3.
慶国瑛州堯天に聳え立つ凌雲山。その頂に構える金波宮の禁門にて、驚愕の声が上がったのは陽が傾き始めたころだった。
偽王軍の動向を警戒しているために緊張の中で警固する門卒達、その内の一人が淡い丹色に染まり始めた空に複数の黒点を捉えるや否や声を上げた。
彼らは瞬く間に警戒態勢を取り、槍を構えて次第に鮮明となる黒点を凝視した。…だが、やがて一群の中心を駆ける存在を目にした瞬間、緊張の色が一変する。
趨虞に騎乗する少年の髪の色は、黄昏。この世界に崇高な色を持つ者――紛うことなき、神獣麒麟の姿だった。
「台輔…!?」
「突然の訪問で申し訳ないが、火急の用件につき容赦してほしい」
門卒達が慌てて禁門の前を開けると、入り乱れる気流の中を騎獣が次々と降り立っていく。趨虞から降りたのは一見十三、四歳の少年であったが、門卒の一人は彼の姿にはっきりと見覚えがあった。
「あなた様はもしや、延台輔で御座いますか…?」
「ああ。真の景王が延王と雁の王師を供に偽王討伐へ乗り出した事を報せに来た」
「なんと…!では、真王は今、」
「征州で戦っている。至急各州へ青鳥を飛ばしてこの事を報せてほしい。詳細は冢宰に説明をお伝えしたいが、取り次いでもらえるか」
「畏まりました。一先ず此方へ」
延麒一行は畏まった門卒達に騎獣を預けると、事情を聞いて急ぎ出てきたのであろう。慌てて潜戸から出てきた閨人の案内によって禁門を潜り抜けた。
「ここが金波宮…」
「やはり王宮は凄いですね…」
延麒の後ろを並んで歩く楽俊と
りつは囁くような声で言葉を交わす。緊張の中では感嘆の溜息も密やかに、それ以上の会話を交わす事もひどく躊躇われた。
やがて延麒一行を堂室へ通した閨人は、暫し此処で待つよう告げるや否やそそくさと退出していった。
りつは警護の為に堂室内に残され、他の小臣達は堂室の扉を警固するべく退室する。言い様の無い緊張感が堂室内に広がりつつあった。
程無くして開かれた扉から位袍を身に纏った官が裳裾を引いて堂室に立ち入ると、椅子に腰を下ろしている延麒の姿を捉えるや否や一行の前に膝を着き、恭しく拱手を掲げた。
外見は五十代前半の、顎に髭を蓄えた初老の男である。
「お待たせして申し訳御座いません。火急の報せをお聞きして急ぎ参じました」
「いや、此方こそ急がせてすまない」
挨拶と詫びもそこそこに、延麒は早速火急の話題を切り出した。今現在征州維竜にいる偽王を討伐すべく真王が雁の王師を率いて奇襲を決行している最中である事。他の州に事を報せて速やかに州師のおよそ半分を真王の援軍として寄越す事。そして、瑛州及び金波宮の対応の指示を。
「…つまり、偽王を金波宮に入れてはならないと」
「加えて真王から、州師の半分を加勢に、残りは瑛州の警固を、王師は偽王軍の侵攻に応戦する場合のみ動かして良いとするとの命が下された」
「王師は元より王以外が動かしてはならぬもの。心得ております」
そうして頭を垂れた冢宰は、堂室の片隅に控えていた少数の官に各州へ至急青鳥を飛ばす旨を伝えた。
ひとまずは瑛州が済んだ。後は各州を訪ねるのみ。そう、延麒と楽俊の傍らに立ち見守っていた
りつは官が退出する姿を横目で追う。最後の一人が扉の向こうへ消えゆく姿を見、視線を戻そうとした――そのときだった。
閉ざされかけた扉の間を滑り抜けるようにして入室する官の姿を捉えたのは。
「失礼致します。――冢宰、火急の御報告が」
膝を着き拱手した小臣は焦燥の滲む顔を上げる。火急と耳にすれば室内には肌を刺すような緊張が走り、振り返った者達の眼差しが一斉に小臣の元へ注がれた。
「何だ」
「それが…偽王軍が他国の王師による襲撃を受け、征州から建州へ移動したという情報が」
「!」
驚きは一刹那、すぐに苦い表情を浮かべた
りつは雁国を出立する前に交わした会話を思い出した。行き先こそ外れたものの、偽王軍の行動予測は見事に的中した、と。
真王は…楽俊の友人は、無事だろうか。
りつがそんな懸念を脳裏の片隅に過ぎらせる中、再び冢宰の声が堂内に響く。
「征州と建州を除く六州へ急ぎ青鳥を飛ばします」
「では、我々は急ぎ和州へ向かいます」
「ならば念の為に小臣を附けましょう。…くれぐれもお気を付けて」
