壱章
1.
幼少の頃、
りつは田舎で一度だけ迷子になった記憶がある。
村の中で同じ年頃の子供達が川遊びをしていた。丁度夏休みで帰郷していた
生駒一家もそれに加わっていたのだが、祖父の家で西瓜を冷やしてあるというので、
りつが取りに戻ろうとしたのだ。
だが……見慣れた道にもかかわらず、進めば進むほど見知らぬ景色が広がる。やがて怖くなった
りつは急ぎ足で道を引き返したが、今度は何処まで進んでも川に到着できない。半泣きの状態で迷った、そこまでの記憶はあったが、結局どうやって戻ったのかは覚えていない。
……そして、今。
「…何処だ…此処……」
疑問を口にしても、景色は変わらない。
視界には湾曲した浅瀬に沿って生える樹木と深緑。陸は白い砂利ばかりで、全く見覚えの無い風景に、
りつはひどく困惑していた。
ぼたぼたと水の滴る裾を絞りながら周囲を見回してみたものの、やはりこの景色に見覚えは無い。そもそも自分は池に落ちたのであって、川ではない筈だ。…だが。
首を傾げつつも、ひとまず上流を目指して歩き出す。もしも流されたのならば、見覚えのある風景を見付けられると信じて。
……だが、いくら進んでもあるのは細い木々の立ち並ぶ景色ばかり。人と会う事も無く、それどころか山奥へと入っていく一方で、村が見えてくる気配は無い。
途方に暮れかけた―――その時だった。
突如羅列していた木々が途切れて、景色が開ける。数段ほど低くなった地に、見渡す限りの畑が広がっていた。
畑を区切る畦は所々で合流していて、そこに少しばかり残る土地には小屋が建っていた。…いや、荒屋と言った方が正しいのかもしれない。
その小屋から出てきた子供達は畦を駆け抜け、後から出てきた母親らしき女性が後姿を温かな眼差しで見守る。とても温かな光景に、
りつの胸はちくりと痛んだ。
「…いいや、そんな事よりも」
一瞬胸に過ぎった切ない思いを押しやって、
りつは瞬いて村人の姿を凝視する。外にいる彼らの格好は、田舎に慣れた
りつの目から見ても時代錯誤だった。
畑に出ている村人達の格好は見た事の無い、変わった形の野良着だった。畦を駆ける子供達の格好も、とても洋服とは言い難い。さらに言えば、その母親らしき女性の服も。
声が拡散している所為か、遠くから聞こえる明るい声を言葉として聞き拾う事は叶わなかった。村は一見穏やかだけれども、ひどく奇妙な感覚に惑わされている
りつは中々一歩が踏み出せなかった。
(ひとまず、あの村の人に現在地を聞かないと。もしかしたら隣村まで来てしまったのかもしれない。…だとしたら、急がないと日が暮れる)
急げ、と自分を急かすように言い聞かせた
りつが山林を出たのは三分ほど躊躇してからのこと。
思い切って村に向かって歩き出すと、畑の畦沿いに進む。相変わらず遊びに夢中になっている子供達を横目に、先程小屋から出てきたばかりの女性の元へと近付いていく陽に焼けた小麦色の肌と焦茶の髪がひどく印象に焼きついた。
「あの、すみません」
「!」
恐る恐る声を掛けた
りつであったが、女性は途端驚きに目を見開くと彼女をまじまじと見返した。頭の天辺から爪先まで、格好をまじまじと凝視する女性の表情はみるみる内に豹変していく。それはまるで、有り得ないものを見ているかのように。
恐怖か怒りか汲み取り難い表情を浮かべる女性を、
りつは怪訝そうに見返した。
一体どうしたのだろう。何も失礼な事はしていない筈なのに―――そんな疑問を抱いた矢先だった。
突如女性が畦の向こうで働く男達を振り返り声を張り上げた。一帯に響く女性の言葉を聞き取れなかった
りつは、然して疑問に思わなかった。きっと訛りの所為で聞き取れなかったのだ。…標準語が通じると良いのだけれど。
慌てて駆けつけてきた男達の様子を眺めながらそんな不安を抱いていた
りつは、しかし。畦を通り上がってきた男達は女性を見、すぐに
りつの姿を見るや否やぎょっとした。
「すみません、ちょっとお尋ねしたいのですが…」
「―――…――」
「…!?――」
投げ掛けた言葉を素通りされて、
りつは瞬いた。…いや、正確には酷い訛りで返された言葉を理解できずに、一方通行で終わってしまった。
女性や他の男達は視線を交わし、こそこそと話し込んでは少女を見やり、困惑を浮かべていた。その様子を次第に心地悪く感じた
りつは、ここでようやく違和感を覚え始める。
―――何かがおかしい。
押し寄せる不安が話し込む者達との距離を少しずつ開かせる。
何故ここまで不審がられるのか。何故話しかけてこないのか。何故時代錯誤な服を着込んでいるのか。
……何故、多少理解のある訛りが、一言も聞き取れないのだろう―――?
