拾章
1.
後日、雇われた二人を含めて、前回と同様合計四人の傭兵で馬車の護衛に当たりながら目的地を目指した。
港へ着くと船で虚海を渡り、目的地である才国国都へ辿り着くまでに十日は経過していたが、警戒は杞憂に終わり、前回のような難事が道中で起きることは無かった。
「……随分と平和でしたね」
「まぁ、そういう時もある。儲けもんだと思っておけばいい」
到着した舎館の裏手から馬車の荷物を手分けして運びつつ、李偃は苦笑する。奇襲に遭わないにしても、ここまで穏やかな旅は極めて稀だという事実を、敢えて伏せながら。
荷物を運び終えると舎館の入口で知人と話し込んでいた露翠に声をかけ、別れを告げた
りつは李偃と共に別の馬車を掴まえて乗り込んだ。目的地は才国東方、巧国行きの船が出ている港だった。
乗り継ぐこと三日。港町へ思いの外早く到着すると、休息を取る間も無く巧国行きの船を捜して歩く。すると幸運にも一時間後に出航予定の船を発見できた。
(急いでいるのは私の為ではなくて、仕事のせいか…)
早足で歩く李偃の背中を追いかけながら懐から旌券を取り出した
りつはそう、ぼんやりと思う。本来ならば揖寧の滞在期間は今日までのはず。それを引き延ばしてもらうのだ、漣国へ帰る予定の日は遅れる上、他の傭兵へ支払う報酬も日増し分高くなってしまうだろう。そう考えるとひどく申し訳ない気がする。
「じゃあ、もう乗りますね」
「待て
明秦。そう急ぐな」
船の桟橋を渡りかけた者の肩を、李偃が慌てて掴んだ。背負っていた荷嚢の中から取り出した小嚢を振り返った彼女の手に握らせると、
りつは手中の硬い感触に目を丸くする。
「李偃さん…これは…?」
「片道の報酬分だ」
「でも、以前の報酬よりずっと多い気がしますが…」
「旦那が気持ち分入れたんだろう。近頃は儲かってるからな」
そんな、と言いかけた
りつは嚢を持つ手を前に出しかけたが、すぐさま李偃によって押し返された。
「これはあくまでも正当な報酬だ。いいから受け取っておけ」
「…はい」
迷った末に頷いた
りつが小嚢を懐へしまうと、それを見た李偃は満足そうに笑い、次いで海へと目をやった。
…ここの海は穏やかだ。あくまでも、目に見えぬ国境までは。
「この赤海を渡れば巧国の港に辿り着く。…だが、今しがた不穏な噂を聞いたから、気を付けろ」
「妖魔が出る…ですか」
元々細い眼をさらに眇めて海を見渡した李偃の潜めた声に、
りつも釣られて声量を抑える。尤も、小声で話したところでこの港では誰もが知る噂であった。
巧国沿岸に妖魔が出没するようになった…と。
「今の巧国は確か、治世五十年の筈だ。そこに妖魔が出るなんて噂が出てるんだ、おそらくは国が傾いているんだろう」
「国が……」
りつはふと、紫秦との旅道中で交わした会話を思い出した。国が傾けば理が傾き、妖魔が出没し、天災が増えて地が荒れ、人の心が荒れる。嘗ては漣もそうであったが、新王の登極によって国は徐々に立ち直っていったのだと。
「ああ、そうだ。絶対に慶へは行くなよ」
「え?」
「慶国は今、王が不在でな。荒れに荒れて酷い有様だと聞いた。そんな国に行けば妖魔に食われるのがおちだ」
「……確か、慶は海客が多く流れ着きますよね。もしそんな酷い中で漂着したら、」
「確実に妖魔の餌食だな」
断言した李偃の言葉に
りつは背筋を粟立てた。…最初こそ妖魔に襲われたが、漂着した国が比較的平和な国で良かったと心底思いながら。
「まぁ、精々足掻いてこい」
「足掻いて、ですか」
怪訝気な顔で復唱した
りつを、李偃は呆れ顔で見下ろした。その態度はけっして、彼女に対するものではなく。
「俺は前に言った筈だ。あれは心が変わらねぇとどうしようもねぇんだと。お前が言い聞かせて、どれだけ変わるんだかな」
来た道を振り返った男の遥遠を見詰める姿を、
りつは複雑な表情で見上げた。
視線の先は揖寧から少しばかり離れた地へ。
…彼女はまだ、耐え続けているのだろうか。
りつが李偃と別れを告げて乗り込んだ船は予定通り一時間後に出航し、才国の地に背を向けて赤海を進み始めた。
赤海は西を才国、南を奏国、東を巧国、北を金剛山に面した内海だった。とはいえ面積は一国分とほぼ等しく、才国から巧国の港へ着くまでに最低三日は掛かる。
その三日の船旅の間、
りつは一先ず船内で次の経路について考えようと、部屋の片隅に腰を落ち着かせると地図を眺め続けていた。
雁国へ船で向かうのならば、一度乗り継ぎをしなくてはならない。それも、巧国の北側に面する青海沿いの港までは馬車か徒歩で向かい、そこから雁国行きの船を探すのである。
一人旅に対する不安は然して無かったが、
りつの中で閊えたのは出航前に李偃と交わした噂の内容だった。
――巧国沿岸には、妖魔が出没する。
