弐章
1.
出国にあたっては万全の旅支度を整えなければならない。
しかしそんな
明秦の慎重な考えは、檸典の密告により呆気なく崩れ去った。
邸宅へ慌てて帰るや否や、先に戻っていた利昭へ矢継ぎ早に説明をしつつ荷を纏め始める。元々荷物は少ないので、出立の支度を終えるまでにそう時間は掛からなかった。
「…考えると、そうですよね。兵士の人材として欲しいほどの腕前になりましたし、夏官府管轄の鍛練場に入り浸っていましたから、目に留まるのは当然ですね」
「笑い事じゃありませんよ利昭さん。今夜発ちますので」
「ええ、そうして下さい」
くすくすと笑う利紹をじろりと睨め付けてから、
明秦は盛大な溜息を吐き出した。…檸典の密告が無ければ、おそらく明日は鍛練場か、或いは呼び出された場所で絶句していたに違いない。そう思えば、慌ただしい出立になった方がまだましだろう。
考えてげんなりとしながらも、
明秦は荷を包んだ布を抱え上げる。その背後から、不意に声が掛かった。
「くれぐれも、気を付けて下さい」
決して茶化した口調ではない憂慮の滲む言の葉。それで、忙しなく動いていた
明秦ははたと動きを止めた。
徐に振り返った先で視線が搗ち合う。彼の至極真剣な面持ちを目にしたのはいつぶりだろう。剣術の師として指南を受けていた、あの時以来か。
懐かしくも、彼の憂慮を酌めば苦い。行く前から心配を懸けてしまっている事が実をいえば心苦しかった。
「…はい」
それでも、自分が決めた事なのだ。彼女を雁まで連れていくのだと。彼女が誰かに縋る事無く、自分で歩き出せるようにと。
首肯と共に気を引き締めて、
明秦は深く深く頭を下げた。…今日まで手を差し伸べてくれた利昭への感謝を籠めて。
「お世話になりました」
下げた頭の向こうから聞こえてきたのは、何もしていないですよ、と。普段と変わらぬ柔らかな声に緩みかけた涙腺を指で擦りながら頭を上げた
明秦であったが、困ったように笑う利紹を目にした途端、思わず釣られて顔を綻ばせるのだった。
◆ ◇ ◆
夜中に漣国を出発した
明秦は鹿蜀の手綱を握り、虚海の上空を疾走すること半日と少々。虚海を挟んだ隣国――才州国の港へ到着したのは夕刻前のことだった。
通行人の妨げにならないよう港の片隅で鹿蜀から降りた
明秦はふと、斜陽迫る空を仰ぎ見る。…妖魔との遭遇を最初こそ警戒していたものの、結局その姿を見る事は一度も無かった。それは虚海を挟む漣国と才国が安定した治世を築いているためであるが、そればかりではない。
才国の北側に位置する隣国――範西国は治世三百年に達する。さらに東側の隣国――奏南国に至っては現在現存する国の中では最長である六百年を誇る。
治世が長く続けば天災は減り、妖魔の姿も無くなる。即ち、今現在安全して横断できる唯一の虚海と言っても良かった。…何せ南西以外の虚海では妖魔の姿を見ない方がおかしいのだから。
港町の門を潜ると、夕刻の所為か大途を行き交う人波は幾分か少ない。それでも通行人の妨げにならないよう、鹿蜀の手綱を引く
明秦は途の端を歩きながら、騎獣を安心して預けられそうな舎館を探し始めた。
程無くして見付けた舎館は安宿ではなく、かといって高級感もない。位を付けるならば中の中といったところか。
高い塀に囲まれた二階建ての舎館、その敷地内に併設された厩舎を遠目から確認して門を潜ると、すぐに駆け寄ってきた厩番へ鹿蜀の手綱を渡す。そのまま舎館の入口に設けられた受付へと足を向けた。
「実は、今日は宿泊されるお客様が大変多くいらっしゃって、お客さんが最後の一室だったんですよ。運が良かったですね」
「ええ、本当に。…町で催し事でもあったんですか?」
「何も無いですよ。船の入港具合によってお客さんの数が違うってだけです」
「ああ、なるほど」
