残り香


「おっ」
「おお」

 横断歩道の信号が青から赤に変わりそうだった。
 間に合わせるために駆け出そうとした華倉だが、ふと近くに見覚えのある顔がいることに気付く。

 意識するよりも先に声が漏れていたらしい、華倉の声に気付いてその相手――裕が顔を上げる。

 久し振りと笑う裕の方へ、自然と足の向きは変わる。
 もう横断歩道のことなど忘れ、華倉も呼応しながら傍まで近付く。

「どうしたの、こんなところで」

 今日は平日。
 時刻は昼前、しかもここはオフィス街だ。

 裕は住宅街寄りの保育園勤務のはずと思い出す華倉に対し、裕はきちんと教えてくれた。

「浅海の勤め先がこの辺なんだ。俺、明日から仕事復帰するから、今日は昼も一緒に食おうって」
「……あー」

 そうか、まだ休んでいたのか。
 裕の表情はとても穏やかで、その笑顔も明るいものだったが、華倉の方は反応に困っていた。

 最鬼との闘いに巻き込まれ、強制的に鬼神の力を覚醒、解放させてしまった裕は、声が出せなくなるという後遺症を負った。
 篠宮家が古くから世話になっている医師の見立てでは、身体的な異状はない、声が出せない症状も一時的だろうとのこと。
 フォローは全て請け負うという約束は取り付けていたが、実際にはこちらからの定期連絡以外はこの瞬間まで特に接触はしてなかった。

 華倉は気に掛けていた。
 こちらからもっと小まめに連絡を取るべきではとも考えていたが、魅耶には首を横に振られた。
 連絡がないということは困っていないということです、との返答だった。

 それは分かっていたつもりだった。
 それでも華倉には「加害者意識」が根強く芽生えていた。

 華倉は居た堪れなくなり、浅くだが裕に対して頭を下げた。
 突然のことに驚く裕。

 しかし華倉がその後悔の言葉を口にするより先に、裕がやんわりとそれを拒絶する。

「もうそういうのやめろって華倉。俺は勿論だけど、浅海ももう怒ってないから」

 裕は笑いながらそう言ってくれたようだった。
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