捌章
1.
沙喬はその日、母親に連れられて隣町へ向かう途中だった。
母親に手を引かれて初めて馬車に乗り、乗り心地の悪さを気にも留めず、縁に頬杖を付きながら流れゆく景色に夢中になっていた。乗り慣れた大人からすれば退屈な景色に違いないが、沙喬は飽かずに観望を続ける。晴天ならば尚更、遠くまで澄んで見える緑溢れる風景に陽光が降り注いで綺麗だった。
身を乗り出そうとしてみたが、危険だから止めなさい、と先ほど母親に止められたのを思い出して首を僅かに伸ばしてみるだけに留める。それから、ねぇ、と隣に座る母親を振り返った沙喬は、目の端に映ったものがふと気になった。
なんだい、と気怠そうに返事をする母親の向こう。長い包みを自身の肩に凭れさせたまま、片膝を立てて座る女の姿。一見黒に見える女の髪は、陽光に曝されると濃い緑瑪瑙のような色艶をしていた。束ねられた一房は肩を伝い流れ、腹部にまで垂れている。
綺麗で珍しい。そう感じた矢先だった。
遠くを眺めていた女の目が沙喬の方へ転じたのは。
「…髪、珍しい?」
「うん。きれいね」
「そうかな」
女は自分の髪を一摘まみしてみせる。彼女にとっては見慣れたものだが、少なくとも沙喬の村にはそんな髪の色をした人はいなかった。だから艶のある黒緑の髪がとても綺麗に見える。
「ねぇ…触っていい?」
「沙喬、およし」
女に手を伸ばしかけた沙喬の袖を、隣に座る母親が慌てて掴む。好奇心が旺盛なのは構わないが、他人に迷惑をかけるのは流石に見逃せなかった。
「ごめんなさいね」
「いえ、大丈夫ですよ。むしろ子供はこれぐらい好奇心が無いと」
そう言って笑う女に、母親もまた笑みを浮かべると安堵から胸を撫で下ろした。同乗者同士の揉め事を時折村で聞くため若干警戒していたが、どうやら彼女は鷹揚な性格のようだ。ならば、揉め事にも発展しないだろう。
おいで、と手招きする女性の隣にちょこんと座り直した沙喬は真っ直ぐに手を伸ばす。少しばかり珍しい艶やかな黒緑の髪。陽光を弾くそれは朝露に濡れる笹葉の色に似ていた。
「お二人は何処まで行かれるんですか?」
「ええ、隣町まで」
少女に髪を弄ばれながらも穏やかな顔を上げた女性は沙喬の母親に向かって首を傾げ、すぐに微笑んだ。隣町までならば然程時間は掛からない。子供にあまり負担も掛からないため、少量の荷での子連れ旅も納得できた。
「あなたは?」
「私は仕事で重嶺まで」
「あら、そうだったの」
重嶺までの道程はまだ遠い。東端からの出発であれば、片道でさえ長旅になる。その辛さを以前に経験した事のある沙喬の母親は思わず目を丸くすると、苦笑いを浮かべた。
長旅になるわね、と沙喬の母親が洩らした呟きを聞き拾った女性もまた釣られて苦笑する。…尤も、彼女もまた以前に経験しているので十分に理解しているのだが。
「お姉ちゃんは何の仕事をしているの?」
「いろいろ。今回は、人を護る仕事をしに行くんだ」
肩に立て掛ける長い包みに手を添えた女性の、やんわりとした答えを聞いた沙喬の目が途端に輝いた。尊敬にも似た情を浮かばせる少女の顔を見詰めて、一息。
包みに添えた手がほんの僅かに強張った一瞬を、
りつは確かに感じて息を吐く。
(護る、か……)
背に走る感覚が緊張なのか戦慄なのかは分からない。ただ、長い道程の先に待つ初仕事に対し、不安ばかりが先行していることだけは実感していた。
◆ ◇ ◆
「護衛?」
「傭兵として、ですね」
剣術の指南も残すところあと二月を切ったころ、突然利紹が鍛錬の場で持ち込んだ話に
りつは目を丸くした。
一年にも満たない剣の腕で傭兵が務まる筈がない。そう頭を振る
りつをひとまず宥めた利紹は、持ち出した用件の内容を続けて述べ始める。
