壱章
1.
秋の訪れを感じ始めるこの時期、漣国の東――海沿いに位置する唐州の朝は、濃霧の景色から始まる。
未だ暖かさの残る潮風が冷たい海水に冷やされて霧が立ち込めると、それが森の朝霧と合流して唐州を覆っていく。それはさながら雲海の如く。
その霧の中を、
明秦は嘗て毎日のように駆け抜けていた。昔も今も変わらず、目的地は皋門。今は騎獣を舎館に預けているため、一人門の前に佇んでいた。
「懐かしいな…」
一年間めげずに通い詰めたのがまるで遠い昔のように思えて、
明秦はしみじみと呟く。それから長く続く階段に、ゆっくりと足を掛けた。
以前は鍛練場への出入りが許可されていたが、それはあくまでも弟子入りしていた頃の話だ。本来は府第で謁見を申し出て、許可が下りてから面会が叶うのが通例である。
府第で謁見の申請を済ませると――散々通っていたお陰か手続きは滞りなく済んだのだが――暫く待つように言われて、府第の入口手前で待つ事にした。すると存外早く許可が下りたため、許可証を受け取るなりすぐさま踵を返した。
「お待ち下さい
明秦さん。鍛練場でお待ちいただくよう、師帥より言伝を預かっております。向かうまでに少々時間が掛かるとも仰っておりました」
「え…ああ、分かりました」
慌てて声を掛けてくれた受付の女性に頷いた
明秦は再び前方へ顔を向けると、足早に歩き出す。…別段打ち合うために訪れたわけではないのだが、折角鍛練場を訪れる機会ができたのだ、早目に顔を出して少しばかり体を動かしたい。そんな気持ちが、
明秦の歩調を早めていく。
夏官兵士の朝は早い。大半の者が其々持ち場へ向かう前に鍛練へ臨むため、早朝の鍛練場は混雑する。府第から雉門まで路を引き返し、その最中に遭遇する人波に合流して、唐州夏官が使用する鍛練場へ続く路を辿っていく。鍛練場の入口に立つ兵に証書を見せ、中へ足を踏み入れていく。
「あれ…
明秦?」
「おいおい、何故お前がいるんだ。弟子入りは終わったんじゃないのか?」
「今日は利紹さんにお聞きしたい事がありまして。来るまでの間、此処で鍛練させて下さい」
「まぁ…構わないが」
利紹の弟子として鍛練場に出入りしていた一年の間に、大半の兵とは顔見知りになっていた。弟子を卒業してからまだそれほど経っていなかったが、久しぶりに見た多くの顔がひどく懐かしい。
荷物を鍛練場の片隅に置くと、練習用の木剣を木箱から引き抜く。己が扱う剣とは全く異なる重さを確かめながら、周囲の兵と同様に素振りを始めるのだった。
利紹が鍛練場に姿を現したのは、午も間近のころ。
時折休憩を挟みながら木剣を振り、或いは今日は非番だという兵の練習相手を買って出ては打ち合っていた
明秦の元へ、懐かしい声が届いた。
「
明秦…!」
「!」
相手の一振りを捌いて、
明秦は半身を捻る。鍛練場の入口から早足で歩いてくる礼装姿の男を認めたならば、稽古相手に手を挙げて制止を合図し、木剣を帯に差し込みながら彼の元へ駆けていく。
「お久しぶりです、利紹さん。ご無沙汰しております」
「久しぶり、という程でもありませんが…ひとまず、お久しぶりです」
はい、と歯切れ良く答えた
明秦は恭しく拱手をする。その姿が、弟子を卒業した頃よりも少しばかり逞しくなった印象を受けて、利紹は思わず顔を綻ばせた。
国を出たとは李偃から聞いていたが、良い経験をしてきたのだろう。そう密かに思い微かに笑む利紹はしかし、今日の用件を聞き損ねていた事をすぐに思い出して首を傾げた。
「突然どうしました?」
「あ…いえ。利紹さんの剣術を久方ぶりに拝見したかったので」
「それは…構いませんが」
利紹は頷きこそしたものの、それが彼女が訪れた真実だとは思えなかった。
目を眇めて、見定めること数拍。合った目線が訴えるものは、追求心に非ず。
「何か、相談でも?」
「……ええ…少しだけ」
「…分かりました。後で時間を作りましょう」
お願いします、と
明秦が頭を下げようとした――そのときだった。
入口から僅かにざわめきが上がり、利紹の視線が其方に飛ばされたのは。
「何ですか…?」
「おそらく彼でしょう。――檸典」
利紹が軽く挙げた手に反応して、赤銅色が揺れる。ああ、と低声で聞こえた返答と共に上背のあるそれは、左右に避けていく兵が作った道を迷わず歩いてきた。
一瞬、
明秦は表情を強張らせた。…きつい口調といい、横柄な態度といい、以前から檸典に対する苦手意識が芽生えていた。それでどうしても、会話に巻き込まれないよう自然と身を三歩ほど退いてしまう。
「利紹、来たばかりですまんが、左将軍がお呼びだ」
「分かりました。――
明秦、少々席を外しますので」
「ええ、いってらっしゃい」
踵を返すなり慌てて駆け去っていく利紹の姿が、鍛練場から消えていく。それをぼんやりと見送り、
明秦もまた鍛練に戻ろうと半歩ほど足を退かせた、のだが。
不意に妙な視線を感じて、徐に其方へ顔を向ける。随分と上方から――つまり上背ある男から据えられた凝視は、心地悪い以外の何物でもなく。
視線が合うや否や、大股で
明秦の元へ歩み寄った檸典はいつにも増して仏頂面のまま、吐き棄てるように
明秦へぶつける。
「おい、暇なら付き合え」
「…え?」
てっきり文句を言われるものだと思い込んでいた
明秦は驚きに目を瞬かせる。いつの間にか稽古用の木刀を引き抜いた檸典は口元を歪めていて、
明秦の返答を待つ気など更々無いようだった。
「海客の相手なんぞと思ったが、利紹から護衛の件を聞いて気が変わった。ひとまずそこに直れ。少々相手をしてやる」
「――分かりました。お願いします」
諦めた
明秦はそっと溜息を落とすと檸典との距離を開ける。正眼に構えた己の木剣の先に男を捉え、踏み込みを見計らう。
互いに睨み合う事暫し――先に踏み込んだのは
明秦だった。
距離を詰めると同時に木刀を横に伏せ、右下方から左上方目掛けて振り抜く。その一刀を、檸典は真横一線に走らせ弾いた。
初撃を弾かれたが怯まず即座に距離を詰め、上段から振り下ろした
りつの斬撃を、巌のような身体は思いの外身軽に躱す。これ以上踏み込ませぬよう、払うように大きく振り凪がれては、
