おねだり上手
「送っていただき、ありがとうございます」
「いいって、いいって。それより、部屋に入る時、気をつけるんだよ。ホッとしてる時が一番危ないんだから」
ドアを閉めたあと、陸奥の軽が走り去っていく音が聴こえてきた。陸奥はみおが部屋に入るまで、下で車の中から見守ってくれていたのだ。
灯りを点け、部屋を見渡す。異常なし。はぁ、と溜め息を一つ。
時刻はとっくに午前一時を回っている。
また今日も返せなかったな……。
みおは紙袋をクローゼットにしまい込もうとし、はたと思い立って袋の中身を取り出した。もしかして、変な臭いが着いてしまっていないかと思ったのだ。
黒いパーカーにうっかりファンデーションをつけてしまわないように用心しながら、鼻を寄せる。すんすん、と匂いを嗅いでみる。生乾きの腐ったような臭いや、仕舞いっぱなしのカビ臭さもない。むしろ、柔軟剤の芳香が抜けていてよかったと、みおは思った。
この上着を借りた翌日からずっと雨の日が続いたので、洗濯したのはいいものの、一度も日に当てる事が出来なかったのだ。幸いみおの部屋のベランダは軒 が広く出来ているので、一番窓に近い物干し竿に干せば、雨に濡らさずに外気に当てる事が出来た。
おかげで何とか乾いた洗濯物に腐敗臭が着かなくて済んだが、畳む際、強烈なフローラルの香りに頭がくらくらしたみおだった。やはり日光に当てないと、柔軟剤の香りは抜けないのだ。
洗ってから数週間が経ち、柔軟剤の匂いが抜けると、別の匂いがうっすらと立ち上ってきたように思えた。布地の芯まで染み付いた、持ち主の煙草の匂いと、香水の匂い。それに、
「……って、これじゃ私、変態みたい!」
思わず声に出して言った。誰が見ている訳でもないのに、顔から湯気が出そうになる。
他人の服の匂いを熱心に嗅いでいるとか、かなり、おかしいのでは……。
みおはそそくさとパーカーを紙袋に戻し、クローゼットに入れようと思ったが、止めた。防虫剤の臭いがついてしまうのを嫌ったのだ。
部屋の隅に紙袋を置き、みおは着替えとタオルを用意して、シャワーを浴びた。
講義室に入ると、おこわが手を振っていた。席を取っていてくれたのだ。おこわの隣には多宝丸が座っている。
「おはよう」
「おはよー」
二人とも昨夜は強か飲んで潰れていたはずなのに、何事もなかったかのようにこざっぱりした顔をしている。一方みおは、さほど飲まなかったのにも関わらず、頭に霞がかかったような心地がまだ抜けない。二人は呑まれる割には強く、みおは呑まれないけれど下戸なのかもしれない。
みおはおこわの隣に座った。多宝丸は他の友達との会話に戻っていた。彼のお兄さんは最近どうしているのか、昨夜も聞きそびれたし、聞いてみようかと少し頭によぎったが、友達と楽しそうにしているのを邪魔したら悪いと思い、やめた。
「どったの、みおちゃん?」
おこわに肩を叩かれ、ドキッと振り返る。
「えっ何でもないよ」
「そう?なんやたほちゃんに用でもあるんかと思って」
「別に」
「そぉ?」
おこわは目を細めていたずらっぽく笑った。
「まぁええわ」
「ところでおこわちゃん、おこわちゃんって香水に詳しい?」
「香水?好きやけど詳しいってほどでもないかな。みおちゃん、香水が欲しいん?」
「うん、あのね。お仕事の時、やっぱりつけておいた方が良いのかな、と思って。身だしなみ的に」
「そんな決まりないよ。どうせお酒と煙草の匂いでわからんくなるし、自分の好きでええんよ」
「そうなんだ……」
「あ、もしよかったら、一緒に香水見に行かん?私もちょうど新しいの欲しい思ってたから」
「うん、じゃあどれが良いか一緒に選んでくれる?私全然知識ないから」
「任せといて。さっそく今日、むっちゃん午後空いてるかどうか聞いてみよ」
おこわは携帯を取り出した。陸奥に車を出して貰おうというのだ。メッセージを送ってすぐに、返事が来た。
