拾弐章
1.
称号を延王と名乗った風漢基尚隆は、夜に迎えを寄越すと言い残して裏庭から立ち去っていった。その姿を見送って間も無く、裏庭に佇んでいた
りつを呼び戻す店主の声があって、我に返った
りつは一瞬躊躇ったものの一先ず日中の仕事を普段通りこなしに掛かるのだった。
日没後、店の戸締まりを終えるなり店主へ訳を説明し、一週間ほどの休暇を願い出ると、彼は困惑の表情を浮かべながらも頷き、剣を片手に携えた
りつを送り出してくれた。
店の前で待っていると、尚隆の通り
りつを迎えに来た軽装の男が道を先導し、導かれるまま関弓山の麓に設けられた皋門を潜る。夜陰が犇めき始めた今、門から国府へと続く階段は灯りこそあるものの、色濃い影が落ちていた。
長く続く階段を昇り、国府を過ぎて雉門へ。そこから更に二つの門を潜り抜けると、やがて装飾の施された重厚な門扉が見えてきた。左右には兵士が二人、階段を昇って来た男と
りつを見比べると扉を開く。その先は平民がそうそう立ち入ることのできない場所であることは容易に察せられる。
息を呑み、背を正して扉の向こうへ。そこからさらに階段を上がり、次に見えてきた堂の扉を潜ったところでようやく足を止めた。
民居の倍以上は高いであろう天井に控えめな――王宮の一部にしては――装飾を施された柱や照壁、そして磨き上げられ、曇り一つ無い床。そんな堂内に佇む大と小の人影。そのどちらの顔も見覚えがあって、
りつの背に緊張が走る。
「ようやく来たか」
「風――主上」
「ああ、伏礼はせずとも良い」
偽名を言いかけ、慌てて言い直した
りつは腰を折りかけたが、尚隆の制止によって再び背を伸ばした。その姿を見た尚隆は満足そうに笑み、対照的な反応を見せたのは金の髪を僅かに揺らした六太だった。
「やっぱり来たんだな…」
「お前が望んだことだろうが」
「望んだっつーか…まぁ、そうなるんだろうけどさ…」
何かを渋っているのか、六太が若干苦い顔で頬を掻く。そんな少年の迷いを一蹴するかのように一瞥した尚隆はすぐに
りつの元へ視線を戻した。
「この馬鹿の言う事は気にするな。…まずは身形だな」
彼の視線は対面者の爪先から頭頂部へ。すぐに傍へ仕えていた部下へ何事かを伝えると、王の指示を承った者は深々と一礼をするとそそくさと朝堂を退室していった。
それを何気なく目で追っていた
りつはしかし…今聞き受けた尚隆の言葉に耳を疑い呆然とする。
「…馬鹿、って」
「ん?」
「大国の主が…半身である麒麟を平然と馬鹿と呼ぶなんて……」
背を向け歩き出した王の背中を見る
りつの目は信じられないと言わんばかりに見開かれていた。それも当然である。
麒麟とは神獣、王を支える半身とも呼ぶべき存在であり、また州候でもある。いくら大国の王とはいえ、麒麟へそのような呼び方をすると誰が思うだろう。
呆然としてぼそりと呟いた
りつは、しかし。
「ああ、おれの字だけどな」
「…………え?」
六太の平然とした告白に、
りつは暫くの間言葉を失うのだった。
何とか衝撃から立ち直り、時折六太に促されながら階段を上る。とはいえ、階段に施された呪によって数段上っただけでも一階分以上の段数を上った事になる。それを
りつは雨潦宮で既に経験していたため然程の驚きは無かったが、大国の王宮に足を踏み入れている現状に緊張が緩む事は無かった。
「皮甲は貸すが…騎獣に乗った経験は」
「妖鳥以外であれば乗れます」
「ならば良い。明日の早朝、台輔と景王の友人と共に慶国へ赴いてくれ」
「分かりました」
外は夜にもかかわらず、煌々と明かりの灯る長い廊下は朝と勘違いしそうなほどだった。あちらの――日本の明かりにも負けていないのではないだろうか。
緊張を無意識に解そうとしているためか、
りつは尚隆の話に相槌を打つ一方でそんな考えを巡らせる。
「今日は此処で待機してくれ。……って、言いたいところだけど」
「?」
六太の途切れた言葉に気付いた