冢宰の懸念を含む言葉に首肯し、一礼した延麒と楽俊はすぐに踵を返した。
りつも後を追って歩き出し、開かれた扉を潜り抜けると、堂室前を警固していた雁の小臣に声を掛けて合流する。先導を受けて廊下を進む足は速く、歩幅広く歩く延麒が和州へ向かう旨を伝える後姿を
りつは無意識に目で追っていた――その矢先だった。
「
明秦、頼みがある」
「!はい」
「麦州へ向かえるか?」
半ば小走りで延麒の傍に寄った
りつは、突然の指示に思わず瞬いた。頭に叩き込んでいた筈の慶国の地図を急ぎ記憶から掘り起こし、それが青海に面した州である事を思い出す。
「唯一、偽王軍に落とされていない州ですね。西方の」
「ああ。建州へ向かった王師の加勢を頼みたい。この書簡を麦州候に渡してくれ。…けど…」
「けど…何ですか?」
躊躇うように言い止した延麒の様子を見た
りつはほんの僅かに首を傾げた。
「…もしかしたら、麦州城の付近で偽王軍に遭遇する可能性がある。麦州候への書簡だと分かれば襲われるかもしれない。…それでも、引き受けてくれるか?」
不安な面持ちで書簡の入った筒を差し出した延麒に、
りつが答えを躊躇ったのは数拍。…北方では今この時も真王や延王が、雁の王師が戦場を駆け抜けているのだ。迷う時間が惜しい。
躊躇を掻き消した
りつの手は自然と伸びて、筒を力強く掴んだ。
「それなりの腕前はあると自負しております。必ずや、麦州候の元へ届けましょう」
「ああ…頼んだぞ」
◇ ◆ ◇
東へ向かう準備を進める延麒と楽俊一行を背にして、
りつは吉量に騎乗する。見送る彼らに一時の別れを告げて手綱を振るい、彼らの進路とは真逆である西へと駆け出した。
日没を迎え薄暗くなった雲海上を、
りつを乗せた吉量は疾駆する。淡い月光を背に受けながら鐙に掛けた足の、さらに下方へ目を向けると、海底には疎らな明かりが散在していた。荒廃で息も絶え絶えとなっている、下界の無惨な町の灯火が。
それらを何度苦い顔で見下ろし、数えただろう。
吉量の息巻くような吐息が聞こえてはっと我に返る。背に負った書簡が筒の中で揺れる音を耳に拾いながら、視線は遥か遠方、雲海に浮かぶ島を捉えていた。
…正確には、島の手前を駆ける、今にも闇に紛れてしまいそうな複数の黒点を。
「騎獣……州師か」
黒点は徐々に大きくなる。鮮明な姿を捉え始めた
りつは佩刀する剣の柄を確かめるように触れて、すぐに手綱を握り直した。
麦州は唯一落とされていない州だと聞いている。交戦の必要は無い筈だが、用心に越したことはない。
あくまでも平常心を保つべく深呼吸を繰り返しながら吉量を疾走させ続けていたが、黒点だった姿が鮮明となり、槍を片手に携えた皮甲姿の兵士が間近に迫れば緊張と警戒心が胸に競り上がってくる。…それでも、やらなければ。躊躇う猶予など最早有りはしないのだから。
りつの方へ接近した騎獣は三騎。声を上げたのはニ騎を先導していた男だった。
「止まれ。…貴様、何者だ」
「雁国延台輔の使者で御座います」
「雁国?何故このような時に」
丁寧な拱手を取る
りつに対して男は怪訝な表情を浮かべた。これはあくまでも内乱…否、内紛だ。他国から、それも首都州である瑛州ではなく麦州を訪ねる意味は。
そんな、男の顔にありありと浮かぶ猜疑心を読み取りながらも、
りつは泰然として言葉を続けた。
「真の景王が延王へ助力を要請したのです。征州の偽王軍を討つ為に」
「真の、景王…?」
「ええ。延王はその要請を受けて景王に王師をお貸しした。今現在は征州から建州に逃亡した偽王を追撃中です。延台輔は偽王軍の元に下った各州の州候の説得に回っておられます」
六太や楽俊は和州に到着しただろうか。延王や景王はおそらく建州に向かっているだろう。どちらも無事を願うばかりだ。
毅然とした態度で告げる
りつがそう、胸の内で懸念を抱いたときだった。
来訪者を驚愕の面持ちで見詰めていた男達の内の一人が声を荒げたのは。
「そのような戯言に我らが騙されるものか!」
片手に携えていた槍を差し向けて叫ぶ男の怒りに滲む形相を捉えた
りつは、そこで自身の発言を顧みて舌打ちをした。
(彼らは偽王軍側の兵か…!)