その噂が本当ならば、沿岸沿いに旅をするのは危険、という事になる。かといって比較的安全であろう国都を通って行けば三月と倍以上の旅費が掛かってしまう。
早々に崩れそうな予定をどう立て直すべきか―――そう、一人熟考に浸っていたときだった。
「おい、聞いたか?慶に新たな王様が起ったんだってよ」
「そりゃあ本当か…?」
ぼそぼそと聞こえた会話の内容に、
りつはふと頭を上げる。話の元は近場に座る男達からだった。
(新王…?でも…李偃さんは王が不在だと言っていたのに…)
王の不在によって荒廃が進む国。そこに新王が起った。それはいつ聞いた噂話なのだろう。
気になった
りつは地図を畳んで、僅かに体を男達のほうへと寄せる。すると話の輪へ突如割って入る声があった。
釣られて声の上がった方を見ると、恰幅の良い女性が男達の元へ歩み寄っていた。
「ああ、本当だとも。それを聞いたから、あたしは慶に帰ると決めたんだもの」
「でも、まだ妖魔がいるのでは…?」
「王が起たれたんだ、それもすぐにいなくなるさ」
自信に満ちた女性の言葉につい口を出してしまった
りつであったが、果たしてそうなのだろうかと疑問に思う。
王が起ったからといって、すぐに理が戻るわけではない。まして直後では、妖魔の数は然して減少していない筈だ。そんな中で帰るのは危険ではないだろうか。
男達の中には女性の言葉に頷く者もいれば首を捻る者もいる。
りつはそんな彼らの様子を眺めて思わず眉間に皺を寄せていると、女性が僅かに首を傾げた。
「なんだ、あんたも慶へ行くのかい?」
「え?」
「なら、一緒に行こうじゃないか」
朗らかに笑う女性の誘いに
りつは迷う。数時間前に別れた李偃の言葉が脳裏に甦っていた。慶へは行くな、と。
彼がそう忠告した理由は、荒廃の臭いを嗅ぎ付けて出没する妖魔の存在があるからだ。妖魔と遭遇する危険を伴う旅になる。
「あんた、剣を持っているね。そりゃ護身用かい?」
「いえ、腕前はそれなりだと自負していますが…」
「妖魔と戦ったことは?」
「何度か。以前は傭兵もしていましたし」
「傭兵!なら尚更、一緒に行ってくれると助かるよ」
心なしか嬉しそうな女性の続く誘いに、
りつは内心苦笑を零した。
目的地が一緒なら同行した方が安全だ。同行という形であれば雇う金も必要無い。彼女の“助かる”という言葉は、そういう意味も含んでいるのだろう。
女性のちょっとした下心を酌んで複雑な気持ちになった
りつであったが、檸典が言っていた“他国の見聞”という方向で見れば行っても良いのかもしれない。
そう考え直した
りつは、どうだい、と再度問うてくる彼女にややあって、軽く首肯するのだった。
2.
航海は順調に進み、懸念していた妖魔も上空には影すら無く、巧国の港に到着したのは予定通り三日後のことだった。
つい先日目にした才国の港はしっかりと整備されて綺麗だった印象が強い。その所為だろうか。甲板から入港を見守る
りつの眼に映る巧国の風景が、ひどく廃れているように見えてしまうのは。
停泊する船も港を歩く人も少ない。整備されたのも随分前なのだろう、船から降りた先、階段や港の縁が所々欠けていた。加えて、漂う雰囲気がやけに重く感じるのは港を歩く衛士の姿がやたら目に付くせいだろうか。
まるで何かを警戒しているかのようだと、
りつは荷嚢を背負い直しながら怪訝気に眉を潜めた。
「…、…やはり違いますね。才と」
「妖魔が出るなんて噂が流れていれば、色んな場所が荒れるのは当然だね。やっぱり傾いてるんだろうさ」
りつに続いて下りてきたのは、共に慶国へ行こうと言い出したあの女性だった。彼女もまた港を一望すると、衛士の耳に入らないよう耳打ちをする。ええ、と
りつは頷く一方で、衛士の厳しい視線の先にどこか違和感を覚えていた。
彼らが警戒を向けている先は妖魔が襲来するであろう上空ではなく、船から降りて来た客だったからだ。
「…?」
「そういえば、名を聞いてなかったね」
「ええ…
明秦と言います。あなたは?」
「あたしは禎紀。息子が慶で兵士をやっているんだ。とりあえず、帰ったら息子に会いに行こうと思って」
「兵士ですか…荒れている国で兵士を務めるのは大変だと、以前に知人から聞きましたけど」
りつが不安げに眉を潜めると、彼女の感情を酌み取った禎紀は困ったように笑ってみせた。
「ああ。だから本当は国にいてやりたかったんだけどね…」
「…何かあったんですか…?」
「前の王様が変な命令を出したのさ。慶国から女は出て行けって」
「…そんなおかしな命令が、国に出されたんですか?何の為に…?」
さぁ、と肩を大袈裟に竦めた禎紀は苦く笑う。
「王様の…特に慶の女王は何を考えてるんだか」
「女王…?」
「慶国は女王に恵まれないのさ。懐達って言葉があるのを知っているかい?」
「かいたつ?」
耳にした覚えの無い単語に
