参章
1.
十二月――真冬の只中ではあるが、南方に位置する国は比較的暖かい。精々朝と晩に肌寒さを感じる程度の冷え込みがあるものの、北方に位置する国のように、町に入れなければ凍死するなどという事はまず有り得なかった。
安定した治世は国の安寧を招き、大気や気候をも安定させる。そんな穏やかな気候の中、薄らと汗を搔きながら騎獣を駆けさせていた
明秦は遂に薄い外套を脱いだ。青々とした景色の向こう側、奏国没庫の港が微かに見え始めていた。
才国揖寧で利広と別れた
明秦は、時々休憩を挟みながら鹿蜀を駆けさせること三日と半日。無事に奏国への入国も通り、南東の海岸沿いに位置する没庫へ到着すると、降り立ち次第慶国呉渡行きの船を探した。
幸いにも三件目で騎獣を乗せられる船を見つけると、すぐに手続きを済ませる。一人と一頭分の乗船代を払い、船内に設けられた厩舎へ鹿蜀を連れていく。
出航の合図である太鼓の音を耳にすると、程無くして僅かな揺れを体に感じた。短いようで長い、三泊四日の船旅の始まりである。
四日の内二日間は房室と厩舎を行き来した。最初は甲板に出る事もあったが、巧国と舜国に挟まれた虚海へ差し掛かると、それも叶わなくなった。房室へ戻るよう指示があったのである。
「何で甲板にいちゃいけないんだよ」
「――あれが来るからだ」
仰ぎ見た空は晴天。そこに複数の黒点が浮かぶ様を目にすれば、甲板で上がりかけた文句がぴたりと止んだ。
「妖魔か…」
「もうじき巧国だ、妖魔が出るのも仕方ないな」
「そんなに荒廃が酷いのか…?まだ王が斃れてから一年も経っていないだろ」
甲板を降りる
明秦の後をついてきた男の疑問に、答えようと開きかけた口を噤む。下界でどう伝わっているか――小説がどこまで語っているのか分からない以上、慶国に偽王が立つよう企てた者の一人だった、などと口を滑らせる訳にもいかなかった。
船内に入ってからは特にやる事も無いので、厩舎に足を運んで鹿蜀の世話をする。厩舎の入口に設置された木箱から飼葉を運び出し、鹿蜀に食ませる。その間に背から下ろしてある鞍や鐙に不備が無いかを確認すると、最後に鹿蜀の鬣を整えてから厩舎を出た。
食事は充てられた房室で取り、剣の手入れをして、眠りに就く。夜になると時折外から聞こえる獣の悲鳴に跳び起きた。剣を手に房室を飛び出した
明秦が捉えたのは、廊下の突き当たりで槍を携えた船員達が集う姿だった。
「今の声は」
「妖魔だ。臭いを嗅ぎつけて来たんだろう。さっきから外で騒いでるよ」
「外にいるのがまだ小物だから良いけどな……これで蠱雕の群れなんぞ来たら一大事だが、一先ず今は大丈夫だろう」
小声で話す男達の視線は一様に甲板へ通じる階段へと向いている。
明秦もまた塞がれた出入り口を仰ぎ見、その隙間から入り込む潮の匂いと微かな獣の臭気に眉を顰める。…騎獣で巧国を渡ろうとせずに良かったと、密かに安堵を抱きながら。
だが、船外に付き纏う妖魔の声は頻繁に
明秦の眠りを妨げた。声がする度に傍へ置いた剣に手が伸びる。その合間に見る夢にも魘され、結局寝不足のまま朝を迎えた。
そんな不安な夜を越えて、船に揺られ続けること三日。四日目でようやく慶国入りを果たした早朝、甲板が開放された。
雪崩れ込む冷え切った空気に身震いをしながらも、階段を上りきる。その先に広がる空には薄い曇が掛かっていたが、妖魔の気配は一切無い。…ただし、甲板には多くの爪痕が残されていたが。
左手に目を移すと遙遠に陸地が窺えた。若干霞がかって輪郭のぼやけた陸は、緑が乏しい。陸と距離を置いて進んでいるので鮮明に捉える事はできなかったが、甲板に上がってきた人々の中には久方ぶりに故郷へ戻ってきた慶の民もいるのだろう。慎ましくも上がった歓声に、
明秦の口許が僅かに緩む。
そうして夕刻には慶国和州呉渡へ無事に入港すると、桟橋に渡された板を渡って乗客が降りていく。
明秦もまた鹿蜀を連れて呉渡の町へ入り、その日は町で一泊する事にした。
翌日早朝、開門と同時に呉渡を出た
明秦は鹿蜀に騎乗すると上空に駆け上がる。開通された街道の上を辿るようにして駆け、彼女は双眸を街道へと据え続ける。
揖寧で受け取った手紙には、鈴がいつ頃向かったのかまでは書かれていなかった。国都までは徒歩ならば半月以上、馬車ならば十日も掛からず到着できる。何事も無く到着できていれば街道にいる可能性は少ないのだけれども、念の為、街道を歩く者の姿を確認しながらその上空を駆けていた。
