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ルール違反

みおは拾ったレポート用紙を、気が付いたらかなり集中して熟読してしまっていた。それは出勤時間ギリギリまで書きなぐっていた草稿である。ほんのちょっと、誤字脱字がないか気になっただけのはずが。目を上げて時計を見ると、なんともう午前三時になろうとしているではないか。

「いけない、お風呂に入らなきゃ」

みおは着替えの用意を始めようとした。と、その前に、まだやることがある。

バッグの中から手帳を取り出す。ダイアリーの後の、フリーページ。『醍醐 百鬼丸』と走り書きされた文字は案外達筆だった。みおは彼の名前の下に書かれたメールアドレスと電話番号を、一文字一文字指で差しながら、携帯のアドレス帳へと打ち込んでいった。

本来なら、帰宅してすぐにお礼のメッセージを送るのがマナーなのだろう。今からでもいいだろうか?だが、既に深夜というよりも早朝と言ったほうが良い時間だ。みおは少し迷って、やはり明日にしようと、携帯を充電器に繋いだ。

バスタブに浅く張ったお湯に半身を浸からせながら、みおは一日を振り返った。

いい人、悪い人。
付き合っていい人。
付き合ってはいけない人。
あの人はどちらなのだろう。

彼は悪い男だと、三郎太は言った。なぜなら何でもかんでも女のせいにするから、だそうだ。

「そんな風には見えないけどな」

みおは一人ごちた。

アドレスを自分から聞いたのは適切だったのだろうか?お自夜ママが言うには、客から聞いてきたら自分のアドレスを教えても別に構わないが、だからといってあまり店外でほいほい客と会うな、とのことだった。交換したアドレスは営業に使えと。それだって別に義務ではないのだそうだ。

ルール違反だろうか。だけど今回の場合、彼が、

"今度は三郎太先輩抜きで行こう。もっとマシなところへ"

などと言ったから。一緒に出かける事があるなら、連絡先は知っていた方がいいではないかと……。

「あ、でも。それって私こそ、悪い奴じゃない」

三郎太基準によれば、そういうことになるはず。

バスタブから出て、髪を洗う為に椅子に腰掛ける。ふと自分の腹を見て、みおは「げっ」と思わず声を上げた。こんな生活をしていたら当たり前だが、いつの間にか腹の肉がちょっと肥えたようである。

「ランニングでもするかな」

腹の贅肉を摘みながら、みおは思った。



***

果てしないと感じたランニングコースも、ようやく折り返し地点に近付いて来た。みおは眼前に見える集落の端まで辿り着いたら、また元の道を戻って帰ろうと決めていたのだ。

走っている途中、近くの畑を耕していた老人にゲラゲラ笑われた時は、すぐに回れ右して帰りたくなった。自分の走る姿はそんなに無様だろうか。無様、だろうな……と。

集落の端はちょっとした上り坂になっていた。坂の上には、左手には新しめの民家が連なり、右手には工場の敷地を囲む古びた長い壁が続いていた。工場からは絶え間なく騒音が響いている。みおは坂を上がらずに踵を返して、また細長い道を、遠くに見える自分のアパートのある集落目指して走り出した。

田んぼ三枚ぶんくらい走った時、背後からガタガタと大型車の通る音が近付いて来たので、みおは畦の方に避けた。なんというのだったか、トラックの荷台部分にぐるぐる回る大きなドラムが載った、あの車。通りすがる際に運転席を見上げると、運転手もみおをちらりと見た。見知った顔。百鬼丸だ。車は速度を落とさず、そのままガタガタと去って行った。みおはぽかんと口を開けたまま、その車を見送った。

その日の昼間、百鬼丸から返信があった。朝起きてすぐにみおが送った前夜のお礼のメッセージに対してだ。

"どういたしまして"

