序章
がたり。
弾むような揺れを受けて、微睡みの淵に漂っていた意識が一気に覚めた。
項垂れていた頭を起こした途端、窓の縁に着いていた肘がずれ落ちる。咄嗟に前席の背に取り付けられていた取手を掴んで、辛うじて頭をぶつけずに済んだ
りつは安堵から溜息を零した。
取手を掴んだまま体を起こすと、視線は自然と左側の窓越しに広がる緑の風景へ。山を背に広がる深緑は真昼の陽光を受けて鮮やかに見える。緑の幕間からは時折道沿いに並ぶ黄昏色の稲穂が風に靡いて波のようだった。
山の間に通る一本道。鮮やかな自然の中を、バスはただひたすら走る。バスの前方、運賃表の隣に嵌め込まれた時計を見上げると、乗り込んでから既に一時間が経過していた。降車予定のバス停までは確か、あと二十分前後というところだろう。
(…もう、こんな時間か)
寝過ごさずに済んだと、
りつは安堵混じりの溜息を吐くと膝上に視線を落とす。居眠りをする直前まで読んでいた本は先程の揺れの所為だろうか、いつの間にか閉じてしまっていた。
続きを読む気にはなれず、読みかけの頁の間に挟まっていた親指の代わりに栞を挟んで今度こそ本を閉じると、手提げ鞄の中にしまい込む。もう一度目を向けた窓の向こうには、紺碧を薄めたような空の下、一羽の野鳥が大きく羽搏いていた。
父方の田舎へ遊びに行くよう両親に勧められたのはこれで何度目だろう、と
りつは記憶を振り返って数えたけれども、十を超えると指が足りなくなったので止めた。
学校の長期休暇の度、体調を崩す度にわざわざ往復代数万円を掛けてまで送り出す両親に呆れながらも、彼女は拒否できずにいた。それは一昨年に病気で祖父を亡くした祖母の山奥での一人暮らしが心配なためであったし、都会のとの字も見えない自然の中での暮らしは療養には最適だったためでもある。
…そう、療養。
頻繁に喧嘩をする両親。離婚の話こそ持ち上がっているものの、世間体を気にして離婚に踏み出せずにいる二人の喧嘩に、仲裁の為と進んで巻き込まれるのが
りつの常だった。
だが、元々病弱だった彼女の身体は膨れ上がったストレスに耐え切れなかった。始まった喧嘩を仲裁しようと口を挟めば、最終的には怒りの矛先が
りつの元へと注がれる。それにじっと耐える彼女の限界を表すように、肌に浮かび上がる無数の発疹。
そうして決まって、両親は田舎での療養を勧めるのだ。まるで、目障りな彼女を追い出すかのように。
バスに揺られ続けること一時間と二十分ほど。分岐路に設けられたバス停で降車した
りつはボストンバッグを抱え直すと、山沿いに走り去るバスを横目にもう片方の道を見詰めた。車一台が辛うじて通れるほどの幅しかない、コンクリート製の橋を。
此処からは徒歩で約一時間ほど緩やかな山道を歩かなければならない。何度も通って慣れているとはいえ、人並より体力の無い
りつには毎度きつく感じるのだった。
緑豊かな風景とガス混じりのない新鮮な空気に辛さを緩和されながら歩き続けること五十分ほど。茂る緑の間に点在する焦茶色の建物を遠目で認めて、
りつは大きく息を吐き出した。ようやく村――正しくは字――が見えてきたのだ。
さらに五分ほど歩いて村の入口に到着すると、石垣の上に建てられた木造の家を見上げる。屋根は茅葺。都会ではお目に掛かることの無いであろう建物の戸口を見詰めたが、戸は閉ざされたまま、人の気配が無かった。
「…小母さん、いないのかな」
ぼそぼそと呟きながら石垣の横を通って、村のさらに奥へと進んでいく。途中、牛舎や鶏の声がする家を三、四軒ほど通り過ぎて奥へ。村の最奥にあたる場所にぽつんと一軒、他の家よりも一回り大きな茅葺屋根の家が高い石垣の上に建っていた。
一見古めかしい茅葺屋根の家だというのに、入口にはトタンの屋根が繋げられていて、積雪対策の為に都会でよく見られる玄関扉が取り付けられている。それが建物から出っ張った形で取り付けられているため、
りつは毎度違和感を覚えて首を傾げるのだった。
家の手前にある緩やかな坂を上って、玄関ではなく勝手口の方へと向かう。こちらでは鍵を掛ける事の方が珍しく、横開きの戸に手を掛ければ若干滑りが悪くもがらりと開いた。
戸の先は仄かに光の入る台所だった。右の壁沿いには火の入っていない竈、左の壁沿いには手押し式のポンプと石製の台所。それらを見渡してから、一段高くなっている床の上にボストンバッグを下ろす。
「ただいまばあちゃん」
勝手知ったる他人の家。下駄の隣に靴を脱ぎ揃えて上がった
りつは荷物を置いたまま、部屋へと続く引戸を開けた。小さな声が聞こえたのは、食卓と戸棚しかない畳六畳半の部屋を見渡したときだった。
「ばあちゃん、どこ?」
「そこさ待ってろ」
最早聞き慣れてしまった訛りある言葉に足を止めた
りつは一人頷く。やがて奥の部屋へと続く襖が引かれて、紺のもんぺと薄紫のうわっぱり姿で玄関まで出向いた老女は、孫の姿を見るや否や目元を和らげた。
「よう来たねぇ。おかえり」
「ただいま」
口元の皺が笑みで深くなる祖母の姿を見れば、
りつもまたつられて笑みを零した。約五ヶ月ぶりの再会だった。
一昨年に祖父を亡くしてから後、一人で暮らしている祖母は内孫である