入港してくる客船が多ければ舎館も大いに賑わう。特に今日は寄港した船が多く、安宿から高級な舎館まで、数ある宿の大半が客で溢れていることを
明秦は知らなかった。
受付を滞りなく済ませた後、客房まで案内する青年の説明に
明秦は納得して僅かに相槌を打つ。二階へ上がる為に回廊を通り、そこで何気なく外へ目を向けた。ちょうど併設された厩舎が見えたものの、流石に中の様子を窺うことはできない。
…だが。
「…お客さん?」
外の景色に、自然と
明秦の足が止まる。青年が掛けた声も耳に入らず、ただ一個所――厩舎の手前で厩舎番と話す青年とその騎獣へ、目を留めずにはおれなかった。
白と黒の体躯、尾長の虎。それはいつか…そう、昨年慶国で目にしたのだったか。
「あれは…」
「え?」
ぽつりと零れた言葉に反応して、案内係の青年もまた足を止める。客人の視線を辿り、そこにいた珍しい存在を認めた途端、目を丸くした彼は思わず感嘆の声を漏らした。
「うわあ…珍しいですよ、うちに趨虞を連れたお客さんが来るなんて」
「そうなんですか?」
「ええ。今日は門に近い舎館も満室になったんでしょうね。そうじゃなければうちにあんな高価過ぎる騎獣を連れたお客さんは来ないですから。――あ!勿論、お客さんの騎獣が高価じゃないって言っている訳じゃあ無いですからね!」
慌てて付け加えた青年の言葉に
明秦は頷きながら微苦笑を浮かべた。
舎館は門から遠ざかるほど安くなり、近いほど高くなる。高級な舎館ともなれば門の傍に建っているものだが、そこを通り過ぎたということは、どの宿も満室状態だったのだろう。
厩舎の方へ視線を戻した
明秦は白黒の体躯をした騎獣をまじまじと見詰める。体は白地に黒縞、尾は長く、遠目でも分かるほど綺麗な金色の眼をしたそれは、視線に気付いたのだろう。僅かに首を傾けると、回廊上の二人に目を向けたようだった。
騎獣の中でも最上と言われている騶虞。その脚は一国を一日で駆けるほどの最速、戦場へ連れ征くならば勇猛ぶりを発揮するという。獲って売れば一生働かずに暮らしていける…と。いつだったか、そう聞いたのを思い出して、
明秦は騎獣の主を見た。長髪を緩く括っているせいで横顔も殆ど隠れ、外套を纏っているので身形の良し悪しも窺えない。ただ、微かに聞こえてくる声は意外にも若い。
そう、客人観察をしている最中に
明秦ははたと我に返った。…そういえば、案内係の彼は自分で満室になったと言わなかっただろうか。
「…まいったな」
「…え…」
客人がぼそりと呟いた言葉。無論回廊上の者へ告げた訳ではないそれを確かに耳にした
明秦はしかし、一瞬己の耳を疑った。
青年の困窮は明白。だがそれを呟いた彼の言葉に、
明秦は思わず懐古の念を覚えていた。…他国に渡りすぐに聞くとは思わなかった、故郷の言葉を。
「あの…お客さん…?」
「……部屋の造り、一明二暗ですよね」
「え?…ええ、はい」
「満室の場合、他の客房に相部屋を頼む事は?」
「たまにありますけど…」
では、と。
明秦は一度青年を振り返り見、再び趨虞の主へ目を向ける。宿泊を断られて、それでも留まっているのは、他に騎獣を安心して預けられそうな舎館が無いという事だろう。そう捉えた彼女は、一呼吸。
「騶虞の御仁。もし貴殿が宜しければ、私と相部屋に致しませんか」
「え……いいのかい?」
「ええ、構いません」
騶虞の主が驚きの表情で回廊を見上げる。緩く束ねられた長髪の所為で窺えなかった顔は、まだ若い。加えて優男という印象に若干驚きながらも、彼の承諾を込めた首肯を目にすれば、あとは舎館側に頼むのみで。
「私は此処で待っていますので、お願いします」
「は、はいっ!!」
慌てて駆けていく青年を見送った
明秦は次いで厩舎の方へ目を向ける。厩番に手綱を渡した騶虞の主が舎館の入口に向かって歩き始めた最中、回廊の方へ軽く手を上げたので、
明秦もまた頭を傾けるだけの会釈を返すのだった。
◇ ◆ ◇
2.