りつはふと顔を上げる。いつの間にか前方を歩いていた尚隆の歩が止まり、向かいから近付いて来る硬い足音が響く。
りつが足を止めた位置からでは上背のある尚隆に遮られて足音の正体が窺えずに首を傾げたのだが。
「主上、台輔。景王とご友人の他に賓客がいらっしゃる話は無かった筈ですが」
「朱衡か。丁度良いところに来たな」
どこか責めるような声音を耳にした
りつは尚隆の背から一歩ほどずれると俯き拱手をする。一瞬垣間見たのは、高位の位袍に身を包んだ色白の優男だった。
「彼女は
明秦という。俺と六太の友人だ。各国を回り傭兵業をしているが、大層腕が立つ剣客でな。六太と景王の友人の護衛役として招いた」
「護衛、ですか」
「腕の立つ者はみな景王の元に着けるからな。俺が抜擢したのだ、構わんだろう」
泰然とした主君の説明が途切れると、徐に拱手を解き顔を上げた
りつは真っ直ぐに前方を見る。秋官長大司寇の位袍に、穏やかな表情の男性が僅かに眉を潜めていた。
彼が何かを迷っているように見えた
りつは思わず尚隆と朱衡と呼ばれた男を見比べたが、やがて折れたように溜息を吐いたのは朱衡だった。
「…分かりました。ですが、客房は用意できておりません」
「清香殿の隅の房室で待機してもらうつもりだ。既に用意するよう指示してある」
「畏まりました」
――急とはいえ、用意がお早いですね。
そんな心の声が今にも聞こえてきそうで、
りつはほんの少しだけ同情を含んだ眼差しを朱衡へと向けた。彼はおそらく、この奔放な主に苦労をしているのだ…と。
「少々狭い室になるが、構わんな」
「はい」
寧ろ広い方が落ち着かないので助かる。そう、
りつは微かな安堵を胸に頷くと、前方に佇む大小の背が動き出した。
朱衡の含みある視線が突き刺さるのを犇々と感じながらも、彼の方へ深々と一礼すると二人の後を追いかけるのだった。
(………どこが狭いのだろう)
路の途中で尚隆と別れ、六太に導かれるまま回廊を歩き、清香殿の入口を潜り抜けてすぐ手前。薄い彫細工の扉が開かれ、その先を目にした瞬間、
りつは王宮住まいの者の感覚が如何に違うのかを実感した。
ざっと見十畳以上はありそうな房室に、天蓋のついた臥牀と衣類の置かれた円卓が一つ。一面に玻璃の入った窓は少しだけ開けられており、潮の香りを含んだ微風が房室の中へ流れ込む。
どう見ても高級な舎館のような風景を眼前にして、
りつの顔が僅かに強張った。
「着替えは此処に置かせたからな。食事と禁門までの案内はもう頼んである。あとは何かあるか?」
「大丈夫です。ありがとう御座います。…しかし、良かったのですか?一民に過ぎない私を王宮の客室に入れてしまって」
「明日の朝迎えに行かせる余裕が無いからな。火急の特例だと思えば良いさ」
鷹揚な答えに頷いた
りつであったが、ふと脳裏を過ぎる、先程遭遇した秋官長のどこか納得のいかない反応。
この国の主の判断なのだから当然官は反論できないだろう。そう考えると彼の官吏に本日二度目の憐憫を覚えるのだった。
りつがそんな考えを抱いていることなど露知らず、腕を組みつつ照壁へ凭れた六太は、けど、と首を傾げる。
「まさか引き受けてくれるとは思わなかった。…もしかして、ショウリュウに何か言われたのか?」
「ショウリュウ…?」
「向こうの名前はこっちじゃ音に読む方が多いんだ。で、尚隆の音がショウリュウ」
「なるほど」
少年の空虚を掻いた指先が文字を象る。けれどそれは
りつの故郷の言葉ではなく、象形文字にも似た此方の文字だった。
りつは目で追ったものを何とか読み取りながら頷く。…そういえば、李偃は鈴のことを木鈴と呼んでいた。大木鈴という文字を此方の者が見れば異なる区切りで呼んでしまうのは致し方ないという気がする。
そこではたと我に返り、逸れかけた思考を引き戻すと、宙を捉えていた目を六太の元へと移した。
「…才国にいる一人の海客を助けたいという話は覚えていますか?」
「ああ」
