拾壱章
1.
薄墨の闇に漂う温い空気を掻いて、少年と
りつを乗せた騎獣は一路北を目指して宙を駆ける。闇夜を照らす月光は遠く、地に降る光は仄かであったが、道先を照らしてくれるには十分だった。
鞍無しの騎獣の後部に乗る
りつは頬に柔く生温い風を受けながら暫くの間眉を潜めていた。目線の先は少年、ではなく前脚を大きく掻いて駆ける獣の背中へ。
少年が連れてきた灰色の毛並の騎獣は狼に似た顔をしていた。尖った耳にしなやかな体躯、毛皮に覆われた長い尻尾。初めて見る騎獣だった。
鞍は失くしてしまった。そう話した少年の言葉を信じたのが二時間前。
しかし彼と遭遇した当時に騎獣の姿を見た覚えはなく、さらに高岫山の最中に現れた妖魔を喰らい去っていた獣の姿と似ている気がしてきたのが一時間前。
そして、今現在。
何故ここまで淡々と話が進んでしまったのか、淡い光を放つ月を茫然と眺めながらゆっくりと振り返るのだった。
「なぁ、兄ちゃん」
周囲に意識を向けていた
りつは思わぬ言葉を耳に拾って視線を僅かに手前へ下ろした。齢は十四、五あたりだろうか。頭部に巻いた布の上から風除けの布を被った少年の、紫水晶を思わせる紫紺の双眸が
りつの顔を覗き込む。
「君はさっきの……どこか痛みだした?」
「いや、体は大丈夫。…兄ちゃんが持ってるそれって剣だよな。扱えるの?」
「もちろん。護身用だけど」
「ふーん…」
少年の疑わしげな眼差しを受けた
りつは苦笑を浮かべた。先程妖魔が現れたとき、結局最後まで剣を抜かなかった。抜刀前に何故か必要がなくなってしまったのだから、疑われても仕方が無いのだが。
「兄ちゃんも慶に行くのか?」
「いや、今行ってきたところだよ。君は故郷に帰る途中?」
「まぁ、そんなとこ」
少年は軽く首肯してから、突然目配せをすると
りつの方へ体を半歩ほど寄せた。周囲には慶の民。まるで、彼らの耳に入らぬよう気を配っているかのように。
「慶はどうだった?新しい王様が現れたって噂を聞いたんだけど」
「ああ……、それは」
そこまで言葉を滑らせ、不意に頭の片隅を過ぎった記憶から思わず口を噤んだ。
今から慶へ向かう者に…希望を抱いて国へ帰ろうとしている者に真実を告げるべきか。それとも何れ知るのだから今教えておくべきか。
そう考える
りつの脳裏を、不意に禎紀に告げた件が掠める。前例で拒否をされているせいだろう。結果をはっきりと伝える事に臆病になってしまっていた。
表情を曇らせて逡巡する
りつに対して、少年は怪訝そうに眉を潜める。
「やっぱり、偽王なのか?」
「……、正直、色々な州で聞いた噂の限りでは」
「そっか…やっぱり見に行くしかないか」
ぼそりと零した少年の呟きを聞き逃さなかった
りつは訝しげに彼を見返した。
「物見遊山のつもりで立ち寄るなら止めた方がいい」
「そんなつもりで言ったんじゃない。…けど、気を悪くしたなら謝る。おれにも色々事情があってさ。偽王だと言うなら、どうしても見に行かなきゃならない」
「…どうしても?」
「ああ」
「……護衛の宛ては?」
「あるにはある。けど…」
「今はいないんだね」
「まぁな」
頷く少年の一見飄々とした様子を見て、
りつは思わず溜息を吐いた。多少の緊張感こそあるが、彼の態度には余裕があった。そして、どこか曖昧な返答―――そこから導き出された答えが
りつの眉間に皺を寄せさせる。
「…もう一つ質問」
「うん?」
「君はまだ小さく見えるけど、高い地位にいるのかな」
「え…」
刹那、少年の口角が下がった。硬直した表情と共に止まりかけた足は、