「唐州の北にある港から才行きの船が出ているのですが、重嶺からとある一団を護衛してほしいと依頼がありまして」
「依頼、ですか…」
「ええ。それで、傭兵を此方で手配してくれとの事でしたので」
そんな、と
りつはもう一度頭を振る。傭兵として手配するのならば、もっと良い人材がいる筈だ。自分のような若輩者ではなく、心得を熟知している手練れの者が。
しかし
りつの意見に耳を貸しながらも利紹が曲げる気配は無い。あくまでも用件を最後まで押し進めるつもりのようだった。
「港に着けば衛士もいますから、港までの道中だけです。ね、簡単でしょう?」
「簡単ですけど……でも、妖魔もいないのに」
「警戒する相手は賊です」
「え……」
途端、
りつの表情が強張った。早朝に磨いたばかりの、鍛錬用の剣を掴む手に思わず力が篭もる。
「依頼者の荷を襲う可能性がある。依頼者と荷を守るのが
明秦の役目となります」
「……」
人に剣を向ける。それは、鍛錬の場で木製の剣を向け、或いは妖魔を斬る事とはまったく訳が違う。賊から身や荷を護る為には賊を斬らなければならないという事だ。
人命を奪うという行為。その事実が
りつの首肯を躊躇わせる。
「それほど心配しなくとも、護衛は他にもいますから。お願いしますね」
にこりと笑む利紹の優しい口調で半ば強引に話を進める様子に、
りつは困惑から眉尻を下げた。何故ここまで護衛に向かわせようとしているのか。そして残る二月の期間はどうなるのだろうか、と。
「あの、利紹さん」
「もちろん、掛かった日数だけ指南の日数は延ばしますよ。
明秦はそれが心配だったのでしょう?」
彼女の心中を読んだ利紹に微笑みを向けられて、目を瞬かせた
りつはそれ以上何も言えなくなってしまった。
(……私にできるだろうか)
数日前の会話を思い出した
りつの胸に不安が波のように押し寄せては引いていく。やり過ごすように肩へ凭れ掛けていた長嚢を強く握り締めたときだった。
馬車が揺れて、ぎしりと床が軋む。
りつが適当に放っていた視線を外へ向けると、景色はいつの間にか制止していた。
「じゃあ、ここでお別れね」
「あ…はい。お気を付けて」
「ありがとう。あなたも仕事頑張ってね」
次々に馬車を降りていく乗客に続いて立ち上がった親子は軽く頭を下げた。
りつもまた会釈を返すと、背を向けた親子の姿が馬車の向こうへと消えていく。
「……仕事、か」
何気なくぽつりと呟いて、ふと思う。
そういえば、此方での正式な仕事はこれが初めてなのだと。
馬車を二回ほど乗り継いで向かうこと三日、昼過ぎにようやく重嶺の門を潜り抜けて町へと入った
りつは、北西側にあるという店を目指す事にした。
店の名は渓汀園。門の色は鮮やかな紅だと利紹から聞いていたため、行き掛けにすれ違う人へ道を尋ねながら歩いていくと、やがて亥門と戌門を結ぶ大通りに辿り着いた。高い建物に、見上げた柱の色は紅。此処に護衛の依頼主がいるのだと思うと、胸中にどっと緊張が押し寄せる。それを抑えながら門を潜ったところで、小奇麗な襦裙を纏う女性が
りつを見るなり恭しく頭を垂れた。
「いらっしゃいませ。宿泊で御座いますか?」
「いえ、露翠という方が此方に宿泊していると聞きしたのですが。唐州から護衛に遣わされた者だとお伝えいただけますか」
「少々お待ち下さい」
上げた面を再び小さく下げた女性は僅かに裳裾を引き流れるような足取りで奥に建つ主楼へ向かっていく。
暫くの間門の下で待っていた
りつだったが、やがて上質な袍を着込んだ長身の男がゆったりと歩みを進めてくるのが見えて柱に凭れていた背を離した。
(青い髪…)
陽の下に曝された男の髪の色は、藍色。ひどく珍しい色の髪を後頭部で束ね上げた中年の男が、