「今回の護衛を引き受けた報酬として往復分の旅費を出すと、言って下さいました」
「大体分かってたんだけど…やっぱりな」
六太は納得したように相槌を打つ。けれどその双眸に一瞬、憂いと呆れの色が滲んだ様をりつは見逃さなかった。
「ですが、その報酬を受け取る気はありません」
「え…?」
一瞬ぽかんとした六太へ、
りつは真剣な表情を向ける。瞬いた青鈍の双眸は複雑な色を灯していた。
「海客を助ける為に動いているのは誰に強要されたわけではありません。あくまでも私自身が彼女を助けたいと思っている」
けれど、と。
言葉に迷ったりつは一旦口を閉ざすと、僅かな沈黙を挟んで問いを吐き出した。
「報酬という形とはいえ、主上のご助力は大変恐縮です。…しかし、その出すという報酬の旅費はどこから来るものですか?」
「それは…」
「国民の血税ではないのですか」
六太は返しかけた答えを思わず飲み込んだ。元を辿れば彼女の言葉通り、主君が提示した報酬とやらは確かに国民が納めている税である。
「民から徴収した税は国の為に使うもの。それを私事で動いている私へ割いて頂く必要など無いと、此処へ来るまでに判断したまでです」
そうきっぱりと告げた
りつは実際、尚隆より話を持ちかけられた直後から迷いを抱いていた。
報酬に多額を受け取る事への躊躇と必要性に対する疑問。しかし仕事へ没頭し、働く者達の姿を見れば迷いはすぐに解消された。
彼らがああして汗を掻いて働き納めたものを、他国の海客を助けたいという個人的な理由の為に使わせてはならないのだと。
そんな彼女の律儀に六太は感心した。普通ならば素直に受け取る者が殆どであろうに、彼女はこうして誠実な姿勢を取った。国を思う見事な返答だ。…そう思う反面、六太の胸中には新たな疑問がふと浮かぶ。
「それなら、今回引き受けた理由は?」
「私も慶に思うところがありましたので」
言って、
りつは何気なく玻璃の窓を見やる。静かに聞こえる小波の音。利紹の話では確か、天の上には雲海という海があり、雲海を覗き込むと時折下界が見えるのだという。雁国の雲海からはきっと多くの灯りが見えるだろう。
…だが、今の慶国では。
嘗て目にした荒廃ぶりを記憶から掘り起こした瞬間、
りつの表情が僅かに曇る。
「…あんな荒れ果てた土地から逃げ出しても良いだろうに、諦めず頑張っている人達がいた。中には偽王を本当の王だと信じて兵に志願する人も。…故郷を想うがゆえに命を削って生きているのだと思うと、胸が痛くなる」
胸に手を当てた
りつの脳裏に、ふと禎紀の顔が浮かんだ。兵士になっている息子へ会いに行くのだと彼女は言っていた。それを別れ際に受けた苦い思いと共に思い出せば、眉を顰めてしまう。
…彼女の息子のように、多くの兵士がこの内乱に駆り出されている。それも、おそらくは偽王軍の兵士として。
不要な内乱によって死ぬ必要の無い者達が死んでいく。それは生涯の半分以上を平和な場所で過ごしてきた
りつにとって耐え難い現実だった。慶の荒廃した現状を目にしていれば、尚更。
「いくら国を見聞したところで、平和な場所で生きてきた私には何もできない。施しを与えられるほど豊かな人間でもない。荒れた国の住民にとって、そんな輩は野次馬にしか見えないんだろうけど…そんな私でも国を助ける手伝いができるなら、と…そう思ったので」
「…そうか」
俯いた
りつの吐露。それに最後まで耳を傾けていた六太は安堵にも似た吐息を小さく零した。
「
明秦がそう言ってくれて、ほっとした」
「報酬に釣られて来たと思いましたか」
「少し、な。けど、引き受けてくれた理由を聞いて安心した。疑って悪かったな」
「…いえ」
気拙そうな六太の謝罪に、
りつは苦笑を浮かべつつゆるりと頭を振った。…自分の協力がどれだけの助力になるのかは、未だ想像出来兼ねるのだが。
「改めて、宜しくな」
「――はい」
真っ直ぐな眼差しを据えて告げる少年の言葉を聞けば、
りつもまた真剣な表情で一つ首肯するのだった。
◇ ◆ ◇
2.