りつにそっと背中を押されたことで縺れかけながらも再び踏み出す。
切り出した話は、
りつが彼と出会ってからずっと気になっていた事だった。
「私の耳には故郷の言葉として聞こえているけど、相手の出身も聞かずに使うわけがない。仙籍に入る者でなければ説明がつかないんだ。年の割に落ち着いているのも、そう考えると納得がいく」
もしかして、君は私より年上かな。
そう、呟きを付け足した
りつの口端が微かに持ち上がる。見開いた目でまじまじと彼女を見上げる少年は彼女の言葉を数秒かけて呑み込むと、行き着いた事実を恐る恐ると口にして。
「あんた…胎果?」
「そう。今、君とはあちらの言葉で話してるんだけど…やっぱり気付いてなかったんだね」
「え…あぁ……いやぁ、はは…」
誤魔化すように乾いた笑いを零した少年の様子から、やはり気が付かなかったのだと確信した
りつは、そっと溜息を洩らすのだった。
「…それで。お付きの護衛は征州の何処で待ってる?」
「えーと…」
「……いないんだね」
言いあぐねる少年の視線が、僅かに宙を泳ぐ。言外に表れた答えに、
りつは呆れの眼差しを向けずにはいられなかった。妖魔が跋扈する地に護衛も付けず護身の武器も持たず、単身で向かおうとするなど危険甚だしい。
そんな彼女の視線に耐えられなかったのだろう。降参と言わんばかりに手をひらりと挙げた少年は苦い顔で口を開いた。
「分かったよ、正直に話す。…おれの用事は征州。偽王かどうかを確認してから、雁に帰るつもりだ」
「慶の者じゃなかったのか…」
今の雁国は治世五百年の大国だ、妖魔が出る事などまず有りはしないだろう。そんな平和な国からわざわざ訪れる理由を察しかねて内心首を捻る
りつに対し、少年は微笑を浮かべて頷く。
「おれは六太。兄ちゃんは?」
「
明秦。漣から来た」
「へぇ…随分遠くから来たんだな。やっぱ雁を目指してるのか?」
「うん。景王を見に行く理由はどうあれ、六太一人で行くのはお勧めしない」
「じゃあ、兄ちゃんが一緒に行ってくれるなら心強いな」
「あのね、君――」
言いかけた言葉を最中で止めた。彼が自身の懐から抜き取り、
りつの前に差し出したそれは鈍い輝きを放っていた。――銀貨三枚、十五両。旅をするには充分に足りる銭。少なくとも、ただの少年が所持するには異常な金額で。
驚愕に目を丸くした
りつを、少年は真剣な表情で見上げた。
「杖身として雇う。一緒に征州まで行ってくれないか」
暮れかけた陽が頭上に広がる空一面を淡い丹色に染めゆく。それを暫し見上げて、下ろした視線の先。高岫山を下り終えた旅人が列を作り、面に疲労を色濃く浮かべながら麓にある街の門闕を潜り抜けている。閉門の合図である太鼓が鳴り出す前に街へ入ることができた
りつはしかし、通ったばかりの道程――高岫山を振り返った。
――戻ってしまった。
困窮と思案の末、
りつは少年もとい六太の杖身となる選択を取った。だがいざこうして戻ってくると、胸に後悔に似た思いが靄のように広がっていく。
気にせず先を急げば良かったのだ、と心中で声がする。それも間違いではないだろう。現に、新王が起ったという情報に希望を抱いて危険を覚悟の上で戻ってくる者の大半は荒民だ。杖身を雇う余裕など無い。
しかしそう思う一方で、目の前で困っている者すら無視する事は薄情に思えてならなかった。一人を救う為に、その道程で遭遇した者達を見なかった事にする――それは随分と虫の良い話だ、と。
偽善者という言葉が不意に頭を掠めて、
