玖章
1.
縹色を薄めたような晴天の下、一隻の船が虚海を北東に針路を取って進む。船体を叩く波は振動となって船縁に伝い響き、その度吹き上げてくる潮風の心地良さから船縁で組んだ腕を乗せ、さらに顎を乗せて、
りつはそっと瞼を閉じた。
波音に混ざり聞こえてきた乗客の穏やかな会話を背に、柔らかな眠気が少しずつ、意識の端を侵食していく。
このまま眠ってしまいたい。そう思ったときだった。
「随分と気楽そうだな」
真後ろから聞こえた男の声に文字通り飛び上がった
りつの眠気は何処へやら。慌てて振り返った彼女の目の前には、腰に手を当て僅かに首を傾げる李偃の姿があった。
別段非難しているわけではない様子から一先ず胸を撫で下ろすと、ゆるりと頭を振る。
「実は、船に乗るのは初めてなんです。昔から乗ってみたくて」
「船なら蓬莱にもあっただろう」
「私は山育ちでしたから。船に乗るどころか、海は一度しか見た事が無いんですよ」
幼い頃の記憶には家族旅行という出来事自体が存在しない。友達と遊びに出かけるとしても、遠出を母親が許さなかったために海へ遊びに行く事は終ぞ叶わなかった。
へぇ、と珍しげに見詰める李偃から目を離して、
りつは遥遠に広がる紺の海を一望する。肉眼で確認できる陸地は、まるで蜃気楼のように霞がかっている。
本来、海客はこの虚海に漂流する。運が良ければ陸地に流れ着く。以前に康由が教えてくれた事を思い出した
りつはしかし、広大な虚海を前にぞっとした。
虚海の広さは漂着の確率の低さだ。
りつの場合、稀な流れ方であったために命が助かったと言っても良い。
それが不運どころか奇跡に近い幸運だった事を今になって知り、複雑な心境に俯く
りつの肩を、ふいに李偃が軽く叩く。
「ま、船旅もあと一日で終わりだ。降りればまた徒歩が続くからな。今のうちにゆっくりしてろよ」
「――はい」
我に返り、ややあって返事をした連れの様子を見下ろして、李偃は元々細い双眸を糸のようにして笑う。さらに二回ほど肩を叩いて甲板から離れていく男に対し、
りつはふと何気なく頭に浮かんだ疑問を投げかけた。
「李偃さん。才国って、どんな所ですか」
屋内へ戻ろうとしたのだろう、船上に唯一ある扉を目指して進みかけていた李偃の足が彼女の問いかけによってぴたりと止まる。
りつを横目で捉えた男の頭が僅かに傾くと、どんなって、と不思議そうな呟きが聞こえてきた。
「今から行くんだ、俺の口から聞くよりも自分の目で確かめた方が早いだろ?」
李偃の意見はもっともだった。
確かに、と呟き苦笑を零した
りつは再び海へ視線を戻し、そっと目を閉じる。
漂着から四年目にして初見となる他国。期待と好奇心を半々に抱いて、明日の到着を待ち遠しく思うのだった。
風を帆一杯に湛え、穏やかな波を掻き分けて船は進む。船と並行して風に乗る海猫の鳴き声と潮騒の音を聞きながら一夜を明かし、翌日には追い風となったお陰か、予定よりも随分と早く才国へ入港を果たす事ができた。
午の港には行き交う船の乗降者や露店に人々が集い、賑やかな声で溢れていた。
芸を披露する旅芸者や、それを眺めて時折笑う行きずりの観客の姿。その後ろを二足歩行の獣が通り抜けて、つい目で追ってしまった
りつは思わず嘆息を零した。
「此処が才国…」
二日前に見た漣国の閑散とした港とは大いに違う。ここまで賑わう景色を見たのは漣国国都の重嶺以来だった。
「ぼけっとしていないで歩け」
「あ、はい」
船板を渡り、一番に港を――才国の地を踏んだ
りつの背後から呆れ混じりの声が掛かった。慌てて横に退いて振り返ると、李偃が二頭の馬の手綱を取り、馬車が船から降りてくるところだった。
「賑やかですね」
「港は何処もこんなもんだ。漣が少し寂しくなっただけでな。まぁ、賑やかに越した事はねぇが…この人混みじゃ迂回しねぇと通れそうにない」
「そのようだな」
幌を捲り上げて港の景色を覗いた露翠が突如話に加わって、