六太が退室した後、佩刀していた剣を膝の上に置いた
りつは椅子に浅く腰掛けると玻璃の向こう側をぼんやりと眺めていた。
月光に照らされた縁側の向こうから打ち寄せる小波の音が聞こえる。それに耳を傾け、嘗て虚海や内海を渡る船の上で耳にしたものと重ねると、懐かしさが胸に満ちていく。
(……随分と遠くへ来てしまったけど)
膝上の剣を鞘から僅かに抜く。鍔のすぐ上の刀身に彫り込まれている自身の字が、今は微かな月光を受けて白く光っていた。
(今は、これでいい)
本来の目的とは逸れて、鈴を迎えに行く為の時間を少しだけ削ってしまうけれど。
それでもこれが今の自分にできることであると強く信じて、柄を強く握り締めると剣を納める。
がちりと鳴った金属音は、まるで彼女の固めた決意を表すようだった。
豪華な臥牀を寝難く思いながらも、横になれば瞼が落ちる。そうして気付けば夜明け前。ゆっくりと頭が冴えていく感覚と共に臥牀から降りると、寝る直前に解いた髪を束ねて括る。温まった足裏に冷えた床が心地良かった。
「御起床はされておいでですか」
急に聞こえた声に思わず身構えた
りつは戸の方を振り返る。そこには誰の姿も無かったが、戸の向こうには人の気配が二つ。
りつがはい、と言葉を返すと、開いた戸の間から二人の女御が丁寧な動作で入ってきた。
「台輔より御支度の補助を仰せつかりました」
「ありがとう御座います」
りつは苦笑しながら軽く頭を下げる。…実を言えば、
皮甲の装着はあまり慣れていない。そのため、手が有るのはとても有り難かった。
女御から指示を受けて袍と
褌、それから卓上に置かれていた皮甲を着込んでいく。その間に膝袴や手甲を嵌められ、髪をサクで纏め上げられ、
りつが皮甲を着終えたころには履以外の支度が終わっていた。
「履はこちらに。履き終わりましたら、禁門までご案内致します」
「分かりました。お願いします」
足元に置かれた履に足を差し込みつつ、片手に携えた剣を帯へ差した
りつは軽く頭を下げた。…纏った皮甲が動きを制限するようなことは今のところ無い。それで、扉を押し開いて先導を始めた女御も難なく追う事ができた。
然して長い道程ではなかったが、緊張の所為か妙に長く見える廊下を抜け、回廊を渡り、目指すは上へ。
やがて一際巨大な門が見えてくると、手前に数人の兵士が佇む姿を見付けて口を引き結ぶ。
「お連れ致しました」
「ああ、御苦労」
振り返った兵の一人が女御の背後に立つ存在を認めると、女御に下がるよう命じる。足早に遠退く足音を背後に聞きながら、
りつは丁寧な拱手と共に軽く頭を垂れた。
「此度は共に延台輔護衛の任に就かせて頂きます、
明秦と申します」
「話は聞いている。主上と台輔より招かれた剣客とか」
「ええ、はい」
至極不思議そうな顔をする男を始め、後方に佇む四人もまた怪訝気な表情を浮かべている。そんな彼らの反応を前に内心苦笑した
りつであったが、反応は相槌を打つのみに留めておいた。深く聞かれたところで答えは、縁あって、と言う外に無いのだから。
「説明は一度きりだ。しっかり頭に入れてくれ」
「分かりました」
首肯した
りつを認めた男は片手に持っていた紙を広げる。それを覗き込むと、一体何処から調達したのか、慶国の地理が書き記されていた。