りつは思わず顔を歪めた。…視線の先、淡い丹色に染まった高岫山の輪郭が、街に響く太鼓の音と共に閉ざされた門の向こうへ消えていく。
緩やかに移動する雑踏の中、それを無言で見送っていると、不意に袖を引かれる感覚がして振り返る。
「舎館探すんだろ。早く行こうぜ」
「…、ああ」
頷いた
りつは、先に歩き出した少年の背中を見つめて、ああ、と息を吐き出した。
確かに後悔はある。だが、彼の申し出を引き受けて抱いた安堵の方がそれを上回っている事は確かで。
六太の隣へ並ぶと、ひとまず今晩の寝床を確保するべく舎館を探し始めるのだった。
途を歩き回る事暫し。確保できた舎館は一明二暗の房室だった。起居と臥室の其々に鍵が掛けられるようになっているので就寝中に物盗りが入る心配は無い。
久々に安心して眠れそうだと安堵の息を吐いた
りつは起居の中央に置かれた小卓へ荷物を置くと、同じように荷を背から下ろした六太がふと顔を持ち上げた。
「そういや、
明秦は何で漣から雁へ行こうとしてるんだ?漣は国が荒れてるわけでもないし…そりゃあ、海客が多く居るって意味じゃ行きたい場所だろうけど」
「ああ。…雁国って、こちらの言葉を教えてくれる教師っている?」
「たしか、貞州にいた気がするな…場所は芳陵だったか。けど、
明秦は」
「ああ、私はもう覚えているよ。時々聞き取れない単語がまだあるけど」
じゃあ何で、と首を傾げて問いかけようとした六太の言葉を、
りつの淡々とした言葉が遮る。
「言葉で悩んでいる海客がいるんだ。その子が学べる場所があるのなら、連れて来たいと思って」
「へぇ…人助けか?」
「そんな大層なものじゃない」
「照れるなって」
感心ものだと笑った少年に対して
りつは反論を口にしようとしたが、すぐに引っ込めた。
どれだけ真顔で否定をしても照れだと思われて茶化されるのがおちなのだろうと、早々に諦めたのである。
りつが苦笑を浮かべたのも束の間、すぐに表情を引き締める。街へ入ってからだろうか。ふと、彼の発言に対する疑問が浮かんだのは。
「一つ聞いていい?」
「なんだ?」
「景王を見に行くと言っていたけど、景王が征州城の中に居たらその姿を見ることは叶わない。それに、本来王は民衆の前には姿を現さないから、外からは見れないと思うんだけど」
「普通はそう思うよな」
椅子へ置いたばかりの荷を小卓へ上げた六太は、空いた椅子に腰を下ろす。組んだ腕を小卓の上に乗せると、自然と前かがみになった少年もまた真面目な面持ちで
りつを見上げた。
「けど、景王は征州城に入っていない。情報が確かならまだ城の外、維竜で待機している筈だ」
「…わざわざ情報を取って来たんだ?」
「まぁな。見に来るっていうのは、そういうこと」
りつは訝し気に顔を歪めた。彼が今行っているのは隣国の潜入調査だ。それが正式に受けた仕事ならば即ち、彼は雁国関弓から――つまり玄英宮から――態々訪れた、という事になる。
予想がつかない少年の地位に猜疑を抱きながらも、
りつは途切れかけた話を再開させる。
「まあそもそも、本来玄武で雲海を渡って王宮に入る人が下界から来て声を上げている時点で可笑しな話だとは思う」
「そりゃあ……偽王だろうからな。蓬山にも行けないし」
麒麟と誓約を交わした王は本来、蓬山に昇り天勅を頂戴しなければならない。それから嵩山に存在する神獣――玄武が雲海を渡って国の王宮まで送り届けるのだという。…だが、それは少なくとも民が知り得る知識ではない。