明秦はやむを得ず後退するしかない。
「っ…」
「次だ。来い」
男の片腕を挙げて招く仕種を挑発と捉えると、下段に構え直した
明秦が瞬く間に距離を詰めると同時に振り上げ、二撃三撃と追撃を重ねていく。その一撃一撃を見定めながら打ち落とし、或いは身を傾けて避けた檸典は、
明秦が間髪入れずに切り込んだ斬撃を真っ向から受け止めた。
交錯する木刀の軋みを耳にしながら、互いに顔を突き合わせる。力押しならば無論、
明秦が押し負けるのは明白だった。
「っ、く…!」
「お前、まだ海客を助ける気なのか」
「そうですが、何かっ…!」
突然の問いに、歯を食いしばりながら答えた
明秦は男を睨み上げる。一見涼しい顔で、交錯する得物をじりじりと押し進められるのがひどく悔しい。
更に追い打ちを掛けるかの如く、微かに苛立ちを含んだ眼差しを彼女へ向けた檸典は眉間に皺を寄せると、忌々しげに顔を歪めた。
「一人を助けて何になる。何の見返りがある。以前もそう言った筈だが」
「っ…助ける為には見返りが絶対必要、ってわけではないでしょう!」
「甘いな」
叫ぶ
明秦を突き放すように、檸典は交錯する得物ごと力任せに弾き飛ばした。後退したものの転倒を免れ、蹈鞴を踏みながらも構え直した
明秦の耳に、刹那飛び込んできたのは。
「お前、国を出て何を見てきた」
片手で得物を構えた檸典の、鋭い追及。
はっとした
明秦は木剣越しの男を凝視する。何を、と聞かれて思い出すのは巧国や慶国の、荒れた地。あのときに感じた気持ちを顧みても、思い出せるのは苦い感情ばかりで。
「…荒れた国と人を、見てきました…」
「それで、何を思った。自分に何かできるとでも思ったか?」
「それは…」
「お前一人の力で何ができる。一体何を変えられる?」
「そんなもの、」
やってみなければ分からない。そう発しかけた言葉が、突如距離を詰めた男が繰り出す一閃によって嚥下する。右から弧を描き振られたそれを転がり避けて、再び正眼に構えた
りつはふと、一つの疑問を抱いて眉を顰めた。
彼は何かを諦めさせようとしている。いや、彼だけではない。嘗ては利紹も、李偃ですら、同じ問いを投げかけてきた。それは今思い返せばまるで、人を助けるという行為を批難されているようで。
木剣を握る汗ばんだ手に、力が篭る。どうして、と彼女が零した小さな呟きは微かに震えていた。
「目の前で困っている人にすら手を差し伸べてはいけないんですか…?」
「……」
「たった一人を助けたところで国が変わるわけではない。手を差し伸べられた人が感謝を抱くかどうかも人それぞれです。だけど少なくとも、目の前で困っている人間を無視する事の方が余程卑怯で、後になってあの時助けてあげられたら、なんて後悔を抱くのは嫌なんですよ」
誠実な訴えに、踏み込もうとした男の足が止まる。…覚悟を抱いた者がする貌を、彼は知っている。ぶれのない眼光。そこに湛えられているのは、決して屈折する事のない、純粋な意志。五年前に目にした誰かの姿とよく似た眼の。
「全ての人とは言わない。私の目に入る人だけでも助けたい。その思いに態々理由を付ける必要なんて、ある筈が無い」
「それは誠意か。それとも偽善か」
「偽善なんかじゃない」
「なら言葉を変えよう。…それは人の為か。それとも自分の為か」
「無論、どちらもです」
「…助けた後に返された言葉が、罵倒でもか」
「それは以前も言った筈です。見返りなど求めていないと」
「……」
断言した
明秦は彼の返答を待つと、口を閉ざした檸典はゆっくりと瞬き、次いで徐に構えを解いた。…それで、彼女は油断した。
二歩ほど距離を縮めた
明秦が男の名を口にしかけ――突如脛に強い衝撃が走ったのである。
「いっ…!」
「体勢を崩すな。隙ができる」
「っ!!」
彼が狙って打ち込んだであろう一打。脛に走る激痛に堪えながら数歩後退した
明秦は再び構えた。直後に振り抜かれた一手を鋒で打ち払い、間髪入れずに繰り出された鋭い突きを躱して、反撃に踏み込む。
明秦が放った下段からの切り上げを檸典に容易く捌かれるも、腰を落として繰り出した突きは躱そうとした男の肩や腕を掠め、脇腹の真横を抜け、右、左と足を後退させていく。
上背が僅かに反れた、その隙を突いて彼女が振り薙いだ一閃は。
「何をしているのですか!!」
思わぬ咎めの声を耳にして、振り掛けで終わった。だが相対する者がその隙を逃す筈もなく。
「っ…利しょ――!」
反射的に声のした方を振り返った
明秦の脇腹に、重い衝撃が走る。思わず歯を食い縛り息を詰めたが、思いの外入った場所が悪かったのだろう。木剣を突き立て片膝を着いた
明秦を、檸典は見下ろしながら鼻で笑った。
「ここで余所見をするのは阿呆だな。…いや、根性を叩き直してやろうと思ったが存外しぶとくてな。お前、一体この坊主に何を教えてきた」
「剣術ですが。…それと、坊主ではなく彼女ですよ」
明秦を支えて立ち上がらせた利紹は呆れ気味に指摘を告げたが、腕を組み見下ろす檸典の態度には悪びれた様子など微塵も無かった。
「よく耐えましたね、
明秦」
「っ…いえ……」
「伝え忘れた事があったので戻ってきましたが……どうやら正解だったようですね」
利紹は掴んでいた
明秦の腕をそっと離すと、含みある言葉と共に批難の視線を向ける。こうして戻らなければ、おそらく鍛練と言う名の一方的な攻撃は続いていただろう。
脇腹の痛みが次第に引き始めた
明秦は怪訝そうに檸典を見詰めていたが、しかし。
彼はそれまで利紹に差し向けていた視線を
明秦に移すや否や、予想だにしない言葉を口にした。
「利紹。その甘ったれ、俺が鍛え直すぞ」
「ええ……、え?」
一瞬、意図を察し兼ねて呆然としたのは利紹ばかりではない。甘ったれと称されたのが自分の事であると
明秦が気付いたのは数秒後。一体どういう心変わりなのかと首を捻りたくなったが、おい、と男に声を掛けられて、疑問を頭の片隅に押しやりながら返事をした、その直後。
「国を出る前に扱いてやる。明日から暫く此処に来い」
「は!?」
彼女の都合など一切お構いなしの指示…否、命令に、
明秦は思わず素っ頓狂な声を上げるのだった。
2.