「よかった、むっちゃんオーケーやって!」
おこわは本当におねだり上手だ。みおも携帯を取り出し、昨日教えてもらったばかりの陸奥のアドレスにメッセージを送った。
***
百鬼丸が久々に店に姿をあらわしたのは、その翌週の事だった。
「ああもう、何もかも嫌んなった」
指定席にしているカウンターの左から二番目の席にどっかりと腰をおろすなり、
「何が鬼神祭りだ。鬼神なんか自治体ごと滅びてしまえ……」
彼は呪詛の言葉を吐いた。
「百くんち、今年大世話だったんだっけ」
お自夜は平然と言った。百鬼丸の荒みっぷりに一つも動揺していない様子だ。
「"おおぜわ"って何ですか?」
「大世話っていうのは」
みおの問いにお自夜が答えようとすると、
「祭りの運営のリーダーみたいなもの」
百鬼丸はそう言って、煙草に火を点けた。
「へぇ、お祭りのリーダー。なんだかカッコいいね」
「全然よくない。ったく、そんなもん、親父がやれっていう」
お自夜がからからと笑った。
「それも社会勉強よ。若いうちから色々経験させてくれて、いいお父さんじゃない」
「自分が面倒臭いだけだって。おれみたいな若造の言う事なんて、誰も聞きゃあしねえんだけどな」
ふぅ、と紫煙を吐き出し、百鬼丸はつと目を上げた。そして、
「久しぶり」
みおの存在に今初めて気付いたかのように、言うのだった。
「お久しぶり」
「元気だった?」
「うん」
「そうか」
彼は頬杖をついて微笑んだ。
「そういえば、今日はおこわは?」
「休みよ」
「そっか。今日、水曜……」
いつも邪険にしているわりに、居ないなら居ないで寂しいようだ。
「今日暇そうだし、そっちにみおちゃんつけてあげようか?専属で」
「いいよ別に。一人で飲むし」
その時、ドアベルが鳴るよりも先にドアがけたたましい音を立てて開いた。
「たーのもぉーーーっ!!」
男の二人組が勢いよく入って来た。百鬼丸は眉間に深々と皺を寄せて舌打ちした。
「いいって、いいって。それより、部屋に入る時、気をつけるんだよ。ホッとしてる時が一番危ないんだから」
ドアを閉めたあと、陸奥の軽が走り去っていく音が聴こえてきた。陸奥はみおが部屋に入るまで、下で車の中から見守ってくれていたのだ。
灯りを点け、部屋を見渡す。異常なし。はぁ、と溜め息を一つ。
時刻はとっくに午前一時を回っている。
また今日も返せなかったな……。
みおは紙袋をクローゼットにしまい込もうとし、はたと思い立って袋の中身を取り出した。もしかして、変な臭いが着いてしまっていないかと思ったのだ。
黒いパーカーにうっかりファンデーションをつけてしまわないように用心しながら、鼻を寄せる。すんすん、と匂いを嗅いでみる。生乾きの腐ったような臭いや、仕舞いっぱなしのカビ臭さもない。むしろ、柔軟剤の芳香が抜けていてよかったと、みおは思った。
この上着を借りた翌日からずっと雨の日が続いたので、洗濯したのはいいものの、一度も日に当てる事が出来なかったのだ。幸いみおの部屋のベランダは
おかげで何とか乾いた洗濯物に腐敗臭が着かなくて済んだが、畳む際、強烈なフローラルの香りに頭がくらくらしたみおだった。やはり日光に当てないと、柔軟剤の香りは抜けないのだ。
洗ってから数週間が経ち、柔軟剤の匂いが抜けると、別の匂いがうっすらと立ち上ってきたように思えた。布地の芯まで染み付いた、持ち主の煙草の匂いと、香水の匂い。それに、
「……って、これじゃ私、変態みたい!」
思わず声に出して言った。誰が見ている訳でもないのに、顔から湯気が出そうになる。
他人の服の匂いを熱心に嗅いでいるとか、かなり、おかしいのでは……。
みおはそそくさとパーカーを紙袋に戻し、クローゼットに入れようと思ったが、止めた。防虫剤の臭いがついてしまうのを嫌ったのだ。