然程待つこともなく受付を済ませた青年と回廊で合流した
明秦は今度こそ客房へ通された。
二人が過ごすには十分な広さの起居、その中央に小卓と椅子が二つ置かれていて、肩に掛けていた荷物を卓上に置いた
明秦は唯一設置されている窓を開けた。広がる永湊の町並みと、町の先の斜陽を弾く虚海が一望できる景色を見渡して、ゆっくりと息を吸い込んだ。窓から緩やかに流れ込む風が運んできたのは、微かな潮の匂い。
港町の舎館も悪くない。そう思いながら振り返ると、騶虞の主は背に負っていた荷を解きながらにこりと笑みを浮かべた。
「本当に助かったよ。まさかどの舎館も埋まっているとは思わなかったから」
「やはりそうでしたか。騶虞を連れた客が広途の最中の舎館に来るなど滅多にない事だと、舎館の人が言っていたので」
窓から離れた
明秦は佩刀していた剣を解いて椅子を引いた。すると彼もまた外套を脱いで椅子の背凭れに掛けると、腰に提げていた剣を解く。互いに得物を小卓の縁に立て掛け、次いで先に口を開いたのは
明秦だった。
「私は
明秦。漣から来ました」
「そうか…虚海を渡るのは疲れるだろう」
「ええ、まぁ多少は。…貴方は?」
「私は奏から来たんだ。利広という」
よろしく、と柔らかく笑む青年に釣られて
明秦も顔を綻ばせる。その微笑のまま、彼女は先程厩舎の前で覚えた驚きの理由を問い掛けて。
「では…貴殿は奏国の仙なのですね」
「え?」
「それとも、別の国の?」
利広と名乗った青年はきょとんとする。理解し兼ねて思考を止めたのは一瞬、対面する者の顔をまじまじと見詰めたが、ばれた理由を察するまでにそう時間は掛からなかった。…過去にそういった経験があり、そういった腐れ縁が今も在るが故に。
「……参ったなぁ。まさか胎果とは」
「この姿では、海客には見えませんから」
騙されたなぁ、と背凭れにずるりと凭れ掛かった利広が宙を仰ぐ。互いに浮かべたのは苦笑ばかりで、それを引き摺ったまま、
明秦は言葉を続けた。
「貴方の言葉が故郷のものに聞こえたからこそ、信用できると思って相部屋の話を持ちかけたのです」
「そうか…運が良かったと言うべきかな」
今日は偶然稀に見る舎館の混み合い具合だった。そこに偶然客房を取れた仙を判る胎果がいて、宿に困っていた仙がいた。この出会いは運が良かったのか、或いは運に引き込まれたのか――。
少々面白い出会いだ、と利広は思う。
「ちなみに、私が仙だからといって言葉遣いを改める必要は無い。無理に使っている所為かな、奇妙に聞こえるよ」
「奇妙…、それは失礼」
奇妙と言われた事が存外気に障ったのだろう。眉間に皺を寄せて溜息を吐いた
明秦は僅かに項垂れる。言葉遣いに迷っているというふうだった。
「では、利広殿と」
「利広で構わない。私も
明秦と呼ぶよ」
「…ええ、分かりました」
「?
