・アフターバニー
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「ただいまぁー…」
囁くようにこそこそと挨拶をし、玄関を音が鳴らないように静かに閉める。
自宅のはずなのに、まるで空き巣に入っているかのような気分だった。
杠ちゃんの家を意気込んで出た時の私の勢いは、自宅が近付くにつれてほとんどなくなっていた。
だってこればかりは仕方がない。緊張するものは緊張するのだ。
千空とは所謂夫婦という間柄だ。
勿論男女のあれそれだって一通り経験済みである。
それでも、日頃そういう類の欲を見せない彼の見せるつかの間の"熱”は、私にとってはいつまでも毒だった。
生憎こちとら3700年以上前から彼への恋慕を拗らせているのだ。
夫婦という関係になったとしてもその根本は変わらなかった。
リビングからはノートパソコンを叩く音と一緒に時折「あ゛ー」という苛立ったような声が聞こえてくる。
はて、行き詰っている研究でもあっただろうか。
退勤時点では聞いていなかった気がするが。
こそこそと、その手前にある寝室の扉を開け、とりあえず着替えを…と荷物を置き、クローゼットを開けた。
「おい」
思わずびくりと背筋が伸びるのを感じた。
危なかった。変な声が出るかと思った。
そのくらい直前まで気配を感じなかったのだ。
「こそこそ帰ってきてんじゃねぇ」
「ご、ごめん」
振り返った私はうまく笑えていただろうか。
「…飯、食うんだろが。出来てんぞ」
内心心臓が飛び出るのではないかというほどドギマギとさせる私を他所に、千空はそれだけ言ってリビングに帰っていく。
あれ?それだけ?
てっきり向けられるものだと思っていた熱は、先ほどの彼からは感じられなかった。
少し拍子抜けしてしまい、ほっと息を吐くと、どうやら自分が思っていたより緊張していたらしいことに気付いた。
…気にしすぎても、仕方ないよね。
「とりあえずご飯ご飯」
切り替えるように呟くと部屋着に着替え急ぎ彼の後を追った。
リビングに入ると、お味噌汁のいい香りが漂ってきた。
どうやら今日は和食のようだ。
「これ運べ」という千空の指示のもと、食器や料理をテーブルに並べていく。
我が家では家事は曜日毎の当番制なので、密かに千空が当番の日を楽しみにしていたりする。
料理は科学だと言うだけあって、彼の料理は美味しいのだ。
「いただきます」
二人向かい合って手を合わせる。
この時間が一日で一番幸せを感じる時間で大好きだ。
みそ汁の椀を持って、一口口に含む。
その温かさと柔らかい塩味が喉を通り、ほっと息を吐いた。
つい数刻前に杠ちゃんの家で飲んだ緑茶に近いようで遠い、彼特有の優しさを感じる味がした。
そんな優しさを噛みしめていると、ふと、視線を感じた気がして箸を止め顔を上げる。
しかし、目の前にはただ静かに料理を口に運ぶ千空の姿があった。
あれ?と首を傾げる。
「どうした。飯冷めんぞ。さっさと食え」
「あ、うん」
慌てて食べるのを再開しつつ、彼にちらりと視線を向けるがやはり変わりはない。
…もしかして意識しすぎてるのかも。
そう、自分を納得させ、美味しい食事を再開した。
「風呂、入れといたから早めに入れよ」
「う、うん。ありがとう」
一緒に肩を並べて食器を洗い、千空が最後の一枚を軽く拭いたところでそんなことを言われた。
どうやら既にお風呂まで溜めておいてくれたらしい。
スパダリか?スパダリだったわ。
そう自分の中で完結させながら「じゃあお先にもらうね」と風呂場へ足を向ける。
「…え?意識し過ぎだよね?何もないよね?」
洗面所の扉を後ろ手で閉めながら思わず言葉が滑り落ちた。
なんだか、いつも以上に甘やかされている気がする。
でも、先ほど入浴を進めてきた彼の表情からは、昼間の熱は感じられなかった。
…本当に彼は表情に出さないから分かりづらい。
付き合いが長くなればわかると思っていた彼の心の底は、まだまだ見えない部分が多いように感じた。
嫁として不甲斐ないな、と思いながらも現実に目を向ける。
……一応、いつもより念入りに身を清めておくか。
そう頷き、服に手を掛けた。