偽王軍の侵攻が麦州へ及んでいた事は想定に無かった。今思えば、八州をほぼ掌握している偽王軍が唯一落ちていない州をいつまでも見逃している筈がないのだ。日没のせいで見えないが、麦州城は偽王の空行師が包囲しているのだろう。
胸中に広がる焦燥と危懼から眉を顰めた
りつは、それでも息巻く男をじっと見据えていた。
「我らを麦州から撤退させ、麦州師を舒栄様の元へ差し向けようとしているのだろうが!」
「舒栄…」
男の猜疑を耳にした
りつは僅かに目を見開き、男の口から聞いたばかりの偽王の名をぽつりと呟く。そこで思い出したのだ。以前、六太から得た偽王に関する情報を。
「…貴殿らは、征州から麦州城の襲撃を命じられた州師、ということですか」
「如何にも」
「ならばお聞きしますが…前王――予王と舒栄が姉妹であると知っている上で、貴殿らは付き従っているのですか」
「それは――…」
彼女の問いかけに答えたのは別の男だった。言い澱む彼の様子を見れば、
りつは確信する。偽王軍の中でも妄信者と半信半疑で従う者がいるのだと。
そもそもこの世界の王は世襲制ではなく、天帝が麒麟を介して王を選ぶ。故に同姓の王が続く事は決して有り得ないとされている。それを理解している者は決して少なくない。…だが、それでも偽王に着いていく者は多い。その理由は、おそらく。
「だが、舒栄様の元には台輔が居られるのだぞ!」
「その台輔は今、言葉も転変も指令も封じられた挙句鎖に繋がれて拘束状態。本当に舒栄を選ばれたのであれば台輔は自ら人の姿を取り、傍についておられる筈ですが」
「なに…?」
りつはいつか目にした慶の麒麟の姿を思い出した。本来ならば六太のように人型を取る筈が、景麒は獣の姿のまま偽王の前に横たわっていた。…その扱いはまるで捕らえた野の獣を曝しているかのようで、思い返せば胸中の片隅に胸を焼くような怒りを覚えていた。
しかし、
りつは怒りに翻弄されず淡々と告げる。対して男は拳を震わせた。…命じられるままに兵を引き連れて麦州に奇襲を仕掛けたが、結果は返り討ちという無残な有様。残党を率いて引き返そうとした矢先の遭遇。できるならば信じたくなどない話が、男のやり場の無かった怒りを暴発させる。
「貴様、先程から聞いていれば出鱈目ばかり並べおって…!」
「出鱈目ではありません。じきに瑛州からの青鳥が各州に届きましょう」
「黙れ!!」
部下の制止を払うように騎上で槍を一振りした男は怒りの形相を露にしたまま構える。空かさず
りつもまた抜刀して構えたが、内心複雑な思いで切先越しに男を捉えていた。
(…こうなる事は、覚悟していた)
そもそもこれは戦争だ。最悪の場合でない限り人を傷付ける事は無いであろう台輔の護衛として雇われたとき、それでも
りつは覚悟を決めていた。…人を手に掛けなければならない覚悟を。
男が手綱を強か振るえば、嘶きを上げた騎獣が前脚を力強く踏み出した。槍の矛先が彼女の心臓に向けられているのは間違いない。
腹を叩き、駆け出した吉量の手綱を一旦離した
りつは振り落とされないように吉量の腹を脚できつく挟み込む。両手で携えた剣を立て構え、急速に距離を縮めていく。
すれ違い様に突き出された槍を払い落とし、即座に翻した剣が一閃、男の首を滑る。肉を断つ嫌な手応えが手中に走って、それを歯を食いしばってやり過ごした。
勝敗は刹那の間に着いた。
りつが馬首を巡らせたときには、首から血飛沫を上げながら騎獣から落下した男が雲海に落下していた。
「ひっ…!」
派手に上がる水飛沫の後に水面を濁しながらゆっくりと沈みゆく男の姿を見下ろしていた
りつは、引き攣った声を耳にして視線を上げる。視界に捉えたのは残る二人の男が慌てて騎獣を北方へ走らせる後姿だった。
彼らを追う気は無く、剣先の露を払って鞘に納めると、沈みゆく男の亡骸が水を赤く濁していく様をぼんやりと見下ろした。脳裏では、自分が麦州への使者として選ばれた理由を今更考えながら。
――麦州へ確実に書簡を届ける為には、剣客を選ぶべきだ。そして
りつ自身剣の腕前は人並以上はあると自負している。慶国では冢宰が小臣を着けてくれると言ったものの信用に値する者達ではない事は明白。雁から連れてきた小臣を外すわけにもいかない。
…だから、と
りつは口を歪めた。
◇ ◆ ◇
「お前――」
獣の唸り混じりの吐息が一瞬、次いで戸惑うような声を耳にして我に返る。今しがた納めたばかりの剣の柄を反射的に掴み寄せて振り返り、馬型の騎獣に騎乗した甲皮姿の男を認めた。聞き拾った声に違わず、困惑を浮かべた顔が雲海と
りつへ交互に向けられていた。そこにはまだ敵意は無い。
「貴殿も征州師の兵士ですか」
「いや、俺は麦州師の兵だ。…斬った、のか?」
「ええ…襲われたので止むを得ず」
苦い表情で淡紅に濁る水面を見下ろしたのも一瞬、すぐに男の方へ顔を上げた
りつは再び拱手を取った。
「私は麦州師の力をお借りしたいという景王、延王並びに延台輔の意志を麦州候にお伝えするべく参りました。火急につき、どなたかに麦州候への拝謁を取り計らって戴きたいのですが」
「景王…?」
「凱之!」
男が怪訝な表情を浮かべたのも束の間、細波の音を掻き消す呼び声に男と
りつは思わず声のした方を振り返った。二人の元へ駆け付けてきたのは一騎。彼女と同様吉量に騎乗する男はしかし、並の兵士と異なる武装に気付いた瞬間、
りつは自身の吉量を僅かに退かせた。
「青将軍…!」
「そこにいるのは誰だ」
「それが雁国の…いえ、景王の使者だと」
「景王…偽王の、か?」
「いえ、どうやら違うようで」
凱之と呼ばれた男は未だ戸惑いがちに、青と呼ばれた将軍は怪訝な面持ちで彼女を見る。今の景王と言われる存在は偽王であるが、眼前の人物は偽王の使者ではないという。
そんな相違からの疑念を斟酌して、
りつはめげず三度目となる説明を告げ始めた。