りつが首を傾げると、禎紀は呆れ気味な顔で言葉を続けた。…僅かばかりの羨望を、声音に込めながら。
「昔、達王って景王様がいてね。その方は三百年も国を支え続けたんだ。その豊かな時代が懐かしい。女王はこりごりだって意味を篭めて、懐達って言葉が使われているんだよ」
禎紀は隣国のように豊かな慶を眼にした事が無い。生まれてこの方、王の不在と暴君となった女王の所為で荒廃した地ばかりを見続けてきた。それでも生まれた国を捨てず、新王が立つ度に期待と希望を持って生き続けてきた。だからこそ、誰かの口から懐達の言葉を聞く度に不安と落胆を抱く。できることならば聞きたくはないし、口にしたくもない。
そう、苦々しい気持ちに顔を歪めた禎紀を、
りつは内心複雑な気持ちで見詰める。
「禎紀さんも、新王は男性がいいと思っているんですね」
「勿論さ。慶の女王は国を荒らす。三代続いて、それがはっきりしたんだから」
りつと禎紀は港付近で見付けた馬車に乗り込み、さらに何度か乗り継いで北方、巧国淳州にある高岫山を目指して向かっていた。
うとうとと眠りかけている禎紀の隣で、馬車に揺られながら胸に抱いた荷を抱き締めた
りつは、最初こそ風景に目を向けていた。だが、道中立ち寄った町で見た、これまでに一番荒れた郷の光景を思い出す度、胸が痛んで目が向けられなくなる。
所々欠けた郭壁。扁額も門闕も砂埃が纏わり付いて、潜った先に広がる町に活気は無い。悄然とした住民の疲れた顔が、閉じた瞼の裏に浮かんでくる。
さらに酷かったのは族里の焼け跡地付近を通過したときだ。疫病が出たんだ、と誰かが零した呟きに、
りつは絶句した。疫病を拡散させない為とはいえ、里ごと焼き払うなど。
焦げ付いた臭いが風に運ばれてくる。それを吸い込んだ瞬間、
りつの脳裏には唐州を出る前に言われた檸典の言葉が甦っていた。
―――お前みたいな甘ったれた考えを持ってる奴は、国を出て現実を見た方が良い。
その通りだと、今なら頷ける。同時に行くなという李偃の言葉を裏切ってしまった事を、
りつは不謹慎ながら良かったと思ってしまった。
何故なら、生きていく為には“どの国もいつかは荒れる”という現実を知っておくべきなのだから。
(目を逸らすな…これが、現実だ)
佩刀する剣の柄にそっと触れて、目を閉じる。深呼吸をひとつ。それからもう一度ゆっくりと開いた瞼の向こうに、豊潤な緑は無い。ただ荒れた地ばかりが広がっていた。
馬車を乗り継いで向かえるのは巧国と慶国の国境に連なり聳える高岫山の手前までだった。
麓に広がる高岫の街へ入ると、馬車を降りた禎紀は長時間揺られて痺れかけた腰を叩きながら、遅れて降りたりつを連れて歩き出した。街を回り、食料と水、それから
りつの為に風除けの外套を調達すると、いよいよ国境越えの為に子門へと向かう。
高岫山へ続く道の手前に設けられた門で衛士による旌券の検めを受け終えると、その先に続くなだらかな道を見上げる。皆慶へ帰るのであろう、既に登り始めている者達の行列によって埋まった坂道を。
「ここからは歩きだよ」
「この山を…歩きで越えるんですか?」
「ああ、勿論だとも」
その為に最後に寄った町で食料や水を調達したのだと、
りつは今更ながら理解して溜息を吐く。山越えの経験はあったが、果たして何日掛かるのかを考えると、ほんの僅か、足取りが重くなった気がする。
行くよ、と気合を篭めて告げた禎紀の歩き出す姿を、
りつは苦笑を零しつつ眺めてから歩を進め始めるのだった。
麓こそ木々の深緑が目立っていたものの、いざ登り始めると次第に緑が失せていく。踏み均された地は硬く、足を擦れば砂埃が立つ。足元を見れば
履が砂埃を被って薄茶色に汚れてしまっていた。
集団に混ざって歩き始めた禎紀と
りつはやがて風景にも見飽きると、疲れを紛れさせる為に他愛ない会話を交わしていたが、話題が尽きると行き交う言葉も減少していく。
休み休み歩くものの、半日も経てば会話も完全に途絶え、先を行く列の歩調も次第に遅れていく。時折膝が鈍い痛みを訴えていたが、ようやく山頂を越えたため、緩やかな下り坂になったのが幸いだった。
額に浮かぶ汗を拭った
りつはふと空を振り仰ぐ。
高岫山へ足を踏み入れてから初めて見上げた頭上に広がるのは、西から射す淡い斜陽。この時期、夕闇が押し寄せるまでにそう時間は掛からない。
早い日暮れを予想しながら西陽のほうを一瞥した
りつは、視線を頭上へ戻そうとした。その視界の端で、蠢く異物。
視力は優良なほうだと自負している
りつが、その異物に向かって不審げに双眸を細めた。空に浮かぶ黒点。大きさからして鳥ではない。
だが――左右対称の蠢きが羽搏きであると覚った瞬間、
りつは思わず前方を行く連れの袖を強く引いた。
「禎紀さん、移動しましょう」