そうして捜索しつつ疾走すること数刻。
陽も高々と昇り、午を過ぎた頃。
昼餉も兼ねて休憩を挟もうと、鹿蜀を滑空させた
明秦はそこでようやく街道から目を離した。空を仰ぎ見ると、長時間頭を下げていた所為か、首に鈍い痛みが走る。
「いてて…」
首や肩を軽く揉んで解すと、街道から僅かに外れた場所に鹿蜀を降り立たせた。町の扁額を仰ぎ見ながら旅人の波に乗じて門を潜り、それから町並に目を向けると、思わず足を止めそうになった。
町の規模は、県。戸数は郷の五分の一だが、嘗て他国の県都を訪れた事のある
明秦にとっては、あまりにも活気の無い、どこか閑散とした印象さえ覚える町の風景に違和感を覚えた。小店も無ければ人の通りも少ないとは、一体どういう事なのだろう。
(…いくら立ち直るまでに時間が掛かるとはいえ、これは流石におかしい…)
違和感を覚えながらも町を歩き出す。一先ず買い食いできるものを探し、一件だけ見付けた飯堂で握り飯を包んでもらう事にした。
酉門に近い郭壁の内側まで移動すると、握り飯を頬張りながら酉門を出ていく者達を眺める。
明秦と同様、騎獣を連れて荷を背負う旅人達。それに混ざって、どんよりとした表情のまま足取り重く出ていく者達は、慶の民か。
「あれ…お前」
「ん?」
不意に酉門とは逆の方向から声がして、
明秦はふと振り返る。そこには少々がたいの良い男が騎獣を連れて足を止め、目を見開き此方を凝視していた。
男が呼んだ、お前、とは間違いなく
明秦を指していたが、呼ばれた当人は思い出そうとして、断念した。…少なくとも慶国に知人はいない。その筈なのだが。
「…申し訳ない。何方だったか」
「俺だ、麦州で会っただろ」
「麦州?」
「…本当に、覚えていないか?」
「ああ。…本当にすまない」
凝視する男へ申し訳なさそうに頭を下げる間も、
明秦は麦州で会った者達の顔を思い出そうとする。だが、あの時は舒栄の乱の渦中で、一人一人の顔を鮮明に覚えられるほどの余裕は無かった。
麦州で接した者といえば、州師の者達ぐらいだろうか。そう考えている最中、男から投げかけられた問いによって意識を目前に引き戻した。
「酉門を出るなら、次は明郭か」
「明郭?」
「和州の州都にあたる街だ。…明郭は少々複雑な造りだからな、道に迷う旅人も少なくはない」
「そう、なのか…迷いそうだな…」
「心配なら、一緒に来るか?俺はこれから明郭へ戻るところなんだが…明郭に泊まるなら安全な舎館も知ってる。といっても俺が寝泊まりしてる宿なんだが…騎獣も泊められるぞ」
どうだ、と持ち掛けられた
明秦は顎に指を添えて俯く。…明郭が道に迷うほど複雑な街だというのならば、道案内は欲しい。安心して騎獣を預けられる舎館も、探す手間が省けて有難い話ではある。…だが。
明秦は改めて男の顔を注視する。若干無精髭を生やして身形を崩してはいるが、体格は武人の端くれのそれだ。佩刀しているのは、剣。妖魔対策なのか、或いは。
そして、浮上したのは一つの疑問。これが解消されなければ、宿の件には断りを入れるかもしれない。
「頷きたいのは山々だけど…一つ、質問に答えてくれないか」
「ん?」
「麦州で会った貴方が、何故和州に?」
「それについては答えられない。…少なくとも、人の耳がある場所じゃあな」
「上でなら、答えてくれると?」
明秦が指を差したのは、上。白群の晴天に薄くかかった雲。それが出発後を指している事を察した男はああ、と迷いなく頷いた。
「上なら問題ない。兎に角、今は駄目だ」
「…分かった。舎館の話はまた後で考えるとして、明郭の道案内は頼みたい」
「ああ、分かった。それ食ったら出発するぞ」
さっさと食っちまえ、と男が指を差したのは
明秦の片手に乗る竹皮の上の握り飯一つ。若干冷めてしまったそれに齧り付いて、僅かに眉を顰めた
明秦を、男は苦笑しながら眺めるのだった。
胃を満たした
明秦は男と共に酉門を出ると、騎獣を其々空へと上翔させる。念の為に見渡した前方には妖魔の黒点も無く、無論他者の耳も無い。一先ずは穏やかな上空で、
明秦はふと、連れとなった者へ己の目的を伝え忘れていた事を思い出した。
「ああ、言い忘れていたけど、私は今人捜しをしているんだ。街道を行く旅人の中に知り合いがいないか、探しながら飛んでいる」
「おいおい、そんなまめな事してるのか…上から探すのは苦労するぞ」