明秦…?敬語は」
「ああ、申し訳ない。漣では敬語の方が多かったものですから、話し方として身に付いてしまって…敬語が取れるまで少々時間が掛かりますので、それまではこの奇妙な喋り方で勘弁して下さいね」
「ああ、なるほど…」
利広の奇妙呼ばわりを完全に引き摺っている者は、至極笑顔で。対する彼は苦笑と曖昧な相槌で誤魔化すと、荷を置いてくると告げて荷物を手にそそくさと臥室へ逃げ込むのだった。
窓から見えていた港町や虚海は日没を迎えると、途に点々と浮かぶ灯りを除いて闇夜に沈みゆく。窓の傍に置いた椅子に腰を下ろし、ぽっかりと浮かぶ月をぼんやりと眺めていた
明秦は、出国前に檸典が呟いていた言葉を何気なく思い出していた。
――長年出入りしていたからな。頃合いでも見計らっていたんだろう。
冢墓から街に戻り、鍛練場に置いていた荷物を取って、逃げるように出ていこうとした手前、檸典が独り言のように口にした言葉だった。
もしもあの時鈴と出会わず、漣に居続けていたら、そのまま漣国唐州夏官の兵士になっていただろうか。自分は、それを良しとしただろうか。
(…いや、それは無いかもしれない)
漣国を出ていくつもりは最初からあったし、何よりあのまま檸典の下で扱かれ続けていては身ではなく心が保ちそうにない。そう考え一人げんなりとした顔を外へ向けていると、不意に背後から声が掛かった。
「夕食は済ませたのかい?」
「!…ああ、利広……いや、まだ」
「それなら一緒に食べに行こうか。
明秦がもう怒ってないのなら」
「…いや、怒っていない。行こうか」
緩く頭を振った
明秦は窓を閉めて立ち上がる。臥室に置いた荷の中から財囊を引き抜いて懐に収めると、起居で待つ利広の元へと戻った。
「…意外だな」
「え?」
「男らしい喋り方だと思ってね」
「ああ…此方へ来てからは夏官の者達とばかり接していたから、そうかもしれない」
だがこの話し方が存外しっくりくるんだ…と。そう告げた
明秦は不思議そうな利広の顔を目にして苦笑を零しつつ、起居を出ると一階の飯堂へ続く階段を降りるのだった。
混雑する時間帯を外して訪れたせいか、飯堂にいる客は存外疎らだった。
隅の席に座り、幾つか頼んだ注文の料理が来るまでの間、
明秦は利広が話してくれる彼の見聞歴に耳を傾けていた。…見聞歴といってもその実、彼が足を踏み入れた事の無い国は無いので、近頃巡った国の様子を話すだけなのだが。
「全ての国を見聞した事があるなんて…凄いな…」
「何せ移動は速いから。その分多くの場所を見聞できるから有難い」
「一国を一日で、だからな…一国の見聞なら三日もあれば十分過ぎるほどだろうに」
「急を要する見聞なら二日かな」
「急を要する……、たとえば、傾きそうな国とか」
「まぁ、そういう事だね」
うん、と頷いた利広は内心苦笑する。仙には特質である不老長寿がある。仙籍に名を載せた日から老いは止まり、病も罹らない。その特質を彼女は忘れている気がしたが、敢えて指摘はしなかった。…生きた歳月を問われるのは身元が割れそうで、少々怖い。
「…利広。一つ、聞いていいかな…」
「うん?」
「雁国は、利広の目にはどんな国に映っている?」
急に声音を落とした
明秦の問いに対し、利広は迷うように暫し沈黙を置いてから口を開いた。
――雁州国。奏国に次ぐ大国、それを築き上げてきた、胎果の王。
「五百年の治世だけあって、とても豊かな国だ。治水や道路の整備も行き届いているし、民の暮らしも豊かに見える。あれだけ国を豊かにできたのは長年の努力の賜物だろう。それに、海客への待遇も悪くない」
「ええ、まぁ」
「けど、今あの国はある事で悩まされている。…何だと思う?」
「大国の悩み、ですか…」
「そう。もっとも、うちの国も他人事ではないのだけどね」
そう言って利広は明後日の方角を見る。今年の夏…夏至はとうに過ぎていたので、小暑か大暑の頃のことだったか。梧桐宮の鳳が鳴いたのは。
「奏が他人事ではない……ああ、もしや難民。塙が斃れたから」
「正解。舜は持ち直してくれそうだからいいんだけど…この間までは慶国の民が流れてきていたな」
「でも、王が起った」
「そう。また女王だってね」
明秦の肩が僅かに揺れる。彼の言葉には落胆も失望も込められていなかったが、慶国ではその台詞を何度耳にしただろう。そうして、何処かで囁かれるのをどうしても耳に拾ってしまうのだ。懐達…と。
――それでも。
あの女王ならば、きっとやってくれる。そう信じて。
「どうもあの国は女王運が悪い。今度こそ続いてくれると良いんだけど」
「続きますよ、きっと」
利広の不安を払うような即答を口にした
明秦は先に出されていた茶を一口、そこへ丁度運ばれて来た食事に手を合わせて白米を掻き込む。そんな彼女の様子を、利広は暫し瞬きながらも見詰めていた。
食事を終えて客房へ戻ると、思い出したように問いを投げかけてきたのは利広だった。後ろ手で扉を閉ざしながら、僅かに首を傾げる。
「それで、雁国に行きたいのかい?」