りつは驚き振り返る。此処へ来るまでの道中で殆ど口を開かなかった雇い主の声を久しぶりに聞いたような気がする。
「ま、此処からは楽だぞ。馬車に乗って移動できるからな」
「え?」
「いつまでも歩きだと思ったか?」
軽く瞠目した
りつを李偃と露翠が笑う。予め伝えておいた移動方法が徒歩だったのだ、急な話に彼女が驚くのも無理はない。
「漣国ではどうしても徒歩で護衛をしなければならない理由があってな。護衛の人数が減った、という事もあるが…
明秦、お前は後方の護衛を頼む」
「分かりました」
露翠の指示を受けて頷くと、
りつは船板を渡りきった馬車の後部へ回り込む。李偃は人の往来を躱しながら港沿いに手綱を引いて馬車を誘導し、門衛による旌券の検めを其々受け終えて、港に隣接している街の南南西にある未門を潜る。
高い郭壁に沿って進む馬車は程無くして未門と正反対に位置する丑門を抜ける。そこからは李偃と
りつが荷馬車に乗り込み、手綱を操り馬車を走らせ始めた。
速度は流れる景色が僅かにぶれて見える程度の徐行で、後部を任された
りつは馬車の幌を半分ほど捲り上げて遠ざかる景色を渋面のまま見据える。
馬車から見えるのは、田園の広がる一見穏やかな景色ばかり。しかしそれは約四年前に見た風景とどこか似ていて、複雑な心情が胸の奥に滞留する。
(……嫌な記憶まで思い出す)
――四年前。
不安と期待を綯い交ぜにして見知らぬ地を進み、出会った小さな希望と言葉を交わし、その先に絶望したあの日々。
記憶が鮮明に甦るほど、同じような事態が起きる可能性を不安と共に過ぎらせる。無意識に捕らえた剣の柄を指先が白くなるほど握り締め―――しかしそれが所詮杞憂で終わる事を思い出した。
才国の治世は漣国よりも長い。四年前の漣のように、妖魔が馬車を追って出没する事はまず有り得ない。
それでも遠景に目を凝らし、時折田園の中に窺える黒点が人と分かっていてもつい緊張してしまう。
慣れていくしかないと諦めて、故郷にも似た田園風景が流れゆく様子を漠然と眺める。握り締めていた柄から手をそっと離すと、地を踏み締めて走る車輪の音に掻き消されそうなほどの小さな溜息をそっと零すのだった。
2.
文字通り雲をも凌ぐ山――凌雲山。
ほぼ垂直に屹立する長大なそれは蒼穹を分断して壮大に聳え立つ。麓の街から仰ぎ見ても山頂は勿論、山の幅を視界に収めきる事は難しい。全貌を目にする為には麓から遠ざかる外に無かった。
吹き当たる風に長年曝されて山肌は滑らかになり、湿り気を帯びた暖風が上空から麓に広がる街へと雪崩れ込む。漣よりはいくらか涼しいが、それでも風は温かい。
「…ここが、揖寧」
才国国都、揖寧。
漣国重嶺よりも賑わいそこかしこに溢れる声に揉まれながら、
りつは街中に呆然と佇んでいた。
港から才国国都までの旅路はあっという間だった気が、
りつにはした。
道は国都へ近付くにつれて踏み均された硬い地面へと変わり、やがて見えてきた堅固な郭壁を見上げる。門上には揖寧と書かれた扁額が掲げられており、門を潜り抜けた先には整備された町並みと、街の中央に聳え立つ雄大な山が目に飛び込んでくる。
揖寧山に向かって緩やかな階段状になった町並み。そこに並ぶ建物の大半は二階建てで、薄い錫色の壁が多い。落ち着いた色合いの建物が目に優しかった。
揖寧の門を潜ってから馬車を降りた
りつが漣国との違いを目の端に捉えつつ進むこと暫し。
荷馬車の急な停止に慌てて蹈鞴を踏んで前方を覗き見る。すると右側の建物を指差した李偃と目が合い、次の指示を辛うじて聞き拾った。
荷を降ろすぞ、と。
手分けして荷物を建物の中に運び込み、一時間ほどかけてようやく作業を終わらせた二人は、建物の中に入る露翠と入れ替わるようにして表へ出た。
「ひとまず、これで俺達の用は終わりだ」
「はい。…空の馬車はどうします?」
「俺達で舎館に運んで預けておく。普段通りなら出発は明後日だ。それまでは暇になる」
