序章
浅葱色を薄めたような空に、強風に引き伸ばされた風が薄く長く流れる。吹き降りてくる風は僅かに冷気を帯びていたが、それでも秋が訪れようとしているこの時期、南方の国では朝晩こそ冷えるものの、日中は未だ暖かかった。
漣極国国都、重嶺。黄領でもあるこの州は特に秋の気配を空以外から見受ける事は難しい。何せ冬が訪れてもこの地は暖かい。袍子に身を包んだ農夫達が上着の一枚も羽織らず畑仕事を続けられるほどに。
それで、漣国を訪れる旅人は自然と上着を脱ぎ、或いは袍の袷を僅かに緩める。今しがた他国から戻り、重嶺へ足を踏み入れた者もまた例外ではない。鹿蜀の手綱を引きながら風除けの薄い外套を脱ぐと脇に抱えて、首が痛くなるほど頭上を仰ぎ見る。
揶揄ではない、言葉通り天を貫く山――凌雲山。天を支える巨大な柱。国都の名を冠して重嶺山と呼ばれるこの山を彼女が見上げたのはもう、何度目になるのだろう。
数か月ぶりの重嶺を懐かしく感じながら広途を歩く。大きな町を離れると穏やかな農地ばかりが広がるが、流石は国都、並ぶ小店や大きな建物が営む店から、或いは広途から明るい喧噪が聞こえてくる。
(…本当に、穏やかだ……)
――慶も、いつかこんな街になるのだろうか。
脳裏を過ぎった考えが、同時に急速に蘇った記憶が、彼女の足を縫い留める。
振り返った先は、東。それは彼女が―――
明秦がついこの間、内乱に於いて手を貸した国。海客の差別法がある国に立った真の王が胎果の女王――それも女子高生だと聞いて、どこか憐憫を抱かずにはいられなかった。…それでも。
「…頑張ってくれるといいな……」
喧噪に掻き消えるような願いを零して、
明秦は荷物を背負い直して歩き出す。
たった一度の記憶を頼りに目指す目的地は、懐かしい知人の元へ。行き交う人の流れに乗りながら北西に足を延ばし、角を曲がること数度。渓汀園、という店の名を目にしながら素通りしかけた
明秦は慌てて足を止める。鮮やかな紅色をした門は以前と変わらないまま、目立つ入口を懐かしそうに見上げていた。
「おい、何目の前でぼさっと突っ立ってんだ。邪魔だ」
そんな、懐かしい声で吐き出された文句が聞こえて、
明秦はふと視線を下ろす。仏頂面の男が店の前に立ち尽くしていた者を怪訝気に見ていたが、その鋭い目付きは一刹那、豹変して驚愕に瞠目する。まるで有り得ないものを目にしているようなぎょっとした表情が、
明秦には可笑しかった。
「お久しぶりです、李偃さん」
「
明秦…お前、いつ帰って来たんだ…!」
「今帰ってきたばかりです。ただいま」
「お…おう。とにかく入れよ」
動揺しながらも促す李偃に頷いて、
明秦は鹿蜀を連れて門を潜り抜ける。その後ろを李偃が追い駆けてきて、物珍しげに鹿蜀の背を見上げた。
「この騎獣は、お前のか?」
「仕事の報酬として頂いたんです」
「へぇ。そんな気前の良過ぎる依頼主がいるのか。凄いな…」
まさか延王から頂いた、と口にする訳にはいかず、手綱を引いて歩く
明秦は無言で苦笑を浮かべるばかり。本来ならば受け取る気など無かったのだが、結果的には一国を二日で横断できるようになったため、今ではとても有難く感じている。
鹿蜀を厩舎に預けると、厩舎から少しばかり離れた先に設けられた休憩用の石案に腰を下ろし、荷物を置く。佩刀していた剣の鞘が榻にぶつかってかたりと音を立てると、それに李偃が目を落とす。
「……それで。雁まで行ったのか」
「ええ。此方の言葉を習う場所も見付かったので、これで鈴を連れていく準備は整いました。…といっても、連れていく道程が少々厳しいですが」
「ん?」
視線を持ち上げた李偃の怪訝気な眼差しが
明秦を射る。
「どういう事だ」
「巧国が…いえ、塙が、お亡くなりになりました」
「…何だと?」
「慶国には偽王が立っていましたが、真の景王が偽王を討伐して、ついこの間即位式がありましたよ」
「ま…待て待て待て!」
淡々と述べる
明秦の説明を耳にした李偃は思わず立ち上がると石案を拳で叩いた。驚愕と怒気を綯い交ぜにしたような、複雑な貌で彼女を見下ろし、見下ろされた
明秦はきょとんとして目を瞬かせる。一体、何を怒っているのだろうか、と。
「李偃さん?」
「お前、そこまで詳しいという事は…巧と慶を通ったな!」
「―――」
受けた鋭い指摘に、残念ながら嘘は吐けなかった。
明秦は口をぽかんと開いたまま、そういえば才で送り出してもらう前に慶には行くなという忠告を受けたのだと思い出し、さらに自らの意志でそれを破った記憶がある事を掘り起こせば、釈明を思い付く余裕など無く。