りつを見るなり厳格な表情を微かに和らげた。
「利紹が寄越してきた傭兵はお前か」
「はい。
明秦と申します」
「そうか。こちらだ」
雇い主が日向に立っていながら傭兵が軒下の影にいるのは流石に失礼だ。そう思った
りつが数歩足を進めると、男は掌を前方へと向けて来たばかりの道を引き返した。
りつも長嚢を抱え直しつつ足早に従い、主楼への道程を辿っていく。
扉の開いた主楼の入口では数人の女性が恭しく頭を垂れていた。彼女達の姿を横目で見つつ正面を通り抜けたところで、沈黙は男の質疑によってようやく破られた。
「利紹は元気かね」
「はい。…風邪を引いた姿は、見た事ありませんが」
「ああ、そうか。彼は仙だったな。我々とは違うのだった」
静かに後ろを着いてくる
りつの返答に苦笑を零しながら、男は主楼をさらに奥へと進んでいく。左側の開けた景色を
りつが何気なく見てみると、小さな渓谷を模した庭園が注ぐ陽射しに煌いていた。
男の物言いに少しだけ引っ掛かりを覚えながらも、案内を受けて辿り着いた場所は主楼の最奥だった。彫細工の施された扉の前で足を止め、じわじわと高まる緊張を胸に男が扉を開ける後姿を見詰めて、一拍。
扉の先へ入室する男に続いて、
りつもまた恐る恐ると堂内に足を踏み入れるのだった。
◇ ◆ ◇
2.
促されるまま堂室の中に入った
りつは、形式上雇い主である露翠から早速港までの道程や道中での注意等の説明を受けた。護衛は
りつを含めて四人。重嶺から早足であれば大体十日ほどで港に到着できる。そう、方卓上に広げた地図を覗き込んだままの露翠の説明に、
りつは相槌を打つ。
「
明秦、お前の得物は?」
「剣です」
「剣が二人に槍と斧が一人ずつか…」
露翠は何かを思案するように顎を撫でつつ僅かに天井を仰ぐ。方卓の向かい側から地図を見下ろしていた
りつは説明された道程を目で辿っていた。
重嶺から北東延びる道を進み、沿岸の道へ出て東へ少し歩けば港に着く。その間に賊と遭いさえしなければ簡単な仕事のように思えた。
だが、複数の護衛を着けるからには運ぶ品はそれなりに価値のある物だ。少なくとも
りつはそう推察すると、未だ悩むように眉を顰める雇い主を見上げる。
「露翠さん、運ぶ荷は――」
「傭兵は荷の中身について質問をしない。聞く奴は雇い主の荷を狙う輩か、あるいはお前のように事情に疎い者だけだ」
「すみません…」
「利紹もそこまでは教えんかったか…まぁいい」
僅かに俯く
りつを見た露翠は溜息を吐くと軽く苦笑してみせる。てっきり怒られるものだと思っていた
りつであったが、次いでふと沸いた疑問から僅かに首を傾げた。
…州城勤めの利紹と荷運びの露翠。二人は一体どのような関係なのだろうか…と。
そんな
りつの不可解を察したのか、露翠は僅かに表情を砕く。
「ああ、言い忘れていたが。利紹とは腐れ縁でな、今回の事もお前の事情も聞いている。だからといって仕事で甘やかす気は無いからな。覚悟しておけ」
そう言って豪快に笑う露翠を前に、
りつは苦笑を零しながらも小さく返事をする。
既に雇い主が事情を知っている事が彼女の緊張を和らげたものの、冗談を含んでいるであろう脅しに肩の力が入る。
明日の出立までにはこの緊張も多少解れるだろう。そう予想していた
りつであったが、結局翌日を迎えても肩の力は変わらず篭もったままだった。
渓汀園の一郭にある房室を借りて一晩を明かし、早朝からそそくさと出発の準備を始めると、就寝前に確認した飯堂へ向かった。朝はそこで朝餉を取るようにと、昨晩に露翠から言われていた。
舎館の入口の手前に設けられた扉を潜ると、そこそこ広い堂室に大卓と椅子が整然と並んでいた。左側には厨房で支度に右往左往する男女の姿が垣間見える。