額にうっすらと掻いた汗を其々拭いながら空になった荷馬車を見上げる。
帰りは空の馬車に乗るのだろうか。そんな事をぼんやり考えながら、それなら、と
りつは李偃を振り返った。
「後で街を見学してきても良いですか?」
「行って来い。…ああ、いや待て。途中まで一緒に行くか?」
「え?」
「俺は広途の先に用があるんだ。だから途中までなら、案内してやれるが」
「じゃあ…宜しくお願いします」
土地勘のある人物が案内してくれるのならば心強い。そう思い、僅かに表情を和らげた
りつは軽く頭を下げた。
「―――広い…流石国都」
「重嶺だって広かっただろ」
「それにしても、町並みがまったく違うので。重嶺よりも広く感じますね」
「感覚はな。実際は似たようなもんだ」
馬車を舎館に預けてから、二人は広途を門に向かって歩いていく。時折立ち止まってはよく立ち寄る店を紹介する李偃に相槌を打ち、ほうと息を吐いた
りつが洩らした感想がそれだった。
どこの国の凌雲山も規模は然して変わり無いが、麓の町並みの変わり様で広さや高低に差異があるような錯覚に陥る。さらに違うのは活気で、治世が安定して続く地ほど人々の往来や繁盛にも差が出る。
(重嶺よりも賑やかだ…)
口には決して出さないが、漣国との差を感じ取っていた
りつは目を細める。
真隣を歩いていた李偃の独り言を耳にしたのは、その直後だ。
「っと……久々に会ったな」
「え?」
「行くぞ」
飄々とした呟きに疑問を抱いた
りつが問うよりも早く、李偃は往来の間を擦り抜けていく。その背中が人波の中に紛れる前に慌てて駆け出した
りつは、少しばかり走って追い付いた。
どうしたのかと今度こそ問おうとして、前方に据えられたままの李偃の視線に首を傾げた。一体何を見ているのかと眼差しの先を辿ると、そこには一人の少女がちょうど店を退出し、背を向けて歩き出すところだった。
後頭部に束ねた黒い長髪が歩く度にゆらりと揺れる。その背に李偃はよお、と無愛想に声をかけると、目先の少女の肩がびくりと竦んだ。ゆっくりと振り返り、途端に嫌なものを見るかのように幼さの残る顔を顰める。
「また主に言いつけられて買出しか?」
「…なによ、またからかいに来たの」
また、という響きには嫌悪を混ぜて、少女は声をかけてきた男を睨む。人よりも少しばかり大きく、黒い眼。
彼女の特徴に見覚えがある
りつは李偃の隣で少女を注視し、僅かに眼を見開いた。
「彼女は…?」
「この間言っただろ。才に海客がいると」
李偃の返答を受け、確信を得た
りつはやはりと思う。
この国の出自の者に黒髪黒目を持つ者は居ない。在るのは唯一海客のみだ。加えて、彼女は少女のたった一言を耳しただけで別の事実を察してしまった。
「仙籍に入っているんですね」
「え?」
「どうした、急に」
「いえ、彼女が話す言葉が故郷と同じなので。それで李偃さんと会話が成り立っていますから、そうではないかな…と」
「…あなたは…」
康由や利紹のように、仙籍に名を列ねる者との会話においては言葉が翻訳される。そして今、少女の言葉は故郷の言語に聞こえていた。ならば、翻訳されているのは間違いない。
そう踏んで問うた
りつに対し、李偃も少女も目を丸くする。それから我に返り、咳払いをして口を開いたのは李偃だった。
「木鈴、こいつも海客だ」
「え?」
「海客で胎果なんだ。字は
明秦」
「
明秦、さん…?」
ぎこちなく字を呼んでくる、木鈴と呼ばれた少女に対し、
りつは頷く。すると何かを迷うように俯いてから、少女は再び顔を持ち上げた。
瞳の最奥には、期待に似た色を宿して。
「あたしは鈴。大木鈴というの。今は把山の翠微君にお仕えしているわ」
「やっぱり……その歳で仙籍に入っているなんてすごいな…」
「ううん…すごくなんかない」
言葉に困らず歳も取らない、不老長寿の存在。若くして仙籍に名を連ねる事は謂わば僥倖、海客が籍に載る事は奇跡に近い。