「え…急にどうしたんだい?」
「上空に妖魔がいるんです」
りつができる限り冷静に告げると、禎紀は慌てて上空を振り仰ぎ見、顔色を豹変させたものの、幸い悲鳴や驚きの声を上げる事は無かった。
疎らに生えた木々の下に禎紀を移動させた
りつは念の為に佩刀していた剣の柄に手を添えながら上空を凝視し続ける。弧を描いて飛ぶ様はさながら眼下の獲物を選別する鷹や鷲のよう。
…しかし。
「…降りて来る気配が無い」
一向に鮮明にならない黒点の降下する気配が無い様子を不審に思い呟いた
りつの眉間に皺が寄る。何かを躊躇っているのか、それとも。
そんな彼女の疑問を晴らしたのは、前方に目にしたものを指差した禎紀の言葉だった。
「ああ、あれがあるからだね」
「?」
あれ、と指差されたものを
りつもまた目にする。それは道の片隅に佇んでいた。
周囲の木々よりも背の低い、白肌の木。葉は付いておらず、地に向かい垂れる枝は柳のようだった。枝の所々には淡黄色をした拳大の実が陽光に照らされて艶やかに見える。
「あれは…野木?」
「そう。里木や野木が見える場所じゃ妖魔も人を襲わない。幸いだったね」
上空にいればどうしても視界に映る野木の所為で妖魔が襲撃できない。
安堵に顔を綻ばせた禎紀の、隠れていた木々から離れる様子を横目で確認した
りつはしかし、頷きながらも剣の柄に手を添えたまま再び道を歩くのだった。
3.
慶国楊州は巧国との国境である高岫山に面する州である。今は亡き王より任命された州候が統治監修に務め、土地と民に目を行き届かせている。国へ戻る民の護衛は国境に面する州の務めだった。
りつと禎紀は野木から少しばかり進んだ先で高岫山を越える民の護衛として派遣された州師の兵と遭遇し、兵士に囲まれながら下り坂を進んでいった。
高岫山を降りきった旅人の列が疲労を色濃く浮かべながら麓の街の門闕を潜ったのは日暮れ前のこと。街中に入り、ようやく解放されたと言わんばかりに詰めていた息を吐き出したのは、けっして
りつだけではなかった。
「…疲れましたね。ずっと監視されていたみたいで」
「本当だよ。お陰で肩が凝っちまったさ」
気怠そうな声を上げながら肩を軽く叩く禎紀の姿を見れば、
りつは思わず苦笑を零した。突き刺さるような視線と若干の威圧感は確かに気になったが、州師が遭遇した妖魔を倒してくれたお陰で此処まで無事に街へ来られたのだ、あまり文句は言えないだろう。
「そういえば、息子さんがいるのは建州でしたね」
「ああ、そうだよ。此処からは麦州を通って建州に入るからね」
「分かりました」
馬車を上手く乗り継ぐことが可能ならば建州までは早くて半月。然程長い旅にはならないように思えた
りつは、禎紀の説明に相槌を打つ。
(…それにしても)
禎紀から視線を外すと、青鈍色の双眸を細めて町並みを一望する。やはりどうしても目についてしまうのはその荒廃ぶりだった。
最後の舗装整備から随分歳月が経過しているのか、地面は往来する人の波によって凹凸ができてしまっている。その割には途を行き交う住民の姿は疎らで露店も無い。並ぶ民居の壁や塀は所々崩れていて、瓦礫が片隅に掃き纏められていた。その瓦礫にうっすらと積もる、砂埃。
閑散とした町とどこか鬱然とした住民。それらの様子を凝視した
りつは、最中に愁眉を寄せた。途の右手に建つ里祠には新王の選定を報せる龍旗が風に靡いている。にもかかわらず、喜びや安堵の色を浮かべているのは国外から戻ってきた慶国の民ばかり。
(何よりの吉報が掲げられているのに…この反応の差は一体…)
奇妙な光景を目の当たりにして困惑を隠せない。そんな
りつの肩を禎紀が軽く叩いた。
「ほら、噂通りさ」
「え?」
「龍旗が揚がっているんだから、間違いなく新しい王様が立たれたんだよ。…今度こそ、いい御方がね」
はためく龍旗を見上げた禎紀の表情は、共に高岫山を越えてきた者達と同様穏やかだった。嬉々とした声音も自国の吉報を目にしたのだから当然だ。…だが、それでも
りつは憂いを拭えなかった。
禎紀の最後の言葉が、自身に言い聞かせる為の呟きに聴こえてならなかったのである。
町中を探し回ってようやく見付けた北方の郷行きの馬車に乗り込んだ
りつと禎紀は舗装の行き届いていない道を走る馬車の振動に耐えながら次の郷を目指した。
凹凸の多い途を長時間揺られて思いの外響いた腰を労りながら、到着した郷で一泊した。翌早朝には次の馬車を探して乗り込み、それを繰り返して北方へ向かうこと三日。
緑少ない景色にも飽き始めたころにようやく見えてきたのは楊州と麦州の州境。馬車の中では客の安堵の息が重なる。
偽王の噂を耳にしたのはその矢先のことだった。
「…その噂、信じたくないんだけどね」
麦州産県。その県都を囲む郭壁に沿って馬車は停車した。