「ええ。言葉が分からずに苦労している海客が一人、知り合いにいるのだけど…雁で此方の言葉を教えている海客がいるから、彼女をそこまで送っていくつもりなんだ」
「へぇ…その海客は何処に?」
「保州にいる。けど、用があって先に揖寧へ行くんだ。少々遠回りになるけど」
永湊からでは揖寧より保州の方が近い。とはいえ揖寧までならば鹿蜀で一日。そこから保州までは半日も掛からないだろう。然して苦にはならない旅だと、頭の中で旅路を考えていた
明秦であったが、真横から挟まれた思わぬ提案を耳にした途端、思考が途切れた。
「私も揖寧までは行くつもりだ。良かったらそこまで一緒に行かないか?」
「え…けど、騶虞と鹿蜀じゃ速度が違い過ぎるから」
「構わないよ。私の旅は急ぎではないし」
にこりと笑う利広に対して、眉間に皺を寄せて考える
明秦は沈黙を暫し。やはり付き合ってもらうのは悪い。そう思いもう一度断ろうとした…のだが。
「たまには二人旅も悪くないな」
にこにことした青年の至極楽しそうな笑みを目にして、数拍。
結局、
明秦が折れるのだった。
◇ ◆ ◇
翌早朝、身支度を整えて――最中に中々起きない利広を叩き起こして――舎館を出た
明秦は、開門を待って永湊を出発した。
上空では他愛もない話を交わし、数時間後には休憩の為に一度町へ降りた。軽い食事を摂って再び上空に駆け上がり、蒼穹を北東に向けて疾走する。それをもう一度繰り返して、国都揖寧に到着したのは陽が傾き閉門も間近な頃だった。
久方ぶりに訪れた揖寧の町並みは変わらず、途のあちらこちらから聞こえてくる喧噪は明るい。唯一以前と異なるのは、衆目が
明秦の背後を歩く青年、その騎獣に当てられている事だろうか。
周囲の好奇心溢れる眼差しから趨虞の貴重さを改めて実感しながら、入った舎館は昨日宿泊した宿よりも少しばかり高い舎館だった。
「昨日と同じぐらいの宿で良かったのに。それに国都なんだし」
「何があるか分かりませんから。…ああ、また敬語が」
「随分疲れてるね」
客房に案内され、荷を置くや否や椅子にどかりと腰を下ろした
明秦が大卓に頬杖を着く。一日空にいた疲労よりも、揖寧の門から舎館までに当てられた衆目で疲れた気がする。それは決して、彼女自身に当てられたわけではないのだけれども。
「…、ちょっと用事を済ませてくる」
「いってらっしゃい。戻ってきたら飯堂に行こう」
「ああ」
にこりと笑って見送る利広の、少なくとも疲労を感じさせない様子をちらりと一瞥して、ひらりと手を振り客房から出た
明秦は密かに溜息を吐いた。一体、誰の所為で疲労を感じていると思っているのか。
そもそも流されてくる前は人見知りで、人に注目されるのも嫌いだった。漣国では顔見知りの中にいたためにそれらが治ったような気がしていたのである。
疲労感を覚えながらも、人波に乗じて凌雲山の麓に向かい歩いていく。…目指す先は、官許の札が掲げられた店――架戟へ。
広途に面した場所に建つそれを一度見上げ、扉に手を掛けた。果たして手紙は手渡してくれたのか。…そして、返事は。
緊張からか、自然と早くなる鼓動を深呼吸で抑えながら、扉を開ける。開けた向こう、俯き加減の顔を持ち上げた店の女性と目が合った。――手紙を渡すよう頼んだ、あの女性だった。
「失礼します。…数ヵ月前に保州琶山の遣いに手紙を渡すようお願いした者ですが」
「!お待ちしておりました。これを渡すようにと、仰せ付かっております」
「?」
慌てて立ち上がった女性はすぐさま棚から端の折られた手紙を取り出すと、丁寧に差し出した。心なしか動作と口調が以前よりも丁寧な気がして、
明秦は内心首を傾げながらも差し出された手紙を受け取る。表と裏を確認したが、宛名は彼女のものではない。かといって彼女の主である洞主翠微君のものでもない。読み取れたのは男性の名で、
明秦は若干落胆の色を浮かべた。
「――ありがとうございます。助かりました」
「いいえ、とんでも御座いません」
深々と頭を下げる女性へ暇を告げると、架戟を足早に後にする。封を開けないまま舎館へ戻ると、出迎えた利広は
明秦の顔色を目にして微笑を潜めた。
「何かあったようだね」
「…いえ、まだ開いてみなければ何とも」
「開く?」
利広の向かい側に腰を下ろした
明秦は手紙を開いた。羅列する、達筆な字で綴られた文章。その中身をゆっくりと辿っていくと、読み進めていく
明秦の眉間には、徐々に皺が寄せられていく。
利広もまた反対側から僅かに身を乗り出して手紙を読んでいたが、意外な内容に思わず目を瞬かせた。
――翠微洞の僕が全員、長閑宮に召し上げられた事。
――鈴もまた翠微洞を離れた事。
――但し鈴は長閑宮に召し上げられず、本人の希望があって慶国へ向かった事。
「慶へ……」
手紙を卓上に置いた
明秦の溜息は重い。迎えに来たのが遅くなったせいですれ違ってしまった。早々に指南を終わらせられなかった自分が悪い。そう後悔を抱く反面、
明秦は疑問に首を傾げた。
…彼女は一体、何の目的で慶国へ向かったのだろう…?