檸典より剣術指南の宣告を受けた翌日の夕刻から、早速
明秦の稽古が開始された。
だが、指南とはあくまでも言葉の上――いざ享受しようと努めたそれは、実際相当過酷且つ一方的なものだった。教えるつもりなど更々無い、ひたすら打ち込まれる剣を、彼女が必死で捌き躱すだけの攻防。そこに加減などありはしない。夜までただただ叩きのめされる。それが三日続いた。
「また今日も随分と…、手酷くやられましたね」
滞在先の扉を潜るなり利紹の心配そうな声が聞こえて
明秦は苦笑いを浮かべるしかなかった。起居に置かれた榻に荷嚢を置いて捲った袖の下には、赤黒い打撲痕が複数。あといくつ痣を作れば終わりが来るのだろうかと、思わず深い溜息を吐いた。
舎館を確保しようにも、剣術指南が何日ほどで終わるのかが分からないので、舎館側に滞在期間を伝えられない。その上長期滞在ともなれば宿泊費も嵩む。
明秦がそう悩んでいたところに、気を利かせた利昭が声を掛け、滞在先として自身の邸宅に招いたのである。
唐州山内の下部に位置するそこは主に下官が住まう場所だった。それほど広くはないと利紹は言ったが、少なくともそこそこ広さのある一明二暗の他に房室が二つほど設けられているそこはけっして狭いとは言えなかった。
臥室と書斎が一室、それから客房が二室。そのうち客房の一室を暫く借り受けられる事になった
明秦は、荷物を客房に置くとすぐに起居へ戻ってくる。
起居の中央には大卓が置かれていて、一人身の男性にしては珍しく、花が飾られていた。…尤も、それ以外は必要最低限の物しか置かれていないのだが。
一輪だけ差された淡い霞色の花に目を留めながら椅子に腰を下ろした瞬間、不意に脇腹に走った痛みに思わず顔を歪めた。
「っ…、今まで怠けていたつもりは無いのですが……やっぱり鈍ったのかな」
剣術については、それなりの腕はあると自負している。にもかかわらずたった三日で随所に痣を作ってしまったのは、やはり日々の鍛練を怠っている所為なのか。
袖を下ろしながら悩みを溢していた
明秦であったが、そこへ対面側に腰を下ろした利紹がゆるりと頭を振る。
「いえ、当然の結果だと思いますよ」
「え?」
「何せ檸典は唐州一の剣客ですから」
明秦は一瞬、言葉を失った。そんな情報は、今初めて聞いた。
対面先の師をまじまじと凝視するが、彼は至って平然とした表情で、棚から持ってきた茶杯に茶を注いでいた。
「―――利紹さん、それ、早く言ってくれないと……」
「言ったところで何とかなりますか?なりませんよね?」
「……はい……」
茶杯を差し出す利紹に笑顔で畳みかけられては、
明秦は受け取りながらおずおずと頷くしかなかった。
茶杯から伝わる少々熱めの温もりを掌に感じながら、微かに揺れる茶へ何気なく目を落とす。そこに映るのは憂いの滲む青鈍色の眼。
…否、憂いではなく、おそらくは猜疑。檸典が態々自分の時間を割いてまで鍛えると言ったのは、決して衝動的な理由からではない。ならば、一体何の為の稽古なのか―――そう考えると、思い当たるのは以前に抱いた疑問。彼らの人助けに対する、過剰なほど注意深い考え方。
「利紹さん」
「はい」
「以前、人助けは中途半端な覚悟ではできないと仰いましたね」
「ええ」
笑みを収めた利紹の表情が引き締まる。以前にその話をした際と同じ貌で首肯する男を、じっと見詰める
明秦は胸の内に抱いていた違和感を正直に吐露するべく、ゆっくりと口を開いた。
「……私には、利紹さんや檸典さん…李偃さんが人助けに対する抵抗や恐怖を抱いている気がするんです」
「……」
「だから、それこそ檸典さんは諦めさせる為に稽古を――」
「ああ、それについては貴方の勘違いですよ」
言い切る手前にあっさりと否定を返されて、
明秦は言葉を詰まらせる。勘違い、と復唱すると、利紹は苦笑を浮かべながら頷いた。
「彼は元々海客が嫌いな節がありまして。しかし手合わせをしたなら貴方を海客扱いしない、という事です」
「そう、ですか……。…ですが、」
人助けの件と此度の稽古の件が別物だというのなら、残る前者は一体。
訴えるように双眸を向けた
明秦の内心を察したかのように、利紹は静かに苦笑を沈めていく。自身の手元にも置いた茶を一口飲むと、暫しの沈黙を経て、彼は語り始めた。遠ざかってしまった日の、今も褪せる事の無い記憶を浮上させながら。
「もう、五年以上も前の話です。今の主上がお立ちになったその翌年、内乱がありました」
「内乱…」
「一部のみで収束しましたが、そのとき、その暴動から守った民が、一刻も経たない内に我々に矛先を向けてきました」
「え?」
「命懸けで守った民が、暴動に加わりまして。特に、最前線にいた我々唐州の兵は酷い目に遭いました」
茶杯の端を指でなぞる彼の視線は落ちてはいるが、どこか遠く。内乱の最中、身を挺して守った筈の民に裏切られた、その痛みは負傷によるものばかりではない。酌み兼ねるその心痛は、一体如何程。