「現時点で偽王軍の手に墜ちたのは西の麦州以外の八州だ。偽王は征州城に入ったという情報が入っている。主上と景王を筆頭にした王師は征州城へ攻め込み、我々はまず首都州である瑛州を訪ねる。次に北東に位置する建州を、更に和州、武州、宣州、紀州、揚州の順に回る。偽王の元へ雁の王師を引き連れた真の王が来たと話が回ればすぐに降伏する州もあるだろう」
地図の各州を示す男の指を目で追いながら来訪する州の順序を頭に叩き込む。説得する州の数は偽王軍の勢力を表していたが、挙がらない州はたったの一。現況は思いの外逼迫していた。
りつが思わず眉を潜めると、地図から目を離した男は器用に片眉を上げる。
「最初に瑛州を訪ねる理由は分かるか」
「南へ行けば麦州、逃げるなら瑛州か建州ですが…仮に偽王が逃亡を図るとすれば、瑛州へ向かうと予想しているからですか」
「そうだ。瑛州には王師があるからな」
りつに地図を渡して腕を組んだ男は王師と口にした瞬間、顔に苦渋に似た色を浮かべた。
「王師は本来真の王以外が動かしてはならないものだ。だが…瑛州が偽王軍側へ回った以上、王師が動かない保証は無い」
「だから、動く前に抑える。王師の抑制と瑛州の奪還さえできれば偽王軍を挟撃できる、という事でしょうか」
「そういうことだ」
男は力強く頷く。慶の王師を抑制さえしてしまえば懸念は晴れる。そう信じて門の片隅に設けられた潜戸の方を一瞥すると、慶国の地図へ真摯に目を落とす
りつを見て、僅かに眼を細めた。
片手が佩刀する剣の柄へ自然と向かう。
「もう一つ聞くが……貴殿は、戦場へ麒麟をお連れする事をどう思う」
ぱっと顔を上げた
りつは口を開きかけ、しかしふと覚えた違和感から内心首を傾げた。
彼は今、台輔ではなく麒麟と言った。王宮に在る兵士でありながらそう称するのはおそらく、延麒ではなく麒麟そのものを指している為か。
麒麟に関する知識を記憶から掘り起こした
りつはややあって苦い顔をする。…すっかり失念していた事を、ここでようやく思い出したのだ。
「確か、麒麟は血の穢れを厭うのでしたね。戦場ではさぞ辛いでしょう」
「ああ。…つまり、我々は台輔に危害を加える者に外傷を与えてはならない」
「…剣を抜くな、と」
「そういうことだ。台輔の御前で流血沙汰は許されない」
神獣、麒麟。慈愛と慈悲に満ちた仁の獣は血に弱く、血臭さえ体に影響を及ぼすという。また怨詛にも弱いため、本来麒麟が戦場に赴くことはまず有り得ない。死臭溢れる今の慶国に赴く行為は、延麒の体に相当な負担を掛けることになるだろう。
(けれど、六太はそれを承知で協力を申し出たという事か)
りつは拳に力を籠める。今、一国を救おうと多くの者達が動き出している。王も、麒麟も、臣下も、民も。
…ならば、自分にできる事はただ一つ。
(…必ず、彼等を護り抜く)
そう胸に強く誓い頷いた、そのときだった。
如何なる仕掛けか、長大且つ重厚な門扉が二人の兵士によって開かれたのは。
兵士達が揃って振り返り、
りつもまた倣って後方を見ると、靡く金色が目に入る。宮中へ吹き込む風を背に受けながら歩いてくる延麒六太と一人の青年の姿がそこにあった。
「待たせてわるかったな。尚隆と景王を見送ってきたんだ」
「そうでしたか…」
りつは開かれた門扉の向こうを一瞥する。では、景王率いる雁の王師は今此処を発ったのだ。
「揃ってるな。…ああ、こっちは景王の友人の楽俊だ」
「此度の景王への協力、感謝致します。宜しくお願い致します」