「……慶に行くのかい?」
向かい側から問われて、
明秦ははっと顔を上げる。手紙から目を離した利広は彼女の迷いを見抜いているようだった。
「…行くとしても、彼女が何の目的で行くのか分からなければ目的地も……」
そこまで呟いて、不意に思い出したのは鈴の言動だった。以前会ったとき、同じ海客に理解を求めていた。…そして今回、慶国に新しく起ったのは。
「…まさか、堯天…?」
「堯天…ああ、慶国の国都か」
「新しい景王は歳が近い胎果なんだ。彼女は、海客に理解者を求めていた」
「だとしたら、景王に会えるかもしれないと考えている可能性もある」
「ああ。…もしかしたら采王にもお会いしている可能性がある。王に謁見できて、尚且つ話ができるかもしれないと考えたら……頭が痛い」
長閑宮に一人だけ召し上げられず、かといって翠微洞から抜け出せなかった訳でもない。少なくとも現代のように僕全員がストライキを起こして王宮の下働きに転職、などという事はまず無いだろう。それに、あれだけ言葉の不自由を苦痛に感じていた鈴が潔く慶に向かったのだ、おそらく仙籍はそのまま残されている。王と直接話したという予想は間違っていない。そう、彼女は己の直感を信じて、僅かに頭痛を覚えた。
卓上に肘を着き蟀谷を押さえる、そんな彼女の様子に利広は思わず苦笑を零した。
「追うのを止めるかい?」
「……いいや。私も少し前まで王はそんな遠い御方じゃないと思っていた口だから、止めに行く」
「……、」
僅かに目を見開いた利広を余所に、席を立った明秦は臥室へ向かうと荷物から地図を引っ張り出した。再び起居へ戻り、大卓上へ広げた地図へ視線を落とすと、腰を下ろさないまま、描かれた幾何学模様を俯瞰する。
「問題は向かい方か…」
慶国へ向かうといっても、様々な行き方がある。
その中で内海を通る選択はおそらく外れる。南に位置する内海――赤海の東側…つまり巧国添いの海には妖魔が出没して既に通れないという噂を聞いたからだ。海に出没しているのなら、陸は尚更危険極まりない、という事になる。
「だとしたら、船で舜国経由の船か……」
「船なら」
悩む
明秦の言葉を制して、利広は地図の一点にそっと人差し指を置く。
「才国永湊から奏国没庫へ、おそらく今は巧と舜の間を通過するように虚海を通って慶国呉渡に到着できるだろう」
「ああ…なるほど」
「慶国に向かうなら陸続きを左回りに行くよりも船を利用した方が早い。巧がああなってしまったから、騎獣を乗せてくれる船は以前よりも多くなったな」
大卓の対面先の青年を、
明秦は視線だけを持ち上げて見る。彼は各国の情報を、どれだけ持っているのだろう。そう不思議に思う反面、そういった情報を持つ者が海路について相談に乗ってくれるのはとても有難く感じるのだった。
「…しかし、人助けの為に慶まで追いかけていくなんて。凄いな」
「人から褒められるような事じゃない」
「いや、凄い事だよ。普通は自分の生活で手一杯になる」
「…、手一杯と言えば手一杯だけど」
多分、雁国に到着する頃には財囊が空になっているに違いない。故に雁国で稼ぎ、その間に次を決めればいい。実のところ、そんな大雑把な考えしか頭に無かった
明秦であったが、その方針を変える気も無かった。
「どこかの国に腰を据えるつもりは無いのかい?」
「今のところは、特に。…出生の国が判明したら、そこに落ち着くかもしれません」
「出生の国、か」
うん、と考え込む利広に対して、
明秦は口にできなかった。まさか雁国の麒麟が調べてくれるなどと口が裂けても言えない。
…だからこそ、彼が言い出した提案には苦笑を零すしかなかった。
「良かったら、私が調べておこうか」
「興味半分、面白半分で?」
「もちろん。私は粋狂だから」
◇ ◆ ◇
3.