次々と沸く疑問はすぐに恐怖へと変わった。身を捻ると同時、半ば摺り気味に退いていた足で地を蹴って駆け出せば、背後から聞こえる、怒号に似た叫声。制止の声だと予想はついたが、やはり言葉を理解する事はできなかった。
◇ ◆ ◇
2.
抜け出したばかりの山林へ再び飛び込むと、木々の間をすり抜けながら来た道を迅速に辿る。人の声や足音が完全に絶えても胸に詰まる不安から足を止めることができなかった。
結局元の浅瀬まで戻ったところでようやく足は止まり、すっかり上がってしまった呼吸を深呼吸で整える。言葉が通じない、その事実が脳内で巡り続けている。言葉が分からなければ現在地も帰路も聞けない。つまりは迷子のまま。
一体、どうすればいいのだろう。
深く溜息を吐き出して、何となく空を見上げる。傾きだした陽は徐々に風景を夕闇の色へ染めていく。あと一時間も経てばこの周辺も暗くなるだろう。その前に、何とか帰路を見付け出さなければ。
(…暗くなったら、何も見えなくなる)
人里から離れた夜の山。そこが如何に危険地帯となるのかを、
りつは昔から祖父と祖母に言い聞かされてきた。だからこそ村に下りなければならない。それは理解しているが、先程接触した者達の反応を思い出す限り、少なくともあの村が
りつにとって安全な場所に成り得るとは思えなかった。
無闇に歩き回る事はかえって迷い込む可能性が高いが、日のあるうちならばまだ動いても大丈夫だろう。そう自分に言い聞かせながら、再び浅瀬を見渡す。何れは帰れる。そう信じて、木々の間を進み続けた。
……だが。
(どうしよう……何も無い…)
りつの顔が困窮に歪む。
何処まで行っても景色に変わりは無いまま、ひたすら歩き続けているうちに、とうとう夜を迎えてしまった。
人里から離れた山林の中は夜陰に満ちていて、唯一頼りとなる月光も厚い雲に覆われて一筋すら射さない。手探りで進むのは流石に憚って、仕方なく木の幹に背を凭れて膝を抱えた。歩き続けてすっかり浮腫んでしまった足には重い怠さが残る。
(……ばあちゃん、探してるんだろうな)
不調の度に田舎へ療養しに来ていた
りつにとって、祖母は育ての親に近い。いつも世話を焼いてくれる祖母に心配を掛けているのだと思うと、申し訳ない気持ちで一杯だった。
帰りたい。せめて、交番でも見付けられたら良いのに。
不安と寂しさと空腹と。混濁する気分の中、半日歩いた疲労がどっと押し寄せてくる。……襲い来る睡魔に、重くなる瞼。
明日にはきっと帰り道が見つかる。そう自分に言い聞かせて、蹲った
りつはそっと目を閉じた。
瞼を貫く刺激が痛い。
顔を顰めながら薄目を開ける。空を覆う木々の深緑、その間から降る日の光が地を鏤めて、きらきらと光っていた。偶然顔全体に射していた陽光を掌で遮りながら、いつの間にか横臥していた体を徐に起こす。辺りを見回すと、とうに夜明けを過ぎて朝を迎えていた。
固い地面に横たわっていた所為か、体の節々が痛む。加えて空腹と喉の乾きが襲ってくれば、仕方なく疲労の溜まった体を無理矢理動かして立ち上がる。耳を澄ませ、聞こえてくる水音を頼りにゆっくりと歩き出した。
念の為、元の場所に戻れるよう目印にしていたのが浅瀬だった。見た限りでは澄んだ水だったので、少し飲む程度ならば問題は無いだろう。
流水音を確かめながら、
りつは木々の間を抜けていく。幾分か歩いて開けた視界には深緑の木々に囲われて広がる砂利の地。葉の囁きと流水の音が静寂に穏和を醸し出していた。
一望――人の姿は無い。