延麒の紹介を受けて、穏やかな面持ちの青年が丁寧な拱手をする。応えて兵達が軽く頷けば、すかさず延麒が言葉を続けた。
「おれ達もすぐに出発しよう」
「はい。…
明秦は楽俊殿を頼む」
「分かりました」
人を乗せて翔ぶのはこれが初めてで、緊張と不安を胸に湛えながらも
りつは深く頷いた。…躊躇っている余裕は無い。
延麒達の後を追って門扉の間を潜り抜ける。その先には争いの先触れも翳りもない、明澄の空が広がっていた。
◇ ◆ ◇
玄英宮を飛び立った延麒一行は慶国瑛州を目指して雲海上を駆ける。
延麒の周囲を兵士達が取り巻くようにして飛び、景王の友人――楽俊を後部に乗せた
りつは延麒の斜め後ろで手綱を握る。兵士達が騎乗する騎獣は天馬という、背に羽根のある馬並の体躯を持つ犬だった。対して
りつが借り受けたのは吉量。体に白い縞模様のある、赤い鬣を持つ馬型の騎獣だ。そのどちらも高価な騎獣であることをりつは知っている。だからこそ、手綱の扱いには若干慎重になってしまう。
募る緊張の所為で手中に篭もる熱を払おうと片手を開く。背後で声がしたのはその直後だった。
「あの…肩に掴まっても大丈夫ですか」
「ええ。どうぞ」
穏やかな声の控えめな希望に
りつが軽く頷くと、肩を軽く掴む感覚がある。若干ぎこちない言動を端々から読み取った
りつはそこで気が付いた。彼もまた、緊張に身を硬くしているのだと。
「騎獣に乗るのは慣れませんか?」
「ええ。人の姿で乗るのは尚更…」
「え?」
りつは思わず振り返ると横目で後方の青年を見る。彼の発言の中に引っ掛かる単語を見付けたのである。
人の姿、とは即ち、彼が別の姿を有しているという意味で。
「楽俊殿…もしや、半獣ですか?」
「はい。…気を悪くされたらすみません」
「ああ、いえ。少々驚いただけですのでお気になさらず」
僅かに表情を曇らせた楽俊に慌てて首を振ると、前方へ向き直る。…実を言えば、
りつは半獣の者と接する機会が少なく、以前に接した者は皆獣の姿だった。故に、人間の姿で半獣だと明かされても中々結び付かないのである。
一先ず彼の情報を頭の片隅に入れておくと、ふと別の情報と共に疑問が浮上して僅かに首を傾げた。
「楽俊殿は景女王と共に慶から?」
「いえ、巧です。陽…景王と初めて会ったのは巧国でした。彼女は巧に流れ着いたので」
「ああ…胎果の生まれでしたね」
「ええ」
…胎果。自分と同じ出自の、王。
一国に留まらずに放浪している自分と比較すれば、胸の片隅を劣等感が蝕む。同じ胎果でも、天啓の有無で進む道はあまりにも違うのだと。
だが、同時に景王への憐憫も覚えた。虚海を渡ってまだ日が浅く、こちらの理にも知識にも馴れぬうちに王宮入りを果たせば、学ぶ事は頭を抱えるほど山積している。彼女は王宮で相当な苦労をするだろう。
「景女王が此方へ来てからどれぐらい経ちますか?」
「多分、半年も経っていないと思います」
「では、こちらの理や知識に戸惑う事ばかりですね……登極してからが大変だ…」
手厚い保護を受けない限り、半年で覚えられる事など限られている。まして流れ着いたのが差別の激しい巧国なのだ、雁国へ来るまでに相当苦労したに違いない。
顔を顰めた
りつはそっと溜息を零す。
思いの外重い嘆息。それを、後部の楽俊はしっかりと耳にしていた。
「…もしかして、貴方も胎果ですか」
「ええ。ちなみに地位も無いただの傭兵ですから、敬語は不要ですよ」
