絆されることはない
もうどれくらい走って来たのか。
敗北というものの重さについて、自分は考えた事がこれまであっただろうか。雑草を掻き分けながら、多宝丸はそんな事を思った。
敗北とは、こんなにも惨めで、辛くて……。
「くそっ、どこへ逃げやがった」
「あの怪我だ。遠くには逃げられまい」
「回り込んで挟み討ちにしろ」
殺される。見つかってしまったら。醍醐の家名に泥を塗るだけの、惨めったらしい死。
何かに足を取られ、躓いた。緩い傾斜を身体が滑り落ちる。もうこれまでだと思った、その時だ。
誰かが多宝丸の頭を持ち上げ、そっとその膝に載せた。白い指に頬を撫でられる感触に、懐かしさをおぼえた。
「母上……いや、百鬼丸……」
「しっ」
しばらく息を潜めていると、どうやら追っ手はこちらに気付かないで去ったらしい。百鬼丸は叢から少し顔を出し、素早く辺りを見回した。それから多宝丸の上衣を脱がせ、武具に指をかける。
「捨てるんだ、ぜんぶ。醍醐だと、わからないように」
百鬼丸は多宝丸から具足をはがし、刀も捨ててしまうと、多宝丸を背負って歩き出した。
「百鬼丸、何故私を」
「多宝丸はおれの、弟だから。おれの家族、もう、おまえだけ」
「兄上……」
本来呼ぶべき呼び方で、百鬼丸を呼んだ。百鬼丸は聴いているのかいないのか、まじないを唱えるように何かぶつぶつ呟きながら、歩いてゆく。
「薬と食べ物、寝る場所も必要だ。稼ぎたい、金を。働いて養う、弟、怪我してるから」
「そんな事言われたってねぇ。今時期仕事なんかないよ。畑に何もないからさ」
農家の女はすげなく言った。
「仕事をくれ。必要なんだ、金が。どうか」
言い募る百鬼丸に女はたじろいだ。そんなやり取りに、路傍の木の下に寝かされた多宝丸は、じっと聞き耳を立てていた。今度も駄目だろうと多宝丸は思った。百鬼丸はもう何人も、道行く人を捕まえてはこうして仕事を乞うていたが、人々は百鬼丸の風体をじろじろ見るだけでさっさと逃げて行ってしまう。
極めて美しい容貌でありながらボロを纏い、片言で喋る。そのさまはどうしても人ならざる者にしか見えなかった。赤子のように白くて苦労知らずな肌は、侍にも百姓にもあり得ないものだ。では一体何者なのか。なるほど不気味に見えるというものだろう。
もう日が傾いている。風が少し強まって来た。それでも百鬼丸は、辛抱強く道に立ち続けていた。多宝丸は目を閉じ、うとうとと微睡んだ。
どれくらい寝ていたのか。多宝丸はゆさゆさと揺さぶられて気がついた。
「多宝丸、多宝丸」
「……兄上」
「やった、仕事がみつかった。屋根の下で寝られる、飯も食べられる、薬も貰える。よかったな。さあ、行こう」
多宝丸は百鬼丸の背中で揺られながら、雇い主だという者の後ろ姿を見た。雇い主は馬に乗っていて、身綺麗な格好をしている。どうやら裕福そうだが、それならば何故、わざわざ百鬼丸を雇おうと思ったのだろう。用心棒としてならば、剣の腕の立つ百鬼丸はうってつけだが、今は丸腰である彼を、見ただけでそうとわかるものだろうか。
竹林の中、よく整えられた小道を一行は進んでゆく。
「兄上」
「だいじょうぶだ」
そう、百鬼丸は力強く応えるのだが、多宝丸の不安を拭い去ることは出来なかった。
敗北というものの重さについて、自分は考えた事がこれまであっただろうか。雑草を掻き分けながら、多宝丸はそんな事を思った。
敗北とは、こんなにも惨めで、辛くて……。
「くそっ、どこへ逃げやがった」
「あの怪我だ。遠くには逃げられまい」
「回り込んで挟み討ちにしろ」
殺される。見つかってしまったら。醍醐の家名に泥を塗るだけの、惨めったらしい死。
何かに足を取られ、躓いた。緩い傾斜を身体が滑り落ちる。もうこれまでだと思った、その時だ。
誰かが多宝丸の頭を持ち上げ、そっとその膝に載せた。白い指に頬を撫でられる感触に、懐かしさをおぼえた。
「母上……いや、百鬼丸……」
「しっ」
しばらく息を潜めていると、どうやら追っ手はこちらに気付かないで去ったらしい。百鬼丸は叢から少し顔を出し、素早く辺りを見回した。それから多宝丸の上衣を脱がせ、武具に指をかける。
「捨てるんだ、ぜんぶ。醍醐だと、わからないように」
百鬼丸は多宝丸から具足をはがし、刀も捨ててしまうと、多宝丸を背負って歩き出した。
「百鬼丸、何故私を」
「多宝丸はおれの、弟だから。おれの家族、もう、おまえだけ」
「兄上……」
本来呼ぶべき呼び方で、百鬼丸を呼んだ。百鬼丸は聴いているのかいないのか、まじないを唱えるように何かぶつぶつ呟きながら、歩いてゆく。
「薬と食べ物、寝る場所も必要だ。稼ぎたい、金を。働いて養う、弟、怪我してるから」
「そんな事言われたってねぇ。今時期仕事なんかないよ。畑に何もないからさ」
農家の女はすげなく言った。
「仕事をくれ。必要なんだ、金が。どうか」
言い募る百鬼丸に女はたじろいだ。そんなやり取りに、路傍の木の下に寝かされた多宝丸は、じっと聞き耳を立てていた。今度も駄目だろうと多宝丸は思った。百鬼丸はもう何人も、道行く人を捕まえてはこうして仕事を乞うていたが、人々は百鬼丸の風体をじろじろ見るだけでさっさと逃げて行ってしまう。
極めて美しい容貌でありながらボロを纏い、片言で喋る。そのさまはどうしても人ならざる者にしか見えなかった。赤子のように白くて苦労知らずな肌は、侍にも百姓にもあり得ないものだ。では一体何者なのか。なるほど不気味に見えるというものだろう。
もう日が傾いている。風が少し強まって来た。それでも百鬼丸は、辛抱強く道に立ち続けていた。多宝丸は目を閉じ、うとうとと微睡んだ。
どれくらい寝ていたのか。多宝丸はゆさゆさと揺さぶられて気がついた。
「多宝丸、多宝丸」
「……兄上」
「やった、仕事がみつかった。屋根の下で寝られる、飯も食べられる、薬も貰える。よかったな。さあ、行こう」
多宝丸は百鬼丸の背中で揺られながら、雇い主だという者の後ろ姿を見た。雇い主は馬に乗っていて、身綺麗な格好をしている。どうやら裕福そうだが、それならば何故、わざわざ百鬼丸を雇おうと思ったのだろう。用心棒としてならば、剣の腕の立つ百鬼丸はうってつけだが、今は丸腰である彼を、見ただけでそうとわかるものだろうか。
竹林の中、よく整えられた小道を一行は進んでゆく。
「兄上」
「だいじょうぶだ」
そう、百鬼丸は力強く応えるのだが、多宝丸の不安を拭い去ることは出来なかった。
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