彼らの姿を眺めつつ歩いていると、最奥の席に座る男の姿がふと目に付いた。飯堂にいる客は彼ただ一人。この早朝から居るのは珍しいと、
りつはぼんやりと思う。
「おはようございます」
何気なく挨拶を口にした
りつを、面を上げた男は凝視して、一瞬怪訝そうに顔を歪める。卓上に広げていた巻物に右の掌を置くと、左腕で頬杖を着いた。がっしりとした体格に目付きの鋭い、茶髪の男だった。
「露翠の旦那の友人が寄越したっていうのは、もしやあんたか?傭兵にしちゃあ随分と若いが」
「これが初仕事なので、色々迷惑をおかけすると思いますがよろしくお願いします。…ええと」
「李偃だ。縁あってここの主によく雇われてる。他の二人ならまだ寝てるぞ」
李偃と名乗った男はそう仏頂面で告げると、巻物に置いた手をそっと外して再び覗き込む。
朝から不機嫌な人なんだな、とか、そんなに眉間に皺を寄せていたら跡が付きそうだ、とか、どこかずれた考えから目を丸くしていた
りつであったが、じっと据えられた視線が気になったのだろう。再び気怠げに顔を上げた男が卓上を軽く叩いた。
「……まぁ、立ち話もなんだ。座れ」
「はい」
勧められるまま大卓の向かい側に腰を下ろした
りつは、巻物を指でなぞりつつ見下ろす李偃の様子を不思議そうに眺める。時折訝しげに眉を顰める様が気になって、僅かに首を傾げた。
「それは?」
「漣と才の地図だ。俺達はいつも才国まで荷を運ぶが、旦那の知人が寄越す傭兵は必ず港町で引き返す。理由は知らんが、それ以上は行かない契約になっているらしい。…お前、何か聞いているか?」
「いえ…港町までの護衛、としか」
「だろうな」
漣と虚海を挟んで存在する隣国――才州国。王の在位は十年ほどだと聞いた覚えのあった
りつだが、才国についてそれ以上の情報は何も知らなかった。李偃の言う通り護衛の範囲は港町までだと利紹から言われているので、目にする機会も無い。
ゆるりと頭を横に振る
りつに、李偃は溜息を吐く。椅子に深く座り直し、再び投げかけようとした彼の言葉は、しかし。
「お待たせしてすみませんでした。さぁ、どうぞ」
料理が運ばれてきたことで会話が一旦中断する。真面目な空気も店員の明るい声によって砕かれ、
りつと李偃は顔を見合わせると、互いに肩の力を抜き、食事に手を付け始めるのだった。
◆ ◇ ◆
朝餉を済ませた
りつと李偃は飯堂を出ると渓汀園の表で待っていた。程無くしてもう二人の傭兵が到着すると、挨拶もそこそこにしてさらに待つ。露翠と荷を乗せた馬車が到着したのは、それから暫くしてからの事だった。
露翠の指示通り、荷馬車の四方を護衛が取り巻きながら早足に進む。
りつは右前方を任されたが、終始無言のまま、時折露翠と李偃が交わす会話に耳を傾けては周囲の景色に目を凝らしていた。
蒼穹の空の下、豊かな緑と遠方に連なる青い山々。その景色が嘗てよく目にしていた祖母のいる田舎と度々重なって、ふいに胸に刺さるような痛みを覚える。それが、もう二度と見る事の無い景色への懐古か惜別の念からなのかは分からなかった。
重嶺を出発して約半日と少々、一行の前方に見えてきたのは閉門間近の町だった。閉門を告げる太鼓の音が聞こえると自然と駆け足になり、ぎりぎりのところで門を潜る。そこでほっと安堵したのも束の間、舎館を探して町内を歩き、門と郷城の中間に建つ舎館で無事に部屋を確保できた。
飯堂で早々に食事を済ませると、露翠は一階の部屋へ、傭兵二人は二階の一室へと向かい階段を上がる。
りつもまた階段に足を掛けようとしたが、その肩を誰かが引いた。
「?」
「
明秦、お前はこっちだ」
声を掛けたのは李偃だった。振り返った