だが、少女――鈴は苦しげな表情を浮かべて頭を横に振った。そこには嬉しさや誇らしさなど微塵も無い。その反応に違和感を覚えた
りつは首を傾げた、直後。
真横から眼前へと進み出す男の姿を目にすると、慌てて声を掛けた。
「あ…李偃さん」
「俺はもう行く。…話し込んでも、あんまり甘やかすんじゃねぇぞ」
「ええ、はい」
小さく頷いた
りつは今度こそ人波に埋もれていく男の姿を見送った。彼が広途の先に用がある事をふと思い出しながら。
視線を手前に戻そうとした手前、真横の店の入口をふと捉えた
りつは首を傾げた。…官許の札と戟が立て掛けられた入口。さて、何の店だったか。
「ここは架戟よ。冬器を扱っているの」
「冬器…そうか。此処で売ってるんだ…」
りつが注視する訳を察した鈴が説明した情報に、胸の片隅を刺すような痛みを覚えて眉を顰めた。佩刀する剣の柄に自然と手が伸びたが、掴む手前で握り拳を作った。不意に思い出した記憶を、脳裏の片隅に追いやりながら。
「ねぇ…
明秦」
「日本での名は
生駒りつ。呼ぶのはどっちでも構わないよ」
「じゃあ、
りつね。
りつは今の男の知り合いなの…?」
「漣からの仕事で一緒なんだ」
「仕事?」
「うん。漣から才まで運ぶ荷物の護衛をしていて……鈴は翠微君の御使い?」
「……ええ」
りつの問いに、突如鈴の顔色が曇った。
暗澹とした表情を浮かべて俯く鈴の様子を
りつは内心不安に思い首を傾げたが、それを口に出すよりも早く切り替える為なのだろう、鈴は沈黙が落ちる前に再び質問を対面者へと投げかけた。
「こっちの言葉を覚えたの…?」
「うん。里家に住まわせてもらいながら習ったんだ」
「そう……」
「でも、もうすぐ里家を出ないといけなくて。この仕事が終わったら、新しい仕事と住む場所を見つけないと」
里家に居られる期間は残り二月。そのうち半月から一月はこの仕事で潰れるため、残る一月で次の住居を探さなければならいのが実状だった。
行き先の見えない不安を抱きながら、それでも同じ出自の娘の前では成る丈笑顔と余裕を繕おうと思っていたのだが。
「……」
「…鈴?」
俯き肩を微かに震わせる少女の姿を怪訝に思った
りつは首を眉を顰めた。恐る恐ると名を呼ぶと、ゆっくりと持ち上がった鈴と眼が合う。
その黒く大きな双眸に湛えた、涙。
「……ねぇ、
りつ。一緒に連れて行って」
震えた声で訴えた願いを聞いた
りつは驚きに眼を見開いた。仙籍に入れば不自由など無いと思っていた。それが、少女の顔に滲む悲痛な色は一体どうしたことか。
事情は兎も角、連れて行けるか否か――その選択を考えるよりも早く、
りつの胸中では答えが出てしまった。
「それはできない」
「どうして…?」
「確かに私は漣から此処まで来たけど、あくまでも仕事で来たんだ。だから、鈴を連れて行けるかどうかは私一人で判断できることじゃない」
「お願い。仕事の邪魔はしないから…」
懇願する鈴の必死の形相を見下ろして、心が揺らぐ。露翠と李偃に許可を貰わなければ連れてはいけない。たとえ連れて行ったところで、未だ里家で世話になっている
りつが鈴の面倒を看てやれる保証も自信も無い。まだ、安定した働き口も無いのに。
それ以前に、と。
胸に沸いた疑問から
りつは首を傾げた。
「…どうして、私と一緒に行きたいの?」
「あんな所にいたくないから…
りつみたいに勇気があったらとっくに洞府を飛び出してるわ。…でも、できないの」
「なぜ…?」
「出て行けば仙籍を削除する。そう洞主さまに脅されているの。…出て行くなら、また言葉が分からない場所で苦しめばいいって思ってるんだわ」
若干恐々として話す鈴の話を耳にしながら、それは違うのではないか、と
りつは内心で否定する。
洞府を出る、即ち僕ではなくなる。そうなれば仙籍を削除するのは当然のことで、虐めでも何でもない筈だ。
そしてそれ以前の問題を眼前の少女が抱えている事を、
