から外した
明秦は椅子に立て掛けていた剣を腰に佩刀する。…感じる視線はおそらく、自身ではなく剣に向けられている。やはり返答とは真逆の心中なのだろう。
だからこそ、
明秦は懸念を抱かずにはおれずに。
「もし考えているのなら、無駄死にになると思って。返り討ちに遭うのは明白だ。…考えなしにやろうとするものじゃない」
「…ええ、分かってる」
俯き加減で吐き出された鈴の返答と声音をはっきりと聞いた
明秦の口から思わず零れたのは、重く深い溜息だった。
明秦はその後不安に駆られて忠告を続けたが、やはりどれも大丈夫だと言って首を横に振るばかりだった。それが余計に不安を煽っていたが、堯天へは一人で行くと言い切った鈴の背中を、結局五日後の早朝に拓峰で見送った。
(…戻ってこないといいけど…)
鈴を見送り終え、舎館を引き払った
明秦は釈然としないまま鹿蜀を連れて町の子門を抜ける。…町に漂う違和感、その元凶を知ってしまえば、気懸かりな反面、他国の事情に首を突っ込まない方が良い、と以前受けた忠告を思い出して、渋々止めかけた足を進めた。
(……これから、どうしようか…)
――旅の目的は唐突に終わりを告げた。そして、その今後は。このまま見て見ぬふりをして帰るのは、正直後味が悪すぎる。だが自分にはそうする事しかできない。
道から僅かに逸れて鹿蜀の背に騎乗すると、深い嘆息と共に空を仰ぎ見る。薄掛かった雲は遠方へ向かうにつれて厚みを増している気がする。此処から北に向かえば雨に降られる可能性が高いだろう。
(西へ行けば内海に出る。東に戻るか、それとも…、…東?)
手綱を握り締めながら思案していた
明秦の脳裏にふと、此処へ来るまでに出会った者の顔が蘇る。
明郭で会った男達。彼らの勧誘。あの時は鈴を探していたために断ってしまったが、今では最早断る理由などない。加えて、利広と再会を約束した四月は未だ遥か先。
「…行ってみるか…」
ぼそりと呟いて、
明秦は鹿蜀の手綱を振るった。今度は道を辿る必要はない。上空へ飛翔さえすれば、最短距離で明郭へ行ける。
上空へ駆け上がる鹿蜀の背から空を一望し、時折鈴が抜けていった門の方を振り返り見ながらも、東へ一路定めるのだった。
◆ ◇ ◆
降るか否かの危うい天候の下、疾走を続けた鹿蜀の主が目的地の町並みを捉えたのは景色に翳りが落ち始めた頃の事だった。
町に入るべく降り立った
明秦は薄汚れた扁額を見上げながら、ゆっくりと進む人の波に乗じて酉門を潜り抜ける。
明郭ほど複雑な構造の町はないと、
明秦は思う。町の拡大の為に新たな郭壁が建てられ、郭壁としての役目を終えた壁はしかし依然残されたまま、それも高さや長さの異なる壁が何重にもあるために、今では一歩足を踏み入れるとまるで巨大な迷路のよう。
その迷路の如き壁を横目に途を通り、先日の記憶を頼りに北郭を目指して歩く。視界に映るのは、どこか疲れた印象を与える町並みと、大きな町の割に舗装が行き渡っていない途を歩く人々。その、虚ろ気な表情。
改めて町の不穏さを感じ取りながら広途を歩く。道程を思い出しながら進み、時折迷いながらも、どうにか鹿林園の前に到着することができた。不意に何処からか聞こえた太鼓の音は、おそらく閉門の合図なのだろう。
周囲に通行人がいない事を確認して、鹿林園の門闕を潜ろうと一歩踏み込んだ。その時だった。
「誰だ」
「!」
警戒心に満ちた声がして、一瞬足元に落としていた視線を持ち上げる。視線の先には建物から出てくる男達の姿があったが、その中にふと知った顔を見付けて思わず目を瞬かせた。本来ならば誰かに言伝を頼み、呼び出してもらうつもりだった、将軍の部下。順番が省けたと喜ぶべきだろうか。
「…
明秦?」
「こんにちは、凱之。先日ぶり」
「どうした。随分と早い戻りだが」
「もう目的を終えてしまったから、この間の勧誘について詳しく聞こうと思って」
「それは構わんが…いたのか?」
「ああ。もう、終わったから」
大股で歩み寄ってきた凱之の怪訝な顔に対して笑顔を作ったのも束の間、
りつの表情が次第に曇っていく。
終わった。――そう、終わったのだ。…だというのに何故、釈然としない気持ちのままなのだろう。
曇る表情が落ちていく。それを眼前にした凱之は僅かに眉を顰め、彼女の肩を軽く叩きながら傍らにいた仲間を振り返った。
「わるいが騎獣を頼む。――
明秦、こっちだ」