りつを手招きながら歩き出し、彼女が従い進んでいくと、そこは舎館の敷地内に停めてある荷馬車の元。夜とはいえ生温い空気に若干心地の悪さを感じる
りつの眼前で、李偃は結び合わせた幌を解き、人一人分が潜れるほどの入口を作る。
「お前を荷馬車で寝かせろと、旦那からのお達しだ。向こうじゃ男だらけだからな」
「分かりました」
露翠の配慮を内心有り難く思いつつ頷いた
りつは、李偃が作った入口を潜ろうと身を屈めた――その矢先。
「昨日、旦那から聞いたんだが…紫秦が死んだってのは、本当か」
瞬間、胸を抉られる思いで李偃を振り返る。先程と然程変わらない彼の表情から内心を読む事は難しい。…概ね、半信半疑といったところだろうか。
りつは息を呑んで、静かに頷く。あれから随分と時が経過しているにも拘わらず、悲報を耳に入れていない事を不思議に思いながら。
「四年前の話ですが……妖魔から私を庇って亡くなりました」
「そうか……良い腕だったのにな」
李偃の声も表情も、別段咎めるようなものではなかった。落とした視線はどこか寂しげであったが、呟きで言葉を終わらせようとした男の様子に、
りつは首を傾げる。
「お知り合いだったんですか?」
「ああ、いや。俺は元々唐州の兵だったんだ。そこから傭兵に転身した。だから紫秦の事も利紹の事も知ってるんだ」
「へぇ…」
「あの時は紫秦や利紹も内乱の鎮静に駆り出されて大変だった―――」
脳裏に記憶を甦らせつつ懐かしげに明かす李偃の口が、ふと
りつの姿に視線を戻した瞬間ぴたりと止まる。次いで彼の顔に浮かび始めたのは、怪訝だった。
「…ちょっと待て。お前、紫秦と何処で知り合った」
「え?」
突然の問いに一瞬目を丸くした
りつだが、此方へ迷い込んだ当時の、康由と紫秦に助けられた記憶がふと甦る。彼らの捜索の範囲は所属する州だ、間違いないだろう。
「唐州ですが…」
「唐州の何処だ」
「ええと…蕭維――いや、あそこは多分違うな…」
立て続けに追究する李偃に、
りつは困惑した表情で首を傾げた。初めて訪れた村や妖魔に襲われた場所の地名は今もよく分からない。それで、曖昧な返事が口から洩れた瞬間、李偃の視線がきつくなった。
――何かを疑われている。
そう、直感した
りつは緊張が背筋を這い上る感覚に襲われた。人から疑りの眼差しを受ける事はよくあるが、こうして真正面から疑いを問われるのは久方ぶりだった。
「お前の出身は」
「…蓬莱です」
少し躊躇してから、
りつははっきりと答える。すると予想通り李偃の表情が驚きに染まった様子を見て、思わず微苦笑を浮かべた。
この国にいる蓬莱出自の者は稀少だ、彼が驚くのも無理はない。
「海客なんです。迷い込んだとき、妖魔に襲われたところを康由さんと紫秦さんに助けていただきました」
「…そうか…お前、海客か…」
李偃の声から力が抜けていく。珍しいものを見る目つきで、それでいて安堵したような声が夜の裏庭に響く。
「悪い……お前を疑った」
「いえ、気にしないで下さい」
ばつが悪そうに視線を逸らす李偃に対して、りつは頭を横に振ってみせる。
今思えば、康由や紫秦との出会いは運が良かった。浮民や難民に近い位の存在が将軍と出会い、あまつさえ縁を持ち、その部下に剣術まで指南してもらっている。破格の待遇に違いなかった。そんな、本来ありえない待遇ある者だからこそ李偃は疑いをかけたのだろうと、
りつは思う。
荷車に背を凭れた李偃は後頭部を軽く掻きながら、横目でりつを見る。黒緑の髪に青鈍の眼。道理で海客だと分からなかったはずだ。
尤も、利紹が送ったのならばこちらの者でも海客でも構わなかった。彼は決して腕の立たない者を寄越しはしないのだから。
「…そういや、才に見知った海客がいる。海客ってのは、そいつのように泣き虫で頼りない奴ばかりだと思っていたんだが」