りつは察してしまった。
「言葉が分からない苦しみは分かる。私は三年以上かかってようやく言葉を覚えられた。…でも、鈴。その苦しさから逃げ続けていたって、前には進めない。苦しみも辛さも無くならないんだ」
「逃げてなんかない…!」
「逃げてる」
りつが断言した瞬間、鈴が浮かべていた期待の色は一転、悲嘆と絶望に変貌する。ぎりぎりまで湛えられていた涙がとうとう堰を切ったように溢れて、顔をくしゃりと歪めた少女の頬を幾度も伝い落ちていく。
「…同じ海客なら、分かってくれると思ったのに……」
「鈴、」
「あたしは故郷に帰りたいだけ…それだけだったの……なのに……」
「……」
―――帰りたい。
とうの昔に置いてきた願いを久方ぶりに耳にして、胸を打つ痛みがある。流されてきた同じ存在。それでも
りつはこのとき、自分は海客ではないと鈴に否定された気がして、一瞬言葉を失った。
顔を歪めて立ち尽くしていた
りつを、涙を袖で拭った鈴が見上げる。黒い双眸には最早期待の色など微塵も無い。睨むような眼差しが
りつの目に焼き付く。
「…あの男の連れなんでしょ……早く追いかけなさいよ」
「……ごめん」
どうして謝ったりなんかするのよ。
そんな背後からの呟きを聞き拾った気がしたが、無言で踵を返した
りつは一度も振り返ること無く少女から離れ、人波に流れていった。
鈴の言葉を胸中で反復しながら。
3.
―――帰りたい。それだけだったのに。
舎館に戻った
りつの頭の中で何度も反響するのは、とうの昔に放棄した言葉。それがどうだろう。同郷の者がその願いを口にするだけで、まるで自分の心にまだ帰りたい気持ちがあるような錯覚に陥る。本当はもう、そんな願いなど何処にも在りはしないのに。
窓辺に榻を寄せて、窓から外の景色を漠然と眺めていた
りつは溜息を吐く。行儀が悪いとは思ったが、榻に片足を乗せ、膝上に肘を乗せて頬杖を着くこの体勢が今は一番落ち着いた。
それでもやはり、沈んだ内心を上げる事は中々に難しい。そこで無意識に玻璃に向かって溜息を吐いたときだ。
「何か言われたか?」
突如真後ろから降ってきた問いかけに、驚いた
りつの肩が跳ね上がる。声の元を勢い良く振り返ると、この旅ですっかり見慣れた厳つい顔がそこにあった。
「!…なんだ、李偃さん…脅かさないで下さい」
「お前が呆けていただけだろ。…今のは何度目の溜息だ?」
「ええと…」
「五度目だ。少なくとも、俺が数えた限りではな」
榻の端に腰を下ろした震動が臀部越しに伝わって、
りつは思わず眉根を寄せた。
一明二暗の共用場所である起居に李偃がいるのは何ら可笑しい事ではないが、溜息の回数まで数えられては堪ったものではない。
もう一度吐き出しそうになった溜息を飲み込んで、片膝を下ろす。何があった、と言外に問いかけてくる彼の双眸は真剣そのものだった。
僅かに迷った後、
りつは浮かない顔のまま李偃を見据える。
「…私は恵まれている方なんだと、彼女に会って実感しただけです」
「そうだな。浮民扱いされる海客よりずっと良い待遇だ」
きっぱりと言い切る李偃は清々しい。それに対して
りつが苦笑を零すと、だが、と言葉を続けた男が不快そうに顔を歪めた。
「実際はお前さんよりも奴の方が待遇は上だ。仙になるってのは病気もしねぇ、怪我も滅多にしない上、してもすぐに治る。歳は取らねぇから若いまんまなうえに言葉を覚える苦労も無い」
「苦労、か……」
「苦労が嫌だ、なんてのは甘えに過ぎねぇ。誰だって通る道だ。それを通りたくねぇと駄々捏ねてやがるから俺は嫌いなんだ」
あからさまに嫌な顔をする李偃の内心を解せないわけではない。此方で生きていく為には言葉の習得が必至だ。それを避けようとすれば何もできなくなるのは当然のこと。
「奴を助けたいだなんて思うなよ」
「…え?」
再び玻璃の向こうに視線を投げた
りつは、下方の人波の中にある筈のない姿を無意識に探していた。それを察した李偃がはっきり言い当てると、ややあって