「兵になれば民を守るのは当然の事。しかしその裏腹までもが同じ気持ちとは限らない」
「本当は、守りたくなどないと…」
「いいえ。ただ、今も残る裏切られたという気持ちはどうしても胸に残るものです。それが仮に同じような内乱が起きて、ぶり返してしまうのは、少しばかり後味が悪いですよね」
「……」
明秦は内乱を…戦争を知らない。ついこの間参戦した慶国舒栄の乱でも、戦場と化した場は精々遠巻きに捉える程度だった。…だが、裏切られた者の気持ちは解る。これまでの旅でそんな経験もした。だから辛うじて、利紹の言葉には頷ける。
「助けた人間に裏切られても構わない。その心構えはとても良いと思います。しかし実際それが目の前で起きたとき、本当に構わないと思えるのか。助けたのに、という気持ちは抱かないか……それが、少しばかり気掛かりですね」
「……檸典さんも、そう考えているのでしょうか」
「ええ、おそらく。ましてあなたがこれからやろうとしている事は、命を危険に曝す行為ですから」
供を連れて荒れた国を渡る。それが護衛の仕事と等しく危険な行動である事は重々承知の上であったが、改めて言われると考えざるを得ない。
自分の行動の所為で誰かに心配をかけてしまう。それは
明秦にとって望ましい事ではない。まして気に懸けられている内容は自分の心情の変化なのだから。
唐州を発つまでに彼らの不安を払拭したい。そう心掛けようと内心決めた
明秦の耳に、利紹が続けた言葉が突き刺さる。
「あなたが無駄死にしては、元師帥の死も無駄になるという事ですからね」
「……止められないのなら、死なないよう実力をつけてもらうより外に無い…ということでしょうか」
「ええ。…本当は私も、あなたに中途半端な事はしてほしくないと願っています」
「…はい」
…紫秦が守ったものを、喪わない為。
様々な思いを酌んで複雑な思いを抱きながらも頷いた
明秦はふと、それが檸典が鍛え直すと告げた一番の理由だという気がした。
「…それでも、貴方は行くのでしょうね」
惜しげな響きを含んだ青年の呟きに
明秦は卓上で手を組み合わせたままゆっくりと瞼を伏せる。決意だけは曲げる気の無い、言外の首肯。それを受け取った利紹はそっと溜息を吐くと、分かりました、と諦めたように僅かに肩を落とすのだった。
3.
檸典の剣術指南という名の扱きは早くも二月目へ突入した。
公務を終え次第鍛練の場へと足を向けた檸典は、先に剣を振るっていた
明秦へ荒い口調で声を掛けながら、入口の手前に置かれた木箱から木剣を引き抜く。応じて
明秦もまた今しがたまで打ち合っていた相手に礼を告げると、檸典の対面先へ足早に移動した。
「宜しくお願いします」
「ああ」
一礼した
明秦は徐に構える。以前は完膚なきまでに叩きのめされていたが、一月扱かれた今では檸典の斬撃を打ち返せるまでになっていた。
痣を作ることもあまり無くなった。それは腕前が上達した表れであったが、指南は未だに終わりが見えない。…果たして、一体いつ終わりを迎えるのだろうか。
木剣を正眼に構えながら考えていた、その時だった。
「
明秦、杖身の仕事が来ましたよ」
「仕事?」
突然鍛練場を訪れた利紹から掛かった声によって、両者の構えが解かれる。思わぬ情報から剣を下ろしたのは双方。しかし苛立ちに眉を吊り上げ、青年に詰め寄ったのは檸典であった。
「おい利紹、どういう事だ」
「どういう事も何も、以前も彼女にお願いしたことがあったので、今回も頼むだけですが」
「お前の時と一緒にするな。こいつは」
「一月も此処に留めて剣術ばかり仕込む事がいいとは思いませんよ。ねえ、
明秦」
利紹がいる位置からでは彼女の姿が檸典の背中に隠れてしまっているため、半歩ほどずれてから
明秦の驚きに目を丸くした顔を認める。彼女が同意を示したのはそれからやや間を置いてからだった。
「分かりました、引き受けます。露翠さんの所ですね」
「ええ。あとは以前と同様、李偃がいますから。到着次第聞いて下さい」
懐かしく思える名を耳にして、はい、と頷いた
明秦の声が柔らかくなる。しかし、檸典にとっては彼女の声が鍛練を離れられる事への安堵に聞こえて、つい渋い顔をしてしまう。
そんな檸典の表情を振り仰いだ
明秦は困ったような笑みを浮かべた。
「そう不安そうな顔をしないで下さい檸典さん。私はちゃんと帰ってきますから。逃げ出したりしませんから」
「は、誰がお前の心配など」
「顔に書いてありますよ」
一刹那、ほんの僅かな瞠若を見せた檸典はしかし、すぐに普段の無愛想に戻るなり鼻を鳴らして
明秦達に背を向けた。
その光景を物珍しげにまじまじと見ていた
明秦であったが、相変わらず冗談の聞かない様に苦笑してから、利紹の方へと向き直って。
「では、行ってきます」