りつが来るのを毎度楽しみに待っていた。まだ元気に続けている畑仕事を手伝ってくれる人手が来たから、という理由もあるが、やはり一人は寂しいのだろうと、
りつは思う。
到着したその日は夕食や風呂炊きの手伝いをいながら、
りつの家の――今の家庭の状況を尋ねてくる祖母に始終苦笑いを浮かべるばかり。
「あでね(頼りない)親だおんや」
「仕方ないよ。それに、もう慣れたし」
九月の山奥は肌寒い。囲炉裏に火を入れながらそんな話をして苦笑いを零す祖母に、
りつは微妙な笑みを浮かべる事しかできなかった。
(慣れたのか。…それとも、諦めたのか)
分からない、と胸の内で呟きながら、立ち昇る煙をぼんやりを見詰める。
…この煙と同じように、時間が経てば薄れるだろうか。両親の摩擦も、このはち切れそうでやり場のない思いも。
老人の朝は早い。
空が薄明を迎え始めた頃に起床して朝食の用意を始める。それに
りつも倣って布団を抜け出し、眠気の残る目を擦りながら朝食作りを手伝う。ご飯と味噌汁と糠漬物、それから家の裏で飼っている鶏の、産みたての卵で作った卵焼き。
そんな朝食を時間を掛けて取り終わると、台所と囲炉裏の消火を確認してから家を出る。朝食の後は畑へ向かうのだ。
二人分の籠と鎌を携えた
りつは祖母と共に緩やかな山道を二十分ほどかけて上る。低山の中腹に拓かれた畑へ到着した時には、
りつの口から疲労の溜息が漏れた。
(…これ、療養じゃない)
自分は確かに心身を安めに来た筈だ。なのに、どうして体を酷使しているのか。
田舎へ訪れ、畑を手伝う度に思いながらも手を動かす
りつの傍らで、祖母は嗄れかけた声で笑った。
「おらも昔は弱くてなぁ。けんど、此処さで働けば治るおんや」
「畑で?」
屈託無く笑う祖母に半信半疑の眼差しを向けたが、
りつは実際、今まで祖母の不調を見た事が無かった。…尤も、体が丈夫になったのが畑仕事のお陰かどうかは分からないのだが。
畑から戻った
りつと祖母は共に昼食を済ませた後、一人釣竿を手に緩やかな山道を昇る。
畑へ続く道を通り、到着する手前で左右に別たれた道を左に曲がる。右の道は午前に向かった畑へ続いており、左はなだらかな坂が下へ下へと延びていた。背の高い樹木が細道を挟んでいる所為だろう。鬱蒼とした印象を受けながら、細道を奥へと進んでいく。
薄暗い細道を五分ほど歩くと、急に視界が開けた。
りつの眼前に広がるのは池だった。木々に囲まれた池の水面は真昼を過ぎた陽光を湛えてひどく眩い。
「よ、いしょっ」
池の縁にゆっくりと腰を下ろして、釣竿に巻き付けていた糸を解くと、早速仕掛けを水面に垂らした。
水面を割る小さな水音を最後に、周囲には深緑の囁きだけが響き続ける。
「…………」
魚はいる。だが、動いている様子は無い。それでもじっと待つ
りつは、引きの無い釣り糸をぼんやりと眺めながら、意識は自然と此処ではない場所の蟠りを振り返る。
――事ある毎に両親の間で起こる口論。その度に仲裁へ入り、結果的に八つ当たりを食らう。
元々大人しく、それでも気骨を持っているつもりだった
りつはめげずに何度も説得した。だが、結局は怒りの矛先が
りつに移るだけで、何の解決にもならない。そんな日々に嫌気が差していたのも事実。
改善に至らない。ならば説得にも意味が無い。良案が思い浮かばない。兄弟も居ないので、一人で考えるより外に無い。…あの場所では、頼れる人がいないのだから。
―――だが、このままでは堂々巡りだ。
「……苛々する」
嫌気が差した
りつは片手で髪をぐしゃりと掻いた。これでは釣りに集中できない。
仕方なく、一旦仕掛けを戻そうと竿を上げた
りつはしかし、上げた腕が途中で止まった。弛みなくぴんと張る釣り糸。…厄介なことに、池を囲む緑に生えた雑草に針が引っかかってしまったのだ。
何度か引いてみたが取れそうな様子は無い。仕方なく腰を上げて針を回収しに斜面になっている叢を慎重に下る。糸を手繰って針の場所を見付けて手を伸ばした――その瞬間。
ほんの僅かに滑った足が、屈んだ体勢を崩した。前のめりになった体を慌てて起こそうとしたが、時既に遅く。
崩れた姿勢を保ち堪えられなかった
りつの身体が水面に向かって落下した。
「…!!」
反射的に息を止めると、ごぽごぽと立ち上る気泡の音を耳にしながら澄んだ水を掻く。
全身を包む冷水に一瞬身を竦めてから足を伸ばしたが、低い筈の池の底に何故か足が着かない。加えて押し流されているような感覚に陥って、即座に疑問が浮かんだ。
―――池のはずなのに。
もがきながらようやく顔を出した
りつは大きく息をする。たった数秒で体力の半分を奪われた気がしたが、今は一先ず池から上がるべく視界の端に捉えた白い陸地を目指して泳ぎ出した。
足はすぐに着いて、水を含んですっかり重くなった服を鬱陶しく思いながら水を掻き分けて歩き、ようやく陸へ上がる。顔に張り付いた髪を掻き上げ―――はたと、動きを止めた。
鮮明になった視界に広がるのは池――ではなく。
「……ここは…?」
池から浅瀬へ。
突然変わった景色を前に、
りつは暫くの間呆然と立ち尽くしていた。