民が知っているのはあくまで下界での現象だ。玄武が雲海を泳いだ軌跡が細く長い雲のように見える。それを瑞雲といって、王が践祚した表れだという。
杖身となった者を不思議そうに見上げた六太は僅かに首を傾げた。…そういえば、出身こそ聞いたが素性の詳細はまだ訊いていなかった。
「あんた、王宮について詳しいのか?」
「私の知人…師匠が漣国の夏官にいるんだけど、そういう余計な知識まで教えてもらったんだ。実際、雨潦宮にも足を運んだ事もある」
「へぇ…その師匠に連れられてか?」
「いや、主上の御招きで」
刹那に落ちたのは、痛いほどの沈黙。
目を丸くした六太は己の耳を疑った。官が下官を引き連れて訪れる事は然程珍しくない。だが、今彼女が言ったのは国主直々の招集だ。滅多に掛けられるものではないことは彼自身よく知っている。
「後から聞いた話だけど、丁度訪問されていた台輔が私の事を話したようでね」
「台輔って…どこの?」
「戴国泰台輔」
「…泰麒…?」
一つ頷いて、視線を宙に投げた
りつは記憶を掘り返す。…もう、五年も前になる。
随分昔の事のように思える記憶を辿っていけば思い出す、目の前にいる少年よりもやや背丈の低かった、黒髪の。
まだ幼くて可愛らしい御方だった、と。そう付け足そうとした
りつの口が、最初の一字を型取るだけで終わる。
愕然とした少年の、強張った顔。まるで有り得ないものを目にしたような反応は束の間、すぐに怪訝な表情へと変わりゆく。
「そうだ。戴は今どうなってる?台輔も主上も御健在?」
「…
明秦、お前…何も知らないのか?」
「え?」
視線を戻した
りつは目を瞬かせた。
「今は泰麒も泰王も行方が分からない。戴は妖魔の跋扈する荒れ地になってるって噂だ。実際、戴から逃げ出してきた荒民の多くは雁に流れ込んでる」
「そんな…」
――行方不明。
思いも寄らぬ情報に
りつは愕然とした。北東と南西の極国、その距離は三国分以上。情報を耳にしなかったのも当然だった。
あの幼い麒麟…同じ胎果の少年に、一体何があったのだろう。
「要君…」
「泰麒に会ったこと、あるんだな?」
「…ああ。胎果の黒麒。名前は――」
「高里要」
りつが口にするよりも早く紡がれた少年の名前。真剣に見上げてくる少年へ、驚愕の眼差しを向けずにはいられなかった。
「…六太、どうしてその名前」
「おれも泰麒に会った事がある。あいつの行方を、今も探してるんだ」
思い返せば蘇る、鋼色の鬣と幼い笑顔。少なくとも、最後に会った時には幸せそうな顔をしていた。それがいつどこで、何故失われてしまったのだろう。
暇を見付けてはあの小さな姿を探している。手掛かりすら見付からない今だからこそ、最後に出会ったであろう
りつの証言を六太はどうしても聞きたかった。
「
明秦、道中で泰麒の話を聞かせてくれないか。あいつに何があったのか…戴で何があったのか知りたいんだ」
頼む、と。立ち上がった六太の真剣な願いを眼前にして、無論拒むつもりなど無い
りつは静かに頷いた。
「…分かった」
◇ ◆ ◇
翌日早朝、街を出た
りつと六太は征州州都、維竜へ向けて出立する。その道程は馬車――ではなく、騎獣だった。
今まで見た事の無い騎獣の背に跨ると、六太の合図で宙を滑らかに飛翔していく。時折街へ降りては休憩を取りつつ慶国上空を駆けること半日と少々。夜が訪れても街へ降りないのは、維竜まであと僅かな距離しかないからだった。
思考の海を泳いでいた
りつはふと我に返る。…何気なく宙へ放っていた視線の先。犇めく闇夜に目を凝らした
りつは、時折闇の中で蠢く不可解な影を目撃していた。