苦笑いのみで躱す
明秦を、男は呆れ顔で見やる。首が痛くなるだろう、と呟いたが、これには経験済みだと答えてやはり苦笑を湛えていた。
「知り合いの目的地は何処だ」
「堯天。馬車を使っていればおそらく堯天の近くまで行っているか、もう到着しているか」
「銭を持っているのなら馬車だろう。いつ来たのかにもよるが…旅人の情報を得るなら明郭だな」
「…大きな街だから?」
「それもあるが…明郭から先を行こうとするなら杖身が要る」
「杖身?…そんなに物騒な街道がある、という事なのか」
「あの道は草寇が出るからな」
草寇。あまり聞き覚えの無い言葉であったが、確かに覚えている。それが追剥――賊を指す言葉である事を思い出せば、
明秦は思わず顔を顰めた。
新王が登極したからといって治安が早急に改善される訳ではない。だが明郭から先の街道は堯天へ続く道だ。多くの旅人や慶の民が通る。そこへ草寇が頻繁に現れる。出るという情報が有りながら、何故草寇を捕えないのか。杖身を雇えるほどの金銭が無い者は、襲われるのを覚悟で街道を行くしかない、という事なのか―――。
そこまで考えて、ふと顔を上げた。耳を掠める風は若干冷たい。その風の音に混ざって聞こえた、嘶きにも似た音。
「――…お前も気付いたか」
「……。さっきの町からついて来たのか」
「だろうな。全く……奴等の噂は外でするなって事かな」
肩を落として溜息を吐いた男の横顔を見るふりをして、
明秦は横目で後方を確認する。見受けられたのは三騎。少なくともその内二騎の脇に下げられた長物は、陽を反射して煌めいていた。
「草寇って、地上だけじゃないんだ」
「ここ等で出るなんて情報は今まで聞かなかったからな。…後で報告だ」
「誰に?」
「仲間に」
「草寇仲間?」
「おいおい、俺達は守る側だぞ。賊になり下がった覚えなんて無いからな」
「冗談だよ冗談。――それで、どうする?撒くか払うか」
「上空で撒けば次の標的は街道を歩く旅人だ。なら、余所へ向く前に此処で叩くしか無いだろう」
「…そうだね」
剣の柄を握る
明秦の手が微かに震える。脳裏を過ぎるのは檸典に叩き込まれた剣術――その半分は対人だった。それを慶で使おうとは思いもしなかった、と。思わず口許を歪めた
明秦の横顔を、男はちらりと一瞥する。
「お前の武器は」
「剣。貴方も見たところ剣だけど」
「今日はな」
「いつもは槍?」
「ああ。――行くぞ」
男の静かな掛け声から馬首を巡らせたのはほぼ同時。鹿蜀越しに見えたのはやはり三騎、その誰もが剣を手にしている時点で殺意は明白。
手綱を振るい腹を叩けば、嘶きと共に疾走を開始する。即座に抜刀すると左腕に手綱を通し、右手で剣を翳し構えた。急速に距離を縮めた男達は何事かを叫びながら騎獣へ手綱を振るったが、既に目前まで迫っていた二騎が突撃を敢行する覚悟は既に十分。
最初に突撃したのは
明秦だった。男が振り翳した剣の、そのやや下に向けて己の得物を走らせた。
刹那の斬撃。悲鳴が上がったのは駆け抜けた
明秦が再び鹿蜀の馬首を巡らせたときだった。
剣と、その柄に付いた何かの塊が地上に落下していく様子と、男の一人が騎獣の上で蹲るようにして屈み込みながら呻き声を上げる様。さらにやや離れた場所で男がもう一人の草寇の腹に一太刀滑らせ、騎乗者が血飛沫を撒き散らしながら落下していく姿を認めると、次いで残りの一人に目を向ける。
「おい、そこの残りの」
「ひっ…!」
「そこの怪我人を連れて何処かに行け。それが嫌なら此処で斬り落とす。手首か腕か胴か首か。どれがいい」
「二対一じゃ分が悪いぞ。戻った方がいいんじゃないのか?」
「…!くそっ…!!」
残された一人は悔し気な表情ではあったが、その肩は若干震えていた。手首を斬り落とされながらも生き残った仲間の手綱を取り、町の方角へ駆け始める後姿を見送りながら、
明秦は剣に付着した露を払う。懐から取り出した布で残る血水を拭ってから剣を鞘に納めると、僅かに歩を進ませて隣に並んだ男の、若干引いた声が聞こえた。
「今の脅しは流石に怖かったな」
「あれぐらい脅しておかないと、またすぐに草寇業へ戻りそうだから」
「まぁ、確かにな」
できるならば敵に回したくない相手だと思われている事など露知らず、
明秦は本来向かうべき方角へ向き直る。…手に残る嫌な感覚を潰すかのように、手綱を強く握り締めながら。
◇ ◆ ◇
2.