「才にも海客が…」
「ああ、
明秦のような胎果じゃあないぞ。年は十四、五くらいか……一応、こっちの言葉は覚えていたな」
李偃がふと思い出したように告げた情報に、
りつは眼を瞬かせた。
西方の国々に漂着する海客の数が少ない現実は
りつも知っている。その中で入手した隣国の海客の情報は彼女にとってひどく貴重だった。
「自分の居場所は此処にねぇから、帰りたいんだとさ」
「その人はまだ、諦めていないんですね」
帰る希望を断ち切り、この世界で生きていく事を決めた自分とは違う。元より海客に居場所など無い。居場所を作り、或いは自分の在り方を決めなければ此処では生きていけない事を、彼女はこの四年間で思い知らされた。
もっとも、今の居場所である里家はあと半年もすれば追い出される。居候できるのは二十歳まで。その期限まで、じき半年を切ろうとしていた。
――これを機に一度会ってみようか。
そんな考えがふと、
りつの脳裏に過ぎったときだ。
「なぁ、才まで行く気はないか?」
「…才…ですか」
突然李偃が挙げた提案を聞いた
りつは思わず表情を硬くした。不意に自分の考えと彼の案が重なって、内心どきりとする。
「漣国内だけを見て暮らしていく気なら別にいいが…お前は海客だ。条件は漣よりも格段に厳しいだろうが、住む国を選べる。別の国を一度見ておけば少しは考えも広がるだろう」
――国に縛られず、自由に生きられる。
彼の言葉の中に羨望に似た思いが含まれている気がして、
りつは思わず発しかけた言葉を喉元で留めた。
…彼の言う事は尤もだが、今すぐには返答できない。そんな
りつの心中を察したのだろう。凭れていた荷馬車から離れ、来た道を戻り始める李偃は右手をひらりと振ってみせる。
「行くなら旦那に話を通してやる。港へ着くまでに考えておけよ」
「――、はい」
じゃあな、と別れを告げると、彼は気怠そうな足取りで立ち去っていく。闇夜に紛れゆく男の後姿を見送る
りつは暫くの間ぼんやりと佇んでいたが、やがて温い風の中に溜息を落とした。
突然降ってきた話を受けたい意気と契約を守らねばならない誠実。挟まれた心が揺れるのを感じながら、暗いばかりの景色から視線を外して荷馬車の内に潜り込む。ひどく重くなった心持ちのまま、
りつはひとまず荷箱の間に寝支度を整え始めるのだった。
3.
「昨日ああしてお前の出身を聞いたのは、唐州から来る奴等が皆兵士だからだ」
「そう、なんですか」
翌朝、朝餉を済ませて出発した一行は昨日と同様の配置で次の町を目指して進む。
田圃が広がる景色を右側に踏み均された道を歩きながら、
りつは馬車の手綱を握る李偃と言葉を交わしていた。
今現在李偃がいる位置は昨日雇い主である露翠がいた場所だった。露翠は出発から程無くして幌の内に入ったため、彼が二人の会話に介入する事は無かった。
「利紹が寄越してくるのは大抵自分の部下だからな。まぁ、まさか海客を寄越してくるとは思いもしなかったが」
はは、と軽く笑う李偃に
りつは苦笑を浮かべる。彼がそう思うのも当然だ。海客が漣国にいる事自体が滅多に無かったのだから。
「海客?」
後方から怪訝を含む声が上がって、李偃と
りつが振り向いたのはほぼ同時だった。
馬車の後部の護衛につく、もう二人の傭兵。体格に負けず厳つい面を
りつが見やると、男は鼻で笑った。
「なんだ、女で傭兵もここらじゃ珍しいと思ったが、まさか海客とはな」
「まだ若いようだが、腕は立つのか…って質問は野暮か?」
男二人の笑い声には明らかに侮蔑の意が籠められていた。その声を聞いた
りつは驚きも束の間、剣の柄を握り締める。
海客が差別を受ける事は紫秦から教えられていたが、それはあくまで漣国の外の話だと勝手に思い込んでいた。…だが、眼前に突き付けられたのは差別ある現実だ。