二者の間に流れた沈黙は、暫し。冷や汗を浮かべて気拙そうに視線を逸らした
明秦の顔に、じりじりと李偃が詰め寄る。
「通ったんだな…?」
「………」
「
明秦?」
「……すみません」
「俺は忠告した筈だよな?慶だけは通るなと」
「……はい…」
次第に小さくなっていく
明秦に李偃は顔を顰める。反省はしているふうだが、それでも通った事実は間違いないようだった。
呆れて物も言えないと言わんばかりにげんなりと表情を崩した李偃はどかりと榻に腰を下ろす。あれだけ言った己の忠告は結局、無駄に終わったのだと。
「木鈴の件といい慶の件といい、俺の忠告を散々無視しやがって…一体どういうつもりだお前は」
「いや…その…、はは、」
「笑って誤魔化すな、阿呆」
苦笑を浮かべて誤魔化そうとする
明秦に李偃が文句をぴしゃりと挟む。荒れた国に足を踏み入れる事は命を危険に曝す事だ。少なくとも李偃は経験上そう考えている。国が荒れれば人の心も荒れる。すると物取りや賊が増える。妖魔も増える。宿泊先も鍵付きの舎館しか選べないから、自然と路銀の消費が多くなる。騎獣の盗難も聞いた事が無い訳ではない。それだけ危険や苦難があるために行くなと訴えていたのだが。
李偃は深い溜息を吐く。だが無事にこうして戻ってきたのだ、一先ずは許してやろう…と。
「…それで――慶はやはり荒れていたか」
「ええ。しかし今は巧の方が酷いですね。王亡き今、国は急速に傾いている」
「…そうか」
王が斃れると本来、国の理は緩やかに傾く。だが、今回の巧のように沈む勢いで国が傾くのは、王が余程の大罪を犯したときだ。
胎果や海客に対する差別。大国の胎果の王が治める国と自分の治める国の比較、その先の劣等感。そして慶に起つ胎果の新王が築き上げる大国の可能性に対する危惧――愚王と呼ばれる、恐怖。その果ての、景王を道連れにせんと企てられ実行された謀略。
彼の者の民を顧みない愚行を罵る事は容易い。だが、
明秦はどうしてもそれを口にする事を躊躇った。…景王と、自分。同じ胎果でありながら差異のあり過ぎる身分に一瞬でも羨望に似た感情を抱いてしまったが故に。
僅かに俯いた
明秦であったが、あ、と声を上げた李偃に釣られて面を上げる。
「ああ、そうだ。小説で聞いた話なんだがな。峯が倒れたらしい」
「え?」
「圧政に耐え兼ねた諸侯が王を討っちまったんだと。尤も、随分前の話らしいが……どこの国も不安定だな」
苦々しく歪めた顔を空へ向けた李偃は深い嘆息を吐き出した。近頃、どの国からもあまり良い情報が聞こえてこない事に内心辟易していた。
「一番酷いのは戴国ですよ」
言葉を紡いだ
明秦の声音は憂いを含んで低い。物憂げな眼差しを虚空へ投げると、不意に脳裏に蘇る、あの稚い少年の笑顔に胸が痛くなる。
「…王も麒麟もいない。しかし白雉は末声を鳴いていない。偽王が立っているという噂まで立っているけど、政はなされていない。今は国中妖魔で溢れ返っているから、船でも騎獣でも近付けないんです」
「…そんなに酷いのか」
今現在戴国以上に荒れている国はない、と六太が言っていた言葉を思い出しながら、
明秦は無言で頷く。…彼と彼の王は一体何処へ消えてしまったのか。
視線は無意識に北東、遙遠の地へ。いつか、探しに行けるならば、と。そう良からぬ考えを巡らせかけ、李偃の言葉で意識を引き戻した。
「他国の現状を聞けたのは良かった。だが、本当に無茶はするなよ。死ぬぞ」
「ええ、無理をするつもりはありません」
「どうだかな」
榻にふんぞり返った李偃は厩舎の方へ視線を投げた。…膝の上に手を組んだ彼女の姿が不意に、六年前に目にした者の姿とよく似ているような気がして、込み上げてきた苦い思いを飲み込む。…きっと、自分の気の錯覚だろう。
そう思い込むと、李偃は自身の心中誤魔化すように別の問いを投げかけた。
「そういや、利紹には会って来たのか?」
「……」
「
明秦?」
李偃にとっては何気ない問いを投げたつもりだったのだが、急に真面目な表情で黙り込んでしまった
明秦の様子に首を傾げて彼女の顔を覗き込む。すると、すぐにはっと我に返った
明秦は表情を崩した。
「ええ……会っては、来たのですが――」
言葉を濁しつつ苦笑を浮かべた
明秦は、思い出す。
それはほんの一月前の話。重嶺を訪れる前、唐州に赴き、久方ぶりに利紹の元を訪れようとしたときの事だった。