凱之に手綱をもぎ取られて、一瞬呆気に取られた
明秦であったが、さらに背中を押され慌てて足を出した。厩舎へ連れて行かれる鹿蜀と背中を押してくる凱之を交互に見、やがて促されるままに舎館の中へ足を踏み入れる。暫く廊下を歩いて通されたのは、先日
明秦が一泊した房室だった。
「捜していた娘とは再会できたのか?」
「ああ…拓峰で」
「拓峰?」
小卓に積み上げられていた
帙を下ろそうとしていた凱之の手が止まる。彼が口にした町の名。しかしその声に乗せられた情は、嫌悪。その町で起きていることを知っているか、などと聞くまでもない。
「…凱之…何で、教えてくれなかった」
「教えたら何か変わったのか。道なりに進むなら、お前の行先は変わらないだろ?」
「……、ああ」
確かにこの質問も野暮だった、と。椅子に腰を下ろし、荷物を床に置いた
明秦は佩刀していた剣を足の間に立てる。背中を丸め、柄頭に置いた両手へ額を乗せる。零した溜息は深く、深く。
沈む
明秦の姿を一瞥した凱之は小さく息を吐くと房室の扉をぴったりと閉ざした。そのまま彼女と対面状になるよう動かした椅子へ腰を下ろせば、額を離し面を上げた
明秦と目が合った。
「単刀直入に聞く。何を見た」
「……子供が、華軒に轢かれた」
途端、凱之の表情が険しくなる。それを見返した
明秦の脳裏に蘇るのは、轢かれた子供の血と砂で汚れた蜜柑色。死にたくないと、喉から絞り出された願い。
「町の人達は怖がっていた。子供が轢かれても…それを間近で見ていながら、誰も駆け寄らなかった。…一人だけ動いたけど、旅の人だったようだから…」
「……そうか」
誰も動かない中ただ一人手を差し伸べてくれた、あの赤髪の少年を思い出す。…あの事故を目の当たりにした彼もまた、拓峰の現状に疑問を抱いただろうか。
―――そして。
あの豺虎は今も拓峰でのさばっているのだろうか。
何気ないその考えから、ふと言葉が零れ落ちる。……正確には、忌むべき名が。
「…昇絋」
「やはり、聞いたのか」
「ああ。住民にとって横暴な権力者は恐れる存在だ。…まして、豺虎と呼ばれるようでは相当だろう…」
凱之が小さく息を吐く姿を見た
明秦もまた密かに溜息を零す。彼の言いたい事は十分察せられる。これ以上関わるな、と。無論それに首肯を返すべきなのは
明秦も十二分に理解している。そのつもりだった。
…だが。
「…巻き込まれたくないなら、今のうちに慶を出ていった方が良い」
「……」
「それが嫌なら――もう少し、俺の話を聞いていくか?」
「え…?」
続けられた言葉の意外さに、
明秦は思わず目を丸くして凱之を見詰めた。明日には出て行けと言われる予想で身構えていただけに、予想外の言葉が彼女の思考を刹那停止させる。
「非道な振る舞いをしているのは郷長だけじゃない。和州全体が似たようなもんだ」
「全体、って…」
「この間、明郭へ来るまでに草寇と会っただろ?本来なら、賊の出没情報が出次第取り締まる筈だ。…だが、和州では放置されている」
「ああ…だから身杖を雇う必要があると…でも、どうして」
「あれはわざとだ。旅人から奪った金品を横取りすれば、自分達の懐が潤うからな」
「――」
「誰の懐が潤うか、なんて聞くなよ?」
明秦は絶句する。和州全体に広がる問題――それはつまり、和州を任せられている者が、昇絋に劣らない豺虎であると。
「…腐ってる」
「ああ、腐ってるな」
思いの外深刻な事態に
明秦は思わず項垂れた頭を片手で抱えた。この腐敗は赤楽になってからなのか、それ以前なのか。…いや、そんな問いを眼前の男に投げかけたところで無意味だ。現状は不変、腐敗したまま、あの少年が豺虎に轢かれた事実も変わりないのだから。
「まぁ、その腐った部分を見兼ねて取り除こうと動いている奴らもいるんだが」
「え…?」
怪訝げな表情でぱっと顔を上げた
明秦と目が合うと、凱之はにっと口角を持ち上げた。彼の含み笑いの意味を酌み兼ねて僅かに顔を顰めた
明秦の目の前で徐に席を立ち、扉に向かい歩を進めていく。
「凱之…?」
「飯でも食いに行くか」
「あ、ああ…」
「その前に少し寄るところがあるんだが、いいか?」
「ああ…構わない、けど」
困惑しながらも
明秦が席から腰を上げると、凱之はぴったりと閉ざしていた房室の扉を開けて出ていく。
一体何処へ行くのか。先導する男へそう問いかける機を逃してしまった
明秦は疑問を抱いたまま房室を後にするのだった。