多くの地が荒廃した。
多くの妖魔が跋扈した。
多くの地より蝕が起きた。
多くの民が妖魔に襲われた。
それでも、国を離れぬ者があった。
-薄明の殻 壱-
日照り続きによって罅割れた地に、潤いを喪失した土が砂と化し舞う。風は無に等しく、しかし時折突如として突風となる。周囲に豊かな木々の姿を見出すことは困難を極め、時折遥か上空を旋回する黒い点が奇声を轟かせては飛び去っていく。家と呼べる程のまともな建物は少なく、当然の如く地上に人の気配はない。そこに在るのは、荒廃の進む土地と廃れた廬のみ。
民は己の家を捨てざるを得なかったのだろう―――騶虞を傍らに引き連れた男は、片手で佩刀を確かめつつ眉を顰めて思う。此処に長居は無用であるのだが、どうしても足が止まった。再興当初の光景と酷似するが故であるのか、それとも―――
思考に浸っていた男は、途端頭上より轟き渡る奇声を聞き受け頭上を仰ぎ見やる。体躯の巨体さと声からして、思い当たる妖魔の種はただ一つ。
「蠱雕か、」
幸い上空の妖魔は個体。故に余裕を以って佩刀していた剣を擦り抜き手前へ構えようとした―――その時だった。
「おっさん、こっちだ!」
男は声を便りに自身の足元へと視線を下げ、次いで目を白黒させた。僅かに浮き上がった地面の間から手が伸びて履を引っ叩いているのである。
男は唖然として手を眺め続けている。その手の主は彼の驚きに気付いたのか、這い出てこようと内より鉄板を押し上げる。砂中より上がった鉄板の下には深い洞がぽっかりと口を開いて、少年は転がり出てくるや否や男を洞の中へと招いた。迷う暇もなく、男は騶虞を引き連れて洞の内部へと続く階段を駆け下る。その姿を見終えて、少年もまた身を内に潜めつつ鉄板を下げる。所々に焚かれた篝火が足元をよく照らし周囲もまた明るい。
男は残りの階段を駆け下り最奥へと進む。燈篭が一つ置かれただけの空間は、騎獣を置くには充分な広さを持つ。周囲を眺め、よくよく見れば周囲の壁は均等に積まれた石によって出来たものであった。頭上を仰げば上には継ぎ接ぎされた布と木板が乗せられており、しっかりと固定されている。地下でも随分と下に位置している部屋なのだろう、空気がひんやりとして心地好い。
「此処は……」
一体なんだ、と。そう続けようとした男の背後で、階段を駆け下りてくる音がする。振り返れば、先程の少年が行李らしき物を抱えて部屋に辿り着いたところであった。
「おっさん、怪我してないか?」
「ああ、無事だ」
「なら良かった。蠱雕に襲われたら大変だからな」
からからと笑う少年は足元に荷を置きやる。その上にゆっくりと腰を掛けて、もう一つあったらしき荷を男の元へ放り投げる。男は投げ寄越された物と少年を交互に見比べ疑問を視線に乗せると、腰掛けだ、という声が返って来た。……どうやら、坐って休めという事らしい。
子供に気を遣われて拒むのも難であるので、男は大人しく腰を下ろす。少々硬さはあるが、慣れると然程気にはならなかった。
騶虞の鞍に括り付けていた荷を解きながら、男は少年に向け問いを投げる。
「此処はお前の家か?」
「いや、避難の場所だ。俺の塒(ねぐら)はそっちの戸の先」
そう言って、少年は薄暗い起居内の東側を指差す。男は暗がりの所為で戸の姿を捉える事は出来なかったが、あちらにあるのかと取り敢えずは頭の隅に留めておいた。
少年は先程から笑みを絶やさない。頭上で蠱雕の声が聞こえたような気がしたが、それを聞こえぬ振りでやり過ごす。―――獲物が突如消えたのだから、まだしつこく頭上に居るのだろう。
男は軽く溜息を吐く。その姿を傍で眺めていた少年は立ち上がり、暗がりの中慣れた足取りで行李の側から離れゆく。
「地上よりはいくらか涼しいだろ。蠱雕が過ぎるまで涼んでな」
篝火の上に何かを塞ぐように置いた少年はさも暢気に男へ告げる。提案を飲み込んだ男はああ、と頷いた。次いで改め周囲を見回し、自身を含め二人以外の気配が無いかを確認する。てっきり隠れているものであると思っていたが―――どうやら、本当に少年が一人で住んでいるらしかった。
「……親はどうした」
男の問いに、少年は暫しの間を置いた後に苦笑を零す。闇に慣れてきた男の眼は少年と、その手に持つ鍋らしき物を捉える。先程篝火の上へ置かれていた物であると推測するも、鍋を持つ手を僅かに下げた少年は若干寂しげに頷き、応えた。
「……、俺、十一歳以前の事が記憶にないんだ」
「記憶にない?」
男は露骨に顔を顰めてみせる。覚えていないと言えば良いものの、彼は記憶にないと言った。……即ち、記憶の喪失である事を予測してさらに怪訝な面持ちを見せる。
彼の態度を余所に、少年は言葉を続けた。
「だから親の顔も名前も覚えてないし、何より自分自身の字も思い出せないときた」
内容を伺えば、相当重症である。彼の中では親の存在など微塵もなく、自身の呼ばれていたものさえも初めから無かった事になっている。記憶を失う事がどれだけ大変であるのか。そう考えるも、失った事の無い男にとって少年の苦しみは理解し兼ねる。実際、目前の者は笑うばかりで苦とは程遠い印象を受けていたのだから。
事情を飲み込んだ男は、少年を呼ぼうとしてふと言葉を飲み込む。名を思い出せないというのならば、今現在呼ばれる名が存在する筈である。
「今は何と呼ばれている?」
「……頭に巻いた布の色が藍だから、
藍て呼ばれてたな」
「―――単純な上、女のようだな」
「うるせぇおっさん」
人が一番気にしていた事を。拗ねたように口角を曲げて男を見やる。同時、男もまた眉を顰めた。おっさんと呼ばれる事に酷く抵抗がある。あの半身ならばいざ知らず、出会ったばかりの少年に三度も言われては黙ってなどいられない。
行李に腰掛けながらも胡座を組んだ男は溜息を小さく吐き出し、次いで名を名乗る。……尤も、あくまで仮であるのだが。
「おっさんではない。俺は風漢という」
「そ、」
男の名乗りをさらりと流して、少年は鍋を傾ける。小さく立つ水音を聞き拾った風漢は、すぐさま少年の手元を見やる。何をしているのかと腰を浮かせて、途端目前に差し出されたものがあった。
「……ま、茶でも飲めよ」
―――なんだ、茶か。
風漢は薄闇の中で差し出された湯呑みを受け取り、そっと中を覗き込む。立つ湯気が顔に当たって、本当に闇の中で淹れたのだと思いつつ口を付ける。
口内に広がるのは―――苦味ばかり。
「……茶の旨味が無いな」
「いいから黙って飲め」