慶国和州首都、明郭。
元々然程大きくはなかった街は、幾度の拡張ごとに郭壁が造られ、広大な街となった。しかしそれは、あくまでも広さだけの話である。
拡張された壁の内側には、嘗ての郭壁が殆ど取り壊されないまま残っていた。中には崩壊や壁自体が倒れている箇所もあり、瓦礫も山積みにされたまま、さらに壁の高さも見上げれば首を痛めそうなほどの高さから、跳び上がれば手を掛けられるほどの低さまで様々だった。まるで迷路のようなその郭壁が無ければ、明郭の中も大分広くなるだろう。
「尤も、事が終わるまでは今のままでいいんだがな」
「?」
意味を酌み兼ねて首をかしげる
明秦を他所に、男は慣れた足取りで明郭の郭壁の間を通り抜けていく。北へ進んでいるという感覚はあったが、明郭の街の様子に気を取られている内に辿ってきた道程も分からなくなっていた。
「…大きな街にしては、不気味なくらい静かだ」
「別に弔事があった訳じゃない。いつもの事だ」
「いつも?…州都なのに小店一つ出ていないのが、いつもの事なのか?」
「ああ」
郭壁の間から窺えた、閑散とした街並。不思議そうな顔をした旅人と、陰鬱な表情を湛えて力なく歩く住民達。郭壁の周囲に作られた襤褸の天幕。そこに溜まる荒民達の、どんよりと疲弊した顔。途には露店の一つも無く、荒廃とは異なる、陰鬱な印象ばかりが目に付く。部外者でも一見して分かる異様な様子を追究したくなる気持ちは、男にも十分理解できる。しかし今は答えたい気持ちを抑えながら、垣間見た通りから目を逸らした。
「…それで。宿の件はどうする」
「え?…ああ、そういえばまだ、決めてなかった」
郭壁の間から仰ぎ見た空は既に淡く朱が滲み、じきの日暮れを報せている。冬は日没が早い。宿も早く決めなければ夜を迎える事になるのだが、先程通った広途では、見た限り舎館らしき看板を見付ける事はできなかった。
「正直、騎獣を預けられる舎館は一件か二件ぐらいだ。他に預けたら次の日には持って行かれるから、気を付けろよ」
「……」
「どうする?」
「…行くよ。貴方が泊まっている所が一番安全だと言いたいんだろうから」
「勿論。…あー…ただ、飯は外で食う事になるが」
「それについては構わない」
「そうか。…じゃあ行くか」
皆の驚く顔が見られるな、と。どこか楽しげに呟きながら前方へ向き直った男に、
明秦はやはり首を傾げるばかり。しかしふと、今更な事に気が付いた彼女は思わず、あ、と声を上げた。
「ん?」
「そういえばまだ、名を聞いていない」
「ああ、字でもいいか?」
「構わない。私は
明秦。貴方は?」
「凱之だ」
男もとい凱之は一度足を止めて名乗ると、すぐに再び前を向いて歩き出した。後を追う
明秦は男の字を口内で何度か復唱すると、それは確かに舒栄の乱の中で耳にした字である事は思い出したものの、結局何処で会ったのかまでは思い出せなかった。
◆ ◇ ◆
明郭は広大が故に住民の中では東西南北で呼び分けがなされている。舎館は北側――北郭と、東側――東郭にしか存在しないため、旅人は大方その二方に流れていく。凱之が向かっているのは北郭にひっそりと建つ、鹿林園と呼ばれる建物だった。
「こっちだ」
門を潜ると、凱之は建物の脇を指差した。建物の奥行きに沿って続く、古びた常盤色の長い屋根。あれが厩舎なのだろう。
鹿蜀の手綱を引きながら先導されるままについて行く。案内されたのは比較的奥の厩で、掛かっていた柵を下ろして鹿蜀を引き入れる。柵を閉じ、一旦鞍を背から下ろしてやると、水と飼葉を調達する為に一旦外へ出た。
「
明秦、何かいるか?」
「飼葉と水が欲しいのだけど、場所は?」
「それならどちらも入口の手前にある」
「分かった」
凱之の案内に頷いた
明秦は厩舎の入口まで戻ると、餌箱から飼葉を掴み取り、側に立て掛けられている桶を手に取った。厩舎の隅にある井戸から水を汲んで桶に移すと、桶を片手、飼葉をもう片腕で持ち上げ、厩まで運んでいく。