影の正体が何かは分からない。しかし此処は間違いなく上空で、間隔こそあるが並行して動いている事には違いない。それが妖魔の襲来が一度も無い件と関係しているのならば、警戒するべきではないか。
そんな考えを抱きながら闇夜を凝視し続ける
りつの手は、自然と剣の柄へ伸びていた。
「…六太、何か飛んでる」
「あれは妖魔を喰らう妖魔だ。近付かなきゃ平気さ」
闇に乗じて何かが動いているであろう方向を眺めた六太の答えは何とも大雑把で、
りつは若干呆れつつも頷いた。今のところ接近してくる気配は無い。ならば暫くの間は様子を見ているしかない、と。
「…
明秦は、泰麒と何処で会ったんだ?」
「漣極国。私が最初に迷い込んだのは漣国の東にある唐州の村で、その後色々あって国都へ向かう事になって。そこで、泰台輔と出会ったんだよ。…もう、五年も前の話になる」
りつの脳裏に過ぎったのは、黒髪の少年のあどけない笑顔。同時に胸の奥底から込み上げてきたのは苦い思いだった。…彼との遭遇から数日後、大事な理解者を喪ってしまったのだから。
僅かに眉を潜めるに留めた
りつはさらに言葉を続ける。
「泰台輔は護衛を二人連れて市井を歩いていた。そこへ畏れ多くも私がぶつかってしまって。無礼を許して下さった上、少しだけ話すことができたんだ」
「そのとき、憂鬱そうな顔はしてなかったか?」
「…どうだったかな。あのとき憂鬱だったのは、私のほうだったから」
僅かに首を傾け横目を後方へ向けた六太に対し、
りつは虚空へ視線を投げて当時の記憶を掘り返そうと試みる。だが、思い出せたのは苦痛ばかり。
こちらに迷い込んで約半月、見知らぬ町並みの中、聞き馴れない言葉を話す人の間を縫って歩く苦痛を耐えていたころ。
自分の事を考えるのが精一杯だった最中、故国の言葉を話す者と出会えて気が緩んだのは確かだが、要少年の表情の変化まではあまり覚えていない。ただ、稚く儚いという印象を強く覚えているだけで。
そこまで思い出した瞬間、
りつはふと、街を出る前に六太が言っていた件を思い出して怪訝げに顔を顰めた。
「そういえば……台輔が行方不明っていうのは」
「おれもよくは分からないけど、戴国は今王も麒麟も不在で国が荒れてる。様子を見に行こうにも、妖魔が多すぎて空からじゃ近寄れないんだ」
…では、あの少年はもう。
行き着く予想は嫌な結末ばかりで、胸を衝く悲痛な思いに
りつの顔が歪む。
そんな彼女の思いを途切れた言葉から酌んだかのように、六太は前方を見据えながらもゆるりと頭を横に振った。
「でも、おれは王も麒麟も死んでいないと思ってる」
「なぜ?」
「……そう願っているから、じゃ答えにならないか?」
「…いや。私もそう思っていたい」
少なくとも、死んだとは思いたくない。
遠く離れた地から来訪し、街中で奇跡的に知り合った心善い少年の行き先。彼の命が奪われていない事を切に祈りながら薄らぎ始めた闇夜を見上げた
りつは、次いで遥か下方に目を向ける。
凹凸ある山々の陰影は未だ深く、地形を鮮明に捉える事は難しかった。
…だが。
「…
明秦、前を見てみろ」
「前?」
僅かに背を伸ばして六太の頭越しに前方を見る。一見闇に紛れて分からないそれはしかし、よくよく目を凝らせば薄ら浮かび上がる輪郭。地から真っ直ぐに伸びたそれは言葉通り天を穿つ。確かに見覚えのある影だった。
「凌雲山…」
「降りるぞ」
「ああ」
りつの返答を聞きながら、六太は前方を―――空を縦に切り取る長大な柱を漠然と見、次いで遥か下方に広がる地を見下ろした。