「征州及び建州で雁の王師率いる景王軍が偽王軍と交戦中です。麦州侯に加勢を要請する書簡を預かって参りました」
「…貴殿が使者である証拠は」
「火急ゆえ、証拠は書簡ただ一つのみ……ですが、これは麦州候に直接お渡しせよと仰せ付かりました。中身をお見せする事はできません」
虚偽の疑いが掛かるのは重々承知の上。信じてもらえなければ説得を続けるより外に無い。…できるならば、一刻も早く分かってほしい。
射抜くような青鈍の双眸が彼らを真摯に見詰める。そこには微塵の虚偽もあろう筈がなく。
「…なるほどな」
「青将軍…?」
「俺が案内する。凱之、お前は後ろを頼んだぞ」
真剣な表情を僅かに緩めて馬首を巡らせた将軍のあっさりとした返答に、
りつは思わず瞬いた。次いで凱之の元へ視線を送ると、彼は微苦笑を返して州城への進行を促す。
将軍に先導されるまま島の一郭にある巨大な門の前に降り立つと、駆け寄ってきた兵士に吉量の手綱を手渡した。鐙を踏んで背から降りれば皮甲の擦れる音が微かに響く。それを聞き拾った凱之はふと振り返ると、
りつの腰に提げられた物を認めて僅かに首を傾げた。
「それは冬器か?」
「はい。心配でしたら、預かっていただけますか?」
書簡を届けるだけとはいえ、佩刀したままでは無礼に当たるのではないだろうか。指摘を受けてそう疑問に思った
りつが答えを求めて凱之と将軍へ交互に視線を送ると、兵に騎獣の手綱を預けたばかりの将軍が微かに笑みを浮かべて口を開く。
「本来は外さなければならないが、火急なのだろう?」
「ええ」
「なら大丈夫だ。そのままでいい」
行くぞ、と足早に門の方へ歩き出していく将軍の後ろを、
りつと凱之は急ぎ足で追いかけていく。開かれる重厚な門を潜り抜け、先導されるままに階段を半ば駆け上がるようにして通り、奥へ進むこと暫し。
りつが通されたのは賓客をもてなす為の客堂だった。造りは瑛州の堂室と似ていたので、州城の堂室は何処も似たような作りなのだろう。微かに開けられた玻璃の窓の間からは潮の香りが風と共に滑り込んでくる。
火急の焦燥感を薄れさせてくれるほどの穏やかさに肩の力を抜いたのもほんの束の間。
程無くして背後で扉の開かれる音に
りつは再び背を正した。近付いて来る足音を耳にすれば、すぐさま叩頭する。
「待たせてすまない。雁国の使者とお聞きしたが」
「拝謁をお許し戴き有難う御座います。雁国延台輔より火急の書簡を預かって参りました。どうぞ、速やかに目を通して頂きとう存じます」
背負っていた筒は既に目の前の書卓に置いたため、
りつは顔を伏せたまま答えを待つ。名乗りはしなかったが、眼前にいる人物は間違いなく麦州候であると
りつは心中で確定付ける。書簡を開けているであろう乾いた音がやけに耳についた。
「確かに受け取った。…顔を上げなさい」
頭上から降る言葉のまま、
りつは徐に面を上げる。方卓前に座する、上質な位袍を纏い文官帽を深く被る男。真率の中に穏やかさのある面持ちが、開かれている書簡の方へ下げられている。
彼こそが麦州を預かる州候――浩瀚その人だった。
「…なるほど。――桓姙」
「はい」
「左軍黄備と右中から各二旅を率いて建州に向かい、景王をご助力申し上げよ」
「州城の警固が薄くなりますが、宜しいのですか」
「ああ。偽王軍もじき撤退するだろう」
方卓の傍らに佇んでいた将軍の疑問を、浩瀚が穏やかな口調で説く。二人の会話を耳にしていた
りつは見上げたまま、彼が指示した州師の兵数を計算していた。
――三師七千五百兵を黄備という。州師は左右中と分かれており、桓姙と呼ばれた将軍が率いるのは州師左軍、兵数は黄備。そこに右中から各二旅―― 一旅は五百兵――ともなれば総勢九千五百兵となる。
麦州師が景王軍と合流し、後は他州が目を覚ましてくれたならば、速やかに決着がつく。そう、確信を抱いた
りつは浩瀚に向かい再び頭を伏せた。
「有り難う御座います」
「貴方はこれから和州へ?」
「いえ、おそらく延台輔一行が和州での説得を終えていると予想しておりますので、武州へ赴こうかと」
「麦州からでは距離がある……瑛州が各州に青鳥を送っているのならば説得も容易くなっている筈だ。おそらくすぐに移動しているだろう。宣州へ向かいなさい」
「はい」
「では、私はこれで失礼する」
顔を上げて首肯した
りつを認めた浩瀚は椅子から立ち上がると方卓から離れゆく。多忙なのか、或いはこれから多忙となるのか。将軍の真横をそそくさと通り抜けた男の姿が扉の向こうへ消えたところで、
りつはようやく上体を起こす事ができた。
たった数分の謁見でいつになく緊張した所為か、随分と脱力を覚えたのも束の間。謁見の間に見せていた緊張の面持ちは何処へやら。表情を和らげた将軍は立ち上がった
りつの傍へ徐に歩み寄ってくる。
「途中まで送ろう」
「しかし、隊の編成で忙しいのでは」
「なに、途中まで道が同じというだけだ。凱之、行くぞ」
部下に声を掛けて客堂を出る男の表情は心なしか明るい。その横顔を物珍しげに見上げながら歩いていた
りつは、ふと思う。
彼は麦州城の手前で述べた説明をあっさりと信じてくれた。彼がいなければ、最悪まだ外で苦戦していたかもしれない。
「将軍殿」
「青だ。青辛。字は桓魋という」
「…では、青将軍。何故、私を信じていただけたのですか」
「まず、お前さんが着ている甲皮は慶の州師の物ではない。それから、夏官の兵士に与えられる冬器も正直そこまで立派じゃない。加えて高価な吉量に乗って大国の台輔の使者を名乗っていれば、偽者だと疑う奴はまず居ないだろうな」
だが、と。
振り返った桓魋の表情から笑みが消えゆく。引き締められたそれは同志を見る兵の顔だった。
「何より、偽王軍の兵を斬り捨てて単騎で州城を目指してきたお前さんの訴えが信用できたな、俺は」
「青将軍…」
「主上の援護は任せろ。延台輔の護衛を頼んだぞ」
「――はい」
4.