餌やりを済ませ、世話を大方終えたところで厩舎を出ると、入口で待つ凱之の姿を見付けて若干足を早めた。
「待たせて申し訳ない」
「いいや。房室へ案内する前に、会わせたい人がいるんだが、いいか?」
「それは構わないけど…誰?」
「まぁ、会えば分かるさ」
多分な、と呟きを付け加えながら歩き出した凱之の背中を、
明秦は不思議そうな顔で見つめながら追い始める。建物の入口を潜り、廊下ですれ違う男達からは何故か訝しげな視線を貰いながらも、辿り着いたのは最奥から一つ手前の房室だった。
凱之が扉を叩けば、扉越しの所為かくぐもった声が聞こえてくる。
「誰だ」
「凱之です。今、よろしいですか?」
「いや、ちょっと待て。すぐに出る」
男の慌てた声と、紙を重ね纏めるような音と。扉越しに聞こえる音から中の様子が想像できたのだろう、凱之は思わず苦笑を零しながら彼が出てくるのを待つ。すると程無くして音が止み、開いた扉の間から滑り出てきたのは、濃紺の髪を後頭部で纏め上げた、やはり武人を思わせる体格の良い男であった。
「どうした、凱之」
「お客です。一泊だけ泊めますよ」
「お前が信用できるのなら構わんが…」
そう言いかけた男は凱之の傍らに立つ客を見下ろし、僅かに眼を細めた。凱之よりもずっと背丈の低い少年――否、少女。佩刀した剣は少なくとも護身用には見えず、ならば剣客であると見做した男はしかし、妙な既視感を覚えて眉間に皺を寄せる。
「お前、どこかで…」
「舒栄の乱ですよ」
「舒栄の……、!そうか、あの時の…!」
凱之の助言によって思い出しのだろう、男は驚きに目を見開き表情を明るくする。だが、当の驚かれた
明秦は凱之と男を交互に見比べて、眉根を寄せた。…舒栄の乱と聞けば去来する感情は苦いものばかり。加えて、当時は余裕などあろう筈もなく、出会った者達の顔をまじまじと見た覚えも無い。故に眼前の男とは乱の何処で遭遇したのか、うろ覚えな記憶を必死に思い出していた。
「…凱之殿の上官、ですか」
「ああ。…って、お前、まさか…思い出せないのか…?」
「…麦州…凱之殿の上官…という事は…麦州城―――」
独り言をぶつぶつと呟きながら連想で記憶を辿っていく。凱之が麦州師に属していた、というところまでは思い出した。ならば眼前の男もまた麦州師――それも凱之の上官にあたる者だ。あの時、凱之と州候の他に会話を交わしたのはもう一人――。
行き当たった瞬間、俯き加減になりかけていた顔を持ち上げた
明秦は、思わず男の顔をまじまじと見上げた。
「…まさか…将軍殿…?」
「ああ。あれから気になってはいたが、まさかこんな所で再会する事になるとはな。――桓魋だ」
「
明秦です。…あの」
「ん?」
「何故麦州師の将軍殿が、和州に?」
僅かに首を傾げた
明秦の問いに、桓魋の顔色が曇る。頭を緩く振る凱之を横目で捉えて、彼はそこでようやく眼前の客人が何も知らされないまま連れて来られた事を察した。
「お前はあの時、雁から来たのだったな」
「いえ…確かにあの時は雁から来ました。しかし元は漣の者なので…この三、四月の間に慶で何が起きているのか、正直何も知らないんです」
漣、と口内で復唱した桓魋と凱之は思わず顔を見合わせる。二者の間に漂い始めた空気は若干穏やかではない。少なくともそう感じ始めていた
明秦は挟みかけた言葉を喉元で留める。…余計な事に首を突っ込んでしまった気がする、と。嫌な予感を覚えながら。
「流石に麦州の州候は覚えているだろう」
「浩瀚様、でしたか」
「ああ。あのお方が罷免されてな。国外追放となった」
「…え?」
明秦は一瞬、耳を疑った。以前、麦州の州候は民から慕われているのだと聞いた事がある。…だが、それでも罷免された。州候を罷免できる者はただ一人…王以外にあり得ない。…だが、一体何故。
