皿まで食らえよ


 コトコト、コトコト

 どこか張り詰めたキッチンに鳴り響く、粘度のある液体が煮込まれている音。それと、頭上で回る換気扇のファンの音だけが耳に届いてくる静かな空間で一人、火にかけた鍋と相対しては、おたまを左手に持って、中身とにらめっこしている。脇のスマホの時計を、ちらりと見た。

 なんで俺がこんなこと──

 我に返って、ため息。別に、料理をしたことがないわけではないが、普段この台所に立つのは自分ではない。本来立つべきその人は昼時に、『ちょっと、頭冷やしてくるから』と言って、買い物に出てしまった。もう何時間経ったっけか、と再び時計を見た。
 本当だったら今頃、がここに立って、今夜の食事を作ってくれていたかもしれない。なぜこんなことになってしまったのか、原因は、自分に──

「──いや! 俺じゃないし。一也のせいだし」

 思い出して置いていたスマホを取り上げ、例のSNSを起動させる。ストーリーズの欄に並ぶ丸いアイコン、“kazuyamiyuki”と律儀なフルネームのアカウント名をタップすると、写真が開いた。あと数時間で消えるはずのそれは、昨日の夜中に投稿されたものだった。
 画面には『暇してたので作りました。』とシンプルな文字列だけが貼り付けられ、白い皿に盛られた、見るからに手の込んだ料理が映る。数秒して切り替わった、次の写真──テーブルにセッティングされた先ほどの料理と、カトラリー、ワイングラスがそれぞれ二つずつ並んだ写真に、添えられたテキスト。『ビーフシチューのリクエスト。いつのまにか上機嫌で赤ワイン買ってきてたから、自分も一杯だけ付き合う。』

「……あいつの投稿、仕事以外だと料理の話ばっかだな」

 本当に野球以外の趣味がないのだろう。昔から変わらない。ただ、御幸が料理が得意だということは知っていたが、それらを家事の一環としか考えていない彼は、わざわざ作った料理をSNSにあげるような男ではない。選手との自撮りなんかをマメにあげる自分とちがって、アカウントがあるのもほぼ形だけ、投稿だってめったにしないくせに。
 だが最近、球団の広報から『たまにはファンサービスだと思って』と釘を刺されたらしく、24時間で消えるストーリーズは使うようになった印象だ。

「だいたいなんだよコレ、“匂わせ”?」

 いや、そんなことができるほど器用な男ではないな、とすぐにかぶりを振ってその考えを捨てる。相手が女性と特定できないから良いものの。それにしても、手間のかかるメニューをよくもまあ甲斐甲斐しく──そういえば、とヨリを戻したという噂は本当なのだろうか──

 ぼうっと考えていたところ、ふいに手の中のスマホに『タイマー終了』の表示、同時にそれが大きな音を鳴らした。「やべっ」

 慌てて置き、焦げ付かないよう鍋の中身をかき回す。あとは仕上げだけなのだ、ここで失敗するわけにはいかない。
 おたまを鍋のフチに引っ掛け、手に取ったナイフで欠片かけらを切り落として、ぽとん、と鍋の中に落とす。香りが立ち込める。レシピは動画で何度も確認した。便利な時代になったものだ。

 ぐるぐる、ぐるぐる。
 どれくらい、かき混ぜればいいんだ。ずっとやらせる気か? そこまでは書いていない。『ひとつまみ』ってなんだよ、人によって量が変わるだろ。『適量』なんてもってのほか。
 鍋の底から、ぐるぐる。
 夜の底から、ぐるぐる、香りとともに、部屋に立ち込める憂鬱も、一緒にかき混ぜる。鍋の中の小さな世界、に未来を見た気がして、吸い込んではごくん、とツバを飲み込んだ。少しむせて咳き込む。静かだ。独り。

 どこかの絵本だかアニメで見た、大鍋で毒を作る魔女の気持ちは、こんな感じなんだろうか。いよいよ下らないことが頭の中を占め始めた。振り切るように、時計に顔を向けた。


 ああ、腹が立つ。昼間の自分に。スマホを見つめた彼女の横顔──たまたま目にした昨夜ゆうべの御幸の写真を見て、『……いいなあ』とぽつり。こぼしたそれは、どう聞いても本音のトーンだったから。
『そんなに一也のがいいのかよ』子どもみたいな嫉妬に火が付いてしまった。そのあとも、よく覚えていないが、勢いにまかせていろいろ余計なことを言ったと思う。小さい男だと笑ってくれたほうが、まだマシだったかもしれない。
 しかし、彼女は結婚するずっと前から、冷静な人だった。いつも自分がカッとなっても、喧嘩になる前に収めようとする人だ。そんな彼女が、頭を冷やしてくると言った以上、こちらから連絡するのは違う気がした。

「いつ帰ってくるんだよ……」

 時計を見ながら吐き出してから、そんな保証はどこにもないことに気が付いて、ギクリと鼓動が乱れた。この先もそばにいないことが、想像できなくて、足りなくて、もどかしい。
 俺にできることなんて、ただ、待つだけ。そうして、待っていた。をかき混ぜながら、ずっと──