「しかし、すれ違いか……」
「ん?」
飯堂で夕餉を済ませた
明秦は、先に階段を上っていく利広の背を見上げる。ちょうど階段を下る宿泊客達とすれ違ったが、別段それらを指している訳ではない事は
明秦も理解できた。
「君はその、鈴という子には迎えに行くと言ったのかい?」
「ああ…いや。一度、連れて行ってくれとせがまれたけど、あの時は仕事で才へ来ていたから断ったんだ。だから正確には言っていない。…保州の琶山翠微洞の主の元で働いていた子なんだ」
階段を上りきり、廊下を並び歩きながら懐を探る。…探りながら不意に思い出す、娘の黒々とした眼の縁に滲むもの。思わず眉を顰めて言葉を一度区切った
明秦は懐から取り出した鍵で客房の扉を開けると、起居は闇夜一色に染まっていた。
すっかり暗くなってしまった起居の大卓に近寄り、明かりを灯した利広の後方で、
明秦は静かに扉を閉ざす。
「翠微君は辛く当たる御方のようで。逃げ出せば仙籍を削除すると…言葉の分からない世界に逆戻りになるぞと脅していたらしい」
「だから言葉を学ばせようと、雁へ連れて行こうとしたのか」
「うん。苦しい原因が意思の疎通だというのなら、覚えてしまえばいい。そうすれば何処へでも行けるから」
才国で鈴と出会った当時、日本語で話しかけてきた娘を、正直
明秦は羨ましく思った。何せ努力をせず此方の言葉を話せる術を得られたのだから。故にもしも、彼女に下界で暮らすつもりが本当にあるのなら、今回の提案に乗ってくれるだろう、と――そう、思っていたのだが。
「だけど今回は自分の意志で逃げ出した」
まるで迷いを酌んだかのような青年の言葉に、俯きかけた顔をはっと上げた
明秦は僅かな躊躇の間を置いて小さく頷いた。
「だから、正直迷ってる。彼女が目標を見付けて洞を抜け出した今、私が追う必要は無いのかもしれないと」
「仙籍に入ったままなら言葉に不自由はしないし、わざわざ覚える必要も無い。形は違うが、
明秦の希望は叶ったように私は思うけど」
「うん。…ただ、景王に謁見を願う可能性を考えると、少々気掛かりだな…」
「まぁ、余程の身分でない限り門前払いだろう。心配する必要は無いと思うよ」
「…ああ」
仄かな灯りが灯る大卓の前、引いた椅子に腰を下ろした
明秦の表情から不安の色は引かない。浮かない顔のまま卓上に組み合わせた手をそっと置いた彼女を、利広は僅かに頭を傾けて見下ろす。…淡い灯りに照らされた顔に滲む憂いの元を、探るかのように。
「それとも、心配の矛先が違うのかな」
「え?」
「景王に迷惑をかけたくない、とか」
思わぬ質問に顔を上げた
明秦は一瞬きょとんとした。何故急に景王が出てくるのかと首を傾げかけ、つい今景王への謁見に対する懸念を口にしたのを思い出せば僅かに苦笑を零した。…言われてみれば、そうかもしれない。
「…景王は、此方へ来てまだ一年と経っていない。多分、政どころか処世も分かっておられないだろうから…徒に悩み事を増やしたくないという気持ちは、確かにある。…なにせ女子高生だから…」
「女子高生?」
「ああ、女性の学生のこと。女子高校生。高等学校は…多分、此方では上庠ぐらいだと思う。なにせ此方の大学はとても難しいというからな…」
「まあ、卒業できない人も多くいるようだからそうだろうね」
けど、と。向かいの席へ徐に腰を下ろした利広は逸れかけた話を戻すべく言葉を続けた。
「学生が王になったと聞いても、ああ、若い王なんだなと思うだけで、言葉を失うほど驚いたりはしないな」
「そう、なのか…」
「誰を玉座に据えるかは天帝がお決めになる事だから、学生が王になってもおかしくはない。…今の供王が十二で登極したと聞いた時には流石に驚いたけど」