郷都よりもずっと小さな町の、閑散としながらもどこか穏やかな印象を受ける景色をぼんやりと眺めながら、馬車から慎重に降りた禎紀はそうぼそりと呟いた。禎紀が微睡みに浸っている間に
りつが隣合わせになった客から聞いた噂だ。
噂を伝えたのは今しがた。期待や希望が膨らんでいただけに、半信半疑になった彼女が零した呟きには不安が滲む。
りつは里祠で揚がっているであろう旗を見に行こうと誘ってはみたものの、禎紀は怖いという一点張りで、先に舎館の一室を借りるとすぐさま房室へ入ってしまった。
やむを得ず
りつ一人で里祠を訪ねたが、足は自然と門の前で止まり、凝視せずにはいられなかった。
里祠に掲げられ靡いている筈の龍旗が、何処にも見当たらなかったのである。
「…やっぱり、噂は本当なのか」
「何の噂だ」
どきりとした。猜疑を含む低い声を耳にして初めて、
りつは後方に人の存在がある事を知った。決して気を抜いていたわけではない、にもかかわらず。
片足を引いて振り返ると、濃紺がかった髪の男が小首を傾げて
りつを見下ろしていた。上背高く偉丈夫であったが、不思議と威圧感は無い。纏っている皮甲は多少違いはあるが、漣国で利紹や檸典が纏っていたものと似ている。
「…慶国に立った新たな王が、偽王だという噂です」
「噂ではない。本当の話だ」
男は表情を硬くして断言する。麦州の里祠は真実を示しているのだ、と。
これに対して
りつは怪訝そうに柳眉を潜めた。
「しかし…楊州ではどの町の里祠にも龍旗が揚がっていました」
「それは楊州候が偽王を本当の王だと信じたからだ。今里祠に龍旗が掲げられていないのはおそらく、紀州と麦州だけだろう」
「そんな……」
りつの肩が僅かに落ちる。この件を禎紀が知ったら落胆するだろう。建州には龍旗が揚がっているのだろうから、いっそ聞かなかったふりをしたまま建州へ送ろうか。
そんな考えが一瞬脳裏を掠めて、頭を振った。…それで禎紀が内乱に巻き込まれてしまったら、教えなかった事を後悔するに違いない。
苦渋の色を浮かべた面を僅かに俯かせる
りつに、男は再び首を傾げた。
「お前さん、慶の人間か?」
「いえ。あなたはこの州の…兵士のようですが」
「ああ、その通りだ」
頷いた男を見上げる
りつは僅かに目を細めた。普通、兵士に与えられる皮甲は男が纏うそれよりもっと簡素なものの筈だ。おそらく師帥か……或いは将軍か。
と、視線をふと男から外す。県城が近い所為だろうか、随所に兵の姿を見受けたが、一様に硬い表情で周囲を見渡し、或いは眼前の男に――或いは
りつに――目を向けている。……まるで、何かを警戒しているかのように。
「もし慶を見聞しに来たというのなら、今は止めておけ。暫くは内乱で荒れるだろうからな」
「そのようですね。人を送ったら、雁へ抜けるつもりですのでご心配なく」
人、と呟いた男に
りつは頷く。彼の視線が一刹那、自身の腰元に提げられた剣へ落ちたのを確かに見た。
「…用心棒でもしているのか」
「いえ、偶然慶へ帰るという方から一緒に行こうと誘われただけです。これは護身用ですよ。建州までまだ距離もありますし」
「まぁ、妖魔も出るから必要だろう。……それより、今建州と言ったな」
「?ええ」
男の顔が急に険しくなる。付近にいた兵士数人が怪訝な表情で男の背に視線を送る様子が
りつの視界の片隅に入って、急に漂い始めた不穏な空気に、嫌な予感がした。
「その連れに、暫くの間麦州に滞在してもらうよう説得してみてくれないか。その方が身の為だ」
「身の為…?一体どういうことですか」
「建州侯は既に偽王側についている。行けば巻き込まれる可能性があるかもしれん」
――建州が、偽王軍側に。
男の険相と低い声音が得た情報の危険性を物語る。偽王が建州の隣――征州に滞在している現状を補足として聞けば尚更、行かせたくない理由が理解できた。
…だが、
りつは苦い顔のまま頭を振る。
「多分、彼女は渋ると思います」
「何故そう思う」
「連れが建州へ向かうのは息子さんと再会する為……その息子さんが、建州の兵士なんです」
もしかすると彼は既に偽王軍からの召集を受けたかもしれない。建州へ向かったとしても会えない可能性がある。…だが、息子の安否を気に懸けている禎紀のことだ。この情報を聞けば麦州滞在の話に頷いてくれるとは思えなかった。
「兵士か…確かに、それは渋るだろうな」
「ええ……出来る限り説得はしてみます」
「分かった。明日の朝までは支錦に滞在しているが、それまでに答えが出なければ府第を訪ねてくれ。事情を説明すれば、滞在先に案内してくれるだろう」
「…分かりました」
頷いた
りつは男に一礼と共に別れを告げると、踵を返した。
再び途を歩き出した足取りは心なしか重く、面には憂いを湛えたままで。
――最初にどう切り出そう。
――上手く説得できるだろうか。