麦州城を飛び立った
りつは、浩瀚の指示通り宣州へ吉量を走らせた。無事に合流を果たしたのは宣州城の門前でのこと。瑛州からの青鳥が届いていた事もあり、到着した延麒一行が州候への謁見を願えば、場が整うまでにそう時間は掛からなかった。
宣州候の説得を終える直前、紀州と揚州が偽王討伐の為に兵を差し向けたという一報が客堂に放たれて、
りつは肩の力を僅かに抜いた。もう少し長く続くと思われていた州候説得の任務は、ここで終わりを迎えたのである。
「
明秦」
客房の外、手摺に片肘を着きながら岸壁に打ち砕かれる波に目を落としていた
りつは、ようやく聞き慣れた声に呼ばれて面を上げる。先日に慶国から玄英宮へと戻り、延麒や楽俊と共に結果を待つよう言い渡されてから早一日。宮中では下手に動き回る事も叶わず、丁度暇を持て余していたところだった。
客房の中へ戻ると、穏やかな青年の顔が衝立の向こうから現れる。僅かに苦いものが混ざった、青年の表情。
「楽俊殿…」
「偽王が討たれたそうだ」
「では…無事に終わったんですね」
そう言って、
りつは僅かに肩を落とす。騒乱を起こした中心人物は討伐された。だからといって安堵できるほど単純な話ではない事は十分に理解している。乱れてしまった国を纏め、立て直す事が容易でない事は想像に難くない。新王はこの後が大変だろう。
しかし、と。
りつは眼差しを楽俊から僅かに逸らした。視線の先は、衝立の向こう側へと。
「景台輔は暫くの間玄英宮で保護ですか」
「それは仕方ない。麒麟は血の穢れに弱いんだ。…多分、陽子の傍には暫く近付けないだろうな」
「ああ……、私も、一度湯に浸かってこいと言われましたからね」
僅かに眉根を寄せて、楽俊は苦い顔をした。景王は景麒奪還の為、そして国奪還の為に何人の兵士を斬ったのだろう。麒麟は血の穢れ…即ち血水や血臭、そして恨み辛みの念にも弱い。景王の沐浴や州城の掃除を念入りにしたとしても、少なくともあと一月、景麒は慶国に近付けないだろう。そう、先日に延麒が言っていた事を思い出して、楽俊はさらに顔を俯かせた。
りつもまた眉間に皺を寄せると袖を捲った片腕を一嗅ぎする。玄英宮に到着するなり沐浴をしてこいと延麒に言われ、速やかに一室に閉じ込められて、盥に張った湯に漬け込まれた記憶は真新しい。おまけに用意された着替えに袖を通してから延麒に面会しても、どこか拒否感の滲む表情をされてしまっては、二度目の沐浴は避けられなかった。
「…初めて、人を手に掛けました」
微かに錆びた鉄のような臭いがして、広げた両の掌に目を落とした
りつは次第に顔色を曇らせていく。…柄越しに覚えた身を断つ感触は、まだ鮮明に残っている。荒れた国を正す手助けをするという行為は即ち己の手を汚す事だと、そう改めて認識すれば苦渋に顔を歪めずにはいられなかった。
「内乱だから、仕方無いとは思います。私がやらなくても、代わりに誰かがやっていた……。この件を引き受けたときから覚悟はしていたから、それほど衝撃は受けていない」
だけど、と。
卓上に置かれた剣を手に取った
りつは徐にそれを鞘から引き抜く。
露の一片も残っていない刀身を覗き込めば、そこに映るのは憂いを湛えた己の顔。
「国を正す為とはいえ、誰かが犠牲になるのは後味が悪いものですね」
「
明秦…」
「……ただの独り言ですから、気にしないで」
掛ける言葉が見付からなかった楽俊は複雑な表情で見詰めていたが、
りつは苦渋から一変、困ったような笑みを浮かべた。
国を良い方向へ導く為には手を汚す事も止むを得ない。国を背負う者、国に携わる者達は避けて通れない過酷な道。それを、彼の友人はこれから進もうとしている。
一瞬過ぎった、少しでも支えてあげたいという気持ちを、
りつは僅かに頭を振って霧散させた。ただの傭兵にそんな資格などある訳も無く、そもそも彼の友人には一度も会った事がない。そんな感情を抱くのはおそらく彼女がこの世界に慣れていない海客――それも自分と同じ胎果だからだ。故に、そんな同情に似た感情を抱いたのだろう。
そう振り切った
りつは徐に剣を鞘へ納めると、小さく息を吐き出した。
「さて…そろそろ、暇する準備をしなければ」
「え…。けど、延台輔がさっき此処で待っててくれって、」
「おそらく報酬の話でしょう。ですが、予め報酬は不要だと伝えてありますから」
「不要?何でだ?」
楽俊が不思議そうに首を傾げると、
りつは微苦笑を浮かべた。
「報酬は才国までの旅費。私の旅の目的を知って延王はそう仰られましたが、私はあくまで国を助ける為に協力しただけの事。旅費は関弓で稼ぐつもりでしたから」
「へぇ…」
「そもそも、報酬の元は雁の国民から徴収された税の一部。それを私事の為に動く私へ宛ててほしくはなかった」
「…その考えは、ちょっと違うな」
「違う?」
楽俊の思わぬ否定を聞いた