「十二…まだ小さいのに、凄いな……」
僅かに瞠目する
明秦を前にして、利広は内心苦笑する。その当時十二歳だった少女の昇山に供として黄海を渡った、などと滑りかけた口を閉ざしながら。目の前の娘は勘も察しも良い。おそらく察して探られるだろう。
顎に指を添えて考え込むように視線を落とす、その淡い青鈍の双眼は灯りと共に僅かに揺れる。…否、暫し揺らいでいた。
「――追いかけるかい?」
「…ああ。念の為」
「それなら、ひとつ頼もうかな」
え、と
明秦は視線だけを持ち上げる。対する話を持ちかけた利広は、にっこりと口端を持ち上げると
明秦同様、組んだ手を卓上へと乗せる。
「私はこのまま才から北上する予定でね。恭での用事もあるから、慶を見て回るのはかなり後になる。そこで、
明秦――君に慶の見聞を頼みたい」
「私に?」
突然の頼みを再確認するように自身を指差した
明秦は思わず首を傾げる。出会って数日しか経過していない人間にそんな事を頼んでしまって良いのだろうか。
そんな
明秦の疑問は既に予想済みだったのだろう。微笑を浮かべたままの利広は迷いなく首肯を返した。
「その娘を捜すついでで構わない。引き受けてくれるかい?」
「…良いのか、自分の目で見なくて」
利広は確かに見聞と言った。だが見聞とは本来自分の知識や経験を深める為のものであり、少なくとも面識の浅い者に任せるようなものではない筈なのだが。
「個人的な見聞であれば自分の目で見なければ意味がない。利広の頼みは自分が見なくても構わない、つまり見聞ではなく情報収集のように思えるけど」
「ああ…、そうだね」
表情こそ変わらなかったが、ややあって頷いた青年の一瞬どこか躊躇したような、声音の些細な変化を耳にした
りつは思わず怪訝気に目を細める。
…仙にも位がある。下は鈴のような下仙、或いは府第の下官が名を連ねる士、上は王宮勤めの高官に与えられる候や伯、郷。彼は少なくとも下仙や下官のような地位の者では無いだろう。
…ならば、彼の住まいはやはり国都か。
「…。利広――貴方は本当は、」
「詮索はしない方がいい。その方がお互いの為だ」
青年の柔らかな笑みはそのままに、制する声音は先程よりもいくらか低い。探られたくない腹を無理に暴くつもりも無かったが、少なくとも詮索によって害を被るのは利広の方なのだろう。そう、返答の代わりに口を閉ざした
明秦は満足げに頷く青年を見据えながら漠然と思う。
「――四月がいい」
「?」
「来年の四月頃、私は柳の芝草に行くよ。おそらく同じくらいの格の舎館に泊まっているだろうから、訪ねておいで」
「…分かった」
突拍子も無く随分と大雑把な約束に一瞬躊躇したものの、
明秦は一つ頷いた。四月までは大分先だが、もし鈴との再会が早く終わってしまうと随分と時間が余る。その場合、雁国で一稼ぎしてから柳国を目指すのも悪くないだろう。
そう、脳裏で旅路の計画を着々と立て始めた
明秦はしかし、利広の呼びかけによって俯きかけた面を上げる。
「それと、
明秦」
「ん?」
「あまり物騒な事には首を突っ込まない方が良い。君は突っ走りそうだから」
利広の苦笑を伴う忠告に
明秦は束の間目を瞬かせたが、彼が心配してくれているのだと察すれば、
りつもまた釣られて苦笑を浮かべた。…鈴を迎えに行く件を明かしたのだ、彼がそう心配するのも無理はない。
「忠告痛み入る。心に留めておくよ。…まあ、師匠達からも散々言われたから、大丈夫だよ」
「そうだといいけど」
大丈夫だと返す者に限ってとんでもない無茶をする。過去に彼女と似た返答をした者、その無謀を思い出せば、利広の苦笑は自然と色濃くなるのだった。