――本当は、落胆などさせたくないのに。
確実に落ち込むと分かっていながら話を切り出さなければならない。そう考えると胸が締め付けられるように痛んだ。傷付けない言い回しも思案してみたが、結局伝える事実が変わらないのだ、結果は些少も変わらないだろう。
そんな苦渋の思考が堂々巡りすること暫し―――ふと我に返り顔を上げると、いつの間にか舎館の正門が間近に見えていた。
「おかえり
明秦。……、どうしたんだい?そんな暗い顔をして」
悶々としながら房室の扉を開いた
りつを出迎えたのは、禎紀の存外明るい声音と首を傾げる様だった。
「…禎紀さん」
「せっかくここまで来たんだ。あと数日の辛抱だよ。…もうすぐ、息子に会える」
「……」
「ほら、疲れた顔をしてないで、今日はお休み。明日は早く出るからね」
房室前で別れる手前の、面に満たしていた不安は一体どこへ追いやったのか。小卓に広げた荷物を手に取りながら背中を向ける彼女の様子に、
りつは違和感を覚えて眉を潜めた。
「建州まで、あと何日なんですか」
「上手く馬車を乗り継げば、三、四日ってところかね。なに、今までの旅に比べたら短い距離さ」
「…そう、ですか」
禎紀の返答にややあって頷いた
りつはしかし、すぐさま異変に気が付いた。
――視線が合わない。…否、合わせようとしない。
顔を背けながら話をする者の大半は嘘偽りを吐くときか、面に表れる感情を隠すときだ。…少なくとも両親が嘘を吐く際にはそうであったと、不意に苦い記憶を掘り起こした
りつはそうして確信した。
…彼女の、現実逃避を。
◇ ◆ ◇
「さ、早く自分の寝床に行きな」
「ええ。ですが、その前に一つ聞いて下さい」
「明日の行き掛けに聞くよ。あたしももう眠いから、」
「今回現れた新王は偽りの王でした」
避けていると分かっていながらも話を直球に切り出した
りつの断言に、禎紀の手が止まる。指先が、震える。
そこでようやく振り返った禎紀の顔は、精一杯繕おうとした笑顔を繕い損ねて、強張りかけていた。
…その先に変化する表情は十分予想できている。だが、それでも
りつは一度切り出した言葉を止めようとしなかった。
「偽王だと――麦州の州候がそう仰っていたと、麦州師の兵から聞いたんです」
「…偽王……」
「その偽王軍側に、建州候がついてしまった事も」
禎紀の強張った表情が瞬く間に崩れていく。みるみる内に滲んだ悲嘆の色は心中を物語っていた。
彼女の反応を予想して身構えていた筈の
りつであったが、いざ彼女の嘆く様を目前にすると思わず言葉を喉元で詰まらせる。僅かに開いた口から続きを発そうとして、不意にそれを遮る声があった。
「だから、今は行かない方がいいって言うんだね」
「…ええ…事態が終息するまでの間、巻き込まれない為に麦州へ留まってほしいとの伝言も預かってきました」
国にいる限り内乱に巻き込まれる可能性は否めないが、少なくとも偽王軍側についた州へ向かうよりは安全な筈だ。先程別れた男の言葉を思い出した
りつがそう補足すると、禎紀は不安げに視線を落として緩く作った拳を顎に添える。
「けど、滞在にもお金が掛かるし……息子に会いに行ってから避難しても遅くないんじゃないのかい?」
「滞在先は用意してくれるそうです。息子さんと再会する前に巻き込まれたら、元も子も無いじゃないですか」
「それは…そうだけど…」
保身と息子の安否確認。無論、どちらも大事であることは理解している。禎紀が躊躇う気持ちを酌もうと努めているからこそ強くは言えなかったが、
りつの訴えは真摯だった。
「…お願いです。今は自分の身の安全を優先して下さい」
折角此処まで旅を供にしたのだ、できるならば怪我をしてほしくない。そんな
りつの切実な願いが退かれる事は無いと判断したのだろう。肩を落とし、僅かに背中を丸めた禎紀は真横に置かれていた榻へ力なく腰を下ろした。
「……折角、此処まで来たのに」
落胆の色濃い呟きが室内に小さく響く。
「女は国を出て行けと言われて、仕方なく出て行った。でも国を出れば他国からは浮民扱い。毎日が辛かったよ。……ようやく自分の国に帰って息子に会えると思ったのに…偽王だなんて…。どこまでついてないんだろうね、この国は…」
「禎紀さん…」
慶国は短命の女王が三代続いたその間、荒廃と束の間の復興を繰り返し、国民はそれに耐えてきた。そして次もまた女王――それも偽王とくれば、民の落胆や不満はどこまで膨れ上がっているのだろう。
考え、憐憫の眼差しで禎紀を見下ろしていた
りつが無意識に顔を顰めると、のろのろと顔を上げた禎紀は微かに笑みを浮かべた。…双眼には、羨望の色を浮かべて。
「あんたの国はきっと荒れた事が無いんだね。だから簡単に避難しろと言える」
「それは……」
否定はできなかった。