寧ろ敬語を使われるのは苦手でむず痒くなると補足して、
りつが微かに苦笑を浮かべると、楽俊もまた口元を綻ばせた。彼もまた格式張った堅い言動が苦手だったのである。
楽俊との会話で少しばかり緊張が緩和された
りつは手綱を握り直して前方に広がる雲海を一望する。変わりない、白群の空。
…彼女は一体、如何なる思いを胸に征州を目指しているのだろう。
そう疑問に思った
りつはしかし、密かに自嘲の笑みを洩らした。
粗方の事情を聞いた上で延麒と景王の友人の護衛を引き受けたが、主要である景王の事は一切知らされないまま玄英宮を発った。それが今更、雲の上で関心を持つのはあまりにも遅すぎるのではないだろうか…と。
「楽俊殿。景女王はどんな御方ですか?」
「どんな人、か……」
神妙な面持ちで俯いた楽俊はややあって答えを口にする。
「いい奴だ。最初はちょっとばかし突っ慳貪だったけどな。…巧じゃ海客は冷遇どころか下手すりゃ死刑だ。追い回されてたんだからしょうがねぇ。…けど、途中ではぐれちまって、雁で再会したとき、あいつはいい経験をしてきたんだろうな。迷いながら、自分は愚かだと言いながらも、ちゃんと自分を持ってる」
「自分を持っている、か…」
感慨深く溢した
りつの呟きに、楽俊はああ、と頷いた。
「一度決めた事は曲げねぇ。芯が強くなったんだな。まぁ、まだ迷っている部分は多いけど」
「それは仕方ありません。突然此方に来て訳も分からないまま玉座に昇れと言われても、迷わない方がおかしいのだから」
この世界へ流されてから自分の在り方を導き出すまでに要する時間は各々によって差があるが、一年や二年で答えを出せる者は稀だろう。半年も経っていないのであれば尚更、景王が迷っているのは当然と言えよう。
だからこそ今彼女に必要なのは誰かの支えなのだと、
りつは切に思う。
「楽俊殿。是非、今後も友人として景女王を支えてあげて下さい」
「…ああ」
背中越しに聞いた楽俊の声は低く堅い。間違いなく真剣な返答を耳にすれば、
りつは口を閉ざして再び進行方向へ集中する。
一人でもいい。心強い友のがいてくれるのならば、彼女はきっとやっていけるだろう。そう思い、安堵した胸の内。
不意に誰かの背中が脳裏を過ぎり、
りつは僅かに表情を曇らせた。
…彼女は。未だ才国にいるであろう仙の少女は、果たして誰かの支えがあるのだろうか…と。
玄英宮からどれほど南進しただろう。
高々と昇り燦々と輝いていた陽は、今や頭上を過ぎて西へ傾く。穏やかに波打つ雲海は斜陽の光を反射して黄金色に輝いていた。
ぽつぽつと続いていた会話は途絶え、口を引き結んだままの
りつは西へ傾く陽を漠然と眺めていた。…故郷で飛行機に乗った事は無かったが、飛行中はきっとこんな風景だったのだろう。
久方ぶりに故郷の風景を思い出そうとして、僅かに眉根を寄せた。…十五年以上見続けた景色も、五年近く離れてしまうと記憶の中の風景は曖昧になる。あと数年も経てばさらに風化して、朧気になってしまうのだろうか。
家も町も…親や身内の顔も。
「…
明秦さん」
背後から呼ばれた
りつははたと我に返った。暫くの間落ちていた沈黙を破った楽俊の呼びかけに応じて、僅かに顔を傾ける。
「
明秦で構いません」
「じゃあ、お言葉に甘えて…
明秦はまだ、蓬莱に帰りたい気持ちはあるのか?」
りつは思わず瞬いた。…彼は人の心を察する能力でもあるのだろうか。
「…どうでしょうね」