部屋の隅に紙袋を置き、みおは着替えとタオルを用意して、シャワーを浴びた。
講義室に入ると、おこわが手を振っていた。席を取っていてくれたのだ。おこわの隣には多宝丸が座っている。
「おはよう」
「おはよー」
二人とも昨夜は強か飲んで潰れていたはずなのに、何事もなかったかのようにこざっぱりした顔をしている。一方みおは、さほど飲まなかったのにも関わらず、頭に霞がかかったような心地がまだ抜けない。二人は呑まれる割には強く、みおは呑まれないけれど下戸なのかもしれない。
みおはおこわの隣に座った。多宝丸は他の友達との会話に戻っていた。彼のお兄さんは最近どうしているのか、昨夜も聞きそびれたし、聞いてみようかと少し頭によぎったが、友達と楽しそうにしているのを邪魔したら悪いと思い、やめた。
「どったの、みおちゃん?」
おこわに肩を叩かれ、ドキッと振り返る。
「えっ何でもないよ」
「そう?なんやたほちゃんに用でもあるんかと思って」
「別に」
「そぉ?」
おこわは目を細めていたずらっぽく笑った。
「まぁええわ」
「ところでおこわちゃん、おこわちゃんって香水に詳しい?」
「香水?好きやけど詳しいってほどでもないかな。みおちゃん、香水が欲しいん?」
「うん、あのね。お仕事の時、やっぱりつけておいた方が良いのかな、と思って。身だしなみ的に」
「そんな決まりないよ。どうせお酒と煙草の匂いでわからんくなるし、自分の好きでええんよ」
「そうなんだ……」
「あ、もしよかったら、一緒に香水見に行かん?私もちょうど新しいの欲しい思ってたから」
「うん、じゃあどれが良いか一緒に選んでくれる?私全然知識ないから」
「任せといて。さっそく今日、むっちゃん午後空いてるかどうか聞いてみよ」
おこわは携帯を取り出した。陸奥に車を出して貰おうというのだ。メッセージを送ってすぐに、返事が来た。
「よかった、むっちゃんオーケーやって!」
おこわは本当におねだり上手だ。みおも携帯を取り出し、昨日教えてもらったばかりの陸奥のアドレスにメッセージを送った。
***
百鬼丸が久々に店に姿をあらわしたのは、その翌週の事だった。
「ああもう、何もかも嫌んなった」
指定席にしているカウンターの左から二番目の席にどっかりと腰をおろすなり、
「何が鬼神祭りだ。鬼神なんか自治体ごと滅びてしまえ……」
彼は呪詛の言葉を吐いた。
「百くんち、今年大世話だったんだっけ」
お自夜は平然と言った。百鬼丸の荒みっぷりに一つも動揺していない様子だ。
「"おおぜわ"って何ですか?」
「大世話っていうのは」
みおの問いにお自夜が答えようとすると、
「祭りの運営のリーダーみたいなもの」
百鬼丸はそう言って、煙草に火を点けた。
「へぇ、お祭りのリーダー。なんだかカッコいいね」
「全然よくない。ったく、そんなもん、親父がやれっていう」
お自夜がからからと笑った。
「それも社会勉強よ。若いうちから色々経験させてくれて、いいお父さんじゃない」
「自分が面倒臭いだけだって。おれみたいな若造の言う事なんて、誰も聞きゃあしねえんだけどな」
ふぅ、と紫煙を吐き出し、百鬼丸はつと目を上げた。そして、
「久しぶり」
みおの存在に今初めて気付いたかのように、言うのだった。
「お久しぶり」
「元気だった?」
「うん」
「そうか」
彼は頬杖をついて微笑んだ。
「そういえば、今日はおこわは?」
「休みよ」
「そっか。今日、水曜……」
いつも邪険にしているわりに、居ないなら居ないで寂しいようだ。
「今日暇そうだし、そっちにみおちゃんつけてあげようか?専属で」
「いいよ別に。一人で飲むし」
その時、ドアベルが鳴るよりも先にドアがけたたましい音を立てて開いた。
「たーのもぉーーーっ!!」
男の二人組が勢いよく入って来た。百鬼丸は眉間に深々と皺を寄せて舌打ちした。