この瞬間、
りつの胸中には初めて屈辱という名の憤りが芽生えた。
「…侮辱ですか」
歩みは止めず、後部へ体を傾けた
りつの手は自然と掴んだ剣の柄を浮かせかけていた。勿論抜くわけではない。怒気のせいで小刻みに震える手を鎮める為だ。
睨め付けてくる余所者を反抗的と捉えた男も上体を僅かに傾けたが、幸いそれ以上の対立は無かった。
「揉めるな、喧しい」
李偃の冷静ながら刺を含んだ一喝が彼らを黙らせる。
りつを忌々しげに見ていた者は驚いて一瞬言葉を失い、その間に李偃の切れ目が前部の護衛者を捉えた。
「
明秦、お前も止めろ。上手く躱せ。あの程度の挑発に乗っているようじゃ今後傭兵はやっていられんぞ」
「……すみません」
李偃に諭されては何も言えず、
りつの声量は語尾に向かって小さくなる。抗議できない悔しさから下唇を噛む彼女の姿を、李偃は暫くの間横目で捉え続けていた。
黙々と歩き続け、道中で昼餉を軽く済ませると、再び歩くこと数時間。港まであと二、三日の距離だという李偃の説明を聞きながら次の町に到着した頃には、
りつの足は疲労を溜め込んですっかり浮腫んでしまっていた。
昨日と同様に舎館が確保でき次第夕餉を済ませると、昨日と同様に露翠は部屋へ、傭兵は別室へ、
りつは馬車内へと別れた。
僅かに開けた幌の間から入り込んだ
りつは整然と置かれた荷と荷の間にある空間へ身を横たえ、薄い布を縫い合わせただけの衾を体に掛ける。佩刀していた剣は枕元に置いて、念の為、いつでも手に取れるようにしておいた。
しかし、いくら夜も暖かい気温とはいえ流石に馬車内で連日夜を明かすのは体が堪える。硬い床のせいか、いい加減痛み始めてきた体を抱き込むようにして丸くなる。
港まではあと二、三日だと、李偃は言っていた。このまま賊と遭遇することなく終われば良いのだが。
そう、眠気に襲われながらも考えていた矢先。
不意に聞き拾った衣擦れの音が睡魔を引き潮のように遠退かせる。閉ざしかけた瞼を開け、咄嗟に剣の柄へ手を伸ばした。
(何の音…?)
しっかりと閉じた幌の内側に、人の気配がある。馬車に侵入してきたという現状に
りつが身を強張らせた直後だった。
「早く運び出せ。奴に見付かる前に…」
低く呟いたそれが昼間に聞いた侮辱の声と瓜二つである事に気が付いた瞬間、
りつの柄を掴む手が震えた。…彼らの目的は、最初から荷物だったのだ。
荷物の間に横たわる
りつの姿は見えないようで、男達は荷を漁り始める。木箱の蓋を開け、中身を引っ掻き回す、その直前でりつは覚悟を決めた。
彼らの手から荷を守る。その為に、剣を抜くと。
りつが体にかけていた衾を音のする方へ投げ飛ばした直後、抜刀して立ち上がる。
突如視界を遮る布を慌てて払おうとする人影目掛けて突進すると、空いた幌の間から縺れ合うようにして転がり出た。そこでようやく衾を剥ぎ、まともに顔を曝した男は、
りつの確信通り昼間に侮辱の言葉を吐いた傭兵の一人だった。
「やっぱり…」
「お前、別室にいたんじゃなかったのかよ…!!」
「今までずっと馬車の中だったよ。それも露翠さんと李偃さんがあんた達の事を警戒していたからだったんだね」
男は驚きの表情を垣間見せ、すぐに笑った。その笑みの中に混ざる焦燥は時間がないせいか、丸腰のせいかは分からなかったが、剣を下段に構えた
りつは薄闇の中に立つ男の姿を冷静に見定める。
刹那、男が
りつの背後を一瞥したのと、背後から足音がしたのはほぼ同時。意図に気付き咄嗟に真横へ飛び退いた
りつの真横を、重い何かが風を切って落とされた。
地に食い込んだのは、斧。厚みあるそれを目にした瞬間、利紹の教えを脳裏に過ぎらせた