――帰りたい。
再び西陽を眺めながら、その言葉を今一度胸の内に投げかける。
――帰れるものならば帰りたい。
それが心底に沈めたままの思いだ。再び帰って、今度こそ両親の喧嘩を止めたい。心配しているであろう祖母に元気な姿を見せて、安心させてあげたい。
「確かに、帰りたい気持ちはまだ心の片隅にあると思います。……しかし、」
帰り道が見付かるかもしれない。そう思い嬉々とした感情とは裏腹に、脳裏を過ぎるのは彼女の為に命を擲った者の、最期の顔だった。
…紫秦。彼女が共に戦ってくれなければ自分は此処に居なかった。
「私が今こうして此処にいられるのは、ある人達のお陰です。もし私が帰る方法を見付けたから倭へ帰ると言えば、彼らはおそらく反対はしないでしょう。…ですが、私の方が踏ん切りを着けられない」
居場所を与えてくれた康由や、生きていく術の一つとして稽古をつけてくれた利紹。漣国重嶺にいる露翠や李偃。彼らが
りつの帰郷を許してくれたところで、
りつ自身はおそらく脚を止めてしまうだろう。
「彼らにはまだ、恩を返せていない。未練がある内に帰るような事は、少なくとも私にはできない。だからおそらく帰る方法があったとしても、今はその選択肢を取る事は無いと思います」
「そうか……律儀なんだな」
「どうでしょうね。馬鹿真面目なだけかもしれませんよ」
「馬鹿真面目か…そうかもな」
急に隣から声が掛かって、苦笑を零していた
りつは西陽とは逆の方向を振り返る。騎獣の中でも最上と言われる趨虞に騎乗する延麒の、金の鬣が緩やかな風に遊ばれていた。
「台輔、」
「けど、そのお陰でおれは助かったし、この件も引き受けてくれたんだろ?」
「これは…そうですが」
眉尻を僅かに下げつつも頷いた
りつに、延麒は笑みを浮かべた。その律儀な一面があったからこそ、王が提示した報酬を断ったのだ。
そんな真面目な彼女へ、六太は密かに別の報酬を考えていた。
「…なぁ、
明秦。前に言っていた才の海客の件が落ち着いて、心の整理がついたら故郷に帰るか?」
「え?」
突然の提案を耳にした
りつは思わず間の抜けた声を上げ、慌てて手から滑り落ちかけた手綱を握る。
彼が口にした言葉に耳を疑った。信じられなかった。故郷に帰りたくて、帰り道を探す度に帰れない現実を突き付けられてきた。…それが突然、帰郷の提案を挙げられるなど。
「送っていってやるよ。多少の準備が必要だけど、時間はそれほど掛からない」
「―――」
「
明秦?」
「…いえ…急に帰り道が開けたものですから…少し驚いてしまって」
「今回の礼だと思っておけばいいさ」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げつつ礼を告げた
りつの胸に困惑が蟠る。…成すべき事を全て果たした先の、帰郷。念願だった筈のそれを、今は手放しで喜べずにいる。
(…いや、悩むのは後だ)
胸の内に渦巻いた靄を追いやるように深呼吸を二、三度繰り返すと、不意に足元へ目がいく。長きに渡る王の不在によって荒廃した慶国の町並みが、雲海越しでもよく分かる。それは
りつが数ヶ月前に訪れたときよりもずっと酷くなっている気がした。
(今はやるべき事をやり通さなければ…)
そう割り切って再び前方を見据えた直後、前方を飛ぶ兵の一人が声を上げる。揃って遠景を捉えた先、雲海に浮かぶ島の影が見え始めていた。