「くれぐれも気を付けて」
「はい」
そうして翌日早朝、
明秦は唐州を発つと重嶺に向かい鹿蜀を駆けさせるのだった。
明秦が一昨日までに起こった出来事を振り返りながら李偃に話し終えたのは、既に馬車へ荷を積み込み終えて出発する直前の事だった。
何とも言えない複雑な表情で
明秦の話に耳を傾けていた李偃であったが、幌の緩みがないか確認をしつつ、憐れみを含んだ眼差しを並び立ち作業をする彼女へ向ける。
「お前…これが終わったらまた地獄に戻るのか」
「地獄?」
「檸典の特訓の事だ」
彼の表現は強ち間違いではないと苦笑を浮かべながらも、
明秦は首肯する。
「近頃は打たれ強くなってきましたし…打たれる事自体も少なくなったので、それほど苦しくはないですよ」
「お前な…」
「全ては身を守る為ですから」
己の。杖身としてならば守るべき者の。
そのような意味を含ませたであろう
明秦の返答に、李偃は思わず眉を顰めた。
何の為に強くなるのか。何の為に腕前を上げるのか。それを問うたとき、剣術を習得しようとするだけの者は護身の為、腕前を磨く為だと口にする。彼女のような答えを返す者は少ない。…少ないが、稀に一部の者は彼女と同じ答えを口にするのだ。そして、嘗て同じ答えを出した者を、李偃は知っている。
「
明秦…お前、武人の顔付きになったな」
「そうですか?」
「ああ。それに、雰囲気がどことなく紫秦に似てきた気がする」
思いがけない李偃の言葉が
明秦の返答を詰まらせる。時折彼らの口からその名が出る度、
明秦の胸中には懐古と後悔の念が押し寄せてくる。武人の顔付きになったと…紫秦に似てきたと言われるのが嬉しくないわけではない。だが、守れなかったという思いが残っている以上、素直に喜んではいけないという気がしていた。
…そうして、彼女はとある、ひどく今更な事に気が付いて、思わず足を止めた。
――紫秦の墓の場所を、未だ知らない。
重嶺を出発した一行は順調に途を進み、港へ到着したのは四日後のこと。乗船の手続きも滞りなく行われ、船が出発した翌日には才国永湊への入港を果たした。
船を降りると、港の片隅で馬車内の荷物と幌に不備が無いかを確認する。それから永湊の港街を丑門から出て、馬車は揖寧へ向けて動き始めた。
基本的には杖身が馬車の四方を囲みながら進むのだが、今回雇われた杖身は
明秦を含めて三人。そこで李偃ともう一人が前方を、
明秦が後方の護衛を任されていた。
永湊を離れて暫く歩けば、平和であればどの国にも見られる田園の風景が広がり始める。漣国よりは肌寒いが、他国と比べると気温は高い。その証拠に、田園では野良着姿の人々がおっとりと働いていた。
その穏やかな風景を眺めながら馬車の後方を歩く
明秦は、時折剣の柄を確かめるように触れる。予定通りに行けばあと数日で国都揖寧に到着する。それまでに剣を抜く必要が無い事を願うばかりで。
(…揖寧、か……)
明秦はふと、田園風景から目を離した。見上げた蒼穹には薄い紗のような雲が広がり、空の眼下には連なる山々が碧く見えている。その最中、淡い縹色を分断する柱の影が真っ直ぐに天へと伸びていた。
(凌雲山……。そういえば、鈴は琶山の洞にいるんだったか)
ぼんやりと眺めつつ考えていた
明秦はしかし、ふと聞き損ねていた事を思い出すと馬車の後方中央から右側へと移動する。周囲に目を向ける男の背中に向かってやや大きな声で投げかけたのは、相談。
「そういえば李偃さん、お聞きしたい事があったんです」
「あ?」
「才国琶山の、翠微洞の者と接触する方法を知りませんか?」
明秦の問いに応えて振り返った李偃は、あからさまに顔を顰めていた。名を挙げてはいないが、それが鈴を指している事は容易に察せられる。彼の海客を気に入らない男にとっては今一気の乗らない相談であった。
「…、利紹には?」
「聞きましたが、分からないと」
「だろうな。俺も分からん」
大袈裟に肩を竦めた李偃は再び前方を向く。彼女が面会を願っているのは洞府で働く僕だ。本来ならば洞主に謁見を願うよりも簡単である筈なのだが、残念ながら李偃には洞府の下仙と連絡を取る方法が思い付かなかった。
…たった一つ、今まで彼女と遭遇した方法以外は。
「揖寧の架戟で張るしか思い付かないな」
「やっぱり、そうですよね…」
以前鈴と出会ったのは架戟の店の前だった。洞主の遣いで冬器を調達しによく訪れるのだという話は
明秦も覚えている。待ちさえすれば接触できる可能性が高い、今のところ唯一考えられる手だった。
しかし今回揖寧へはあくまでも仕事で訪れる上、滞在期間はたったの一泊二日である。才で待てる時間は、無い。
…だからこそ、彼女が思い付く方法はただ一つ。
「――李偃さん。字、書けますよね」
「は?」
ややあって、唐突に振られた全く別の問いかけに、李偃は思わず間の抜けた声を上げながら後方を振り返るのだった。
4.