安堵に胸を撫で下ろした
りつは、凹凸ある足場に気を付けながら浅瀬に歩み寄る。滔々と流れゆく水を覗き込むようにして見下ろすと、それほど深くはない川の底がはっきりと見て取れた。試しに川へ差し込んでみた手が指先から急速に冷えていく。
両手に掬い上げた水で口を濯いでから、袖を捲り顔を洗う。それでようやく、空腹と疲労で微睡みかけていた意識がすっきりと覚めた。
頬を伝う水滴を袖で拭い取って、やっと落ち着きを取り戻し始めた
りつは浅瀬から少し離れた場所に腰を下ろすと、現状を再度整理する。
自分は迷子で、池に落ちた筈が見知らぬ浅瀬にいた。…まず此処からが可笑しい。池の周囲は数年前に探索済みで、少なくともこんな浅瀬は無かった。周辺の村も方言が極端に違うという話は聞かない上、あれほど時代錯誤な服装も有り得ない。棚田を平らにしたような畑も、祖母の村や周りの町村では一切見たことが無い。
(……じゃあ、あの村は)
一体、何処だったというのか。
村の作りも、方言も、服装も、土地も。全てが違う場所など、まるで余所の場所ではないか。
瞬間、
りつの脳裏には最早確信に近い、嫌な予想が浮かんだ。…背に浮かぶ汗は、冷や汗か。
(ただの迷子じゃない。浅瀬から上がった時点で気付くべきだった。―――これは)
「……神隠し」
幼い頃に遭った体験の続き。周りの大人はただの迷子だったと流していたが、もしもこれが幼少の体験と同じだとしたら。
「帰り道が、分からない」
思わず口にした言葉が浅瀬の流水に掻き消される。
困惑に満ちた顔を何に向けるでもなく、
りつは暫くの間愕然とした表情で立ち尽くしていた。
◇ ◆ ◇
3.
(やっぱり、人に聞くしかない)
予想外の状況に一時は愕然とした
りつであったが、時間を掛けて落ち着きを取り戻し、考え込んだ末に先日訪れた村へもう一度足を運ぶことにした。
この山林を歩き回った限りでは、人のいる場所はあの村しかない。言葉の疎通が叶わなくとも、せめて現在地だけでも聞かなければ帰る方法も見付からないのだから。
「―――よし」
気合いを入れて立ち上がると、まだ記憶に残っている道程を辿って浅瀬から離れ始める。期待と不安を胸に歩き出し、再び山林を分け入って進もうとした、手前。
一瞬耳を掠めた、葉の擦れ合いとは違う何か。断続的に聞こえる音は、獣の息遣いにも似ている。そう、例えば牛や馬のような。
そこまで考えて、途端に
りつの体が翻る。陽で眩んだ視界が治るまでに数秒。遠方で聞こえた些細な音の正体を視界に捉えた瞬間、
りつは思わず目を疑った。
浅瀬の向こうに獣がいる。…いや、山中なのだから獣がいるのは当然だ。問題は姿形にある。
一見水牛のように見えた獣は、木々の葉よりも濃い色をしていた。勿論、深緑色の水牛など見た事は無いし、元より居る筈もない。…ならば、あれは何だというのか。
――野生だろうか。珍しい色の牛だ。
――大きさは水牛ぐらいだろう。
――この山に住み着いているのだろうか。
――いや、それよりも。
何故、前脚を低く屈し、頭を垂れる体勢でこちらを向いているのか―――。
りつの胸中で生まれた疑問が警戒心に摩り替わり、身を退こうとしたその瞬間。
突如嘶きを上げた獣が前脚で地を叩く。砂利を砕くような響きに驚いた
りつは反射的に首を竦めたが、すぐに慌てて駆け出した。
あの体勢は知っている。昂奮した牛が突撃してくる時の身構えと一緒だ。角先の方向を見れば、突進先は間違いなく此方だろう。
(あんな緑の牛なんて知らない…あれは、何だ……!?)