りつは故郷が荒れた事も故郷からの逃亡も経験した事が無い。流された漣国では荒廃の爪跡を、その一端を目にしただけなのだから。
「…そうかもしれません。私の国は、私が生まれたときには既に平和だったので」
「だったら、離れた家族の安否を心配した事だって無いんだろう?」
「…ええ」
「なら、分かる筈が無いさ」
この国の人達やあたしの気持ちなんて。
そんな彼女の胸の内を聞いた気がして、
りつは思わず視線を落とした。…どれほど理解しようと努めても、結局は境遇だけで決め付けられる。突き放されたような疎外感がひどく虚しかった。
「そういえば、まだあんたの国を聞いていなかったね」
「蓬莱です」
「……え?」
視線を逸らしたままの
りつがぽつりと呟くと、禎紀が呆気に取られたように数度瞬いた。
「倭国です。私、海客なんですよ」
そういえば一度も明かしていなかった、と。頭の片隅に浮かんだ考えはしかし、次の言葉にならなかった。
対面する者の表情が瞬く間に強張っていく。双眸に宿った厳しさには見覚えがあった。…そう、それは嘗て漣国で初めて傭兵業に就いた際の、道中に見た。
「…禎紀さん?」
「道理でね…分かる筈が無いんだ、海客になんか」
海客。その単語に籠められたのは紛う事無き軽蔑。まるで汚い物を見下すような目付きへ豹変した禎紀を眼前にして、
りつは知ってしまった。彼女の海客に対する差別意識を。
愕然とした
りつの前に、小さな嚢が投げ落とされた。金属音が僅かに立って、中身が銭である事は容易に察しがつく。
「それを持ってとっとと出てお行き」
「!待ってください、禎紀さん」
「これ以上顔を見せるんじゃないよ。私は海客が嫌いなんだ。…親の腹を裂いて生まれ出た子なんて…穢らわしい」
椅子に腰を下ろした禎紀は
りつの制止の声にも耳を傾けずに背を向けると、ぼそぼそと零したのは侮蔑だった。小さな声、だがそれは確かに
りつの耳に届いて、刹那。
彼女がこれまで禎紀に対して築き上げてきたものが、胸中に抱いていた思いが、音を立てて崩落していく。
「誰も、生まれ方なんて選べない。海客になんか?じゃあ貴方に海客の何が分かるんだ…何を分かった上で侮辱している」
「分かるわけなんてないさ、海客の事なんか。…どうせ災厄しか運んでこないんだ。だから前の王様が海客の差別法を作ったんだろう」
「差別法…?それで?」
海客は災厄を招く。そんな迷信を鵜呑みにして差別された事がひどく憤ろしくて、込み上げる激情が力を籠めた握り拳を震わせる。
「…差別法があるから差別する。そんなものは人を正面から見る気がないだけの言い訳だ。…それに、海客が災厄を運ぶなんて噂は他の国じゃただの迷信に過ぎない。信じているのは、ほんの一部の人間だけで」
「説得の為だったらどうとでも言えるだろうさ。…早く出て行きな。海客が一緒に来ただなんて、故郷じゃ口が裂けても言えないからね。全く、冗談じゃない」
りつは終始向けられたままの禎紀の背中を暫く睨み付けていたが、やがてそっと肩を落とした。
彼女が一番気に懸け守ろうとしているのは故郷での体裁だ。ならば、たとえ此処で禎紀自身の海客に対する考え方が変わったとしても別れを告げられるのは必至なのだろう。
悲しい、と思う。周りが差別するから同じように差別する。そうしなければ爪弾きにされるから。
そうして周りに流されている彼女へ憐憫を抱けば、心底から沸いた憤りはいつの間にか治まっていた。
――関係修復は、おそらく無理だろう。
「伝える事は伝えたので。…では、失礼」
後は禎紀自身の判断に委ねるしかない。そう考え、僅かに丸められた背中に向かい深く一礼した
りつが最後に禎紀の顔を目にすることは無く。
荷を背負い直すと踵を返して房室を出て行く。その手前――扉を閉め終える直前、彼女が振り返ったような気がしたが、気のせいだと心中に言い聞かせながら廊下を歩き出すのだった。
舎館を出た
りつは、人波こそあるがどこか寂しい町並みを目の端に入れながら途を過ぎると、目当ての馬車を探して乗り込んだ。向かう先は北方――麦州師の男から、巻き込まれるから止めろと散々言われた、偽王のいる征州だった。
高岫山を越えて雁へ入るにはどちらにしろ征州を通らなければならず、偽王がいるであろう征州の州都を避けるように経路を選んで馬車を乗り継ぎ、三日後には雁国との国境である高岫山の手前へ無事に辿り着く事ができた。
休息する間も取らず、
りつは麓から雁国へと続く道を眺めた。…二度目の高岫山越えを未だどこか晴れない気持ちのまま始めようとしているせいだろうか。一度目には無かった、道が随分と長く見える感覚。高岫山の山頂、慶国と雁国の国境に跨がる街――巌頭で一泊する予定でいたが、その道程すら遥遠に思えてしまうのは。
(そういえば…言わずに来てしまったな)
