Vanilla

 オーブンを予熱したら、まずはソース作りからだ。
 小鍋にグラニュー糖を入れて火にかける。たちまちキッチンには香ばしい甘みがぶわっと立ち込め、これから始まる製作の気分を高めてくれる。
 同時進行で、牛乳も温めてしまおう。卵──全卵とは別に卵黄も必要だ。残った卵白は、メレンゲにしてまた使うとしよう。ハンドミキサーは便利な代物だが、今日の生地は重たくない。ボウルを抱え、泡だて器を使うのも、手間を実感できて悪くないだろう。
 
 トレイ・クローバーは、"好きなコのために料理する喜び"を知ってしまったのだ。そのためなら、この"過程"すら"愛情"だと言い張りたくもなるほどに。

 コレは、一度知ってしまうとなかなかハマって抜け出せないものなのだと、最近噛みしめている。過程や愛情なんて味には反映されないし、どうでもいいと思うのも事実。反面、相手が監督生となれば話は別だということも自分に対して理解ができた。 
 監督生だけのために作れば、決まって「太ったらトレイ先輩のせいです」と言い訳しながら平らげてくれる。気にしているところも可愛らしいが、自分の作り出したモノで好きなコの体を形成できる、それはそれで最高じゃないか。

「……変態じみているのかな」

 自分の思考にふと冷静になってしまったが、まあ、表現の仕方の問題で、元来料理とはそういう行為だろう。改めて気付かされただけに過ぎない。

 沸騰寸前の牛乳を入れ、本日の選りすぐりの一品を袋から取り出す。
 みるみるうちにキッチンを支配する、ねっとりとした濃厚な、脳髄まで溶かすような甘ったるい、しかし次の瞬間には爽やかに鼻を抜けていく香り。

 この最後のが値段の差かね、と納得させるようなその高級バニラを、気持ち多めに投入する。
 隠し味にラム酒を入れるのも悪くないのだが、今日はこのバニラが一押しなのだ。この香り一本で勝負がしたい、それだけの価値ある一品がせっかく手に入ったことだし。このバニラを主役にお菓子を作ろうと思ったとき、もちろん一番に監督生の顔が浮かんだ。

 しながらカップに流し入れようと、ストレーナーを手に取ろうとしたところで、すっかり甘い香りに埋もれていた中、我に返る。

 ボウルを抱える腕と反対の手の──そうだな、小指の表面積くらいで十分だから、と誰に言い訳するでもなく、ボウルになみなみ入った出来立ての生地に、その小指を根元までどっぷりと突っ込んだ。
 それをすくうようにして、小指にまとわりついた生地が零れ落ちないうちに、餌を待つ魚のようにぱか、と開けた口の中へ、やはり根元まで突っ込む。

 くわえた唇で生地をこそぎ取ると、口腔内から鼻腔まで充満するその、
「……っんー……」思わずうなるとともに、目を閉じて味わってしまう──甘さの中に、舌に優しくも絡みつく、豊かな罪深い味わい。何よりやはりこの高級バニラ、ほんの少量にもかかわらず、パンチが効いている。
 唇の端の小皺に挟まった、ほんの数ミリの生地まで美味い。我ながら上出来だ。自画自賛の思いとともに、砂糖でできた粘膜を溶かすように、舌先で口の周りを舐めとった。

 リドルにでも見られたら苦い顔で、『お行儀が悪いよ、トレイ』なんて言われそうだが、これくらいは作り手の特権として許してもらおう。その多少の背徳感も醍醐味だったりするのだから、お菓子作りはやめられない。
 さあ、あとは湯を張ったバットにカップを並べ、予熱したオーブンで湯煎焼きすれば完了だ。