太い樹木の密集する地を駆け抜ける。姿形に多少の変異はあれども相手は牛だ。狙いを定めればあっという間に追い付かれてしまう。せめて入り組んだ場所に逃げ込めば足止めになると考えた
りつは、しかし。
突如背後で轟音が響く。驚いて後ろを振り返ると、大木が一本、周りの木々を巻き込みながら横倒れる様を確かに見た。
――撒かなければ、怪我をする。
判断からようやく危機感を抱いた
りつは二本、三本と続く倒木の音を背に、焦燥と危懼に顔を歪めながら必死に木々の間を擦り抜けていく。最早後ろを振り返る余裕は無い。元より少ないと自負している体力を振り切る為だけに回して、ひたすら逃走を続けるのだった。
背後の音が完全に止み、足を止めた時には、完全に見覚えの無い景色の中にいた。
両の膝に手を着きながら乱れた呼吸を落ち着かせた
りつは改めて周囲を一望する。高々と昇る陽の光を、頭上に生い茂る葉が阻んでいた。陰る地面には木漏れ日が点々と散っているだけで、影の続く道先は
りつに陰鬱な印象しか与えない。
(…本当に迷った……あの牛のせいだ)
手懸りであった筈の村からも遠退いて、浅瀬のある方向も分からない。いよいよ迷子から抜け出せなくなって、落胆から大きく肩を落とした。
危険な獣がいる事が分かった代わりに大きな情報源を失った。既に一日が経過した今、また一から探しに向かうのは流石にきつい。空腹に加えて体力の限界では、これ以上動く気になれなかった。
樹の幹に背を凭れると、ずるずると摺れ落ちる。…浅瀬や村を探すのは、明日に回すしかない。
膝を抱えて蹲ると、どっと押し寄せる疲労からそっと目を閉じる。…言葉の通じない人々も、あの奇妙な牛も、この場所も、一眠りした後に全て消えてくれたらいいのに。
そんな都合の良い考えを抱きながら、一時の眠りに就いた
りつが再び意識を取り戻したのは、日没間近の夕刻方。
遠くから聞こえる赤子の夜鳴きで、ふと目が覚めた。
(……子供の泣き声)
奇妙な事もあるものだと、敢えて身動ぎを止めた
りつはぼんやりと思う。ずっと遠くで泣いているような気もしたが、子が泣き続けているのなら、親も子守に徹しているに違いない。
起きたばかりでは思考が巧く回らず、襲い来る眠気から瞼を閉ざす。そのまま再び眠りに就くと、翌日、何事も無かったかのように朝を迎えるのだった。
◇ ◆ ◇
4.
迷子になって、何日経つのだろう。
空腹を満たすほどの食物は見当たらず、辛うじて見付けた木の実や岩の間から流れ出る湧水で空腹をしのぎながら、山林の中をふらふらと彷徨い続ける。手足に上手く力が入らずに転ぶ事もあったが、服や肌が汚れる事を気にする余裕など、最早微塵もありはしなかった。
これは迷子ではない。遭難だ。
餓死という可能性を見出し始めた
りつは命の危機を覚え始めていた。
(牛や熊に襲われないだけましだ……けど)
弱肉強食の元に命が散るか、飢餓の下土に還るか。…或いは、何とか浅瀬に辿り着いて、村を見付けるか。
複数の選択肢が脳裏に浮かぶ。だが最後まで諦めるつもりのないりつは死という言葉が頭を過ぎる度に体へ喝を入れて足を進めていた。
そして、ふと思う。
…遭難してから既に三日以上経過している。今頃は祖母が警察や実家に連絡し、捜索願を出してくれている筈だ。まして人里近いのであれば、誰かしらが探しに来てもおかしくない。それが何故、全く来ないのか。
―――いや、そもそも。
神隠しに遭った場合、遭った人間の行き先は、一体何処へ…?