りつの呆けた返事があった。青鈍の瞳が丸くなる。
「あれはな、心が変わらねぇとどうしようもねぇんだ。誰かが言い聞かせるだけじゃ何も変わらないと思うぜ」
李偃が鈴と会ったのは、今回で四回目になる。海客の不遇を哀れに思い、激励や世の厳しさを説きもした。だが、それも二度目で諦めた。李偃の哀れみを跳ね除ける彼女の悲嘆に暮れた姿は、救いようが無い。
そして今回、
りつの落胆ぶりを見るに、彼女の言葉にも耳を貸さなかったのだろう。そう推して、早々諦めるよう彼は勧めたのだが。
「……そう、ですか」
りつが諦めたような言葉をぽつりと呟いたが、李偃は安堵するどころか渋面を浮かべる。
…腑に落ちない。
そう、彼女の声音が語っていた。
結局、漣国へ戻るまで奇妙な空気は続いた。かといって気拙いわけでもなく、ぽつぽつと会話を交わしつつ馬車を走らせ、七日後には無事に漣国国都へ到着したのだった。
露翠から報酬を受け取り、予め利紹から渡されていた往路の旅費で馬車を乗り継ぎ、五日後には無事唐州へ戻った。府第に赴き、師帥への取次ぎを願うこと半日。約一月ぶりに利紹との再会を果たすと、すぐに別所を案内され、先導する利紹の背中を追う。
「お疲れさまでした。才国まで足を延ばした理由は露翠から聞きましたが……どうでした?」
「色々と勉強になる旅でした」
「得られる旅であったのなら良かった。向かわせた甲斐がありましたね」
仕事は本来港までの護衛だったが、他国の見聞は見識を広げる切欠になる。それはそれで
りつの成長に繋がると信じて、利紹は露翠からの手紙に返事を出さなかったのだが。
回廊を上る途中、利紹の後方で聞こえていた足音が急に止む。不思議に思い振り返ると、神妙な面持ちをした
りつが彼をじっと見上げていた。
「…利紹さん。一つ聞いていいですか?」
「何ですか?」
「多くの海客が流れ着く先は東の国だと聞きました。それは慶ですか?それとも、」
「一番多いのは慶ですが、冷遇されていると聞いた事があります。それ故に、殆どの海客は隣国…雁州国に向かうでしょう」
「雁?」
りつは地図を脳裏に思い浮かべる。雁州国は黄海金剛山を囲むようにして広がる陸続きの四州四大国、そのうち北東に位置する州国だ。
「
明秦は、雁の事について知っている事はありますか?」
「治世が奏に次ぐ大国、としか」
「そうでしょうね。此処から雁は遠い。情報が中々入らないのは当然です」
徒歩であれば到着に一年は掛かるであろう遥遠の国。各国を回る朱旌の、他国の事情を説く小説を何度か拝見した事はあったが、雁の事情を聞いた記憶は一度も無い。国の特徴も一切として知らなかった。
「雁州国王――延王は、海客なんです」
「え?」
「正式に言えば胎果。
りつ、貴方と同じ倭国出身です」
思わぬ情報に
りつは目を丸くする。
胎果の王。考えもしなかった存在への驚きを覚えたが、不思議なことに、
りつ自身は雁国への見聞願望を抱かなかった。それでも行きたいという気持ちは変わらない。
「雁へ行きたいですか?」
「はい」
「何の為に?」
「……ある人を、助けたいんです」
「助ける?」
怪訝そうな顔を傾けた利紹に向かって、
りつはもう一度頷いてみせる。才国で会ったあの少女の歪んだ顔が脳裏にちらついていた。
「才国で会った海客の子で……李偃さんには止めろと言われたんですが、どうしても気になって」
「雁に連れて行きたいんですね」
「はい。海客が多いのなら、海客が言葉を覚え易い場所も、そこではないかと」
漂着の数が多い、即ち住んでいる海客の数も多い筈だ。海客や胎果は言葉が通じないから、言葉を教えてくれる学校のような場所も設置されているかもしれない。そう考えた上で告げたのだが。
どこか険しい表情で俯き、顎を擦る利紹の様子に
りつは首を傾げた。
「利紹さん…?」
「明秦。連れて行きたいのは分かります。しかし、それで本当にその人が救われるでしょうか」