州師への伝言を忘れた事にふと気が付いて振り返るが、緑の乏しい途にあるのは疎らな旅人の姿ばかり。
州師の男は既に州城へ戻っただろうか。…そして、彼女は故郷か麦州か…選んだ行き先に到着できただろうか。
心配までには至らない、漠然とした疑問を抱きながら視線を戻すと、緩やかな坂道を歩き出す。前方を歩く旅人の荷物を負った背中はどこか寂しげだった。
黙々と足を進めて、どれほど歩いた頃だろうか。高いはずの陽はいつの間にか強風に運ばれてきたであろう雲で翳り、細かな砂利が風に飛ぶ。
僅かに悪化した視界の中、風除けの布を被った
りつは徐々に狭くなりつつある道を眺めながら歩いていると、ふと前方から歩いてくる人々の姿に目が留まった。
少しばかり長さのある列が纏まって歩いてくる。一団と距離を縮め、すれ違えば分かる老人や女性の多さが、
りつの脳裏に嫌な情報を思い出させる。
――慶国、女性国外追放令。
王の崩御によって命令は解除され、国外に追放されていた女性達は他国へ逃げていた者達と共に少しずつ帰ってきているという。この一団もまたそうなのだろう。
そう考えた矢先、
りつの側を少年がすれ違った。歳は十四、五ほど。陽や風塵除けの為か、淡い薄紫の布で頭部を覆い隠しているのが印象に残る。
(あんな子供まで逃げていたのか…)
少年と話している初老の女性は母親だろうか。だとしたら、親子で雁国に逃げたのか…。
額に浮かぶ汗を拭いながら、過ぎていく一団の背を振り返る。彼らはこれからどの州を目指すのだろう。故郷へ足を向けるのだろうか。…禎紀のように。
そう、考え僅かに視線を遠退かせた直後だった。
上空を舞う、けっして風塵ではない黒点を捉えたのは。
異物に向かって不審げに双眸を細めた。空に浮かぶ黒点。星などではない。それは徐々に大きさを増していく。…蠢くような動作は、羽搏き。
「空から妖魔が来るぞ!!」
正体を察して人の波に向かって叫声を上げた途端、周囲の旅人から悲鳴混じりの喧騒が上がった。上空を見上げて指差す青年、呆然とする女性、恐怖に顔を引き攣らせる初老の男。混乱に陥り始める中、旅人らを一見した
りつは再び急接近しつつある妖鳥の姿を見上げる。体躯の大きさは人の約二倍――大型の妖鳥だった。
「道の中央には立つな!妖魔に狙われるぞ!!」
道端に避けろ、と旅人に向かい必死で叫ぶ声に気付いた者達は道の端へ散り散りに逃げていく。それでも恐怖に固まった者達を道の隅に追いやり、振り返った
りつの目に留まったのは、空を見上げる少年の姿。同時に獲物を掴み掛からんと急降下する妖鳥の姿を横目に入れた刹那、
りつの背筋に戦慄が走る。
――間に合わない。
それでも駆け寄ろうと地を蹴った足を必死に駆けさせ、咄嗟に剣の柄を握った矢先、妖鳥の羽搏きによって生じた旋風が少年の体を吹き飛ばす。それが幸いして、妖魔の爪から間一髪逃れる事ができた。
周囲から上がった悲鳴を耳に、獲物を取り損ねて上空に舞い上がった妖鳥を目の端で捉えながら、ごろりと転がった少年の元へ駆け付ける。爆風が掻き消えないうちに、上空を仰ぎ見た少年へ手を伸ばして。
りつの指先が届いた、その瞬間。
突如真横から突き飛ばされるような激しい突風に襲われて、
りつの体が横転する。
反射的に地へ手を着き、すぐさま上体を起こしたものの、砂埃を巻き上げて荒れる突風の中では薄眼を開ける事しかできなかった。
…だが。
その砂嵐の中、
りつは確かに見た。
上空へ舞い上がりかけた妖鳥の首に喰らいつき、砂嵐に紛れて姿を消してしまった獣の姿を。
幻覚ではないかと
りつが自身の目を疑った直後、急に突風が静まった。そこでしっかりと眼を開いて上空を仰ぎ見たが、相変わらずの曇天が広がるばかり。…黒点は、無い。
ひとまず危険が過ぎ去ったのを確認した
りつは、前方で未だ尻餅を着いたままの少年の元へと近付いた。
「君、大丈夫?」
「あ…うん、おれは大丈夫」
少年の意外にも怖じたふうの無い紫紺の双眸を覗き込んだ
りつは、安堵の溜息を吐いた。子供ながら妖魔を前にして随分と胆の据わった様子に感心を覚えながら。
「……新しい王様が立たれたのに、まだあんな妖魔が出るなんて…」
「でも、立ったばかりじゃないか。そのうちいなくなるだろ」
怪我人の有無を確認するように見渡した
りつの耳が、ぽつぽつと戻り始める旅人達の声を拾う。不安に駆られる者と、新王への期待から不安を振り払う者の声。
違う、と
りつは喉まで出かかった答えを飲み込んだ。
(……いなくなる筈が、無いんだ)
心が粟立つ。真実を知っているのに答えないのは彼らが征州へ入るからだ。そこで偽王、と一言でも口にしたが最後、反逆罪によってその場で首を刎ねられるだろう。そう考えて、唇を噛む。
彼らの保身を考えた上で口を噤むとはいえ、自分が薄情な人間になったような気がしてならなかった。