疑問がぐるぐると脳裏を巡る。そんな彼女の思考に横槍を入れたのは、呆れ交じりの嘆息を吐き出した桓魋であった。
「何せ今回も女王だ。政には関心が無いんだろう。官に牛耳られているから、という事もあるがな……結果、俺達は此処に隠れ住む事になった」
「……、どうして」
疑問を口にしかけた手前、
明秦が不意に思い出したのは王の友――楽俊の存在だった。彼の友人だ、無関心な筈が無い。乱も隠れてはならないと決意して、半身である麒麟を奪還するべく先頭に立った人物なのだ。…なのに、何故そんな事態になってしまっているのだろう。
「…此度の王は海客です。まだ政の知識が足りなかったのでは」
「真実は分からん。…麦州候が罷免された事実は変わりないがな」
「っ……」
王に対する失望を窺わせる、吐き棄てるような桓魋の言葉に、
明秦は言葉を詰まらせる。…王が起って、少しずつ前進しているのだと信じていた。だが、足を踏み入れて知ったこの現状。
込み上げる苦い感情から思わず口許を歪める。そんな
明秦の表情を暫くの間見下ろしていた桓魋であったが、程無くして落ちかけた沈黙を破るように再び口を開いた。
「それで、お前は何故慶に戻ってきた」
「人を探しています。その道中で凱之殿とお会いしました」
「人探し?」
「堯天へ向かう知人を追いかけてきたんです。…もしかしたら、もう着いているかもしれませんが」
「…、そうか」
だが、と桓魋は廊下に目を向ける。…正しくは、廊下に落ちる影。冬至を過ぎてもなお日暮れは早い。じきに閉門の合図も鳴り始めるだろう。…尤も、閉まったところで外も内も危険は大差無い。妖魔に襲われるか、人に寝込みを襲われるかの差だ。
しかしながら、部下が連れてきた客人を危険だと知りながら外へ放り出せるほど彼は冷たくはなかった。
「じきに陽が暮れる。今日は此処に泊まっていけ」
「…、有難う御座います」
一先ず許可を貰えたことで安堵した
明秦は嘆息に似た息をそっと吐き出すと、桓魋へ丁寧に頭を下げた。…胸中に巡る苦い思いと痼だけは、暫く消せないまま。
◇ ◆ ◇
3.
睡眠を浅く深くと繰り返しながら、結局明け方に目を覚ましてしまった
明秦はぼんやりとした頭のまま臥室を出た。
朝のしんと冷えた空気に身震いしながらも身支度を整えて房室を出る。廊下には
明秦の足音が一つ、誰も起床していないようだった。
白い息を伸ばしながら歩き、院子に出たところで、ようやく人の姿を目に留める事ができた。
上背ある濃紺の髪の男。鍛練用の木槍を軽々と振るう様は鍛え上げられた兵らしい、一振り一振りが力強いものだった。そういえば、漣の鍛練場でも槍を扱う者がいたが、あそこまで捌きの上手い者はいなかった気がする――。
そこまで考えていた最中、構えを解いた男が汗を袖で拭いながら振り返ると眼が合った。
「
明秦か。随分と早起きだな」
「貴方の方が早いでしょうに。…昔から槍を?」
「ああ。志願した当初は剣を扱う事もあったが、俺はどうもこっちの方が性に合っているらしい」
笑みを浮かべた桓魋は槍を左手に持ち替え肩へ突っ掛ける。既に支度を済ませ、外套まで纏う彼女の姿を、寒いと勘違いしたのだろう。彼は僅かに首を傾げた。
「どうだ、一つ手合わせしないか。体も温まるが」
「これから長旅になるので、遠慮しておきます」
腕を鈍らせないよう鍛練に励む気持ちは
明秦にもよく理解できる。だが、流石に出発前に体力を消費したくはない。そう苦笑を浮かべつつ断った
明秦はふと、本来伝えるべき内容を思い出して言葉を続ける。
「開門前に門の前で待機するつもりなので、そろそろ失礼します」
「もう行くのか」
「はい」
「探している相手が徒歩なら、街道沿いに進む筈だ。このまま道を辿って飛べば何れ出会うだろう」
「分かりました」