りつが僅かに首を傾げる。ああ、と軽い首肯を見せた青年は先程よりも真面目な表情に変わっていた。
「いくら傭兵とはいえ、これは国から要請された正式な公務だ。だから貰うのは正当な報酬だ。上からの気遣いや、まして気紛れなんかじゃねぇ」
りつは楽俊の反論に耳を傾けながらも、怪訝そうに眉を顰めた。…本当にそうなのだろうか。
今回の件を引き受ける手前、
りつは依頼主に訊ねた。あくまで個人の頼みなのか、それとも国の依頼なのか。返答は後者だったが、
りつはあの時眼前にした尚隆の様子を思い出すと、どうしても彼個人の厚意としか思えなかったのだが。
「国は国の為に仕事をした人間に報酬を渡す義務がある。もちろん、どの仕事だってそうだけどな。むしろ貰わねぇと、何で国は仕事をした人間に報酬を渡さねぇんだって話になる」
「国への不満が一つ、増えるわけですね」
「まぁ、そういうことだ。だから貰っときな。あって損なもんじゃねぇから」
僅かに表情を崩して笑いかけてくる楽俊を
りつが凝視すること暫し。やがて傍に置かれていた椅子へ腰を下ろした彼女の口から溜息がそっと零れ落ちた。
…内容はどうあれ、国は報酬を渡す義務がある。ならば受け取るしかないだろう。
そう折れた
りつの諦めたような表情を目にした楽俊はひどく不思議そうに首を傾げる。
「何だか、
明秦は台輔みたいな考え方をするなぁ」
「そうですか?」
「慈悲深いというか、ずれてるというか」
「ずれてるって…」
最後の言葉は、自分だけでなく台輔にも若干失礼にあたるのではないだろうかと内心思いながらも、
りつは思わず苦笑を浮かべる。
「ところで、才まで何しに行くんだ?」
「言葉に難儀している海客がいるので、迎えに行って雁に連れてくるんです」
「海客って…知り合いか?」
「知り合いと言えば知り合いですが…こちらの言葉さえ習得できれば、ここで生きていく道を探せると思いまして」
「そうか…。往復じゃ大変だと思うが、気を付けて行って来いよ」
「ええ」
雁の近隣国が荒れているだけに、楽俊の言葉には深く頷けた。往復の旅路で妖魔に遭遇する可能性は十分にある。往路は己の腕次第だが、復路は連れを守りながら戦わなければならない。本当に、気を付けなければ―――。
そう、
りつが考えを巡らせていた最中、扉の開く音、続けて小さな足音がして、
りつと楽俊はほぼ同時に振り返った。
衝立の向こうから現れたのは、目映い藤黄。金糸のような鬣を揺らして歩いてくる少年がひらりと片手を挙げる。
「待たせてわるかったな」
「あ…延台輔」
「楽俊はどうする?もう暫く玄英宮にいるか?」
「いえ、関弓に降ります」
横目に見た楽俊の顔が僅かに引き攣っているように見えて、
りつは思わず苦笑を浮かべる。…居るだけで全く落ち着かない宮中にこれ以上長居したくない気持ちは
りつもまた同様、彼の心中は十分理解できた。
「なら舎館を手配しておく。――
明秦は」
「私はそろそろ御暇させて頂きます。主上は御多忙のようですので、挨拶は控えさせていただこうかと」
「わかった、伝えとく。楽俊はもう少し此処で待っててくれ」
「分かりました」
行くぞ、と声をかけて歩き出す小さな姿を追って、
りつもまた足を進める。最中、楽俊に向き直ると深々と拱手をしてから、再び揺れる金の鬣を追うのだった。
「随分と待たせてわるかった。送り出す準備に手間取ったんだ」
「準備、ですか……」
長々と見える階段を下りながら、
りつは首を傾げる。荷物は背負った嚢一つ、騎獣も馬も無い
りつを送り出す為の準備など無い筈なのだが。
りつが抱いた疑問を投げかけるよりも早く、六太が再び口を開いた。
「おれ、話したっけ。
明秦を此処に連れてくるって話を尚隆が持ってきたときの事」
「?いいえ」
「廉王や泰騏と会ったって話、しただろ?それで、もしかしたら
明秦は天の配剤かもしれないって思ってた」
「天の配剤……まさか。ただの縁ですよ。偶然会って、助力させて頂いただけの話」
そう…ただの縁。単に奇跡に近い偶然が続いただけの話だ。そんなものを天の配剤などと呼ぶ事は烏滸がましくさえ思えた。
ふと、先を行く少年の足が階段の最中に設けられた踊場で止まる。倣い階段の途中で止まった
りつは、徐に振り向いた六太の神妙な面持ちを目にして眉を顰めた。
「…台輔?」
「なぁ、
明秦。やっぱりあの話、勝手にさせてもらっていいか?」
「あの話?」
「
明秦の出身を割り出す話」
ああ、と
りつは軽い首肯と共に数か月前の記憶を掘り起こす。関弓に到着し、別れる手前、確かにそんな話を交わした。あの時は
りつが断ってしまったのだが。
「構いませんが…何故?」
「おれが気になるから、って理由だけじゃ駄目か?」
あの時とは違う、少年の真剣な表情。その理由は
りつには解り兼ねたが、そこまで気になるならばと、頭をゆるりと振った。
「いいえ。その代わり、私の事を調べるのですから、結果は私にも教えて下さいね」