国都には官許の札が掲げられた店が多数存在する。そういった店に訪れる客の大半は国を与る者やその遣い、地位ある者であり、少なくとも平民は入店を躊躇う、元より立ち入り無用の場所である。架戟もまたその類いの店だった。
取り扱う主な品物は兵甲だが、それらは全て冬官による呪が施された、所謂冬器であった。…妖魔を斬る事ができる、そしてあまり公には知られていないが、神仙をも斬れる代物なのである。
故に身分の不明な客へ易々と売り渡す事はできないために、旌券の提示が必須だった。
扉を開ける音がして、女性は開けたばかりの箱を閉じると、視線をゆっくりと持ち上げる。
店の扉を潜ってきたのは皮甲を纏った少年…否、女だった。黒緑の長髪を後頭部で纏め括り、腰には剣がすらりと一提げ。青鈍の双眼が店内を一望すると、最後に店の女性を見据えて歩を進めてくる。
挨拶こそ恭しく一礼したものの、女性が来客へ向けた眼差しは怪訝なものだった。
「申し訳御座いません、此方は許可が無ければ売る事のできない剣戈で御座いまして……旌券を拝見させて頂けますか」
「いえ、今日は新調ではありません。突然で誠に申し訳ないのですが、貴方に一つお願いしたい事があるのです」
「お願い…ですか」
猜疑心を膨らませた女性が僅かに眉を潜めて凝視すると、警戒する様子を見た女は苦く笑う。本当に唐突なのだから無理もない、と。
次いで女が懐から引き抜いたのは二つ折りにした紙だった。女性に向け直したそれをすっと差し出して、女は口を開く。
「私は漣国唐州夏官にて世話になっている者です。此方には時折、保州の琶山翠微洞の遣いの者が足を運んでいますが、其方の者にこの手紙を渡して頂きたいのです」
「はあ…」
困惑を面に滲ませて、女性は差し出された手紙と真摯に見詰めてくる女の顔を交互に見比べる。店とは無関係の頼み事を――それもおそらく個人的であろう用件を――引き受けるのは少々抵抗があった。
とはいえ、洞府の者が時折甲冑を買い付けに来るのは事実。それを知る者はおそらく架戟の者と、彼らと交流ある者のみ。漣国の者であると告げる眼前の女の言葉を、信用するか否か―――。
そんな、猜疑心を募らせながらも葛藤する女性をなおも見据えたまま、女は静かな口調で説得を紡いだ。
「事情あって明日には漣に向けて発たねばならぬ身ですので、残念ながら翠微洞まで赴けないのです。申し訳ありませんが、お願いできましょうか?」
「―――」
手紙は差し出されたまま、答えを待つ者と吟味する者の間に暫しの沈黙が落ちる。引き下がる気の無い女は予め長期戦を想定していた。翠微洞の者と接触できる唯一の可能性なのだ、断られても頼み込むしかない。
そう、粘るつもりでいた女はしかし……程無くしてそっと投げかけられた言葉に、ひとつ首肯を見せる。
「…一つ、確認しても宜しいでしょうか」
「はい」
「佩刀されている貴方の剣は」
「冬器ですよ。亡き師から賜った大切な一振りです。そうでなければ、妖魔を斬れませんから」
「……左様ですか」
佩刀する剣の鞘を大切そうに撫でながら応えた女の顔が、何かを思い出したのか僅かに緩む。その幾分か柔らかくなった表情を目にすれば、得物への思い入れは十分察せられた。
すると、女性は差し出されていた手紙をそっと受け取った。それを承諾の意と酌めば、女は顔を綻ばせると共に丁寧な拱手を一礼する。お願いします、と一言告げてから踵を返し、ゆっくりとした足取りで架戟を出た。
大途に出た
明秦は揖寧山へ向かう人波に乗じて帰途を辿る。仕事を終えて漣国へ戻り、檸典の剣術指南が終わりを迎える頃には返事が貰えているだろう。…尤も、先程の女性が手紙を破棄すること無く渡していればの話だが。
「渡せたのか」
不意に肩を叩かれて、思考を断った
明秦は思わず声のした方を振り返った。いつの間にか隣を歩く男の相変わらずな仏頂面が視界に映り込めば、足を止めそうになる。両足が揃いかけたのも束の間、促されるように背中を押されて再び前へと足を振り出しながら、
明秦は協力者を横目で捉えた。
「――、李偃さん。後をつけてきたなんて悪趣味な人だ」
「おい。書いたのは俺なんだが」
「冗談です。渡せましたよ」
李偃の真面目な切り返しに苦笑しながらも一先ずは上手くいったように見えた結果を
明秦が告げると、そうか、と納得の言葉と共に短い嘆息が傍らで落ちる。
「ま、気長に待つことだな。何せ奴が揖寧に来るのは稀だ。麓で用が済んじまえば此処まで足を伸ばす必要も無くなる」
「ええ。だからおそらく、連での用事が終わった頃には返事が貰えているかと思いまして」
「それは分からん。また来てみない事にはな」
李偃の言葉に
明秦は眉を潜める。…先日知った話だが、普段洞府の遣いの者は琶山の麓にある架戟で買付を済ませてしまうのだという。揖寧まで足を延ばすのは把山の架戟に在庫が不足していた場合のみで、次にいつ来るかは分からない。
いっそ琶山の架戟で交渉をすれば良かったと思いもしたが、今回は流石に隣の州まで足を運べる時間は無かった。
「ひとまず戻るぞ」
「あ…はい」
人波の間を巧くすり抜けていく李偃の後ろ姿を見失うまいと、
明秦は急ぎ追いかけていく。最後に一度だけ振り返り、架戟へ不安気な視線を向けてから、意識を再び切り替え仕事へ戻るのだった。
◆ ◇ ◆
あれから十日。
漣国重嶺に戻った
明秦は無事に仕事を終えると鹿蜀で唐州へ帰還した。無事に戻った旨を利紹に報告した、その翌日――李偃曰く“地獄の日々”に再び舞い戻る事となったのである。