(そういえば、考えたこともなかった……)
幼い頃に体験した記憶は途中で途切れている上、証言してくれる友達も大人もいなかった。単に迷っただけなのだと、笑って終わらせるだけで。
(もっと詳しく調べておけばよかったな…)
今更そう考えたところでどうしようもないのだが、口を開けば溜息ばかりが出る。迷ったばかりの頃に漏らした独り言も、今では呟く気力さえ無い。
だが…自分を心配してくれることで、もしかしたら両親が一時でも喧嘩を止めてくれるかもしれない。無事に家へ戻ったら、喧嘩を省みて少しは仲良くなるかもしれない。
そんな、勝手な想像をするだけでも多少の元気が出る。
そうして再び萎えた足を一歩踏み出した
りつは、進めようとした二歩目を不意に止めた。
はっと上げた顔を背後へ恐る恐ると向ける。そこには見飽きた樹の幹ばかりが視界を埋める。
……だが。
山林の奥から聞こえたもの。あれは、何だ。
「…まただ」
りつが聞き拾ったのは赤ん坊の泣き声。それは昨晩耳にした声に酷似してはいないか。
樹の幹へ着いた手に自然と力が籠もる。…昨日は睡魔のせいで思考が上手く働かなかったが、声の方へ向かわなかったのはどうやら正解だったらしい。
赤子の泣き声があるのなら、近くに母親がいる。探していた人の存在に本来喜ぶべきところ、
りつは額に冷汗すら浮かべて、声のする方を凝視し続けていた。
鳴き声が近付いている。緩やかではあるが、風の流れは追い風だった。振り返れば鼻を掠める風の臭い。無臭である筈の風はしかし、何故熊のような獣臭を運んでくるのだろう――
途端、鳴き声が突如獣の唸り声に豹変すれば、それ以上の凝視は不要だった。
不安は瞬く間に恐怖へと変わり、此処から離れようと駆け出す。地を蹴り出すその音を、鳴き声の主は決して聞き逃さなかった。
急速に駆けてくる獣の足音に、思わず
りつが振り返った瞬間、黒い獣が真横をすり抜ける。通過様、鋭利な痛みを彼女の腕に走らせながら。
「…!!」
反射的に腕を押さえた掌が、温かな水に触れる。じわじわと滲む感覚の元を見下ろす余裕は、今の
りつには無かった。
真横を通り抜け、目の前で構えた獣の姿を、彼女はこれまで見た事が無かったのだから。
狼にしては毛並みが黒く、毛並みも体躯も違う。そも、赤子の泣き真似をする獣など知るわけがない。
――ならば、目の前にいるこれは何だ。
凝視は一秒と満たず、驚愕は腕の痛みを経て恐怖へと変わる。引き攣った顔もそのままに、獣へ背を向けると同時に地を蹴った。
木々の間を上手く擦り抜けながら必死の形相で逃げる
りつを、黒い獣が追う。その距離は時折縮まると、逃走する獲物の足を獣の爪が掻く。鋭い痛みが走る度に歯を食いしばって耐える
りつは、それでも駆ける足をさらに前へと急かし続けていた。
どれほど走ったのかは分からない。後ろの獣が一頭から二頭、さらに三頭へと増えた時点で、彼女の緊張と恐怖心以外の全てが麻痺し始めていた。
既に息荒い現状で逃げきれる筈が無い。…もう、限界だ。
酸素不足で世界が歪み出した―――そのときだ。
急に開けた視界の向こう、
りつが目的地としていた浅瀬が広がったのは。
(最悪、だ…!)