…淡い黄昏色の気配を、僅かに感じながら。
「旌券持ってるよな?ちょっと貸してくれないか」
州都維竜。堅固な郭壁が闇の中で焚かれた篝火によって漠然と浮かび上がる、その手前で六太と
りつを乗せた騎獣は降り立った。
既に全ての門が閉扉された今、二人が維竜へ足を踏み入れる事は叶わない。…その筈だが、降り立った六太が開口一番に告げると、ああ、と返事をしながらも
りつは懐から取り出した旌券を手渡した。
「此処で少し待っててくれ。すぐに戻るから」
「分かった」
りつから旌券を受け取った六太は再び騎獣に跨ると、既に閉ざされた門の向こう、歩墻の上を目指して跳躍する。伸び上がり、あっという間に上昇した一騎を目で追いかけた
りつは歩墻の上から聞こえる声に耳を傾けたものの、障害物の無い空間で拡散する声は言葉として聞き辛い。それでも眉を顰めながら傾聴しているうちに、再び騎獣が降下してきた。
「通してくれるってさ。乗ってくれ」
「ああ」
りつを騎獣に乗せた六太は声を掛け、騎獣は再び跳躍した。軽々と郭壁を越えて、ゆっくりと郭壁の内側へ降り立つと、騎獣の背から降りた六太が一旦懐にしまい込んだ旌券を
りつに差し出す。
「ありがとう。…衛士と何を話したの?」
「入れてもらえるよう頼んだのさ」
「ああ、だから旌券が必要だったのか…」
「ま、そういうこと」
僅かに口角を引き上げた六太はしかし、すぐに周囲を見渡した。日没から既に一時間は経過している。にも拘わらず、途に集う人の数はおよそ夕刻に行き交う人波のよう。
「…随分人が多いな」
「さしずめ、新しい景王を見に来たというところか」
「だろうな。騎獣を預けてくるから此処で待っててくれないか」
「ああ、分かった」
りつが頷くのを認めて、六太は騎獣と共に人通りの少ない途を駆けていく。閉ざされた門扉の真横、郭壁に背を凭れて一騎と一人の姿を見送った
りつであったが、程無くして聞こえてきた声の方へ目を向ける。張り上げられた男の声。言葉は聞き難かったが、声に釣られた者が一人、また一人と歩む方向を変えて、建物の向こう側に消えていく。
やはり向こう側――おそらく州都の中心部…いや、州城に何かが在るのだ。
「
明秦、待たせてわるかったな」
「いや…それより六太、私達も行こう。州城に人が集まってる」
「州城…」
引っ掛かる単語をぼそりと復唱した六太の手を、
りつが掬い上げる。足早に、しかし少年が足を縺れさせないよう注意しながら、維竜の中心部にある州城へと足を進めていった。
暫く歩いて辿り着いた州城の門は、夜にもかかわらず解放されていた。そこに吸い込まれていく人々の波に乗じて州城の門を潜り敷地内に足を踏み入れると、程無くして前方を行く人々の歩が止まる。行き詰まる列は中々動く気配を見せなかった。
「おれ、ちょっと見てくる」
「転ばないように気を付けて」
低い背を利用して、雑然と並ぶ大人達の間をするりと抜けていく。その姿を見送ったものの、若干もどかしい気持ちで列が動くのを待っていた
りつであったが、不意に前方から聞こえてくる男の声を聞き拾う。だが、耳を傾けようにも周囲の声に掻き消されて今一上手く聞き取れない。
りつもまた仕方なく数人の間を縫いながら前列に近付いていくと、兵士の淡々とした声を聞き拾った。
「…何かあったんですか?」
「ああ…見ろよ、あれ」
りつは真隣にいた男へ声を掛けると、振り返った若い男が声を潜めつつ前方を控えめに指し示す。