利紹の邸宅から鍛練場まで通う日々。熱心に修練を積み重ね、公務を終えた後に出向く師と容赦無く打ち合う。夜には利紹の邸宅を訪れた師に兵法の心得をまるで説教の如く淡々と教え込まれることも屡々あった。
そんな鍛練詰めの日々は驚くほど早く過ぎた気がして、ふと気が付けば稽古を始めて既に三月目。時は既に十一月――あと数日で十二月に差し掛かろうとしていた。
明秦が漣を発てない焦燥を募らせ始めていた最中。
その日が訪れたのは本当に唐突だった。
「お前、明日から来るな」
「え……」
明秦は肩で息をしながら、打ち合いの末に檸典の首へ突き付けた木剣を徐に下ろした。唖然とする間に、表情一つ変えず淡々と破門を告げ終えた男は早々に踵を返すと、出口への向かい際に木剣を収納用の木箱へ乱雑に突っ込んでいく。
「指南は終わりだ。さっさと帰って荷物を纏めろ」
「っ…待ってください!」
指南を買って出るのも終わらせるのも、あまりに勝手が過ぎる。せめて理由の一つでも聞かなければ――。そう慌てて呼び止めた
明秦を、檸典は冷ややかな顔で振り返る。
「それは…私の剣術が、貴方が納得できる腕前にまで上達したという事ですか」
「一応はな。少なくとも死なん程度の腕前にはなっただろう」
「それは…そうですが」
檸典からすれば鍛え直しに見切りを着けたのが今日なのだろう。元々利紹のように期限を設けている訳でもなかったので、しぜん唐突に打ち切られたように感じてしまうのかもしれない。
それでもどこか不服げな面持ちで見上げていると、暫し見下ろしていた檸典が呆れとも諦めともつかない嘆息を短く吐き出した。出口へ向けかけていた足を戻し、
明秦と改めて正面から向き合う。
「…漣は王が登極してから十年も経っていないが治安は良い。元々穏やかな気質の民が多い所為だろう」
明秦は相槌を打つ。漣国へ迷い込んで間もない頃、内乱があったという話を聞き、その爪痕を目にした事はあったものの、民が争う様子は見たことが無かった。だからこそ彼の言葉には頷ける。
だが、と。檸典は僅かに面を歪めた。
「他国は違う。…国が荒れれば民の心も荒れる。妖魔にも遭遇する。故に、荒れた国に赴けば争い事に巻き込まれる可能性が十分ある。そういった場に遭遇した際、適切に対処する為には迅速な判断と争いを回避する為の術が必要だ」
「それを今日まで教えて下さったんですよね。…紫秦さんが守ったものだから」
「…利紹から聞いたのか」
明秦は無言のままこくりと頷く。彼の教えは自分が強く生き抜く為の術ではなく、あくまでも紫秦が遺したものを野垂れ死にさせない為であると。
そんな彼女の考えを察したのか、僅かに顔を逸らした檸典の仏頂面には苦いものが滲んでいた。
「…俺はただ、紫秦と利紹がお前に見出していたものを見定めたかっただけだ」
「え…?」
意味を酌み兼ねてきょとんとした
明秦の姿を、檸典は視界から外した。踵を返し、僅かな沈黙を経て、ぼそりと零したのはただ一言。
「――ついて来い」
歩幅広く歩き出した男の上背が遠ざかる姿を瞬き呆然と見詰めた
明秦であったが、すぐに後を追い始めた。彼が仔細を説明するのは決まって目的地へ到着した後なのだ、今追及したところで無駄である、と。
そう、諦め嘆息をそっと零した
明秦は、無言で男の背に続くのだった。
◆ ◇ ◆
麓の街へ降りると、先刻まで西空の片隅に残っていた陽光は闇夜に飲み込まれていた。
上空一面に広がる数多の星に感嘆の息をほうと漏らしたのも束の間、先導する男の姿を見失うまいと慌てて彼の背を追いかけていく。
檸典は歩幅を変えず広途を突き進む。日没を過ぎても灯りを点す店は少なくない。何処からか聞こえてくる明るい喧噪は午に聞くそれとは違う。子供の声が無いからなのか、それとも酒飲みの声だからなのか。
所々から上がる声に時折一瞥をくれながら、檸典の足は右へと曲がる。中大緯を通り抜け、突き当たったのは酉門だった。
門闕の警備にあたる門卒と会話を交わした檸典は、松明を受け取ると開かれた閨門を出ていく。
明秦の躊躇は一瞬。しかしすぐに後を追い閨門を潜ると、松明の明かりに照らされた檸典の横顔が見えた。
地に広がる闇夜を退ける松明の光は精々二、三歩先までしか届かない。それ以外の明かりは月光のみ。人通りの絶えた暗い夜道は
明秦の中で物騒な印象しかないために、手は自然と佩刀する剣の柄に掛かる。
「外…ですか」
「仕方無いだろう。俺は日中には来れん。そもそも、お前に会わせてやる気など更々無かったのだからな」
「?」
男の不可解な発言に疑問を抱いたまま、離れゆく松明の明かりを追って歩く。街道から逸れた道は整備されていないために凸凹ある地が続いたが、やがて見えてきた小さな建物と、その周囲に広がる無数のものを捉えた瞬間、
明秦はようやくああ、と納得の声を漏らした。
間隔を置いて羅列する石。そこに彫り込まれた文字。石の前には一輪の花であったり、梓の枝であったり、時折果物が一つ置かれていたりと様々であったが、何も置かれていない、砂埃を被った石の方が多かった。
―――冢墓。
道理で街道から外れた場所に連れて来られた訳だと納得した
明秦はしかし、眼前の男がようやく足を止めたことで意識を引き戻した。
片膝を着いた檸典が墓石の砂埃を手で払い、松明を近付ける。刻み込まれた名はひどく懐かしく、彼女の胸を詰まらせる。
「……紫秦さんのお墓…」
「ああ」
「こんな近くにあったんですね…」