「絶対…とは言えませんが」
「ならば、その人が挫折したとき、貴方は責任を持てますか?たとえ、自分の人生を捨ててでも」
「それは…」
一瞬答えに迷った
りつの返答を聞くよりも早く、利紹は言葉を続ける。
「この質問で言葉が詰まるようなら止めた方がいい」
「でも、」
「いいですか、
明秦。助けるという行為は自分に余裕が無ければできません。…少なくとも、私には今のあなたに余裕があるようには見えない」
「……」
りつは今度こそ言葉を失った。
以前のような傭兵業に就けば金銭面はどうにかなる。しかし、彼女が――鈴がもしも言葉を覚えられないと嘆き放り出したとき、責任を負えるかどうかを考えると、頷くのを躊躇ってしまった。
利紹の言う通り、今の自分には人一人を導けるほどの余裕が無い。
「可哀想だと思う事は簡単です。ですが、手を差し延べるにはまず自身がしっかりと立たなければ。手を取って共倒れ、では元も子もありませんから」
今は辛抱しなさい。
そう付け足した利紹を前に、
りつは噛み締めそうになった唇から歯を浮かせ、指先が白くなるほど拳をきつく握り締めながらも、無言で首肯するのだった。
「それで、此処へ働きに来たってわけか」
漣国国都重嶺。
渓汀園の敷地内に停まる馬車の後部には人影が二つ。李偃が馬車に上げた荷を馬車の奥へと運ぶ
りつの姿が、そこにあった。
「利紹さんとの話だけが理由だけでは無いですけど…」
「ほう?」
まるで視線から逃れるように荷を運び入れる
りつの背中を、李偃は疑わしげに見詰める。もっとも、冗談半分であって責める気は微塵も無いのだが。
りつが重嶺にいる露翠の元を再び訪れたのは、利紹に雁国行きを止められたあの日から二月後のことだった。
一年という期限付きであった利紹の剣術指南も終わり、いよいよ仕事や新たな居住を見つけなければならなくなったときだ。
再び露翠から傭兵要請の声が掛かったのは。
無論、二つ返事で了承した
りつは現在国都である重嶺の、露翠の住居でもある渓汀園に身を置いていた。
……だが、
りつの頭の中にあるのは傭兵業への思案ではなく。
「漣国を出ようと思います」
「…お前」
李偃の、荷を持ち上げようとした手が止まる。鋭い双眸を驚きに見開かせながら馬車内にいる
りつを振り返ったが、荷物の蓋を確認する彼女の横顔からは何の感情も読み取ることができない。
その無表情に近い顔が、ゆっくりと男の方へと向かう。そこから唯一、辛うじて読み取れたのは憂愁の色だった。
「実は、此処へ来る前にある人から言われたんです。お前みたいな甘ったれた考えを持ってる奴は、国を出て現実を見た方が良いって」
「ある人?」
「ああ、李偃さんなら知っているかもしれません。檸典さんです」
「檸典か…奴は物言いが直球だからな…」
夏官師帥の厳つい顔を記憶から掘り返した李偃は大袈裟に肩を落としてげんなりする。夏官に属する者としては申し分ない技能を持つ男だが、癪に障ると冷静さに欠ける。李偃にとって、
りつに真っ向から文句を告げる姿は想像に難くない。
微かに苦笑を浮かべた
りつは、ええ、と同意の首肯をしてみせる。
「私も、反論するどころか納得してしまったので。少し、他の国を見て回りたいと思います」
荷を受け取りつつ今後の予定を明かした
りつに、の荷を手に取った李偃はしかし、すぐにその手を離した。
他国を見て回ることは大いに結構だが、彼女の本当の目的が別のところにあることを、彼は察してしまったが故に。
「木鈴の事は、まだ残ってるのか」
「…ええ」
返事をした
りつの声が沈む。
「…利紹さんに言われてから、助けたい理由をもう一度よく考えてみたんです。もしかしたら彼女に恩を売りたいだけかもしれないし、単に同じ海客だから苦しんでいる姿を見るのは忍びないだけかも」
できれば後者であってほしい心中は、未だ答えが出ないままでいる。無論、迷っているわけではない。だがそれよりも先に、現実的な事情を考え始めてしまった。
