盲亀の浮木
この男は憂巫女を知っていた。
知っていて近付いて来たことも正直に打ち明けた。
けれど用心するに越したことはないと砂蔵(さくら)はずっと気を張り続けていた。
憂巫女を知っているというだけで、常人ではないことは明らかだ。
自身では天皇家の人間だと言うが、それにしてはそれ以上の身の上話は一切しない。
本当に、こちらの様子を見に来るだけのような、そんな振る舞いが続いていた。
砂蔵としては助かっていたのも事実だった。
男とは言え此処は女郎屋だ、身体を売ることに変わりはない。
砂蔵の容姿の良さも相俟ってか、客はひっきりなしに訪れる。
疲労があろうが体調が悪かろうが、客に指名されれば相手をする。
けれどこの男は違う。
砂蔵はまだこの男に指一本出されていなかった。
ただ不定期に訪れては一晩ゆっくりと酒を呑み、明け方に帰って行く。
砂蔵は頼まれたときだけ酌をする。
他は何も要求されない。
この男が初めて客として訪れてから、今日で何度目になるだろうか。
「あの、」
その日は満月だったのだが、生憎雲が多く月は顔を見せずにいた。
月見を考えていたらしいが、男は開けていた障子を閉めた。
その頃合いを見て砂蔵は口を開く。
砂蔵の近くに座り直し、男が呼応する。
「皇子(みこ)様は何故、俺を買うのですか」
弱々しい灯りだけでは相手の顔はよく見えない。
そのせいか動きが静か過ぎて相手の考えていることが全く読み取れない。
加えてこの男は寝ようとしない。
砂蔵は困惑していた。
身体を売らなくて済むことが助かっているのは事実だ。
それも一晩も、ただこうしてこの男が静かに過ごす傍に控えていればいいのは休息になる。
しかし何故この男がそういうことをしてくれるのかが、砂蔵には皆目見当が付かない。
素性は教えてくれない、こちらが憂巫女だということは知られている、けれどそれ以上の情報を得ようとはしてこない。
砂蔵は命を狙われる理由こそあれど、守られるような立場にはいなかった。
ましてや天皇家の人間にどこでどう関わりが出来るというのか。
砂蔵の問いかけに男は暫く黙ったままだった。
自分で盃に酒を注ぎ、静かに煽る。
「理由が欲しいか?」