それだけだった。



***

百鬼丸から連絡先を教えてもらった事をおこわに打ち明けたら、予想通りに驚かれたものの、予想外な驚かれ方をした。

「えっ、じゃあみおちゃん、それまで百さまの連絡先、知らんかったの?」

「え!?うん……。知らないと不便かなと思って、こっちから聞いたんだけど……」

「えええ~」

おこわは呆れ顔で、陸奥と顔を見合わせた。

「何?私、なんか変?」

「いやぁ。意外やわぁ。百さまって結構軽率に人に連絡先教えるんよ。だからこの店の子、全員百さまの連絡先知ってるんやよ。まさかみおちゃん、知らんかったなんて。もうこの店来て、二か月以上経つでしょ?」

「うん、まぁ」

「まぁさ、そのうちの一ヶ月は、アイツ、鬼神祭りのせいでうちに来なかったでしょ」

陸奥が紫煙を吐き出して言った。実質一ヶ月。しかもみおは週に三回ほどしかシフトに入らないし、百鬼丸だって常連客とはいえ、数日おきにしか来店しないのだ。実のところ、彼とはこれまでに三、四回しか顔を合わせていないのでは。と、そこまで考えて、そんな浅い仲の他人にアドレスを聞き出すなんて、自分はとんでもない事をしてしまったのではないかと、みおは気付いた。

「どったん、みおちゃん。顔が赤いよ?」

「あのー、私、出過ぎたことしちゃったかなーって、思って」

すると、おこわと陸奥はまた顔を見合わせて、ニヤリと笑った。二人ともなんだかとても、悪い顔をしている。

「ええんやないの?出過ぎてるのはお互いさまやよ。最近百さま、みおちゃんが休みの日に来ると、開口一番『みおは?』って聞いとるよ」

「えっ」

「おっと、噂をすれば影って奴だわ」

陸奥は灰皿と割箸を、カウンターの左から二番目の席に置いた。



「あんな所で何してたの、この間」

百鬼丸は灰皿に煙草の灰を落としながら言った。先日はよく笑顔を見せたのが嘘のような、無表情ぶりである。

「何って、ランニング」

「へぇ。暑い中、汗びっしょりで大変そうだなと思って。でも生コン車じゃあ家まで送れないしな」

「あの車、"生コン車"っていうのね」

「うん、おれらはそう呼ぶ。普通は"ミキサー車"っていうだろうけど」

"おれらはそう呼ぶ"……すなわち、いわゆる業界用語、ということだろうか。

「生コン車ね。覚えたわ」

「何の為に?」

「ネタとして」

「ネタって何だ」

気分を害されたのかと思いきや、百鬼丸はふっと笑うのだった。

彼は指に煙草を挟んだままテーブルに肘をつき、じっとみおを見上げた。まるで人を射貫くような視線に気圧され、みおは思わず半歩さがった。すると百鬼丸は目を閉じ、すんすんと鼻を鳴らす。

「やっぱり、良い匂いがする、みお」

「でしょでしょ?私とむっちゃんで選んであげたんよ、その香水」

ドリンクを作る為にカウンターに戻って来たおこわが、会話にまざってきた。

「百さまもいつも何かつけてるわよね。それなんていうの?」

「さぁ、忘れた。青い、細長い瓶に入ってるやつ」

「何や、それだけじゃ分からんわ。あ、いらっしゃいませー」

「こんばんは」

弟の声を聞いて、百鬼丸は忌々しげに舌打ちをした。

「おいたほ、何しに来たんだお前」

「何しにって、兄上を探しに」

多宝丸は兄の隣に腰掛け、みおが差し出したおしぼりを受け取り、手を拭いた。

「明日は出張じゃないだろ」

「N興業の大奥さんの葬儀、兄上が行くようにと」

「ちゃんと覚えてる。こんな暑い盛りに喪服なんざ、かったりぃ」

「あと、香典袋切れたから帰りに買ってきて、と」

「母さんめ、そんなもんは電話で言え。わざわざお前を寄越すことはない」

百鬼丸は煙草を灰皿に押し付け、すぐにまた新しい煙草に火を点けた。

「兄上」

「あ?」

「今日、香水つけすぎでは」

「そんなことはない」

「明日大丈夫ですか、そんなに匂わせて」

「平気だろ。抹香臭さに紛れらぁ」

「そうかなぁ」

「たほちゃん何飲むん?」

「烏龍茶で」

「ウーロンハイ?」

「烏龍茶でお願いします!」
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