「あれ、別に気にしないんじゃなかったのか?」
「自分が知らない自分の事を他人が知っているというのは、どうにも心地悪く感じたので」
「言われてみればそうだよな…分かった、分かり次第教える。…ああ、それとな」
思い出したように言葉を付け足した六太の表情が僅かに和らぐ。
「
明秦の用事が終わったら関弓の府第を訪ねてくれ。蓬莱に帰る準備もしないとな」
「…ええ」
蓬莱に――日本に帰る。それは今の
りつにとってひどく現実味の無い言葉だった。生き方を確立したのはこちらの世界で、あちらが幻だったようにさえ思う。曖昧に返事を零した
りつは、刹那。
「なんだ、帰るのか」
どこか惜し気な言葉を背に投げかけられて、肩をびくりと跳ね上げた。六太もまた同様の反応で、目を見開いて勢い良く背後を振り返ると、そこにはいつの間にか彼の主君が憮然とした面持ちで立っていた。
「尚隆、驚かせるなよ…!」
「お前達が気付かなかっただけだろう」
自分は悪くないと言わんばかりの発言に
りつは若干呆れた眼差しを向けた。すると視線に気付いたかのように、尚隆は
りつの元へと向き直る。途端に一変した表情は、真面目なものへと擦り替わった。
「
明秦。お前が蓬莱に帰るのは構わんが、俺は惜しいと思う」
「惜しい?」
「こちらに順応し、それだけの腕がありながら、それを振るえぬ故郷に戻るのは少しばかり惜しい、とな」
胸中を明かした男の言葉は淡々としていた。惜しまれていることは有難く思うその一方で、未だ迷いを抱く
りつは返事をし難く、思わず顔を俯かせる。すると刹那、擁護するかのように、尚隆、と咎める六太の声があった。
「帰れる機会なんて滅多に無いんだ、引き留めるなよ」
「引き留めるつもりなど無い。これはあくまで俺の意見に過ぎん。……生まれ育った故郷は、やはり恋しいか」
静かに問われて、
りつは俯いたまま瞼を伏せた。喧嘩は絶えなかったが、嫌いにはなれなかった両親。いつでも優しく接してくれた祖母。住んでいた海沿いの町は辺地だったが、不便は無かった。…今は全ての景色が懐かしく、そして遠い。
「…昔を思い出すと、恋しいような気がしますね」
瞼を開けて、もう一度尚隆を見上げる。
…自分が此処にいるという現実。じき五年になる此方での生活。故郷で過ごした年数に比べればずっと短いそれが、今しがた沸いたばかりの帰郷に対する感情を薄めていく。
「帰る機会があるのなら逃してはならないと思います。…けど」
「けど?」
「此方には、私の所為で命を落とした人がいる。私の為に動いてくれた者がいる。そういった人達の事を考えると、今私がこうして生きられているのは彼らがいたからで、その人達を残して故郷に帰るというのは少し違う気がする」
脳裏を駆け巡るのは漣国で出会った人々や師の顔。命を擲った者達の姿。
りつに強く生きてほしいと願い、逝ってしまった大切な人。今自分が故郷へ帰る事は、彼らの命や為した事を無駄にしてしまうのではないか―――。
頭を過ぎるのは、そんな懸念ばかりで。
「…まだ、迷いが抜けないんです。すみません」
「謝る必要はない。決断を出すまでの時間は十分にある」
「ええ…そうですね」
才と雁。四州四大国の中で正反対に位置する国を往復するには、膨大な時間を費やさなければならない。その中で熟考し、決断を出せばいい。尚隆が言った「時間は十分にある」とは、そういう事なのだろう。
一人頷いた
りつは、再び階段を下り始めた六太と尚隆の背を追って歩を進めた。
向かう先は雲海の下――関弓山の麓へ。
◇ ◆ ◇
「ところで、
明秦。騎獣は鳥獣以外ならば乗れると言っていたな」
「え?ええ、はい」
じきに中門へ差し掛かるころ、不意に問いを投げかけられた
りつは目を瞬かせて、首肯する。…鳥獣への騎乗を試みた事はあるが、振り落とされてしまった経験が脳裏を過ぎれば、途端に苦い思いが胸に込み上げてきた。それを苦笑で誤魔化す
りつを、顔を僅かに後方へ傾けた尚隆は捉えた途端に口角を引き上げる。
「鹿蜀を用意した。それで才まで向かうといい」
「え…」
「報酬が気に入らんかったのだろう?」
「いや、そういう訳ではないのですが…」
報酬は不要だと六太に告げて以降、やはり欲しい、などと訂正の言葉を口にした覚えはない。いや、それよりも報酬を断った理由を誤解されている事実に訂正を挟むべきか否か、それとも騎獣などそんな大層高価なものは受け取れないと首を横に振るべきか…。そう眉根を寄せながら逡巡していた
りつはしかし―――ふと、先程客房で交わした楽俊との会話を思い出して、全ての逡巡を飲み込んだ。
国は国の為に仕事をした者に報酬を渡す義務があるのだと。ならば、これ以上の抗議は言えまい。
「皋門に待たせてある。受け取っていけ」
「……では、有難く頂戴致します」
丁寧な拱手と共に頭を下げた