明秦はこくりと頷く。できることならば堯天へ到着する前に会いたい。今日中、若しくは明日中に。
心中で密かに願い、一度外した視線を持ち上げた
明秦は、しかし。男の呟きに思わず眉を顰めた。
「次の大きな町は……、拓峰か…」
「?」
僅かに表情を曇らせ、落とした視線、その双眸から読み取れるものは、憂いだろうか。拓峰という町に、何か引っかかる事でもあるというのか。
しかしそれ以上彼が言葉を続ける気配は無く、
明秦は一先ずもう一度頭を下げた。
「ありがとう。行ってみます」
そう告げて踵を返した
明秦の背に、今度は声が掛かった。…先程よりも慎重な声音は、幾らか低い。
「一つ言っておく」
「?…はい」
「俺達が此処にいる事は誰にも話すな。…誰にもだ」
「勿論です。…情報が漏れたら、此処に居る人達の身も危うくなるでしょうから」
麦州候の国外追放。そして部下達が和州に潜む理由。そして口止め。――おそらく、彼らは追われているのだ。
慶国に足を踏み入れてから覚えていた違和感が日に日に増していくのを感じながらも、それを拭う事はできないまま、靄掛かる心中のまま桓魋に背を向けると、再び部屋に向かって歩き始める。
荷物を取り、踵を返して厩舎へ向かうと、鹿蜀を連れて鹿林園を出る。人一人見当たらず、静寂に包まれた途を、
明秦はゆっくりとした足取りで歩いていく。開門までは郭壁添いで待ち、人の姿が疎らに見え始めたところで太鼓の音が響くと、鐙を踏んで騎乗する。門を潜り抜け、外に出ると、再び低空飛行で街道を辿り始めるのだった。
騎獣ならば拓峰までは一日と掛からないが、徒歩で街道を行く旅人達の姿を確認しつつ疾走するため、途中で町に立ち寄り一泊すると、翌日も街道を辿りながら飛び続け、拓峰へ到着できた頃には緋色を薄めたような空へと変わりつつあった。
閉門前に門を潜り、手綱を引きながら町を歩く。前日に立ち寄った町よりも規模は明らかに大きく見える。…だが、疎らな人の姿と、どんよりとして疲れ切った人々の顔。その誰もが重い足取りで進む姿は、明郭の住民を思わせる。…否、明確の者達よりも酷いのかもしれない。
町もおおよそ活気が無かった。露店も無ければ小店も見受けられない。建物も古びて一部の欠損もあった。罅割れた壁はそのままに、払われず纏わりつく砂埃が荒廃を物語る。
一旦脇道に逸れて民居を見回ってみたものの、どこも貧しい造りばかり。流石にこれは酷いと、ただでさえ眉間に寄っていた皺を更に深くしたときだった。
不意に手綱に絡めていた手が引かれる。慌てて振り返った
明秦の目に映ったのは、鹿蜀が首を振りながら立ち止まる姿であった。
「どうした?」
首を撫でて宥めた
明秦はしかし、不意に近付いてくる曲輪の音を耳に拾った。それは近付いているのか、次第に大きくなっていく。
(馬車の音か…随分早いな)
本来、町中で馬車を走らせる際には人を轢き兼ねないために低速で移動する。街道ならばまだしも、広途を疾走するなど危険極まりない行為である。
もしや火急なのだろうか。疑問から小首を傾げながらももう一度手綱を引けば、今度は鹿蜀も前足を踏み出す。そのまま表に向かい歩き出した
明秦を、今度は呼び止める声があった。
振り返ると、背負子に薪を乗せた男がどこか沈んだ表情を
明秦に向けていた。
「今はそっちに行かん方が良い」
「なぜ?」
「あの曲輪の音は馬車だ。行くならそれを過ぎてからの方が、身の為だぞ」
「身の為って…一体」
明秦は言葉を区切る。男の顔に見え隠れする、恐怖の色。一体どういうことだ、と怪訝気に目を細め、探るような視線を男に向ける。…表から聞こえていた曲輪の音が止んだのは、その直後だ。
「…?馬車の音が」
「…まさか…誰かが止めたのか…?」
恐々とした呟きを、
明秦は踵を返した背に受ける。手綱を引いて駆け出した彼女の背中越しには、やはり恐怖と焦燥の声音しか聞こえてこなかった。