「どちらにしても、それ以前の問題に気付いたので、仮に助けるとしてもあと数年は掛かりますね」
「…どういう事だ?」
ややあって、疑問から首を傾げた李偃に対し、
りつは荷から手を離すと再び向き合った。その表情には、先程のような苦笑も微笑も無い。真剣そのものの顔だった。
「一度、雁国に行って来ます。まずは雁がどういう国なのかを見聞して、そこで仕事を得て、働いて、お金が貯まったら彼女を迎えに行く」
「…それで?」
「私が働きながら彼女に言葉を教えます。完全に覚えたら、何処かで働いて暮らせるよう支援したい」
一瞬、李偃は言葉を失った。
あの仕事を終えてから二月の間、ずっと考えていたのだろうか。いや、それ以前に思いの外彼女の諦めの悪さに呆れるべきか感心するべきか。
「……それで、利益や得はあるのか?」
「ありませんね」
「…お前…」
迷った果てに、呆れた。
明朗に言い切った
りつは至極平然としている。まるで、最初から見返りなど期待していないと言わんばかりに。
「理由はどうあれ、助けると決めた以上、中途半端なところで放り出したくはないんです。勿論、彼女には妥協も挫折も甘えもさせない。そんなものは自立してからすればいい」
彼女には言葉が通じないというだけで全てを投げ出してほしくはない。だから、海客が言葉を学ぶには最適であろう雁国に行く。それが彼女の為になると信じて。
確固たる意思を抱いた
りつには、勿論退く気など更々無い。そんな姿を李偃は暫し怪訝そうに見詰めていたが、やがて呆れたように盛大な溜息を吐き出した。
「…仕方のない奴だな」
「李偃さん?」
「少し付き合え。露翠の所に行くぞ」
頷いた
りつが馬車から降りると、馬車の幌を下ろした李偃は足早に舎館の中へ入っていく。慣れた足取りで廊下を進んでいく男の後を
りつが追いかけ、辿り着いたのは主楼の最奥だった。
李偃は軽く扉を叩き、扉越しにくぐもった声を聞くなり勢い良く押し開く。続いて
りつも堂室内へ足を踏み入れたが、堂室の主――露翠は筆を片手に厳格な顔付きを僅かに歪めていた。
「どうした。何か支障でもあったのか」
「旦那、少し話があります」
「話?」
怪訝そうな露翠に、李偃は軽く頷く。それから真横に並んだ律を横目で一瞥した。
「旦那が揖寧で取引をしている間、コイツを巧国行きの船に乗せに行って来ます」
「え……?」
驚きの声は露翠のものではない。何の説明もされていなかった
りつは、男の唐突な提案に思わずぽかんと口を開けていた。
雁行きに反対していたのではなかったのか。
「どういう事だ」
「言葉のままですよ。こいつがやりたい事を、俺が気紛れに支援してやろうってだけです」
「李偃さん。でも…」
「こいつの同士を思う気持ちが中途半端なら、俺も止めたんですがね。残念ながら、半端な覚悟じゃねぇらしい」
だから仕方なく、協力してやる。
そう、彼の心中が今にも聞こえてきそうで、
りつは困惑の眼差しで李偃を見詰める。一体どういった心変わりなのか。それを問おうと開きかけた口は、前方から投げかけられた言葉によって不意に閉じた。
「大体は察した。……だが、
明秦」
「はい」
「お前はその同士に、見返りを求めていないか。感謝の言葉一つでも、だ」
「ありません。彼女が少しでも前に進んでくれるのなら、私は何も要りません」
「……そうか」
虚偽の無い
りつの言葉に、露翠はほんの僅かに肩を落とした。彼は覚悟を決めた者の眼をよく知っている。もっとも、その眼をした者の大半は馬車の荷に手を付けようとした輩なのだけれども。
彼女の覚悟が本物ならば、止める義理は無い。
「ならば、約束してくれ。次に漣へ渡るときには一片の挫折や後悔を持ち帰ってこないと」
「―――はい」
後悔も挫折もしない。私は私の決意を貫き通す。
歯切れ良い返事を堂内に響かせた
りつはそう改めて胸に誓うのだった。