りつを振り返る尚隆は満足そうに笑むと、再び前方を向く。すると丁度踊場で足を止め、次いで顔を後方へ向けたのは六太だった。
「おれ達の見送りは此処までだ。下に行ったら騒ぎになるしな」
「いえ、此処まででも十分光栄です。大国の王と台輔に見送って頂ける傭兵など、普通はいませんから」
「そりゃそうだな」
笑う六太に釣られて微笑を浮かべた
りつは、今口にしたばかりの発言を噛み締めながら、此処にいる奇跡を改めて実感する。…大国の王と麒麟の傍にいて、尚且つ会話を交わしているなど、ただの傭兵では本来有り得ない。巡り合わせとは実に奇妙なものだ。
別れ際にもかかわらず、どこか幻を目にしている気分に陥りかけた
りつはすぐさま頭を振ると、二人に向かい深々と頭を下げた。
「お世話になりました。…用事を終えたら国府に顔を出しますね、台輔」
「そうしてくれると助かる。伝言をこっちに回してくれるよう、国府の受付には伝えておくからな」
「はい、お願いします」
徐に顔を上げて、では、と別れの言葉を告げようとした。
「
明秦。行く前に一つ聞いていけ」
先程よりもずっと深刻な面貌をした尚隆に呼び止められなければ。
「――はい」
「何かを成すには犠牲が付き物だ。だが、それを恐れていては何も得る事は出来ん。もしお前が今後何かを成したいときには、犠牲にすべきものを見極めてからにしろ」
「犠牲にすべきもの、ですか」
引き締められた精悍な顔は平時の尚隆のそれではなかった。王として、或いは悠久の時を生きてきた者の忠告なのだろう。
刹那の間に
りつの脳裏を駆け巡ったのは此処へ来るまでに犠牲にしてきたものだった。時間は勿論、一番重いものは人の命。…そう、命。
途端、先日の人を斬り捨てた嫌な感覚が手の内に蘇って、それを拳をきつく握りやり過ごした。
「……もしや、気付かれましたか」
「お前の浮かぬ顔を見てな」
胸中を見抜きあっさりと答えた尚隆に、
りつは思わず深い嘆息を吐き出した。覚悟はしていたが、それでもやはり人を斬った事を忘れるなどそう容易くできるはずがない。あのとき、斬らずに済む方法があったのではないか。自分が行った事は本当に正しかったのだろうか…と。
慶を離れた今でも、疑念は靄のように胸に残り続けている。
「…ええ。少し、迷ってもいました。この剣の腕は人を殺める為に磨いたのではなく、この剣は人を断つ為に与えられたのではない。それなのに…と」
最初は自分が強く生きていく為に習った剣術。だが、強く生きるとは人を虐げる事ではない。己を守り、人を守る。その為の剣術ではなかったのか。
ふと、利紹の顔が浮かぶ。これでは彼に会わせる顔が無い。…そう、考えていたのだが。
「もし此度の乱で悩んでいたのならば、言える事は一つだ。お前は決して間違った事などしておらん。犠牲を払ったからこそ成せたのだ。…自分が下した決断を信じろ」
「…ええ」
りつは拳に落としていた視線を持ち上げる。見上げた先には、真剣な表情にほんの僅かな苦渋を混ぜた尚隆の、厳しい眼差しがあった。
「王は大義を掲げ、民を手に掛ける。手に掛けた数よりも多くの民を救う為にな」
麒麟にとっては嫌悪しか抱けない言葉だろう。複雑な顔を僅かに逸らす六太に申し訳なく思ったが、その一方で胸に広がっていた迷いの靄が薄れていく気がして、
りつはゆっくりと相槌を打った。
「争いの渦中では人を護る為に止むを得ん場合など幾らでもある。お前のことだ、今後も渦中へ飛び込む可能性は十分にあるだろう。土壇場で迷っていては、救えるものも救えん。その事を忘れるな」
「―――はい」
彼の言葉を真摯に受け止めて、
りつは深く頷く。右手は自然と佩刀している剣の柄に触れていた。
…五年前。土壇場で迷った結果に大事なものを喪った。救えなかった。故に、尚隆の言葉が身に沁みて解る。それを改めて心に刻むと、深い辞儀を一つ。
別れの言葉には、感謝の念を籠めて。
「…では、そろそろ失礼致します」
「気を付けてな」
「はい。お二人もお元気で」
「按ずるな、仙は風邪知らずだ」
「そういう意味じゃないだろ」
先程とは一変して、どこか愉し気に答えた尚隆を、六太が空かさず言葉で小突く。そんな二人のやりとりに
りつは硬くしていた表情を思わず綻ばせると、柔らかくなった彼女の顔を目にして安堵したのだろう。六太もまた微笑を浮かべて、これから降り行く者を改めて送り出す。
「またな、
明秦」
「ええ……また」
再び雁へ戻ってきたときには果たすと決めた事を未練無く終えている事を願って、
りつは一礼の後に踵を返した。彼らに背を向け、まだ長々と続いている白みを帯びた階段を見下ろし、ゆっくりと下っていく。
結び垂らされた黒緑の髪を揺らしながら遠ざかる
りつの背中を、彼らは暫し見送っていた。
遥遠の国を目指して旅立つ彼女が無事に此処へ戻って来られることを、密かに願いながら。
砂の陛 刻の峠 - 完