「あ、おい、あんた…!」
細道を駆け、あと少しで広途へ出ようとした、その途中。不意に聞こえてきた歪な音に、何故か背筋が粟立った。曲輪の音が再び響き始めて、次第に遠ざかっていく。…嫌な予感がした。
細道を抜けて、ようやく広途に出た
明秦が最初に目にしたのは、疎らな町の人々。彼らは一様に、凍り付いた表情のまま、遠目から何かを見詰めていた。それを辿った先――広途の中央に、ぽつんと、何かが転がっていた。
それが痩せ細った子供だと判断するまでに、そう時間は掛からなかった。
思わず駆け出すと、向かいの人の間から一人の少年が抜け出してくるのが見えた。彼が先に膝を着いて少年を抱え上げ、続いて
明秦が片膝を折る。痩せた喉からひゅうひゅうと聞こえる、細い息の音。
「まさか…轢かれたのか?」
「一体誰がこんな…何故誰も手を差し伸べようとしないんだ…!誰か、この子を運ぶものを…!」
「待て。……もう、」
胸部は明らかに窪んでいて重傷だった。出血の程度から見て助かる見込みはもう無い。医者が今来たとしても、この国の医療では、助からない。
言葉の続きを察したのだろう。赤い髪の青年ははっと
明秦を見て、すぐに険しい表情で少年に目を落とした。綺麗な蜜柑色の髪は一部、赤く斑に汚れてしまっている。
「…おれ…死ぬの、やだな…」
「大丈夫だ」
「鈴が…泣くから……」
息の間にぽつり、ぽつりと零れる呟きが胸に刺さる。ただ、抱えてやる事しかできない。頭を撫でて、大丈夫だと言ってやる事しかできない。少年の眦から零れ落ちた涙を微かに震える指の腹で拭ってやると、そっと、瞼が落ちる。
再び瞼が押し開かれる事は、無かった。
「――清秀!」
聞き覚えのある少女の声がして、
明秦は振り返る。息を切らして駆け付けてくる少女――そういえば先程この少年が彼女の名を口にしていた――は真っ直ぐに少年の元へと駆け寄り、彼と彼を抱く赤毛の少年を見る眼は今にも泣きそうに歪んでいた。
「何があったの!?誰か…お医者さまを…!」
「もう、間に合わない……さっき、息が絶えた」
「―――」
瞳が、震える。恐る恐る少年を見つめ、さらに腕の中の少年の胸が上下していない様子を確かに目にして、手が震えた。
信じたくない。少し離れただけなのに…信じたくなどない。…恐る恐る触れた彼の手はまだ、こんなにも温かいのに。
「……うそ…」
「もしもあなたが鈴というのなら、泣かないでほしい、とこの子が言っていた」
不意に名を呼ばれて顔を上げた鈴へ、緋色の髪の少年が伝えた言葉はひどく真摯で。翡翠を思わせる双眸は、悲嘆を湛えていた。
「……多分、そういう意味だと思う」
「…嘘よ……清秀…」
名前を呼んでも、答えは返ってこない。あの憎まれ口も、不調の折に聞くことができた弱音も、この小さな口からはもう、紡がれることはない。けれど、どうして。
歪に窪んでしまった胸を、血に塗れてしまった姿を見つめていた少女の視界が、じわりと滲んでいく。
「何が、あったの…?」
「分からない。私が駆けつけた時には、この子はもう倒れていた。…あなたは」
「見てはいないけど、馬車の音と一緒に悲鳴を聞いた。…でも、おそらく」
「ああ……馬車に轢かれたのだと思う」
「そんな…誰が……」
そっと渡された少年はあまりにも軽い。まだ温かさの残る体を抱き締めて、それでようやく彼が逝ってしまった現実を認めた。
――尭天まで、あと少しの距離だったのに。
「清秀、酷い……一体、誰が…!!」
少年を抱いて泣き出した少女の周囲からは、野次馬が一人、また一人と離れていく。赤毛の少年もまた立ち上がると、血濡れた袍のまま立ち去っていった。
明秦はその後姿を見送りながら、少女の背中を慰めるように優しく摩り続けた。…嘗ての師を失った、あの時の喪失感を思い出しながら。