りつは男が斧を引き抜く前に峰の部分を思い切り蹴り込んだ。
同時に振り薙いだ剣は男の腕を深く切り裂き、悲鳴を上げて柄を離した男の野太い声が夜の静寂を破る。
「っ…てめぇ…!!」
「私を侮辱した賊にてめぇと言われる覚えはない」
振るった剣から伝わる肉を裂く感覚に顔を顰めながら、男の睨み顔を睥睨で返す。
傭兵業を全うしようという者に混ざってこんな邪な輩もいる。だからおそらく露翠は護衛の半分を信頼ある者にしたのだ。
足元の斧を一層強く踏みつけ、丸腰の二人の様子に警戒しつつ考えていた
りつは剣を構え直す。
駆けつける足音が聞こえてきたのはその直後だった。
「っ…逃げるぞ!」
慌てて逃げ出す男達を追って、
りつもまた駆け出そうと足を踏み出す。直後、左肩を強く掴まれる感覚に思わず振り返った先には、ここ数日で見慣れた顔があった。
「追わなくていい」
「…李偃さん、」
けど、と言いかけた
りつの言葉を、李偃は片手を挙げて制する。彼は険相を浮かべながら、闇夜の中に溶け込んでいく男達の姿を見据えていた。
「何があった」
「……傭兵の二人が荷を盗もうとして、馬車に」
「ああ、なるほどな」
李偃は
りつの説明を聞きながら地面に刺さった斧を引き抜いた。矯めつ眇めつしてから肩に担いで、男達が逃走した先を見詰める
りつの肩を軽く叩く。
「時折、荷物目的で傭兵をやる奴がいるんだが、奴等もその類だったんだろうよ」
「じゃあ、彼らはやはり賊…」
「そんなところだ。…が、後は追うなよ。中身を確認してから旦那の元に行く。お前も手伝え」
「――はい」
大きく開かれた幌の間から入ると、荒れた馬車内を適当に片付けつつ、開けられた木箱の中身が無事であることを確認する。そこで安堵したのも束の間、李偃は
りつに留守を任せて舎館の中に駆け込んでいく。少しして戻ってきた彼の後ろには、舎館の者が三人と馬が二頭。荷馬車の移動を頼んだのだ。
移動を舎館の者達に任せた李偃は
りつを連れて舎館の中へ入っていく。長々とした廊下を抜け、回廊を通り、やがて舎館の最奥に近い客房の扉前で足を止めた。
静寂に満ちた廊下で戸を叩く音が響く。
「誰だ」
「李偃と
明秦です。入りますよ」
扉越しの返答を待たずに扉を開いた李偃は、連れの背中をそっと押し出しながら歩みを進める。躊躇いながらも押されるまま入室した
りつは、夜だというのに煌々と明かりを灯して方卓に向かう男の姿に目を瞬かせる。こんな夜に一体何をしているのだろうか。
「どうした」
「傭兵二人が馬車の荷物を盗もうとしていました。荷物は無事です」
「傭兵は」
「逃走しました。武器は置いていったようですが…」
「そうか。ならば、これ以上の襲撃もあるまい。放置しておけ」
紙に走らせていた筆を休めて顔を上げた露翠の、藍の前髪が揺れる。報告する李偃と
りつの顔を交互に見やる彼の言葉こそ冷静だが、僅かに細めた双眸からは安堵ではなく怪訝の色が読み取れた。
方卓上に置いた手を組み合わせ、視線を固定した先は、
りつの元へと。
「だが、少々厄介な事になったな」
「厄介…ですか」
「傭兵が減ってしまった」
あ、と
りつは思わず声を上げる。傭兵が半分になってしまった以上、此処からは李偃と二人で荷馬車と露翠を守らなければならない。加えて、
りつが傭兵として護衛につくのは港まで。その先から才国国都までは、護衛が李偃一人になってしまう。
「…旦那」
「ああ、仕方ない。――
明秦」
「はい」
露翠に呼ばれて、
りつは改めて背筋を伸ばした。…彼が言わんとしている事を、大体予想しながら。
「傭兵の半分を失った以上、お前には才国国都まで護衛についてもらわねばならん。利紹には後日私が話を着けよう。それでいいな?」
「―――分かりました」