「ただいまー」

 玄関のほうから聞こえてきたその声に、ほう、と大きく息を吐いた。続けて、「鳴ー?」と呼ばれる。昼間のことを思い出すと、きまりが悪いのだけれど。彼女を前に、素直に話せるだろうか。「鳴さーん?」
 ダイニングへやってきた妻を横目で見ると、いつも食材を買いに行く際に持っているエコバッグを、テーブルに置いているところだった。「あれ、いい匂い」

「なんか作ってたの? おなかすいたよね。ごめん、夜ごはん今から用、意……」

 そこまで言った、彼女の言葉が途切れた。こちらを振り向いて固まっているのは、気配でわかった。「……なにを、作って、」そっと近付いてくる足音、そちらにチラッと目をやると、彼女は自分の隣までやってきて、こちらの手元をじっ、と見つめた。鍋を覗き込んだ彼女が、一言。「ビーフシチュー」

「…………なんだよ」
「おいしそう」
「たまにはいいだろ」

 自分が率先して台所に立つことは、正直あまりない。仕事柄、大抵の家事は彼女の担当だ。そもそも俺だって、ホントはお前の作った料理が食べたいし。

「……ふうん?」

 そう鼻を鳴らした彼女は、なんだか嬉しそうだった。くそっ。単純な男だと思っているのだろうか。
 わかっている。彼女が『……いいなあ』と言ったのは、このメニューが食べたかったわけではないことも。自分のそのものだということも。追い打ちをかけるように、彼女は下からなめるようにしてこちらの顔を見上げた。「ふう〜ん?」

「〜〜っ、しつこいな! ニヤニヤしてんじゃないの!」
「ちょっと、味見させて」
「つまみ食いだろ、それ」

 おたまを置いて、キッチンの引き出しからスプーンを取り出し、ほろりと崩れた肉の破片と、エキスの染み出したスープをすくう。フー、フー、と息を吹いて冷ましてやると、彼女が隣で小さく笑った。

「優しいじゃん」
「俺はいつも優しいでしょ」

「ほら、あーん」「はいはい」あ、とやっぱりどこか嬉しそうに口を開けたところに、そっとスプーンを差し込んだ。もきゅもきゅと頬の肉を動かして味わう妻の姿が、小動物みたく可愛らしくて、ちょっぴり笑みが漏れた。

「俺、お世辞はキライだからね」

 彼女が言葉を発する前に念を押しておくと、妻は少し考えるようなしぐさで、んーと眉を上げた。

「溶け込んだブロッコリー」

「つぶつぶだけ残ってる」げ。もしかして気になるかとは思ったが、バレたか。さすがに料理の腕では彼女にかなうはずもなく。

「しょうがないじゃん、おまえがいつ帰ってくるかわかんなかったからずっと煮込んでたらさあ!」
「ふふ、でも美味しい。器用ですね」
「その気になればこれくらいヨユーだから」
「さすがです、旦那様」
「当然」

 冗談混じりの妻にドヤ顔で返してやると、また笑われた。「冷凍庫にバゲットがあるから、付け合わせで出そうか」と、買ってきたエコバッグの中身をさばき始める彼女の、後ろ姿を見つめる。手に持ったスプーンに残ったシチューを、こっそり舌で舐めとった。
 ──料理の一番の隠し味は『愛情』だなんて、誰が言いだしたんだ。一口食べて、それだけで伝わるはずもない。そんな魔法が使えるなら、苦労しないだろ。

 鍋の火を止め、スプーンを置いたあと、彼女に歩み寄った。その華奢な肩に頭を乗っけてみる。

「なに」
「……まだ怒ってんの」

 くと、彼女が肩を揺らしたので、その振動が自分の頭にも伝わった。彼女の甘い香りがする。さっきまでずっと、鍋のシチューの匂いに包まれていたから。何かから解放された気分だ。

「別に怒ってないよ」
「ごめん」
「いいよ」

『甲斐甲斐しい』だとか、他人ひとのこと言えないんだよなあ。けど、今回の一因は一也にもあるんだから、次会ったときには文句の一つくらい言ったっていいよな?

 ただ、今は、彼女の存在を感じていたい。「おかえり」

「あれ、言ってなかったっけ」
「言ってなかった」

 そう言って、ぐりぐりと額を肩に押しつけると、彼女は小さくうなずいて、頭をでてきた。

「そう。ただいま」

 この憂鬱は、空腹からくるものなのだ、きっと。だから早く、愛する人と二人、人間の欲求を満たしてしまおうと。

「おかえり」

 何度もうわ言のように、意味のない呼びかけを続けた。髪に触れる彼女の手が、あたたかかった。

 じんわり、と。優しい毒のように、このからだをむしばんでいく、夜。









《それにどれだけ救われたことか たぶんあなたは知らないな》
『メラ/ンコリ/ーキッ/チン』米/津玄/師

《君がいない世界 好きになれない》
『s/ou/p』04/Lim/ite/d/Saz/abys
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