周囲に立つ衛士の目を気にしながら、あれと称された指先の方をゆっくりと見る。そこにはまるで祭壇のような壇上に設けられた部屋に豪奢な身形の女性が一人、ゆったりと座に凭れて下方を見下ろしていた。
今にも陽が沈もうとしている中で壇上に煌々と焚かれた篝火が照らすのは、女性の頭部に修飾された歩揺。民では手に届く事すら叶わないであろう煌びやかな装飾を見上げて、
りつは不審げに首を傾げた。
「……誰ですか?」
「新王らしい。…、……また女王か…」
「女王?」
男の横顔に滲む落胆は色濃く、溜息混じりの声から期待を酌む事は難しい。今にもその口が、懐達、と零しそうだった。
肩を落としたのは男だけではない。待望していた王が女性というだけで、群衆の中では誰かしらが飲み込めなかった溜息を洩らす。そして悠然として座する女王から、壇上から視線を逸らすのだ。
ああ、また女王だ、と。
だが、壇上を見上げていた
りつは青鈍の双眸を怪訝そうに細めた。
「でも、王なら王宮にいるはず。なのにどうして…」
「王様だと信じない王宮の官吏達が立て篭もってるって話らしい。…けど、そんな事があるのかね」
「……」
王宮の官吏による入城拒否。王宮に立ち入れず、州都から離れた国境寄りの街で待機せざるを得ない新王。その姿が
りつの目には不可解に見えて仕方なかった。
(…仮にいるとしても、まず有り得ない。偽王だからだとしても、あれは相応の扱いではない)
利紹をまだ師と仰いでいたころ、
りつは彼から王宮や官吏に関連する知識を教わった時期があった。もちろん王に関する基礎的な知識も教示してくれた内容を、彼女は鮮明に覚えている。だからこそ周囲が戸惑う中で
りつだけがある一つの確信を抱き、そして疑問に思う。
壇上に座する“王”。その足元に横たわる、雌黄の毛並の獣の存在を。
◇ ◆ ◇
王宮に篭城する反逆者の討伐を目的とした、兵の志願を募る声が広途に響く。
次第にただならぬ気配を漂わせ始める広途から逃れるように
りつは群衆を抜けた。王の存在や現状はどうあれ、まずは今日泊まる舎館を探さなければならない。
その前に、と。
踵を返した
りつは、先程別行動をすると言い出した少年と別れる前に決めた集合場所に足を向けた。
陽が落ちた今、町には鬱蒼とした闇夜が犇いている。旅人にとって頼りの月光も、今夜は垂れ込めた雲に遮られて微光すら届かない。
そんな夜道を、
りつはゆっくりと歩く。幾らか利き始めてきた夜目で、ぼんやりと浮かび上がる建物をじっと見詰めながら。
砂に塗れた壁。随所に見られる壁の崩落。一蹴すれば今にも音を立てて割れそうなほど風化した古めかしい扉。…この街の荒廃ぶりは傾き始めた巧国よりも酷かった。
これも、王の不在が齎す災厄の一つなのか。
広途から外れた場所に並ぶ民居へ目を向けた
りつが思わず顔を歪めた――そのときだった。
背後から少年の声がしたのは。
「遅いぞ
明秦」
「…ああ、ごめん」
「あまりにも遅いから、先に舎館でも取ってきたのかと思ってたけど」
「いや、少し気になる事があって」
振り返った
りつの返答に少年は首を傾げた。
群衆は既に王の祭壇前から解散して、途には人も疎らだ。広途から外れた場所なら尚更、人影も無い。しかし、何故こんな場所を集合場所に指定したのか――そう問いかけようとした
りつの言葉が、少年の問いによって喉元で留まる。
「なぁ…あの王様についてどう思う?」
「どうって……」
答え難い質問に眉根を寄せる。見上げ、据えられた紫紺の双眸は真剣そのもので、それが道の所々へ忙しなく薙がれた後に少年の足が一歩分の距離を詰めた。