明秦は思わず夜陰に覆われた唐州山を仰ぎ見る。若干首が痛かったが、今は胸に走る痛みの方が強かった。
(…ようやく、会えた)
あれから五年は経過している。その間、誰一人として彼女の墓の場所を教えてくれなかった。…その理由は、実を言えば何となく察していたのだけれども。
「墓の場所を口止めしていたのは俺だ」
「やっぱり、そうでしたか」
「…、怒らんのだな」
「ええ。予想はしていましたし…紫秦さんの死に一番憤りを感じていたのは、檸典さんだから」
「―――」
檸典は思わず
明秦を凝視する。それは意外なものを見る目つきで、図星なのか複雑な情を面に滲ませながら、返す言葉に迷っているようだった。
そんな彼の一面を目にした
明秦は、再び墓へ視線を落とすと静かに言葉を続ける。
「勿論、他の人も思ったでしょう。海客なんて来なければ…それを引き受けなければ彼女は死なずに済んだのに、と。…それでも普通に接してくれた皆さんには、感謝しています」
無論、蔑みも罵倒もあった。しかし時が経つにつれて、それよりも多くの声を貰った。鍛練場で、里家で、街で。そういった周りの声や助けが無ければ、普通の生活を送るどころか言葉を習得する事すらできなかったかもしれない。
…そして、眼前に眠る彼女があの時助けてくれなければ、おそらく今に至る事は無かっただろう。
目を伏せた
明秦はそっと手を合わせる。これまでできなかった感謝と謝罪、そして報告を心中で紡ぐ。
…その終わり方に、ぽつりと。
不意に零れ落ちた声を聞き拾った
明秦はふと瞼を起こした。
「…俺は最初、お前を恨んだ。海客など災厄を運ぶだけの存在だと。さっさと追放してしまえと、将軍に食ってかかったこともある」
「はい。…しかし、剣術指南を引き受けたのは」
「ああ。利紹が引き受けたと聞いた時には勝手にしろと思っていた。関わるつもりなど毛頭無かったからな。…お前が慶国の内乱に参加さえしなければ」
「あの件は…確かに危険ではありましたけど」
「落命の可能性は無きにしも非ずだろう。己の力を過信して自分の命を蔑ろにする愚者の根性を一つ叩き直してやろうと思ったまでだ」
気に食わなかったと言わんばかりに鼻を鳴らした檸典は
明秦を軽く睥睨する。しかし、その視線をすぐに切ると嘆息を落とした。…叩き直そうとしたが、駄目だった。そんな声が聞こえてきそうで、
明秦が思わず苦笑を浮かべると、檸典は半ば呆れたような口調で言葉を続ける。
「どうせお前は、俺や利紹の忠告など聞く耳を持たんだろう」
「…その忠告が私の目的を阻むのであれば……勿論、胸には留めておきますよ」
「どうだかな」
真面目な答えのつもりであったが、男からの返事は適当なものだった。…もっとも普段から、剣術の指南中以外の会話は適当だったのだが。
すると先程までの真剣なやりとりが嘘のように思え始めて、複雑な表情で鍛練場での会話を記憶から掘り起こしていた、その最中。
不意に手元へ差し出された光る何かに意識を引き戻されて、
明秦は慌てて焦点を眼前に合わせた。
「?」
「餞別だ。持って行け」
広げた掌に落とされた餞別という名のそれは、首飾りだった。
飾りに付けられているのは純度の高い紫水晶が一つ。球体のそれは細い穴を開けられ、革紐が通されただけの簡素なものである。
明秦は僅かに首を傾げる。…どこかで見覚えがあるような気がしたのだ。
「…これは?」
「俺が紫秦にくれてやった物だ。…お前にやる」
「私に?」
以前の所持者の名を聞けば懐古の念を覚えた理由に納得できた
明秦はしかし、首肯を躊躇った。
贈り主が眼前の男とはいえ、彼女の遺品である事には違いない。それを今度は、これから国を出ていこうとしている者に渡してしまって良いのだろうか。
そんな
明秦の疑問を知ってか知らずか、立ち上がった檸典は未だ屈み込む彼女を見下ろす。松明の明かりが遠ざかり、薄闇に沈むその顔が持ち上がるのを待って、再び口を開いた。
「但し…この約束は絶対に守れ」
約束、と復唱する
明秦の表情は硬い。見上げた男の面持ちはまるで鍛練中の如く、貌を引き締めた檸典が紡いだ言の葉には、重みを籠めて。
「蒿里には持って行くな」
一瞬、
明秦は息を詰めた。
普通に生活を送れば何ら難しい事ではない。だが、国を出た彼女が成そうとしている事を知っているからこそ提示したであろう約束に、籠められた意図を酌む。
絶対に死ぬな。
命を擲つような真似はするな…と。
「……分かりました。戻ってきたら、絶対にお返しします」
首飾りを握り締めて立ち上がった彼女からの返答は、応。
交わした約束に安堵とまではいかないが、自然と表情を緩めかけた。
…しかしそれも束の間。
檸典はふと思い出したのだ。漣国から叩き出そうとした、本来の理由を。
「ああ、一つ言い忘れていたが」
「?はい」
「明日は早朝に出ていけ。ああ、騎獣があるなら今夜の方が良い。――将軍が明日、お前の腕前を見込んで州師左軍に加えると言い出したからな」
「……え」
忠告はした、後は知らん…と。
そう淡々と告げるや否や踵を返した檸典を、
明秦は唖然としながらも目で追いかける。彼が冗談を口にした事は一度も無い。加えて、荷物を纏めて早々に出て行けと告げた訳、そして墓の場所を明かした事、勘繰り過ぎるならば誰の耳も無い場所での密告。全てを一つの理由で結んでしまえば、信憑性は、おそらく。
「ま、待って下さい檸典さん!!」
はっと我に返り、遠ざかっていく松明の光を振り返り見た
明秦は、松明に照らされた檸典の背を慌てて追いかけるのだった。