浅瀬付近は砂利ばかりで、足場が悪いことは十分に知っている。さらに木々の間を抜けることで獣と上手く距離を置いていたが、障害物の一つも無い広場ではすぐに追いつかれてしまう。
それでも、山林を抜け出る事に躊躇する暇は無かった。不運にも辿り着いてしまったこの場で、どうにかするしかない。
突如飛びかかってくる獣を真横へ飛び退いて躱し、蹈鞴を踏む間も無く駆け出す。刹那、足を襲う何度目かの痛みに上げかけた悲鳴を飲み込んで、砂利を踏み込んだ、瞬間。
不意に砂利に足を取られて、ずるりと滑る。
瞬時にまずいと感じた
りつの目が咄嗟に身を捻り後ろを捉えた。そこには、今まさに
りつの脚へ向かって口を開く獣の姿。
―――噛まれる。
そう、激痛を覚悟して奥歯を噛みしめ、目を見開いた直後。
走ったものは、肉を抉る激痛と、鼓膜を震わせるほどの盛大な衝撃音と、犬の悲鳴のような声と。
ふくらはぎへ走る激痛に悲鳴を上げかけた
りつは顔を歪めて砂利の上に倒れ込んだが、眼を閉じる直前に薄目で確かに見た。
獣が、真上から降ってきた何かに穿たれた姿を。
「いっ…!!」
ふくらはぎに続いて砂利に叩き付けられた体が悲鳴を上げる。声にならない痛みに涙が出そうになったが、堪えて恐る恐ると眼を開くと、手足の痛みを一時忘れて呆然とした。
三頭の獣が銀と黄土の棒に首元を貫かれて横たわり、体躯の下から流れ出る血が砂利を赤く染めていた。鼻を衝く鉄錆の臭いは少なくとも自分のものではないだろうと、
りつは顔を顰めながら思う。
絶命したであろう獣を一頭、二頭と辿って、最後に自分の足下を見れば、脚を噛みかけたまま息絶えた獣の姿がある。恐る恐る鼻面と顎を持ち脚を外すと、獣の歯形状に肉の抉れた痛々しい傷が現れた。食い千切られなかったのが不幸中の幸いだった。
命が助かった事に安堵の息を吐いたのも束の間。
突如上空から鳥の羽搏く音がして、再び全身に緊張が走る。首を捻って仰ぎ見た空は青く、そして浮いている黒い陰が次第に大きくなっていく。
―――鳥の影。
…だが、何かがおかしい。
よくよく見ると、それは田舎でよく見る鷹や鳶の比ではない。遙かに大きな鳥が、この浅瀬沿いに降り立とうとしている。
怪我をした脚を引き擦りながらも立ち上がって、獣だったもの達から少しだけ距離を置く。羽搏きと共に砂利を吹き飛ばすほどの風圧が掛かりながらも、鳥は獣だったものから距離を置いてゆっくりと下り立った。
鳥は人を襲う気配がない。いや、それどころか手綱が付けられていて、背に掛けられた鞍の上には男が騎乗しているではないか。
獣の骸へ眼を向けた男は、それから少しだけ怯えの滲む
りつと目を合わせた。
「安心しろ、この妖魔は既に死んでいる」
「……はい」
「大事は無……いや、右脚を負傷しているか。紫秦、この娘の脚の手当を頼む」
「分かりました」
りつは一瞬、男が誰に向かって話しかけているのか分からなかった。すると、突如馬に似た獣が空から滑り下るように降りてくる。その上には女性が一人、鞄を背に浅瀬へと降り立った。
―――馬が空から降りてくる筈がない。羽もないのに、一体どうやって。
恐怖は少しずつ困惑へ変わり、小さな布袋を手に
りつの元へ駆け寄ってくる女性を目で辿る。彼女の服装は今まで見た事の無い、強いて言うならば質素な民族衣装のようだった。
「あ、あの…」
「座りなさい。今は応急処置しかできないのだけど」
「はあ、」
着座を勧められた
りつは困惑しながらも負傷した右のふくらはぎに負担を掛けないよう砂利の上にゆっくりと座ると、女性が手早く布袋の紐を解く。てきぱきと進む処置の準備を前に、
りつは再び混乱し始めた頭を何とか整理しようとする。
―――日本語だ。それも、田舎の方言ではない。だが、服装も違えば髪の色も違う。男の方は紫がかった黒髪で、女性は茶髪だ。さらには空を飛ぶ鳥や馬がいる。
これほど不可解なものはない。夢か幻でも見ているのではないだろうか。
数日の遭難も空腹も忘れてしまうほどの異様な光景に顔を強張らせる。そんな
りつの前では布切れや包帯を布袋から取り出した女性が手を進めていて、その背後から突如渋声が掛かった。
「見慣れぬ袍だが、此処の者ではないな。名は?」
「……
生駒りつです」
男女を見比べ、見知らぬ者に名乗る事を少しばかり躊躇ってから、おずおずと姓名を告げる。すると突然女性の手がぴたりと止まった。え、と小さく声を上げると
りつを間近で凝視し、まるであり得ないものを見るような――まるであの村人達のような――目付きで、さらに小さな呟きを零す。
「海客…」
「村人の報告は間違いではなかったか」
女性の呟きも、男の独り言も、
りつには理解できない。…できる筈がないその理由すら、彼女はまだ知る由もないのだから。