「偽王には違いないが…州候から入城を拒否されてるらしいって噂だ」
「ああ。それは本当だと思うよ」
少年もまた耳にした噂に、
りつは頷く。壇上に座していた者が偽王だという確信は、王とされる人物とその随従を目にしたからこそ得られた。勿論王自身の身形や品格の問題ではなく、利紹から教わった、「常識」に当て嵌まらないからという理由で。
抱いた警戒心の表れか、
りつは腰に佩刀した剣の柄へ手を置く。一見肘掛へ凭れているように見えるが、あれは逆手で抜刀する為だろう…と。移動した手元をちらりと捉えた六太は思う。
「そもそも、王はああして民衆の前に姿を現さない。御簾すら下りていなかった。あれはまるで兵を集める為の見世物だ」
見世物、と口にした少年は意外そうな目で
りつを見る。他の旅人から聞いたどの話とも異なる意見だった。
「いくら金波宮に入れないからといって、あの人を王だと信じている州城の州候が何故迎え入れないんだろう。少なくとも、ここの州はあの壇上にいた女性を王だと信じているはずなのに」
堂々と姿を現しても反乱軍の襲撃を受けない。そもそも反乱軍とは王を信じない州候らが差し向けた兵を指す。即ち、襲撃が無いのであればこの州の州候はあの女王の味方である筈。ならば何故、標的になり兼ねない壇上に女王を置いたというのか。
「……瑛州がこの事態を鎮圧させるためにここへ空行師を寄越せば、それこそ王は蜂の巣になってしまう」
「いや…たとえ偽王だと確信できる証拠が見付かったとしても、景台輔が傍にいる限り標槍は放てない。それに、麒麟にとって血は毒だ。麒麟がいる場所で無闇に血を流す事は流石にしないだろう」
麒麟を膝元に置いているのは民衆を信用させる為、そして反乱軍の空行師に標槍を使わせない為だと、少年は踏んでいる。加えて、彼は先程独自に調べていた。女王と称される者の足元に麒麟が座している理由を。だからこそ彼女の意見に反論を述べることができた。
…だが。
「…そう、麒麟…いや、台輔。私はあの方があの御姿で王の足元に居られる事自体が一番不自然でならない」
「え…?」
思いがけない意見に、六太の話を切り上げるべく挙げかけた手が止まる。おそらく民の口からは聞く事の無いであろう、貴重な疑問。
「君は王宮務めだから知っているだろうけど、台輔は普段人の御姿をしておられる。たとえ民衆の前に出てきたとしても本来の高貴な姿を晒す事は異例でない限り有り得ない。…私は師からそう教わったけど、間違いない?」
「ああ…合ってるけど」
だから、あれは有り得ない。
断言する
りつの口調は強く一切の迷いが無い。その口振りに感心した六太は彼女の顔をじっと見詰めていたが、それで、と口を開いた
りつの問いで我に返った。
「六太の調査はこれで終わり?」
「あ…ああ。その事なんだけど。
明秦は雁に行くって言ってたよな」
「うん」
「なら、一緒に行かないか?おれもすぐに戻らないといけない。調査は取り敢えず終わったし、あとは使…騎獣で帰るだけで」
「?」
今、彼は何かを言い直したような。
りつの疑問を余所に――或いは彼女の疑問を紛れさせるかのように――少年はぼそぼそと小さくなった声量を改め、あまり似合わぬ咳払いを一つすると言葉を続けた。
「…で、どうする?一緒に戻るか?」
「ああ…じゃあ、お言葉に甘えて」
「決まりだな」
よし、と明朗な声で納得の意を示した六太は軽く手を打ち合わせる。一先ず今夜の寝床を確保するべく踵を返すと、広途に向かい歩き出すのだった。