 バタン、とオーブンの蓋を閉めたところで、「ふぅ」と両手を腰に当て肩を下ろす。

「……よし、一息だな」

 焼き上がりを待つ間、一休みしようかと紅茶のストック棚に目をやったところで、誰かがキッチンへ入ってきた。

「トレイ先輩、お疲れ様で、うわ……いつにもまして甘い香り」
「お、なんだ、見計らったように来るじゃないか」

 振り返りながら笑ってみせると、監督生は首をかしげた後に、流し台に積まれたボウルやヘラに気付く。

「あ……すみません、手伝えなくて」
「ああいや、そういう意味で言ったわけじゃないよ。紅茶でも|れて一息つこうかと思ってたんだ、お前も飲むか?」
「いただきます」

「せめて、洗い物しますね」と、流し台に湯を張る監督生の背中を見つめ「ありがとう」と返した。

「それにしてもステキな香り。永久に続きそうなほどに」
「だろう? 高級バニラが手に入ったんで、思わずね」

 ティーバッグを2つのマグカップに入れて、お湯を注ぐ。紅茶の香りで上書きするのが、もったいないくらいの代物だ。

「トレイ先輩は、香水いらずですもんね」
「はは、なんだそれ」
「いつも甘い香りがしてますから」
「そんなに染み付いてしまうものかなあ」

 流し台のそばに監督生の分のマグカップを置いて、服の袖を嗅ぐようなしぐさを見せると、監督生はふふ、と笑った。やはり自分の匂いには、鈍いものだろうか。

「もしかして、プディング?」
「おみごと、正解」

 ボウルに張り付いて残った生地を洗い流しながら、監督生が嬉しそうに微笑んだ。「やった、トレイ先輩のお手製プリン、楽しみ」

「初めてのレシピだ、あんまり期待しすぎるなよ。ヘンなモノが入ってるかもしれないぞ?」
「『ヘンなモノ』って」

 おかしな言い回し、とでもいうように、監督生の口から苦笑いが漏れる。

「たとえばどんなモノですか?」
「そうだな、たとえば……」

 こくん、とあたたかい紅茶を一口飲みこんだあと、トレイはマグカップを持った方とは反対の手で監督生の髪をでながら、ぼうっとつぶやくように発した。

「俺の髪は短いから、お前は気付かず口に入れるかもしれないし」

 手を滑らせるように、血色の良い頬にれ、軽くその膨らみを押すと、爪の先が少し頬の肉に食い込み、血が集まった部分は赤くなる。

「人魚の血が希少な薬に使われるっていうのは有名な話だ。どこかの遠い国では爪の欠片を煎じて飲むなんて話もあるくらいだし」

 もてあそぶようなしぐさで、監督生の頬を、親指と4本の指でむに、と挟む。どこがというより、ちょっぴり美味しそうだな、と良からぬたとえが頭をよぎった。

「俺の一部がお前の血肉になるっていうのは、そそられるものがあるんじゃないかなあ」


「……冗談なんでしょう?」
「当たり前だろう?」

 パッ、と頬を挟んでいた手のひらを監督生の前で見せるようにして、トレイは肩をすくめた。

「魔法薬ならまだしも、そんなモノ入れないよ。せっかくのお菓子が台無しだ」
「先輩……しれっといつもの会話のテンションで言うの、悪い癖ですよ」
「わるいわるい」

 ちっとも悪びれない声色で謝ってみせるが、前ほど冗談を真に受けてくれないのが残念だ。まあ、それも二人の時間の経過あってこそだろう、と前向きにとらえることにする。

「とはいえ、惚れ薬の一つや二つが入ってることくらいは、覚悟してもらおうかな」
「はぁ……惚れ薬、ですか」

わたくしの想いはご存知だろうから、ある程度はご容赦いただかないと」

 ふざけた口調で空いた手を胸に当て、大げさにお辞儀をしてみせると、今度はわかりやすい冗談に監督生のほうが肩を揺らして笑った。
「なるほど」と、洗い物で冷えた手をあたためるように両手でマグカップを包み込んだ監督生は、すこし考えるようなそぶりを見せると、会釈したトレイを覗き込むようにして目を合わせた。

「でも、あまり意味はないと思いますよ?」
「えっ」

 そう言って、にっこりと微笑んだ瞳は、少しいたずらな色を浮かべていた。

「トレイ先輩には、とっくに惚れちゃってるので」

 その表情に息をのむと、香るのはやはり紅茶ではなくバニラのほうだった。まとわりついて離れない、強くふくよかな香り。

「……ああ、わかった、今日は俺の負けでいいよ」
「ごちそうさまです」

 まだ食してもいないのにこの台詞──くそ、してやられた。
 降参だと言わんばかりに手を上げ、熱くなった顔をごまかすようにオーブンのタイマーを見る。俺が熱いのは、オーブンの熱のせいじゃないな。焼き上がりまで、あと37分。

 ああ、早く出来上がったモノを、この憎らしいほど愛しい口にぶち込んで、湧き上がる飽き足らない感情を、甘ったるい空気で満たしてしまいたい。


 vanilla【バニラ】花言葉:永久不滅









(トレイ先輩のような人が個人を想いながら愛情たっぷり込めてしまう行為こそ、何よりの呪いなのかもなーなんて思います)
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